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福島原発告訴団団長・武藤類子さんインタビュー「司法の場で、原発事故の責任を問うこと。それが、私たち被災者が前に進んでいく第一歩になると考えています」

福島第一原発事故における国や東京電力の責任を追及するため、昨年福島地検に告訴状を提出した「福島原発告訴団」。告訴に踏み切った思いや背景、そして今後の見通しについて、告訴団団長の武藤類子さんに伺いました。●聞き手・構成/仲藤里美(ライター)撮影/吉崎帰幸

事故の責任が問われなければこの国は変われない。

 昨年6月、福島県民1324人による「福島原発告訴団」が、東京電力幹部、原子力安全委員会の関係者や学者など33人を業務上過失致死傷害容疑などで起訴するよう求める告訴状を福島地検に提出しました。武藤さんはその告訴団団長を務められていますが、デモや署名集めなどでなく、「告訴」という形に踏み切った経緯を教えていただけますか。

武藤 告訴団を結成したのは、福島第一原発の事故からちょうど1年が経った2012年3月です。今まで誰も経験したことのないような大きな事故が起こったにもかかわらず、1年経ってもその責任がどこに、誰にあるのかはいっこうに明らかにされませんでした。東電は「自分たちには除染の責任はない」と主張し、被害者への補償の範囲も東電自身が決めるという。一方で早くも別の原発では再稼働が言われるなど、何もかもが納得のいかないことばかりだったんです。通常、企業の所有する施設で事故や事件が起これば、すぐに捜査機関が証拠押収のための強制捜査に入るのに、それが東電に対しては行なわれないことも、とても不思議でした。
 一方で、事故という人災によって人々が生活を根こそぎ変えられて、無用な被ばくをさせられてきたという現実がある。その責任の所在が明らかにされないままなのは、やっぱりどう考えてもおかしいと思いました。それで、以前から脱原発の活動を一緒にやっていた仲間たちとともに、告訴団の立ち上げを決めたのです。自分の責任で人を刑事罰に問うのですから自分の覚悟も問われますし、とても勇気のいることではありましたが……。

──それでも決意されたのはなぜですか?

武藤 過去に多々あった公害問題などを見てもわかりますが、政府や大企業が被害者や、弱い立場の人たちをきちんと救済しようとすることはありませんでした。もともと、日本という国は国民を大切にしていないと思っていました。でも、これだけの大事故が起こったんだから、少しはこの国も変わるだろう、国民を守るために政府は動くだろうと、私も多少期待していた部分があったんですね。ところが、実際にはそうならなかった。事故の責任がきちんと問われない限り、この国は変わらないのではないか、ここで声をあげなければこのまま国民は黙らされてしまうのではないかと思いました。

──呼びかけに応えて告訴人として参加されたのは、どんな人たちですか。

武藤 若い方から年配の方まで、本当にさまざまです。小さな子どものいる親御さんは、やはり子どもの健康被害をとても心配されていました。もっと上の世代では、自分たちが便利さに流されて原発に頼り続けてきてしまったことに対する後悔とともに、それを自分たちの責任でなんとかしていかなくてはならない、ということを口にされる方もいらっしゃいました。あと、小さい子どもも何人か告訴人になってくれています。陳述書には「突然引越しをしなきゃならなくなった、友達と離れてしまって寂しかった」と書いてくれていましたね。

──告訴状提出後のインタビューでは、「(告訴を)県民が再び一つにつながるきっかけにしたい」「(告訴が)私たち被災者が前に進んでいく第一歩」とおっしゃっていました。

