週刊通販生活トップページ  >  読み物:映画『遺言 原発さえなければ』監督 豊田直巳さんインタビュー

カタログハウスの公式通販サイト

「原発によって失われた命がある。それでも推進していくのか? と問いかけたいのです」

豊田直巳(とよだ・なおみ)1956年、静岡県生まれ。日本ビジュアルジャーナリスト協会(JVJA)会員。長年にわたり、イラクやパレスチナなどの紛争地を取材。劣化ウラン弾問題やチェルノブイリの取材経験をもとに、現在は福島を中心に取材活動をしている。最新刊『フォト・ルポルタージュ 福島を生きる人々』(岩波書店)が3月4日に発売。著書は他に『フクシマ元年』(毎日新聞社)、『フォトルポルタージュ 福島 原発震災のまち』(岩波書店)、『豊田直巳編 TSUNAMI 3・11』(第三書館)、『JVJA写真集 3・11 メルトダウン』(凱風社)、『戦争を止めたい』(岩波書店)など。本サイトに「豊田直巳フォト語り」を掲載。

最後の牛を見送った時、
酪農仲間の訃報が届いた。

――豊田さんと、共同監督の野田雅也さんは、東日本大震災の翌日から福島に入り、何度も通いながら800日間も取材されたそうですね。なぜ、これほど長期間にわたって取材をしたのでしょう?

豊田  特に期限を決めていたわけでなく、「いつまで続くかわからない」と思いながら取材していました。震災が起きる10日ほど前まで、僕はチェルノブイリにいたのですが、原発事故から25年たった今も、人の姿がなく、辺りは原野化しています。なんだか、福島の25年後を先に見てしまったような気がしました。実際にそうなるまでの記録をしっかり残しておくために、野田さんと一緒にビデオカメラを回しています。映画が完成した今もなお、取材は続いています。

――飯舘村を舞台にしたのは、どんないきさつだったのですか。

豊田  京都大学原子炉実験所助教の今中哲二さんが飯舘村に放射線量の調査に行くというので、同行しました。原発事故から2週間後のことです。飯舘村は、原発から30~50キロメートルも離れていますが、風向きと降雪の影響で高濃度に汚染されていました。しかし、避難指示が出ておらず、住民は何も知らされないまま住んでいたのです。そんな状況を取材する中で出会った方々を撮影していきました。

(c) TOYODA Naomi

――映画の中心となっているのは、酪農家の人たちですね。

豊田  僕たちが最初に訪ねたのは、女性酪農家の高橋日出代さんです。高橋さんの家の外に牛のえさを貯めるサイロが見えたので、声を掛けてみました。高橋さんは、スイスに留学して酪農を学んだ経験があります。飯舘村の汚染を知った時は「スイスの農家にあったように、核シェルターを作っておけばよかった」と真顔で語り、線量計の数値を見て「もうここで農業はできない」と涙を流しました。やがて村が計画的避難区域に指定されると、高橋さんを含めた酪農家全員が牛を手放す決意をします。村の酪農家のリーダーである長谷川健一さんとは、彼女の紹介で知り合いました。

――長谷川さんと言えば、メディアを介して村内の窮状を伝えていますね。

豊田  本当に責任感の強い方です。村が停電になった時は、ほかの酪農家のために発電機を調達しようと奔走し、村が計画的避難区域に指定されると、できるだけ家族がバラバラにならないように、行政に働きかけました。僕たちの取材中、「関西に住む娘の元へ引っ越す」というおばあさんが長谷川さんに挨拶に来ていましたが、村の人たちから慕われ、頼りにされていました。

――長谷川さんにはかなり密着して取材したのでしょうか。

豊田  何度も泊めてもらいましたし、一緒に酒も酌み交わしました。奥さんや息子さん夫婦からもずいぶんお話を聞いて、何時間一緒にいたかわからないくらいです。長谷川さんが牛を手放す日、「これが最後の牛ですね」と言っていた時です。突然、長谷川さんの携帯電話が鳴りました。相馬市の酪農家の菅野重清さんが、自ら命を絶ったという知らせです。そのまま長谷川さんの車に同乗して弔問すると、菅野さんは堆肥小屋の壁に「原発さえなければ」という言葉を書き残していました。

