戦争を知らない世代への伝言(2)

17年7月発行の本誌盛夏号で、「読者の戦争体験」を募集したところ、たくさんの手記が寄せられました。ありがとうございました。そのなかから10人の方の戦争体験談をご紹介いたします。

イラスト◎市川興一

たたき込まれた戦争中の“しつけ”を破ったのは……。
松山 薫(昭和4年生まれ 88歳・神奈川県)

 昭和20年、旧制中学(※1)4年生(16歳)の初夏、大本営発表は「沖縄戦が終わり、日本軍守備隊は玉砕した」と伝えた。しばらく経って、アメリカ軍のB29が撒いていった伝単(宣伝ビラ)を拾ってみると、そこには「日本の皆さん。これは沖縄で降伏した日本兵たちです」として、アメリカ兵に警護された日本兵の集合写真があり、私は目を疑った。教練でたたき込まれた戦陣訓(※2)には「恥を知るものは強し」「生きて虜囚の辱を受けず」とあり、日本男児は捕虜になる前に自決せよと厳しく教えられていたからだ。
混乱する頭で先を読もうとしてふと気がつくと、目の前に教師が立っていた。「お前はスパイか!」と怒鳴られ、非国民への見せしめだとして殴り倒され、立ち上がるとまた殴り倒され、再び立ち上がるとさらに殴り倒された。口の中が裂けて、数日は何も食べられなかったが、私は動員先の工場で何食わぬ顔で働いた。「男はめったなことで音を上げるな」としつけられていて、「痛い」などとは、口が裂けても言えなかったのである。
このような非人間的な仕打ちが、なぜ公然と許されていたのか。軍部が戦争遂行の重要条件と考えた「絶対服従」体制を体に覚えさせるとともに、戦場での心身の苦難に耐え、万一捕虜になって拷問を受けても簡単に口を割らない「根性」を植え付けるための「しつけ」であったと私は考えている。
13年前に受けた胆石の開腹手術では、この世で一番痛い病気といわれる急性膵炎を併発した。3日3晩生死の境をさまよって、地獄の苦痛から解放された時、看護師が「一言も痛いと言わなかった。“昔の男”は偉い」とほめてくれた。「男はめったなことで音を上げるな」という戦時中の “しつけ”が、60年経って落命しかけるような状態になって生きていたとは。
もうひとつの“しつけ”は、「男は人前で涙を流すな」。これには「母親の死」という例外があった。私の母は、「産めよ殖(ふ)やせよ!」の国策にそって、6男2女を産み、「軍国の母」ともてはやされたが、出産のムリがたたって心臓が肥大して肝臓ガンを患った。戦後はそんな体で育ち盛りの子どもたちを飢えさせまいと買い出しに必死で走り回った末、60歳で寝たきりになって、苦しみながら世を去った。自他ともに認める古い“しつけ”の申し子のような私も、この時ばかりは、あふれ出る涙と嗚咽を止めることが出来なかった。
もう一度だけ、この“しつけ”を破ったことがある。昭和39年の東京オリンピック開会式のリハーサルを新装なった国立競技場の記者席で取材している時だった。ファンファーレが鳴って、小雨の中を小学生の鼓笛隊が入場してきた。突然、21年前、ところも同じ国立競技場、かつての明治神宮外苑競技場で行なわれた出陣学徒壮行会の光景が私の瞼によみがえった。降りしきる雨の中を、銃を肩に分列行進する先輩たち、その中には勤労動員先の軍需工場で兄貴分として面倒を見てくれた早稲田大学の学生たちの“座布団”と呼ばれた角帽姿もあった。 隣にいた戦争を知らない若い記者が驚いて「どうしたんですか」と声をかけて来ても、私は、わずか4~5歳の差で運命を分け、特攻隊員として南溟(なんめい)の果てに散って行った先輩たちへの鎮魂の涙を流し続けた。

※1…旧制中学
高等教育機関への進学を主目的とした男子のみの特権的な中等教育機関。
※2…戦陣訓
昭和16年、東条英機陸相の名で、戦場での道義・戦意を高めるため、全陸軍に示達した訓諭。

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学徒看護婦隊として活動。毎日、誰かが死んでいった。
森川愛子(昭和4年生まれ 88歳・東京都)

