戦争を知らない世代への伝言(1)

17年7月発行の本誌盛夏号で、「読者の戦争体験」を募集したところ、たくさんの手記が寄せられました。ありがとうございました。そのなかから10人の方の戦争体験談をご紹介いたします。

イラスト◎市川興一

背負えなかったランドセルと聴けなかった「お山の杉の子」。
加藤威郎(昭和10年生まれ 82歳・東京都)

 昭和19年の秋、集団疎開(※1)中の私の許に、東京の自宅に残る2人の妹から、たどたどしい字で書かれた手紙が届きました。
上の妹は6歳で、カタカナで書かれた文章には、翌年春に学校に行ける楽しみが綴られておりました。3歳の妹の手紙には、母に手をもってもらい書いた文面で、末尾に「お山のスギの子」(※2)を唄へるわよ、と書いてありました。
翌年の3月10日の東京大空襲。学徒動員で東京を離れていたおかげで一命をとりとめた姉の話では、6歳の妹は枕許にランドセルを置き、翌月の入学を心待ちにしていたそうですが、父に背負われて避難するとき、火と煙に追われ、川に飛び込み死去。父と妹の亡骸は、後日、錦糸公園に土葬されているのがみつかり、火葬後に分骨され、私家の墓所に葬りました。
3歳の妹は、母に背負われて避難する途中、父たちと離れ離れになり、同じ運命を辿りました。2人の亡骸は見つけることができず、東京都慰霊堂に合葬されています。楽しみにしていた妹の「お山の杉の子」は、ついに聴くことができませんでした。ときどきテレビなどでこの唄が流れてくると、涙がとまらなくなります。

背負えなかったランドセルと聴けなかった「お山の杉の子」。

※1…集団疎開(学童疎開)
昭和19年、大中都市の国民学校初等科3年生~6年生(昭和20年には1、2年生も)を地方へ学校ごと疎開させた。幼児は疎開先で面倒を見られないとして疎開対象からはずされた。
※2…お山の杉の子
戦争で父親を亡くした子どもを元気づけ、立派な兵隊さんになって国を護りましょうという内容だったのを、戦後、サトウハチローが詞の一部を書きかえた。

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終戦の翌々日、中国新京で目にした地獄絵図。
土居哲秋(大正14年生まれ 享年 91・岡山県)※聞き書き

 父は昨年6月に91歳で亡くなりました。亡くなる数日前まで新聞を読み、共謀罪成立を危惧し「今が昭和初期の日本と似ている」「同じ過ちを繰り返そうとしている日本人はバカだ」と憤っておりました。この手記は父が晩年に語ったことを私がまとめたものです(娘・岩野しのぶ・67歳)。

 昭和19年4月、18歳7ヵ月の私は志願して兵隊になりました。私が思っていたのとは違って、軍隊はでたらめなところでした。部隊に入りますと30人くらいが一つの部屋で起居します。初年兵、一等兵、上等兵……がおりました。その中で、いじめがひどい、互いに中傷しあう、班長・古参兵からのしごきがひどい。とても家族には話せない、ひどい内容でした。いったん軍隊に入ると、人情や親子の情愛などの「人間の空気」を全部引き抜かれて真空地帯に入るのです。そして「お国のために」「天皇陛下のために」と洗脳されてしまうのです。 昭和20年の終戦時には満州の新京(※3)にある満州第8398部隊の連隊本部におりました。私の部隊は、東アジア全体の気象情報を集め、それを暗号にして無線で東アジア全域に送っていました。私は通信士として、モールス信号で、4文字の数字に暗号化した気象情報を送信しておりました。
私の大きなトラウマとなったのが、終戦の翌々日、8月17日のことです。中隊長のお伴で新京駅に行きました。新京駅での悲惨な状態は筆舌に尽くしがたい、ものすごいものでした。日本の民間人に対し、大挙して暴行・掠奪・強姦・殺戮など中国人による暴動の熾烈さは、まさに地獄絵図でした。それまで日本軍や日本人が中国の人に対して奴隷のような扱いをして本当にひどいことをしてきましたから、終戦によってその反動が一挙にきたわけです。日本人であるとみると、真っ裸にして袋叩きにしたり殺害したり、女の人は強姦されたり裸にされたり……何人も何回も見ました。私たちはまだ兵隊の格好をしておりましたので、そういう目には遭いませんでしたが、日本の民間人がひどい目に遭うのを見ても、どうすることもできませんでした。何もしなかった、このことで私は苦しんでいます。
8月20日から、少しでも日本に近づくためにと南へ行軍しました。道路の両脇には真っ裸の死体がたくさん転がっていました。むごい、辛い事でした。 9月14日、「日本へ帰る」と汽車に乗りましたが、だまされてシベリアに連れて行かれ、強制労働をさせられました。極寒の地シベリアで、たくさんの人が亡くなりました。幸い、私は九死に一生を得て帰国できましたが、その後の人生は戦争による心身の後遺症に悩まされ続けました。今でも、見る夢は暗く恐ろしい夢ばかりです。
戦争は絶対してはいけない、仇討ちもしてはいけない、負けたらやり返す、いじめられたからいじめ返すのではいけません。勝っても負けても戦争は地獄ですから。

