もくじ

涙ながして、また夜

女だけの冬

砂の音

夜風

心中のあと

夏雲

初夢

色もだす

畳の目

春の夜の重たさ

藤原審爾

大正10年(1921)、東京生まれ。代表作に昭和22年の『秋津温泉』、昭和27年には「罪な女」で直木賞を受賞した。昭和59年(1984)没。63歳。

涙ながして、また夜

藤原審爾
涙ながして、また夜
 灯を消した部屋の蒲団の中で、政次はじっと目をあけていた。二人の子供たちは、隣の部屋でもう眠っている。そろそろ十二時になる頃なのだが、ぼろ家のこの木造アパートの二階は、テレビの音ばかりでなく、あちこちから物音が聞えている。このごろはむかしと違い、みんな帰りがおそくなっている。働き疲れて帰ってきた足どりが、廊下をきしませている。
 政次はそんなさわがしさには馴れきっている。かな子と結婚してから、十五年以上もここで暮らしているのである。
 蒲団の中で、足をちぢめ、背を丸め、じっと目をあけている政次には、なにひとつ耳に入っていなかった。
 ただもうかな子のことで、頭がいっぱいだった。
 どうしてもかな子が蒸発したとは思えなかった。
 結婚してからこのかた、ただの一度も政次はかな子と喧嘩をしたことがない。八つ違いのかな子は、可愛い女房で、政次はなにひとつ不満だったことがない。
 むろん贅沢な暮らしは出来なかったが、かな子はそのことを不満がったことはない。貧しい家に育ったせいだろう、倹約で、やりくり上手だった。こんど働きに出たのも、政次のために、もう少し静かなアパートへ引越そうという話からだった。
 政次は七時すぎに起き、九時までに社へ出かける。九時から夜中の四時五時までタクシーに乗る。そのあと社へ帰り、車の掃除をして、七時か八時ごろ家に戻ってくる。子供たちが学校に出かけたあと、やっと眠るのだが、その時分にはアパート中が起きだしてきて、ぐっすり眠れない。夜また眠るのだが、中途半端な眠りになることがよくある。若い頃は、若さでこなしていたが、四十半ばになると、眠りの足りぬのがこたえはじめた。政次自身はそれをさして気にしていなかったのだが、かな子のほうが心配して、どうしても引越し資金をつくると言いだしたのだった。
 政次はその気持ちがうれしくて、かな子の思いどおりにさせてやったのだが、そんなかな子がなにひとことも言わず、突然、蒸発するというようなことが、どうしても信じられないのだった。かな子は小柄で明るいたちなので、歳よりは若くみえたが、もう三十五をすぎている。高校生の良子や中学一年生の正雄を、すごく可愛がっている。子供が寝込んでなにも食べないと、自分も食事が出来なくなるほどである。実際、政次は、酒も煙草もやめて、稼いだ金を全額かな子にわたしている。なんとか不自由しないで、まあ暮らしており、かな子に不満を言われた覚えもない。どう考えてみても、蒸発するような理由がみつからない。むしろ車にでもはねられて、どこかの病院にかつぎこまれ、意識不明でこんこんと眠っていると思うほうが、当っていそうなほどである。
 しかし本当はそうではないのである。昨日の朝、もしかして病気で倒れて帰って来られないのではないかと、政次はかな子の勤め先へ電話をかけてみたのだった。
「ああ、あの、こでまりさんね、昨日、やめたよ、昨日までの給料をもって、帰っていったよ、五時すぎだった。これでいいだろ、こっちは眠たいんだ、な」
 子供たちを学校に行かせたあと、政次はタンスや押入れをあけて、かな子の持物を調べてみたが、なにも持ちだした様子がない。どこもかしこも、きちんと整頓してあって、よい女房だと、あらためて思わされただけだった。もしかしたら店の客に誘われ、腕ずくでどうかされてしまい、帰りそびれているのかもしれない。今頃は友だちのとこか、横浜の実家に行っているかもしれない。電話をかけようと階下の玄関わきの電話のとこまで出かけたが、もしもかな子がいなければ、さわぎが大きくなるばかりである。あとでかな子がよけい辛い思いをしなければならない。
 まあもう少し待ってみようと政次は、蒲団にもぐりこんだのだが、気が滅入るばかりでじっとしていられない。ともかく政次は働きどおしで生きてきたので、働いているときでないと、気持ちがそわそわしたり、不安になってきて落着けないのである。とうとうじっとしていられなくて、政次は社へ出かけ、いつものように働いて、いつものように今朝はやく帰ってきた。いつもならかな子があたたかいめしをつくって待っているのだが、やはりかな子は戻っていなかった。部屋では、このごろ別の寝床でねるようになった良子と正雄が、仔犬のように抱きあって、一つ蒲団で寝ているだけだった。
 なんだかむしょうに悲しくなり、政次は、かな子はやく戻ってくれと泣きながら、うとうと泣き寝入りしたのだが、午後になると実家からかな子の母と兄とがやってきて、急に大きなさわぎになった。良子の電話で、驚いてやってきた母の粂子くめこは、蒸発などという考えを持ちあわせていない。
「交通事故でどこかの病院にいるンだよ、政さん、寝てちゃらちがあかないよ」
 男ぐるいするようなそんな娘なら、あんたと今まで一緒に暮らしてなんかいないよ、などとずけずけ言われ、かな子の兄と二人で、政次は新宿署まで相談に出かけていった。年配の白髪まじりのくりくりした警官が、なかなか親切にあちこちの病院へ電話をかけて調べてくれたが、かな子らしい女を保護しているところはなかった。
「よくあるんだな。よそのものはうまそうにみえるからね。ふらふらっと出て行くんだな。子供がいると、そのうち電話をかけてくるよ。そのとき、やさしく迎えてやるンだ。後悔しておっても、飛びだすともう帰れないと思いこんでるからね。おたくなんかまだいいほうじゃないの。一年くらい前から計画して、少しずつ荷物を運びだしておいて、飛びだすなんてのがいるからね。こないだ亭主が停年で退職金をもらったのを、そっくり持って蒸発したのがいたな。こっちも心がけて探すがね、もううちの管内にはいないんじゃないの」
 警察から牟礼むれに戻り、かな子の友だちへも電話をかけたが、かな子はどこにも連絡していなかった。どこへ電話しても、店から給料をもらってから居なくなったというと、すぐに蒸発したと思いこんでしまい、そんな応答をする。
「やっぱり男が出来たのかねえ」
 粂子もそんな気になり、お父さんに相談してくるよと言って帰っていった。
 それでも政次は、かな子が蒸発したとは思えなかった。どう考えてみても、かな子が自分たちをのこして蒸発するなどということを出来るとは思えなかった。
 そこは小さな雑居ビルの間のせまい通路だった。まだ空は明かるかったが、そびえたビルの間のその通路は、もう薄暗かった。
 その通路へ少し入ったところで、政次はぐったりビルにもたれていた。その通路のつきあたりにビルの裏口のドアーが開いており、そこを入れば、かな子が勤めていたキャバレーの事務所があるそうだった。しかしそこまでくると、政次は気も足もすくんでしまい、それ以上すすめなくなった。
 政次はかなり酔っており、ビルにもたれかかったまま、上体をふらつかせ、口のなかでぶつぶつ言っていた。よほど頭をあげないと空がみえない、その感じが政次の心をとらえており、政次は監獄みたいだなとつぶやいたり、酒をのんでなぜ悪いんだと言ったりしていた。しかし政次は、わけがわからなくなるほど飲んでいるのではなかった。新宿でかな子の兄と別れたあと、コップ酒を一杯ひっかけただけだった。一杯ひっかけでもしなければ、女房の勤め先へ顔をだしたりするようなことが出来るわけがない。今日はひるすぎ、約束通り、かな子の兄がやってきて、実家の父親の結論を話してくれた。あれこれ話しあってみたのだが、どう考えてもかな子は男にだまされ、家を飛びだしたに違いない。そんな娘のことを探してくれるのはありがたいが、わが子を捨てるような女では、たとえ連れもどしたところで、子供達も倖せにはなれないだろう。もっとましな嫁をさがしたほうが、よほどよいだろう。新しい生活が落着くまでは、良子たちをひきとり、面倒をみてくれるということだった。
「今日明日というような話ではないンだから、政さんも考えてみて下さいよ」
 かな子の兄が帰ったあと、なんだか政次は子供たちをとりあげられてしまうような気がして、じっとしていられなくなった。政次がほしいのは、これまでのようなかな子との四人の生活であって、別の女房ではない。しかしかな子が帰るのを、ただ待っているというような余裕はないのである。一日でもはやくかな子をみつけなければならない。これまで政次は、男が出来たと考えたくなくて、店へ出かける気になれなかったのだが、今日はかな子が店に出てきそうな気がしたし、じっとしていられなくなった。しかし店へ行けば、否応なく男の話になりそうで、政次はその通路でうごけなくなったのだった。そしてそのうち政次は、その通路でずるずるしゃがみこんでしまった。糊で貼りつけたのをはがすような音を、ジャンパーが立てた。ここまできたのだが、これからどうすればよいのか、政次はわからなくなってしまったのだった。まるで考えるということが出来ないのだった。
 頭があるのに考えることが出来ないとは、ずいぶんおかしなことだが、ほんとうに政次は考えることが出来なかった。長い歳月、政次は生きてきたが、ただ真面目に働いていれば生きていられたので、あれこれ考える必要がなかった。目さきの危険をさけたり、病気にならぬように用心するとか、その程度のことを考えていれば、それで無事に生きていられるのだった。小さい巣のような家庭でしかなかったが、それなりにたのしいこともあって、それで政次は十分だったのである。もとより進学のこととか、隣近所の出来事にまきこまれたり、社の組合の仕事もあったり、あれやこれやと問題もおこってくるが、そんなときは世間なみのことを真似てやれば、なんとかやって行けるのである。べつに頭をつかうこともない。しかし今度の出来事は、見様見真似ではまるきりかたづかないのだった。今も見様見真似で一杯ひっかけてみたら、かえって悲しみが大きくなり、身の置所もなくなってしまった。しゃがみこみ、うちひしがれ、途方にくれながら、そのくせまるで考えることが出来ないのだった。
 ちょうどその時、急ぎ足でその路地へ白いパンタロンの女が入ってきて、しゃがんだ政次を見つけ、ぎょっと立ちどまった。それで政次はあわてて立ちあがり、逃げるように店の裏口のほうへ歩きだした。
 裏口からビルの中に入ると、つい先の部屋から灯の光りが廊下に流れ出ている。半聞きのドアーに事務所という字があるのをみて、政次は立ちどまった。半聞きのドアーをそっとおすと、奥の事務机のむこうに上着をぬいだ蝶ネクタイの男が立っており、帳簿のようなものをのぞきこんでいた。四十年配の見るからに支配人という感じの、てかてかした顔の太った男だった。なでつけた髪と額が、汗ばんだように灯に光っている。
 政次は、事務所へ一歩入ったところで、
「あのう」
 と声をかけた。
 ちらりと政次をみた支配人の顔が、うさんくさいものを見るような顔になった。はやく話さないと追いだされそうである。
「あのう、小森かな子は来ていないでしょうか、こ、こでまりですが」
 男はこでまりという女をすぐには思いだせなかった。
「こでまりね、あんたは?」
「小森かな子の家の者ですが」
 男はそれでこでまりのことを思いだした。
「あんた、電話をかけてきた人だろ、あの時、言ったろ、あの人やめたンだよ」
「ずっと帰って来ないんで、もしや」
「困るなあ、関係ないよ。うちはやめたンだからさ。そんなことは、おたくの問題だろ。うちにゃ百人から女の子がいるンだ。いちいちかまっちゃいられないンだ。非常識ってもんだぜ、おっさん。こっちは女の子をあずかって監視して、金を貰ってるんじゃねえンだ。こっちが金を払って仕事をさせてるンだよ。店の仕事以外のことは関係ねえンだ。いいかげんにしてもらいたいよな」
 ぱたっと帳簿を閉め、それを引出しにしまって鍵をかけると、男は上着をきながら、政次を、「さあ」
 と追いだした。廊下に出ると、ドアーに鍵をかけ、
「つまみだされたくなかったら、さっさと帰ンな」
 そう言いすてて、背をみせ、奥のほうへ去っていった。
 こんなところへ働きにこさせた自分がわるいのである。誰もうらむわけにはいかない。にぎやかなざわめきがしているビルの中から政次は、とぼとぼ暗い路地へ出ていった。少し歩いたとき、うしろから小さい靴音が追いかけてきた。
「ちょっとあんた!」
 政次がふりむくと、白いパンタロンのさっきの女が、駈けよってきている。小さい靴音がよくひびく。
 その女は、駈けよってきて、政次に、
「ねえ、そばでもおごってよ」
 と言った。
 しかしすぐに言い直した。
「ううん、あたいがおごってあげるから、そこまで行こうよ」
 なんだか事情がよくのみこめないうちに、政次はその女に、近くのそば屋の二階へ連れこまれた。
 その女は、かな子より二つか三つ年下で、ひしゃげたような顔で浅黒かったが、きれいな目とやわらかい声をもっており、どことなく人のよさそうな感じだった。
 その女はあたたかいてんぷらそばを肴に、ビールをのみだした。
 横の柱の掛花には、芯の赤い木槿むくげの白い花がさしてあった。
 政次がそばをたベはじめると、その女は、政次をなぐさめるような調子になった。
「あたい、あの人と、ウマっての、ウマが合ってたの。子供二人あると言ってたけどさ、ほんと?」
 そばをのみこみながら政次はうなずいた。
「それじゃあんた大変ね、困るでしょ」
「あれの居る所、知ってるンですか」
「そこまでは知らないけど、彼女を口説いていた客は知ってるわ。あの人がやめたら、ぷっつり来なくなったからね。あの男だと思うけどなあ」
「あのう、その男の、住所は」
「行って連れもどす気?」
「――」
「きっと帰ンないと思うわ、こういっちゃあんたにわるいけどね。なにもあいつがいい男なんかじゃないけどね。インチキ臭い不動産のセールスやってて、口はうまいけどね。女をくいものにするやつさ。あたい、あんなの駄目よと注意したんだよ。でもさ、帰ンないと思うよ。人問、意地ってものがあるからね。一度、飛びだしたら、おめおめと帰れるもんじゃないよ。あんたが許したって、そりゃ借りになるだけだもんね。あたいだってそうなんだよ。むかしはれっきとした奥さんだったンだ。社宅にすんで亭主の両親たちと暮らしていたンだよ。亭主ともうまくやってたンだけど、今のあいつにひっかかったのさ。ギャングなんだけどさ、真っ昼間にホテルへひっぱりこまれて、ぎゅうぎゅうやられたのさ。うちじゃ隣に親が寝てるんだ。声をだすわけにはいかないもんね。ありったけ声をだしてやったときは、ぱっと目の前が明かるくなったみたいでさ、これこそ人生だと思ったもんだわ。人生ってそんなもんじゃないわけね。あればっかりやってるンじゃないからさ。おまけに飛びだして一緒になってみたらギャングでさ、なにかといえばさ、ぶっとばすんだから。すぐ後悔したけどさ、帰りたくなったけどさ、帰るだけの勇気なかったよね。もういっぺんやり直してみたかったけどさ、でもさ、そうしたくないものがあるんだよね。兎小屋みたいなとこでさ、親と一緒にきちきちの生活なんて、生きた人間のすることじゃないもんね。帰れば、どうせいびられるんだし、それよかまだましだからさ、帰んなかったンだ。謂ってみればさ、禁断の木の実をたべてしまった女なのさ。こういっちゃわるいけど、あんたの奥さんも禁断の木の実をたべたンだもん、帰りゃしないよ。諦めなよ。女はあの人だけじゃないんだよ」
 その女は、喋りすぎて、急に白けた気分になった。
 そばをたべた政次は、ぼんやりうつむいていた。その女がいうように、かな子は小さい生活から飛びだし、大きな生活を知ったのだから、もう帰って来ないかもしれない。しかし小さな生活育ちのかな子に、これといった才能があるわけではないし、大きな生活がこなせるわけがない。いずれ男にも捨てられてしまうだろう。それよりも家へ帰れば、みんなに愛され頼られて生きて行けるのである。そこへ帰るのが、かな子にはいちばんよいことなんだ。
 女はうつむいた五十近い、しわの多い顔の、女房に逃げられた男を見ているうちに、いらいらしだした。これじゃ彼女が飛びだすのも無理はない。
「あたいは、会わないほうがいいと思うけどさ、もう別の男と暮らしているンだからさ、会って、どこが気に入らないんだなんて言ったってはじまらないんだよ。あんたがきらいじゃなくてさ、今の男がずっと好きだということだろ。どうにもならないンだ」
 女はだんだんぞんざいになってきた。
 コンパクトをだして、ばたばた化粧を直しだした。
「どうしても会いたいのなら、北口の秋田不動産へいって、沢井という男の住所をきけば、わかるだろうよ。そこに勤めているんじゃないよ、あいつはいろんな物をセールスするんだよ。でもさ、どぶの蛙だって、大きな川へ出たら、二度と溝には帰って来ないんだ。無駄だと思うよ」
 口紅を塗り、口紅をショルダーバッグへほうりこみ、女はさっさと立ちあがった。
 ひどく不服そうに、伝票をとり、ショルダーバッグの紐を手首へまきつけ、そのまま政次をのこして帰っていった。

 政次は、自分でも、なにをしようとしているのか、よくわからなかった。これまでなにも考えないで生きてきたのではない。毎日、どこへ行けば、いい客が拾えるか、稼ぎが多くなるかと考えたり、子供やかな子のことを考えたり、アパートの裏のせまい通路用の空地に種子を播いた草花のことを考えたりしていたのだが、今のような大きな出来事に会ったのは初めてである。まるで専門外のことのように、よくわからないのだった。
 秋田不動産に出かけ、沢井の住所を教えてもらうと、すぐさま、その阿佐谷へ出かけて行く気になった。力ずくでもかな子を連れて帰るつもりだったが、それがよいことだとか、そうしなければならないことだと思っているわけではなかった。かな子が家を飛びだしたのは、自分達よりも好きな男が出来たということだから、連れもどすということは、かな子の気持ちをおしつぶすことでしかない。子供たちがかな子の帰りを待ちこがれているから、連れもどしてよいというわけにはいかない。政次はそこで、そういうことを考えないために、なんとなくかな子は沢井にだまされているんだと、無理に思いこんでいるのだった。その無理で、頭が疲れてぼんやりしているのだった。
 やがて政次は阿佐谷で国電をおりると、構内の商店街へ出かけ、金物屋でよく光る登山ナイフを買った。沢井という男の様子も齢も政次は知らない。もしも腕力のある男だったら、叩きのめされるかもしれない。そういう場合のためにナイフを買い、それから駅裏の飲屋でコップ酒をひっかけた。ジャンパーのポケットでナイフを握りしめながら、少し肌寒い秋の夜の街を通りぬけていった。
 やがて政次は、閑かな住宅街の中で、目ざす沢井のアパートを見つけた。大きな庭のある屋敷と屋敷にはさまれて、三階建ての鉄筋の白っぽい望月荘がそびえていた。車一台が通れるだけの道から、少しひきこんで建っているその望月荘は一階が車庫になっており、左側に階段がある。アパートというより小型マンションといった感じである。なんとなく自分のアパート程度のものを想像していたので、政次はその建物をみるなりぎょっとなった。自分たちより沢井はずっとよい暮らしをしているのである。豪華な家具やステレオやベッドの中で暮らしているかな子を、ぼろ家のアパートへ連れて帰ってよいのだろうか。足も心もすくんだようになり、政次は少し離れた電柱の蔭で動けなくなった。それと同時にぽつりぽつり雨が降りだした。雨のむこうの明かるい灯のついた窓を眺めながら、政次はなにも出来ない自分にいらいらしはじめた。そのうち沢井ともつれあったかな子の様子がうかぶと、いきなり政次はかっとなった。雨の中を政次は駈けだし、車庫の横の階段を飛ぶようにあがっていった。階段をあがると右側に、ガラスのドアーがある。明るい灯のともったそのドアーの中へ、政次は一っ気に入っていった。玄関のホールの奥の右に階段があり、その階段から下りてきたばかりの中年の奥さんが、雨に濡れた政次を見るなり、
「あら、雨なの」
 と声をかけた。
 政次はあわてて立ちどまり、
「降ってますよ」
 と答え、濡れた頭を拭きながらたずねた。
「沢井さんとこ、何階ですか」
 雨支度をしに帰りかけた奥さんが、階段のところでふりかえった。おやっというように政次を見た。
「沢井さんは、もう居ませんよ」
「えっ」
「結婚されて、二三日前に出て行かれましたよ」
「どこへ行ったンでしょうか」
 奥さんはまたけげんそうにちらりと政次の顔をみた。いくらか薄気味わるくなったように、急いで、
「北海道だかへ帰るとか言ってましたよ」
 そう答えながら、逃げるように階段をあがっていった。
 北海道のどこだろうというように、政次は頭がうごかなかった。
 しまったと思った。
 そしてかな子たちを追いかけるように、雨の中へあらあらしく飛びだしていった。暗い雨の夜道で、間もなく政次は小走りになった。どうしてそういう気になったのか、政次は、びしょ濡れになりながら、
 北海道に行ったのなら、しかたがない
 もう好きなようにやらせてやろう
 という気になった。なにも無理をしているわけではなく、ほっとしながら、そう思ったのだった。

 政次の父親は長崎の炭鉱夫で、戦争が終ってからは、ずいぶんひどい暮らしだった。炭鉱がつぶれ、職を探して親子五人、ここで一年、かしこで二年というような流浪の生活がつづいた。二人いた姉たちも、金のために居なくなり、今では行方もわからない。神戸で造船会社の日雇いをやっていた父親が亡くなると、政次はその工場で働きだしたのだが、そこもまたつぶれてしまった。上のほうの連中は、会社がつぶれても、その日の米にこまるということはないが、働く連中は職はなし、大変なのである。政次はつくづく工場労働者がいやになり、東京へ出て運転手になったのだった。
 生れてこのかた小さい生活しかしたことがないので、テレビのホームドラマをみても、暮らしぶりがのみこめないほどである。しかし大きなたのしい生活がこの世にあることは知っている。きっとかな子は、そんな生活に触れてみて、戻ってくるのがいやになってしまったにちがいない。なにも飢えるほどではないが、政次のところでは朝から晩まで倹約することばかり考えていなければならない。たったいっぺんこっきりの一生なのだから、ましな生活をえらぶのがあたりまえである。かな子をいちがいにせめるわけにはいかない。だいいち大きな生活を政次はすることが出来ないのである。それに政次は、かな子を愛しており、ほかの女に気をうばわれたこともない。
 多分政次は、愛しているから大きな生活をさせてやりたかったのだろう。それに北海道へ行ったことの中には、政次たちに申しわけなくて、顔をあわせられないという気持ちがあるように思えたのだった。もしかするとかな子は、許してくださいと掌を合せて詫びているのではないか。そのかな子の声が聞えてくるような気がする。
 考えようによっては、四人のうちの一人でも大きな生活が出来たほうがよいのである。あとは三人で一生懸命やって行けばよい。べつに深く考えたわけではなく、政次はそんなふうにふっと気をとり戻したのだった。
 しかし、それもたった一日のことだった。あくる日の朝、気をとり戻した政次は仕事に出たのだが、四時頃、鷺宮を走っているとき、社から無線で連絡があった。良子が泣きながら、帰ってきてくれと電話をかけてきたそうである。
 良子は辛抱づよくて滅多に泣いたりしない子である。なにかよくよくのことがおこったにちがいない。もしかしたら正雄がタクシーにはねられたのかもしれない。上井草で客をおろすと、政次は急いで家へ帰っていった。
 政次の部屋は、四帖半と六帖の二タ間である。政次が飛びこんで行くと、音を消したテレビの前で、良子と正雄が抱きあわんばかりによりそって、おびえた顔で政次をふり仰いだ。テレビと反対側の押入れの襖があけっぱなしになっており、押入れの中から洋服箱やなんかがひっぱりだしてある。奥の六帖のほうへ入ってみると、そこも押入れの中がかきまわされ、タンスの引出しも抜きだされている。足の踏み場もないほど、あたりは散らかっている。
 もとより空巣なんかではない。
 かな子が留守をねらってやってきたのである。
 あたふた自分の物を荷づくりして行ったのである。
「おまえら、母ちゃんに会ったのか?」
 政次がふりむいて子供たちにきくと、二人の子供たちはびくっとなり、あわてて顔を横にふった。
 着るものばかりでなく、靴や小道具の類いまで持っていっている。大きな生活からみれば、僅かなものだが、それでも一人で運びだせる量ではない。
 二人でやってきたのである。
 むろんもう一人が沢井だとはいえないが、政次はかっと頭に血がのぼった。
 かな子は北海道なんかに行ってはいない。
 この東京にいるのである。
 あとを追いかけられるのが面倒で、引越して、行方をくらましただけである。
 それもまあ許せるが、なにも留守をねらって来なくても、せめて子供たちが学校から戻る時分にきて、家を出た事情くらい話してやればいいだろう。
 なんて女だっ
 政次はぶるぶる体がふるえだした。
 このまま許すわけにはいかねえ、ひっ捕えて思い知らせてやる。政次はすっかり頭にきてしまった。
 その日から、政次は、仕事そっちのけで、かな子をさがしはじめた。
 そんな執念深さが、どこにあったのかと、仲間たちがおどろくほどだった。なかには畳と女房は新しいほうがいいって言うじゃねえかとか、サービスが足りなかったンだとわらう者もいたが、そのうち、狂ったような政次をほっておけなくなった。
 かな子を知っている連中が、かな子の写真をひきのばし、車の中にはりだしたりして、かな子探しに協力しはじめた。会社もいくらか大目にみてくれたが、東京は広くて人は多い。それにこれという手懸りがあるわけではない。不動産屋を手当り次第、政次は当ってみたが、沢井を知っている者にさえ会えない。ただやみくもに探しているだけである。
 うらない師にうらなってもらい、たつみの方角といわれれば、そっちへ出かけて行く。なんとなく銀座に今ゆけば、かな子に会える気がしてきて、客を断わり、銀座へふっ飛ばして行ってみたりする。
 一ト月ばかりは夢中ですごしたが、仕事のほうはさっぱりである。協力してくれた連中も、だんだんはなれて行く。二カ月ばかりたつと、会社もよい顔をしなくなった。政次は居づらくなり、稼ぎどきの年の暮れに、とうとう社をやめてしまった。しかしぜがひでもかな子たちをふんづかまえてやるという気持ちが抑えきれず、会社の仕事が邪魔になったというふうではなかった。気でも狂ったようにかな子を探しまわっているうち、白髪はふえ、皺の多い顔はしほんだようになり、政次はだんだん働くことがきつくなり億劫になっていたのだった。
 会社はやめたが、涙金や組合の貯金や仲間から餞別などと、あれこれ金が入ってきたし、失業保険もとれる。働かないとたちまち暮らしに困るというわけでもない。ちょうど正月休みの頃なので、子どもと一緒に遊びに行ったり、酒をくらってテレビをみたり、ごろごろしながら正月を迎え、松の内もすぎた。そろそろかな子を探しに行かなければならないのだが、それがなんだか億劫で、たまに表へ出ると、かな子さがしはいいかげんで、パチンコをやったり、安酒でぐでんぐでんになったりする。働こうというような気がおこらないのである。
 梅が蕾をつけだした頃には、政次は酒びたりになり、顔かたちがすっかり変ってしまった。髪はすっかり白くなり、艶のない顔はやつれ細ってひどく小さくなった。しかしそれでも政次は、働きに行こうとしなかった。
 良子はもう卒業だし、勤めに出ることになっている。着る物の支度もしてやらなければならないし、物いりなのだから、酒をくらってごろごろしてはいられない。働かなければならないのだが、その気力がわきあがって来ない。はた目には、女房に蒸発されて、そのショックでおしつぶされて立ちなおれなくなっているように見えるのだが、もとよりそれもこたえていたが、政次がなにひとつまともなことがやれなくなっているのは、もっとべつのことのせいだった。働くということ自体が、自分に必要なものと思えなくなっているのだった。
 なぜ働かなければならないのかときかれれば、食べて行かなければならないからだという答で、これまで政次は十分だったのだが、そんな答では納得出来なくなってきたのだった。実際かな子が居なくなる前までは、働くことが当り前で、一生懸命働くのは、かな子や良子たちをよろこばしてやりたかったからである。少しでもよろこばしてやるために、自分の煙草や酒までやめたのに、そういう苦労がなんの成果もあげず、水の泡になってしまったのである。
 水の泡になるようなことを、一生懸命にやることはないのである。なにもあくせく働くことはないんだと思え、働くことがいやになったばかりではない。父親も自分も、働くことがあたりまえで、働きさえすればなんとか倖せになると思いこみ、ひたすら働いたのに、結果は逆だった。父子もろとも裏切られたのである。明日の米がないようなときは、働くことがよろこびではあったが、しかし倖せになりたくて働いても、働きは倖せを保証してはくれない。腹も立てず、よろこびもなく、虫けらのようにただ生きるだけなら、べつに生きていなくてもかまわない。自分がほしい小さい倖せを、働いてもこの手にすることが出来ないのなら、働くことはない。小さい生活よりほかに生きようがないのだから、なんの能力も技術もないのだから、働くだけ損をする。明日の米がなくなったら、少し働けばよいではないか。
 これまで働くことが当然であり、一生懸命働きさえすれば、なんとか倖せになれると思いこんでいたところが、政次はぶっこわれたようになったのだった。せっせと働けば働くほど、小さい生活の中へ閉じこめられてしまうような気がしているのだった。
 そんな政次が、逃げた女房を恋しがり、廃人になりかけているように見えるのだろう、やめた社の親しかった木村が、ある日、テレビの人だという若い男を連れてきた。テレビでかな子さがしをして貰えというのである。
「全然反応がないということは、絶対ありませんよ。蒸発した御本人が戻った例もありますし、お子さんに連絡してきますよ。どこどこにいるという電話は、よくかかってきますよ」
 木村も、かりに見つからなくてもモトモ卜だろうと言う。
 それで政次は、粂子と二人の子どもたちを連れて、テレビ局に出かけていった。いちど練習をしたあと、本番がはじまり、真先に木村が、あらましの事情を説明し、司会の男が、
「わたし達が調べましたところ、その沢井五郎さんは、不動産ばかりでなく中古車の仲介とか、ホステスさんの斡旋とか、なんでもセールスする人で、ちょっとサギまがいのこともしています。御本人のかな子さんは、そういうことを御存知なかったでしょう」
 と沢井のことを話し、沢井むけに子どもさんのもとへかな子さんに連絡するようすすめてくれと頼んだ。つづいて政次が、帰ってくるかどうかは別のこととして、子どもたちに連絡してくれと言った。
 そのあと粂子が、泣きながら、
「父さんも泣いてるよ、この子たちが可哀相だよ、帰ってきておくれ、みんな、待ってんだからね」
 とカメラにむかっていった。
 最後は子どもたちの番で、母ちゃん、帰ってきて、とさけぶように言うことになっていた。司会の助手の若い女の人が、正雄にさあお母さんに言いたいこと言ってごらんなさいと話しかけたが、正雄は緊張で臆してしまい口がきけない。うつむいて隣の良子のうしろへかくれてしまった。
「それじゃ、お姉さんに言ってもらいましょうね」
 と女の人が良子へ声をかけた。
 練習のときには、そこで良子は、お父さんの御飯もうまくつくれないし、お父さんは酒ばかり飲んで会社もやめてしまった、母ちゃんが帰ってきてくれないと、どうにもならないと訴える稽古をしたのだが、良子は突然きっとなり、胸をはってうわずった声で、まったく別のことを言いだした。
「母ちゃんがいなくなってから、家の中はめちゃめちゃになってるわ。父さんもお酒ばかり飲んでるし、正雄も元気がなくなって、勉強もしなくなったわ。母ちゃんは身勝手だわ。身勝手でわたしたちを捨てたのよ。私は母ちゃんをもう母ちゃんだと思ってないし、帰ってほしいとも思ってないわ。
 スタジオの中に、一瞬、狼狽した気配があわただしく流れた。粂子が、おまえなにいうんだねと、抑えつけようとした。
 政次もうろたえて、思わず椅子から腰を浮かせた。しかしカメラにむかった良子の顔をみるなり、はっと胸が詰り動けなくなってしまった。
 びっくりさせられるほど良子の顔は、凛としていた。一心のこもった、凛とした、犯しがたく輝くその顔を、涙が太い筋になって流れている。
 ほとんど同時にカメラがターンして、司会者へ移って行き、結びのことばがはじまった。そしてそれが終ると同時に、音をひかえた拍手が、スタジオの中へ、潮騒のようにひろがっていった。

