週刊通販生活トップページ  >  読み物:戦場カメラマン・石川文洋さんインタビュー

カタログハウスの公式通販サイト

戦場カメラマン・石川文洋さんインタビュー「軍隊は抑止力にならない。むしろ軍隊がいるから戦争になる。ベトナムや沖縄を半世紀にわたり取材した私の持論です」取材・構成/小石勝朗

石川文洋(いしかわ・ぶんよう)1938年、沖縄県生まれ。毎日映画社を経て65年から戦場カメラマンとしてベトナムの首都サイゴン(当時)に滞在する。69年~84年、朝日新聞社に勤務。著書に『カラー版 ベトナム 戦争と平和』(岩波新書)、『戦場カメラマン』(朝日文庫)他多数。

――ベトナム戦争の取材に行ったのは、なぜだったのですか。

石川  定時制高校を卒業して、毎日映画社で3年近くニュースカメラマンの助手をしていたのですが、いろいろな世界を見たくなって退社し、無銭旅行に出発したのです。香港の映像プロダクションに所属していた1964年8月、北ベトナム沖をパトロールしていたアメリカの駆逐艦が北ベトナム魚雷艇から攻撃を受けたとする「トンキン湾事件」を口実に、アメリカ軍が北ベトナム軍を初めて爆撃しました。世界のトップニュースとなりました。ドイツのテレビ局の取材に同行してサイゴン(現ホーチミン市)に入ったのが、初めてのベトナムでした。
 世界中からジャーナリストたちが集まっていて、米軍の記者会見場は熱気にあふれていましたよ。街を歩くとフランスの植民地だったなごりがあり、一方でアメリカの兵士がバーでくつろいでいたりする。これまで知っているのと全く違う世界があって興味を惹かれ、65年1月に香港から移住しました。

提供=石川文洋

 当時、26歳。「旅」の最終目的地は豊かなアメリカだったけれど、その途上はどこでも良かったのです。そのままフリーランスのカメラマンとして、南ベトナム政府軍とアメリカ軍への従軍取材を始めました。

――最も印象に残っている取材は?

石川  4年間のベトナム戦争の取材で私が体験した一番の激戦は、65年の3月9日のことです。丘に攻め上がったところを、待ち構えていた解放軍(南ベトナム解放民族戦線)に上から反撃されました。私の前にいたアメリカ軍の少佐は顔に被弾し、その前にいた米兵は即死しました。負傷した少佐を撮った写真が通信社から配信され、全米の新聞に掲載されるほどの衝撃的な場面でした。

撮影・提供=石川文洋

 翌日が私の誕生日だったのです。だから「少し運が悪ければ自分が撃たれていても不思議ではなかった。27歳を迎えることはできなかったかもしれない」と考え込みました。
 長く従軍取材をしていると、親しくしていた兵士が戦死する経験を何度もします。ついさっきまで話していた兵士が亡くなる。心臓が止まると、血が回らなくなって肌の色が真っ白になるんです。死とはこういうものかと感じました。戦死した兵士が物体化してくるのです。

――戦場は怖くなかったですか。

石川  私は元来、臆病ですし、恐怖はありましたよ。向こうからはジャーナリストだなんてわからないですから、接近戦で滅茶苦茶に撃ってくる。アメリカの記者に、危ないところばかりを選んで行って「クレージー」と言われたこともあります。35ミリと105ミリ、200ミリのレンズを付けた3台のカメラを抱えて、恐怖から逃れるようにファインダーを覗き、シャッターを押し続けました。カメラを持っていなかったら行けなかったですね。

撮影・提供=石川文洋

 捕虜を拷問する場面に遭遇したこともあります。「なぜ撮影をやめて止めないのか」と読者から批判を受けました。見ているのはつらいけれど、撮影してそういう現実を伝えるのがカメラマンの仕事なのです。

