週刊通販生活トップページ  >  読み物:映画『ふたりの桃源郷』監督・佐々木聰さんインタビュー

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「撮影をする側があえて解釈を加えないことで、観る人の数だけ思いが生まれる映画になりました」

意図的な演出をせず、あるがままを伝えなくちゃいけない、と思った。

――映画に登場する2人を山口放送の先輩がすでに撮影をされていたそうですね。途中で佐々木監督が引き継いだのですか。

佐々木  引き継いだというのとは違います。一回り年上の先輩が撮影していたのは最初の3年間。それから7年間のブランクを経た後、ぼくが15年間撮影することになりました。

──先輩は撮影開始当初、寅夫さんとフサコさんの山暮しを「老人の自立」ととらえたのだけれども、そうは考えられなくなったのが撮影中断の理由だとか。

佐々木  先輩は「老夫婦が子どもたちに頼らず、山のなかで自給自足的な生活をしている」ところを撮りたかったんだと思います。彼は、寅夫さん、フサコさんを自分の両親に重ね合わせていました。「お父さん、お母さんのところにはあまり顔を出せないけれども、2人にはいつまでも元気でいてほしい」。そんな願いを投影していたのでしょう。ところが「自立」していた寅夫さん、フサコさんも、身体の衰えから、これまでのような生活を続けることが難しくなっていった。その姿は自分の親を見るようで先輩は辛くなり、撮影を止めざるをえなくなったのです。
 ぼくが山口放送に入社したのは、先輩がカメラを置いた直後でした。配属先はドキュメンタリーの部署。これまで撮影された映像を見るなかで、先輩の作品もいいなあと思ったのですが、それ以上ではありませんでした。それから5年後、同じ映像を見る機会があり、「このおじいちゃん、おばあちゃん、この生活は続けていないよなあ、でも会いたいなあ」と思い、2人に会いに出かけたのです。

(C)山口放送

──2人はまだ山にいたのですか。

佐々木  はい。ぼくが見た映像とは違い、日々の生活を営むのも大変そうでした。たとえば薪割りも、慣れている大人なら1分もあれば8つに割れるのに、寅夫さんは15~20分もかかる。それでも作業を止めないんですね。しかも、「ふんッ」と言って斧を下ろすと、見事に割れる。そして、ぼくが見た映像で語っていることと同じ話をする。すごいと思いました。この夫婦はどうしてこの生活にこだわっているのか。それが知りたくて、取材を繰り返したのです。先輩も「自分の思うように撮ればいい」と承諾してくれました。
 ぼくは自分の祖父母を亡くした直後でした。生前、車で1時間ほどの距離に住んでいても、忙しさにかまけて顔を見せることができなかった。そんな悔いがあったのだと思います。ぼくの祖父も(寅夫さん同様)戦争に行っていたので、その世代特有の雰囲気が感じられたことも魅かれた理由でした。

──佐々木監督が、ご自分の祖父母に生前あまり会えなかったことを悔やんでいるというのは、田中さん夫妻の三女の矢田恵子さんの夫である安政さんの思いに通じます。彼は、自分の両親を最後まで看られなかったという思いもあり、せめて妻の両親は、と山の麓での生活を始めたのですよね。

佐々木  このドキュメンタリーは何度もテレビ放映されており、多くの視聴者から感想や意見をいただいているのですが、感動するところ、共感するところ、好きなところがバラバラなんです。林道のシーンだったり、マツタケが採れたシーンだったり、お風呂のシーンだったり。そして、それらのシーンが好きな理由も、亡くした祖父母を思い出したとか、遠く離れて暮している家族やきょうだいについて考えたとか、それこそ見た人の数だけありました。
 それは取材する側も同じで、ぼくも、カメラマンも、音声も、魅かれるところが違う。撮影を終え車に乗って山を下りる際、2人はぼくらが見えなくなるまで手を振ってくれるのですが、その後、車内で煙草を一本吸い終わったくらいの時間が経つと、各自が口を開き始めるんです。カメラマンの2人は亡くなったお父さんの話をしたがりました。ですから、この作品に物語の起承転結をつけてはいけない、ここに感動してほしいなんて意図的な演出をしてはいけない、山で感じたことをそのまま伝えよう、と思ったのです。

