週刊通販生活トップページ  >  読み物:フクシマの首長【第2回】大熊町 渡辺利綱町長(1)

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福島第一原発の事故からもうすぐ3年。いま、福島では何が問題になっているのでしょうか。自治体の長として住民の課題に向き合う方々に話を伺っていきます。まずは、事故による被害がもっとも大きい福島県東部・双葉郡から連載を始めます。(取材・文・写真/畠山理仁)

第2回-大熊町 渡辺利綱町長「「現時点で戻りたいと考えている町民は1割を切っていますが、狭い仮設住宅でストレスを溜め、早く帰りたいという高齢者もいる。何が正しいのか、いつも自問自答の連続です」」

1947年大熊町生まれ。宮城県農業短大卒。農業を営むかたわら、1991年11月、大熊町議会議員に初当選。町議会議長を経て2007年9月、大熊町長に無投票で初当選。2011年11月、再選。現在2期目。

純農村地帯に誘致した原発が
町の暮しを豊かにしてきた。

――大熊町には東京電力福島第一原子力発電所1〜4号機が立地しています。震災前の大熊町はどんな町だったのでしょうか。

渡辺  大熊町は1954年11月1日に大野村と熊町村が町村合併して現在の大熊町になりました。今年で町制60周年を迎えます。原子力発電所ができるまでは、米などの穀物や、梨などを生産する人口8千人ほどの純農村地帯でした。

 原子力発電所の建設が始まったのは1967年。営業運転したのは1971年です。そこから40年間、原子力発電所と共生してきた実績があります。震災当時の人口は1万1505人でした。

避難を余儀なくされ、手入れがされなくなった梨は小ぶりだった。

――原子力発電所を誘致する際に反対はなかったのでしょうか。

渡辺  反対はありましたが、以前は塩田や陸軍飛行場の訓練所で、もともと不毛の土地でした。当時はまだ「原子力発電は夢のエネルギー」と言われていた時代ですから、「新たな産業、新たな雇用の場が期待できる」ということで大きな反対はありませんでした。他の自治体とは違った形での誘致が進んだと聞いています。

——原子力発電所ができたことで町は変わったのでしょうか?

渡辺  多くの自治体が財政難と人口減少に悩む中、大熊町は1975年からは地方交付税の不交付団体になりました。町民の就業形態も一次産業主体から二次、三次産業が主体に変わり、それにともなって人口も増えました。
 東京電力の社員は少ないのですが、関連企業を含めると、町民の約3分の1が発電所関連の仕事に就いていたと思います。農業のかたわら、兼業で原子力発電所に働きに行く人も多くいました。遅れていたインフラも整備され、公共施設も「1万人の町には豪華すぎる」と言われるほど充実していきました。

——原子力発電所が町の暮しを豊かにしてきた、と。

渡辺  原子力発電所に関わる助成金、補助金は町民の生活を手助けする形で還元するのが基本的な方針でしたから、上下水道の整備、中学生までの子どもの医療費の無料化、出産祝い金、入学祝い金、長寿を祝う100歳100万円制度などもありました。人材育成ということで言えば、海外研修、図書館の整備など、ほぼ町単独で多様な事業にも取り組めました。

大熊町の商店街。「アトム観光」「ブックスアトム」の看板が掲げられている。双葉郡には「パーラーATOM」(パチンコ屋)。「アトム寿司」など「アトム」を冠したお店が散見される。大熊町では「原子力最中」という原発の鉄塔の絵柄をあしらったお菓子も売られていた。

――原子力発電所の事故後、町の財政には変化がありましたか。

渡辺  福島第一原子力発電所の1〜4号機は廃炉が決まっていますが、東京電力には今までどおりの固定資産税を収めてもらっています。核燃料使用税はなくなりましたが、それ以外の原子力発電所関係の交付金等も受けています。特例交付金等もありますから、財政的には困っていない状況です。ただ、今は町民の約96%が居住していた地域が帰還困難区域になっており、町内で仕事をすることができません。今はそうした財源をインフラ整備のための基金に積み立てて、今後の対応に充てる形で取り組んでいます。

国が正確な情報を伝えていたら
盗難被害も拡大しなかった。

――2011年3月11日の東日本大震災発災時の避難状況をあらためて教えていただけますか。

渡辺  3月11日の午前中は中学校の卒業式に出席して、「立派な卒業式だった」なんて言って帰ってきたんです。午後は町議会の委員会がありましたから、震災が起きた2時46分は役場にいました。役場の廊下の天井は落ちて大騒ぎをしたけれども、幸いなことに役場では怪我人は出ませんでした。

――大熊町は海に面しています。震災当初は津波による避難が優先されたのでしょうか。

渡辺  当初は津波による被害に備えて、原発から3キロ圏内の海岸地区の町民に大熊町の総合体育館と大熊中学校の体育館に避難してもらいました。海岸地区以外の町民は自宅に避難していました。

1日だけの避難場所となった大熊町役場傍の体育館。想い出の品一時置き場になっていた(現在は入れない)。

――大熊町の人的被害は、死者112人(直接死11人、関連死101人)、行方不明1人です(2013年12月31日現在)。当初は原発事故に備えた避難ではなかったのでしょうか。

