超大物の二世が語る 偉大な親の意外な一面。

超大物の二世が語る 偉大な親の意外な一面。

親が偉大であればあるほど、子どものプレッシャーは相当なもの。各界超大物のお子さんたちに、その苦労と喜び、子どもだから知っている意外な一面を語っていただきました。

「スポーツのことになると超スパルタに豹変しました」水町レイコさん(俳優)
水町レイコさん(俳優/北島三郎 三女)

みずまち・れいこ/舞台やテレビドラマで活躍。父の北島との舞台共演も数多い。2015年には『東京ウエストサイド物語』(NHK BSプレミアム)でテレビドラマでも共演。上の写真は3歳のころ自宅の縁側で。

 演歌といえばお酒がつきものですが、実は父はお酒がまったく飲めないんです。大の甘党で、あんこやチョコモナカのアイスが大好き。好き嫌いも多くて、カレーを食べ終わったお皿にはニンジンだけがきれいに残っていたりします(笑)。皆さんからは「演歌界の大御所」なんて言われますが、けっこう子どもっぽいところもあるんです。
 我が家には「出かける時と帰った時、必ず父と握手をする」というルールがあります。父方の祖母が入院した時、故郷の北海道までお見舞いに行った父は祖母の手を握って「いつの間にこんなに細く小さくなってしまって……。もっと触ってあげればよかった」と後悔したんですね。祖母はそのまま亡くなったのですが、それ以来父は「家族との絆を深めるためスキンシップを欠かさないようにしよう」と決めたそうです。小さい頃は口によくキスをされましたけど、中学生くらいからは「さすがにもう」と思うようになりましたね(笑)。

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  私は大学卒業後に女優を志して劇団に入りました。当初は本名の大野領子で活動していましたが、芸名をつけることになり、両親にお願いしたんですね。その日の深夜にたまたま目を覚ましたら、両親がいる前のテーブルの上には長い巻き紙があって、たくさんの名前が書いてありました。その中から「水町レイコ」になったのですが、父によれば「芸能界では水にちなんだ名前は縁起がいい」とのことでした。
 両親とも私の芸能活動を応援してくれていますが、父は本心では、私をプロゴルファーにしたかったようです。何度か打ちっ放しに連れて行かれたことがあるのですが、こっちは初心者なのに、ちょっとでもミスをすると即座に厳しい言葉が飛んできて、だんだんゴルフが嫌いに……。いつもは温厚で優しい父なのですが、ゴルフに限らず、スポーツのこととなると目の色が変わるんです。小学生のときも、鉄棒の逆上がりや腕立て伏せが苦手だと父に話したら、できるまでスパルタ式で徹底的に鍛えられたこともありました。
 そんな元気な父も、2年前に頸椎を手術しました。いまは回復していますが、80歳を過ぎたこともあり、仕事は少しセーブしています。私たちが小さい頃、父はよく「パパとママは木の幹なんだ。枝である子どもたちがすくすく育ち、実になって花を咲かせるまで、パパとママは支えるんだよ」と言ってくれました。これからは、私が父と母を支えていきたいですね。

「和食が好きな父は海外でも母が作った煮物を食べます」麻衣さん(歌手/久石 譲 長女)
麻衣さん(歌手)

まい/6歳でNHK東京放送児童合唱団(現・NHK東京児童合唱団)に所属。大学卒業後、アメリカ留学を機に本格的に歌手を志す。ソロでの活動に加え、女性コーラスグループ「リトルキャロル」でも活躍中。

 私は4歳のときに父が作曲した映画『風の谷のナウシカ』の劇中歌で“歌手デビュー”しました。もともとは、デモテープを作るために歌ったものだったのですが、それを聴いた宮崎駿監督が「この歌声でいこう」と決めたそうです。まだ幼かったので本番のレコーディングの記憶はほとんどないのですが、狭くて暗い録音スタジオが怖くて、大泣きしたことだけは、はっきり覚えています。
 多忙な父だったので、子どもの頃は一緒に過ごした記憶がほとんどありません。ただ、私が音楽の道に進んでからは、会話もずいぶん増えました。父から言われたことで特に印象に残っているのは、私が所属するリトルキャロルというコーラスグループが解散の危機に瀕したときにもらったアドバイスです。