 テレビがおわり、スタジオから廊下へ出るなり、内輪もめがはじまった。
「なんてこと言うンだい」
 と粂子が、良子にくってかかった。
 木村が仲にわりこんで、粂子を、まあまあとなだめたが、なかなか粂子はおさまらなかった。ぶつぶつ、あんなことを言うような子では、おじいちゃんだってひきとる気がなくなるよなどと言った。
 良子がまけずに、すぐやりかえした。
「わたしも正雄も、横浜にはいかないわ」
 それを政次は叱りつけ、謝礼や土産物をたくさん貰い、木村に粂子をまかせ、牟礼にもどってきた。
 馴れぬことをしたせいで、政次はひどく疲れていた。馴れぬことをしたせいばかりでなく、政次は良子の言葉にショックをうけており、うまくショックを解消出来ず、癇癪がおこりそうになっていた。実のところ政次は、良子たちがかな子を恋しがっているとばかり思いこんでいたのだった。しかし子どもたちは、そうばかりでなく、いきどおってもいるのである。かな子に帰ってほしいと、無条件に願っているのは自分だけであって、その気持ちを子どもたちにおしつけていたのだった。その自分の意気地なさにうんざりさせられたばかりでなく、もうかな子は帰って来ないだろうと、せつなくかなしくなってもいるのだった。まるでなんの希望もなくなったような気持ちになり、暫く子どもたちがうとましかった。
 たった三人の生活の中で、子どもたちがうとましくなるのは、きつい出来事である。おしひしがれたような疲れで、よぼよぼと家に戻った政次は、四帖半の炬燵こたつでものも言わず、テレビ局で貰ったウイスキーを飲みはじめた。
 学生服を普段の服に着替えた良子と正雄の二人は、機嫌のわるい政次のとこへよりつかず、台所で夕飯の支度にとりかかった。帰りに買った野菜を正雄が洗い、良子がそれを切っている。小さい庖丁の音や話し声を聞くともなく聞いていると、やはりあわれでうとましさなど消えて行く。酔いがそういう気持ちに輪をかける。なんとなく政次は目頭が熱くなってきた。
 子どもたちは、実に親の気持ちに敏感である。たちまち声や動作が大きくなり明かるくなった。
 まだ五時まえだが、昼御飯がはやかったので、子どもたちはお腹をすかせている。いつもはむろん政次が御飯をつくるのだが、今日はそこまで親らしい気持ちになれない。少々かな子のことをテレビで刺戟され、もやもやした気分がくすぶってもいる。それにつよい酒の酔いが、政次を横着にしており、手伝う気もおこらない。
 やがて小一時間ほど経つと、夕飯の支度が出来あがった。おかずは鶏の水たきである。湯気の立っている鍋が、炬燵の上におかれ、大根おろしの入った丼や箸や茶碗が運ばれてくる。鍋の中には野菜や鶏肉がもう煮えていい匂いをだしている。
 侍ちきれなくて正雄が、箸をのばすのを、良子が、駄目駄目、父ちゃんが先よと言って、小鉢へおろしを入れ、酢と醤油をまぜたたれをつくる。茶碗に御飯をよそって、一番に政次の前へおき、それから正雄の分をつくってやる。そのあと御飯になった。
 このごろいつの間にか、そういうさしずを良子がするようになっており、別に目新らしい光景ではないのだが、はじめて見たように政次はなんとなくどきりとした。テレビの時もびっくりするほど良子は大人だったが、目の前の良子もちゃんとしたものである。考えてみれば良子はもう十八である。かな子が政次と一緒になったのが十九だったのだから、てきぱきさしずが出来ても不思議はない。
 酔っぱらってとろんとなった政次は、
 そうだったな、あのときかな子は
 十九だったんだな
 と良子をちらっと見た。良子はかな子似で丸い愛くるしい顔だが、眉が濃く目が黒く輝き、芯のつよさをみせている。しかしちょいとした身ごなしに、かな子そっくりのところがある。あわてて政次は、目をそらした。なんだかあやしくせつない思いが、とたんにわきあがってきた。いそいでコップにウイスキーをつぎ、一っ気にのみほした。それでもおさまらず、政次は、
「あああ」
 と溜息して仰向けに寝ころんだ。実際それは奇妙な成行だった。
 なにも政次は、今日のテレビの良子をうらめしく思っているわけでなかったし、たえがたいほどかな子がほしくなったわけでもない。むしろ一っ気にあおったウイスキーが、五臓六舶をかけまわるあらあらしさに圧倒されて、仰向けになったのだが、それで子どもたちが一瞬しいんとなってしまった。
 生憎、酔った政次は、それにも気がつかなかった。
 政次はただぼんやりうつろになっていたかっただけだった。
 しかしたちまち組んだ掌に頭をのせた政次の目から涙が出はじめた。
 瞬間、良子が、箸と茶碗を投げだし、わっと泣きだした。
「もういいかげんにしてよっ」
 そう泣声でさけんだかと思うと、驚いてはね起きた政次に抱きついてきた。
「母ちゃんなんかいらないじゃないの。あたいたちを捨てていったのよ、父ちゃん。父ちゃんには、あたいも正雄もついてるじゃない、母ちゃんなんか忘れてよっ」
 はげしい勢いで抱きつかれ、政次はあわあわ口をうごかしながら、うしろへ倒れこんだ。炬燵の上でひっくり返ったウイスキーの瓶を、あわてて正雄が立てている。
「あたいと正雄で、御飯つくるし、洗濯も、アイロンもかけるわ。二人で一生懸命やるって誓ったのよ、母ちゃんに負けないようにやるからさ、父ちゃんも、前のように、働きにいってよ、お願い」
 蔽いかぶさって胸に顔をおしつけて、良子が泣きさけんでいる。テレビに出るため、かな子の化粧品をつかったのだろう。政次の顔にかかった良子の髪からかな子の匂いがしてくる。蔽いかぶさった体も一人前である。
 ほんの一瞬、政次はその体の感触にうろたえたが、ほとんど同時に胸の奥深くで、これまではずれていた歯車が、ぱちんと合ったのだった。それを政次はありありと感じたばかりでなく、怒涛のように子どもたちへのいとおしさがこみあげてきた。
「わるかったわるかった、父ちゃんがわるかった」
 酒もやめる、働きにも行く、一生懸命働くぞと政次は、良子を抱えて起きあがった。
 政次は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
 しかし政次は、したたか酔っており、自分がしゃべっていることも、あまりはっきりわかっていなかった。それでも泣けば泣くほどに、腹の底から勇気がわきあがってきはじめた。
 多分政次は、この子たちのためにがんばろうと思ったせいで、働くということが自分のためだけのものでないという道理を、のみこんだのだろう。わが子たちをいとしく思うことが、その道理を展望させたにちがいない。はずれていた歯車がかちっと合ってくれて、働くということが、生きることと一つになったのだろう。
 あくる日から、政次は有金を良子に渡し、もとの会社で働かせてもらうことにした。テレビを社の連中はほとんどみており、あらためて政次に同情をしていた。あたたかく歓迎され、気持ちよく政次はもとの仕事に戻ることが出来た。
 四月になると、良子は大手のスーパーマーケットに就職した。
「考えたけど、スーパーは社員割引があるから、いいのよね。買物の手間もはぶけるから、早く晩御飯つくってやれるでしょ」
 良子は、ほんとうによく働いた。
 朝は六時に起き、帰ってくる政次のためにあたたかい御飯をつくる。七時ごろ帰宅する政次がめしをすませると、正雄を起し、二人で食事をとる。手ばやくあとかたづけして、学校へ行く正雄と一緒に家を出る。
 政次の仕事明けの日のときは、政次も夕飯の支度を手伝うが、政次がいない日は自分で全部やる。風呂にも正雄と一緒に行く。
 もとよりかな子のようにうまくは出来ないが、ともかく不便なことはない。そのうえ、あれもこれもとかな子の真似をする。朝帰りの御飯のときなど、かな子とおなじように政次の凝った肩や首すじを揉んでくれる。
 まったく申し分のない働きぶりだった。
 月二回の休日も、遊びに行ったりせず、洗濯につかう。
 生れてはじめて給料をもらうと、その記念に月払でミシンを買い、みんなのシャツくらいは縫いあげる。かな子も働き者だったが、良子はさらによく働いた。
 政次も良子にまけず、酒もやめてよく働くようになったが、しかし芯から気分一新したわけではなかった。なんといってもまだ五十前の男である。働くほうは億劫でなくなっているが、朝わが家にもどり、子どもたちがいなくなったあと、ひと眠りして目を覚したときなど、かな子が恋しくなる。たてつづけにかな子の夢をみたりする。
 夢はいつも蒲団の中である。きわどいところで目がさめるのだが、夢の中のかな子はすこぶる優しい。目がさめても、せつなさ淋しさがつづき、涙をこぼしたり、
「おい、かな子!」
 と思わず咳いたりする。
 しかしそのかな子は、もう政次の心の中だけに住んでいるかな子である。以前のようにぜがひでもかな子を連れもどそうなどという気は、次第におこらなくなっていた。
 しかし大きな傷が心の奥深くに出来ており、それが痛みを訴えてくるのである。たった一夜のうちにその傷は出来たのだが、それが癒えるのにはつらい努力の歳月が、果しなく必要なのだった。
 漸くそのダメージから、政次が解放されたのは、二年ばかりも経ってからだった。
 時折、木枯しのようなさけびをあげて、その傷は痛むこともあったが、いつとはなくその痛みになれていった。政次は親子三人の暮らしの中に、ぴったり自分をおき、ぴったし一つになったおだやかな家庭をつくりあげたのだった。しかしその二年ばかりのうちに、まるで心にもない暮らしをしているように、政次はめっきり老いこんでしまった。髪は真っ白になり、皺の多い顔はつつましさをたたえ、目は人形のように綺麗になった。
 誰の目にも、無害で組みしやすい感じの、初老の男が出来あがった。

 常務の太った大男の藤山から、その秋の朝はやく、
「政さん、ちょっときてくれ」
 と声をかけられた。
 車に乗りかけていた政次は、それで藤山のあとから事務所の二階へあがっていった。
「こっちだ」
 藤山について、殺風景な応接間に入って行くと、小柄な和服の品のよい婦人が、陽のさしこんだ窓際の長椅子へ腰かけていた。親しげに、五十年配のその奥さんは会釈してきた。
 政次が会釈をかえすと、藤山は政次をソファに腰かけさせてから、浮き浮きと話しかけてきた。
「こちらはね、西平さんと仰有おっしゃる方で、うちの家内の高校時代の同級生で、昵懇じっこんにしていただいているんだ」
 常務によばれるなんて時は、ろくなことではない。政次はわけがわからなくてますます神妙な顔になった。
「これはもっとちゃんとしたとこで、話すべきことなんだが、政さんの気性も知ってるし、ざっくばらんにおれがきいてみようということにしたんだ。良子ちゃんのことなんだがね」
 えっというように政次は顔をあげた。
「こちらに正則君という息子さんがいるんだ。ノムラスーパーマーケットで、良子ちゃんの上司なんだがね、良子ちゃんをお嫁さんにもらいたいと仰有ってるんだ。こちらの御主人は西平食品という会社をやっておられる方で、わるい話じゃないと思ったんでね。どうだろうね」
 政次は思いがけない話にうろたえて青くなった。
「はあ、しかし」
「当人同士は話がついてるんだよ、ただ良子ちゃんが、政さんの気持ち次第だと言うんでね」
 藤山はパイプに火をつけた。
 政次は目の前がさあっと暗くなった。
「どうかね」
「突然のことなんで、どう御返事してよいのか、はァ、まだ子どもですから。高校だけしかいってませんし」
 政次はなにを言ってるのか、自分でもよくわからなかった。
「御両親は何度も良子ちゃんと会ってらっしゃるんだ。すっかり良子ちゃんが気に入って、どうしてもと仰有ってるんだ。本人同士も愛し合ってるんだし、政さん、いい縁談だと思うよ」
「はあ、とにかく良子と話して、ぴんと来ないもんで」
「それはそれでいいと思うよ。ただね、昨日、正則君に内示があって、新しく出来る千葉のミニスーパーの店長になるんで、十二月一日までに式をあげて、新婚旅行もすませ、千葉へ行かなきゃならない、その点を頭に入れておいてもらいたいんだ」
「はあ」
 それから小一時間、西平の奥さんから良子をどんなにみんなが気に入っているかを、さんざん聞かされて、漸く政次は解放された。
 すぐに政次は、車に乗り、仕事に出たが、ショックで溜息ばかり出て、客に、
「どっか悪いんじゃないのかね」
 と言われたり、あやうくおかまを掘りそうになったりする有様だった。
 良子も年頃なのだが、政次はただの一度もまともに良子の結婚のことを考えた覚えがなかった。だいいち親子三人のぴったり一つになった生活が、どうにか出来はじめ、ようやく平安な日々を送れるようになったばかりなのである。とても良子なしの生活なんて考えることが出来ない。正雄と二人になっては、暮らしが成りたたないではないか。毎朝の食事はつくってやれても、夕飯はとても一人ではつくれそうもない。正雄は神経がこまかく内気なたちである。とても自分には育てられそうにない。良子が居て、やっと家の中のことがやって行けているのだから、良子がいなければ、もう木枯しの吹きすさぶような暮らしになるにちがいない。とてもそんな生活に、この齢では耐えられないだろう。
 そんなことがわからぬような良子ではないだろう。自分に話もせず、結婚をきめたりするわけがない。これはなにかの間違いだ。そうにちがいない。
 政次は自分にそう言い聞かせながら、そのすぐあと、良子が好きな相手を諦めさせてよいものか、こんないい話が二度とあるはずがないと思いはじめる。そしてすぐまた、この齢で木枯しの吹きすさぶ地獄のような暮らしなんて出来るものか。なんのために生れてきたのか、なんのためにせっせと働いてきたのか、わからないではないか。おれだって少しは倖せになる権利があるはずだなどと思ってしまう。
 気持ちが乱れて、とても運転出来る状態ではない。日が昏れ、良子の帰ってくる時間になると、政次はじっとしていられなくて、仕事をきりあげ、いそいでわが家へもどっていった。
 家では正雄が台所で焼飯をつくっていた。
「姉ちゃん、ちょっとおそくなるって」
「何時頃になると言った?」
「九時ごろだろ」
「時々、おそいのか」
「時々ね」
 二人で焼飯をたべ、テレビを見ながら待っていたが、九時をすぎても良子は帰って来なかった。
「姉ちゃん、好きな相手が出来たのか」
「さあね」
「おまえ、平気なのか。姉ちゃんがいなくなるかもしれないんだぞ」
「しょうがないよ。ぼくがさ、御飯つくるよ、洗濯もするよ。姉ちゃんほどうまくつくれないけどさ、一生懸命やるよ、覚悟してンだ」
「おまえ知ってたんだな」
「もう寝ようよ」
 正雄がひょいとかわして、政次の蒲団を敷きだした時、ケーキの箱をさげた良子が、
「ただいまァ」
 と綺麗な声で元気よく帰ってきた。
 テレビの前の政次を見るなり、ぱっと良子は、花が咲いたようなはなやかな笑顔になった。よろこびがはじけるような感じになったかと思うと、良子は、すぐ台所へ入り、そこから、はずんだ倖せそうな声で話しかけた。
「西平のお母さんと会ったそうね。とてもいいお父さんねと言ってたわよ」
 お茶の支度をし、ケーキを皿に入れ、たちまち部屋へもどってきた。なんと言ったらよいのかこんな倖せそうな良子を政次は見たことがない。こんな倖せがこの家の中にあったことはただの一度もない。そんな素晴らしいものを、こわせるわけがない。
「いきなりだもんな、驚いたよ」
 きっと何代も何代も、小森の家の中では、こんな倖せはなかったにちがいない。その思いだけで政次はなにも言えなくなってしまった。
「今日はおそいから、明日にしよう」
 政次は血迷ったようなことを言って、ケーキと湯呑みをもち、奥の部屋へ入り、正雄が敷いてくれた蒲団にもぐりこんだ。
 良子は、正雄と二人でケーキをたべると、すぐパジャマに着替え、蒲団を抱えて、政次の部屋に入ってきた。
 このごろ政次と正雄が奥の部屋で寝て、良子は独りでテレビの部屋で寝ている。今夜は正雄と入れかわって、良子は政次の隣へ蒲団を敷き、元気にどしんともぐりこんだ。
 ずいぶんあらっぽい生活である。
 こんな生活しか知らなくて、あの品のよい連中の家の生活が出来るのだろうか。
 しかし良子はそんな想いはかけらもない。もぐりこんだ蒲団から、手をのばし、境の襖を閉めながら、良子は満ち足りた声で言った。
「今日から、あたし、ここで寝るわね」
 すっと部屋の中が暗くなり、空気が動いて、良子の匂いを運んできた。
 もう良子は間もなく別れる気になっているのである。そのよろこびを政次と一緒によろこびたいのである。
 襖のむこうで正雄がテレビを消した。
 むんむん女の匂いが流れてくる。
 それにしても変な気分である。
 なんだか久しぶりにかな子と枕を並べて寝ているような気がするし、良子がここから出て行くのがおそろしい。
 といってもう良子を諦めさせるわけにもいかない。
 折角、三人ぴったりの生活が出来だしたと思ったのに、またさびしいつらい日がはじまる。涙のかわかぬうちに、また涙の日々がはじまるのである。
 こんなふうでは、まるで泣くためだけに、この世に生れてきたような気がする。
 隣の寝床では、はや良子が安らかな寝息をたてはじめた。
 こちらの寝床では、政次の目から涙があふれ、頬をつたって、枕を濡らしはじめた。
 もしもかな子がそこにいたなら、政次は、
 母ちゃん、どうしよう
 おれ、人間なんてやってられないよ
 と言いたいところだが、それも出来ずに、涙ばかりを流していた。
女だけの冬
 隣で龍三はたちまち大きないびきをかきはじめた。
 尚子はもう二十年ちかく連れそっているので、龍三の鼾にはれている。結婚して間もなく尚子たちは、メキシコの東海岸のほうへ出張し、橋が出来あがるまでの三年間、現場近くの市で暮らした。若い技師の龍三は、現場でメキシコ人たちをつかい、荒っぽい仕事をしていたので、酒も荒っぽい飲み方をし、泥酔して戻ると、鼾をかきはじめた。その時分の鼾は、むろん近頃の鼾とくらべると、若々しくて、時間も短かった。尚子のほうも、鼾が龍三の仕事で疲れた体のうめきのような気がし、少しも苦にならなかった。ずいぶん長い間、男は誰でも鼾をかくものだと思っていた。
 その龍三の鼾は年々すごくなり、鼾が耳について眠られないことがあるようになった。実際龍三は、愛撫のあと始末を尚子がしてやっているうち、もう鼾をかくというありさまで、いつも尚子はとり残されて、満ち足りない。あれこれ話しかけて、龍三を寝かせないようにし、自分がさきに眠るように心がけたりしたものだった。しかしそういう努力も近頃では殆んどする気がおこらない。なにか諦めてしまったようになっている。諦めたせいなのか、鼾があまり気にならなくなり、すばやく眠りに落ちてしまえるときもあるし、ときにはまるきり眠れない夜もある。これが毎夜のことであれば、たえられなくなり、なにか方法を講じるところだが、ここ三年ばかり龍三は九州支社で現場の総指揮をやっており、月に二、三度、土曜日に帰ってくるだけである。あくる日の午後には九州へ帰って行くので、たとえ眠れなくてもそのあとぐっすり眠ればよい。そういう習慣が近年出来あがり、徹夜の土曜日がつづいている。今夜もそうである。
 隣の龍三が大きな鼾をかきはじめると、尚子はいつものようになんともうっとうしい気分になりだした。このうっとうしい気分は、自分だけ満足すると尚子からさっさとはなれ、たちまち鼾をかきだす身勝手な龍三への不満とか、話したいことがいっぱいあるのに話せないというような不満のせいではない。もっと違った深く大きな不満であって、諦めが通じないものなのである。まるで全身から力がぬけてしまい、なにをする気もおこらなくなってくる。生きながら死んだようになるその気分のとりこになるのは、なんとなく恐しい。尚子はなんとなく反射的にそっとベッドから汚れものを持って出た。
 ドアの上のところが窓になっており、廊下の灯の明かりがそこから部屋の中へ流れこんでいる。仄暗ほのぐらい部屋の中で、裸の尚子は椅子にかけてあるガウンをとり、それを羽織りながら明かるい廊下へ出た。すぐ前のところに階段がある。階段のところで、尚子はちょっと階下の様子をうかがった。年が明けると受験がはじまるので、高校生のひとり息子の寛は、このごろ暁方まで勉強している。夜が更けお腹がすくと、台所へ出てきて、自分で夜食をとる。時々、その物音で目をさますと、尚子は夜食をつくりにおりて行く。しかし今は、最愛の息子にも会いたくない気分である。階下の気配はしいんとしていて、物音ひとつ聞えない。尚子に気がついて寛が部屋から出てきたりしないように、尚子は足音をしのばせて階段をおりはじめた。この家は部長用の社宅で、寛と二人で暮らすのには広すぎるが、龍三が帰ってくると使い勝手の悪い家になる。
 暗い階下へおりると、居間を通り、台所のわきの廊下の先にある風呂場へ出かけていった。洗面所とトイレと風呂場の三つがある部屋へ入ると、尚子はいくらか気楽になった。トイレへ汚れ物を流し、脱衣場でガウンを脱ぐと、尚子は風呂場へ入っていった。浴槽の湯はもうさめていたが、湯をだしながら尚子は、体を洗い、ぬるい湯の中へ入った。底のほうはぬるいというより冷たかったが、その冷たさが、尚子は気持ちよかった。湯が熱くなるまでにはいくらか時聞がかかりそうである。そのことが尚子をのんびりさせ、自分の時間をよみがえらせた。尚子は安らかな心地になり、ゆったり足をのばした。尚子は四十をすぎたばかりだが、無理な体の使い方をしていないので、若々しさがまだ残っている。なにか出来そうなほど若さをみせている湯の中のあしを眺めながら、尚子は息を細くした。
 どうしてこんなうっとうしい気分になるのだろう?
 もうあの人を愛していないのではないだろうか?