※3…新京
昭和7年3月1日~昭和20年の満州国の首都。現在の中華人民共和国吉林省「長春」。

焼けてつぶれた防空壕で私たちを待っていた猫チイ。
小山ヤエ子(昭和9年生まれ 84歳・大阪府)

 戦争の終わる昭和20年春頃より阪神間の空襲は日増しに激しくなっていきました。体が弱かったので学童疎開ではなく地元(兵庫県芦屋市)の国民学校(※4)に通っていました。5年生でした。
8月6日未明、いきなりの空襲で転げるように庭の防空壕に入りました。間もなく不気味な音をたてて飛行機の編隊がやってくるのが分かりました。と、ざあーという雨に似た音と共にパキンポキンという金属音の焼夷弾が無数に降り注いできました。瞬く間に一面が火の海です。防空壕の木枠にも火が付き燃え始めました。防空壕を飛び出し「ガンバレッ」と叫ぶ中学生の兄の声を頼りにメラメラと燃えている地面の上を飛ぶように走るうち、運動靴が熱で溶け始め、熱くて脱ぎ捨てたのを覚えています。吊ってあった蚊帳が真紅に燃え上がるのがガラス戸越しに見えました。その色が今も目に焼きついています。
ようやく打出(うちで)の浜へ逃げのび、日が昇ってから裸足のまま焼け跡へ戻りました。私の育った家は全焼しました。庭には焼夷弾の筒が飛び散り、防空壕の上にも突き刺さっていました。庭で黒焦げのトマトにかじりついた唇の熱さも忘れません。空は真っ青な夏空でした。その朝8時15分、広島に原爆が投下されたことを知る由もありませんでした。
我が家には、拾い猫の子猫、黒トラ・チイがいました。男の子です。大豆しかやるものがなく、どんなに噛み砕いてやっても、いつもお腹をこわしていました。チイは兄の勉強机の椅子の上で眠りました。防空壕に入る時は、いつも抱いて一緒に避難していました。しかし、家が焼け落ちたその夜は、あまりにも突然の空襲でチイのことを考える余裕が誰にもありませんでした。あの焔(ほのお)の中でチイが生きのびているとは、とても思えませんでした。
焼け跡に帰りつき、焼けてつぶれた防空壕の前に立った時です。中からかすかに「ミャーン」とチイの声が聞こえたのです。慌ててかき分けると、一晩で体が半分にもなってしまったチイが、よろよろと出てきたのです。 熱くて防火用水に飛び込んだのか全身びしょ濡れです。苦しかったのでしょう。失禁してお尻に大豆の糞をもらしています。私たちが帰るのを、いつも入る防空壕で力が尽きそうになりながら必死に待っていたに違いありません。私たちの声に安心したのか、濡れそぼった細い尻尾をくるりくるりと2度振りながら息が絶えました。 戦争に殺された猫への思いには一方ならぬものがあります。70年以上経った今でも道端で黒トラ猫を見かけると、どんなに急いでいても立ち止まって声をかけてしまうのです。「お前は戦争を知らなくて良かったね。ほんとに良かったね」