(c) NODA Masaya

――作品のタイトルにもなった「遺言」ですね。

豊田  そうです。菅野さんは、借金をして新しい堆肥小屋を建てたばかりでした。酪農ができなくなり、返済に悩んだことでしょう。さらに、奥さんと2人の子どもが奥さんの故郷であるフィリピンに避難していたこともあり、孤独感を強めていたようです。彼は「原発さえなければ」のほかに、「酪農家は原発に負けずに頑張って」とも書いています。この言葉は、酪農家だけでなく原発を存続させてきた僕たちの世代全体が、かみしめるべき遺言です。

――作品中には、菅野さんのほかにも自死に追い込まれた人の話が登場します。豊田さんにとって、「死」は取材テーマの一つだったのでしょうか。

豊田  102歳で村の最高齢だった大久保文雄さんは、計画的避難が決まった翌日に「俺は長く生きすぎた」と言い残して自殺しています。渡邉はま子さんは、避難先の福島市から一時帰宅した時に、自ら灯油をかぶり、焼身自殺をしました。昨年6月、自民党の高市早苗政調会長は「原発事故によって死者が出ている状況ではない」と発言しましたが、何を言っているのか。僕らの前で実際に命が失われています。原発を推進する論理に対して「本当にいいのか?」と問いかける意味も込めて映画を作りました。

3時間45分の大作でも
長いと感じない人が多い。

――繊細な問題を抱えた現場での取材ですが、撮影を拒否されることはなかったのでしょうか。

豊田  それはほとんどありませんでした。先ほど言ったとおり、もともと僕が映像を撮っていたのは記録するためで、日々のニュースを流すことではありません。〆切に追われていないこともあって、最初からカメラを向けることはしませんでした。今日がだめなら明日、明日がだめなら明後日と、時間をかけて取材したのです。最初は「俺は取材なんていいよ」と言っていた方も、1週間後には家に泊めてもらう関係になり、晩酌をしながらカメラを回して、ということもありました。もちろん、撮影が終わっても関係が途絶えるわけでなく、今もよく連絡を取り合っています。

――じっくり、濃密な信頼関係を築いていったのですね。

豊田  震災直後の一番大変だった時から何度も取材していたことで、信頼してもらえたのかもしれませんね。たとえ意見が違っても、人間として信用し合っているから、3年たった今も取材させてくれるのだと思います。

――そのようにして撮影した250時間の映像が、映画では3時間45分にまとまっています。通常の映画の約2倍の上映時間ですが、実際に見るとあまり長くない印象です。

豊田  そうおっしゃる方は多いんですよ。編集をお願いした映画プロデューサーの安岡卓治さんは、いつもはなるべく短くカットする方ですが、今回は「これ以上、切れない」と言っていました。最初に編集した段階では6時間を超えていたのを、なんとか4時間以内に収めたくらいです。これだけ長くても見飽きないのは、単なるインタビュー映像のつなぎ合わせではないからだと思います。もしも「今のお気持ちは?」とインタビューをしていたら、聞かれた方も答えようがないでしょう。

――なんだかリアリティーの欠けた映像になりそうですね。

豊田  僕たちは、村の人たちの横にいて、ひたすら村で起きていることを撮ってきました。菅野さんのお姉さんが遺言を見て「誰に、何に向かって言っているかわかりますか。国、国会ですよ!」と怒りをぶつける場面。それから、少しお酒に酔った長谷川さんが、自分に言い聞かせるように「真っ暗闇の中を、ただひたすら歩いているということを伝えたいの」と言い放つ場面では、持って行き場のない怒りや悲しみ、苦悩といった感情が、そのまま表れています。

(c) TOYODA Naomi

「勉強になるいい話」で
終わらせてほしくない。

――一方で、楽しさや喜ばしさが表れた場面も収録しているところが救われます。長谷川さんと奥さんがなれそめを振り返ったり、夫婦で冗談っぽく言い合ったりする場面は、飯舘村の人たちが常に怒ったり悲しんだりしているわけではない、そんな当たり前のことを実感させられます。