 龍三との縁談がもちこまれたのは、三重の大学を卒業する一カ月ほど前のことだった。高校の校長をしている父が、その正月、軽い脳溢血で倒れ、将来の不安が一家に襲いかかっていた。大学受験をひかえた二人の弟たちも、進学の費用がまかなえるかどうかという有様になった。そこへ親戚の者から龍三との縁談がもちこまれたのだった。
「尚子ちゃん、働いてみんなをたすけることは、悪いことじゃないわよ。でも下の正彦ちゃんはこれから高校よ。大学を出たときには、あなたは三十に手が届く年よ。そうでしょ。むしろ結婚したほうが、お父さんの気持ちも軽くなると思うわ。親は子どもが倖せになるのがいちばんうれしいんだからね」
 龍三は東大から東洋鋼管に入ったエリートの技師で、四月からメキシコに橋をかけに行く。二年余かかる工事なので、親たちが急いで結婚させたがっているそうだった。それであわただしく尚子は名古屋で見合いをした。結婚について、尚子は大きな希望も持ってなく、自分が相手を品定めするより、親の目のほうがたしかだろうと思っており、あまり深く結婚のことを考えていなかった。ぼんやりと背が高くて男らしく、将来性がある人という程度のことを期待しているだけだった。
 名古屋城の前のホテルのレストランに、津と東京から集まり、尚子たちは見合いをし、そのあと二人で明治村へ出かけていった。その頃の龍三はバイタリティのある大男で、尚子を一目みて気に入ったようだった。建築関係の知識も豊富で、そこに並んだ建物を詳しく説明してくれたり、始終疲れないかとやさしく気を配ってくれた。必要なことしか口にしないようなところがあったが、建造物の説明をしはじめると、目を輝かせ、すこぶる情熱的になる。そこが尚子に好感を抱かせたものだった。
 結婚には愛がなくてはならない。少なくとも二人で一緒にいたいという程度の気持ちが必要なのだが、そういう男女の愛そのものに深い理解があるわけではなかった。しかし尚子の希望どおりのエリートで、背も高く、まずまず好感も持てたし、この人とならやって行けそうな気がした。それでその日のうちに結婚がきまり、三月半ばには式をあげ、そのままメキシコへ発ったのだった。メキシコの東海岸近くの市に落着き、新婚生活を送りはじめた。外地での生活は、給与もよく、メイド二人をつかえるほどなので、物質的には恵まれた暮らしだったが、環境に馴れ、言葉も覚えなければならず、なにかとあわただしく、ものを考えるゆとりもなかった。それに龍三だけが頼りの生活だから、白分たちの愛がどういうものか、よく考えたりするよりも、ただ龍三の帰宅を待ちこがれる生活がつづいた。そういう生活がつづくうち、寛が生れ、尚子は子育てに夢中になった。なにぶん子育ての相談をする相手もいず、頼りは育児書だけである。龍三が仕事に出かけたあとは、子どもにかかりっきりの生活がはじまり、尚子の関心は子どもに集中していった。
 そのメキシコでの橋が完成すると、インドネシヤの人造湖の現場へ尚子たちは移っていった。それが完成するとカナダヘ転勤になり、パルプ工場の建設にとりかかった。新しい環境と解けあうには、長い時間と努力が必要である。それを繰返しているうち、たちまち十年近い歳月がすぎ、寛も学校へ通わなければならなくなった。人種の違う子はどこの国でも好奇心の的になり、親しい友達もなかなか出来ない。寛も学校がきらいになり、三年生の時には登校拒否になってしまった。それまで尚子は、自分の考えをあからさまに主張したりすることはなかったのだが、その時は寛の学校のために日本へ帰ると言いはった。工場の建設はあと一年たらずで完成する。せめてそれまで待ってはどうか。一年くらい進級がおくれても、大きな影響があるわけでないと龍三が言ったが、尚子はその気になれなかった。幼児のときの経験は、わるくすると一生つきまとい、能力を抑えこむようなことになるかもしれない。子ども同士が仲よく遊べるような環境を寛に与えてやりたい。尚子は、
「自分の子のために親が犠牲になってやるのは当然だわ」
 と言いはり、龍三は、
「おれと子どもとどっちが大切なんだ」
 と呶鳴どなったりした。 それがもとで尚子たちは、口をきかなくなったのだが、三日目龍三のほうが折れ、日航の切符をとってくれた。それで尚子は寛を連れて、三重の実家へ戻ってきた。その時、じっと顔を見られながら尚子は、母から、さぐるように、
「おまえ、龍三さんのことが心配でないの」
 と言われた。むろん心配でなくはないが、心配でたまらないというようではなかった。すると居合せた父が、ぷいと立ちあがり、茶の間から出て行きながら、
「おまえは間違っとる」
 と言った。尚子は胸もとを突きとばされたような心地になったが、それ以上深く考えるいとまがなかった。近くの小学校へ寛を入学させたり、おくれた勉強を教えたりするうち、東京の本社から社宅があいたという知らせがあり、そこに住まなければならなくなった。それで尚子は上京し、空いた社宅へ住み、家具や家庭用品を買いととのえ、いくらか造作もして、寛を上京させ、また新しい学校へ入れた。
 やがて年の暮れに、龍三はカナダから戻り、本社勤務になったが、半年たたぬうちに、イランへ石油コンビナートをつくりに出かけていった。年に二度の休暇があり、そのたび龍三は戻ってきたが、それが五年も続いた。漸く工事が完成し、龍三が本社へ戻ってきたときには、寛は中学生になっていた。もう外地への出張はしないと龍三は言っていたが、半年後には九州支社へ転任になり、九州、韓国、台湾の現場の采配管理をうけもたされた。何年か後には、九州支社長になり、役員になるコースだということだった。少なくとも五、六年は九州で暮らさなければならないので、龍三は一家そろって博多へ移りたがった。しかし尚子は、とても九州の高校からでは、東大へは入れない、それにこれから学校をかわれば、寛自身も友達をつくるための努力で、勉強に身が入らず、ましな高校へすすむことが出来ないかもしれない、寛にとっては、人生を左右するような大事な時期だから、転校させたくないと言いはった。そういう時に龍三が説得しようとすると、口論になり、気まずい思いをしなければならない。遠い外地とは違い、二時間もあれば帰ってくることが出来る距離である。近頃、社内にも単身赴任をする者がふえている。通いの婆やでもやとえば、さして不自由もないだろう。むろん尚子が一緒に来てくれないのは淋しいが、独り暮らしには馴れている。それに龍三も部長だし、部長くらいになると、仕事が山ほどあって、家でごたごたする暇などない。結局龍三は独りで九州へ移っていった。それからずっと土曜日になると九州から帰ってくる生活がつづいている。しかもこのごろでは、
「仕事で今度は帰れないよ」
 と電話をかけてくることが多くなった。
 龍三が九州へ赴任していった頃は、あれこれ相談したいことがあり、龍三が帰ってくるのを待ったりすることもあったが、一年二年とたつうち、尚子は帰ってきてくれなくても、別になんとも思わなくなった。月々龍三が四十万ほど家計費を渡してくれるので、金のことでは不自由しない。長い外地勤務で、あまり金をつかうことがなかったから、貯金も家を建てられるほどたまっている。とくに龍三が必要になるようなこともないからだろう。そのうち尚子は、龍三が帰ってくるのを、あまり歓迎出来なくなってきた。帰ってくれば、亭主なのだから気をつかわなければならない。それが面倒なのである。土曜日が近づくと、気が重くなってきたりしはじめた。そういう日がつづくうち、近頃は、龍三との仲がスムーズでなくなり、龍三そのものがうとましくなっている。
 龍三は土曜日の夜、九州から戻ってきて、酒をのみ夜食をたベ、それから湯に入って二階へあがる。それから尚子を抱き、用をすますと、鼾をかいてたちまち寝てしまう。それが土曜日の日課になっている。あくる日には、尚子の相談事を聞きはするが、滅多に自分の意見を言わない。尚子の好きなようにやれというだけである。そして午後になると着替えなどをバッグに詰め、さっさと九州へ行ってしまう。ただ、その用足しのために帰ってくるというふうである。多分、用足しの道具のようにあつかわれることが、尚子からベッドの快感をうばったのだろう。尚子は次第に抱かれることがうっとうしくなってきた。それがこうじて近頃は、さわられるだけで、ぞっとするような時がある。もとより龍三を愛していないわけではないし、尚子と寛のために人の倍ほども働いてくれていることに、感謝もしている。いやだという気持ちを、自分で強く抑制しているのだが、それがかえって気持ちを複雑にするばかりだった。もっと龍三のためになにかしてあげたいと思うのに、それがスムーズに出来ないのだった。
 愛が足りないといえば、その通りなのだが、しかしほかの男と浮気をしようというような気もおこらない。むろん龍三と別れるなどということを、ただの一度も考えたことはない。どうして龍三がこんなにうっとうしいのか、その理由が尚子はよくわからないのだった。
 日曜日の午後になると、龍三は九州へ帰って行く。
 龍三が居なくなると、尚子は、寛のために夕飯の支度をしてやる。火をつけさえすれば、それで出来あがるような鍋物なんかをつくっておく。その支度が出来ると、それを寛に教えておき、それから二階へあがって行く。ベッドにもぐりこんで、こんこんと眠りつづけるのである。
 あくる日の朝は、早く目を覚し、朝食をつくり、それを寛にたベさしてから、学校へ送りだす。食事のあとかたづけをすますと、もういちどベッドにもぐりこむ。二、三時間ほど眠り、昼頃目をさます。龍三がなんとなくうとましくなりだした頃は、二度目の眠りから覚めるとすっかり気疲れがぬけ、体に生気が戻っており、なんだかじっとしていられない。昨日の苦労でうしなったものをとり戻そうとするように、むやみに遊びたくなってくる。むろんひと年とった主婦の遊びは、ごくごくかぎられている。渋谷の盛り場へ出かけて、店々をのぞいてまわるとか、親しい奥さん連中とおしゃべりするとか、テニスをしに出かけるくらいのことしかない。それでも尚子は、軽い昼食をすませると、たちまち家を飛びだして行ったものだった。外に出れば、いろいろ刺戟しげきがあるし、テニスに出かければ素敵な男性とも会える。そういうところで会う男性たちは、商店の主人や勤めていない芸術家や俳優たちで、それぞれ個性的な雰囲気を持っており、やさしい感触の人が多い。そういう人たちとしばらくプレーをしたり、雑談したりしていると、からだの中のしこりが消え、血のめぐりがよくなってくる。それにプレーで全力をあげると大きな快い気分が満ちてくる。
 しかし龍三にさわられると、うんざりするようになった頃から、尚子はあまり外へ出なくなった。じっとしていられないような気持ちが、はずんで来ないのである。家にとじこもっているからといって、ぼんやり寝そべっているわけでもない。家の中には掃除洗濯つくろいものから料理などと、際限なく仕事がある。まるで仕事の倉庫みたいである。それに一日なん人ものセールスマンがやってくるし、社宅の奥さんたちもやってくる。ぐずついた気分でなんとなく一日をすごすのである。しかし、そういう雑事の流れが切れ、白っぽいような時聞がはじまったりすると、たちまち、
 どうしてこんなにうっとうしいのだろう?
 もうあの人を愛してなんかいないんだろうか?
 というような思いにとりかれる。
 社宅の奥さんたちからも、よく、
「男って目をはなすと、なにをするかわからないわよ。わたしだったら心配で、とても単身赴任なんかさせられないわ」
 と、さぐりを入れるように言われる。もとより尚子にしても、そうした心配をしないわけではないが、その心配よりも寛の勉強のほうが気にかかり、とても九州なんかに行く気がしないのである。カナダに龍三をのこして日本に戻ってきてから、もう何年も似たりよったりの別々の生活がつづいている。そんな生活をよしとしているわけではなく、世間の夫婦のように尚子も親子三人一緒に暮らしたい。しかしそういう生活をするためには、今の会社ではない、もっと仕事の楽な会社に移らなくてはならない。給与も安く寛の学資も満足にまかなえないような生活をするか、淋しく不自由であっても今の生活をつづけるか。龍三と尚子は、今の生活をえらんだのだから、心配は覚悟のうえなのである。あれこれほじくってみてもはじまらないのだと、尚子は自分に言い聞かせている。その通りにやっている。
 それがなぜ今頃になって、うとましく思えだしてきたのだろう?
 ここ三年ばかりというもの、龍三がうとましくなったのは、寛との仲が変ってきたせいかもしれない。高校へ入り、勉強がふえてから、寛は学校から戻ってきても、応接間を少し改造した自分の部屋に入り、夕飯まで部屋から出て来ない。夕飯をすましたあとも、さっさと部屋に帰って行き、あれこれ尚子と話しあうようなことをしない。むりやり尚子がひきとめ、話しかけると、
「勉強の邪魔をしないでくれよ」
 とすぐ機嫌がわるくなる。いつも尚子は居間にとり残され、独りぼっちで御飯のあとかたづけをしなければならない。受験勉強で寛は気持ちにゆとりがなくなっており、とげとげしいのである。まるで寛が自由にならないのである。いずれ子どもは巣立つものだと思っているのだが、しかし淋しくて物足りない。このせつない気持ちを、龍三は少しも気がつこうとしない。多分、尚子がたえきれなくなって、そのせつなさを話せば、
「だから九州へ一緒に来いと言ったんだ。子どもは、自分じゃないんだ。子ども自身の人生を生きて行くんだ。こうなることはわかりきってるんだ」
 とにべもなく言われるに違いない。なにか手も足も出ないような八方ふさがりみたいなことになり、そのいらだちが龍三をうとましく思わせだしたようである。もっと龍三が尚子の気持ちを理解して、なぐさめたりはげましたりしてくれれば、ずっと救われる気がするのだった。
 むろんそんなふうに龍三がなぐさめてくれたりはげましてくれたりするためには、もっとむつまじい生活がなければならない。しかし、最初のときから、そういうむつまじくあまい生活をのぞんだのではなくて、経済的にもゆとりがあり、亭主は大手のエリート社員で、将来は役員になれる。子どもは秀才で東大に通っているというような暮らしを、思い描いていただけである。その思い描いたとおりの生活を尚子は手にしており、十分満足もしているのだが、どうかするとそこから足を踏みはずし、うっとうしい気分にとり愚かれるのだった。とくにその日は、うっとうしい気分がつよく、なにをする気もおこらなくて、居間のソファに腰かけ、ぼんやりテレビを眺めていた。
 ちょうどその時、居間につづいた台所の勝手口から、
「上るわよ」
 という声がし、隣の井沢の奥さんと藤波庶務課長の奥さんとが、どやどやっという感じで、台所へ入ってきた。井沢の奥さんと藤波の奥さん、それに尚子の三人は、なんとなく気が合い、買物などにもよく一緒に出かけて行く。本社のプロジェクト部門の渉外部長の井沢は、外国出張が多く、奥さんの珠子は、尚子とおなじように独りのことが多いのだが、却って独りのほうが気儘きままが出来るといって、あっけらかんとしている。昔、社のバレーの選手だった珠子は、体も声も大きく、男みたいである。その珠子が、
「大変よ、森田さんの奥さんが、蒸発したわよ」
 がらがら声でそう言いながら、どしんと食卓の椅子へ腰かけ、食卓へ腕をのせた。珠子が話すと、哀しいことも哀しくなくなるようなところがあるのだが、それでも尚子は、えっとショックをうけた。森田は営業部の事業拡大促進チームのボスをやっており、日本中を飛びまわっている。月のうち十日ほどしか家に帰って来ず、帰ってくるのは夜半すぎである。まだ小さい学校前の子どももおり、尚子はすぐ子どものことが頭にうかんできて、藤波の奥さんの美穂のほうを見た。おっとりした面長おもながな顔の美穂の社宅は、森田の家の隣である。美穂は瓜実顔の美人で、一見おっとりしているが、なかなかおしゃべりである。
「昨日の夜から居なくなったのよね。森田さんは二階で独り寝ているのよね。夜中に酔っぱらって戻ってきて、子どもたちを起すもんだから、奥さんは階下で子どもと一緒に寝ているのよ。夜中の二時三時に、二階からオーイオーイと奥さんをよんだりしていたわね。昨日も森田さんが帰ったときは、奥さんたち寝ているものと思って、二階で寝たらしいわ。今朝になって、枕許に置手紙があったのに気がついたのね。それで大騒ぎになったのよ」
「お子さんたちは?」
「二人ともおいて蒸発したのよ」
「理由はどういうことなの?」
「一年くらい前にも、いちど騒ぎがあったのよ。その時は、奥さんがこれ以上、こんな生活はつづけられないから別れましょうと言いだしたのね。あの奥さんは、黙って主人について行くというタイプでしょ。じっと辛抱していたんだけど、辛抱しきれなくなったのね。なんたって森田さんって鋼鉄みたいな人でしょう。日曜といえばゴルフだし、雨が降れば麻雀なのよね。半月以上出張で、家にいるときは十日くらいじゃないかしら。その十日は、毎晩、二時三時でしょ。家族みんなで揃って御飯をたべることなんて、滅多にないのよね。この前のときは、奥さんは、わたしはあなたの会社と結婚したのではない、あなたと結婚したのよ。そのあなたは、身も心も会社に捧げるつもりだから、これ以上あなたについて行けません。わたしはわたしの倖せがほしいんですと言ったらしいわ。森田さんは、奥さんがそんな気持ちでいるなんて、全然気がつかなかったのね。家のことは奥さんにまかせ、社の仕事を目いっぱいやるのも、奥さんや子ども達のためだと思っているからなのね。奥さんに言われてみて、自分が家族たちとの生活をまるでしていなかったことに気がついたのよね。おまえにそんな淋しい思いをさせていたとは、知らなかった。おまえたちと一緒の時間もふやし、出来るだけ早く戻るようにする。どうか出て行かないでくれ、このおれを見捨てないでくれと泣いて頼んだそうなのよ。そうそう、二カ月くらい前のことだったわ。森田さんと奥さんが夜更けに口論していたことがあったわ。相変らず森田さんは午前さまだし、出張も多いし、ちっとも家庭をかえりみないのよね。それで、奥さんは、家庭をうまく築けないような会社に勤めていることないでしょ。ほかの会社へかわればいいでしょと言いだしたのね。そしたら会社をかわれば、給料も少なくなるし、こんな社宅にも住めなくなるんだぞとわめきだしたのよね。あの奥さんは、見かけはつつましくてひかえ目な感じだけど、根性ガッツがある人なのよ。あなた、なに言ってるんです、こんな社宅があったり給料が少しくらいよいというようなことが、人の倖せの役に立つと思ってらっしゃるの、そんな人なの、あなたという人は、なんて言ってたわ。森田さん、ぐうのもなかったわね」
「子どもたちを置いていったのは、帰ってくるつもりがあるからじゃないのかしら?」
「そうかも知れないけど、ちょうどうちの人が靴をはいている時、血相変えて、森田さんが飛びこんできたのよね。置手紙をうちの人に渡して、今日は社を休むから、うまく社のほうへ話を通しておいてくれと言うのよね。わたしもその置手紙をみせてもらったけど、奥さんはすごくはっきりしてるのよね。森田さんのように会社へ身も心も捧げるような人がいても、そのことについては、別に非難をする気はない。しかし、愛を誓って結婚したからには、わたしや家族のために倖せな生活を築く責任がある。その責任をまるで果そうとしない人と、この先、何十年も一緒にやって行く気にはなれない。たった一度きりの人生を、間違っていると思う生活ですごすことは、とうてい出来ません。子ども達は可哀相ですが、わたしにはとても育てて行く力がありません。出来ることなら母のもとへ送りとどけてください。そういうようなことが書いであったわ。奥さんの字は、いい字だったわよ」
 いいかげんな生活でなく、がっちりとした家庭をつくることは、女の大きな願いである。森田の小柄なひかえめな奥さんが、いいかげんな生活ときっぱり縁をきったことは、つよい衝撃を珠子や美穂にあたえていた。暫く珠子たちは、猛烈会社のために家庭がうちのめされていることを、繰返しぼやいていた。しかしそういうぼやきは自分の不甲斐なさを思い知らさせるばかりである。そのうち気が重くなり、お喋りも億劫おっくうになり、
「買物にでも行こうよ」
 と珠子が立ちあがった。
 二人が帰って行き、独りになると尚子は、ショックからぬけだせず、なんとなくあせりだした。とくに応えたのは、森田の奥さんが会社をやめればよいと言ったところだった。珠子たちも猛烈会社のせいで、家庭はめちゃめちゃだとこぼしていたが、尚子はそんなふうに考えたことがなかった。考えたことがなかったのが、尚子をあせらせだしたのだった。たったいちどきりの人生なのだから、こんな暮らしをつづけるよりも、もっと倖せな、自由な生活があるかもしれない。たしかにそうなのである。満たされない生活にくすぶっている必要はないのである。しかも森田のおとなしい奥さんにくらべれば、尚子は書や生花のアルバイトが出来、独立することもむつかしくない。にもかかわらず、ただの一度もこの暮らしから出て行く気になったことがない。実際龍三には、あれこれの不満もあり、今では触れられることさえいやなのだが、別れようと思ったことがない。
 いったいどうして、この生活から飛びだす気がおこらないのだろう?
 きっと自分は、森田の奥さんと違い、大手の会社に勤めていることや、ちゃんとした社宅が与えられており、月々少なからぬ給与を渡してもらえることのほうが、亭主の出来よりずっと大事に思えるにちがいない。なんて女なんだろうと、いらだたしくなってきだしたのだった。むろんそういう思いは、あまりたのしいものではない。なんとなく思いが核心にむかいだすと、尚子はさっさと立ちあがった。買物籠をさげ、珠子たちのあとを追って家を出ていった。

 火曜日と木曜日には、尚子は書の塾に出かけて行き、三時すぎから集まってくる子供達に、書き方の指導をする。金曜日の午後は、一時からはじまる生花の講習会へ出かけて行き、師の徳永仙水の助手をつとめ、それぞれバイト料を貰う。
 子供の頃から、尚子は家にやってくる生徒たちを両親が教えているのを、目のあたりに見ているし、高校生の頃には小学生の勉強をみてやったりしていたから、教えるコツのようなものを心得ており、子供たちに評判がよい。尚子自身も家でぼんやりしているより、バイトをしたほうが儲かるので、このごろわりに休まずに出かけている。
 その日は少し寝すぎて、尚子は寛を起すのが十分ばかりおくれた。起きだした寛は、朝御飯の並んでいるのをみたが、
「テストにおくれるじゃないか」
 と尚子をにらんで、御飯もたべずに出ていった。その寛の形相は見たことがないほどすごくて、尚子はぎょっとしたほどだった。自分が寝すぎたのに、それを棚にあげて親をとがめるとは、あまりにひどすぎる。きっと昨日の勉強がうまく進まなくてあせっているのだろう。尚子は自分にそう言い聞かせたが、そのショックがぬけず、朝から重い気分に閉ざされた。なんだか寛が家庭暴力児になるような気がしたり、受験に失敗するとやけっぱちになるのではないかと思えたりした。家にいるとむやみにあれこれの思いがうかんでくるので尚子は、ひるをすぎると塾へ行く支度にとりかかった。少しはやめに家を出ようとしたとき、電話がかかってきた。きっと寛からだと思って、急いで電話に出ると、寛ではなくて博多の龍三からだった。
「明日本社で会議があるんだ。遅くなるかもしれんが、今夜帰るよ」
 うれしそうな声でそれだけ言うと、電話はがちゃっときれてしまった。いつもの通りの電話である。受話器をおいた尚子の耳に、そのうれしそうな感じが薄気味悪くじっとりと残った。ちょうどいい機会だから、寛のことを龍三に話してみようと思ったが、それと同時にたちまち鼾をかいて寝る龍三の様子がうかんできた。話したところで、相談にのってくれそうにもないし、わるくすれば、
「お前のやりかたが悪いんじゃないか、過保護だよ」
 とやられるかもしれない。
 尚子はともかく寒い表に出たのだが、塾へ出かける気持ちがまるでなくなった。それで尚子は、塾のほうへ電話をかけ、主人が帰ってくることを理由にして休ませてもらうことにした。
 休みをとったものの、したいことがあるわけではない。たちまち尚子は時間をもてあました。もうそろそろクリスマスなので、風はつめたいが、天気がよく晩秋のような気配がある。この天気なら、テニスコートには社宅の連中が出かけているかもしれない。わっと騒ぎたいような気分になって、ぶらぶらうっとうしい顔で、テニスコートのある区の運動場へ出かけていった。区のテニスコートは運動場の端にあって、高い金網にかこまれている。近づいてみると、朝の霜でテニスコートは使用中止になっている。やってきた連中が、グランドのほうで、駈けっこをしたりしている。そのうち尚子は、誰もいない金網のところに、茶色の革のハーフコートをきた男がいるのに気がついた。がらんとしたテニスコートのほうを金網にすがりつくようにしてその中年の男は、じっとみつめている。なんとなく哀れっぽい感じがその男にあふれている。なんとなくその感じにひかれて近づいて行くと、森田である。森田は社を休んでいるらしい。それにしてもなぜこんなところにいるのだろう。尚子が立ちどまると、その気配で、森田がふりかえった。
「やあ、奥さん」
 と声をかけてきた。森田は鋼鉄のような岩乗がんじょうな体の男で、それこそ踏んでも蹴っても死なないような感じである。いつも元気な挨拶をし、ブルドーザーのように人なみの中を突進して行く。ごつくて強い感じの男なのだが、その猛烈な感じのところがまるでなくなっている。助けを求めるようなひよわいまなざしになっており、疲労が顔にあふれでいる。なんだかすげなく出来なくて、尚子は、
「なにしてらっしゃるの」
 と言いながら金網のところへ近よっていった。
 森田は誰でもよいから話をしたくてたまらないというように、すぐ喋りだした。
「あいつのね、荷物をつくっていたら、ラケットやシューズが出てきたんですよ」
「荷物って、奥さんの居所がわかったんですか」
「いや実家へ送ることになったんでね。あいつがテニスをやっていたなんて、これっぽっちも知らなかったんで、驚きましたよ。ほんとにわたしは、なにも知らなかったんですな。あいつが出て行ったのもあたりまえだとつくづく思いましたよ。どうかしていたんですよ、わたしはね。給料を貰ってやりさえすれば、家族は好きなことが出来るんだから、それで倖せにしてやったというような気でいたんです。わたしが頑張れば、頑張るだけ家の者は倖せになると思っていたんですよ。金で倖せが買えるわけはないと承知しているのに、いい気になったんですよ」
「奥さんの行方はわからないんですか」
「あれっきりですよ。探して見つけだしても、もう帰ってはくれんでしょう。わたしが会社をやめないかぎり、おなじことの繰返しですからね。子ども二人を育ててやるためには、今の社をやめることは出来ないですからね。お宅の山川さんのような技術があるわけじゃあないから、ほかの勤め口もみつかりませんよ。これで行くよりしょうがないですよ」
「奥さん、探してくれるのを待ってらっしゃるんじゃないでしょうか」
「いやそんなことはないでしょう。子どもをおいて出て行くなんてことは、あいつに出来ることじゃないですよ。それをやったんですからね、尋常の覚悟ではないでしょうからね。おかしなことなんですがね、あいつに逃げられてみて、あいつを愛していることがよくわかりましたよ。あいつを連れもどすより、あいつの好きなことをやらせてやろうという気になりましたよ。あいつがうしろ髪をひかれぬように、子どもたちをちゃんと育ててやりますよ。それにしてもあれですね、つまり結婚というものを、あまく考えていたんですよ、わたしはね」
 うしろから強い風が吹きぬけて行き、グランドのほうで淡く土埃りを舞上らせていった。
「お茶でものみましょうか」
「そうですね」
 それから尚子と森田は肩を並べて歩きだした。グランドを出たところに、うまいコーヒーをのませる店があるのである。