 私は酒造りの町として有名な広島県賀茂郡西条町(現東広島市)に生まれました。医師だった父が昭和7年、往診の帰りに交通事故で亡くなったため、3歳だった私は隣に住む歯科医師の叔父の養女に、年子の弟は広島市の市会議長だった人の養子となり、私たちは別々に育ちました。
優秀だった弟は、県立第一中学校に入り、原爆が投下された20年8月6日、爆心地で作業中に全身やけどを負い、翌7日朝9時半に亡くなりました。弟は15歳のまま、今も私の心の中に生きています。
県立賀茂高等女学校に通っていた私は、3年生の時に呉の広工廠に学徒動員されました。山の中にトンネルを掘り、そこに機械を入れ、ベンチレース(卓上施盤)を使って飛行機のネジを作っていました。「お国のために働いている」という意識が強かったので、寂しいとかつらいなどとは思いませんでした。
8月6日は、朝礼の時にドーンと大きな音がしたのを覚えています。真っ白い大きなきのこ雲が真っ青な空に浮かんでいました。原爆が落ちたとはまだ知らなかった私たちは、その日もいつもと同じように仕事をしました。
15日の玉音放送は、工場でみんなと聞きました。私もみんなと一緒になって泣いたので、やはり悔しかったんでしょうね。西条の家にはその日のうちに、荷物を背負って歩いて帰りました。西条は広島市から30kmほど離れているので、実家は幸いなことになんともありませんでした。
うちに戻ってほっとしたのもつかの間、その翌々日から今度は学徒看護婦隊として広島市に入市することになりました。県の命令だったので県立女学校の生徒だった私たちは私立の生徒よりも先に行かされました。1週間分ほどの着替えを持って出かけ、その年の暮れまで救護活動をつづけました。
私たち看護婦隊は小学校の2階に寝泊まりし、1階の教室のむしろの上に寝かされている、ものも言えない、身寄りもよくわからない人たちの手当てと炊事にあたりました。手当てといっても、薬は赤チンだけ、気休めでしかありません。寝ている人たちの傷口にうじが湧くと、それを割り箸で取ってあげました。見回りに来た進駐軍の兵士が投げ捨てていった缶を拾って洗い、取ったうじをその中に入れました。
代わりばんこにやってくる医者や、診療に立ち会うだけの医大の学生たちは帰ってしまうので、夜は看護婦隊だけで過ごしました。朝、1階の教室に下りて行くと誰かが死んでいるという毎日。とにかく目の前で死んでいく人をたくさん見ました。それでも、お国のために兵隊さんが死ぬのと一緒、私もお国のためだと思っていましたから、つらいとは感じませんでした。みんなそうだったと思います。当時女学校4年生ですから、今の高校1年生くらいの年齢です。 戦争は絶対いけない。それに尽きます。

学徒看護婦隊として活動。毎日、誰かが死んでいった。
ビルの地下は安全と、避難して生き埋めになった若者たち。
東 輝男(昭和2年生まれ 91歳・埼玉県)

 私は昭和16年3月、名古屋近郊の高等小学校を卒業し、直ちに名古屋市熱田区船方にある愛知時計電機に入社した。数年前に始まっていた日中戦争の最中であり、しかもこの年の12月には太平洋戦争に突入した。
この会社は既に日本海軍の管理工場となっていて、主要海軍兵器生産の一大拠点だった。私の職場は地上5階、地下1階の研究館ビルの地下にある精削工場で、私は新型魚雷エンジン部分の部品製作を担当していた。
運命の日、6月9日の朝はよく晴れていた。東海軍管区作戦室では午前7時45分警戒警報、そして8時24分空襲警報を発令した。ところが30分ほどたっても敵機は現れず、空襲警報解除。工場外に退避していた私たちが職場へ戻り始めた9時18分ごろ、B29の編隊が頭上に現れ次々に大型爆弾を投下した。頭から押さえつけるような轟音に続いて、爆弾が炸裂し、私は爆風で労務ビルの中へ飛ばされて気を失った。どのくらいたっただろう。失いかけた意識の中で「工場から出なければ……」と立ち上がったが砂煙で何も見えず方向もわからない。手探りでウロウロしていると第2波の爆弾の落下音、ビルの階段の下へ転がり込んだ。
その後は全く無我夢中、幸運だったのは本能的に船方から電車通りを北へ走ったことである。誰のものか服に血のようなものがこびり付いているがどこも怪我はないようだ。泥人形のような姿で走っていると、またも爆弾の落下音。とっさに道路端の防空壕に飛び込んだ。この辺りは1メートルも掘らぬうちに水の湧く低湿地帯であるため壕は半地下式で半分以上地上に出ている。爆風でグラグラ揺れていまにも潰れそう。生きた心地もしない。しかも壕の中は膝近くまで泥水である。
来襲は3波だったか4波だったか定かでない。警報が解除となった頃には日比野交差点まで来ていた。仲間たちは、工場はどうなっただろうと考えながらトボトボと会社の方へ歩いた。途中で見た光景は言語に絶するものだった。生きているのが幸せなのか、死んだ方が幸せなのか。幽鬼のような死者、負傷者。戦場でもこれほど死傷者が一度に出ることはあるまい。遺体に手を合わせながら、無性に腹が立ってならなかった。
私の職場、研究館ビルは外観こそ辛うじて建っていたが、4000ポンド(1.8トン)の爆弾2発が命中し、地下まで貫通していた。地下は上から崩れ落ちたビルの瓦礫に埋もれて見えなかった。ビルの地下は安全だからと、外部から勤労学徒や女子挺身隊の若い人たちが避難してきて大勢生き埋めとなったことを後から聞いた。
今こうしてペンを走らせている間にも、現にミサイルが日本列島の上空を飛び交っている。かつて日本が戦争に踏み切った時の最も大きい原因は石油、鉄などが経済制裁によって禁輸されたことだ。経済制裁だけでは戦争は防げないと思う。どうしたら戦争行為をやめさせることが出来るのか。今朝(平成29年8月29日)も北朝鮮の弾道ミサイルの火星12が北海道東方海上に落下したという。