──自給自足的な生活のすすめといったテーマではないですよね。

佐々木  もちろんそこに注目する方もいらっしゃいます。しかし、それは様々な感想のひとつに過ぎません。「(自分が撮ったところは)そういう風に受け取ってもらえているんだ」と、観客に教えてもらうことが多い映画だとあらためて思っています。

(C)山口放送

──取材する側が意味づけをしないことで、見る側に多様な思いを抱かせることになった、と。

佐々木  現場でぼくから「あれを撮って、これを撮って」ということはありませんでした。一緒の空間にいて、ときどきカメラを回すといった感じです。自分たちに撮影する側という意識も薄くなるくらい。寅夫さん、フサコさんは晩年、ほとんど動いていないんです。あるとき、しばらくじっとしていた寅夫さんが、ふと目を開けて「ああ、生きとる」と言ったことがあります。身体は衰えても、心のなかでは何かが燃えていたのでしょう。

──パンフレットには「25年間のドキュメンタリー番組をつくることが最終目的ではない」と書かれています。撮影中に「これを映画にしよう」と目論んでいたわけではないのですね。

佐々木  ぼくらは、最初から「映画にしよう」「番組にしよう」と思って、取材を始めることはありません。たとえば、ある介護ヘルパーさんには13年間、取材しました。ある農家には7~8年間、通いました。特別なことをしているわけではなく、いまも変わらず信念をもち、実践し続けている人々をもっと知りたいと撮り続け、日々、短い放送を重ねていきます。そのうち、ある時点でそれを「まとめて」伝えたくなります。それが「番組」であり、今回の「映画」です。それが終われば、また、日々の取材と放送は続いていくのです。

──しかし、意味づけをせず、あるがままに撮るとなると、編集作業が難しくなりませんか。

佐々木  「ここは山の映像を入れて」とか「あそこはセリフを」とか考えてはダメだと思っていたので、『ふたりの桃源郷』は本当に時系列に沿って並べただけでした。実は、今回の映画化するにあたり、暗幕を張った空間に視聴者から送られてきた手紙を床に並べ、その後ろにブラウン管のテレビを置いてむかしの映像を流すという演出をしました。それを映画の冒頭に使って、長い年月を感じてもらおうと。そうしたら、スタッフから、「そんなわざとらしいことはやめろ。これまでのプロセスが台無しになるじゃないか」と散々に言われました。「映画だから・・・」と肩に力が入ってしまったんです。それで気がつきました。「これまで通りでいいんだ」と。結果的に、テレビでは挿入していたナレーションや音楽も、映画ではさらに削っていきました。「そのままを届けよう」。それらがなくてもクローズドな空間で見れば観客に伝わると思ったからです。

『ふたりの桃源郷』は、いまも続いている。

(C)山口放送

──私は、両親のことを思い、山の麓に引っ越してきた三女の夫妻の桃源郷でもあると思いました。

佐々木  この映画を撮る側も見る側も、自分のなかの桃源郷を見ている。それに気がついて、先輩を山に連れて行ったことがありました。その様子も番組として放映しているのですが、それはそれで意図的なんですね。
 昨年制作した戦争をテーマにした番組では、引揚者たちの悲しみや辛さを取り上げました。取材を受けてくれた方は、これまで誰にも言わなかったことをカメラの前で語ってくださった。なぜ彼らが沈黙していたかというと、われわれメディアが彼らの思いを汲んでこなかったからです。すぐ入手できる資料にさえ見向きもしなかった。それに対する痛切な反省が作品のメッセージになっています。
 先ほど申し上げた介護ヘルパーの番組では、現場のスタッフの給与が安いので、離職者が後を絶たない。主人公もその一人で、そんな彼女が安心して暮せる世の中をつくらなくてはいけないんじゃないか、というメッセージを込めました。ところが『ふたりの桃源郷』には、それらに当たるものがないんです。あえていえば、自分にとって大事なものは何かを考えてほしいということくらいで。

──だから見た人の数だけ感動や共感が生まれた?