――アメリカ軍への従軍取材を、自ら「侵している側」からの取材と位置づけています。抵抗感はありませんでしたか。

石川  アメリカ軍のヘリコプターに乗せてもらって、無料の食事を提供してもらって、撮影して発表するのはアメリカ軍や南ベトナム政府軍の民衆を傷つける行動です。

撮影・提供=石川文洋

 実は従軍取材を始めてすぐに「この戦争は間違っている」と感じていました。解放軍兵士の主体は農村の若者ですから、政府軍やアメリカ軍は彼らを捕まえたり殺したりするために農村を徹底的に攻撃します。肉親を傷つけられたり家を燃やされたりすれば、農民たちは当然、相手に憎しみを持ちます。作戦を続ければ続けるほど政府やアメリカに反感が強くなっていくのです。
 ベトナム戦争は、資本主義と共産主義の戦いだったと言われます。アメリカは資本主義=正義の名のもと、戦争に莫大な金を投じていました。大げさに言えば、爆弾1個が1つの村の年収ほどになるでしょうか。そのお金を農民に分けていれば、みんな「アメリカ様さま」だったのですよ。農民にはイデオロギーは関係ない。家庭の平和と明日の生活が守れれば、それで良いのです。共産主義者を作っているのは、アメリカでした。

撮影・提供=石川文洋

 取材していて、つらいところでもありました。アメリカ軍にとって、農民は敵です。でも、私は農村に泊まり込んで取材していたりもして、敵とは全く感じていません。そういう人たちが犠牲になっているのに、私には攻撃を止めることはできない。できるのは写真に撮って記録することだけです。ベトナム人が好きでしたし、解放軍の気持ちもわかったし、何の権利があってアメリカは村を攻撃するんだ、と怒りも湧いてきました。

――そういう状況にあって、石川さんが沖縄出身ということが大きな意味を持っていたそうですね。

石川  沖縄戦を日本人が撮影した写真は1枚もありません。すべて米軍が記録したものです。それでも沖縄戦の様子はわかります。だから、ベトナム戦争を取材したネガも、個人のものではなく世界の財産だという意識でいました。
 私は4歳で本土に渡り、沖縄戦を経験していません。沖縄の人たちに申し訳ないな、という引け目があったのは確かです。ですが、祖父は60歳で防衛隊員として戦死しましたし、祖母や曽祖母から戦火の中を逃げ回った体験を聞いていたので、その様子を想像できます。砲弾が空気を切る音や爆発する音を、ベトナムの農民たちと同じように沖縄の人たちも聞いているのです。生まれ育った首里(那覇市)は激戦地になり、私の生家の一帯が廃墟と化した様子も写真などで見ています。ベトナムの農村や農民たちの様子と重なりました。

撮影・提供=石川文洋

――沖縄出身の米兵もいたとか。

石川  アメリカに住んで半年経つと、誰にでも召集令状が来るのです。拒否することもできるのですが、3年間の兵役に就けばアメリカの市民権や国籍を取るのに有利になる。そういう日本人兵士は何人もいましたよ。当時、豊かなアメリカは私だけでなく多くの人にとって憧れの国でしたから、その動機は理解できました。
 仲良くなった兵士に土池1等兵がいました。父親は日系2世でアメリカ国籍があるのですが、沖縄生まれの本人は日本国籍なので、少しでも早くアメリカの市民権を得たいと兵士になったのです。19歳の彼とは沖縄やベトナムのことをよく議論するほど意気投合しましたが、66年に戦死します。可哀そうで涙が止まりませんでした。少しでも生活を良くしたい、自由を得たいという気持ちで兵士になったのに、結果的に良い生活も自由も得られなかったのですから。

撮影・提供=石川文洋

――沖縄とのかかわりは今日まで続いています。

石川  ベトナム戦争を4年間取材した後、日本に戻って沖縄を撮り続けてきました。文化面や生活習慣でベトナムとの共通点を見出したことが原点ですね。沖縄と基地や戦争とのかかわり、人々の苦悩や訴えが中心テーマです。ジャーナリストとしてだけでなく、沖縄人として、自分の眼で見て伝えなければいけないと考えています。最近では、米軍普天間飛行場の移設が争点になった名護市長選や、オスプレイの配備、高江のヘリパッド建設反対闘争などを取材しました。