 森田の奥さんが蒸発したという話は、中堅社員にとってはショッキングな出来事なのだろう。九州支社にもその話は伝わっていた。
 十時すぎ戻ってきた龍三は、風呂に入ってくつろぎ、夜食にとりかかると、すぐその話をもちだした。
「森田の細君が蒸発したそうだな。相手の男は塾の教師だとかいう話だな」
 むろんそんなことは、根も葉もない噂にすぎない。そういうことではなくて、あまりに社の仕事がいそがしすぎて、家庭の団欒などもなくなり、思うような家庭をつくることが出来なくなり、奥さんはかなりまえから、もっと家庭のために時間をとれるような会社へかわることをのぞんでいたんだけど、森田さんはそういう気になれなかったのね。それでたまりかねて、奥さんは家を飛びだしたのよ。尚子はそういうふうに話したのだが、龍三はまるでそれを信じなかった。
「母親にとっては、子どもは自分のかけらみたいなものさ、部分なんだろう。とても子どもをおいて出ていったり出来るわけのものじゃないんだ。子どもを捨てられるのは、男が出来た場合だけだ」
 あまり龍三が確信に満ちた言い方をしたので、あきれて思わず尚子は、龍三をみた。このところ龍三の顔をしげしげと見たりすることがなかったせいで、気がつかなかったのだが、この数年、管理者として働いているせいだろう、以前のようなすっきりした顔でなくなっている。どことなく一種の威風のある顔になっている。多分職場では、少々間違ったことを言っても、いいかげんなことを言っても通用するのだろう。それが龍三の言うことをぞんざいにさせている。人間のことを、ぞんざいに割りきって、少しもためらわない、無神経さをまるで反省出来ないようである。むろんどんな反論をしても、とうてい理解することが出来ないに違いない。森田さんの奥さんは、ここには生活はあるけど、人生はないと言ったそうよ、と尚子は言ってやりたかったが、とても龍三にはわからないだろう。もうそれ以上、尚子は論争する気がなくなってしまった。
 明日は早朝から会議があるので、酒はひかえ、その夜食をたべると龍三は、さっさと二階へあがってしまった。あとはいつもの通りで、用を足すと龍三は、たちまち鼾をかいて眠り、とうとう寛のことを話すような気持ちもチャンスもなかった。そればかりでなく尚子は、なかなか寝つかれなくて、とてもこのまま龍三と一生をともにすることなど出来そうもないと思えだした。そのうち寛は大学を出て自立して結婚もするだろう。いつの日かは龍三も停年になり、社をやめ二人で暮らさなければならなくなる。こんな荒っぽい、人の心がわからぬような龍三のおりをして老いさらばえて行く人生など、とても我慢することは出来ないだろう。そういうことになれば、今のうちに別な生活をえらんだほうがよいにちがいない。今ならまだ若さも残っているし、新しい人生をきりひらくことが出来そうである。むろんそれはそう簡単に出来ることではない。いざというときになれば、あれこれ悩むことが出てくるだろうが、しかしそういう思いに尚子はその夜はじめてぶつかったのだった。
 あくる日、龍三は、社から電話をかけてきて、急にイスラエルへ出張しなければならないと言ってきた。これから九州に帰り、明日イスラエルに発ち、暮れの三十日には帰ってくると言った。「石油の海底備蓄のプロジェクトなんだ。事情は帰ってから話すよ」
 その話しぶりで、尚子は、また外地勤務がはじまるのだと思った。念のため珠子に頼んで、そのことを調べてもらうと、思った通りだった。このほど海底備蓄の技術を開発したところ、早速、イスラエルから註文が飛びこんできたのである。五カ年計画の事業で、その指揮を龍三がとることになったそうだった。海底備蓄の技術はいずれ原発の汚染廃棄物用の捨て場にもつかえるようになるので、社では最優先事業としている。半世紀くらいはその需要がつづくとみており、当分龍三は外地暮らしをつづけることになるだろうという話だった。
「来年は役員だそうよ」
 とも教えられた。
 珠子には、山川さんはやるわねえと羨ましがられたが、尚子は少しもうれしくなかった。五年もの海外生活ということになると、単身赴任は無理である。これまでの現場の技師とちがい、采配管理が仕事だし、イスラエル政府と緊密な協力をしなければならない。あれこれの会合や儀式には夫妻で出席しなければならぬこともあるにちがいない。なんといっても龍三はもう若くはないから、親身なパートナーが必要なのである。しかし尚子は、とても龍三と二人きりで、外地生活をする気にはなれなかった。だいいち寛を一人、東京へ残しておくなどということが出来るわけもない。寛のためにも、どうしても龍三を説得して、この危機を乗りこえなければならない。
 暮れまではまだ十日近くある。その聞に、しっかりした理由を考えておかねばならない。尚子はあせりだした。

 そのクリスマスがおわったあくる日の夜のこと、尚子が風呂を落して寝間着に着替えたばかりのとき、珠子が手を貸してくれとさけびながら勝手口から飛びこんできた。美穂が睡眠薬をのみ、自殺をはかったというのである。
「病院へ連れて行かなきゃならないのよ」
 事情はよくわからないが、ともかくほってはおけない。急いで着替えをして、表に出て行くと、粉雪が降っている。その粉雪の中を駈けて美穂の社宅へ出かけてみると、高校生と中学生の子どもたちに、とりすがられて、美穂はこんこんと眠っていた。そこへ救急車がきたので、珠子と尚子が連れそって、病院へ運んでいった。すぐに美穂は診察室に連れこまれ、胃洗滌せんじょうをしてもらった。どうやら致死量ぎりぎりの量しか飲んでなく、手当が早かったので、美穂は一命をとりとめた。
「もう大丈夫です」
 と医師からいわれるまで、尚子は寒い廊下の長椅子で、がたがたふるえながら、珠子から美穂の自殺の原因を聞いていた。珠子の話では、藤波が女をつくり、別れ話を持ちだしたそうだった。相手が渋谷で小さい飲み屋をやっている二十はたちくらいの若い女だというので、はじめ美穂は吹きだして、歯牙しがにもかけなかった。ところがボーナスの日から、藤波が社宅へ帰って来なくなり、会社のほうにも出ていない。それで美穂は漸くうろたえだし、渋谷のその飲み屋に出かけてみた。ところが藤波は飲み屋の中で向う鉢巻きをして、いかにもうれしそうにいきいきと酒のさかなをつくっている。そんないきいきした藤波を美穂はこれまで見たことがない。そのうえ、まだ二十そこそこの若い女に、
「連れて帰ったって、どうもならないわよ。あんた達にはもう愛がないんだからね。また舞い戻ってくるわよ、この人はね」
 とやられたのだそうだ。それがこたえて、とうとう美穂は睡眠薬をのんだというわけだった。
 珠子と尚子は、子供もいることだし、なんとかもと通りにしてあげようと話し合い、あくる日、渋谷の藤波に会いに出かけていった。やっと探しあてたその女のアパートで、赤い炬燵かけの炬燵に入っている藤波と会ったのだが、美穂が歯牙にもかけなかったその若い女が、なかなか藤波によく尽す。肩を揉んでやったり、お茶を入れたり、煙草に火をつけて渡してやったり、藤波になにもさせないという有様である。どちらかといえば珠子も美穂も男女平等主義で、亭主に自分のことは自分でやらせるほうである。そういう尽しぶりを見ると、もうなにも言えなくなってしまった。こっちのほうが、男にはいいのにきまっている。
 結局藤波は会社をやめてしまったし、美穂は命をとりとめたが、社宅へ帰らず、病院から、実家へ子供を連れて帰っていった。手伝いにいった珠子と尚子に、別れしな、しみじみした口ぶりで、美穂は、
「女ってつまらないわね、四十をすぎると、ただもうたそがれた冬の道を歩いて行くしかなくなるのね」
 と言って、涙を指先で抑えた。
 それにしてもたった四五日のうちに、美穂は見違えるほど老けこんでしまった。それをつぶさにみたせいで、尚子は、自分の行先がひどく案じられはじめた。ともかく龍三はあてにならないから、寛だけはしっかり羽根の下に入れておかなければならない。もっとあの子に尽してやらなければならない。そういう気持ちが燃えあがってきたのだが、そう思う通りには行かない。あと三日で龍三が戻ってくるというのに、突然、寛が大人びた顔つきで、尚子を脱むようにして、
「おれ、明日から、沖縄へ行ってくる。高校の最後の休みだし、親父をみると、いやになるからさ、可哀相でさ」
 と言いだし、独り尚子をのこして、旅行に出ていってしまった。
 実際それは痛烈なダメージを尚子に与えた。これまでの長い長い歳月、ただ寛を立派に育てることに、尚子は専念してきたのである。自分の希望も欲もすて、むろん龍三のこともあとまわしにして、寛の面倒をみてきたのである。これまでの人生で、尚子がしたことといえば、この寛を育てあげたことしかない。たった一つきりの努力の結晶が、いつの間にか思いがけないものになっていたのだった。龍三を可哀相で見ていられないと言ったときの寛の顔には、憎しみに近いものがにじみ出ていた。それは昨日今日で出来たものではなく、長い歳月の中で培われてきた、根強い感じが籠っていた。
 ずっと前から、寛は、龍三だけを外で暮らさせることを、反対していたにちがいない。たまに戻ってくる龍三をもてなす尚子の態度も不満だったに違いない。尚子はあれもこれも寛に与えてきたのだが、最も肝心な家庭や父親を与えてなかったのである。それが子どもにとってそれほど必要なものとは、ほんとうに尚子は考えたことがなかった。自分が龍三をほしくないように、寛にも必要ではないと思いこんでいたのである。
 いったいどうしてそんなことになったのだろう?
 その答は、わりとスムーズにうかびあがってきた。結婚がこんな大きな内容を持ったものとは思わす、背の高い夫と収入と家と子どもで出来上るものだと思っていたからにちがいない。背の高い夫も手に入れたし、収入もあり、子どもも出来たのだが、それが揃ったところで、なにも出来あがっていないことが、はっきり見えだしたのだった。なによりも助けあったり、話しあったり、限りなく愛し合えるような夫をえらばねばならなかったのに、それを気づかず、安直に結婚してしまったのである。傍目はためからは、よい結婚とうらやましがられたり、倖せな奥さんと思われたりするので、なんとなく尚子自身もそんな満足を抱いてきたのだが、その結果がこういうありさまなのである。たちまちきつい長い日がはじまった。
 いつも寛は学校へ出かけて行くので、日中は尚子独りになる。もう十何年もそういう日がつづいており、それに馴れきっていたのだが、寛が飛びだして行くと、独りぽっちの淋しさに尚子は耐えられなくなった。いまに寛は大学を卒業し、きっとある日、
「おれ、会社の近くへ移るよ」
 と言い、さっさと出て行くに違いない。龍三は海底備蓄場の建設で外地で暮らしており、自分は独りでここで暮らさなければならない。病気をしても看病してくれる者もなければ、食事をつくってくれる者もない。いつ起きだしても家の中はがらんとしていて、話しかけても答えてくれる者はいない。そんな生活は生地獄である。やはり龍三と気持ちが合わなくても、一緒に暮らすほうがまだしもである。
「あなただってもう若くはないんだから、外地での独り暮らしは無理だわ。寛が大学に入れば、しっかりしたところへ下宿させて、それからあなたのところへまいりますわ」
 帰ってきた龍三に話すせりふも出来あがった。多分それで龍三もよろこび、万事うまく行くようになるだろう。
 丸二日の間に、そういう手立てを考え、あとは龍三を待つだけになった。しかし、明日は龍三が帰るという前の夜になって、尚子は突然気がかわった。湯に入り、二階にあがり、ベッドに入り、眠ろうとしはじめたとき、尚子は不意になにもかもがいやになってしまった。その思いは龍巻きのように、尚子へ襲いかかってきた。寛は自分のことしか考えていないし、龍三は仕事のことがなによりも大事なのである。なぜ自分だけが好きなこともせず、のこのこあとをついて行くような生き方をしなければならないのか、それが我慢出来なくなったのだった。
 わたしだって、もっとみんなに大事にされたいのよ
 たったいちどきりの一生を、ひたすら忍従してすごすなんて、わたしが許さないわ
 それが終ると尚子は、いく枚かの着替えをスーツケースに詰め、やがて夜明けの表へ出ていった。てつくように寒い表で、社宅のわが家をふりかえって眺めてみると、なんだか尚子は二度とこの家へ帰って来ることがないような気がした。

 東北の山深くの湖のほとりのその温泉場は、ひなびた温泉宿が数軒並んでいるだけだった。
 宿の女中さんの話では、
「いつもはひまなんですよ。雪になると帰れなくなりますから、冬はお客さんが少ないんです。今年は、あたたかくて冬がおそいから、お客さんが多いんです」
 ということだった。きっと閑静でものさびしいところだろうと思っていたのだが、子連れの客が多く、一日中、子どもたちの騒ぐ声が聞えていた。静かな山の中で、いったい自分がどんな人生を生きたいのかを、つきつめて考えてみたくて、ここにやってきたのだが、その思惑はいささかはずれた。むろん夜になれば、子供達のざわめきも足音もなくなり、静謐せいひつな山気にかこまれた時聞がやってくる。もの思うのにはことかかないのだが、なんとなく尚子は、つきつめた気持ちになれなくなった。
 どういうふうに生きて行こうか?
 子ども達に書き方を教えたり、会社の女子社員たちに生花の手ほどきをしたりして、一生独りで暮らせるだろうか?
 この年になって、新しい夫につかえたりする面倒なことが出来るものだろうか?
 もっとなにか生きているあかしをのこせるような仕事に、一生をかけてみたいとか、あれこれの思いが脳裡をかすめてくるが、これといった答が出ない。そのうえ元旦の午後になって、近所の宿にとまっていた中年の女の人の水死体が湖であがり、大騒ぎになった。その中年の女の人とは、尚子は一度湖畔で会っている。湖畔のベンチに腰をかけ、暮れかける湖面を眺めていたとき、その女の人がだるそうにやってきて、尚子の隣に腰かけた。
 どこからきたのか、どこが悪いのかというような話をし、また女の人は立ちさっていった。更年期障害がひどくて、治療にきているのだと言っていた。あの女の人が自殺したと聞くと尚子は、なんとなく落着けなくなり、騒ぎが終ったあと、花を買って湖畔へ出かけていった。岸辺に立ち、花を湖面に投げこみ成仏をいのって帰りかけると、ベンチに腰かけている老人が、声をかけてきた。久保田という日本画家で、例年正月になるとこの温泉場を訪れ、雁の写生をしているという人だった。
 おなじ宿に泊っており、奥さんとは話をしたこともあるので、誘われるまま尚子は、久保田の隣へ腰をおろした。
「そろそろいいものが見えますよ」
 と言って、空をじっと眺めている。眺めながら、ぽつりぽつりと死んだ女の人のことを話しだした。
「あのおかみさんをわたしは知ってるんですよ。仙台の大きな百万石というお菓子屋さんのおかみさんでね、朝から晩まで、店でよく働いていましたよ。さっき旦那さんがやってきて、おかみさんのなきがらにすがりついて、おいおい泣いていましたよ。おまえが死ぬのはひどいじゃないか、あとに残ったおれはどうすればいいんだと泣きさけんでいましたよ。おかみさんは家つきの娘で、旦那は菓子職人で、養子なんですよ。旦那は仙台のはずれにある工場のほうで働いて、夜中に帰ってくる。無口でね、つぎつぎ新しい菓子をつくる男で、おまけに養子でしょう。働いてなきゃ、旦那の口がきけないんで、働きぬいていたんですよ。まだ先代が財布を握ってるんでね。おかみさんのほうは店を九時に閉めて、帳面をして、仕事がおわる。くたくたですよ。旦那と一つ家にいながら、話をするような時がない。自分を旦那がきらいなんじゃないかと、一年ほど前から思いだして、それが昂じてノイローゼ気味だったそうですよ。昨日夫婦になったからといって、それでなんでも通じあえるような仲になれるわけじゃない。夫婦らしい夫婦になるためには、ぴったり一つになって、よく話しあわないとね。いそがしいばかりじゃ、人も心も育たない、もちろん、夫婦も出来あがらない。旦那がどんなに頼りにしているか、それも、おかみさんにはわからなかったんだね。おかみさんがいなけりゃ、旦那は旦那になれないんだから、ほんとにまいっていたね、旦那はね」
 尚子はびっくりして、大きく目をみひらいた。昨日夫婦になったからといって、夫婦になれるわけではないというのが、こたえたのだった。
「おかしなもんですよ、昔は一家が心を合せてせっせと働きさえすれば、商売は繁盛、言うことなしだったのにね、今では働きすぎるとすぐへんなことになる。夫婦仲までがこわれる。おかしな世の中になってきたものだ」
 そう言ったかと思うと、久保田画伯が、
「ほら、あれ御覧!」
 と夕空の彼方を指さした。
 いったいどこから飛び立ったのか、夕空の中へ二十羽ばかり雁が舞いあがり、列をつくった。最初一列に並んでいたが、すぐ横一列になった。横一列になったかと思うと、今度は斜めにA型をつくり、山のほうへむかいはじめた。
「ねえ、雁は何千年も前から、ちっとも変らない。よろこびもかなしみも、ずっとおんなじなんだね。自然はよく出来ているんだね、速度はおそいがいいものを残して行くからね。それにひきかえ人の世の中はだんだんむつかしくなるばかりで、よほど辛抱したり努力しないとまあまあの生活も出来ないからね」
「先生、わたしも死にそうにみえますの」
「それは気のまわしすぎだね」
 雁が淡い黄色がかった夕空に消えると、画伯は尚子に笑いかけながら立ちあがった。
「気をまわしすぎると手もとがおろそかになると、むかしは言ったもんですよ」
 画伯のあとから尚子は帰りはじめたが、なんだか突然目の前が明かるく展けたような心地になりだした。とりわけ昔は働きさえすれば、繁盛言うことなしだったが、今は夫婦仲までがこわれてしまうというところが、大きなショックだった。結婚生活そのものが、昔とちがってたやすく強固に育たなくなっているのに、多分龍三も自分もそのことに気づいていなかったのだろう。式を挙げ、一つ生活をして子どもをつくることで、結婚が成熟するような幻想にとりつかれていたのだろう。そういうことがおこったのは、今の世の中は結婚をはぐくむようなものでなくなっており、よほどの努力をしなければ、よほど愛を深めていかなくては、結婚を育てることがむつかしくなっているせいだろう。
 画伯の目には尚子が、まわりの生活をきょろきょろ見まわし、人におくれをとらぬように、ただそれだけのことに気をつかうだけで、肝心の結婚そのものを育てることを知らぬ女に見えるのだろう。なんてわたしはばかなんだろう。こんな憂目をみたのは、龍三とおなじように、金さえあれば結婚が育つと思っていたせいである。
 すると突然、尚子は、そんな考えを家にもちこんできた龍三が可哀相になってきた。もしかしたら龍三は、尚子自身がそういう女だったから、がめつく働くようになったのではないだろうか。いやいや、そうではない、あの人は根っからそれしかない男なんだ。この山の宿の暮らしがさみしくて、こんなふうに考えているにちがいない。帰りたくなって、こんな気持ちになっているんだわ。
 やがて画伯と一緒に宿へ帰り、独り部屋へ戻ると、電話の前に尚子は坐りこんだ。ほんの暫くぼうっとしていたが、束の間、尚子は受話器をとり、0からダイヤルをまわしはじめた。電話はすぐかかった。龍三がそこに居たように、すぐ電話に出てきた。
「あなた、わたしよ、お目出度うございます」
 電話のむこうからは、いきなり、
「どこにいるんだよ、帰ってきてくれよ、ずっとおれ、眠れないんだよ、おれ、おれ」
 と龍三のはげしい声がしだし、すぐその声が泣き声にかわった。
 ここが正念場だと、尚子は思った。そう思ううちに尚子は、
「ごめんなさい」
 と言ってしまった。あとはいつもの通りだった。
「すぐ帰るわ、すぐ帰ります」
 と答えながら、夢中でしゃにむに自分に言いきかせはじめた。
 うん、結婚して二十年だもの、無駄じゃなかったんだわ、そうよね、なんだかんだといっても、愛していたのよね、それでなきゃ、浮気もせずに、二十年も一緒にいられるはずがないわ、そうよね
砂の音
 喜代の屋台の店は、別れ橋のたもとの火之見櫓ひのみやぐらの下にある。
 橋のたもとの川岸の、根もとが二間半四角のその火之見櫓は、御一新まえのもので、火之見櫓の下の川っぷちには、火之見の者の古びた平屋の長屋が、一棟ひとむねのこっている。
 火之見櫓とその長屋は、指定文化財で、昼間のうちは、長屋のほうに土産物と茶店とが店びらきする。
 タがたの五時かっきりに、土産物屋と茶店が店じまいすると、高い火之見櫓の上の見張り場の二帖ほどのところに、あかるい灯がともる。
 もうかれこれ十年まえのことになるが、川上の鉄橋を渡る夜汽車の中から、喜代はその火之見櫓をみかけた。
 櫓の下のほうが遠目で見えなくて、明るい灯のともった庵室が、空高く浮んでいるようにみえた。
 その時、喜代は、東京のただれた暮しからのがれ、安住の地を求めて田舎へ帰る中途だったので、それがいっそう目にしみた。
 縁あって喜代は、その火之見櫓の下に屋台をだすようになったのだが、いまでもこの場所が気に入っている。自分にふさわしい場所のような気がしている。
 夏は火之見櫓のむこうがわの橋のきわに店をだし、秋が深くなると、今夜のように長屋のほうにうつり、冷たい川風をさける。
 屋台は吹きっさらしで、寒々しくもあるが、季節が家の中をいつも吹きぬけていて、世の中の損得よりも、白然のうつりかわりに、心が傾いて行く。
 一っ箱おいて、浮世とつきあっているような、ちょっぴり浮世のひさしの下をかりて生きているようなのが、喜代の気持にぴったしなのでもある。

 喜代は、三十になったばかりのとき、渋谷で大きな病院をやっている堀川にひかされ、九段の近くに旅館を買ってもらった。
 喜代は男運がわるくて、二十はたちすぎから六人も旦那をもったのだが、どの旦那も喜代の厚情けにまきこまれ、つかい込みしたり、借金で倒産したりした。六人目の旦那は、公金横領して、とうとう首をつって自殺してしまった。二番目の旦那の大店おおだなの番頭が、お店の金を費いこんで、警察沙汰になったとき、喜代はずいぶん自分をせめたものだった。喜代は、ねやに入ると夢中になり、前後の見境がなくなるたちで、逢いたい欲しいとなったら、どうにも我慢が出来なくて、じゃんじゃん電話する。そして帰りぎわがとりわけ汚なくて、すねたり泣いたりして、旦那をひきとめる。そのわるい自分の癖のせいで、旦那をいけないことにさせてしまうのである。
 二度とこのわるい癖を出すまいと決心したのだが、旦那が出来るといつの間にかそうなってしまう。あそこに仕舞っておいて、誰にも貸してやりたくないようになる。しかし六人目の旦那が自殺したときは、わるい癖ばかりでなく、わが身の罪障がおそろしくなり、喜代は尼にでもなろうかと思ったほどだった。
 堀川の世話になってからの数年というものは、今度こそはと喜代は神妙につとめ、旅館の経営にうちこんで、別棟を増築したりした。それが魔がさしたように、時折、堀川の使いできていた秘書の高原と出来てしまい、急にまた喜代はとち狂ってしまった。一日だって逢わずにいられなくなった。そんな暮しが二年もつづき、ただれきり、にっちもさっちもいかなくなった頃、高原がひと思いに堀川をってしまおうと言いだした。高原は堀川が喜代のために保険をかけているのを知っており、その金と旅館をせしめようともちかけてきたのだった。
 喜代はそんなおそろしいことを出来はしないし、高原とも別れられない。結局、ニセの堀川の印鑑をつくり、旅館を売り飛ばして、高原と一緒に逃げたのだった。
 一卜月足らずの逃避行で警察につかまり、高原は刑務所へ入れられ、喜代は堀川にひきとられた。堀川は、すべて許してやるといったが、いくらなんでも喜代はその優しさにあまえることが出来なかった。そしておなさけの二千万をもらい、田舎にもどってきたのだった。
 喜代の田舎は、汽車で五時間ほど先の町なのだが、新聞にかきたてられたので、そこにも居づらく、この市へ移ってきたのだった。
 おなさけの二千万で、細々なら暮して行けたが、その金はどうにも使いにくくて、喜代は働きだした。まだ四十そこそこの喜代には、妙な色気があって、すぐちょっかいをかけられる。もう男との色恋沙汰はこりごりなので、喜代は化粧をおとし、屋台で商売しはじめた。
 たべるだけかせげればよい
 いまもその気なのだった。

 別れ橋のむこう側は、むかしからの住宅街で、橋のこちらは場末の盛り場である。
 橋をこちらへ渡った、次の横町は、以前遊廓ゆうかくだったところで、いまは小さい飲み屋がぎっしり両側にならんでいる。
 それに、バーやキャバレー、小料理屋などのほかに、遊び場所がいっぱいあり、そこの客や女の子たちが、喜代の店の客である。
 地方の小さい町なので、そういう店でも夜は早い。十時になると看板で、次々ネオンが消えて行く。
 喜代の店は、その看板の三十分ばかり前から、ぽつぽついそがしくなる。そして十一時まえになると、お茶をひいた夜の女連中が顔をだし、それが最後の客になる。
 その連中が帰ったあと、喜代は火を落し、五六軒さきの滝川運送へ出かけ、表から、
「亀さん、頼むわよ」
 と声をかける。四十すぎの亀さんか、二十まえの息子かが出てきて、屋台を車庫の中にあずかってくれる。喜代は、亀さんが出て来ないうちに、橋をわたりはじめる。
 喜代の家は、そこから三キロちかくいったところにある。たいていお茶をひいた女連中の誰かが、おかあさん泊めて、といってついてくる。
 その日は、風が強く、雨も降りだしそうなので、十時すぎ酔っぱらいの客と女の子たちが帰って行くと、喜代は火を落しかけた。そこへお時が、
「おっかさん、熱いそばたべさせて」
 と寒そうに飛びこんできた。お時は、一時間かそこいらまえ、酔っぱらった客をくわえこんで出ていったばかりである。
「早いね」
「ちんけなやつだからさ、川原でかたをつけちゃったンだ。冷えこんじゃったよ」
「風邪ひくよ」
「娘はきたえてあるけど、親はきたえが足りないもんね、ハ、ハクション」
 いそいで喜代が、そばをつくってやっているとき、橋のほうから二人連れの男が近づいてきた。若い三十くらいの男が、連れの四十五六の男を、
「先生、もう帰りましょう、門限が」
 なんとかとひきとめているのだが、年配の男のほうは、酔っているのか、
「いいよいいよ。おつな感じだなあ、こりゃいいや、ちょっとのぞいて行こう」
 と、どんどん近づいてきて、
「今晩は」
 のれんを顔でわけて入ってきた。どんぐり目の、人なつっこそうな顔の男で、酒は入っているが、そう酔っぱらってはいない。よい酒の男である。
「時ちゃん、もう少し寄ってあげて」
 多分、先生とよんでいたのを聞いたからだろう。お時は、たちまち商売気をだし
「ハイ」
 と小学生のような返事をし、行儀よく椅子の端に寄った。
 お時は丸顔でこころもちひしゃげたような顔だが、そのひしゃげた感じやめくれあがった唇が、 男ごころをそそるし、なにか一つ雰囲気を持っている。
 とても子どもが二人あるとは思えない。
「お酒ですか」
 お時に、どうもと礼を言って腰かけた年配の男は、
「二つね」
 と若い男のほうの分も註文し、
「ねえ、おかみさん、この先のパチンコ屋の横を入って行くと、クラブ・風という店があるだろう。あの店の女の子がさ、十一時半に迎えにきてくれというんだけどね、どうだろうね」
「さあ?」
 風という店は、土地の暴力団がやっているので、トラブルが多い。喜代は、かかりあいをおそれて、あいまいな返事をした。
 年配の男はなかなか勘がいい。
「やっぱりなあ」
 と言った。残念そうな声だったが、感じが明るく屈託がない。
 若い連れのほうが、笑いながら、
「残念でした。おとなしく帰りましょう」
 と、引導いんどうをわたすように言ったが、年配の男のほうは、かえってそれで勢いを盛りかえし、命までとられるわけじゃなし、
「おれはもういっぺん行くぞ」
 と言いだした。
 喜代は、金もありそうだし、人も悪くはなさそうなので、そばをたべているお時の客にしてやろうという気になった。
「お客さん、あっこはね、これの店なんだから」
 喜代は人さし指でほおに斜めの傷あとをかいてみせた。そして、
「時ちゃん、あんた空家なんだしさ、いそいで帰らなくたっていいだろ。折角みえた旅の方なんだからさ、お酒の相手くらいしてあげて」
「あたしでよければ、いいわ」
「これはありがたい、おばちゃんも飲みなよ。景気よくやりましょう」
 いくらか風が落ちてきたし、こんな客ならあしらいが楽である。
 喜代は、じゃんじゃん酒をつけはじめた。