海外での公演前に久石さんと打ち合せ。

海外での公演前に久石さんと打ち合せ。

 リトルキャロルは私が18歳のときにNHK東京放送児童合唱団時代の同期生と立ち上げたのですが、10年ほど経った頃、今後の活動方針をめぐってグループ内が紛糾。「もう解散するしかないかな」と諦めかけたのですが、父に「麻衣ちゃんが、クリエイターとしてやりたいことがまだあるのなら、『1人になってもやる』とみんなの前で言いなさい」と言われたのです。その言葉に背中を押されて「私は1人でも続ける」と宣言。すると、ほかのメンバーたちも腹をくくってくれたのか、誰一人辞めることなく、むしろ以前より結束が強まりました。リトルキャロルがいまも活動を続けていられるのは、父のおかげとも言えます。
 父とは一緒に海外で公演する機会も多いのですが、そのときに困るのが食事です。海外でも絶対に和食しか食べないんです。特に母が作る煮物が大好物で、長期の公演では、母が同行することもあります。母が不在のときは、現地の日本料理店に行くのですが、海外の小さな町ではおいしい日本料理店を見つけるのも一苦労。一生懸命探しまわって、お店を見つけてくれるスタッフの皆さんには頭が上がりません(笑)。

「映画作り以外は本当に何もできない人でしたね」黒澤和子さん(衣装デザイナー/黒澤明 長女)
黒澤和子さん(衣装デザイナー)

くろさわ・かずこ/衣装デザイナーとして映画やドラマで活躍中。『夢』以降の黒澤作品で衣装を担当。『西郷どん』や『マスカレード・ホテル』など、映画やドラマの衣装を幅広く手掛ける。

 父は、子どもみたいな人でした。無邪気で裏表がなく、頭の中は映画のことばかりで、映画を作り始めると、それ以外のことが見えなくなるんです。そこまで熱中できるのは父の才能ですし、そんな父だからこそ、周りのスタッフも「この人の思いに応えたい」と力を尽くしたのだと思います。
 でも、映画を作る以外のことは、本当に何もできないんです(笑)。買い物に行くと、お金の払い方が分からずに「必要な分だけお金をとってくれ!」と店員さんに財布をひろげて見せていたくらい。何もできないんだけれど、本人なりに一生懸命挑戦するから、それこそ喜劇映画のようなハプニングが起こるんです。父だって、若い頃は身の回りのことを自分でしていたはずですが、結婚後は「この人を映画監督として大成させるために、映画以外の全てを私が引き受けよう」と決心した母に、ちょっと甘やかされすぎたのでしょう。私が結婚するとき、母は「黒澤明を私に押し付けて逃げる気⁉」とメソメソしていました(笑)。
 そんなふうだから、「厳格な人」という父に対する世間のイメージは、あまりピンと来ないですね。「映画撮影のために家を取り壊した」という逸話にしても、「取り壊せ!」と傍若無人に命じたわけではなくて、ちゃんと頭を下げて住民の方にお願いしたうえで、改装費用なども負担して、壊しているんです。日本が戦後復興へ突き進む時代に活躍した人ですから、どこかで強いヒーロー像みたいなものを背負わされてしまったのかもしれません。本人は「黒澤天皇」などと批判した週刊誌に対し「めんどくさいけど、あいつらも食っていかなくちゃいけないから、しかたないよな」なんて言って、さほど気にしてないようでしたけど。

映画『夢』の撮影現場で。

映画『夢』の撮影現場で。

  我が家にはルールらしきものは何もありませんでしたが、おいしいものが大好きで、店屋物や外食が嫌いな父のために、毎日私と母とで台所に立ち、食卓を整えていました。家族の分だけならラクなのですが、父は連日のように何十人ものスタッフを引き連れて帰ってくるんです。もう、台所はてんてこまい。夜が深まれば、酔っぱらった大人たちが鴨居にぶら下がったり、廊下を走り回ったり、池に飛び込んだり……。それが当たり前の光景でしたね。
 お客さんといえば我が家には、映画少年、映画少女もよく訪ねてきました。一度、大学生くらいの男の子が家の壁をよじ登っているのを発見した時には、私は驚いて悲鳴を上げそうになったのですが、父は「コーラ飲んでいったら?」なんて、のんきに声をかけていました。父は、頭の凝り固まった大人は嫌いだったけれど、若い人と話して刺激を受けるのは好きだったんです。現役閣僚との会食で「近頃の政治家はバカばかりだ」なんて言っちゃうものだから、周りのスタッフはヒヤヒヤしてましたけど(笑)。困ったところもたくさんありましたが、可愛いところもたくさんあって、憎めない。父は、そんな人でした。

