第6回
着物ともだちの輪を広げよう!
ゲスト/柳崇さん、柳晋哉さん (染織家)
ゲスト/柳崇さん、柳晋哉さん (染織家)
今回、近藤サトさんが訪れたのは、
若手染織作家である柳晋哉さんのアトリエ。
東京・世田谷にある「柳染織工房」です。
民藝運動の父と呼ばれた柳宗悦氏の甥であり、
染織作家であった柳悦博氏が開いた工房で、
現在は2代目となる父・崇さんとともにこの場所で活動されています。
新しい感性で生み出す作品で多くのファンを持つ柳さんに、
仕事を始めたきっかけや、染織についての想いをお聞きしました。
染職とは?
染織とは、布を染めたり織ったりする技術のこと。日本の染織技術は、奈良時代に完成したと言われています。
柳 崇(やなぎ・そう)
1954年東京都生まれ。成城大学卒業後、染織家である父・悦博の工房に入る。父の叔父は民藝運動の父と呼ばれる柳宗悦。柳家の美意識を受け継ぎ、形や素材にこだわった洗練で温かみのある作品で知られる。
柳 晋哉(やなぎ・しんや)
1985年東京都生まれ。インテリアデザインの専門学校卒業後、建築会社勤務を経て、父・崇のもとで制作に入る。祖父、父の技術とデザインを受け継ぎながら、独自の感性を生かした作品で注目を集める。2012年に「日本民藝館展」に初出品、初入選。2019年には「日本民藝館展奨励賞」を受賞。Instagramはこちら
柳宗悦の系譜を継ぐ若手染織作家
サト今回のゲストは「柳染織工房」の柳晋哉さん、そしてお父様の崇さんです。かの有名な柳宗悦さんのご一族ということで、今日はワクワクドキドキしております。お祖父様の柳悦博さんがこちらに工房を構えて、お父様の崇さんが2代目、晋哉さんは3代目となるわけですが、晋哉さんは小さい頃から染織について意識されていたのでしょうか?
晋哉さん自宅と工房が分かれていたので、父の仕事が何なのか全く気づかなかったですね。子供の頃は野球選手や鮨職人になりたくて(笑)。それでもモノ作りは好きだったので、インテリアデザインの専門学校に進み、卒業後は建築関係の現場監督に就きました。次第に作るよりも管理することが多くなり、やはり自分で何かを作りたいなと。そこで父に「染織をやらせてほしい」と頼んだのですが、「食べていけないから会社員の方がいい」と反対されました。
サトそこからどうやってこの道に入られたのですか?
晋哉さん会社が休みの日に工房に入っていたのですが、ある日、邪魔だと言われて。「糸の結び方を教えるから、それを覚えたら会社を辞めて入れ」と。
崇さん彼が言うには「商業施設の内装の仕事をしてもすぐに解体してしまう」と。自分が作ったものを壊すような仕事は嫌だと言ったので、それは筋が通っているなと思ったんです。
サトいわば”華麗なる一族”としての意識はありましたか?
晋哉さんこの業界に入るまでは全くなかったです。ただ、インテリアの仕事をしていた頃は、柳宗理の名を出されることは多かったですね。「親戚なの?」と驚かれました。子供の頃に一度だけ駒場の民藝館の前で本人を見かけた記憶はありますが、そんなに近い存在とは感じていませんでした。染織の業界に入ってからは、祖父や父の名、そしてお弟子さんたちもいて、やはりプレッシャーがありましたね。でも、考えても自分の状況は変わらないので諦めました(笑)。
サトいまや、晋哉さんはいろいろなアーティストとコラボレーションされたりして、特に若い着物ユーザーたちには有名で、アイドル的存在ですよ!
家族ならではのモノ作りがある
サト一緒の工房でモノ作りをするメリットはありますか?