焼けてつぶれた防空壕で私たちを待っていた猫チイ。

※4…国民学校
昭和16年に「小学校」が「国民学校」に改められた。初等科6年、高等科2年が義務教育。戦時体制に応じた国家主義的な教育がなされた。昭和22年まで。

ガダルカナル島の酒、飢餓状態での酩酊。
林正 素(大正9年生まれ 享年94・広島県)※聞き書き

 2014年に亡くなった父の聞き書きです(息子・林正健二・70歳)。

 私は、昭和16年大東亜戦争開戦時、陸軍独立工兵第6連隊(17年船舶工兵第1連隊に改称)に所属する少尉でした。17年ジャワ攻略戦後、ラバウルに移動し、同年8月アメリカ軍が上陸したガダルカナル島(※5 以降ガ島と略)へ派遣されました。
船舶工兵は大発動艇、通称を大発(だいはつ)という上陸用舟艇を用いて、上陸戦における兵員装備の揚陸を行うのが主な任務ですが、敵前上陸後は制空権を喪失した戦場で補給物資の揚陸を行うために多大な損害を被りました。
ついに輸送船による物資の補給が不能となり、駆逐艦を使った夜間の物資補給(鼠輸送)に変わる頃から、深刻な食糧不足に襲われました。 飢餓状態のために次第に体重が減少し、体力気力が減った状態では全身の抵抗力も低下し、マラリア等による死亡者が多発したため、餓島とも呼ばれた訳です。 不思議なことに、後から上陸してくる部隊は、どこも必ず一升瓶を持ってきました。上陸して初めて、そんなものを持ち運べない状況を知ると、上陸地点に遺棄して前線に向かうため、海岸の近くには一升瓶がころがっていました。
私は酒好きですが、米軍の飛行機の銃爆撃を受けながら揚陸作業をしていた時には、飲みたいとも思いませんでした。ある朝、お粥をすすった後、ふとあの酒を飲んでみようと思いついて、手近にあった1本を開栓し、兵隊用水筒の蓋に注いでゆっくり飲み干しました。小さなぐい飲み1杯位ですが、喉と胃が焼けるように感じ、意識がなくなりました。次に眼が覚めると周囲は薄暗く、腕時計を見ると午後6時を過ぎていました。出征前は1升飲んでも平気だったのに、たったあれだけの酒で半日眠っていたとは。体力の低下を実感して、以降一切酒には手を出しませんでした。
昭和18年2月ガ島撤退時も、空腹のまま大発の操縦を指揮して、やせ細った兵隊を輸送船に運び、ショートランド島に逃げ帰り、ようやく体重が元に戻りました。 その後、ニューギニアのダンピア海峡方面の輸送作戦に従事した後、内地に帰還。戦地では戦傷を全く受けなかったのに、広島で被爆して敗戦を迎えました。

※5…ガダルカナル島
昭和17年8月以降、日本軍とアメリカ軍は南太平洋のガダルカナル島をめぐって熾烈な戦いを繰り広げた。日本軍が投入した戦力は約3万6000人で、約2万4000人が死亡。そのうち、餓死・病死が半数以上と言われている。

学校で一番いやだったお弁当の時間。
鈴木喜美江(昭和13年生まれ 79歳・東京都)

 東京にいては危ないとなって、知人のまた知人を紹介してもらい、東京の新橋から神奈川、八王子、埼玉、長野へ転々と移動する疎開生活に入りました。
当時は、色々な物が不足していて、3度食べるご飯はさつま芋ばかりになりました。肥料もないので親指位のすじ芋が多かった。お米粒が少々入ったさつま芋のおかゆが毎日でした。父が調達してくれたお砂糖が時々あり、小さなさかずき、すり切り1杯を持つ母親の手許に子どもたちの視線が集中。こんなおいしい物はないと思ってなめました。
学校での一番いやな時間はお弁当の時間です。農家の人はお米を作っているので、毎日お米のお弁当をひろげて食べていました。疎開してきた子はお芋のお弁当です。母がお芋をつぶしてお弁当箱に盛りつけた、お芋だけのお弁当です。私は恥ずかしいので、友だちに見られないようにと考えて、教室の一番後ろの席で、両腕で囲み食べていました。お芋のお弁当さえも持ってこられない子は、校庭で寂しく遊んでいました。お弁当箱が空っぽの日も何回もありましたが、母親には言わず子どもながらおたがいさまの気持ちでいました。ひもじい毎日の通学は悲しいことでしたが、戦争が終わる迄は我慢するしかありません。
靴もなく裸足で通学ですから、夏は地面が熱くてピョンピョンと駆けながら門の脇の洗い場に行き、足を洗って、天皇陛下の写真に敬礼して教室に入りました。

