週刊通販生活トップページ  >  読み物:原発賠償関西訴訟原告団代表 森松明希子さんインタビュー。

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「原発事故の被災者には、避難する権利、とどまる権利、帰還する権利が認められるべきです」取材・文/片山幸子(エディ・ワン)撮影/テラサカトモコ

森松明希子(もりまつ・あきこ)1973年、兵庫県生まれ。大阪府大阪市在住。福島県郡山市在住中に東日本大震災に被災。2011年5月から、大阪市へ母子避難。原発賠償関西訴訟原告団代表。

中から見た福島は、
外から見た福島とは大きく異なる。

――森松さんご自身は、福島県の郡山市から避難されているんですよね。

森松 2011年の5月に、当時3歳の長男と0歳の長女と一緒に、大阪府に母子だけで避難してきました。
 でも、避難をすると決めて郡山を離れたわけではなかったんです。

――と言うと?

森松 震災で住んでいたマンションの給水タンクが壊れ、家中が浸水し、家財道具も全てだめになってしまいました。着の身着のまま避難所へ身を寄せたんですが、何とか一家四人の命は助かったので、郡山で生活を再建しようとしていました。
 たまたま、2011年のゴールデンウイークに、子どもを連れて関西の私の実家に帰省したのですが、そこで見たテレビの報道に、すごく衝撃を受けたんです。それを見てようやく、実家の家族の言うことが腑に落ちたと言うか。

――何と言われていたんですか。

森松 震災後、実家の家族はみんな、「早く福島を出なさい」と言っていたんです。
 でも私は、この人たちは何を言うんだろうと思って、あまり真面目に取り合っていませんでした。被ばくに対する漠然とした恐怖があったとはいえ、その報道を見るまでは避難しようとは思ったこともなかったのですから。

――具体的には、どういう内容の報道だったのですか?

森松 原子力施設で起きた事故の深刻度を示す国際原子力事象評価尺度(INES)で、福島第一原発の事故は、最も深刻度の高いレベル7とされたという報道でした。同じくレベル7と評価されたチェルノブイリでは、事故後20年以上が経過しても健康被害が絶えないことなども、その報道で始めて知りました。
 当時、福島県内で報道されることと言えば、どこの学校で授業が再開されましたとか、流通が元に戻ってきましたとか、復興に関するものが圧倒的に多かったんです。原発事故に関する報道で、しかも危険を知らせる報道なんて、少なくとも私は見たことがなかった。
 福島第一原発事故の深刻度を伝えるその報道を見て、「もう福島には帰れない」と思いました。
 郡山で生活を再建しようと思っていたのは事実なんです。一方で、郡山での生活に強烈な違和感があったのも確か。

――どんな違和感だったんですか。

森松 原発事故後の4月、長男は幼稚園に入園したのですが、制服を着せることができたのは入園式の1日だけでした。入園式の翌日からは、長そで長ズボンの服を着用するようにと言われたのです。
 それから、数日後には幼稚園からマスクが配られ、外出時にはマスクを着用させるようになりました。外遊びもさせられないので、週末になると、ブランコやすべり台があるだけの普通の公園で1時間ほど子どもを遊ばせるためだけに車で県外まで行っていました。
 娘は、できる限り外に出さないようにしました。徒歩5分の距離にある幼稚園に息子を送迎する時も、家に一人で残していました。寝返りができるようになった娘に、「寝返りしないでね」と言い聞かせ、窒息させないようにと周りをきれいに片づけて、まだ0歳の娘を一人で自宅に残して、大急ぎで息子の送迎をしていました。
 もう、何が普通で、何が普通でないのかが、分からなくなっていました。子どもを被ばくさせないための暮しにはいろんな制約があり……。「一体いつまでこんな暮しが続くんだろう」。そんな先行きの見えない不安がありながらも、郡山で生活を再建するために、必死でした。

