週刊通販生活トップページ  >  読み物:「決死救命、団結!」――希望の牧場・吉沢正巳の訴え(前編)-1

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警戒区域の中で人の気配がすると、牛たちはいっせいに鳴くんだよ。「腹減った、餌くれろ。喉乾いた、水くれろ」って。

 東京電力福島第一原子力発電所から北北西に14キロ。福島県双葉郡浪江町には、原発事故によって設定された旧警戒区域(原発から20km圏内)に取り残された牛を生かし続ける牧場がある。
 「希望の牧場」――。そう名付けられた牧場では、被曝によって決して市場に出荷されることがなくなった牛たち300頭以上が今も命をつないでいる。
 私が南相馬市小高区と浪江町の境目に位置するこの牧場を初めて訪ねたのは2011年12月のことだ。寒い冬の早朝、牛舎で牛たちの世話をしながら牧場の主である吉沢正巳(60歳)はこう言った。
「あの原発事故でおれたちの浪江町は『日本のチェルノブイリ』のようになってしまったんだ。もう二度と浪江町には帰れないかもしれないと思った。『希望』という名前はそんな深い絶望の中でつけたんだ」
 絶望の中にあるのに、なぜ「希望」なのか。その問いかけに吉沢はこう答えた。
「誰もいなくなった絶望の町でも、ここの牛たちだけは元気に生き続けている。それこそが希望なんだ。それからもう一つ。世の中の人たちに対して『あなたにとっての希望ってなに?』と問いかけたい気持ち、考えてほしい気持ちもあったんだ」
 吉沢はホイールローダー(重機)を手際よく操縦しながら、牛の餌となる乾草ロールを牛舎の通路にまんべんなく広げていった。牛たちは吉沢が餌をくれることを知っており、吉沢の動きにあわせて鳴き声を上げながら集まってきた。

重機を操って餌やりを続ける吉沢。手作業もあるため全国からボランティアも手伝いに来ている。

「牛たちは餌を食べる。そして排泄物を垂れ流して汚す。それが牛たちの仕事なんだ。あの原発事故さえなければ、この牛たちはいずれ出荷されて食肉になるはずだった。でも、今はもうどこにも売れない。つまり経済価値はゼロになっちまった。それどころか生かし続けることでどんどんお金がなくなっていく。元農水省の役人からは『動くがれき』とまで言われてしまった存在なんだよ。そんな牛たちの世話を被曝しながら続けているなんて、バカみたいだと思うだろ?」
 不意に問いかけられた私が答えに窮して黙って牛たちを見ていると、吉沢は重機を降りて干し草を手で抱えながら言った。
「おれはベコ屋(牛飼い)なんだ。牛たちが『腹減った』って鳴けば餌をくれてやるし、『喉が渇いた』って鳴けば水をやる。それが当たり前だ。たとえ売れなくたっていい。牛に毎日エサを与えて体を動かしていなければ頭がおかしくなっちゃうんだよ」
 牛舎の鉄骨の間からは牛たちが一列になって首を出し、白い息を吐きながら干し草を食んでいる。あちこちで発せられる牛の鳴き声は「こっちにも餌をくれ」と吉沢を呼んでいるようにも聞こえる。シャリシャリという牛たちの規則正しい咀嚼音が響く中、吉沢は牛舎内をせわしなく移動して餌をやりながら、突然思い出したように言葉を紡いだ。

牛舎で餌を食べる牛たち。餌の確保にはいつも頭を悩ませている。

「あの原発事故のせいで、津波の中でまだ生きている人間だって置き去りにされたんだ。あの時はみんな、人の命だって見捨てて自分が助かるために逃げるしかなかった。当然ながらほとんどの動物や家畜は置き去りにされたよ。
 ただ、おれは独り者だし、牛たちの世話もあったからここに残っただけの話だ。そして原発事故の後、警戒区域に取り残された牛たちが牛舎に繋がれたまま死んでいく地獄の光景を自分の目で見てきたんだ。
 知ってるかい? 人が誰もいなくなった警戒区域の中で人の気配がすると、牛たちはいっせいに鳴くんだよ。『腹減った、餌くれろ。喉乾いた、水くれろ』って。よその牧場でその光景を見て自分の牧場に戻った時、『おれは絶対にこの牛たちを生かし続ける』って心に決めたんだ」

縦揺れでも横揺れでもなく、地面をこねくり回すような揺れ方だった。

 今から3年10ヵ月前の2011年3月11日午後2時46分。東日本をマグニチュード9.0という未曾有の大地震が襲った。それから1時間もしないうちに、太平洋側の沿岸部には最大21.1mの津波が押し寄せた。2015年1月9日現在での死者数は1万5889人。行方不明者は2594人にも上る(警察庁発表)。
 この大地震と大津波、そしてそれに伴って引き起こされた東京電力福島第一原子力発電所事故によって、福島県の浜通りは壊滅的な被害を受けた。福島県では今も約12万人が避難生活を余儀なくされている(福島県内への避難者約7万5千人、福島県外への避難者は約4万5900人/福島県発表)。