学校で一番いやだったお弁当の時間。
子どもでもさせられた空襲による焼死体の運搬作業。
小海録一(昭和7年生まれ 85歳・千葉県)

 あちこちで、日本軍が「玉砕」し、日本の敗色が濃厚になってきた昭和19年3月、私は12歳で国民学校初等科を卒業し、東京神田にあった私立中学校に入学しました。でも机の前に座ったのはたった1週間しかなく、すぐに御殿場の陸軍演習場で「木銃」を使っての軍事教練の合宿に駆り出され、軍需工場に徴用されて飛行機の部品作りをさせられました。
一方その頃から東京地域は、B29による空襲で各地に焼け野原ができるようになってきましたので、今度は数名ずつの班を組まされて、各班で焼け野原に行って焼け残った電柱(当時は木柱)を切り倒して、マキなどをこしらえたり、焼けトタンなどの金属の回収作業に明け暮れるようになりました。
私たちの作業現場は、主に日本橋浜町の明治座の付近でしたが、この焼けトタンの回収が大変な作業で、とび口などで焼けトタンを持ち上げると、その下には必ずと言っていいほど焼け死んだ人が埋もれていました。そうするといったん作業を中止して、焼死体の胸元に縫い付けてある「布」に書かれている、氏名、血液型などを記録した後、死体を集積場所まで引きずって行かなければなりません。
そればかりか、焼け跡に残されている「防火用水」のなかには上半身が焼けてしまい、下半身が焼け残っている死体があったり、ちゃちな防空壕の中に焼死体が重なっていたり、金属回収などとは程遠い作業が毎日の仕事でした。
こんなこと、13歳、14歳の子どもがやる仕事ですか? 想像してみてください。みんなノイローゼになりました。
でも少しでもさぼろうものなら、監督している「配属将校」がデッキブラシをブンブンふりまわして殴ってくるので逃げられません。そんなことが繰り返されていくなかで空襲も次第に激しくなって、昼も夜も焼夷弾や1トン爆弾が落ちてくるようになり、自分の命も守れなくなってきました。
雷が100個もまとまって落ちてくるような、ものすごい落下音がして今度こそはダメだっ、と思ったらそれが幸い不発弾で助かったり、グラマンの機銃掃射に震えたり、焼夷弾による火災でものすごいフェーン現象が起き、竜巻がタンスや布団などを空中に巻き上げて行ったりするのを呆然と見たりしていました。
道端では焼け死んだ馬に大人が群がって、皮をはぎ、肉や内臓を掻き出して持ち去り、私が近づけたときは、馬糞の塊だけがお腹の中に残されていました。

運転する機関車に米軍機が遊びなのか、機銃掃射。
落合敏文(昭和4年生まれ 88歳・埼玉県)

 私が生まれたのは昭和4年、第2次世界大戦の口火とも言われる満州事変勃発の2年半前。そしてその戦争は、私が16歳になった年の真夏まで続いた。
私は3歳で樺太に、小学校高等科で長野県松本市に移住した。
小学校修了後、就職したのは電気機械の製造業。その後、国有鉄道で機関車運転の業務に就いた。ここで初めて「戦争」そのものに遭遇した。米軍機は機銃掃射で鉄の鎧をまとった機関車を標的にする。遊びで撃っているのかなと思ったが、跳弾が運転室に飛び込んでくるので大変だった。機関車は戦闘機の機銃弾くらいでは走行に支障をきたすほどのことはないが、跳弾は何処に飛んでゆくか見当がつかないので困らされた。
その後、大東亜戦争の終末近い6月初旬、新潟県長岡市が空襲を受けて、機関車乗務員が不足し、その代替えとして長岡に派遣されたとき、初めて戦争の無慈悲無残な光景に出合った。
まず驚いたのは焼夷弾の量である。1坪に1本位の割で住宅街も田畑も問わず、長さ1m以上太さ15cm以上の焼夷弾がそこら中にばら撒かれて、それも不発弾の方が多かった。物量のふんだんに有る国だと思い知らされた。
焼き尽くされた長岡市内の一角で、生まれて初めて死体を見た。小学校低学年の女子で怪我等はなく、道端に手を伸ばして息絶えていた。その伸ばした手の10m位先の防空壕の中に、これも無傷で死亡している若い女性がいた。
木造家屋は殆どその形をとどめていなかった。その焼け残りの木材を山にして燃やしている人がいたので「何しているの」と聞くと、「空襲で死んだ家族を焼いているんだ」と淡々と答えた。