武藤 告訴団を立ち上げた昨年3月ごろにはすでに、福島の中で、県内に残った人と避難していった人、あるいは県内にいる人の中でも放射能の危険性を気にする人と気にしたくない人という構図の「分断」が生まれてきていました。それぞれに選択した道は違っても、せめて「責任の所在を問う」という一点で一致することで、県民同士がなんとか再びつながることはできないだろうか、という思いがあったんです。
 それから「前に進んでいく第一歩に」と考えたのは、告訴が「自分が被害者であること」を再確認し、受けた被害や今置かれている状況を見つめ直す一つのきっかけになるのではないかと思ったからです。陳述書を作成し、自分の中に渦巻いている怒りや悲しみを文章化することで、今後その怒りをどこに向けるかを考えるという次のステップに進めるのではないか、そのための力を取り戻せるのではないかと感じたんですね。

結果よりも「声をあげる」ことに意味がある。

──さらに昨年11月には、第二次告訴として1万3262人分の告訴・告発状を福島地検に提出されました。第一次告訴のときと違い、県外の人たちにも告訴・告発人としての参加を呼びかけられたのはなぜですか。

武藤 第一次告訴の活動を進めているときから、福島県外の方の「私たちも原告になれないか」という声をたくさんお聞きしていたんです。実際、放射能は県境で止まるわけではないし、食べ物などを通じてもどんどん拡散されていく。その意味では、日本中の人がこの事故によって影響を受けた被害者なんです。だから、これを福島だけの問題にするのではなく、日本全国の人に「当事者」として、一緒に取り組んでもらいたいと思ったんですね。

──呼びかけを始めてみての反応はいかがでしたか。

武藤 全国10ヵ所に事務局をつくって、そこを拠点に150回以上の説明会を開催したのですが、集まった方からは「事故の責任を明らかにしたい」という、とても強い気持ちを感じました。最終的には、北海道から沖縄まで全都道府県から告訴・告発人になってくださる方が出ました。
 なかには「本当に自分が被害者として発言していいのか、自分たちはむしろ原発に依存し続けてきた加害者ではないのか」という方もいらっしゃいましたが、そういう方には「だからこそ告訴に参加してほしい」とお話ししました。私も、そうした視点はとても大事だと思います。でも、実は加害性というなら、原発誘致を受け入れてきた福島県民にだってあるわけです。だれもが加害性を持っている。だからこそ、きちんと責任を問い直して、新しい価値観の社会をつくるために一歩を踏み出すことが、私たちの責任の取り方ではないかと思うんですね。

──第一次告訴は昨年8月に、第二次告訴は11月に福島地検に正式受理されました。その後、何らかの進展はあったのでしょうか。

武藤 福島地検は、東京地検にも応援を要請して事情聴取を始めました。東電の勝俣恒久前会長や清水正孝元社長の聴取も行なわれたようです。地検からはそうした連絡は一切ないので、新聞などの報道で確認するしかないのですが……。ともかく、いまだ強制捜査には至っていないということで、今年に入ってから「厳正な捜査と起訴を求める緊急署名」を呼びかけ、2ヵ月半ほどで10万7000筆以上の署名を集めて、東京地検と福島地検に提出しました。

──司法関係者などからは、実際に起訴される可能性は低いのではないかという声もあります。

武藤 そこは検察の判断なので、現時点ではなんともいえません。もちろん楽観はできない厳しい状況ではありますが、だからこそ証拠になる可能性のある資料を意見書として提出するなど、できることをやるしかないと思っています。
 また、起訴に至らなかった場合は、検察審査会に訴えることなども視野に入れていますが、結果そのものよりも、「被害者が自ら声をあげる」ことが、今の状況ではとにかく大事だと考えています。特に福島では、事故そのものもまだ収束していない中、みんなものすごい不安と恐怖の中で暮している。住民の間の分断も複雑化して、非常に「声を出しにくい」状況がつくられているんです。でも、だからこそあえて声を出し続けないと、本当に封じ込められて終わりにされてしまうのではないかという懸念がある。その意味で、告訴という形で「被害者が声をあげる」ことの意味は、非常に大きいと思うのです。

