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東京西部の杉並と下町の浅草、
それぞれの戦争体験。

小室 今日のタイトルは「少年期は戦争だった」です。つまり、谷川さんと永さん、お2人が並んだときにイメージされるのがこのフレーズだったということですね。

谷川 僕は昭和6年生まれで、小学校4年のときにパールハーバーがあったんですよ。

小室 そのニュースを聞いた谷川少年はどう思ったんですか。

谷川 「頑張れ」という感じですよね。まあ、実際のところはそんなに興味があったわけじゃないんだけど、僕は機械少年で、戦艦とか戦闘機とかの戦争の「ハードウェア」が好きだったんです。マレー沖で英国のすごい戦艦が2隻沈められたとかいうニュースが嬉しいわけですよ。だから、その後戦局が悪くなってもあんまり関係なくて、友だちに新しく出た戦闘機の絵を描いてもらったりして遊んでいました。
 ただ、それは戦争の割と最初のころですね。もっと後には、僕が住んでいた杉並区でも、昭和20年5月の東京西部大空襲がありましたから。3月10日の深川のほうの空襲は空が明るく見えたくらいでしたけど、5月のときはうちから自転車で5~6分のところまで燃えたんですよ。

小室 永さんは浅草出身ですよね。空襲のときにはどこにいらしたんですか。

 長野に学童疎開していました。浅草の子どもたちは、宮城県の白石温泉に学校ぐるみで疎開したんですよ。ところが、東京大空襲があった3月10日はちょうど卒業式の日だった。東京が燃えているのに、式に出席する子どもたちを乗せた列車がどんどん東京へ向かっていったんです。それで東京駅で死んだ子がいっぱいいました。そういう体験は、杉並とは全然違うと思う。

小室 杉並の場合だと、生身に戦争を感じるようなことはどんなことがありましたか。

谷川 空襲が終わった翌朝、友だちと自転車で焼跡を見に行ったんです。一番印象的だったのはやっぱり、焼死体がごろごろ転がってる光景ですね。子どもだから怖いとかはあまりなくて、ただ好奇心みたいなもので見に行くんですけど……。
 あとは、焼夷弾の破片みたいなものを拾ってきて、爆発させて遊んだり。うちは身内に戦争で死んだ人がいませんから、戦争体験としては本当に浅いです。夜中にB29が来て、防空壕に入らされたのがきつかったということはありましたけど。

右から谷川さん、永さん、牧口一二さん(ゆめ風基金代表理事)、小室さん。

小室 僕は東京・荒川区の電気屋の息子なんですけれども、うちに中学を卒業してすぐ来た住み込みの職人がいたんです。その人が、戦争孤児みたいな人だった。
 彼は深川の出身で、弟を親元に残したまま千葉の木更津のほうに学童疎開した。東京大空襲のときには、東京の方向の空が真っ赤になっていたのを記憶しているそうです。その後、千葉も危ないというので、さらに東北のほうに疎開することになって、貨車で錦糸町あたりを通りかかった。瓦礫ばかりで何もないんだけど、自分の住んでいたところはここだというのが、土地勘として分かったんだそうです。家族が亡くなったことは、木更津でもう知らされていたそうで……「悲しかったでしょ」って僕が無神経に尋ねたら、「いや、悲しいとかそういうんじゃねえんだよな」って言ってましたね。僕は話を聞いただけだけど、戦争の中ではそういうできごとがあったんですね。

戦後、日本の大人は
みんな「腑抜け」になっていた。

谷川 うちの父は、今思えばちょっと「非国民」みたいな人で、最初から「この戦争はやばい」と言ってましたね。東条(英機)さんが子どもの頭をなでたりしてる写真が新聞に出ているのを見て、ものすごく苦々しげに「こんなことやるようじゃ、もうおしまいだ」と言っていたのをよく覚えています。終戦の年くらいには、海軍の関係者と隠れて連絡を取って、この戦いをどういうふうに終わらせるべきかなんて話をしていました。

小室 永さんの周りの方は戦争のとき、どういう感じでしたか。

 これは戦争が終わった後の話だけど、日本人の大人って全部腑抜けになっていましたね。勇ましい人なんて誰もいなかった。戦争に負けちゃってどうしていいかわからなくなって、みんな無気力になっていた。僕がたまたま中学生でNHKラジオの「日曜娯楽版」に出たのだって、大人がいなかったからですよ。
 その意味では、子どもの方がしっかりしていましたね。瓦礫を掘って金目の金属を集めた。まとめて仕切り場に持っていくと、現金に換えてくれるんです。やっぱり、「少年期は戦争だった」っていうときには、戦中体験だけじゃなくって戦後体験まで含まれますよね、戦後体験っていうのはけっこう強烈です。