犬に食べさせるとはけしからんと連れて行かれたポチ。
匿名希望(昭和3年生まれ 89歳・熊本県)※聞き書き

 母が戦争中の悲しい体験として語ってくれたのが、飼い犬のことでした。子どもの頃に聞いた時は、母の住んでいた地域だけの話かと思いましたが、椋鳩十(むくはとじゅう)さんの児童書『マヤの一生』を読んで、おそらくは全国で行なわれていたことを知りました。母は「動物は悪くないのに、そんな考え方しかできないから、アメリカに負けて当然よ」と吐き捨てるように言いました(娘・S・H・56歳)。

 名前はポチ、雄の雑種で、近所の家から洗濯物や履物を盗んできては犬小屋に隠したり、体を洗ってやると必ず直後に庭の泥の上を転がり回ったり。すごく悪戯好きで、子どもの命令は聞かないし、利口ではないけどそこがまた可愛かったのよ。
それがね、ある日突然、「人が食べるものがないのに、犬に食べ物をやるとはけしからん」という極めて理不尽な理由で、飼い犬は殺されることに決まったの。それでポチも連れて行かれた。もちろんお母さんが「他人の食べ物を横取りして犬にやってるのではない。うちにある食べ物をうちの犬にやって何が悪い」って抗議したけど、国が決めたことだからって無理やり連れて行ったの。でもね、ポチは逃げだして家に帰って来た。それですぐ家の中に入れて隠してたら、またつかまえにきたの。お母さんが「あんたらが連れて行ったじゃないか。うちは知らん」って突っぱねてたのに、ポチは馬鹿だからそこで吠えてしまった。それでまた連れて行かれて、今度はもう戻ってこなかったのよ。

犬に食べさせるとはけしからんと連れて行かれたポチ。
戦争しか知らない軍国少女に「教育」された子ども時代。
匿名希望(昭和11年生まれ 82歳・神奈川県)

 小学校(国民学校)入学前年に開戦、2年生では「建物疎開」(※3)でわが家を壊されると聞いても「泣いちゃダメ」、3年生で集団疎開、家族と別れても「泣いちゃダメ」。疎開先のお寺からの便りに「帰りたい」と書いた友は、大雨の中、寺の前庭に転がされ、男性教師から昔の重い番傘で叩きのめされ、他の生徒は本堂前の階段に腰かけて「見学」させられた。
そのころから涙も出なくなり、やがてみんなで可愛がっていた犬が満州など寒地の兵士の衿毛にされるため「出征」するころには、日の丸の小旗を作って万歳とともに見送った。田舎も空襲を受ける頃になると、お寺での授業でこんな問題用紙が配られた。
「村外れに敵機が不時着し兵士はまだ生きてゐます。あなたはどうしますか」
私は当時、鉛筆削りに工作用小刀を使っていたが「この小刀で刺します」と書いた。
今、同世代でお茶でも飲むと、「思えばあの頃の私たちって、イスラム国か北朝鮮の子どもだったわねえ」という話になったりする。
物心ついて以来、戦争しか知らずに来た私たち世代、もちろん個人の人格資質にもよるが、「軍国少年→企業戦士へ」「軍国少女→銃後の守り(専業主婦)へ」、そして「お国のために役立つ人間」を育てようと、子どもたちを「受験戦争」へと駆り立てた面はなかったか? 
「子育て」とは「個性を伸ばしてやること」。しかし、終戦までの殆どの人の辞書に「個性」の文字はなく、私自身「個性に従って生きる」という発想も実感もないまま親となってしまった気がする。
戦後73年、82歳の今、人生の最後に痛感する「戦禍」の最大のものは、子育てへの痛恨である。