沖縄の「強さ」に触れて力づけられる思いがした。

──武藤さんは、チェルノブイリの事故を機に原発の問題に関心を持たれたと伺いました。

武藤 それまではまったく知識もなかったのですが、事故をきっかけに本などを読んで勉強するうちに、原発はウラン採掘の時点から被ばく者を生み出すなど「被ばく」を前提とした、人の犠牲の上に成り立った発電システムだということに思い至りました。地元で「脱原発福島ネットワーク」という団体をつくって活動するほか、3・11の直前には、稼働から40年を迎えた福島第一原発の廃炉を求める「ハイロアクション」という運動も立ち上げようとしていました。

──しかし、そこで原発事故が起こった。武藤さんご自身の生活も、それを境に大きく変わってしまったのですね。

武藤 自然と調和した暮し、可能な限り食べ物やエネルギーを自給していくという暮しがしたくて、2003年に福島県田村市で里山喫茶「燦(きらら)」を始めました。独立型のソーラー発電設備を取り付け、薪や炭も使って、最低限のエネルギーで暮す。どんぐりを拾ってきて食べたり、野草を摘んでお茶にしたりと、季節の山の幸をいただく。そういう生活をしながら、訪れてくれるお客さんに「自分たちの暮しをもう一度考え直そう」という提案をするためのお店でした。原発の問題についてもみんなで考えていこうということで、勉強会をしたり、太陽熱を利用して調理する「ソーラークッカー」の作り方のワークショップを開いたり。
 でも、3・11の後はそうした暮しは一変してしまいました。ソーラー発電は今も続けていますが、薪は放射能汚染で使えなくなってしまったし、家の周りで取れた山菜や野草を食べることもまったくできなくなりました。飼っていたミツバチの蜂蜜からも、それほど高濃度ではないけれど放射性物質が検出されましたし……。少なくとも同じ場所での店の再建は難しいということで、ちょうど開店から10年を迎えるはずだった今年4月26日に廃業届けを出しました。

──今年3月には、告訴団の活動の一環で沖縄へも行かれたと伺いました。沖縄も今、普天間基地へのオスプレイ配備や辺野古への基地移転などで大きく揺れ動いていますが、現地を訪れての感想を最後にお聞かせください。

武藤 沖縄では、地元の方に案内していただいて、普天間基地や辺野古、ヘリパッド建設が進む高江などを訪れました。沖縄の土地に基地が占める割合の大きさも実感したし、オスプレイが低空飛行する様子も目にして、いろいろなことを考えましたね。
 これまでも、基地の問題などに関心がなかったわけではないけれど、現地に行ってみないと見えないことはたくさんあると改めて感じたし、福島についても多分そうなんだなと思いました。沖縄だけの問題、福島だけの問題として封じ込められてしまいがちだというのはどちらも同じだと感じたし、国策によって苦しめられているという共通項も見えてきました。それから、ずっと基地問題に取り組んできた人たちの話を聞いて、いろんな苦しみがある中で、それでも生き続けてきた沖縄の「強さ」のようなものも感じました。私たちも生き延びていかなきゃと、力づけられるような思いがしましたね。
 沖縄の歩みを見ていても、何か一つのことをやって状況が一挙に変わるなんてことはなかなかないと感じます。でも、チェルノブイリの事故を機に原発にノーを言いはじめた人たちがいて、3・11を経てまた同じように動き出した人たちがいるわけで……。本当に少しずつでも、人は進化していく。私たちが生きている間に世界中の原発がなくなることは、もしかしたらないかもしれないけれど、せめて今後自分たちがどういう方向を向いて生きていくのかの道筋はつけたい。そこのところを今、私たちは問われているのかもしれないという気がしています。

武藤類子(むとう・るいこ)1953年、福島県生まれ。福島県三春町在住。和光大学卒業、版下職人、養護学校教員を経て、2003年に里山喫茶「燦(きらら)」を開店。チェルノブイリ事故以来原発反対運動に携わる。現在「ハイロアクション福島」事務局、福島原発告訴団団長。福島原発告訴団の詳細はホームページで。

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