 お時のほうも、喜代にいくらかでも稼がせてやろうという気で、じゃんじゃん飲ませたり飲んだりしたので、一時間ばかり経ったときには、めろめろになり、年配の男の腕に抱かれ、胸にもたれこんで、あまい鼻声まじりになりだした。
「行ったっていいわよ、あたいは誰に遠慮もいらないんだからさ。だけどね、ずっと空家だったんだから、どんなにみだれちゃうかわかんないわよ」
「それ、大いに結構」
「大きなこといって大丈夫? あたいは、俵締めなのよ、中途で降参なんて言ったら、あたい、頭にきて、なにするかわかんないわよ」
「絶対、期待にそむきません」
「ほんとに大丈夫? 頭にきて、くい切っちゃうかもしれないよ」
「いいとも。おれの、あと生えるンだ」
「うわあ、気味わるう」
 大声あげて騒いでいたが、そのうち二人は、並んで立ちあがり、不動の姿勢で、喜代と若い連れへ、
「いって参りますっ」
 とお辞儀をし、暗い表へふざけながら出ていった。ちょっと間をおいて、
 菜の花畠に
 入日いりひ薄れ
 見わたす山の
 かすみふかし
 と仲よく二人が合唱するのが聞えてきた。
 お時ちゃんの声は、びっくりするほど綺麗だった。
 喜代は、めったに飲まないので、たまの酒がよくきいて、めずらしくいい気分になっていた。
 一時間もすれば、お時のことだから、うまくかたづけて、また歌でもうたいながら戻ってくるだろう。若い連れの男が、先生の帰りを待つというので、喜代もほうりだすわけにはいかない。そういやな気分でなく、喜代は若い男と二人で、お時たちを待ちはじめた。若い連れの男は、いましがたのお時のきわどい話にあおられて、かなりもよおしている。若い男のそうした欲情は、花に花の香があるように、自然で新鮮な匂いがする。それに若い男は、三番目のやさしい旦那とどことなく似ている。その旦那は、小さい出版社の社長の息子で、社長の父親が倒れたあと、社をきりまわしていた。泊りにくる時は、朝の御飯のおかずや漬物を、いつも持ってきた。そのころ喜代はおつけもろくに出来ない女だった。
 その二十なん年まえものことを思いだしたりしたので、喜代はいっそう酔い心地がよくなった。ほんわかしてきた。若い男はそのうち、もうそろそろ戻ってくるだろうといって、そばをたベ、勘定もすませて待ちだしたが、一向、二人は帰って来ない。時計をみて、
「野球なら九回裏だもんな」
 とぶつぶつ言いながら、また酒になった。酒のさかながなにもかもなくなったので、喜代はサービス用の漬物を、こんなものしかないよと出してやった。すると若い男のくせに、これはうまいとめたて、ぱくぱくたベる。その漬物は喜代がつけたもので、ほんの少し酸っぱくなったとこである。人間の年でいえば五十くらいのところだから、若い者むきでないと思っていたのだが、若い男だろうと味のよいものはわかるのである。
 喜代はなんだかうれしくなって、だんだん若い旅の男が好きになり、またどんどん飲ませだした。酔うにつれ、若い男は、お時のことをあれこれきいては、ちきしょうと言ったりして、もだえだした。そしてとうとうべろべろになり、もう帰るといいだした。気のほうはたしかだが、足許あしもとがあぶなくなっている。宿は川むこうでそう遠くはないが、川ぞいの道を帰らなくてはならない。川っぷちにガードレールがないとこがあるので、喜代は店を亀さんに頼み、火を落して、宿まで送ってやることにした。
 肩にかつぐようにして歩いたり、腕をつかまえて歩いていると、よろけて抱きついてきたりする。延長戦は、九時半で引分けだぞう、などとわめいてよろけるくせ、前がぶつかってくると、そこがかたく突っ張っている。若いからだというものは、大したものである。喜代は、
「こんなじゃ躯に毒だよ」
 と言ってやろうかと思ったが、久しく不馴ふなれなので、その気になっているくせ、それが口に出なかった。やきもきしているうち、若い男は、宿の門をみつけ、
「あれだ、もう帰れます、どうもありがとう」
 と勇みだした。
 喜代は、あわてて、ひきとめた。
「もう二時だよ、寝てるわよ、起すの可哀相だから、うちへおいでよ、おいしい漬物もあるしさ」
 若いぽちゃっとした手をとった。
 若い男は、ぎょっとしたふうだったが、それをいそいでかくして、
「大丈夫だよ、開いてるさ」
 と早口になり、にぎられた手をぬいて、さっさと逃げだした。
 喜代は、ちぇっと胸の中で舌打ちした。
 閨ぐあいのことでなら、若いお時の十倍二十倍もよろこばせる自信がある。この世で極楽にいったような思いをさせてやれるのに、全然わかっちゃいないよ、若い男なんてしょうもない。それでも思いかえして戻ってきはしないかと、暗い寒い川っぷちで喜代はっと待っていた。
 喜代は、運がよいのか悪いのか。
 宿の門はこの夜中に開いており、あっという間に若い男をその奥にのみこんでしまった。
 喜代は、胸のつかえがおりなくて、うらみがましく、
「なんだい漬物の味がわかるふりしやがってさ」
 と言った。そしてあたしゃおさまらないよというように、川っぷちで石を川面のほうに蹴とばした。しかし喜代の下駄は石に当らず、砂地を蹴っただけで、砂がさらさら鳴りながら暗い水面へこぼれおちていっただけだった。
 喜代は、ふンと鼻で笑った。それから急にくるりとむきを変え、丈夫な腰をみせたかと思うと、せわしなくとっとっととわが家へ帰りはじめた。
 川面のつめたい夜風がひと流れその喜代を追いかけていった。
夜風
 少年はトラックの暗い運転台で、夜更けの寒さにふるえながら泣いていた。
 ぼくなんか
 死んだほうがいいんだ
 少年は、もう何時間もまえから、その材木会社の草っ原の駐車場の、窓のこわれたトラックの中にもぐりこんでいた。
 少年は夜になってから家へ帰ったのだが、ドアーのとこで、母親とあの男の声を聞いたのだった。
「しようのない子、どこに行ったのかしら?御飯もたべないでさ」
「そのうち戻ってくるさ」
「折角の御馳走がまずくなってしまうわ。さきにたべましょうよ」
「まあ、もう少し待ってやろう」
 その男はがらがら声で恩きせがましく言った。
 時々泊りにやってくる砂利屋のその男が、少年はきらいだった。
 そのがらがら声がとくにきらいだった。
 それで少年は、家に入る気がしなくなり、すぐ前の金網の塀を越え、草っ原のこのトラックにもぐりこんだのだった。
 少年は、今夜からお正月の間中、母親と二人きりで、ずっと一緒にいられると思っていたのを裏切られ、すっかり腹を立てていた。
 夜が更けるにつれて、夜空の星はきれいに光りだしたが、斜めに高圧線が走っている草っ原は、ひどく冷えこんできた。
 小さくちぢこまった、ジャンパーの少年の体は、今にも凍てつきそうだった。
 それでも少年は、帰ってやるものかと思いつづけていた。
 そのとき、アパートの一階の少年の家のドアーが開いた。黒い影が一ト足、外へ出てきた。
 少年の母親だった。
 外のコンクリートのたたきの上に灯がないので、少年の母親はうしろの部屋の灯をうけ、黒い切り絵のようだった。
 黒い切り絵のような母親は、部屋の灯の長方形の中で、あたりを見まわした。
 平べったい一枚の紙のような母親は、近くに少年がいることを感じたように、
「のぶ夫」
「のぶ夫」
 と呼んだ。もう一度、
「のぶ夫っ」
 と呼んだ。
 三度目の声は、泣きだしそうなせつない声だった。
 少年の体はトラックの運転台でびくんとした。
 それでも少年は、帰ってやる気にならなかった。
 暗い運転台で、白く息をはきながら、凝っと母親をみつめていた。
 うなだれて、かなしげに肩をおとし、母親は家の中へ入っていった。
 ドアーが閉り、そこだけ明るかった長方形の灯がなくなった。
 少年は、夜が急に更けた気がした。
 死ぬよりしようがない気がしだした。
 
 女は暗い陸橋のうえで、てすりにもたれかかり、ぼんやり線路を眺めていた。
 いましがた女は、すごいことをやってのけたばかりだった。
 その酔っぱらいの大男は、あちこち触ってみて、五千円しか出せねえなと言った。大晦日だぜ、もう客はとれねえよ、とも言った。
 女は部屋代をためていて、今日中に三万払わないと、部屋から叩きだされることになっていた。どうしても三万稼がなければならなかった。
 それで大男が風呂に入っている隙に、財布と腕時計を盗み、旅館から逃げだした。ひとの物に手をかけたのは、生れてはじめてなので、女はほんとうにおそろしかった。そのうえしけた財布で、一万二千円しか入っていなかった。
 やっとここまで逃げてくると、足がうごかなくなり、気分がわるくなってきた。もどしそうになったり、胃の上の大きな火傷のあとがへんに痒くなったりした。
 あとの金のため、客をさがす元気もなくなった。
 女は不幸な身の上だった。
 やっと歩きだしたばかりの頃、親たちの夫婦喧嘩のとばっちりをうけ、薬罐やかんの煮湯をかけられ、体に大火傷した。
 命はとりとめたが、助かってよかったとはいえなかった。ものごころついたばかりの頃、女は、親たちに捨てられた。
 田舎の親戚にひきとられて、中学までいったが、あとは独りで働いて生きてきた。
 お腹の火傷がなければ、トルコ風呂で働くことが出来るので、手術する金をためるため、夜の街角に立ちはじめた。しかし、組の連中にしぼりとられるほうが多くて、お金は少しもたまらない。
 そのうち自堕落な暮らしに馴れ、ほかの仕事が出来なくなってしまった。
 陰気なたちだし、頭がいいわけでもない。
 ひとの物に手をかけるようになってはもうおしまいだ。
 暗い人通りのない陸橋の上で、女は、
 もうおしまいだ。
 生きていたところで
 しようがないよ
 と自分に言っていた。
 女は立っていられなくなり、手すりにつかまりながら、うずくまってしまった。
 ほんとにあたいは不幸な女だと思った。
 いいことはいちどもなかったと思った。
 そのとき、ふいに、
「おばちゃん」
 と女は子どもに声をかけられた。
「おばちゃん、死ぬの?」
 小さい声は、ふるえていた。
 女は、うずくまったまま、顔をあげた。
 ジャンパーをきた六つくらいの少年が、凝っとすがりつくように女をみつめていた。
 女は、きっと自分が、死ぬというようなことを、呟いたのだろうと思った。
「なんでもないよ、ちょっと気持ちがわるくなってただけなんだよ、もう大丈夫さ、このとおりだよ」
 女は元気に立ちあがってみせてやった。
 立ちあがってみると、少年は思ったよりずっとちいさかった。
「おや、どうしたんだい」
 女はかがみこんで、少年の顔をのぞきこんだ。
 少年の頬は、涙でべとべとに濡れていた。
 なんども涙をこすったあとがあった。
 女はそれだけで、少年のことは、なにもかもわかったような気がした。
「お腹すいてんだろ」
 少年は、晩御飯をたべていないことを思いだした。
 女はなんだか元気が出てきた。ゆっくり背をのばし、にっこり笑いかけた。
「おばちゃんもぺこぺこなんだ。さあ、いこう」
 女は少年に手をさしだした。
 少年はジャンパーのポケットから手をだした。
 少年と女は、手をつないで歩きだした。
 二人が陸橋を渡り、階段をおり、夜道を遠ざかって行くと、夜のしじまを破り、終電車が近づき、轟然と陸橋の下を通りはじめた。
 はるかむこうの夜道で、豆粒ほどになった少年と女が、その電車のほうを、ひょいと振りかえっていた。
 
 大晦日の夜のビル街は、人影もなく静まりかえっていた。
 女と少年は、ずいぶん夜道を歩いて、ようやくそのビル街にたどりついた。
 ずっとむこうに新宿のにぎやかな灯が見えだし、時折、そのざわめきが潮騒のように聞えてきはじめた。
 女と少年は、なにが好きだと、好きなものを、ずっと話しあいながら歩いていた。
 女は、鳥鍋があったまると言った。
 少年は、エビフライやハンバーグや好きな菓子の名を教えたが、かっぷぬうどるでいいよと言った。
 人影のないビル街は、だんだん寒くなってきた。
 時折、凍てつくような夜風が、二人におそいかかってきた。
 そのたび女は、少年を抱えこんで、風に、
「ちきしょうめ」
 と口ぐせのように言った。
 やがてビル街を出て、二人は、デパートの裏の通りへ入っていった。
 まだどの店も明るい灯をともしており、テレビがついていた。
 そのうち横町の入口のところで、女は少年の手をはなした。
「ここで待ってなよ」
 女はぶかぶかの大きなコートを着ていた。そのコートの裾をひるがえしながら、横町へ走りこんだ。
 突きあたりの屋台のような、吹きっさらしの一杯飲み屋の暖簾の中へ首を入れた。
「よう、千代坊、お晩だね」
 つるつる頭の親父が、威勢のよい声をだした。
 客がいないとわかると、女は暖簾の中へ入り、防寒服の親父へ、
「都合しておくれよ、おじさん、うちから使いが、弟がさ、来たんだよ」
 と時計をさしだした。親父は、ちょっと首をすくめて、表のほうをみた。
 少年は、しょんぼりうなだれていた。
「三万だな、それ以上はむりだ」
 女は三千円くらいが山だろうとふんでいたのだった。
「助かるわ、おじさん」
 女は、ほんとによろこんで、甲高い声をあげた。
 三枚のお札をおしいただいて、女は、
「いい年、迎えてね」
「おめえもな」
 うれしそうに女は、横町へとびだしていった。
 大家に払う三万円が出来たのだった。
 しかし女は、全部大家に払う気なんかなかった。
 また少年の手をにぎり、時折出かける鳥鍋屋へ出かけていった。
 少年はお腹がすいていた。
 顔に汗をだし、がつがつたべた。
 腹いっぱいになると、女は気が大きくなってきた。
 明日から三日の寝正月のために、お餅とおせち料理を一卜折と、少年のために黄色いみかんを買った。
 小さいお飾りも、ひとつ買った。
 女はこんなに沢山の買物をしたことがなかった。
 女はだんだんうきうきしてきた。
 女のアパートは、旭町にある。
 ごみごみした裏町のアパートまで戻ってくると、二階の女の部屋に灯がついていて、ドアーがあいていた。
 合鍵を持っているのは大家だけであった。
 女の財布の中には、三万五千円ばかり残っていた。
 女は、しかしそれを大家に渡す気になれなかった。
 露地の角の改築中の倉庫の中へ、少年を連れこみ、材木の上に並んで腰かけた。
「坊や、お正月のうた知ってるかい」
 女は、小さい声で、真面目に唱いだした。
 もういくつ寝ると
 お正月
 お正月には、凧あげて
 独楽をまわして
 遊びましょう。
 灯を消した暗い部屋の隅では、ストーブがあかく燃えていた。
 部屋の中は、すっかりあたたかくて、天国のようだった。
 大きなベッドの中で少年と一緒に寝ながら、女は、きっぱりと言った。
「それは坊やが間違ってるよ、母さんだって、お父さんがほしいんだよ」
 少年は素直な心になっていた。
「うん」
「そのおじさんだっていいとこあるよ、御飯をたべないで、待ってたんだろ。坊やをさ、好きでなきゃ、そうは出来ないよ」
 少年はぽっかり目をあけて、凝っと遠くをみつめていた。
「あたいの親父なんてさ、あたいが泣くのがうるさいってさ、煮湯の薬罐をあたいに投げつけたんだよ。母ちゃんだって、ひどいもんだ。あたいが五つのとき、あたいを捨てて居なくなったのさ。ずっとあたいは独りぽっちだったんだよ。あたいにくらべれば坊やはさ、ずっとずっと倖せだよ」
 少年は、おいらがいてやるよ、もう独りぽっちじゃないよと、心の中で言っていた。
 少年は、それを口にしたかったのだが、どうしてもそれが出来なかった。
 女は、少年の母親が、今頃、少年を探しまわっているかもしれないと思った。しかしもう今夜は少年を帰して、独りぽっちになる気になれず、そのことを知らんぷりした。
「さあ、坊や、寝ようよ」
 少年はいわれた通りにすぐ目をつむった。
 女の寝息が聞えだした。
 少年の瞼裏に、少年をさがして泣いている母親の姿がうかんできた。
 少年は、後悔しはじめた。
 すると瞼がだんだん重くなりはじめた。
 しずかな時が流れ、いちど女は目を覚した。
 少年は女の胸の中にもぐりこんできていた。
 少年の手が、女の乳房を持っていた。
 女は足で、少年を抱えこんでやった。
 二度目に女が目を覚したときは、お正月の朝だった。
 女はもう何年も目を覚したからといって、すぐに起きだしたことなどなかった。まだ三十をすぎたばかりだが、女の体はもうがたがたなのだった。
 しかし今日は、女はすぐに起きだした。少年のために、お正月のお雑煮をつくってやらなければならなかった。
 隣の一坪の台所で、女は、久しぶりに、ひとのための御飯をつくりはじめた。
 お雑煮の汁のにおいが、部屋の中に漂いだしてから、少年はベッドの中で目を覚した。流しのかたことという御飯の仕度の音を聞いていると、少年は、俄かに家が恋しくなってきた。
 明るくなっている部屋で、少年はベッドから出た。
 いそいで服を着はじめた。
「明けましておめでとう、お雑煮が出来たわよ、坊やはお餅いくつたべる?」
 女の声は明るくてやさしくうきうきしていた。
 少年はなんと言ってよいのか、わからなかった。おめでとうも言わなかった。
 どっと駈けだし、ドアーをあけ、脱兎のように表へ飛びだしていった。
 女は折角の親切を無駄にされたが、それくらいの辛さには馴れっこだった。
 女はそれに少年の気持ちが、判るような気がした。
 女はあわててあとを追いかけて、戸口で少年に言ってやった。
 むろん大したことは言えなかった。
「坊や、母ちゃんを大事にするんだよ、勉強するんだよっ」
 女の目には薄っすら涙がにじみ出ている。
心中のあと
 調理場につづいた茶の間の長火鉢ながひばちのところで、昨日の入金の勘定をしているおかみの初枝が、壁時計を仰いで、
「今日も遅刻だよ」
 と機嫌の悪い、窮屈な声で、聞えよがしに呟いた。
 君子と交替の妙子は、十一時出勤なのだが、まだ姿をみせない。もう十一時半をすぎている。妙子は、子供たちを学校へ行かせたあと、夕飯の支度をしておいてから、アパートを出てくるので、どうしても遅れがちになる。亭主を亡くして、妙子は二人の子供を抱え、苦労している。それに人が善いので、花房の連中はみな同情している。初枝も君子もそうである。その初枝が不機嫌な声をしたのは、君子への芝居である。
 隣の四帖半の部屋の明るい中窓のそばで、着替えをしていた君子は、帯をしめたのを鏡で見調べながら、
「あたし、急がないからいいんですよ」
 と気さくに言った。君子も妙子とおなじように亭主を亡くした女だが、娘はもう結婚して藤沢のほうに住んでおり、帰ったところでよろこぶ者もない。
「わるいねえ」
 むろんそんな芝居をするのは、時間外の用事をしてもらいたい時である。ちょっと間をおいて、金を手さげ金庫にしまうと、
「雪の間だけだね、いいかげんに起しちゃどう?」
 十二時をすぎると、割増し料金をとることになっているのだが、十分や二十分で割増しをとりたてるのは、なかなかむつかしい。たいてい割増しをとらずにすますようにしているが、それが十部屋足らずの旅館の出来るサービスなのだが、のうのうと居すわられると、いらいらしてくるのである。
 おかみの初枝は、べつにケチでもこまかくもないのだが、へんなところにこだわる寝起きの癖がある。がっちりした大女のおかみのほうへ、君子は、
「おそくまでさわいでいましたよ、でもまあ、声をかけときます」
 そう言い、帯ひもをぎゅっと締めて結び、ぽんぽん帯をたたいてしわをのばしながら、茶の間を通り廊下へ出ていった。
 君子が泊る四帖半の真上になる雪の間の客は、若い二人連れの旅の男女で、感じのよいカップルだった。遊び半分の仲の若い客たちとちがい、ういういしくて、ひなびた、すれてないところがあった。伊豆のほうを旅行してきて、昨日、旅館でもらったものだといって、若い女の客のほうが、君子にわさび漬をくれた。新婚旅行ですかときくと、若い女客は、目を細くして、
「復習しにいったのよ」
 と、うれしそうに、ちょっとはじらいながら言った。素直な気質が、そんな一言にも、すっと出ていた。ずいぶんおそくまで音がしていたので、君子はもっと寝かせておいてやりたかったのだが、こちらも商売なのだから、そうそうほってもおけない。いちばんの客だから、割増しをちゃんと取ろうという気に、おかみさんがなるかもしれない。それも可哀相である。
 まだともしてある階段をのぼりながら、君子は、ちらりと昨日の晩のことを思い出した。先に立って案内していた君子が、階段をのぼりきったとき、急にあとに続いている二人の足音がしなくなったので、ふりむいてみると、若い男の背のむこうで、若い女の子が立ちどまり、あまえて顔をちょっとかしげ、手をさしのべている。
 ひっぱってほしいわ
 というようにあまえている。なんだか子供っぽいしぐさなのだが、それがすごく可愛らしかった。するとまた若い男の子のほうがおとなしくて、節くれだった大きな手を出し、言われるとおりに、その手をとってやった。見るからに働き者だという感じの、無口な男が言われる通りにするのにも、ひかえめな愛があふれていて、好感がもてた。それを思いだすと、君子は、よけいにそっと寝かせておいてやりたくなったが、そういうわけにもいかない。あまり贅沢な旅の出来そうな様子でもないし、割増し料金をとられては可哀相だと思って、雪の間の前で声をかけた。
 入口は廊下から半坪入った横についており、格子戸になっている。返事がないので、君子は、
「おはようございます」
 と大きな声をかけ、格子戸をあけ、二帖の部屋に入り、境のふすまのところで膝をつき、
「あのう、朝御飯はどうなさいますか」
 とたずねた。しかしそれでも返事がない。暁方あけがたまで愛し合っていたのだから、よほど疲れたんだろう。若い者は目いっぱいするんだから、疲れもひどいんだよ。しようがない、もうすこし寝かせておこうと立ちあがり、君子は帰りかけたのだが、なんだか気がさした。ぐっすり寝ているにしても、静かすぎる。寝息も聞えない。それで君子は、まさかと思いながら、また襖のとこに戻り、
「お客さん」
 と襖を叩いてみた。それでもうんともすんとも応答がない。君子は、襖をそっと開けてみた。とたんに蒲団からもがき出て、床の間へ腕を伸ばし、ばっさり背中を斬られたようにうつぶせに倒れた男と、その腰のわきにかみついているようにしがみついた女の姿がみえた。男の浴衣の寝間着はうしろにひっぱられ、背が見えている。
 君子は心中だと思うなり、ものすごい悲鳴をあげた。どっと部屋から飛びだしていったのだが、そのあたりからは、もう無我夢中で、全然覚えがなくなっていた。

 花房旅館から二百メートルほど離れたところに、川瀬という病院がある。パトカーと一緒にきた救急車で、虫の息の二人は、すぐその川瀬病院に運ばれ、手当をうけた。
 遺書が四通あったので、住所はすぐわかった。君子は、徳田という年配の刑事に、発見したときの様子を話したあと、帰宅してもよくなったのだが、なんだか昂奮がおさまらなくて、ぐずぐずしているうち、帰る気がなくなってしまった。いつも十二時に家へ帰ると、ひと眠りして、六時すぎごろまた花房へくる。しかし妙子が来ないし、初枝が心細がるので、ずるずる居残った。そのうち妙子がきたが、役には立たない。やがて刑事さんたちがひきあげたあと、雪の間の掃除をすませた時は、もう三時だった。今更帰ってもどうにもならない。それに足利あしかがの在から親たちがくれば、あれこれ様子も聞きたがるだろう。病院へ電話して容態をたずねてみると、命はとりとめそうよと言う。それでほっとするのと一緒に、がっくりからだから力が抜けて、君子は動くのもたいぎになってしまった。お産のあとのように、お腹や腰に力が入らない。結局、茶の間で、妙子や下働きのおなかさん、それに近所の奥さんなどを加えて、ただもう心中のことのおしゃべりになった。
 君子は心中にあったのは初めてだが、下積みの暮しをしてきたおなかさんや、出入りの行商のおばさんなんかは、それぞれそういうことの経験をしており、親子心中だの、一家心中などと次から次へと話がつきなかった。
 六時すぎに、夕飯になったとき、男の母親と姉だという三十半ばの派手な服の女とがやってきた。君子は初枝と一緒に玄関へ出ていって、どうぞおあがりになってとすすめたのだが、期待していたような感じでなく、様子がちがっている。用意してきた金包みを御迷惑かけましてと差しだしたが、母娘とも息子にばかな迷惑をかけられたのを怒っているような様子で、ぷりぷりしている。あがって様子を聞いたり、事情を話したりするような気はまるでない。話のしようがないので、二人の荷物を君子が持ってくると、男物のバッグのほうだけとり、そのバッグでもう一つの緑色の女の子のバッグのほうを押し返し、うちのはこれだけですからと言い捨て、さっさと表へ出ていった。ずいぶん感じが悪い母娘だったが、一つには気が顛倒てんとうしてのことだろう。そう思い直して君子は、暗くなっている宿の表まで送って出たのだが、母娘は君子にさようならも言わなかった。娘が運転する赤い車に乗り、荒っぽくエンジンをふかせ、そのまま走り去ってしまった。くさい排気ガスの匂いが、春の宵のそのあたりに、わるい後味といっしょに、じっとりと残った。うしろで初枝が、
「妙ちゃん、塩まきなっ」
 と大声をだしていた。