小室 僕は戦争そのものは知らないですけど、子どものころは上野に行けばまだ地下道には浮浪児と呼ばれる子たちがいましたし、傷痍軍人もいました。谷川さん、杉並はそういう影はどのくらいありましたか。

谷川 あまりなかったですね。もちろん、傷痍軍人を見かけることくらいはあったけど、街は焼けてないから。僕自身は、なにしろ機械少年だから、戦後のアメリカ文明の流入に夢中でした。ジープを見て「あんな自動車があるのか」と感動したり、闇市でアメリカの小さなポータブルラジオを見て、恐る恐る触らせてもらったり。

 そういえば、さっき防空壕の話が出たけど、戦争が終わった後、家の床下に掘った防空壕の中で暮している人たちがたくさんいました。夜、瓦礫の街を歩くと、防空壕の中にいる家族が歌う歌が下から聞こえてくるわけ。足の裏から。あれは忘れられないね。

戦争に、表現者は
どうかかわったか。

小室 お2人は作詞家と詩人ですが、どちらも戦争のときには、そこに加担する──やむなくという場合も含めて──表現にかかわってしまった人が多かったと思います。

谷川 戦争賛成みたいな詩を書いていても、その詩が良ければ僕はいいと思うのね。でも、実際にはほとんどが単なるプロパガンダ的なもので、詩としては面白くないんですけど。 

小室 この間、近代美術館で戦争画をいくつか見たんですが、描き手には「戦争に加担する」という意識よりは、純粋に絵描きとして絵を描こう、という意識のほうが強くあったんじゃないかと感じました。

谷川 だと思います。なにしろ戦争は「珍しい」からね。すごい戦場場面があるわけだから、これを描いてみたいって思ってもしょうがない気がする。芸術家ってやっぱりそういう、ちょっと冷たいところがないといけないんじゃないかしら。

小室 作詞家はどうですかね。

 作詞家はいいかげんなもんですよ。それより、今同じ世代の年寄りがここに並んでるけど、女性が入ってないでしょう。今度はちゃんと同じ世代の女性にもお話を伺いたい。

小室 そうですね。例えば永さんたちと同人の仲間でもあった茨木のり子さんが、「わたしが一番きれいだったとき」という詩を書かれている。その茨木さんにしても、軍国的になるようなところはあったんでしょうか。

谷川 もちろん女学生はそうだったんですよ。それに、もともと茨木さんには「みんなと一緒に」「みんなを元気づけよう」みたいなことを書く傾向がありますね。
 戦争反対の意志が一番強いのは、金子光晴みたいな徹底したエゴイストじゃないでしょうか。息子を戦争にやるのが嫌だからというので、松葉を焚いていぶして、喘息の発作を起こさせた。そういうのが、戦争反対としては具体的でいいなと思います。言葉で書いたってどうってことない、行動のほうが大事なんだから。

永さんのリハビリと
「上を向いて歩こう」。

小室 ここから先は、永さんと谷川さん、お1人ずつにお話を伺います。まずは永さんの手話付きで「遠くへ行きたい」を演奏します。

「遠くへ行きたい」

小室さんとこむろゆいさんのユニット「ラニヤップ」の演奏と
永さんの手話で「遠くへ行きたい」。

小室 永さんは、浅草に生まれ育って、しかも永一族はおそらく中国から渡ってきて16代続いているんでしょ。その中国のDNA、浅草のDNAを感じることがありますか。

 僕よりも、もう亡くなりましたけど結婚した相手が北京育ちなの。あの人のスケールの大きさは信じられないくらいでした。例えば、結婚しようという話になったとき、新婚旅行の相談するよね。そしたら、べたべたしたくないから行きたくない、行くなら1人で行くって、本当に1人で行っちゃったんです。僕は1年、家に帰らないで外に出ていたことがあるんだけど、そのときも何にも言わなかった。
 彼女は満州で終戦を迎えて、朝鮮半島で相当ひどい思いをして引き揚げてきた。結婚して、子どもも孫も生まれた後でも、夢でうなされるんですよ。ソ連軍が入ってきて周りの人がばたばた殺されたときの風景が出てくるのね。 女房が亡くなった後、小室さんが歌を歌ってくれたでしょ。ありがとう。

