週刊通販生活トップページ  >  読み物:フクシマの首長【第3回】浪江町 馬場有町長(1)

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福島第一原発の事故からもうすぐ3年。いま、福島では何が問題になっているのでしょうか。自治体の長として住民の課題に向き合う方々に話を伺っていきます。(取材・文・写真/畠山理仁)

第3回-浪江町 馬場有町長「『みなさんは浪江町民のようになる覚悟はありますか』と問いかけたい。原発事故をどうか風化させないでください。それが私たちの励みになると思っています」

ばば・たもつ/1948年浪江町生まれ。東北学院大学経済学部卒業。浪江町議会議員、同議長、福島県議を経て2007年12月、浪江町長に初当選。2011年11月、再選。現在2期目。

震災直後、東電や県からの情報は
ほとんどありませんでした。

――浪江町は双葉郡で一番人口が多い町で、2011年3月11日の東日本大震災時には2万1434人が暮らしていました。しかし、原発事故後は全町民が避難生活を余儀なくされています。震災前はどんな町だったのでしょうか。

馬場  「海と緑にふれあう町」が町のキャッチフレーズでした。町の鳥はかもめ、花はコスモス、木はアカマツ。自然豊かな町です。

――町の主要産業はどのようなものでしたか。

馬場  浪江町の総生産額は年間600億円ありました。そのうち製造業等が400億円、サービス業が100億円です。これに農林水産業や、350年前から続いている窯業の大堀相馬焼の10億円をそれぞれ合わせると600億円になりました。

大堀相馬焼の窯元。器は震災で倒れたままになっている。

 原発の建設が始まった昭和40年代半ばまで、浪江町の産業は農業が主体で出稼ぎに出る人が多かった。原発ができると出稼ぎをしなくてよくなり、兼業農家が増えました。町民のうち2500人~3000人が原子力発電所関連の会社で働いていました。原発の経済効果は確かにありました。

――津波による被害が甚大だった請戸地区には漁港もありました。

馬場  請戸漁港の年商は約10億円でした。請戸港は小さな漁港ですが、約150杯の漁船があり、アイナメ、ヒラメ、メバル、シラウオなどの高級魚を水揚げして築地に出していました。しかし、津波で残ったのはわずか6杯ほどです。製造業のうち、一部上場企業は3社ありましたが、原発事故後にすべて県外に移転してしまいました。原発事故で全てがダメになってしまったんです。

請戸地区の夕暮れ。現在は避難指示解除準備区域。

――東日本大震災による浪江町の被害状況を教えて下さい。

馬場  浪江町の震災、津波による死者および行方不明者は182名です。これだけでも大変な被害ですが、避難生活を送る中での体調不良などが原因で亡くなる「震災関連死」は2014年2月19日現在で317名になりました。
 現在、町民は福島県内に1万4640名、福島県以外の45都道府県に6442名、海外に7名が避難しています。自治体の数でいうと620自治体にお世話になっています。浪江町には小学校が6校、中学校が3校ありましたが、現在は699校に区域外就学をしています。この数字を見ても本当に町がバラバラになってしまったということがわかると思います。社会の絆も崩壊されましたし、生業も奪われてしまいました。

――震災当時の避難状況はどのようなものだったのでしょうか。

馬場  3月11日の午後2時46分に地震が起きた時、私は役場の町長室で会議を開いていました。それから数分後にJアラート(全国瞬時警報システム)で大津波警報のアラームが鳴ったので、2時50分には災害対策本部を立ち上げてハザードマップに則った津波の避難指示を出しました。役場の職員が広報車を出して沿岸部の方々を避難誘導しました。消防や警察にもお願いしました。
 3月11日には私も町民の方々を励ますため、町内の被害を確かめるため歩きましたが、津波に被災し助けを求める方々が多くいました。屋根の上に上がったり、腰まで水に浸かったりしながら助けを求める人達を助け、夜10時半頃まで救助活動を続けました。当時は余震もひどく、川も増水していたため二次被害の危険もありました。そこで翌朝明るくなってから捜索を再開しようとなったんです。

請戸地区。津波で流された車や農機具は今もそのまま。殉職した警察官が亡くなった場所には花が手向けられている。

――この時点では震災、津波による避難だったのですね。

馬場  ところが翌3月12日の朝5時44分頃、私が役場の災害対策本部でテレビを見ていると、首相官邸の記者会見で「福島第一原発から10キロ圏内の方は避難して下さい」という発表があったんです。これを私が見たのは全くの偶然でした。テレビを見て、初めて町が避難エリアであることを知りました。

――国からは事前に連絡がなかったのでしょうか。

馬場  国、県、東京電力から町へは一切連絡がありませんでした。福島第一原発から10キロ圏内には約1万6千人の町民が生活していました。あわてて消防車や広報車を出して、苅野小学校、大堀小学校、やすらぎ荘といった10キロ圏外の公共施設へ避難していただいたんです。前日には「一夜明ければ津波の被害に遭った人も助けられるかもしれない」と思っていましたから、後ろ髪引かれる思いで10キロ圏外への避難を呼びかけました。ところが12日午後3時36分に福島第一原発1号機が水素爆発したんです。「これじゃあダメだ」と思いました。