運転する機関車に米軍機が遊びなのか、機銃掃射。
防空壕の天井の土砂が落ち、仲間は生き埋めに。
原 正(昭和4年生まれ 88歳・千葉県)

 東京都立中学の3年生の昭和18年10月、出陣学徒の雨中分列行進が神宮外苑で行われたのを見て、海軍に志願する決意を固めました。試験に合格、第14期甲種飛行予科練習生として、昭和19年4月、関西の航空隊に入隊しました。土浦航空隊に転隊して水上特攻要員に選ばれた面会許可の最後の日、昭和20年6月10日は快晴でした。
午前7時、朝食の最中に空襲警報が発令されました。私の分隊約200名は、隊外の丘の上にある横穴式防空壕に避難しました。午前8時、最初の爆弾投下で、2発が命中です。どーん、どーんという轟音と地響き、小さめの爆風もありました。電灯が消え、真っ暗闇です。全員が屈んで地に尻をつけた姿勢。膝の上に顔を伏せ、両手で耳を押さえました。天井から、きな臭い、きめの粗い土砂がばらばら、すごい速さで落ちてきます。忽ちのうちに身体が埋まり、生き埋めと思いましたが、膝の所で止まり、呼吸が出来ました。私の左隣の数人は土砂を払いのけ、立ち上がる気配がありましたが、右隣の人たちはぴくんともしません。埋没です。肩幅一つの差で助かったことを私は知りました。直下にいた75名が爆死でした。助かった者全員はすぐに発掘作業にとりかかりました。しかし空襲は始まったばかりで、あちこちに爆弾は投下されています。近くの農家も焼かれています。グラマンの急降下と機銃掃射があり、私たちは蜘蛛の子を散らすように逃げましたが、1人犠牲者が出ました。午前8時から始まった空襲が終わったのは午前11時頃でした。掘出作業は、翌日の午前1時頃までかかりました。満月の明るい夜でした。遺体は土砂だらけ、両手で取り除き、少しでもきれいにして一人ひとり、名前を確認し、戸板に乗せて5~6人で、海軍用地(現在の土浦三高)の端に運び込みました。
戦後、空襲の被害記録を新聞で知りました。米空軍B29など3000機によるじゅうたん爆撃で、兵舎等、建物の大半は、焼失または破壊され、予科練習生の死者、281名とありました。
16歳から18歳の若者たちが一瞬のうちに生命を失いました。戦争は、絶対、反対です。

丸太につかまり、たった一人、23時間余りの漂流。
鈴木昭二(昭和2年生まれ 90歳・埼玉県)