 あくる日の十一時がすぎても、女のほうの身内の者は挨拶にやって来なかった。
「どっちの親もひどいもんだね、君さん、病院へ荷物を持っていっておくれ。顔も見たくないね」
 初枝がすっかり頭にきているので、君子は軽い食事をすませて、荷物の緑色のバッグを持って、帰りみち、甲州街道ぞいの病院へ出かけていった。どんな親だか知らないが、挨拶にも来ないような親に会ったところで、チップでも貰いにきたように思われるのがおちだというような気がし、君子は玄関の受付にバッグをあずけて帰るつもりだった。受付をのぞくと、花房のつい裏のアパートに住んでいる共働きの若い女が、白い看護服をきて腰かけており、
「あら、おばさん」
 とにっこり笑った。いつか洗濯物が花房の裏庭に落ちてきたのを、その子のとこへ届けてやったことがある。
 実はこのバッグを届けにきたのだと窓ごしにみせると、二階の奥の部屋だから持っていってあげてよと言う。面倒なことをよくも平気で言えるもんだと、君子はあきれたが、そうあきれるほどのことではなかった。まだ身内の人がきていなくて、可哀相だから、見舞ってあげてというわけだった。
「誰も来ないの、へえ」
「そうなのよ。昨日、男のほうのお母さんがきて、居るんだけどさ、来るなり、一緒じゃ困ると言ってさ、自分の息子のほうだけ、個室に移したのよ。彼女に声もかけないのよ。すごおく憎んでるみたい。あれじゃ心中したくもなるわね」
「お嫁さんのほうも正気にもどってるんでしょ」
「まだうつらうつらってとこね。でも、お嫁さんじゃないのよ、彼女さ、別に旦那さんがあるそうなのよ」
「そりゃたいへんだ」
「あのばあさんは、しょうわる女に息子がだまされたとわめいてるわ。昨日も刑事さんに、息子を殺そうとしたんだから、あの女を監獄へ入れなさいってさ、すごい権幕だったのよ、刑事さんもおしまいには怒りだして、おばさん勝手すぎるんじゃないかと言ったりしたほどよ。ずっと前に、結婚させてくれと言ったことがあるらしいのよね。どうしても許してくれないんで、彼女のほうは別の男と結婚したのね。なんだか、彼女のお父さんが、彼のほうの製材工場で働いているようね。そういう事情があるので諦めなきゃならなかったのよ。だけど諦めきれなかったのね。彼のほうも最近婚約させられたんだけど、どうしても結婚する気になれなくてさ、それで二人で家を飛びだしたらしいわ。彼女の遺書に、父をやめさせないでくださいとかいてあったって」
「でもさ、なにも死ぬことはないだろうと思うけどね。男の人の姉さんも居るの?」
「ばあちゃんと喧嘩して、今朝はやく帰ったのよ。どうもね、あのばあちゃんは彼女が結婚したあと、彼と逢ってるのを知ってて、ほっといたらしいよ。独り息子なんで、可愛いばっかりだから、その程度のたのしみはいいだろうてなもんだったようよ。姉さんのほうが、わたしが注意した時、母さんがほっといたから、こんなことになったのよってさ、なじりだしたのがもとで喧嘩になったのよ」
「聞けば聞くほどあきれるね」
「それだけじゃないのよ、院長先生にも秘密にしてくれと頼んだそうよ。彼のお父さんは県会議員らしいのよ。もうすぐ選挙だし、世間にひろがると、落選するかもしれないから、秘密にしてくれと言ったそうよ」
「勝手なもんだね」
 はなは見舞いに行くのが、億劫な気がしていたが、君子はだんだん彼女が可哀相になり、ちょっとでもなぐさめてやりたくなってきた。ちょうど奥から昼食に出かけていた二十歳まえの看護婦が戻ってきて、もぐもぐ口をうごかしながら、
「若先生ったらさ、まだ身内の人が来ないと言ってたらさ、金とれるかなあ、ですってさ、あきれちゃう」
 と言って、そこで君子に気がついて、ぴたりと口をつぐんでしまった。目をきょろきょろさせている。君子はもう十年以上客商売をしているので如才がない。知らんぷりしてさっさと受付に背をむけて、待合室のむこうの、病室の両開きのドアーのほうへ歩いていった。それにしても、受付の子はよくしゃべる。君子は、患者のことを平気であれこれ言ったりする神経が、馴染めなくて、さっぱりした気分になれなかった。裏庭へ落ちてきた洗濯物は、ピンクのパンティで、そこだけしかかくせない小さいものだった。それを拾ったとき、パンティくらいは落ちないようにしたり、人目につかないところに干せばよいだろうにと思った。そのときのそういう思いをしたことが、ちらりとうかんできた。

 小さい病院なので、二階に病室は五つしかない。
 吉木弓子の部屋は、エレベーターの奥の非常口のてまえで、横の壁に定員四名とかかれてあった。
 引き違いのドアーをあけて、部屋に入ってみると、四つならんだいちばんむこうの窓ぎわのベッドに、独り吉木弓子が白いカバーのかかった蒲団をかけて寝ていた。空いているベッドのマットは薄よごれ、しみだらけだし、壁も汚れいたんでいるし、窓ガラスにもほこりがたまって、殺風景なひどいところである。そんな中で、横身になり、吉木弓子はうつむいて白い蒲団に額のあたりまで埋めるようにして寝ている。一緒に死のうとした相手ともひきはなされて、独りぽっちで寝かされているのである。助かったのは不幸中の幸いだが、こんなふうにされては、とても生きて行く気になれないだろう。君子はバッグをおいてすぐ帰る気だったのだが、とてもなにもしないで帰る気になれなくなった。君子の独り娘の志津子も、おなじくらいの年頃である。独り娘にほっておかれている君子は、もう子どもなんて沢山だと自分に言い聞かせたりしているのに、なにかしら、元気になって生きる気をおこさせるようなことをしてやりたくなった。まったく親がきていれば、花の一本なり飾ってやったりせずにはいられないような、うそ寒い気配がこびりついた部屋である。
 胸をしめつけられながらベッドへ近よって行くと、汚臭がする。意識がなかったのだから、しもの始末もいいかげんなのだろう。白い蒲団からは花房の浴衣の寝間着がのぞいている。下のほうがよごれっぱなしにちがいない。君子は、隣のベッドへバッグをおき、バッグの中を開けてみた。なにか着替えがあるのではないかと思ったのだが、思ったとおりである。きちんと整頓してあるバッグの底のほうに、あかるい黄色のパジャマが入っている。新しい白のパンティも二枚あった。整頓のしぐあいも、志津子なんかよりずっときちんとしているし、物を大事にする感じがはっきり目にみえる。カーディガンのオレンジ色や洗面道具入れなども、既製品なのだが、慎重にえらんで買ったことがわかるし、好みが清潔でおとなしい。おとといの晩の印象もよかったが、バッグの中には清らかさやつつましさがあって、もうひとつよい感じなのである。
 いい心根がこの世ではまるで金にならないものだということを、君子もさんざん思い知らされてきたが、それにしてもあんまりだ。君子は、だんだん腹が立ちだし、一層この子が可哀相になってきた。羽織をぬいで、たもともたくりあげて帯にはさみ、まず湯をもらいに出かけていった。大きな洗面器に湯をもらってくると、君子は蒲団のすそをめくった。どこの誰だかわからないせいもあるのだろうが、看護婦さんもひどいものである。お尻のところにビニールを敷いてくれてはいるが、汚れた寝間着のそのあたりは、裾からくるくるまいて腰の下へねじこんである。これでは仰向けに寝ていられるわけがない。
 ぐったりした躯を仰向けにし、君子は、タオルを湯でぬらし、下のそのあたりをきれいに拭いてやった。肌は小麦色ですべすべした気持のよいものである。茂みも淡く、こぢんまりしていて可愛らしい。茂みの斜めうえのところにはキッスマークもついている。多分こばんで躯をねじったからだろう、キッスマークはひっぱられたようについており、それが男を愛する心の深さを物語っている。
 熱い湯で綺麗に拭いてやったあと、こんどは寝間着をぬがせ、黄色いパジャマを着せはじめた。小柄な躯だが、君子ひとりの腕にはなかなか重い。ぐったりした躯を横にして、パジャマを半分着せたところで、君子は息切れがし、ひと息入れた。額の汗を腕でぬぐっていると、むこうむきだった躯が、ゆっくり重たげに仰向けになった。
 意識がもどったらしく、吉木弓子はぼんやり目をあけている。
「着替えしてるのよ、もうすぐおわるからね」
 目があくと君子はなんだかうろたえた。客の面倒をみているような、せわしなく追い立てられるような気分になり、あわててベッドの裾をまわり、窓のほうにまわり、裸の残り半身にパジャマを着せた。
「さあ終ったよ、これでさっぱりしたでしょ」
 と笑いかけると、吉木弓子は、
「すみません」
 と白っぽく乾いたかさかさの唇をかすかに動かした。そしてまだなにか言おうとしたが、すぐ悲しみがこみあげてきたらしく、急に眉の間に皺をよせ泣きだしそうになった。右の眉の上のところに傷あとがあって、眉をしかめると、その傷あとが白っぽくなった。
「なにも考えないで、寝てればいいんだからさ、はやく元気になることがいちばんなんだからね」
 ちょうどその時、がらりと入口の戸が開いて、看護婦さんとがっちりした躯の男が二人、入ってきた。二人の男は、入口のところで立ちどまり、もじもじしたが、看護婦さんのほうは、ずかずか、
「あら、起きてるのね、ちょうどよかったわ」
 とあけすけな声で言いながらやってきて、
「刑事さんがちょっと話をききたいと言ってるんだけど、だいじょうぶ?」
 むろんだいじょうぶの筈があるわけがないのだが、彼女は断わったりするようなことが出来ないたちのようだった。観念したように、ふっとうなずいて、目を閉じた。
 君子は、自分がいてはいけないような気がし、急いでバッグを閉め、汚れものと洗面器を持って部屋から出た。
 汚れた浴衣なんか捨ててもよいのだが、明日明後日と居ることになれば、また必要になるかもしれない。どうせ看護婦さんなんかはそこまで面倒みてくれないだろう。君子は、それで屋上の洗濯場へいって、浴衣の寝間着やパンティなどを洗いだした。中途で、なんでこんなことまでしなくちゃいけないんだろうと思ったが、もうのりかかった船で、そこでおっぽりだすわけにもいかない。洗った浴衣なんかを春陽の中に干し、小一時間ほどして、君子は病室へ羽織をとりに戻ってきた。警察の人達も帰ったろうと思って戻ったのだが、病室にはまだ刑事たちがのこっていた。一人は緑色のバッグの横へ腰をおろしており、もう一人はベッドの裾のほうで椅子に腰かけていた。君子がそっと入っていったとき、ベッドに腰をかけた刑事が、これからどうする気だねと、親身な声できいているところだった。刑事のほうにもいたわるような感じがあったが、それに答える吉木弓子もわりと落着いており、声もしっかりしてきていた。ほんの少し間をおいて、きれいなおとなしい声でつつましく言った。
「もう、足利にはいられませんから、二人で、どこかよそに行きます。二人で、力をあわせて、出直します。二度とみなさんに御迷惑かけるような、こんなことはしません」
 まだ吉木弓子は、相手の男の親たちの気持を、誰からも教えられていないのである。まだ一緒になれると思っているのである。もしも男にその気があるなら、一つ病院で別々になっていられる筈がないだろう。むろんそれを考えないわけがない。考えてもまだ男を信じて、そんな考えをうち消したにちがいない。そういういじらしい心が、その答えにはあふれている。刑事たちも、それがこたえたとみえ、ベッドの刑事の声はうろたえたうわずったものになった。
「そうだ、それがいいなあ」
 もう一人の椅子に腰かけた刑事のほうは、とたんに目をしばたたいた。こぼれそうになった涙をかくすように、ぷいと立ちあがり、窓辺に行って窓のむこうのガスタンクのほうを眺めだした。
 君子にしても、そんないじらしい、可哀相な子の顔を、まともに見れるほど、したたかな心を持ちあわせていない。急いで羽織をとり、またねと言って、あわただしく部屋から逃げだした。
 アパートにもどると、君子は、雨戸を閉め、蒲団にもぐりこんだのだが、全然、眠気がおこらず、頭の芯がかっかして、じっとしていられない。世の中は冷たいものだと承知しているが、いじらしい人の心根がふみにじられるのを、目のあたりに見るというと、どうにも気持がおさまらなくなってくる。こんなばかなことを、世の中に通してはいけない、許してはいけないのである。はっきりそう思っても、どうすれば通用しないように出来るのか、見当もつかないし、自分に出来そうなこともわからない。腹が立つばかりでなく、なにも出来ない自分が情けなくなり、ただもうおさまらなくなる。八つ当りしようにも、部屋には猫一匹もいないのだし、結局、いつものおしゃべりでもするよりほかはない。階下の仲のよい管理人の奥さんのとこへすぐ出かけ、
「まあ聞いてよ」
 とおとといからのことを喋りまくった。とりわけ男の母親のことを、出来るだけ口ぎたなく罵ってやり、金持ちの奥さんなんて、なんだって金でかたをつける癖がついているからさ、人の心なんかみえなくなっちまうのよ、ぶっ飛ばしてやればいいのよ、などなどと奥さんを昂奮させ、それでいくらか溜飲りゅういんをさげて、ようやくひと眠りする気になって部屋にもどったのだが、蒲団に入ると眠気などかけらもおこらない。いましがたのおしゃべりが悔まれてくる。なにも嘘を言ったわけではない。道理にかなった正しいことを主張しただけなのだが、考えてみればなんとも情けなくおかしい。実際、正義は行うためのものなのに、むやみに人をこきおろすためにつかうだけで、つまりは自分から正義をコケにしているのである。そこに気がつくと、とても安閑あんかんと寝ていられなくなり、君子はとうとう起きだしてしまった。部屋の掃除をしたり、食事をしたり、湯に入ったりしたが、気は一向に晴れない。そのうちあの子が、様子に気づいて泣いているような気がし、君子は、もういちど見に行かないではいられなくなった。日が暮れなずみかけた表へ出て、果物を土産に買い、果物屋の前からタクシーに乗って、君子は病院へ出かけていった。
 病院の前の広場へ車から下りて入った時、玄関のポーチにとまっている寝台車へ、男の母親が明るい病院の中から出てきて近づいているのが見えた。そのあとを中年の小柄な男が追いすがってぺこぺこ頭をさげてなにか言っている。しかし母親はつんとして、口もきかず、ふりかえりもしないで、さっさと寝台車へうしろから乗りこんでいった。その男はそれでも寝台車にすがりつくようにしてなにか言っているが、母親は一瞥いちべつもくれず、後部のドアーを閉めさせ、たちまち走り去っていった。その男はそれでも頭をさげて寝台車を見送っている。それを見ているうちに、君子ははげしく胸がどきどきしはじめた。なんだかその男が吉木弓子の父親のような気がしだしたのだった。
 その男がしょんぼり玄関へ入っていったあと、ポーチには見送りに出ていた看護婦さんが二人、むっとしたようにつっ立って、その男のほうを見ている。君子は急いで、裏のアパートの彼女のほうへ近寄って、小声で話しかけた。
「退院したの?」
 彼女はほんとに憎々しそうに言った。
「こんな病院には、おいとけないんだってさ。いやなばばあよっ」
「いまの男の人、あの子のお父さんじゃないの」
「そうよ。あのお父さんがだらしないったらないのよ。いくらあのばあさんの工場で働いてるからたって、あすこまでぺこぺこすることないと思うわね。とにかく来てからばあさんに、申し訳ないってさ、ただ謝りどおしなのよ。どうしようもないわ」
「男のほうは、どういう気なの?」
「おとなしいばかりで、意気地なしよ。一緒になる気はないわね。警察の調べの時にも、家へ帰って、親に心配かけないようにしますと言ってたわ。刑事さんもあんな男にはもったいないと言ってたもんね」
「彼女は、知ってるの?」
「知ったら、窓から飛び下りちゃうわよ。退院したのも知らないわ。あれからずっと、彼の容態ばかり心配してるんだもん。行けばすぐきくんだもん、こっちもつらいわよ」
「あんないい子なのに、可哀相だねえ。あたしも、顔みられないわ。これ、あなたから渡してあげてよ」
「お父さんは花房へ行ったがあなたに会えなかったって言ってたわよ」
「もういいわ。会ったってなにもしてやれないんだから、あたしなんか」
 君子は、けたけたっと笑った。ちっともおかしくないのに笑った。その笑い声があんまり下品だったので、気持がぎょっとひきしまった。うろたえて君子は、果物包みをおしつけ、くるりとむきを変え、とっととポーチから下りていった。
 がらじゃないよ、人のことを心配するような柄じゃないんだよ。
 口の中で念仏をとなえるように、そう繰返しながら君子は、たそがれた、車の往き交う通りへ出ていった、怒ったような顔になって。
夏雲
 縁の外の庭で蜜蜂の飛びまわる音がした。
 古い畳の上で、色あせた茶色のジンベで横になっている雄造は、目をつむったまま、
 蜂だな
 と思った。たったそれだけで、またぼんやりしはじめた。
 六十でバス会社を退職してから、もう一ト月ばかりも経つのだが、雄造はつぎの仕事をさがそうともせず、ごろごろしている。このところ梅雨みたいなむしむしする日がつづくので、朝からこんなふうにごろ寝していることが多い。
 近くに巣があるらしく、戸袋の前のくちなしの白い花が咲きだしてから、時々、蜜蜂がやってくるようになっている。部屋に飛びこんできて、障子にぶつかることもある。
 雄造は、そういう気が散る音はきらいである。むかし、運転しているバスに、だんご蜂に飛びこまれて、ひどい目にあったこともある。今は、老妻のいねが、そのくちなしの樹に青虫がいると言って、虫とりをしている。
 いやなものが飛んできたとか、いねが刺されはしないかとか、飛びまわる蜂の様子だとか、想うことはいっぱいあるのだが、雄造はそんなふうにこまかく気をつかえなくなっている。なにしろいくら働いても、足りないことが多すぎて、こまかく気をつかっていては、悲しみが大きくなるばかりなのである。今、寝ころんでいる畳にしても、ところどころすり切れ、あか茶けている。四十年もただ働きどおしだったのに、畳替えも思うように出来ないなんてことは、情けなくて考えていられない。畳ばかりでなく生活全部がそういうふうだから、あれこれ思ったり考えたりしないようになったのである。むろん欲ばれば際限がないとか、運がわるいんだと諦めたりするような弱気になったり、あれこれこまかく気をつかって、その気のつかいかたにたゆたうような、怪しげな気持ちにはなれない。今も、
 蜂だな
 と閉じたまぶた睫毛まつげをぴくと動かしただけだったが、しかしその短い思いは、なかなか奥行があるものなのである。
 いねと世帯をもって、この家で暮らしだしてから、三十五年も経っている。いまいねが蜂をみて、どんな顔になっているのか、どんなことを思っているのか、こまかいことはわからないが、蜂くらいではびくともしないことを、雄造はよく知っている。ほんの少しでもいねが、それと違ったことをすれば、たとえ見ていなくても、すぐにわかるのである。三十五年も二人で一緒にがんばってくると、軌道のようなものが出来上っており、そこからはずれないかぎり、むしろ雄造はいねの思いどおりになっている。蜂だな、と思っただけだが、その底ではちゃんとそれなりの点検をしているのであり、安全を感じたから、ぼんやり寝ころんでいられるのである。
 束の間、縁の戸袋のむこうから、歯ぬけのような口笛がしだした。いねはむかしから口笛を吹くと、蜂が逃げて行くと思いこんでいるのである。
 口笛のききめかどうか。蜜蜂の飛びまわる音がしなくなり、口笛もやんだかと思うと、いねが、急に話しかけてきた。
「ねえ、父さん、旅行でもしない。新婚旅行もしてないンだもの。退職記念の旅行くらいしたら?海や温泉で、一度くらい、あたしものんびりしてみたいわね」
 九州にいってみたい、別府ってどんなとこかしらね、などなどと、ちょっとわる乗りしている。つくり声で言っている。腕をのばしているときの声になったり、うつむいた声になったりしている。青虫を一匹はとったらしい。
 おととい、いねのすぐ下の妹で、魚屋に嫁いでいるにぎやかなはつがやってきて、退職して急に体をつかわなくなると、よくころりと死ぬものなのよ、ごろごろさせといてはいけないわとあおったものだから、いねは雄造を動かせようとしているのである。
 雄造は、旅行といえば、会社の一泊どまりの慰安旅行くらいのもので、身銭をきって旅に出かけたことなど、まるでない。そんな余計な金があったら、子どもや孫たちになにか買ってやりたいし、陶枕でも買うだろう。旅行をしたいという気なんか、持ちあわせるゆとりがなかったので、いねの誘いも、あまりぴんと来なかった。しかしいねがこんなふうに露骨に誘うことは、滅多にないし、こんな場合はまあたいてい言うとおりにする。男の自分と違い、家の中で倹約するために苦労のしどおしなのだから、そのくらいのことはさせてやらなくちゃな、などと思うのである。
 今も雄造は、ぼんやりその気になりだしたのだが、とたんにぱっちり目をあけた。九州まで旅行する費用は、寄席に行くなんていうのとはけたちがいである。そうそう手がるく承知するわけにいかない。目をあけた雄造は、ごま塩頭をゆっくりあげてうつぶせになり、灰皿と煙草をひきよせた。まあ退職金も入ったのだし、そのくらいの旅行をしてもいいだろう。
 そんなふうにぼんやり思ったのが、いねに通じたのか、それとも、
「わるかあねえな」
 とつぶやいたのか。雄造自身はそういう覚えがないのだが、それで九州旅行がきまってしまったのである。

 雄造には三人子どもがいるのだが、三人とも女の子である。三人が年頃の時分は、実際雄造はたのしかった。仕事をすませて家にもどると、三人の娘たちが玄関に飛びだしてきて、コートを脱がせてくれるし、着替えをさせてくれる。いねを合せて四人が、競争で面倒をみてくれるのである。雄造が組合の活動にあまり協力しないので、組合の幹部が説得にきたことがあるが、三人の娘たちに下にもおかぬようなあつかいをうけているのをみて、ただただおどろいて、ひきあげていったほどである。
 三人の娘たちは、つぎつぎに嫁にいってしまい、曾て組合の幹部をおどろかせたような王国は、あとかたもなくなってしまったが、それでも男の子と違い女の子なので、わりと顔をだす。いねのほうも、しょっちゅう電話をかけて、ながばなしをしている。
 旅行をするためには、誰かに留守番してもらわなくてはいけない。上は子持ちだし、末娘の春子は共働きである。真ン中の秋子だけが、働いていないので、留守番してくれることにきまった。雄造は歯をくいしばるような思いをして、子どもを育てたわけではないのだが、子どもたちは雄造たちの旅行に大賛成で、昂奮し、それぞれ情報を持ちよって、にぎやかにがやがやしゃべりあい、旅行のプランや旅館の予約、新幹線の切符、持って行く身のまわりの物のリストまでつくってくれた。それで八月半ば、雄造たちはスーツケースにボストンバッグを持ち、朝の新幹線に乗りこんだ。
 旅行の予定は、博多から宇佐八幡宮へおまいりして、別府の宿に三泊する。それから鹿児島の霧島に二泊、桜島見物をしてから、飛行機で帰ってくることになっている。無理な行程で疲れないようにと、娘たちが考えてくれたものである。
 娘たちがあれこれ考えてくれるし、いねがはりきっているものだから、雄造もなんとなくいそいそした気分になっていた。いねと二人だけで旅をするのはてれくさいが、のんびり温泉につかるのはわるくない。一ト月分ほどの給料をかけるということが、なにより雄造を落着かせない。結構自分でも雄造は、はりきった気分になっていたのだが、いざ走りだした新幹線の中で二人きりになると、間もなくなにをしてよいのか、することがなくなってしまった。
 窓の外には、朝陽をうけた街や工場やひろびろとした田畑が見える。目新しい風景が見えるといねは、まあ綺麗!と手をたたかんばかりによろこんでいる。雄造もいねに習って窓の外の景色を眺めていたが、すぐにそれに飽きてしまった。綺麗だといわれれば、そんな気もしないではないが、それ以上のよろこびを与えてくれるわけでもない。三十五年もの間、ただ信号と路面を見つづけ、疲れて家に戻ると、子ども達にかこまれ、一杯やって寝るだけだったのである。空を仰ぐのも空模様を見るため、というような暮らしだったので、なんの目的もなく風景をみたりすることが出来ない。もとより子供みたいによろこんでいるいねの邪魔をする気はない。こっそり独りで考えなければならないような、さし迫ったことなどもない。まあ、思いきった費用をかけているのだから、もっと豪勢な気分になりたいような気がするくらいのものである。駅まで送りにきた春子が、
「はい」
 と渡してくれたサントリーの小瓶を、網棚のバッグの中から出して、雄造はちびりちびり蓋でのみはじめた。暫くすると、酔いが目の上のほうまでまわり、ほんの少しいい気分になったかと思うと、たちまち眠気がわきあがってきた。うとうとしかけると、いねが、
「お父さん、富士山よ、はやく見なさいよっ」
「ほら、大きな川よ」
「名古屋ですよ」
 と大袈裟に声をかける。そのたびあわてて雄造は、目をあけ、窓の外を見る。うとうとしかけると、呼びおこされるので、眠気がいらだってくる。名古屋だろうが、京都だろうが、なんの関係もない。用事があるのは博多だけである。そのうち雄造は、どんと眠気が爆発したみたいに、ぐっすり眠りこんでしまった。

 雄造は、一日も経たないうちに、気が重くなってきた。広大な宇佐八幡におまいりしても、さっぱり面白くないのである。
 だいたいいねがはしゃぎすぎるのである。
 もともと雄造が、毎日ごろごろ寝てばかりいるので、しゃっきりさせないと、ころりと死んでしまうかもしれない、そう案じて旅行しようといねが言いだしたのである。なにも雄造は旅行なんかに興味はないのだが、そんないねの心根にほだされ、言いなりになったのだ。ところがいねは、それを忘れてただもうはしゃいでいる。旅行などするのは、一緒になってからはじめてのことなのだから、少々はしゃぐのは当然だろうが、いねのはしゃぎようは度がすぎているのである。それもなんだかテレビに出てくるいい暮らしの奥さんみたいな調子で、乗客と話し合ったり、通りがかりの観光客とぬけぬけおしゃべりをする。若い時から、国東くにさきはあこがれのところだったのですよと言ったりする。とても雄造の出る幕がないという感じなのである。
 雄造はこまかくものを考えたり、深く考えるということをしないで、気が重くなる程度のところでやりすごすようなやりかたが身についている。いつもは気が重くなれば、いねのほうが気をきかせてあんばいしてくれるのだが、そのいねがふわふわ宙を飛んでいるみたいなので、雄造の気は重くなるばかりだった。
 やっと別府の宿について、これでしずまるかと思ったら、今度は夕飯の給仕にきた女中さん相手に、このあたりの名所古蹟のことをききだした。むろん雄造は、そんなところに行く気はない。そんなところへ行くより、街をぶらつき、あとは宿に戻って寝ていたほうがよい。しかしいねは調子があがりっぱなしで、国東への観光バスの前払いをさっさとしてしまった。
 宿は一人一万と税がつく金額なのだが、ちゃちな造りの部屋で、料理もありきたりでまずいものだが、いねはうまそうにほめそやしたりする。温泉の風呂もせまいポリ風呂で、一坪しかない風呂場だが、もう満足しきって、いい湯だと御機嫌なのである。
 あくる日、観光バスで国東の熊野磨崖仏まがいぶつや富貴寺、長安寺などなどを見物してまわったが、ともかくバスからおりての石段や山歩きが大変である。だいいちバスの運転手の腕が心もとないので、雄造はそっちでくたびれてしまった。それにバスの発着時間があわただしいものだから、落着いて見物も出来ない。いねも疲れはてて、帰りのバスでは居眠りしどおしだった。
 これでいくらかこりたろうと思ったが、宿にもどって湯に入ると、いねはまた元気をとり戻し、もぐらのような顔の女中とあくる日の見物場所を相談しはじめた。器量はへんてこだが、親切な女中さんで、東京の方なら、やっぱり御覧になるのなら臼杵うすきの石仏ですよとすすめだした。そのすすめがことわれなくて、また観光バスの予約をしてしまったのだが、さすがにいねもあとで後悔しはじめた。とりわけ調子にすぐのる自分が情なくなったようだった。
「なんだか疲れにきたみたい、お金つかって、くたびれるなら、ウチのほうがいいわ。ねえ、帰りましょうか」