豊田  放射能でも壊せない家族の愛情や、人と人とのつながりは、撮影をするなかのよりどころでした。原発事故が起きる少し前に、長谷川さんの長男の義宗さんは家業の酪農を継ぐ決意をしています。事故直後は、妻子を連れて千葉県に避難し、そこで第二子の妊娠がわかります。その後、無事に産まれた子どもに会いに行く義宗さんの様子も取材させてもらいました。そうやって、長谷川さんの酪農が受け継がれ、新しい命が連鎖していく様子は希望です。

――村の人が集まってバーベキューをする場面も印象的でした。みなさんの仲の良さがにじみ出ています。

豊田  村の人が避難した年のお盆に、長谷川さんたちはバーベキュー大会を企画しました。つかの間ではありましたが、みんなで久々に村へ帰って集う様子は本当になごやかです。お互いに協力して「わらび園」や水を利用して米などをつく「ばんかり小屋」といった名所をつくり、飯舘村が「日本一美しい村」と呼ばれるまでにした自負もあるのでしょう。その楽しそうな笑顔に、失ったものの大きさが映し出されています。飯舘村は、家族で暮すことも、安心してバーベキューをすることもできない場所になりました。長谷川さんは「地面としての村はあるけれど、人がいない村はふるさとと呼べるのか」と話していましたが、ふるさととは何か。地元に帰るとはどんな意味があるか。そして行政の役割は何か。この映画を見るとすべてがわかります。

(c) NODA Masaya

――決して説明的でないにもかかわらず、村で起きたことがよく理解できる内容です。

豊田  僕は、この映画を見た感想が「いいお話でした」とか「勉強になりました」では負けだと思っているんですよ。喜劇ではありませんが、ちゃんと楽しんでもらえる映画にしたつもりです。

――冒頭でおっしゃっていたように、今後も取材を続けるそうですが、長く記録し続けることには、どんな意味があるのでしょうか。

豊田  もともと僕はパレスチナの難民キャンプを取材していました。1980年代から日本人の里親支援を受けていた女の子を取材していたのですが、その子が小学生になり、中学生になり、大人になって子どもが生まれるまで、20年近く取材は続きました。ずっと写真を撮っていると、その間も難民キャンプは何も変わらず、ますます世界から見捨てられていることがわかります。また、イラクの劣化ウラン弾問題も10年間続けてきました。福島での3年間は、まだまだ短いほうです。

――取材を続けるモチベーションは、どこからわいてくるのですか。

豊田  以前、『戦争を止めたい』(岩波ジュニア新書)という本を出しましたが、そのタイトルがジャーナリストの仕事だと思っています。よく「マスコミは正しいことを何も報じない」という批判がありますが、僕だって何もできていませんでした。放射能の怖さは嫌と言うほど知っていたのに、原発を止められず、福島原発で事故が起きてしまった。3・11を経た今、次の世代に「なぜ被ばくしたか」を伝える責任、原発を止める責任を引き受けるつもりです。

――ジャーナリズムは原発を止められると思われますか。

豊田  わからない。でも、諦めたら止められないということは知っています。戦争の取材をしていると、「戦争を止められなくてもしかたない」と思いたくなる場面がたくさんあります。でも諦めたらそこで終わりです。選挙で原発推進派が勝って、むなしさを感じる人の声も見聞きしますが、僕にとって、むなしくなるのは贅沢なことです。「じゃあ、お前は何をしたんだ?」といつも自分に問いながら取材を続けています。

『遺言 原発さえなければ』

2013年/225分
共同監督/豊田直巳、野田雅也
編集/安岡卓治
製作/映画『遺言』プロジェクト
●2014年3月8日より、ポレポレ東中野で劇場公開。その後、全国で公開予定。

●映画『遺言 原発さえなければ』を全国に広げる支援を募集中! 詳しくは以下のサイトをごらんください。
https://motion-gallery.net/projects/yuigon_fukushima