(C)大宮映像製作所

――ベトナム戦争で使われた枯葉剤の影響の取材もライフワークですね。

石川  戦争は「戦闘」だけではありません。沖縄には基地や不発弾の問題があるし、広島の原爆症、アフガニスタンの地雷のように、戦闘が終結して平和になったとしても、さまざまな後遺症が残ります。戦争が終わった、と言うことはできません。
 ベトナム戦争でアメリカ軍が大量に使った枯葉剤の大きな問題点は、影響が赤ちゃんに出ることです。胎内にいる時から障害が出て、その標本は見ていて痛々しい。ベトナム戦争が終結して40年になるのに、被害がなくなる見通しは立っていません。
 大人の戦争のために子どもが犠牲になる場面を、戦場でずいぶん見てきました。大人としての責任を痛感しています。1991年からベトナムの障害児リハビリ施設や病院を取材し、写真展などを通じて枯葉剤の被害の実態を伝える活動をしています。戦争を取材した者の義務だと考えています。

撮影・提供=石川文洋

――戦争の取材で得た教訓は何でしょうか。

石川  軍隊は抑止力にならない、ということですね。むしろ、軍隊がいるから戦争になる。ベトナム戦争はアメリカ軍の侵略がなければ解放軍の抵抗もなく、あれだけの戦闘にはならなかった。沖縄戦にしても、日本軍がいたために地上戦になり、大勢の人間が犠牲になったのです。だから軍隊は必要ない、というのが私の持論です。日本で言えば、軍隊の存在、つまり自衛隊そのものが憲法9条に反する。
 戦争になれば、人命や公共財産、文化財、自然……と、たくさんのものが失われます。地域は復興しても、失われた人命は戻りません。しかも、民間人が巻き込まれます。ベトナムだけでなくボスニアやソマリアやアフガニスタンでも、病院に多くの民間人の死体が運び込まれる様子を目の当たりにしました。
 「日本が占領されたらどうするんだ」とよく問われます。私は北朝鮮にも6回行きましたが、一般の人たちは日本人と変わらない人間です。戦争になる前に、そうならない状態を作ることが大切です。

撮影・提供=石川文洋

――集団的自衛権の議論についても思うところがあるそうですね。

石川  安保法制懇の報告書を読みましたが、集団的自衛権を行使すれば日本が被害を受けること、特に沖縄が標的になる可能性に触れていませんね。そういうところに視点がいっていない人たちの報告だな、と感じます。集団的自衛権の行使が抑止力になって平和を保てるという主張ですから、そもそも平和に対する考え方が違うのです。
 尖閣諸島の状況は非常に危険です。今のままでは不測の事態が起こりかねない。もし自衛隊機が撃ち落とされたりするとナショナリズムのような雰囲気が盛り上がり、「中国は空母を持っているのにオレたちは持たなくていいのか」「日本に核はなくていいのか」というところまで至るかもしれない。軍事力にはキリがありません。ナショナリズムは怪物のようで恐ろしいものなのです。安倍首相にしても石破幹事長にしても安保法制懇のメンバーにしても、私は戦争の実態を知らない人たちだと思っています。

――「戦争を伝えること」が大きなテーマですね。

石川  子どもたちに戦争の話をすると、沖縄戦や原爆や終戦記念日は知っていても、日本が中国で加害者だったことは知りません。戦争の実態が伝えられていない大きな原因は、日本が自らの戦争をきちんと総括していないからです。戦争を知らない人たちが親になり、ジャーナリストになり教師になり政治家になり、時が経てば経つほど、ますますわからなくなってくる。周囲の環境が戦争から遠くなって、社会から戦争への危機感がなくなっています。

(C)大宮映像製作所

 報道カメラマンの使命は、戦争の現場へ行って起こっていることを世界に伝えるとともに、次の世代にその写真を引き継いでいくことです。ベトナムでは、ホーチミン市の戦争証跡博物館が私の写真の常設展示室を設けてくれています。
 私自身、講演や写真展や書籍や、いろいろな方法で「戦争」を伝えたいと思っています。特に学校ですね。世界55ヵ国を回りましたし、ベトナムや日本の戦争、沖縄の基地問題を中心に、意識して若い人たちに体験を引き継いでいきたい。できることはやっておかないと、という気持ちでいます。

『石川文洋を旅する』

企画・監督:大宮浩一 2014年 109分 製作:大宮映像製作所 配給:東風
6月21日(土)、東京・ポレポレ東中野、沖縄・桜坂劇場にて公開、ほか全国順次
劇場トークイベントを開催。詳しくは公式ウェブサイト