 南太平洋上での厳しい訓練を終了し、第2機動部隊はシンガポールに入港。2日後に私の乗り組む駆逐艦「秋雲」は、ダバオに向けて出港任務終了し、帰港の2日目。午後6時過ぎ、米潜水艦から、4発の魚雷攻撃にて轟沈。艦長以下130名が南海の藻屑と消える。昭和19年4月11日、私は17歳の誕生日目前であった。
急速に沈む秋雲に吸い込まれ、水泡の渦中を夢中でもがき苦しみながら必死の思いで浮上し、飲み込んだ海水を息の合間に吐き出しむせ返る。周囲を見渡すと浮遊物が散乱しているが、秋雲の姿はない。丸太につかまり、声の方向を見ると数人の頭が宵暗に見え隠れするが、襲来したスコールに消える。惨劇の海面は不気味なほどの静けさと暗夜に包まれ、私は思わず息をのむ。
興奮が覚め空を見上げると、南十字星が輝き流れ星が尾を引く様子に、私は身震いする。孤独の漂流はいつ迄続くのか。思わず「オーエー」と連呼するが返る声はなく、魚のはねる水音のみがむなしかった。相棒の丸太は7m位あり、手拭いで左手首と結び、抱きかかえながら暗夜の漂流は続く。時々はねる魚の水音に首をあげ「ハアー」と我に返る生死の狭間の繰り返しにも、己は生きて母国に帰るとの執念は消えず、波間から聞こえる母の声は、さざ波と交錯して、「頑張れ、頑張れ」と私の胸に押し寄せる。
堪えがたい暗夜の漂流10時間余りをどう生き抜いたのか。やがて旭光が東の水平線を明るくし、待ちに待った太陽が水平線から真っ赤な姿を見せる。丸太にまたがり手を合わせると熱い涙が溢れ、冷え切った首元に流れて、合わせる手甲は真っ白にふやけている。
生きて母国への執念が23時間余りの漂流を飲まず食わずで、頑張れたのは精神注入棒(※6)のお陰かもしれない。

丸太につかまり、たった一人、23時間余りの漂流。

※6… 精神注入棒
日本海軍において、軍人を教育する目的で体罰に使用した棒。

一直線に走った銃撃音はいまも鮮明に耳に残る。
斉藤 弘(昭和6年生まれ 86歳・東京都)

 敗戦の年の4月、東京本郷区駒込のわが家はB29の空襲で焼失し、一家は栃木県小山市郊外に疎開した。
戦争は、その疎開先まで追ってきた。
ぼくが転校した中学校は、すでに3年生から5年生までが軍需工場に動員されていた。それが、2年生のぼくらまで動員されることになった。8月も半ばちかくである。
動員前の3日間、工場の見学が行われた。学校のある町から、隣りの東北本線雀宮駅に「中島飛行機」の飛行場と格納庫があった。飛行場に飛行機の影はなく、格納庫で動員された学生たちが工員として働いていた。
見学最終日だったと思う。見学を終え、帰宅する駅でおりたが、まだ昼すぎ。何となく、ぼくらは駅のまわりにたむろしていた。
米軍機が1機、頭上を北へ飛び去った。 「いつもの見張りか」と友人が呟いた。 まいにち、昼すぎに米軍機が中島飛行場の上空にやってくる。航空機が駐まってないか確かめるためだ。そして、帰っていく。
この日はちがった。帰途についた米軍機が、ぼくらがたむろする駅のうえで、突如、急降下してきたのだ。それを目にした学生たちが、「空襲だ!」と叫んで建物のかげに走りこんだ。ぼくはそれをポカンと眺めていた。疎開してきたこの土地で、空襲? まさか。
ふたたび上空にもどった米軍機の、旋回する爆音を背中が聞いた。つぎの瞬間、友人の声がした。駅舎わきの、枕木で囲っただけの物置に逃げこんだ友人が叫んでいる。
「突っこんでくるぞ! 早く!」 腕ごと上下に振っている友人の真剣な表情に、ぼくは駆けだした。物置までの、わずか4、5メートルを走る足どりの、どれほどまどろこしかったことか。
とびこんだ。同時に、水をきつく絞った手拭いで木の板を強くはたくような、パタパタパタと乾いた音が枕木の外面を一直線に走った。思わず頭をかかえ、うずくまった。周りの学生たちも一斉に。銃弾が枕木を貫通するはずがないと知っていたが、だ。
あの日、あの米軍機はなぜ不要の銃弾を放ったのか。あの機銃掃射はぼくを狙ったのか、悪ふざけだったのか。とまれ、いまも、あの一直線の銃撃音が耳に鮮明だ。そして、あのとき、ぼくはほんとうに危うく死にかけたのだと考えている。
戦後、ものの見方や考えを決める際、ぼくはいつも「戦争」という言葉を意識している。

一直線に走った銃撃音はいまも鮮明に耳に残る。

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