戦争しか知らない軍国少女に「教育」された子ども時代。

※3…建物疎開
第2次世界大戦末期、空襲による延焼の防止と避難場所確保のため、国の命令を受けた都道府県により、約61万戸が解体された。

ほとんど語られない疎開先で起きた2つの地震。
匿名希望(昭和9年生まれ 83歳・愛知県)※聞き書き

 母は4年前に脳血管性認知症の診断を受け、現在要介護1の身です。元気な頃の母から聞いた話と、同級生たちと書いた『学童疎開体験文集』をもとに、母の体験を記しました(娘・杉井祐子・50歳)。

 昭和19年8月9日、名古屋市西区江西国民学校の同級生たちと、三河の幡豆(はず)郡吉良吉田(現西尾市)に集団疎開しました。4年生になったばかりで、初めて親元から離れ、随分心細い思いをしました。たまに、土産を持って親が訪ねてくると帰りの別れがつらく、このまま一緒に名古屋に帰れたらと、何度も思いました。
私たちの宿舎は、正覚寺というお寺でした。周囲にはお墓が並び、夜になると、青い火の玉が出ると言いながら怖いもの見たさで、ガラス戸を開けたりするような、子どもらしいスリルも見出していました。入浴は、近所の銭湯へたまに行く程度で、石鹸不足の上に着替えも少なく、シラミやノミが発生し、私を含めたほとんどの学童が皮膚病に悩まされていました。食糧事情も悪くなる一方で、田んぼに入って蛭に吸い付かれながらイナゴを捕ったりしました。
そんな生活にやっと慣れた昭和19年12月7日の午後、のちに「東南海地震」と名付けられた地震が起きました。その日、私は宿舎近くの学校の教室で習字をしていました。突然激しい揺れが来て、教室全体が大きな音をたて始めました。机の下に入るように教師に言われましたが、揺れは収まらず、廊下の端にぶつかりながら校庭にやっとの思いで出ました。
夜、宿舎だったお寺の本堂に、家の倒壊で下敷きになった人々の遺体が次々に運ばれてきたのを、私たちは目の当たりにしました。私はその後、縁故疎開に切り替わり、三河を離れました。
しかし、明けて昭和20年1月13日未明に、またもや「三河地震」が起こったのです。この地震では、集団疎開していた同級生が8人亡くなりました。もし、あのまま三河に居たら、私も犠牲者の1人になっていたかもしれません。マグニチュード6.8、死者2306人のうち、学童97人という甚大な被害をもたらした大地震だったにもかかわらず、当時の新聞は愛知県に小規模な地震があり被害は僅少と小さく書くだけでした。
そのせいか、戦時中に起きた2つの地震については、戦後ほとんど語られることはありませんでした。いつまた大地震が起こるかわからないのに、2つの地震の被害状況を、戦時中だったから詳細は不明とするのは、余りにも愚かなことです。

空襲の恐ろしさよりも大人の身勝手さに傷ついた。
中野濱子(昭和7年生まれ 85歳・群馬県)