 朝になると、いくらか元気が出て、いねの様子が少し変った。
「帰るとみんなが心配するんじゃないでしょうかね」
 いねは、朝の御飯をよそいながら、まわりくどい言い方をした。自分達のつくったスケジュールが悪かったのではないかと、子どもたちは実際に心配するかもしれない。
「それじゃ鹿児島へ行くか」
 いねがしょげているのを見ると、雄造はやはりほっておけなかった。
 そこへ昨日のもぐらのような顔をした女中さんが、元気よくやってきた。レンタカーを借りてきた客の連れが、急に病気になり、半額負担で使ってくれる人はないかと言っている。四時すぎまでに戻ってくれればよいそうだった。
「バスとそんなに違わないですよ」
 と親身にすすめる。いねは、気持ちがきまらなくて、雄造のほうを見た。ここのところハンドルをにぎってないので、雄造はふっと車を走らせてみたくなった。いねのどっちつかずの気持ちを、はっきりさせて、さっぱりした気分にさせてやりたくもあった。
「そりゃ使わせてもらおう」
 いそいで朝御飯をすませ、玄関に出るとレンタカーは新しい白いトヨペットだった。八時半なので、臼杵石仏のほかに近くの磨崖仏にも廻られるとよいですよと支配人が、観光地図を渡してくれた。それでともかく雄造といねは旅館を出た。
 もともと石仏などに興味は二人ともない。ほかに行くところも行きたいところもないので、二人はなんとなく臼杵へむかった。昨日とちがい今日は夏らしいよい天気だが、気温はそうあがっていなくて、初秋くらいの肌心地である。自然に気分爽快になってくる。先のことがだんだん気にならなくなり、ただドライブをたのしんでいるような気分になってきた。三十五年間雄造は、車の運転をしてきたのだが、いねと二人でドライブするのは初めてなのである。
 やがて臼杵石仏の山の麓の大きな駐車場へつくと、観光バスから客がおり、ぞろぞろ山のほうへと小川ぞいの道を出かけている。どこかの接待客らしく、老若男女入りまじっており、石仏鑑賞なり信仰心なりとは見るからに縁がなさそうなのに、見物に出かけていっている。なんとなく見なければ損をするような気がしてくるし、折角車を借りてきたのだから、ともかくどんなものか見ておこうという気にもなった。拝観料を払って、雄造たちも団体客のあとを追い、小川の橋を渡って山へ入っていった。
 石仏はその山の斜面の岩を彫って、数体がひとかたまりになっている。そんなところが何個所か、入りこんだ山の斜面に遺っている。お賽銭箱もちゃんと置いてある。
 こういう文化に興味を持っているとか、宗教に関心がある者なら、いくらかたのしいのだろうが、雄造たちは格別知識もないので、たかだかその大きさに驚くくらいのことである。昨日は、目新しいものを見ればすぐ大袈裟な声でよろこんでいたいねも、ほとんどさわがない。
 三十分あまりで、見物がおわり、土産物をならべた食堂で、子どもや孫たちの買物をし、こぶ茶をのんだが、帰るにはかなり早すぎる。見知らぬ土地なので、どこがたのしいところかもわからない。時間つぶしをするのにも、こころよいところがわからない。結局もう一つ奥の石仏見物でもするよりほかにすることがない。
 観光地図をたよりに、国道十号線を突っ切り、つぎの石仏を見に出かけていった。観光地図だと臼杵石仏とおなじくらいの地形のような気がしたが、十号線をすぎると間もなく山へ入って行く。おまけに県道との岐れ道に道しるべがないので、たちまち行きすぎてしまった。あいにく谷までおりなければ人家がなく、通る人も車もない。ちょっと心細いようなことになり、ずいぶん苦労して漸く菅生の石仏へたどりついた。さきほどの臼杵の石仏とちがい、坂下に車をとめられる広場があるだけで、物売りの店は一軒もない。陽をうけた山は、森閑としずまりかえっている。川崎生れの雄造も横浜生れのいねも、山遊びや山歩きをしたことがない。人影がないというのは不気味に思えてくる。なんとなく雄造といねは寄りそい、手をとり合った。そしてせまい舗装したばかりの急な坂道をのぼっていった。それがそれまで行き違っていた二人の気持ちを、一つにしはじめた。
 せまい急な坂道をのぼって行くと、のぼりきったところの左手に、せまい古びたさらに急な石段が山腹へとつづいている。雄造はさっき谷底まで道をたずねに出かけたり、いまいねをひっぱったりしたので、息切れがしはじめた。仰いでも上がよく見えないほどの長い石段に、へこたれてしまったが、いねはいくらか元気をとりもどし、どんどん先に手すりにつかまりながら石段をのぼっていった。ひと息入れたあと雄造が、ぼつぼつのぼりはじめると、上のほうから、
「とてもきれいな仏さまよ、早く早く」
 とさけぶようにいういねの声がきこえてきた。どうしたわけなのか、いねはまたはしゃぎだしたのである。三十五年も運転手暮らしをしていれば、膝も腰もやられてくるのである。そんなことには、おかまいなしにいねは浮かれている。これからさき、十年以上も生きていなければならないようだと、なにか働くところを見つけなければならない。いったい自分に働けるようなところがあるのだろうか。こんな心配はからだに毒である。
 あまり深く考えないようにしながら、雄造は高い急な石段をともかくのぼっていった。石段の上は平地で、正面に大きな石仏が並んでいる。それを守るように社殿がつくられており、縁の奥は板の間になっている。真ン中のところに賽銭箱があり、その前でいねは正座して合掌している。神妙な恰好のいねがすぐふりむき、
「きれいな仏さまでしょ」
 とにっこり笑った。浮かれた気配とはかけはなれた、なんだか清浄な笑顔だった。
 雄造もそれにつられ、はじめて石仏がきれいに見えてきた。あたりが俗化してないので、山気が石仏と一つにとけ合っているように思える。はじめて敬虔な気持ちになって雄造は、石仏を仰いで合掌し、すぐまた石段を下りていった。気重い心が石仏にはずかしいみたいだったのである。
 やがて石段を二三段のこすところまでおりて、雄造は石段へ腰をおろした。中途で追い抜いたいねが、また調子づいて、道の外の山の斜面の中に入っていったのである。あたりは疎林で、明るく山肌の草に陽がさしこんでいる。草をふむいねの足音がはっきり聞えている。どうやらいねはほんとうにこういう旅がたのしいらしい。しかし雄造は、どうにもたのしくなれないのである。ちょうど前の栗林の梢ちかくの枝葉の間から、空がみえている。夏の白い雲がその青空の中にうかんでいる。しっかりした雲の峯に夏の陽が当り輝いている。空模様をみるためにしか空を見ない雄造は、その美しさに目をうばわれたりもしない。そのうち蜂がやってきて、雄造の頭の上をまわりはじめた。そうかと思うと、とりどりの色の丸い模様のある虫が、膝の上に飛んできたり、青い大きな目のとんぼがやってきて、すぐ横の手すりにとまり、目を動かして雄造を眺めだした。いったいこの生きものはなんだろうというふうに。
 山の木々の間を流れる風は、実にきれいで涼しくて気持ちがよい。しかしそういうことを雄造は、ほとんど感じることが出来ないのである。なにもすることがないと、雄造はすぐにぼんやりしてなにも考えなくなってしまう。考えることほど悲しく情なくなることはないのだ。
 束の間、山のなぞえの林の中から、いねが戻ってきた。
「ほら、おいしそうでしょう。」
 いねは両手を突きだしてみせた。片手には大きな実のついた椿の枝を持っている。もうひとつの手には、雄造の好きなふきをいっぱいにぎっている。
 いねは、はっきり東京へ帰る気になっているのだった。
 雄造は蕗をみるなり、急に気持ちが軽くなった。しかし別にうれしそうな顔もせず、
「車を返しに戻るか」
 と呟くようにもそっと言い、先に立って急な坂道をおりはじめた。のぼるときには気がつかなかったが、ところどころに石ころが転がっている。それを踏んでいねが転げないように、坂道をおりながら雄造の靴はつぎつぎに石を横へ蹴とばした。そんなことをしているのを、雄造自身も気がついていなかった。むろんいねも気がつかなかったが、雄造の機嫌がよくなっていることは、ちゃんと気がついていた。
 坂をおりきって車に乗り、山からおりはじめると、雄造は初めてラジオのスイッチを入れた。運よく「悲しき小鳩」の古いメロディーが流れはじめた。いねが、それを聞きながら言った。
「やっぱりお父さん、ウチがいちばんいいわね」
 雄造は、そのいねに賛成も反対もしなかったが、まったくめずらしく小さくハミングしはじめた。顎で調子をとりだした。むかし雄造は、音楽学校へ行けとすすめられたほど、いい喉をしていたのである。
初夢
 そこは峠道の中途の曲り角にさしかかったところで、そこから道がすこし広くなっている。峠道は山を削って道を広くする工事中なので、広くなった道の路肩に、セメントをこねる亜鉛板やコンクリートブロックがおかれたままになっていた。
 そのむこうには、道下の斜面の松が十本ばかり伸びており、風をさえぎっている。
 坂下からぶらぶらのぼってきた洋造は、冬陽の当ったそこが、なんだか気に入った。
 路肩のコンクリートブロックが、椅子くらいの高さに積みかさねてあるのも、好都合だった。ブロックを持って帰らず、積んだままで帰っているのが、いかにも大晦日らしく、人くさくてよい。それに長い坂道を歩きつづけて洋造は、ひとやすみしたいところだった。どっこいしょというように、洋造はそこへゆっくり腰をおろした。着古したバックスキンのハーフコートの左ポケットからセブンスターをとりだし、右ポケットからダンヒルの銀のライターをだし、皺のこわばった掌で火をつけた。うまそうに煙草をすいながら、あたりを見まわした。左のほうは、坂上の曲り角で、道は削られた山の斜面のむこうに消えている。うしろは松の木々で、その樹間からはるか下の田畑や人家が見える。
 あたりに人の気配もなく、時折小鳥の声が聞えるだけで、風の音もせず、すこぶる閑静である。
 しかし洋造は、なにもあたりの様子を眺めたわけでも、山の物音に耳をすませたわけでもなかった。
 さて、どこへ行くかな?
 と思っただけだった。
 二日まえの暮れの二十九日の朝、洋造は、下の十五の孫の男の子に、
「温泉にでも行ってくる、そう父さんに言ってくれ」
 と言いのこし、中野の家を出た。
 べつに温泉に行きたかったわけでもなければ、行きたいところがあったのでもない。
 孫の男の子たちも、十七、十五になって、自分の世界をつくりだし、洋造からはなれていってしまった。
 養子の息子はパン屋の店のやりくりで頭がいっぱいだし、娘の繁子が洋造の口出しをひどくきらう。
 食事のときも、洋造だけは食堂の隣の居間で、独り別にたべさせられる。
 もちろん娘たちにそんな気はないのだが、洋造は除け者にされているような心地になったりする。
 そんなあれやこれやが重なり、洋造は家を出てきたのだが、出るなり大雨で、さんざんだった。
 坂下のほうの川ぞいの温泉場に泊ったのはよいが、増水したすごい川音で、よく眠られず、そのうえ橋が落ち、坂上では崖が崩れ、進むことも帰ることも出来なくなってしまった。
 やっと崖崩れのかたづけが出来、歩いてなら通れるようになったので、洋造はとりあえず温泉宿を出たのだが、どこへ行くというあてもない。
 べつに急ぐこともない身だから、ぶらぶら山越えをはじめ、ここまでやってきたのである。
 家を出れば、自由に好き勝手なことが出来て、すこしは晴れ晴れした気分になれるにちがいない。まだ七十まえだし、どんなことだって出来る。なにかいきいきとはりきれるようなことがあるにちがいない。そんな誘惑にとりつかれて家を出てきたのだが、なにひとつよいことはなかった。雨にたたられ、まる二日、宿の炬燵でテレビを見ながら、うとうと眠っていただけだった。
 なにせ年寄あつかいされて、宿でも遊びに誘ってくれず、所在ないだけだった。このさきいいことがありそうもない。
 今日のことばかりでなく、死ぬまでずっとそれがつづきそうである。
 洋造は、溜息して、煙草を捨てた。火を靴でていねいにつぶして消すと、内ポケットからサントリーの小瓶をとりだし、洋造はうまそうに一ト口のんだ。
 カストロのような髭を、手の甲で拭きながら、洋造は五臓六腑にしみる酒で、うっとりした顔になった。
 おまえさんのとこへ
 行ったほうがよいのかね
 いつものように五年まえに亡くなった妻の房枝の、明るい愛くるしい顔がよみがえってきた。
 洋造はちょっとハンチングをかぶり直し、もう一ト口サントリーをのんでから、ぼうっとした顔つきになり、パン粉をこねている房枝と話しはじめた。
 いつものように。
 ずいぶん時間がたってから、深い水底からゆっくり浮きあがってくるように、ようやく洋造はわれをとりもどしはじめた。
 つい目のさきの地面に、濃茶のコールテンのズボンの足と小さい影が見えだした。
 こんどは、はっきり女の子のハスキーな声が聞えてきた。
「どっか悪いの?」
 洋造は顔をあげて、女の子をみた。
「いや、いっぱいやったら、気分がよくなって、うとうとしたらしい」
 おなじ宿にとじこめられていた、若い女の子で、明るいエメラルド色のセーターに見覚えがあった。
「あんたも出てきたのかね」
 女の子はセーターのうえに草色の革ジャンパーを着て、渋い臙脂色えんじいろの大きめのバッグの紐を肩にかけ、しっかりバッグを小脇にかかえこんでいた。ぽちゃっとした可愛い顔立ちの女の子で、下腹部がこんもり盛りあがっていて、色っぽい。
「みんな酔っぱらっててさ、うるさいの」
 女の子は、洋造の半白の口髭にたまっている涙に気がついていたが、なにもいわないで洋造の横のブロックの上に腰をおろした。
「山のすぐむこうに、バスがあるって簡単に言ったけどさ、全然遠いのよね」
「どこまで行くのかね」
「うん、どうするかな? 田舎の家へ帰るつもりだったんだけどさ、中途で、ふらっと温泉に入るのもわるくない気になったの。湯には毎日入ってるけどさ、温泉に入ったことがないから、しゃくだったのよ。ツイてないのよね、あたしってね。家にも帰りたくなくなったし、東京へ帰ってもお店はいやだしね。おじさんは、東京?」
「そう」
「これから帰るわけね」
「さあ、どうするかな」
「家で奥さんやみんなが待ってるよ。お正月だもん、帰ったほうがいいよ」
「女房は五年前に死んだよ、家には娘夫婦と孫たちだけだ。心配することはない。却って居ないほうが、娘もらくでいいだろう。あんたは、御両親が居るんだろう。親は子どもがいくつになっても、心配なんだよ。折角、ここまできたんだから、帰ってやんな。帰ってみれば、帰ってよかったと思うさ」
「母ちゃんは、ずっと前に死んでるんだ。父ちゃんは新しい母ちゃんと一緒だしね、あたしより小遣いのほうを待ってるかもね。べつに気にしちゃあいないけどさ、よろこんで帰るようなとこではないのよね。おじさん、冷えこんじゃうよ、バスのあるとこまで行こうよ、風邪ひいちゃうよ」
「そうだな、行こうか」
 いつの間にか、脚がかじかんでしまっている。立ちあがった洋造は、足ぶみをし、膝の屈伸運動をしてから、女の子と並んで峠道をのぼりはじめた。
「おじさん、仕事はなあに?」
「パン屋だよ、おれの焼いたパンは、中野で一番といわれたんだ」
「今も焼いてるの?」
「婆さんが死んでから、店は息子がやってる。小さい時からパンの焼き方をたたきこんでやったのに、今じゃよそのパンばかりを店に並べてやぁがるよ」
「それが気に入らないのね」
「人はさまざまだ、どうっていうことはないが、そんな儲けることしか考えねえのに惚れやがった娘が、なさけないね。ところであんた、名前はなんてんだ」
「とち子っていうの」
「どじ子?」
「あたいってさ、ドジなんだから、ドジ子でもいいよ。名前なんてどうってことないもん」
「とち子って、栃の樹の栃かい」
「そうよ。うちの裏のとこに、三抱えくらいの大きな栃の樹があるの。夏なんかその樹かげの中に、家がすっぽり入ってさ、涼しいんだよ。昼寝していてさ、目をさますでしょう、樹のかげが動くからさ、足のさきのほうが暑くなると、何時頃だなとか、お腹まで暑くなるともう何時だとわかるんだァ」
「まるでブリキ屋根の家みたいな話だな」
「あらわかる! そうなんだよ、ブリキ屋根の家なんだァ」
 はじめてとち子は、声をたてて笑い、洋造の背をぽんとたたいた。
 通る人もない山の道だし、はぐれ者同士みたいだし、すごく簡単に洋造たちはうちとけた。むろんそんな気分になったりするのは、ちかごろ滅多にないことだったが、べつに洋造は不思議だとは思わなかった。
 間もなく洋造たちは、峠道の頂きに出た。
「あれを越えれば、あとは下り坂だね」
 と言いあってきたのだが、すぐ前にもうひと山あった。まったく田舎の人の、
「すぐそこだよ」
 というのは遠い。
 やがてその山の峠をこえると、とち子が歓声をあげた。ようやく山がなくなり、視界がひらけた。眼下に陽のあたった冬枯れた田畑が見え、遙かむこうの山なみの山裾へつづき、そこに町の家々がひとかたまりになっている。田畑の中を白くうねうねと道がつづいており、グレーの車が一つ走って行っている。
 空はよく晴れ、風もなくよい天気である。
「あたい、お腹すいたよ」
「この山をおりたら、なにかたべよう」
 とち子は、ちらっと素早く洋造をみた。革のハンチの下の洋造のカストロのような髭の涙はかわいており、かなしげな感じもなくなり、こころもち汗ばんだ顔が、明るくたのしそうになっていた。
「あたいがおごるよ」
 とち子は、洋造になにも言わせず、すぐ洋造の腕へ腕をからませ、勢よく坂道を歩きだした。あまい、すごく高そうな香水の匂いが、洋造の鼻に流れこんできた。

 道ばたの食堂の前には、トラックや乗用車が停っていた。
 食堂の中は、わりと広くて、右側の真ン中に大きな四角なストーブがあり、客がそれをとりかこんでいた。土産物売場が正面にあって、店の左のほうは、調理場のカウンターにつづいたとこが、桟敷さじきになっており、座卓が三つ並んでいた。窓から西陽がさしこんでいてあたたかそうである。
 足を投げだしたいので、とち子と洋造はその桟敷にあがり、足を揉みだした。
「お客さん、今日はソバくらいかないよ」
 気のよさそうな太ったモンペのおばさんがやってきて、桟敷へ腰かけた。てんぷらソバをとち子が頼むと、そこから大声で調理場へ註文を通し、
「お客さん、どこへ行くのかね?」
 と話しかけてきた。
「今日は、もうバスないよ」
「タクシーないかしら?」
「そんな気のいたものないよ」
「こまったわ、温泉場では、バスがあるというから、来たのにさ、それじゃ泊るとこないかしら?」
「この先の町には、ほてい屋があるけど、いっぱいだと思うよ。バスが通れないから、山むこうへ帰る連中が、泊りにいったよ」
 前掛けをしたおばさんは、そう言いながら立ちあがり、入口わきのレジのところへ行って、電話をかけだした。
「山下食堂だけど、まだ泊れるかい、二人だよ、そう、聞いてみるよ」
 おばさんは洋造へ声をかけた。
「いちばんいい一万円の部屋なら、空いてるってよ、どうする?」
「いいわ、頼んでください」
「それじゃ頼むよ、うちのお客さんだから、うんとサービス頼むよ」
 おばさんは電話をきって、カウンターのほうへ行き、熱いてんぷらそばを二つ、両手に持って、桟敷へやってきた。
「あしたは正月だのに、災難だったね、名古屋かね」
「東京よ」
「あしたは十時と三時に、豊田へバスが出るよ」
 そこへにぎやかなかけ声をかけながら、お飾りを両手いっぱいに抱えた小柄な中年男が、威勢よく入ってきた。
「さあ、おっかあ、餅つきだ、用意は出来てるか」
「炊けばすぐ出来るようになってるよ、ご苦労さん、あんた」
 おばさんはすぐお飾りを半分以上とってやり、土産物の売場のうしろから、二人は奥へいそいそ入っていった。主人のほうは、ちびでおばさんの肩ほどしかなかったが、それでも二人は、似合いの夫婦だった。

「おれが送ってやるよ」
 ゲーム機で遊んでいた若い男が、ばかに調子よくとち子へ声をかけた。
 とち子と洋造は、むかいの空と山の峯だけに西陽がのこっている表に出た。あっという間に表は冷えこんで、風が出ていた。
 洋造が若い男の車のあとに乗り、とち子は若い男の隣へ乗った。むこうの町までは三キロたらずの距離である。
 若い男は、気取ってすぐ車を走らせはじめた。
「うしろの人、おじいさん?」
 ヒーターからやっと温かい風が出だした。
「あら、どうして?」
「なんとなくさ」
「似てないというの? そうね、親子なら似てるでしょうけど、そうじゃないもの。パパ、あたしたちのことどういえばいいの」
 声をかけられた洋造は、若い男がちょっと気の毒になった。
「そうさな、相棒だな」
「そう、あたしたち相棒なの、人生のね」
 とち子は若い男にはきびしかった。
 若い男は、びっくりして、それきりなにもしゃべらなくなった。
 ほてい屋という旅館は、旅籠はたごといったほうがよいような古い構えの二階屋で門松が立っている。
「もう一卜部屋、ふとん部屋でもとってもらおう」
 若い男の車が帰っていったあと、洋造はそう言いながら、玄関へ入った。
「いいわよ、パパ、あたし平気よ」
「そうもいくまい」
 と言いあっているうち、着物のお婆さんが横の帳場から、いらっしゃいませと出てきて、すぐとち子のバッグをとり、案内してくれだした。
 廊下の板が氷のように冷たい。
「うちの娘も孫を連れてくる中途でしたが、橋が落ちて来られんいうてきました。それで部屋が一つ空きましたんや。ほんとにえらい雨でしたなあ。こんなところで、お正月とはお気の毒ですな」
 なるほど客が混んでいるらしく、子供の泣声や駈けまわる足音やで、家の中がずいぶんざわめいている。
 よくしゃべるお婆さんに案内されたのは、裏庭にある別棟で、四畳と十畳の部屋で、十畳には床の間と違い棚があり、床の間には日の出の軸の前に、お飾りの餅が重ねておかれてあった。
 部屋の中には、厚い蒲団をかけた炬燵があり、四畳のほうにはストーブもついているのだが、ひどく家が古くて隙間風が吹きこみ、あまり暖かいとはいえない。
「温泉やないけど、うちの湯はようあたたまります。お風呂に入っている間に、御飯の支度しましょ」
 四畳の部屋の縁につづいた湯殿を教えて、お婆さんはいそがしそうに出ていった。
 とち子は寝る前に入りたいというので、洋造は、さきに湯殿へ宿の着物を抱えて出かけていっ.た。湯殿の中には洗面所もあり、その前に脱衣籠がおかれている。
 そこへ浴衣と丹前を投げこんでから、洋造はふっと考えこんだ。
 あの子はいったいどういう
 気なんだろう
 洋造は、のろのろと上着を脱ぎながら、
「まさか」
 と考えをうち消すように呟いた。
 財布の中に洋造は、五万円ほどの現金とキャッシュカードを入れている。その金のほかに、年金やなんかのへそくりを、かっきり二百万、胴巻きに入れている。
 もしかしたらその金をとち子が狙っているのではないか、夜中にかっぱらって逃げる気ではないかと思ったのだった。
 とち子はさっぱりした、気のよい女の子だが、芯のずぶといところもある。いくらなんでも、その日に出会った男と一つ部屋で泊るなんてことを、若い女が出来るはずがない。しかし、だからといって、金を狙っているなんて思うのは、少々根性がケチ臭い。だいいちバスは明日の十時までないのだから、逃げようがないのである。
 それよりとち子が、帰りにくい実家の父親がわりに、自分に孝行の真似事をしていると思うほうが、よほど粋である。
 洋造はそこまで考えると、急に気持ちがはればれしてきた。元気よく着ているものを脱ぎ、裸になり、湯気のたちこめた浴室に入っていった。
 湯の中で洋造は、こいつがつかえるもんならなあというように、しなびたはりのないのを握りながら、
 孫に娘が一人いたらなあ
 こうさみしかァねえだろうな
 とうっとり思いはじめた。
 べつにとち子にはこまやかなところがあるというわけでもないのだが、疲れやさみしさですさんだものを、やさしくいやしてくれるものがあるのだった。