「外出する30分前に身支度を整えないと怒られました」王理恵さん(タレント/王貞治 次女)
王理恵さん(タレント)

おう・りえ/1970年、東京都生まれ。広告代理店勤務の後、スポーツキャスター・タレントとしてテレビでも活躍。「ジュニアベジタブル&フルーツマイスター」など食に関する資格を取得し講演も行なっている。

 物心ついたころから、誰もが知るスーパースター王貞治の娘として育ち、テレビをつければ父がホームランを打つ姿が映し出され、連日、スポーツ新聞の一面に父の名が躍っていました。母からは、「お父さんが野球で頑張ってくれるから、こうやってご飯が食べられるのよ」と日頃から言い聞かされていました。だから、父が野球に専念できるよう最大限の気遣いをすることが家族の使命でしたね。
 学校の成績はもちろんのこと、風邪をひいて熱を出しても父には内緒。一度泣き出すと泣き止まない私を、母は蔵に閉じ込めたこともありました。巨人戦のテレビ中継がある日は必ず観戦し、父の打席になると家族全員テレビの前で正座して応援するのが我が家のルール。そうすることが当たり前だと思っていました。
 そんな「特別な家」でしたが、父も娘たちのためにしてくれたことがいくつかあります。幼稚園の卒園式で父のサインボールを園児全員に配ってくれたり、シーズンオフには映画に連れて行ってくれたこともありました。
 でも、父との外出は大変なんです。何しろ家を出る予定の時間の30分前にはすべて身支度を整えておかないとすごく怒られました。「事故などで万が一、渋滞が起きたり電車が止まっても、それを言い訳に遅刻してはいけない」というのが父の言い分で、口応えしようものならガツンとやられます。それはもう、皆さんが想像できないような怖い顔でしたよ(笑)。

理恵さん(右から2番目)のお宮参りのときに家族で。

理恵さん(右から2番目)のお宮参りのときに家族で。

 小学生のとき、周囲から期待されて何となくソフトボール部に入ったんですが、私は野球はおろかキャッチボールの経験もありません。父にそのことを話すと、さっそく赤いグローブを買ってきてくれて、庭でいっしょにキャッチボールをしてくれました。嬉しそうな父を見て、子ども心に「本当は男の子がほしかったんだろうな」って思ったのを覚えています。
 2006年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で監督を務めたあと胃がんが発覚、全摘手術を受けてから、しばらく東京で二人暮しをしていました。01年に母が胃がんで亡くなった後、「私にもっと何かできたのでは?」との思いから野菜ソムリエの資格を取っていたので、父の術後の食事の世話などができると思ったのです。
 父の現役・監督時代を含めて、こんなに長く2人きりで過ごしたことはなかったので新鮮でしたね。特に、「あまり食べられない」「お腹が痛い」「よく眠れない」など弱音を吐く父を見たのは初めてでしたから驚きました。完璧な父親、偉大な世界の王貞治とは違う一面を見たことで、少し親子の距離が縮まり、「同志」として一緒に術後を乗り越えることができました。
 偉大すぎる父でしたので、私なんかが親孝行する機会なんてないだろうと思っていただけに、一緒の生活は神様が与えてくれた貴重な時間でしたね。

「テレビの中の父三平と違い、照れ屋で謙虚な人でした」林家正蔵さん(落語家/初代 林家三平 長男)
林家正蔵さん(落語家)

はやしや・しょうぞう/1962年、東京都生まれ。78年、林家こぶ平として父・三平に弟子入りをする。87年、真打昇進。2005年、九代林家正蔵を襲名。14年より落語協会副会長を務め、テレビや映画などで活躍。

 テレビの普及と共に、「どうもすいません」のフレーズでお茶の間の人気者となった父・林家三平ですが、家庭ではいたって普通の父親でした。口ぐせは「明るく元気に一生懸命」。何事も一生懸命やれ、上手い下手ばかり気にしてはいけないぞと、子どもの頃から何百回と言い聞かされました。
 父が寄席の夜席を終えて帰って来るのが、だいたい9時頃。寄席のない日でもテレビ収録などで大忙しでしたから、一緒に過ごす時間はそれほど多くなかったです。でも、家庭のことを気にかけてくれているのは子ども心にも感じていました。私がルールや約束を守らなかったときには、厳しく叱られたものです。
 思春期の出来心で、一度だけタバコを吸ってしまったときも、それは大きな雷を落とされました。でもひとしきり叱った後で、「お父さんはいつもテレビで『すいません』と言っているんだから、息子のお前が吸ってちゃいけません」と一言。あんまり厳しく怒っちゃったから、少し場の空気を和らげないといけないなんて、芸人の血が騒いだのかもしれません(笑)。