 私は満州事変の1年後に生を享けました。徹底した皇民化政策(※4)の教育の中で、神風が吹いて日本を守ってくれると信じる軍国少女でした。十五年戦争と共生した少女時代。当時台湾に住んでいましたが、ミッドウェー海戦(※5)で敗れた頃から空襲が激しくなりました。サトウキビ畑に逃げ込む子どもたちを身を乗り出し機銃掃射する米兵は笑っていました。私はそんな空襲の恐ろしさよりも、戦時中の見たり聞いたり体験した大人の身勝手さに心を深く傷つけられ、今もそれを引きずって生きています。
食糧が乏しくなり兵隊さんへの慰問袋に茹でたカタツムリ(大型)や雑草のアカザを干した物が詰められるようになりました。空き地や校庭も畑になり、小学生は食糧増産の作業に駆り出されました。
4年生の夏のこと、「1人これだけ責任を持って耕せ」と先生に割り当てられた土地は固くて必死で鍬を振っても進まない。台湾の真夏の炎天下、休む時間も与えられず汗のしずくがぽたぽたと地面に落ちる。体力もなく水も飲ませてもらえず、遂に貧血を起こして倒れました。やっと近くの将校の官舎の台所で水を飲ませてもらい、ホッと一息ついた私の目に映ったのは、床の片隅に積まれた酒瓶、缶詰、新鮮な野菜や南方の果物の山でした。
こんなこともありました。引揚げ船の中のこと。アメリカの貨物船の船底に押し込められ、赤ちゃんや老婆が亡くなっていく。乗船してやっと口にしたのは、バケツの中に芯ごと四つ割りにしたキャベツが放り込まれたどろどろのおじや。お乳の飲めない弟のために湯を貰いに行った私が目にしたのは、日本海軍の兵隊さんがワインを飲みながら白いご飯やフライを食して談笑している姿でした。
学徒動員で航空兵になった花井さんが「明日、この空を飛びます」と挨拶に来たが、その意味を知らない私は防空壕の上から見送った。飛び立った6機の中の1機が手を振る私に翼を右に左に揺らしながら空の彼方に消えたが、1機も帰って来ませんでした。国のため、国民のためとフィリピン沖に散った花井さんの笑顔が浮かび、船の中の光景に心が傷つきました。
もう一つ忘れられないことがあります。やっと上野駅に着いた時のこと、陸軍のコートを引きずって歩く小さな男の子が、3日間も食事をしていない私たちに配られたコーリャンのお握りを寄こせと手を出した。たった1個の私の分を嬉しそうに持ってちょこちょこ走って行く姿を目で追うと、悪臭漂う地下道に子どもが重なるように長い列を作って寝ていた。あの光景も決して忘れることはない。
私は「国民あっての国家なのに国は国民を見捨てる」と思っている。戦争は人間を堕落させ、こんなに残酷になれると、体験した者だけが知っています。戦争をやってしまったらおしまい、平和を失ってから後悔しても遅いのです。

※4…皇民化政策
日本が朝鮮・台湾などの占領地や沖縄において、現地の住民を戦時動員体制に組み込むために行なった強制的な日本化政策。
※5…ミッドウェー海戦
昭和17年6月5日~7日、中部太平洋ミッドウェー島周辺海域で行なわれた日米両機動部隊による海戦。日本の大敗北となり、以後の戦局の重大な転換点となった。

路地に重なる焼死体を見て吐きながら歩いた。
桐澤智惠子(昭和4年生まれ 88歳・神奈川県)

 戦争とは、遠い土地で兵隊さんたちがしているものだと単純に思っていました。しかし全くそうではないのです。家や庭や、いつも通っている道、電車の中で起きることもある。避難民となり、さまようのも、他人ごとではありません。戦争になる時はなってしまうのです。
私は16歳の時、東京のほぼ真ん中辺りに住んでいました。近くには陸軍関係の建物があり、通りはチンチン電車が縦横に走っていました。地下鉄も開通しました。
昭和20年5月25日の夜、母と私は米軍機から落ちたばかりの爆弾の大きな黒い穴を見ながら歩いていました。目の前にカラカラカシャカシャと高い音を響かせて焼夷弾が落ちると、辺り一面が火の海になります。やっと辿り着いた明治神宮の鳥居の根元にしゃがみ込み、そのまま一夜を過ごしました。
夜が明けるとすぐ私たちは歩き出しました。大通りは広いのですが、その左右には狭い路地が何本もあります。広い明治神宮に避難しようとした多くの路地の住人たちが大通りに出られず、そこに焼死体となって幾重にも折り重なっていました。どの路地も同じようでした。両側の歩道にはいざという時のための防空壕が掘られていましたが、そこに避難した人々は蒸し焼きになり、入れなかった人々がその上に焼死体となって重なっていました。その時私は、焼けた死体は衣服が焼けて素っ裸になるだけではなく、体の油が出てツルツルピカピカになることを知りました。石垣などに寄りかかっていた人は体は焼け落ちていますが、その人が手を挙げている姿が油で茶色に焦げたように残っていました。長い黒髪がばっさり落ちてもいました。
現実と思えない現実を見、吐きながら我が家の辺りに帰り着きましたが、どこがわが家かわかりません。辺りを見渡すと草も木も電柱も何もない瓦礫の広場を夏の太陽が照らし始めていました。
これが私の戦場体験です。88になりましたが、「戦争にならない様に」と祈るばかりです。