――それでも、避難をしようとは思わなかったのですね。

森松 そこが、福島を中から見るか、外から見るかの圧倒的な違いだと思うのです。福島県内で生活していると、日頃どれだけ苦労して放射能と闘っていても、「避難しよう」とまでは、あまり思えないんです。放射能があることは分かっていても、他の地域と比べてどれだけ汚染されているのか、というような情報が手に入りにくいからです。
 客観的な情報が少ない中で生活を続けるうち、放射能に汚染された地域で暮すということに折り合いをつけざるをえなくなる。それは、簡単に言えば「慣れ」です。目に見えない、触ることもできない放射線の中で暮すということは、そういうことなのです。

――だからこそ、「外から見た福島」は衝撃的だったのですね。

森松 はい。まさに「私が知りたかったのはこの情報だ」と思いました。今まで抱いていた違和感に、はっきりとした答えが出された感じだったんです。
 その報道を見て、その日のうちに郡山の夫に電話し、母子避難することを決めました。最初、夫は驚いてはいましたが、わが子を守るためならばと、反対はしませんでした。
 その日から、母子避難生活が始まりました。

母子避難を続けるのかどうか。
今でも、毎日のように悩んでいる。

――ご主人は、今も郡山市に住まわれているんですよね。

森松 はい。仕事の都合もありますし、一家四人で一緒に暮したくても、当分は難しそうですね。

――郡山と大阪との二重生活で、ご苦労されるのはどんなことですか。

森松 夫の暮す家と、私たちの暮す家とで、2軒分の家賃がかかるうえ、水道光熱費なども2軒分なので、生活費の負担は大きいですね。夫が子どもに会いに来る時の往復の交通費もばかになりません。

――母子避難による二重生活の原因は、原発事故ですよね。国や東電からの補償はありますか。

森松 郡山市は、国が指定する「避難指示区域」ではありませんから、私たち親子は「自主避難者」とされます。自主避難者の場合、避難費用や、避難生活にかかる費用は補償されません。

――経済面以外では、どんなご苦労がありますか。

森松 自主避難者が必ずしもそうであるわけではありませんが、私たち親子は、住民票を移動していません。住民票を大阪に移すと、県民健康調査の通知などが届かなくなるかもしれない。福島県は、事故当時福島県内に住んでいた子どもに関しては、追跡調査をするとしていますが、避難先に住民票を移動した避難者の中には、通知が届いていない方もいるのです。 ですが、もう2年以上、大阪に暮していますし、私も大阪で仕事をしているのに、行政サービスが受けられずに困ることがありますね。

――具体的には?

森松 私が働き出した時に、長女の預け先を探していたのですが、住民票が大阪にない、という理由で、保育所の入所手続きすらできなかったんです。郡山と大阪の市役所に掛け合っても、「できません」と言われるばかりで。
 何とか自分で、特別な事情がある場合には、住民票のある自治体以外の保育所に子どもを入所させることができる「広域入所」という制度があることを調べて、入所手続きをしました。
 今年の4月には、長男が小学校に入学しましたが、やはり手続きはスムーズにいきませんでした。
 この時も、郡山と大阪の市役所へ行って事情を説明し、ようやく大阪の小学校への入学が認められました。

――総務省は、原発事故の避難者に、避難先自治体へ「避難者登録」をするように勧めていますね。登録をしても、行政サービスなどは受けられないのですか。

森松 避難者登録はもちろんしていますが、実際にはあまり役に立っていませんね。何のための登録なのか、と思うことも多々あります。

――ご主人とは、月に何度くらい会えるのですか。

森松 だいたい、3週間に1度くらいですね。夫が子どもの顔を見ずに過ごせるのは、3週間が限界みたいなんです。もっと頻繁に会えればいいんですが、郡山から大阪までの往復交通費や、夫の仕事の都合も考えると、厳しいですね。
 母子避難を始めた時、息子は3歳、娘は0歳でした。2人ともこの3年間で本当に大きくなりました。特に娘は、避難先で歩けるようになり、言葉を話すようになりました。