渡辺  原子力発電所の「安全神話」を過信しすぎたという反省はあります。営業開始から40年、いろんなトラブルや事故はありましたけれども、まさか水素爆発という形で敷地外まで放射性物質が拡散するなんてことは考えてもいませんでした。3月11日に「原子力発電所が自動停止した」という一報は入りましたが、「引き続き対応策が取られる。非常事態は起こらないだろう」と思っていました。

――原発事故の対応に変わっていったのはいつ頃からでしょうか。

渡辺  3月11日の夕方頃からです。東京電力から2名の職員が来て情報提供に当たっていたのですが、夜11時頃に東京電力の副社長である武藤栄原子力・立地本部長が「記者会見をやるから役場の一室をお借りしたい」と来たんです。ただ、当時は水素爆発に至るような非常事態だという報告もなかったし、認識もなかった。

——国からの連絡はあったのでしょうか。

渡辺  原子力災害対策特別措置法の10条、15条により、「ベントをする準備がある」という報告はありました。また、「万一に備えてバスを向かわせます」という連絡があり、茨城交通から約60台のバスが大熊町に来ました。自衛隊の搬送車も来ましたが、「念のため」ということでした。「大きな事故にはつながらない」という先入観があったので「明日は消防団の人に来てもらって炊き出しをしよう」と準備をしていたんです。
 非常用の発電装置でテレビは見ていたので津波の状況は入ってきました。しかし、原発に関する情報はなかった。当時の枝野幸男官房長官もテレビで「冷静に対応するように」と発言していました。

東京電力福島第一原子力発電所南側。事故から1年以上経過しても、フェンスに近づくと空間線量は70μSv/hを超えていた。

——実際に全町民の避難を意識したのはいつ頃でしょうか。

渡辺  発電所の状況が一番緊迫したのは3月12日の朝6時前頃です。当時首相補佐官だった細野豪志さんから「町長、今、菅総理から避難指示が出た。協力してくれ」という電話があったんです。役場の2階は災害対策本部になっていましたが、電話を受けても、「屋内退避でいいんでないのか」「本当に指示が出たのか」なんて話していたほどです。ところが駐在所の警察官が「避難指示が出ました!」と役場に来たことで「炊き出しどころじゃない。非常事態だ」とわかったんです。警察は地元の町村よりも早く状況を把握しているんだと思いました。

——3月12日の朝、どこに一次避難をされたのですか。

渡辺  体育館にいる人たちを優先的にバスで田村方面に送りました。その後は行政区ごとに公民館に集まってもらい、バスを振り向けて田村方面に向かいました。第一陣が出発したのが午前8時で、午後2時頃にはほとんどの町民がバスに乗りました。私も受け入れ先自治体に要請するため、議長、教育長、担当課長と5人でバスに乗り、1時過ぎに町から出ました。役場には10人の職員を残しましたが、正直、私も町を離れるときに、2~3日避難すれば戻れるという感覚だったんです。

大熊町役場傍の体育館には、3月12日付けの福島民友新聞が置かれていた。

——住民も着の身着のままで避難したそうですね。

渡辺  あの時、国が「発電所は非常事態です。2、3ヵ月はかかるかもしれません。貴重品、日用品は持ってください」と、正確な情報を迅速に伝えてくれれば対応が違っていたと思います。後になって空き巣被害が多発したんです。早い段階でも160〜170件ありました。「警察に届けても戻ってこないから」とあきらめている人もいました。盗難被害は今でもあります。町民から「帰還するまでに何にもなくなってしまう」という声を聞くと、本当に我々としても責任を感じています。

――原子力災害の訓練はしていたはずですが、その経験は生かされなかったのでしょうか。

渡辺  毎年、国、県、東京電力、地元が参加して訓練をしていましたが、原子力発電所の中で放射能漏れがあったという程度で、全町避難という規模の事故は想定していません。そもそもオフサイトセンターが原発から5キロ圏内に設置されていたために全く機能しなかった。すべてが想定外でした。
 ただ、震災当時は町民の避難を再優先したので、3月12日午後3時半頃に1号機の水素爆発が起きた時には、ほとんどの町民がバスに乗って第一次避難場所にいたか、バスでの避難途中でした。最後まで残っていた職員は「これは危険だ」と外に出てボカンという音を聞いた。不幸中の幸いですが、結果的に町民の被ばくは少なく抑えられたという思いはあります。

福島県原子力災害対策センター。いわゆる「緊急事態応急対策拠点施設(オフサイトセンター)」。原発から5キロの距離にあり、機能しなかった。

——大熊町は最初に避難した田村市から、二次避難で会津地域といわき地域に避難しました。今、避難されている方の割合は会津地域といわき地域ではどのくらいなのでしょう。

渡辺  当初は会津に避難する人が多かったのですが、今は会津地域が約2400人。いわき地域が約4000人になっています。
 原発事故の収束作業に携わっている人たちが「会津からは通えない」ということで、いわき市に住む場所を確保しているからです。大熊町に住んでいた頃もいわき市は生活圏内でしたし、気候も似ています。どうしてもいわき市に人が集まるんです。

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