佐々木  番組を見て自殺を思いとどまったという若い女性がいました。彼女は山に暮す2人を訪ねたそうです。

──私は寅夫さんに自分を重ねてしまいました。映画のはじめではダンディな姿で登場する彼がだんだん衰えていく姿を見て、「自分もこういう年の重ね方をするのかなあ」と少し寂しくなったのです。数年前であれば、寅夫さんとフサコさんよりも、3人の子供たちの方に感情移入をしていたはずですが、自らの老いを考え始めたのでしょう。ところで、マツタケを採りに行くフサコさん、すごいですね。腰がずいぶん曲がっているにもかかわらず、山を歩くスピードがとても速くて、娘さんたちを置いてきぼりにしてしまう。

佐々木  不思議ですね。「まさかこの山は(登らないだろう)」というところを登っていく。あの頃はすでに認知症も進んでおり、スタッフの顔を思い出せないこともあったのですが、山にいるとスイッチが入るようでした。認知症になっている親御さんがいる方には、フサコさんのあの姿に感じるものがあったといいます。

──一方で、足腰が動かなくなっても手だけで野菜の収穫をする寅夫さんをみると、「日々を生きていくための仕事ってこういうものなのかなあ」と思いました。

(C)山口放送

佐々木  寅夫さんは地に足をつけて生きたかったんだと思います。戦後、大陸から帰ってきて、山の一画を買って農業を始めた。しかし、子どもたちを育てるために山を下りて、都会でお金を稼がなくてはならなくなった。そして、子どもたちが独立した後、再び山へ戻った。
 寅夫さんは自分の生き様を見せたかったのではないか。本人はそんなことは一言も言っていませんし、自分の映像(テレビ放送)もほとんど見ていないのですが、「自分が食べるものは自分でつくらなくてはならない」という信条を実践し、示していたのだと思います。

──やがて2人は山の麓の老人ホームに暮し、そこから山に通うわけですが、ホームの人々はよく許可をしてくれましたね。

佐々木  娘さんたちがホームのスタッフときちんと話し合っていたからでしょう。2人は、寅夫さんが運転できなくなるまで山に通っていましたが、最後の方はクラッチがすぐ焼けてしまいました。寅夫さんはクラッチを十分に踏み込めず、半クラッチ状態でギアを代えずに走っていたからです。

──映画が完成したいま、佐々木さんご自身はどのような影響を受けたと思っていますか。

佐々木  こうしてインタビューを受けているとき、寅夫さんとフサコさんのこと、2人の家族のこと、自分のことなどを思い出し、そして新たな発見をしている自分がいる。こういう経験をさせてもらっていることに感謝しています。
 最初の試写会が終わった後、挨拶のために前に立つと、観客の方々が目を泣きはらして拍手をしてくださいました。ぼくも感極まって涙を流してしまったのですが、同時に「ぼくらはテレビの仕事をしていながら、視聴者のことを考えていたのだろうか」と思ったんです。視聴者から手紙をもらったり、知人や友人から「あれ、よかったよ」と言ってもらったりすることはあっても、作品を見た直後に感想を寄せられたのは初めて。映画ならではの体験でした。

──終盤、フサコさんが亡くなった寅夫さんのことを呼ぶシーンがあります。90歳を超えた人とは思えない、大きくて透き通った声で「おじいさあん」と。2人は本当に仲がよかったんですね。

佐々木  苦しい時をともに乗り越えて、自分たちの力で生きてきたからでしょう。テレビでは、寅夫さんが亡くなったことを伝えるため、あのシーンで終わる番組はあったのですが、映画ではそれで終わるという考えはありませんでした。というのも、取材は続いていて、恵子さん夫婦の生活からぼくたちは学んでいる。『ふたりの桃源郷』はいまも進行しているのです。

佐々木聰(ささき・あきら)1971年生まれ。山口県出身。山口放送入社後、制作ディレクター・報道記者を経て2007年よりテレビ制作部。情報番組を担当する傍ら、ドキュメンタリーを制作する。放送文化基金賞(放送文化 個人・グループの部)、文化庁芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。制作した主な番組に、「奥底の悲しみ」シリーズ〈日本放送文化大賞グランプリ、民放連賞(報道)最優秀賞、文化庁芸術祭優秀賞〉、「笑って泣いて寄り添って」シリーズ〈文化庁芸術祭優秀賞、民放連賞(放送と公共性)最優秀賞、日本放送文化大賞グランプリ候補〉、「20ヘクタールの希望」シリーズ〈民放連賞(報道)優秀賞、ギャラクシー賞選奨〉など。

『ふたりの桃源郷』

5/14(土)〜東京・ポレポレ東中野、
6/11(土)〜山口県内6館ほか全国順次劇場公開予定
→公式ホームページ

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