 父から「噺家になれ」と言われたことは一度もありませんでした。でも私は、父や志ん朝師匠の高座をみて「噺家ってかっこいいー!」と憧れていましたから、15歳になると詰襟で寄席へ押しかけ、父に「弟子にしてください」と直談判しました。ところが父からは、「お前、気持ちがうわっついてる」と跳ね返されたんです。日を改めて再び頭を下げても、答えは「ダメだ」。3度目にしてようやく、入門の許しを得ました

6歳の頃、父・三平さんから小噺を習う。

6歳の頃、父・三平さんから小噺を習う。

 そのときのことは、今でもよく覚えています。場所は父の書斎でした。入門を許可された後で「これをやる」と、落語全集を手渡されたんです。恐らく「次にアイツが入門願いに来たら渡そう」と用意していたのでしょう。見返紙には父の直筆で「海老名泰孝君へ 海老名泰一郎」と記されていました。入門後は「お父さん」「泰孝」と呼び合うことはできません。我が子を噺家修行へ送り出す父としてのけじめだったのでしょう。父から物をもらったのは、それ一度きりですね。
 父はひょうきん者のイメージがあるかもしれませんが、実際はすごく照れ屋で謙虚な人でした。志ん生師匠の自宅でラジオ番組を収録したときも、師匠が胡坐をかいてリラックスしている横で、座布団を机の下に押し込めて、畳の上に直に正座していました。足を崩しても、茶の間には分からないのに。そういう実直さは、どこかで芸にもにじみ出ていたように感じます。だからこそ、多くの人に愛されたんじゃないかなぁ。
 近ごろはよく「高座でのたたずまいや後ろ姿が、お父っつぁんに似てきたね」と言われます。不思議なもので、私が54歳になって、父が亡くなった歳に追いついた頃から、父をよく知る御贔屓さんたちから「似てる」と言われることが増えました。少し照れくさいけど、やっぱり嬉しいものですね。

「『今日は大漁だったぞ!』と喜ぶ姿が忘れられません」棟方令明さん(「棟方志功記念館」理事/棟方志功 次男)
棟方令明さん(「棟方志功記念館」理事)

むなかた・よしあき/1941年、東京都生まれ。会社員の後、棟方志功が晩年を過ごしたアトリエ「雑華山房」(神奈川県鎌倉市)を改装した「棟方板画美術館」で館長を72歳まで務める(現在閉館)。

 棟方志功というと、近眼の分厚いレンズの眼鏡をかけて、一心不乱に板を削る姿を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。近眼は相当ひどくて、正面に立っても相手の顔をほとんど判別できないほどでした。板木を彫るときも、周囲30センチくらいしか見えていなくて、あれでよく作品ができるもんだと子どもながらに感心したものです。
 版画のことを「板画」と言い、板と対話しながら数々の名作を生み出していきました。大阪万博(1970年)に出品した『大世界の柵「乾」――神々より人類へ』は、縦2・4メートル×横13・5メートルの大作です。72枚もの板を並べて下絵を一気に描いたあとで、板を1枚ずつバラバラに彫り、完成後に一画の板画にします。完成した作品を愛用の双眼鏡で満足そうに眺めていましたね。
 私が棟方家の次男(兄1人と姉2人)として生まれたのは1941年(昭和16年)、父が38歳の頃です。すでに『大和し美し』『二菩薩釈迦十大弟子』などの作品が世に出て、棟方志功の名は知られるようになっていました。ただ、時代は戦時下で、貧しい生活でした。
 45年に疎開した富山県福光町(現・南砺市)の家は、ボロ屋で台風のときは外に出て、家が倒れないように皆で背中で押さえていたのをよく覚えています(笑)。近くに小川が流れ、父と母はタモを持って魚をすくいに行ってました。特に大雨が降った翌日は上流から魚がたくさん流れてくるらしく、「今日は大漁だったぞ!」と喜ぶ父の姿はいまでもよく覚えています。一心不乱に板を削る姿からは想像できない無邪気な笑顔でしたね。