小室 「上を向いて歩こう」を歌ったんですよね。そしたら、永さんに「泣かせてくれてありがとう」って言われました。
 じゃあ、その「上を向いて歩こう」を皆さんと一緒に歌うことにしますので、永さん、例のリハビリのときの話をお願いします。初めて聞く方もいらっしゃるから。

 新宿の病院で、歩行のリハビリを担当してくれたのがインドネシアのジャカルタから来ている青年だったんですが、彼がある日、「永さんの歩き方にとても合う歌があります。あれを歩きながら歌いましょう。『上を向いて歩こう』っていう歌です」って言うんですよ。「俺は知らないよ、そんなもの」って言ったんですが、「日本人でこの歌を知らない人はいない。嘘をついていますね」って言うんです。
 翌日、主治医に呼ばれて「真面目に勉強に来てる若者に嘘ついちゃいけません。本当のことを言いなさい」って怒られた。それで、そのリハビリ担当の若者に「あなたに謝らなきゃいけないことがある。『上を向いて歩こう』を知らないって言ったけどあれは嘘だ。知ってる。なぜ知ってるかっていうと、俺が作ったからだ」って打ち明けたんです。そしたら「えっ、また嘘ついて」って呆れられました。

小室 ありがとうございます。何度聞いても面白い(笑)。それでは皆さんも一緒にお歌いください。

「上を向いて歩こう」

時を経て、リアルに意味を持つことがある。
詩って、けっこう偉いんだよ。

小室 もうずいぶん昔ですが、「高原へいらっしゃい」っていう山田太一さんシナリオのドラマの主題歌の詞を谷川俊太郎さんに書いていただいたんですね。その歌を聞いていただいて、俊太郎さんに話を伺います。

「お早うの朝」

谷川 永さんの話、すごく面白かったです。一番感じたのは、年を取ってくると時代ってものがわかってくるというか、深く感じられるようになるということ。これだけ生きていると、友だちが病気になって死んだりしているし、事件もいろいろ起こっているし、歌は歌い継がれてるし……そういう「時代」に感動しちゃいますね。

小室 この「お早うの朝」も、3番の「ゆうべ見た夢の中で/ぼくは君を抱きしめた/はだしの足の指の下で/何故か地球はまわってた」っていうところが、実をいうと最初はすごく歌いにくかったんです。なんていうか、自分の身につかなくて。でも、特に3・11の後に、この3番が一番歌いたいって思うようになりました。そういうふうに変わってくることもあるでしょう?

谷川 ああ、そうですね。

小室 ご自分の詩でも、昔作った詩が今自分で読むと違って感じられるってことは当然あるわけでしょう。

谷川 あるけど、割ともう他人事みたいですね。「なんかうまく書けてるじゃん」とか(笑)、今ならこうは絶対書けないよなとか。でも、やっぱり自分の詩はかわいいですよね。
 さて、朗読は、永さんの話がすごく面白かったんで、永さんが戦争をテーマに書かれた詞から始めたいと思います。永さんが沖縄の気持ちになって書かれた詞です。

ここはどこだ
  永六輔

ここはどこだ いまはいつだ
なみだは かわいたのか
ここはどこだ いまはいつだ
いくさは おわったのか

ここはどこだ きみはだれだ
なかまは どこへいった
ここはどこだ きみはだれだ
にほんは どこへいった

流された血を
美しい波が洗っても
僕達の島は
それを忘れない
散ったヒメ百合を忘れはしない
君の足元で歌いつづける

ここはどこだ いまはいつだ
いくさは おわったのか
ここはどこだ きみはだれだ
にほんは どこへいった

谷川 「ここはどこだ いまはいつだ」っていう始まり方が反戦の歌とは思えないけど、すごく深くて、今の状況にも合ってるようなところがあるんですよね。「日本はどこへ行った」みたいなね。

小室 ずいぶん前に作られた詩が、今日、リアルに意味を持ってしまうという…。

谷川 そうですね。だから詩って、けっこうえらいんだよ。
 次の詩は、幼児向けの戦争絵本のために書いた詩です。まだできていないんですが、絵本になったら買ってほしいから、今ここで初めて読むんですけど(笑)。