――そういう時期に、父親がお子さんのそばにいられないのは辛いですね。

森松 そうですね。子どもたちも、まだまだ父親に甘えたいだろうに、我慢をさせてしまって……。
 最近、息子は父親との別れ際に、泣くのを我慢するようになりました。ぐっと涙をこらえ、父親の背中を、いつまでもいつまでも見送っているのです。父親と一緒に暮した記憶がないであろう娘も、父親と離れて暮すことのさみしさを理解し始めたのか、父親との別れ際には、私にぎゅっとしがみついて、うつむくようになりました。
 母子避難は、最愛の子どもたちを守るために、夫婦2人で決めたことです。でも、避難生活を始めて3年以上が経った今でも「明日も避難を続けるのか」と悩みます。子どもに辛い思いをさせたくない。子どもの健康を守りたい。二つの思いはいつも私の中で攻めぎ合いますが、親である私は、子どもの健康を選ばないわけにはいかないのです。

9月18日から、関西の避難者が
国と東電を訴える裁判が始まります。

――9月18日には、いよいよ「原発賠償関西訴訟」が始まりますね。森松さんは、裁判でどんなことを訴えますか。

森松 原発事故の被災者には、被ばくから免れ、健康を享受する権利があるということが認められるよう、訴えます。そのうえで、被災者が「避難する権利」、被災地に「とどまる権利」、避難先から「帰還する権利」を行使するのに必要な施策が講じられるよう、訴えます。

――裁判で認めさせたいのは「避難する権利」だけではないということですね。

森松 そうです。もちろん、高濃度の放射能に汚染された地域では、国による避難指示は必要です。でも、避難指示区域以外の住民には、避難するか、留まるのかを自分で選択する権利が認められるべきです。
 私は、子どもたちを守るために自主避難してきましたが、決して経済的な余裕があったから避難をしたわけではありません。なんとか郡山で生活をしていけないかと、最後まで考え抜いた結果、避難をせざるをえないという決断をしたのです。ですが、被災地に留まっている人たちが、子どもを守っていないとは決して思いません。私自身、震災後の2ヵ月間、放射能汚染地で子育てをするということがどんなに大変かを経験しているのですから。
 放射線被ばくから免れて健康を享受するという権利を被災者が行使するためには、まずは「避難する権利」が認められなければいけません。ですが、その土地で築き上げた人間関係などを断ち切って避難するのは、本当に高いハードルなんです。なので、放射線被ばくのリスクについて正しく知らされたうえで、被災者本人が被災地に留まる決断をするのなら、その決断は尊重されるべきだと思います。避難先からの帰還についても同様です。

――「とどまる権利」と「帰還する権利」ですね。

森松 そうです。ですが、被災地で生活することを選択した人に、被ばくをおしつけるようなことがあってはいけません。被災者がどんな選択をしようとも、放射線被ばくの恐怖から免れ健康を享受する権利が侵害されないようにするには、国の支援が必要です。
 原発事故の真相を究明し、国の法的な責任を明らかにするよう訴え、原発事故の被災者が被ばくから免れるために必要な支援を受けられるように求めることも、今回の訴訟の目的です。
 私たち被災者が何よりも求めているのは、被ばくから免れるために必要な具体的な施策です。「原発事故子ども・被災者支援法」(注)の当初の理念に基づいた具体的な支援策の実施こそが、この裁判の真の目的なのです。

(注)原発事故子ども・被災者支援法……2012年6月に全会一致の議員立法により成立。福島県外の人であっても、福島第一原発事故によって被ばくした人は生涯健康診断を受けられることや、法律の運営には被災者の声を取り入れることなどが定められた画期的な法律だったが、具体的な施策や支援対象地域を決める基本方針の策定は1年以上先延ばしにされた。2013年の10月にようやく決定された基本方針には、被災者の声はほとんど反映されておらず、支援対象地域が福島県の33市町村に限定されるなど、当初期待された支援法の姿とは大きく異なる。