浪江町請戸地区からは東京電力福島第一原子力発電所が見える。

――3月12日午後6時25分、福島第一原発の避難指示は半径20キロに拡大されました。

馬場  浪江町の西側、山間部の津島地区には役場の津島支所があります。原発から27キロ離れているため、ここに避難すれば事故から逃れられるだろうと避難しました。ところがこれは後からわかったことですが、爆発した原発からの放射能が、私どもの避難経路を追いかけるように降っていたんです。そのため津島に避難していた1万1千人ほどの浪江町民は、軽度ではありますが被ばくをする結果になりました。

――津島地区にはいつまで避難していたのでしょうか。

馬場  津島地区には3月15日まで約1万1千人が避難していました。3月14日11時ごろには3号機が水素爆発し、15日朝6時頃には2号機、4号機も爆発しました。「これ以上はもうダメだ。もっと遠くへ避難しよう」ということで、3月15日朝7時に二本松市の三保恵一市長(当時)をたずねて避難したいとお願いしました。すぐに避難所を40か所ほど用意してくれたので、午前10時からピストン輸送で西隣の二本松市に避難していきました。
 この避難にともなって役場機能も3月15日に津島から二本松に避難しました。東京電力の社員が来たのはそこが初めてです。職員は二本松市出身の福島支店の社員。2012年10月、現在の浪江町役場二本松事務所ができるまではずっと常駐していました。
 震災以降、役場の移転だけでも4回です。浪江町の本所から津島支所、二本松市の東和支所、二本松市の男女共生センター、そして現在の二本松事務所です。

二本松市内にある浪江町役場二本松事務所。2012年10月にこの場所に移転した。

――東京電力福島第一原子力発電所から浪江町役場までは直線距離で約8・6キロメートル。町内には10キロ圏内の地区もありますが発電所自体は立地していません。原発立地自治体とは対応が違ったということでしょうか。

馬場  東京電力とは平成10年に通報連絡協定を結んでいました。原発に何か問題が起きた時は、立地町でなくても必ず電話・ファクスで連絡するということでしたが、協定は全く反故にされました。津島地区への避難、二本松市への避難についても、テレビ・ラジオの情報に基づいて町の災害対策本部で独自に決めていったのです。東京電力の言い分は「連絡していたけれどつながらなかった」ということでしたが、津島の支所に役場機能があるのをわかっていて連絡を寄越さなかったのは大きなミスです。東京電力は車で役場に来るべきだったと思います。

――仮にSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の情報が知らされていたら、津島地区への避難はなかったということでしょうか。

馬場  SPEEDIのことは、事故が起きた後にマスコミから聞かされました。新聞に出て、「これはなんなんだ」と思いました。福島県の職員からは2011年5月の連休過ぎに「実はSPEEDI情報があったけれども解析できなくて机に置きっぱなしでした。申し訳ない」と言われました。

――福島県は3月13日の段階でSPEEDIの情報を把握していたはずです。

馬場  公開しなかった理由は、放射能の放出量が正確にわからないということが一つ。もう一つは、もしそれを知らせたらパニックが起きるだろうということで知らせなかったというのが国の言い分です。私は怒りましたよ。「人の命をどう思っている。殺人鬼か」と。

福島県立浪江高等学校津島分校のグラウンドに設置されたモニタリングポスト。8.798マイクロシーベルト毎時を表示。2013年6月撮影。

――文部科学省は3月15日夜にモニタリングカーを走らせ、大柿ダム上流の川房、昼曽根周辺など津島地区近辺で計測しています。

馬場  その情報も当時は全然知らされていませんでした。津島地区が線量の高い地域だとわかったのは、震災から1か月近く経ってからです。文部省から委託されたJAEA(日本原子力研究開発機構)の職員が12日以降モニタリングをし、1万人以上避難している津島地区が高い線量を記録していることを把握していながら、我々は何の情報も知らされませんでした。当時、津島地区近辺で計測された放射線量は、毎時270~300マイクロシーベルトぐらいの高いところもあったそうです。一番高いところの累積放射線量は、震災以降で300ミリシーベルトにもなっています。

――避難区域の再編は2013年4月に行なわれました。浪江町の帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域の割合はどうなっているのでしょうか。

馬場  帰還困難区域に住んでいた人は3800人。居住制限区域が4千人。避難指示解除準備区域に住んでいた方は1万4千人です。現在までに浪江町内で業務を再開した企業は、自動車整備業や電気工事業、警備業、ガソリンスタンドなど9社あります。ただ、上下水道の復旧は遅れており、多くの行政区で除染は手付かずの状態が続いています。

出典:経済産業省のウェブサイト

帰還困難区域…放射線の年間積算線量が50ミリシーベルトを超え、5年間を経過しても年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らないおそれのある地域。
居住制限区域…放射線の年間積算線量が20ミリシーベルトを超えるおそれがあり、引き続き避難の継続を求める地域。
避難指示解除準備区域…放射線の年間積算線量が20ミリシーベルト以下となることが確実であると確認された地域。

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