津波で大きな被害を受けた浪江町請戸地区。
原発事故のため行方不明者の最初の捜索は2011年4月14日まで待たなければならなかった。

 その大地震が起きた時、吉沢は福島県南相馬市原町区のホームセンターで買い物をしていた。
「縦揺れでも横揺れでもなく、まるで地面をこねくり回すような、円運動をしているような揺れ方だった」
 ホームセンターの陳列棚にあった商品は雪崩を打って店内の通路に飛び出し、すぐに山積みとなって通路を塞いだ。何度も襲ってくる激震に耐えるため、吉沢は陳列棚に必死にしがみついた。
「数分後にいったん揺れが小さくなった時、店内放送で避難を呼びかける声が聞こえたんだ。おれはすぐに店の外に出て、駐車場に停めていた2トン車に飛び乗って牧場に向かったよ。だけど電線はグニャグニャに波打っているわ、道路は陥没しているわで、牧場に向かう国道6号線では渋滞がはじまってしまったんだ」
 直感的に「このままでは帰れなくなる」と思った吉沢は、途中から国道6号線を外れ、小高区にある細い裏道を通って牧場まで帰った。
「これは後でわかったことだけど、それから30分もしないうちに海岸で高さ10メートルの津波が国道6号線で渋滞にはまっていた車列を襲ったんだ」
 もしあの時、違う選択をしていたら――。当時を思い出すと、吉沢は今でも背筋が凍りそうな思いにとらわれる。

餌や管理が行き届かず命を落とす牛もいた。

 ふだんの倍以上の時間をかけて牧場に戻った吉沢は、すぐに地震による牧場の被害状況を調べて回った。自分で重機を駆使して作り上げた倉庫やポンプ小屋が激しい揺れで潰れてはいたものの、牛舎は無事で牛たちも元気だった。しかし、地震による停電のため、牛舎に水を送ることができなくなっていた。
「これでは牛たちに水を飲ませることができない」
 そう思った吉沢は、すぐに非常用のディーゼル発電機を回して牛たちに水を飲ませた。それを終えると今度はいったん車に戻り、カーナビのワンセグテレビ画面に映るニュースを見ていたという。そこでは津波による甚大な被害を伝える衝撃的な映像が繰り返し流されていた。
「牧場は海から離れた山の上にあるけど、余震がひどく、不安だったよ。それでもその日の夜は薪ストーブで暖を取り、ろうそくの火をたよりに牧場で夜を過ごしたんだ。暗闇の中、原発上空を旋回するヘリコプターのプロペラ音だけが不気味に聞こえたのを覚えているよ」

来るべきものが来てしまった。国は情報を隠している。

 大震災翌日の3月12日早朝。吉沢の牧場に赤色灯を回した紺色のワンボックスカーが3台やってきた。車からは降りてきたのは、10人ほどの福島県警の警察官だった。
「おれは前日から『原発がおかしい』という情報を車のテレビで見て知っていたから、てっきり警察が『避難しろ』と伝えに来たと思ったんだ。そうしたら『違う。避難指示じゃない』と言う。警察の通信部隊だという彼らは『福島第一原発の様子を県警のヘリからライブ中継し、衛星経由で県警本部に送る。そのための中継基地として牧場の一角を使わせてほしい』と言ったんだ。

浪江町請戸地区から見た東京電力福島第一原子力発電所。

 牧場からは肉眼で第一原発の排気筒がよく見える。もちろん『どうぞ』と言って、おにぎりや味噌汁を差し入れたよ。夜は車の中じゃ冷えるだろうから、自宅の薪ストーブにでもあたってもらおうと思って準備もしていたんだ」
 しかし、彼らが吉沢の自宅に上がることはなかった。
 最初の会話から数時間が経過した夕方、牧場内で中継基地の設置をしていたはずの警察官たちが慌てた様子で吉沢のもとにやってきた。吉沢は牛の世話をしていて気づかなかったが、1号機が爆発したのだという(午後3時36分に水素爆発)。
「県警本部から撤収命令が出た。申し訳ないけれど我々は引き上げる。来るべきものが来てしまった。牧場の皆さんも避難したほうがいい。国は情報を隠している。早く逃げたほうがいい」
 吉沢はこの時、警察官たちが言った「国は情報を隠している」という言葉の意味が全く想像できなかった。そして警官たちにこう告げた。
「いや、牛がいるからおれは逃げるわけにはいかない」

牧場の敷地内を横切る送電線は東京電力福島第一原子力発電所につながっている。

 原発事故に対する不安がなかったかと言えば嘘になる。しかし、牛たちを置いて逃げるわけにもいかない。吉沢はきっぱりとした口調で即答したものの、「情報が乏しい中、ぐずぐず決めかねて残ってしまったというのが正直なところだった」と振り返った。
 警察官たちは吉沢を牧場に残して撤収していった。しかし、吉沢は彼らを責めるでもなく、淡々と語る。
「あとでわかったんだけど、彼らが言っていた『情報』っていうのはSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のことだったんだ。あの時、すでに警察はこっちの方に放射能が飛んでくるってことをわかってたんだろうな」

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