――事故の損害賠償については、どのように訴えますか。

森松 今回の裁判では、私たち原告団は損害の完全賠償を求めています。けれど、この裁判の真の目的は賠償ではなく、被ばくから免れるために必要な支援策の実施です。原発事故が奪ったものはあまりに大きく、一番返してほしいものは、もう返ってはきません。特に、外を駆け回って遊ぶという子どもらしい生活を奪われたり、避難によって大好きな友だちや家族と離れて暮さなければいけなくなったりした子どもたちの受けた被害はお金に換算できるものではないのです。
 避難するにせよ、留まるにせよ、原発事故前と同じ暮しができている人は一人もいません。損害賠償請求訴訟を起こすということで、人から非難されることもありました。ですが、この事故で「家族4人で暮したい」という平凡な願いを奪われた私自身が、「家族4人で暮せないこと」に値段をつけなければいけなかったのです。その苦しみを、どうか分かってください。

原発賠償関西訴訟関西サポーターズ
http://kansapo.jugem.jp/
原発賠償関西訴訟の原告団を支援している。

原発は、人の命や健康以上に
守られるべき大切なものなのですか?

森松 「普通の主婦だった森松さんが、原告団の代表になるという決断を、よくされましたね」とよく言われるのですが、私はその決断以上に、もっと大きな決断をすでにしています。

――もっと大きな?

森松 震災後、郡山の水道水からは放射性物質が検出されましたが、その水を子どもに与えました。
 震災直後は、食料も、なんとか息子に食べさせるのがやっとという状態でした。でも、避難所には水道水があるから、私が水さえ飲んでおけば、娘に母乳をあげられる、助かったと思っていました。
 なのに、その水には放射性物質が入っていたんです。テレビのニュースでそれを知った時、言葉が出ませんでした。
 でも、水道水から放射性物質が出ていると分かっていても、どうすることもできませんでした。流通も十分に回復していない状況では、ペットボトルの水を買うことすらできなかったんです。
 飲みたくないと思っても、飲まないわけにはいきません。私たち夫婦は、子どもの将来の健康リスクを覚悟してでも、放射性物質の入った水道水を与えざるをえないという、決断をしたのです。
 その水を飲んだ後、母乳を娘に与えましたし、息子がのどがかわいたと言えば、その水を飲ませました。

――…………。

森松 こういう話は、あまり知られていませんよね。でもこの決断は、私たち夫婦だけの決断じゃない。郡山には当時、留まっている住民がたくさんいたんですから。
 これが、被ばくと直面するということです。現実に起きていたことなんです。世の中の人はあまりにも原発事故の真実を知らな過ぎる。

――原発事故の真実……。

森松 そうです。できれば、放射性物質の検出された水を子どもに飲ませたなんてことは、誰にも言いたくなかったし、実際、震災後の2年間は、誰にも言えませんでした。
 だけど、地震大国の日本には、54基もの原発があって、今回の事故は、たまたま福島第一原発だっただけです。日本中の人が、明日は我が身なんです。
 それなのに、原発事故はどんどん社会から忘れられ、風化が進んでいます。それどころか、原発再稼働の話も動きだしている。今回の訴訟では、事故を経験した大人の責任として、原発事故の真実を訴えたいです。そして、社会に問いかけたい。自分のこととして考えた時、本当にこれでいいと思えますか?と。
 人の命や健康よりも守られるべき大切なものはないのです。原発事故後、郡山に留まっていても、大阪に避難しても、ずっと苦しみが続いた生活の中で確信したことです。人の命や健康が守られないのなら、それは基本的人権の侵害に他なりません。その意味で、私は今回の訴訟を、基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」と定めている憲法に基づいた、人権救済訴訟だと考えています。
 被災者でなくても、原発事故後を生き抜く全ての人には、放射線被ばくから免れ健康を享受する権利が、どんな人にも等しく認められる社会をつくる責任があるはずです。
 原発事故の真実から目をそらさず、この〝人権救済訴訟〟のゆくえを、どうか自分のこととして見守って下さい。

森松さんの著書『母子避難、心の軌跡 家族で訴訟を決意するまで』(かもがわ出版、定価1400円+税)。震災直後の郡山市での暮しから、訴訟に至るまでの経緯を森松さん自身の言葉で書いた手記。

原発事故被災者支援関西弁護団
http://hinansha-shien.sakura.ne.jp/kansai_bengodan/
原発賠償関西訴訟の弁護団。

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