文化勲章授与式(1970年)の後、自宅で。

文化勲章授与式(1970年)の後、自宅で。

 疎開中、東京大空襲で東京の自宅は焼け、貴重な父の作品の多くを失いました。苦しい時期だったにもかかわらず、父の明るさもあって、辛い思い出はあまりなく、自然の中でのびのびとした疎開暮しでした。
 制作に対しては几帳面で、朝5時に起きて1人でアトリエに入り、10時になると居間に出てきて母が点てた抹茶で一服して、またお昼まで制作に没頭していました。午後は来客の対応と読書が日課。父は目が悪かったので、細かな字を読まないように医師から言われていたんですが、読書好きは止められませんでしたね。
 父のアトリエには基本的に誰も入ることは許されていませんでした。ただ、私は末っ子の特権もあってか、ときどきアトリエをのぞいていました。怒られたこともなく、勉強を教えてくれたり、一緒にお風呂に入ったりと、とても優しい「お父さん」でした。
 父が62歳のとき、セントルイスの大学に招かれて渡米した際、私も同行しました。一面に落ち葉が敷き詰められた公園を歩きながら「令明、カサッカサッという音を聞きながら、枯れ葉と遊べるかい」と言ったのが印象的でした。自然を愛し、芸術家としての感性の凄さとおもしろ味を改めて感じ、私にとっては一生忘れられない言葉となりました。

「飼い猫が帰ってこないと猫なで声で呼んでました」深田太郎さん(作曲家/阿久悠 長男)
深田太郎さん(作曲家)

ふかだ・たろう/(株)阿久悠取締役、作曲家。現在、父の阿久悠との思い出を綴ったエッセイを執筆中。河出書房新社より2019年7月刊行予定。阿久悠の未発表詞の作品化にも力を入れている。

 小学4年生まで私は母子家庭で育ったようなものかもしれません。というのも、父は作詞家として注目を浴びていた時期で、テレビのオーディション番組『スター誕生!』の審査員も務めるようになり、家に帰る暇がないほど忙しかったからです。日曜日の『スター誕生!』の生放送で、いかつい顔で厳しいコメントをする父の様子を見て、母と一緒に無事を確認していたほどです。家にいるのは月に2、3日でしたが、食事に連れて行ってくれたり、私の好きな仮面ライダーの絵を描いてくれたりしました。小学5年生の時、伊豆に大きな家を建て、家にいる時間を増やすつもりだったようですが、月の半分は東京の仕事場に寝泊まりしていましたね。
 叱られたこともありますが、感情的に怒鳴るのではなく、まずは私に事情を話させ、それをじっくり聞いてから何が間違いなのかを諭すタイプです。あの怖い顔でジッと見つめられると、その場では生きた心地がしなかった(笑)。
 ただ自分にも厳しい人で、独自のダンディズムを持っていました。家でもパジャマでごろごろしたり、酔いつぶれたりといった姿は見せたことがありません。唯一、素の自分に戻るのが飼い猫の前でした。当時はペルシャ猫を飼っていて、名前は大作詞家が付けたとは思えない「ニャンニャン」。夕方になっても戻ってこないと、父は玄関前で「お~いニャンニャ~ン」と顔に似合わない猫なで声で呼びかけていました(笑)。

中学1年生のとき、北海道旅行での1枚。

中学1年生のとき、北海道旅行での1枚。

 阿久悠の詞は映像的といわれますが、映画好きが影響していたと思います。2人で見た作品でよく覚えているのは、日比谷の映画館で見た『燃えよドラゴン』で、1975年の大晦日のこと。私はブルース・リーが大好きで、父にどうしても見てほしいと頼むと、日本レコード大賞(当時は日比谷の帝国劇場が会場)の放送が始まる前なら時間があると、一緒に見てくれました。かなり無理して時間をつくったのでしょうね。
 父からもらったもので、今も鮮明に記憶しているのは歌詞です。中学の頃からロックにはまった私は、大学卒業後にバンドデビューしました。でも歌詞が書けない。ヴォーカルの女の子が作詞をしていたのですが、レコード会社からOKが出ず、父に4曲お願いしたことがあります。バンドは売れずに解散するのですが、その直前に「これ、お前たちのバンドにどうだ」と、頼んでもいないのに父が歌詞をくれたこともありました。曲名は『BB(ベベ)ちゃん雲にのる』。清書の1枚目には「作詞/多夢星人 作曲/深田太郎」との文字。多夢星人は父の変名ですが、2人の名前が並んでいるのを見て、あの時はさすがにグッときました。
 実は、父の未発表の歌詞が数百あり、現代の歌い手さんやクリエイターに協力してもらって、新曲として出しています。これからも語り継いでいくことが、作詞家・阿久悠の息子としての務めだと思っています。

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