戦争をしない
   谷川俊太郎

ちょうちょとちょうちょは戦争をしない
金魚と金魚も戦争をしない
くじらとくじらは戦争をしない
くらげとくらげも戦争をしない
すずめとかもめは戦争をしない
すみれとひまわり 戦争をしない
まつの木 かしの木 戦争をしない
こどもとこどもは戦争をしない
けんかはするけど戦争しない
戦争するのはおとなとおとな
自分の国を守るため 自分のこども守るため
でも戦争すれば殺される
敵のこどもが殺される
みかたのこどもも殺される
地震はひとを殺さない
地震でひとは死ぬだけだ
でも戦争すれば殺される
ひとがひとに殺される
死ぬより先に殺される
ごはんとパンは戦争をしない
ワインと日本酒 戦争しない
海と川は戦争をしない
月と星も戦争をしない

谷川 次は「戦争と平和」。トルストイの小説と同じタイトルの詩です。

戦争と平和
   谷川俊太郎

夫の戦争は自分にうんざりしている
戦争してしまう自分をどうしても抑えられないのだ
妻の平和はそんな夫と今日もいっしょに暮らしている

「私を愛していないのね」と妻は夫に言う
「愛していればもっと私を大切にしてくれるはずよ」
「愛しているよ」と夫は答える
「愛しているからこそおまえのために戦っているんだ
そういうおまえこそおれを愛しているのかね」
妻は答える「愛していますとも 夫婦は一心同体ですからね
でもいくら愛してもあなたはあなた 大昔から変らない
ああ もう言い争うのはやめましょう
おなかの赤ちゃんによくないわ」

食卓の横の音を消したテレビ画面をステルス爆撃機が横切る
妻と差し向かいで黙々と長崎ちゃんぽんを食べながら
夫は心の中で願っている 生まれてくる子が母親似であるように

谷川 戦争と平和って、みんな反対のものだと思ってるけど、実は全部1人の人間の心から出てくるものでしょう。だから双子っていうか夫婦っていうか、切り離せないものだと思うんですよね。
 次に、さっきちょっと話題に出た金子光晴さんの詩です。

戦争
   金子光晴

千度も僕は考えこんだ。
一億とよばれる抵抗のなかで
「なにが戦争なのだろう?」

戦争とは、たえまなく血が流れ出ることだ。
そのながれた血が、むなしく
地にすいこまれてしまうことだ。
僕のしらないあいだに。僕の血のつづきが。
敵も、味方もおなじように、
「かたなければ。」と必死になることだ。
鉄びんや、橋のらんかんもつぶして
大砲や、軍艦に鋳直されることだ。

反省したり、味わったりするのは止めて
瓦を作るように型にはめて、人間を戦力としておくりだすことだ。
十九の子供も。
五十の父親も。

十九の子供も
五十の父親も
一つの命令に服従して、
左をむき
右をむき
一つの標的にひき金をひく。

敵の父親や
敵の子供については
考える必要は毛頭ない。
それは、敵なのだから。

そして、戦争が考えるところによると、
戦争よりこの世に立派なことはないのだ。
戦争より健全な行動はなく、
軍隊よりあかるい生活はなく、
また戦死より名誉なことはない。
子供よ。まことにうれしいじゃないか。
互いにこの戦争に生れあわせたことは。

十九の子供も
五十の父親も
おなじおしきせをきて
おなじ軍歌をうたって。

谷川 すごい皮肉な、逆説的な戦争反対の詩です。

小室 俊太郎さんはもちろん、金子光晴さんにお会いになっているんですよね。

谷川 ええ。茨木さんと3人で座談会もしています。あの茨木さんが、ああいう一種デカダンス(退廃的)な金子光晴に惚れきってたんですよね、夢に見るほどに。いい話でしょ。
 茨木さん、実際に会うと全然色っぽい人じゃなかったんだけど、詩はけっこう色っぽいんだよね。ではその茨木さんの「私が一番きれいだったとき」。

わたしが一番きれいだったとき
   茨木のり子

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね

谷川 僕は「手足ばかりが栗色に光った」の後はないほうがいいと思っていて、茨木さんにもそう言ったことがあるんです。

小室 俊太郎さんに言われると、なくてもいいような気もしなくはないですが、最後まで朗読していただくとやっぱりいい詩だなと思います。

谷川 そう? じゃあ、あの世で茨木さんに会ったらよく言っておきますよ(笑)。

詩の出典
戦争と平和 谷川俊太郎『詞華集 生きていてほしいんです──戦争と平和』(童話屋、2009年)
戦争 金子光晴『蛾』(北斗書院、1948年)
わたしが一番きれいだったとき 茨木のり子『見えない配達夫』(飯塚書店、1958年)

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