小学校の校庭で教育勅語を聞く時の恐怖。
匿名希望(昭和10年生まれ 83歳・石川県)

 奉安殿(※6)から校長先生が深く最敬礼をし、教育勅語の巻物を広げ「朕オモウニ……ギョメイギョジ」と終わるまで、私たち全校生徒は棒のように立ったまま。足元はぬれてじっとりとしたワラゾウリで足袋は手製のモンペの余り布で作ったもの。冷たいより痛い。おまけに軍人さんが立っていると、もっと恐かった。身動きや咳をしたり鼻水をすすったりしたら、たちまち「たるんどる‼」と怒鳴られるか、軍人や先生たちから強く叩かれたりした。泣いたりその場でしゃがんだりすると、もっと強く叩かれたり、怒鳴られたりした。
奉安殿の扉が重々しく閉じられると一安心した。今でも教育勅語と聞くと、あの重々しい空気と恐怖と軍人さんが現れる。
警戒警報がウーと唸るように鳴ると、授業中であってもすぐ肩掛け鞄をかけ、綿入りの頭巾をかぶり、素早く無言でわが家に向かう。私語は一切ダメ。
庭の隅に掘った防空壕に、動かずにしゃがんでいなければならない。命の保証はない。動いて亡くなられた方もいるのでみな真剣だった。
絶対に戦争は嫌です。しないで下さい。

※6…奉安殿(ほうあんでん)
第2次世界大戦中まで、学校で天皇・皇后の写真や教育勅語などを収めていた建物。

視力を失った千人針の悲しい思い出。
大橋静子(昭和5年生まれ 87歳・神奈川県)

 7歳のときに、左の目を失明しました。昭和12年、世の中にはだんだん戦争の気配が漂ってきていました。出征兵士のために「千人針」(※7)をお願いしますと、一軒ずつ訪ねて来る女性を見掛けるようになりました。戦地に送られ、弾除けになる「願い」を込めた大切なものでした。
夏の暑い日のこと、千人針の小母さんが訪ねて来ました。母の分が済んで近所のハルちゃんが始めました。近づくと駄目、離れてなさいと何度も母に注意されていたのに、ハルちゃんは寅年生まれで、年齢分の11針をやるので、待ちくたびれた私は「ハルちゃん、まーだー?」とのぞき込んだ瞬間、引いた針が私の左目を刺したのです。「チク」としただけで痛くもなく、小母さんはありがとうと次へ、ハルちゃんも「大丈夫?」と聞いて帰って行きました。1時間程して、「もう暗くなった」と母に告げたことで事の重大さに大さわぎとなりました。
その頃一家は樺太(今はロシア領)の西海岸恵須取(エストル)町に住んでいました。町の眼科医はお手上げで小樽の病院へ行けと言い、定期航路の船で診療後、紹介された札幌の医者から、濁った水晶体の液を取り除く手術を受けました。病院からは義眼の話も出たそうですが、父は自分の目を残すことを強く主張してくれたそうです。おかげで40年ほどたって左目が少し明るく感じるようになり、今は0.002ほどですが少し見えています。目は生きていたんですね。
「軍国の少女お国に眼を捧ぐ」という見出しで樺太新聞の恵須取版にのった切抜きを持っていたのですが、長い年月に紛失してしまいました。女学生の時、援農に自転車部隊を編成すると聞き、大急ぎで「自転車の稽古」をして参加したことが懐かしく思い出されます。
そして終戦、男たちは残留、女子どものみの引揚げでした。2年して父と弟が帰国しましたが、その後も引揚げ者は大変な苦労でした。学校どころではなく働きましたね。大事な人たちは皆、亡くなり、87歳が生き残って死んだ人たちを毎日、想っています。

視力を失った千人針の悲しい思い出。

※7…千人針
1000人の女性が赤糸で1針ずつ結び目をこしらえた布を肌につけて戦争に赴けば、無事に帰還できるとされた。「虎は千里を往って千里還る」という故事から、寅年生まれの女性には年齢の数を縫ってもらうと効が多いといわれた。

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