晋哉さんあれこれ説明しなくても意思疎通が取りやすいことです。そこは家族ならではだと思います。工房に入った当初は父が師匠になるので、「これから何て呼べばいいのかな?」と悩んだりもしましたが、「変えなくていい」と言われたのでそのままです(笑)。23歳でこの仕事に就くまで、父と四六時中一緒にいることはなかったので、最初は恥ずかしい気持ちがありました。今はもういるのが当たり前で慣れましたけど。ケンカもしないですね。
崇さんそれは私が我慢してるんです(笑)。
サト年間にどのくらいの数の作品を作られているのでしょう?
晋哉さん1年で約40〜50kgの生糸は使うので、結構作っている方だと思います。僕個人としては帯で60点、着物で10点ほど。週に一度、父は合気道、僕は野球やキャンプなどで息抜きしていますが、それ以外は休みなく作業をしています。
サト師匠として、お父様からはどんなことを学びましたか?
晋哉さんまずは技術的なこととして、糸の扱い方とか染める前の下準備をある程度教えてもらい、それを反復していく感じでした。
サト染織作家として、改めてお父様の作品を見て感じることは?
晋哉さん糸の色から計算されていて綺麗だなと思います。ごちゃごちゃしていなくて、すっきりしたデザインが多いのですが、自分で作ろうとすると難しい。色柄、バランスなど学ぶことが多いです。
崇さん単純なデザインでも、美しく見せるためには色が良いことが基本。まずはバランスの良い形を作って、そこに綺麗な色をのせれば良い物になるという自信が私にはあります。でも本来は単純な形ほど怖い。子供の頃から民藝館でたくさんの作品を見てきましたが、あの場で一番学んだのは”形”です。
サト晋也さんの作品に民藝の影響はありますか?
晋哉さん正直、どういったものが民藝なのか、民藝っぽさとは何なのかはっきりとは分かってはいないです。ただ「民藝は好きなもの」という意識はあります。
サト師匠として晋哉さんの作品はどう見てらっしゃいますか?
崇さんちょっとくどいかな(笑)。
晋哉さんいいんです。僕はくどいのが好きなんで(笑)。好みの違いは年齢的なものもあるかと思います。
着物は特別なものから日常で楽しむものへ
サト昔と比べて着物業界は変わりましたか?
崇さん着物が売れない時代を過ごしてきたので、晋哉が小さい頃はネクタイやマフラーなど、人様の首を絞めるものを作っていました(笑)。また、デパートで着物が売れている時代では、売れるのは高額な留袖や訪問着で、作家ものは売れなかった。最近は自分で働いたお金で着物を買い、日常的に着る人が増えてきたように感じます。そういうお客様が増えたことで、着物を扱う店の形態も変わってきました。
サト今は好きな着物を自由に着こなす人が増えましたよね。
崇さん昔は私の父や私の作品を扱う店も少なかったんです。その一つが白州正子さんが作った『銀座こうげい』でした。正子さんが柳宗悦に文章を見てもらっていた縁から、店を作る時に父が手伝うことになったんです。そこで父の作品と、後に私の作品も扱っていただきました。私は父の指示で白州さんのドライバーをしたこともあるんですよ。
染織作家としてこれからの展望
サトこれからの夢や目標はありますか?
晋哉さんまだまだ勉強不足なので、将来の夢というよりも、毎日楽しく仕事をすることが一番だと思っています。3代目となって13年になりますが、イメージしたモノが作れずに苦しいことはあっても、辞めたいとは思ったことは一度もありません。最近では養蚕農家を始める若い人も現れたので、会いに行きたいです。そうしていろいろな人と協力しながら、お客様に「欲しい」と思ってもらえる着物を作っていきたいですね。
崇さん晋哉には、染織作家として私が想像できないラインへ進んでほしい。それが楽しみです。私はもう好きなものだけをのんびり作りたい(笑)。材料選びから改めて始めたいですね。自分の欲しい糸を作らなければいけない時代になったので、まずは繭の手配から始めてみようと思っています。
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