 湯殿の中からとち子が、
「パパァ」
 と呼んだ。静かな夜なので、とち子の声がはっきり聞える。
「パンツ出しなよ、洗ってあげるからさ。ストーブの火で朝までに乾くからさ」
 晩酌でいい気分になり、蒲団にもぐりこんでいた洋造は、びっくりして身を起した。家を出るときに新しい下着を身につけてきたのだが、はきっぱなしである。
「あとでおれが洗うよ、そのつもりだったんだ」
「遠慮しなくたっていいのに」
「遠慮しちゃあいねえよ」
「それじゃ、あたい、出るよ」
 ちょっと間をおいて、とち子が湯殿からあがってきた。
「洗ったらここへかけとくのよ」
 ああと答えて洋造は、入れちがいに湯殿へ出かけ、パンツを洗い、ついでに湯に入り、あたたまってきた。
 四畳へ戻ると、ストーブの前にすこしはなして、タオル掛けがおいてあり、はしのほうにピンクの小さいパンティがひっかけてある。隣の部屋の灯は、うす暗いスタンドにかわっている。
 愛らしいパンティの横に、でっかいパンツをならべるのは、なんだか具合がわるい。
「そっちの灯を消してきてね」
 ためらっている洋造に、蒲団の中からとち子が声をかけた。
「あいよ」
 洋造は、いそいでパンツをかけ、灯を消して、ちらっとストーブのほうをふりむいた。あかあかと燃えているストーブのあかりをうけて、パンツとパンティはなかなかいい感じだった。
 広い座敷のほうには、炬燵をはさんで両側に、二つの寝床が敷いてあり、障子際のほうの寝床にとち子が寝ている。枕許の行燈あんどん風なスタンドのやわらかい光りをうけながら、とち子は仰向けに寝て、ぽっかり目をあけている。
 洋造が丹前をぬぎ、寝床にもぐりこむと、とち子が顔をむけた。
「煙草、吸う?」
「もう寝るよ、朝おきて喫うよ」
「じゃ、灯を消すわよ」
 小さい音と一緒に灯が消えた。
 あたりが暗くなると、洋造は、肩の荷をおろしたように、なんだかほっとした。実際今日は近年おぼえがないほどの強行軍だった。軀のあちこちが、痛くなっている。
 それにひきかえとち子のほうは、元気なものである。灯を消し、あたりが暗くなると、すぐに話しかけてきた。
「あしたはお正月か。あたいはさ、お正月って子供のときから好きじゃなかったから、平気だけどさ、パパはこんなお正月はつまんないでしょ」
「正月のどこが好きでないんだね」
「貧乏だったからさ、みんな綺麗な着物をきるのにさ、あたいは着たきり雀だったもんね。お正月が近づいてくると、あたい、おどおどしたよ」
「正月はどこの家でも雑煮だから、パン屋はあがったりだった。婆さんが生きていたときは、人なみにあんたに骨休みさせようと神さまが思っていなさるんだよと言って、初詣でに一緒に行ったこともあるが、近頃は正月は子供のもんだな、おせっち料理も年寄りむきでなくなったね。なんてことはない、冥土への一里塚だな。まあ家に居りゃあ、おじいちゃん御飯ですよ、おじいちゃんお酒はこれでやめるのよ、おじいちゃんテレビばかり見てないで午寝ひるねしなさいよだ。腹が空いてなくたってめしをくわなきゃならねえ。紅白歌合戦なんてのを、見ずにいられるだけでも、今年はいい年だ」
「それで出てきたの」
「世の中てえのは、年寄りむきに出来てねえ。金持ちや社長や政治家なら、話はかわってくるが、貧乏な年寄りにゃ歯が立たないとこだ。なんかこうはりきってやりたくても、やることがない。うちじゃ、おれが働くと近所から、娘が薄情な娘だとかなんとかいわれる。どっか知らない土地で、働きてえなんて思ったりしているうち、ふらっと出てきてしまったんだ。年をとると子供みてえに、辛抱ということが出来なくなるんでね。なにも出来ねえくせにな」
「あの峠のブロックへ腰かけて、あんた、泣いてたよ。あたいさ、首でも吊るんじゃないかと思っちゃってさ」
「それでつき合ってくれたんだね」
「ほんとにさみしそうだったよ」
「そうかね、死んだ婆さんのことを考えていたからな」
「どんな奥さんだったの? 美人でしょ」
「女優さんのように綺麗じゃなかったが、可愛い顔で、明るくて、くよくよしないたちだったね。小柄で丈夫で働き者で、あんたと一緒に働いてる時が一番好きってよく言ってたな。客あしらいがうまくて、みんなに好かれたよ」
「あたいの母さんも、可愛くて村のみんなに好かれていたわ。父さんは牛みたいにただもう働くだけ。働いてもぜんぜんらくにならないのにさ、朝から晩まで働き通し。借金がちっともへらなくて、母さんはいつも借金のことわりをしてて、あの家はお豊さんでもってるんだといわれていたのよ。それなのに父さんは、母さんが死んだら、すぐ隣の喜代さんと結婚したんだからひどいよ。田ン圃がつづいているし、喜代さんはおじいさんが死んで独りぽっちだったんだけどさ、でもさ、父さんとは二十五もちがうんだもの、あたいなんて居場所がないって感じでさ、中学出ると飛びだしたよ」
「うちの娘の亭主は、おれが手塩にかけて育てた弟子で、可愛がってやったもんさ。それでも娘があいつと一緒になりたいと言いだすと、顔をみるのもいやになったな。娘をとられたような気がしたもんだよ」
「あたいも父さんをとられたみたいな気がしたんだよね、自分じゃ、あたいがなんだって出来るんだから、喜代さんなんかいらないと本気で思ってさ、突っ張って喜代さんを泣かしたんだけど、ばかよね、あたいに喜代さんの代りが出来るわけないのにさ。家を飛びだして、わかったけど、帰ったところでやってゆかれないんだから、ずっと東京で暮らしたんだ。いろんなことやったわ。時々帰るんだけど、一時間もたないもん。ドジなのよね、気持ちを気持ち通りに出せないんだ。お店なんかじゃわりかしすっと気持ち通りにやれるんだけど、家へ帰るとへんになっちゃうんだ」「あと兄弟は?」
「姉ちゃんがいたんだけど、居なくなったままだし、父さんは子どもはもうたくさんだと言って、つくらない」
「親ってのは、子どものことは頭からはなれねえもんだ。毎日、なんどもどうしてるかなと思うもんだよ」
「そうかしらねえ」
 とち子の声が小さく気遠になった。どうやら思いが、わが家のほうへ飛んでいったようである。
 洋造は、それでわざとかるいいびきをかき、寝入ったふりをした。首でもくくるのではないかと心配して、つきあってくれたとち子にしてやれることは、ぐっすり気持ちよく眠らせてやるくらいのことしかない。
 ちょっと間をおいて、とち子が、
「寝たの」
 と寝返りをうった。
 若い娘は寝つきがよい。
 たちまち安らかな寝息が、暗い部屋の中にひろがりはじめた。
 それで洋造はそっと腕をのばし、枕許のポケットウイスキーをとり、音をたてないように、ひと口のんだ。もうひと口のんだ。
 実にうまい寝酒で、満ち足りた気持ちが、五臓六腑から軀の端しばしへしみて行く。それがたちまち眠気にかわり、洋造の瞼は重くなったが、お酒はいけない。
 うとうとまどろみながら、洋造はちらっとくやしくなった。
 もうとう、若けりゃなあ

 なにがどうしてこうなったのか、よくわからないのだが、洋造は、蒲団の中でいい女を抱いている夢をみている。もうそれが夢だと気づいていて、洋造はうつらうつらしながら、
 こいつぁおつな初夢だ
 と思った拍子に目が覚めた。
 時計をみようとすると、腕が痛い。左腕ばかりでなくて、右腕も痺れたように動かない。やはり昨日の山越えがこたえており、軀中のあちこちが痛い。
 縁の雨戸の隙から、朝の陽が障子へ幾条いくすじも射しこんでいる。隣の寝床をみて、洋造は、おやっという顔になった。とち子はもう起きてどこかにいっている。寝床が空である。そればかりでなく、厚い重い掛蒲団がなくなっている。洋造は、その掛蒲団が自分の蒲団のうえにかけてあるのに気がついて、あわてて胴巻きをさぐってみた。胴巻きは腹のところで無事である。
 どうやら朝の寒さがきびしかったので、とち子がかけてくれたのだろう。親切はありがたいが、あんまり重すぎて身うごきしにくいほどである。洋造は腕をのばして、厚い蒲団をとろうとすると、その腕のつけ根のところの浴衣が濡れている。寝呆けてウイスキーをのもうとしてこぼしたのか。
 洋造は、左腕の浴衣のしめったところをひっぱり、嗅いでみた。なんと、とち子の香水の移り香がにおってきた。
 とち子の涙にちがいない。
 とすると初夢だと思ったのは、夢ではなくて、とち子がやってきていたのである。もう長い歳月、こんなことに頭をつかったことがないので、洋造はうろたえた。
 朝の冷えこみがはげしくなった頃、とち子は掛蒲団をもって、洋造のとこへやってきたのだろう。考えてみれば、誰もがたのしく元旦を迎えているというのに、こんな縁もゆかりもないところで、さびしく正月を迎えたのは情けないことにちがいない。やりきれなくなり、もぐりこんできて、独り泣いていたのだろうか。世の中には、数えきれないほど人がいるのに、かりる胸ひとつないというのは、あわれなものではないか。
 しかしそれにしては、涙が多すぎるようである。もしかすると、とち子はもっと大きな悩みや悲しみを抱えているのかもしれない。自分が死にたいような気持ちだったから、洋造が首でも吊りそうに思えたのではなかろうか。なんだか、つじつまがあってくる。
 もしもそうなら、助けになってやりたいが、なにが自分に出来るだろう。
 ちょうどその時、湯殿の戸が開く音がし、浴衣の寝間着のとち子が、手で前を合せてもどってきた。
 目を覚している洋造を見ると、ぱっと可愛い笑顔になった。
「明けましてお目出度うございまぁす」
 洋造が身を起してお目出度うを言うと、
「とってもいいお天気のお正月よ、お風呂が出来てるから、入るといいわ。パンツはお風呂場へおいてきたわ」
 とち子は鏡台の前にすわりこんで、化粧にとりかかった。若い者は身も心も元気なものである。うきうきはずんでいる。
「よし、起きよう」
 洋造は負けずに元気に起きだした。昨夜少々飲みすぎたせいで、頭がびんびんしはじめた。ひと口、ウイスキーで迎え酒をし、洋造は湯殿にむかった。
「ゆっくり入ってて、おふとんあげてもらうから」
 湯上りで寒くないのか、とち子は浴衣の寝間着だけで、鏡をのぞくようにして化粧中である。腰ひもをしてないので、胸もとがはだけて、白いつるつるした軀のおっぱいやへその下まで鏡にうつっている。可愛い小づくりのぽちゃっとしたからだである。
「丹前きてないと風邪ひくぞ」
「馴れてるから平気」
 洋造はもういちどとち子の盛りあがったおっぱいを見てから、せわしなく四畳を出ていった。
 ゆっくり朝湯に入り、洋造は、時間をかけてごま塩頭をとかし、髭の手入れをしてから戻ってくると、宿の年配の女中さんが、炬燵のうえにせっち料理やお雑煮を、並べているところだった。
 雨戸が開けられたので、朝陽の映えが障子ごしに、座敷をあかるくすがすがしくしている。
 とち子は化粧をすませ、エメラルド色のセーター姿で、きちんと坐っている。襟と袖のさきにレース編みのようなひだひだがついていて、色白なとち子を愛くるしくひきたてている。
 お屠蘇とその酌をしてから、あとをとち子に頼んで女中が出て行くと、今年はじめての御飯になった。
 お椀も大ぶりだが、お雑煮のお餅もずいぶん大きい。
 とち子は、すっかり元気になって、はしゃいで雑煮をたべながら、
「ねえ、これからどうするつもり?」
 と話しかけてきた。
「どうしたものかな。あんたは帰る気になったかね」
「うん」
「そりゃよかった」
 とち子は、ちょっと洋造を見た。年寄りの洋造と一緒にいるうち、なんだか喜代と父親の仲がわかったような気がしたことを、洋造に話したくなった。しかしとち子は、それを胸の中にしまっておいて、べつのことを言った。
「パパも、家へ帰ったほうがいいよ」
「そうだな」
「死んだ奥さんだって、そう思ってると想うよ。ゆきずりのあたいでも、心配だもの、ほんと」
「家はどこかね」
「中央本線の田立というとこから十キロほどのとこよ」
「それじゃ田立の駅まで送るとしよう」
「そんなことしないで、すっと別れたほうが思い出になるじゃない。そうか、あたいが帰ンないかもしれないと思ってるのね。そうでしょう」
「おれは松本へ出て、新宿へ帰るよ」
「時間もお金もむだよ。それじゃ明知線で恵那に出て、恵那で別れましょ」
 やっと話はきまった。

 明知行のバスも、十時発だった。
 今度は洋造が宿の支払いをして、九時半すぎ二人はほてい屋を出た。
 実によい天気で、晴れわたった空に、いくつも凧があがっている。
 やがて洋造たちはバスに乗り、明知へむかった。女の子たちが羽子板をついている町や田畑の中、山かいの道をバスはくねくねと走り、明知駅へたどりついたが、生憎あいにく二時ちかくまで電車がない。
 ちょうど恵那行のバスが発車しかけており、洋造たちはやっとそれに間に合ったが、ひどくあわただしい元旦になった。
 落着いて別れの気分をひきたてることも出来ぬうちに、恵那についたときは、十五分おくれで十二時十分すぎだった。
 とち子が乗る下りは十二時二十分である。
「おじいちゃんは改札口で待ってて」
 とち子はバスから下りると、すぐ駅の中へ駈けこんでいった。
 言われた通り、洋造は、はなやかな着物姿のひとかたまりの娘たちがいる改札口のところへ出かけ、そこでとち子を待ちはじめた。
 そろそろ列車がやってきそうな時間になってから、とち子が走りよってきた。
 とち子の列車のホームは、4番ホームである。あまり列車に乗り馴れてないとみえ、とち子はむやみにあせっている。
 やっと4番ホームまでたどりつくと、ようやくとち子は、つかんでひっぱっていた洋造の手をはなした。
「はい、これ切符よ、名古屋から新幹線に乗るのよ、日が暮れないうちに、東京へ帰れるわ」
 と切符を洋造に握らせた。上気してとち子の顔はほのあかくなり、汗ばんでいる。今度は肩にかけた臙脂のバッグを胸のほうにまわし、急いでバッグをあけた。バッグの内側のポケットのチャックもあけた。着替えのセーターなんかが入っている横の内ポケットの中には、ぎっしりという感じで一万円札が詰っている。洋造はぎょっとして目をぱっとそらせたが、とち子はそれにも気づかず、一万円札を何枚かとりだして、縦に四つにおり、それへ小さい白い紙をはさんだかと思うと、いきなり洋造のコートの胸ポケットのボタンをあけ、それをそこへおしこんだ。
 それと同時に電車がすべりこんできた。
 とち子は胸のボタンをかけ、そこをぽんぽん叩きながら、大きな声で喋りだした。
「おじいちゃん、ちゃんと帰るのよ、帰ンなきゃだめよ、いいわね、あたいの名刺を入れといたからね、困ったことがあったら、あたいに電話をかけるのよ、いいわね、約束してね」
 洋造はそんな一生懸命な声を房枝よりほかに聞いたことがない。じいんと軀がしびれ、頬がひきつり、こくこくうなずくのがやっとだった。
 束の間、電車が停ると、とち子は、ぐっと爪先で立ち、走って乱れた洋造のマフラを直しながら、洋造の顔をじっと見て、おふくろのような声になった。
「絶対、長生きしてよ、おじいちゃん、人間いついいことがあるかわからないからさ、生きていなきゃね」
 うしろでドアーが開き、客が下りると、とち子は、
「じゃあね、バイバイ!」
 と電車に乗りこんだ。さっとドアーがしまり、ドアーのガラスのむこうでとち子が手をふった。たちまち走りだした電車と一緒にそのとち子は遠ざかり、見えなくなってしまった。
 陽の中を走る電車が見えなくなるまで見送ってから、洋造は、ふらふら吹きっさらしのベンチへ近づき、どさりと腰かけた。なんだか何年もいちどに年をとったような気もするが、胸の中には若々しくあたたかいものが燃えている。それにしても金を呉れたりしたのは、今朝もぐりこんできたとき、洋造の軀に触らなかったということである。いったいどんなことがあったのか、どんなふうだったのかわからないが、ともかく胸をかしてやったことだけはたしかである。
 瞬間洋造は、目のうろこが落ちたように、ぱっと明るくなった。まだ、貸してやれる胸があるのである。なにも出来ぬけ者なんかではないではないか。
 洋造は胸のポケットからとち子の金をとりだしてみた。たたんだ札の間に、かどの丸い小さい名刺が入っていた。横書きで、
 あなたのオアシス
 夢殿・トルコオレ
 その下に手書きで、小紫、とかかれ、その下に、新宿歌舞伎町の住所と電話番号が印刷してあった。
色もだす
 藻子は人の顔がうつるほどよく拭いた濃い黒眼鏡をいつもかけている。色白なので黒眼鏡がよく似合い、赤みをおびた淡い感じの葡萄酒色の眼鏡のふちが、優しい肌をひきたて、ちょっと神秘な好ましげな女にみせている。しかしその黒眼鏡の奥の藻子の目は、二つともこの世の物をなにひとつ見ることが出来ない。こどもの時分からずっとそうなのである。亡くなった親たちは独り娘のためにずいぶん手をつくしたのだが、とうとう藻子の目はどちらも見えるようにならなかった。
 藻子がその黒眼鏡をとるのは、陶兵衛と二人だけになり、表戸に鍵をかけてからである。とった黒眼鏡は、茶の間の仏壇の引出しの中にしかおかない。家の中の道具はそんなふうにきまったところにおいておくのだが、大事な黒眼鏡を仏壇におくのは、
「前はね、茶棚の上においてたの。火事の晩、おむかいのお宅が火事になったとき、わたし、とりそこなって落したの。さあたいへん、はいまわってさがしたわ。むこうの壁のとこまで落ちて行ってたのよ。それからなのね、ここへ入れとくようになったのは。お母さんたちに、眼鏡おねがいしますと言って入れるの」
 ということなのである。
 そんな黒眼鏡をとると、藻子の顔はかなしく変る。ぱっちりしたよいかたちの目だが、二つとも白い雲に黒目が蔽われてしまっている。眼をそむけたくなるほど、醜くなるというふうではないが、盲目という感じがその顔からあふれてくる。まさか、眼鏡をかけたほうが綺麗だよとは言えない。ある時、陶兵衛は、炬燵で冷やをやりながら、
「まだ宵ノ口だ、人が来るかもしれないぜ、眼鏡をかけときな」
 やっとの思いで言ったが、はずんだ藻子にこたえはしなかった。
「いいの、あれかけてると、わたしじゃないみたい、十歩も奥からあなたと話しているみたい」
 藻子は、といってわかりがわるいというわけではなかった。なんどめかの閨の中で、たかまりだすと自然に開いてくる藻子の目を、陶兵衛は指さきで抑えて閉じさせたことがある。べつにそのときなにも言ったわけでもないのに、藻子はこくりと頷いた。
 それからあと藻子は、黒眼鏡をとっても目をあけなくなった。
 藻子は二十四なのだが、目を閉じるといくらかふけ、生疲れの漂う顔にかわるけれども、心の中のひそかな弾みが睫毛の顫えに映るようになり、かよわく純なものにつつまれだして美しい。

 藻子のことを陶兵衛に教えたのは、出版社の若い男だった。
「うちの母は病院で見込みがない、家で好きなものをたべさせて気儘にさせてあげなさいといわれて戻されたんですよ、そのあと治療を受けて、元気になったんですよ。中国の古い鍼術で、日本では一人きりしかやれないそうですよ、とにかくうちの母を治したんですからね」
 陶兵衛は若い頃からの大酒で肝臓をやられて、数年酒をやめていたのだが、その年、つれあいのさよに先立たれてからまた酒の力を借りはじめた。酒量がもとにもどらぬうちにたちまち肝臓がかたくはれあがり、その時分すこぶるまいっていた。多治見の山奥でのやもめ暮しはわびしいのである。
 その鍼術古流というところに興味がわいたが、わざわざ東京まで治療してもらいに行く気にまではなれなかった。陶兵衛は自分の仕事にかまけ、二人の子を育てそこね、姉のほうも弟も家から出ていっている。陶兵衛自身格別の野心もなし、なにも生きながらえていなければならぬわけもなければ、生きつづけたいというほどの気持ちもない。それきり鍼術古流効天洞のことは忘れていたのだが、よくよく縁があったのだろう。三月ほどのち、二年ぶりの個展のため上京したのだが、泊った吉祥寺の宿のあたりを散歩しているうち、すごい紅葉明りにぶつかった。錆びた高い金網のすぐむこうに、大きな欅の樹が数本鉤型に並んでおり、その欅の奥に十本ほどの桜の樹が襷に守られたように植えられている。赤みをおびた黄色い落葉が一面におちていて、折柄の朝陽をうけ、赤くあるいは黄金色に輝いている。その樹々の葉と落葉の輝きの映えが、あたりの空気をあかるくやわらかいオレンジ色に、ぼうっと染めている。時々何枚もの枯葉が斜めにきらきら落ちて行く。東京にこんな庭があるとは思ってもいなかった。欅の黄色い落葉の歩道で陶兵衛は、紅葉明りを眺めながら立ちどまって、目を閉じ深呼吸にとりかかった。東京へきてまいるのは、よい空気がすえないことである。深呼吸を二つして目をあけたとき、錆びた金網に、鍼術古流効天洞という古ぼけた木札が吊してあるのに気がついたのだった。三越での個展は今日がパーティーで明日から日曜までである。その間に治療をうけるのならよい暇つぶしになる。それで陶兵衛は、木札の矢印にしたがって、金網塀沿いに横道へ曲った。
 金網が終ると和風の白い塀の家があり、格子戸のはいった小さい門があり、その門の柱に効天洞という表札がかかっていた。白い塀にかこまれた細い前庭は芝生で、むこうのまだ築後数年の小ぢんまりした平屋の家の玄関まで、真直ぐに石が敷いてある。ちょうど玄関で老婦が掃除しており、陶兵衛が木のない前庭へ入って行くと、奥へ、
「先生、お客さんですよ」
 と教えながら、バケツをさげて出てきた。会釈なしでとっとと横へまがり、また連子窓にそって、隣の無人屋敷との間を奥へ入っていった。会釈なしがいかにも東京らしい。
 木はそうでもないが、なかなか感じのよい造りの玄関へ入ると、右手にこまかい桟の格子戸があり、そのむこうが待合室なのだろう、左右正面の三方に一畳の畳敷きの桟敷がつくりつけてある。
 陶兵衛がそこに入り、ひんやりした気配の中で、案内を乞うと、左のほうから、
「どうぞこちらへ」
 という若い女の声がした。左の桟敷の横に二段の段があり、そのむこうの廊下の奥に女医さんのような診察着で黒眼鏡をかけた女が立っており、明るい光をあふれさせている横の診療室らしいところへさっさと入っていった。陶兵衛は靴をぬぎスリッパをつっかけてあがって行きながら、ちょっとどきどきした。どうして自分が患者だとあの助手にわかったのだろう? 一ト目で病人とわかるほど、悪くなっているのだろうか?
 診療室に入るなり、陶兵衛はもういちどけげんそうな満されぬ顔になった。その診療室の中には、その若い女しか居なくて、その若い女が和風の肘掛け椅子へ腰かけたまま、陶兵衛へそっけなく白い顎をしゃくった。
「出来るだけ薄着になって、そこへ仰向けに寝てください」
 陶兵衛もそこから急に帰るようなことの出来ないほうである。いたしかたなくパンツとランニングシャツになり、つくりつけの寝台の畳の上の薄いマットへ仰向けになった。どこかに暖房があるらしく、少しも肌寒くない。なんとなく陶兵衛はのびのびしてきて別の気分になりだした。
 はじめ助手かと思いちがいしたその藻子の診察は、ずいぶん変ったものだった。見かけよりも力のある両手の指で、陶兵衛の体のほとんどを隈なくといった感じで押しまわった。陶兵衛が藻子を見直したのは、肝臓をおさえはじめたときである。藻子は肝硬変のあとにすぐ気がつき、みぞおちあたりへ肥大していっている肝臓に用心深く触りだした。そして触診がすべて終ると、
「肝臓がいけませんね、肝硬変したところもありますよ」
「重症ですか」
「問題は、お仕事ですね。うつむいてするお仕事でしょう。ここの腹筋だけが発達していますよ」
 それから肩のつけ根のところから腕のつけ根の裏側のほうを押えてみせ、
「ここがずっと凝ってますよ。力のいる仕事、手仕事でしょう」
 と陶兵衛の掌をとった。小さい細くまるい指が気持ちよく吸いつくように触れてくる。そして陶兵衛の指をひろげ、掌のひらを指のほうから三本のくりくりした指さきで、藻子はゆっくりすうっと撫でた。もとより藻子に余分な気持ちがあったわけではないだろうが、膚と波長が合っているからだろう、瞬間そこに快感がおこり、しびれるようなその快感がそこから陶兵衛の深部へ拡がっていった。陶兵衛はうっとまばたいた。
「あら、すべすべしてますね、土の匂いがするし、あなたは陶器をつくる方のようですね。肝臓にはよいお仕事ではありませんね、押えて血行をわるくしますからね」
 陶兵衛はしびれてひとたまりもなく恐れ入ってしまった。

 五十半ばをすぎているので、体がよくなるということはない。どれだけ坂をゆっくり下れるかということしかない。しかし陶兵衛の体は足腰がよくきたえられているので、用心すれば今の肝臓のはれなどは間もなくおさまるだろう。あまり酒をのまないこと、よく眠ること、希望をもつこと。
 月に一度くらいは上京するので、その折には診てもらいにくるようにつとめる。そういうことにして、日曜日に宿を出たのだが、陶兵衛はなんとなく心がのこって、そのまま三越へ行き、山へ帰る気になれなかった。まことに気まりがわるいが、自分にも人目にも知らんぷりをして、効天洞のほうへまわった。門の前に立つと、臨時休診の木札が出ていたが、朝陽の庭のむこうの玄関の格子戸が三四寸あいており、真っ暗な奥が見えている。藻子は襖や障子を閉めるとき、おわりのところをそっと力をぬいて閉め、ぴたりときめる。なんだか陶兵衛は胸さわぎがした。どんな奴なんだろう?
 しかしそうではなくて、陶兵衛が入ってみると、藻子は茶の間でお腹を抱えるようにして倒れ、う、うっとうめいていた。裏の高校のところで、野球のボールが飛んできて、お腹に当ったそうだった。生憎日曜なので通いの老婦も来ていない。こういう目にあった藻子は、まるで口のきけない子どものようである。おびえてふるえ、心で陶兵衛にすがりついてくる。陶兵衛は医者をよんだり、湿布の交換をしてやったり、おかゆをつくってやったり、とうとうあくる日、通いの老婦がくるまで介抱してやった。藻子は蒲団の中から手をだして、陶兵衛の小指をにぎりしめたりしたが、どちらの気持ちが濃いのか、見わけがつかずじまいだった。
 それでもその後、陶兵衛は家族あつかいされだした。月に二度ほど治療に出かけて茶の間の客になるのである。そんなときの話題は身の上ばなしと鍼や陶芸のことだけだが、それでも仲は深まって行く。なんと言っても相手は目がないし、陶兵衛をたよりにしている。そこをつけこんで赤子の手をひねるようなことも出来なくもないが、陶兵衛はそこまで自分を堕したくない。そんな心は作品に映りやすいのである。だんだん陶兵衛は、義理の父親のような気持ちになりだした。
 年の暮の最後の日曜の朝、陶兵衛は重い餅を持って、藻子のところへ出かけていった。門松が飾ってある門から庭へ入ると、玄関前から四五羽の雀がぱっと陽の中へ飛び立ち、屋根や樋にとまった。すぐ玄関の中から十四五のエプロン姿の小女が、丼を持って出てきた。短い髪を二つにわけて耳もとで結んでいる。陶兵衛が近づいて行くと、玄関前のところで小女は、凝っとけげんそうに陶兵衛を仰いで、
「旦那さまですか?」
 ときいた。陶兵衛はそれですべてを了解し、優しい笑顔になった。
「どうしてわかった? いつから来たんだね?」
 小女はほっとした笑顔になった。
「さっき時間表を先生と調べました。一番で発てば、吉祥寺駅が九時三十二分ですから、もう見えると思っていました。小杉葉子です。五日前から来ています」
「それはなんだい」
「ああこれ、雀の御飯なの」
 その晩、陶兵衛は初めて藻子の寝部屋に泊った。

 藻子は凝っとしているのが好きである。
 黒い眼鏡もいく通りもある声音も、そうなのだが、ほんとうの藻子は十歩も奥の暗い洞の中にいる。抱きあったまま凝っとしていると、ほんとうの藻子が暗い洞の中から一歩一歩出てくるのである。そこがうごめきはじめ、それからのがれようとするように、眉をひそめ顔を右左にそむけはじめる。それがすぎると陶兵衛の胸をさも息苦しそうにおしのける。それから小さい乳首がぴんと立った藻子は、しいんとなる。ほんとうの藻子がもどってきたのである。閉じた睫毛がそよぐように時折ふるえる。白い腕に青く血管がうきあがってくる。白いなめらかな肌が仄あからみ汗ばんでくる。かたちのよい乾いた唇が、くっつきながら綻びはじめる。あえぎだして、「来て」と白いしなやかな腕を陶兵衛にのばす。
 陶兵衛は月に三度ほど泊りに行っていたが、はじめのうちはそんな藻子に気がつかなかった。それを気づくと陶兵衛は、あらたなよろこびを知ったばかりでなく、人さまざまということを会得した。そのさまざまなものにつきあうことがよろこびになることも会得した。
 初夏の夜明けの閨のとき、藻子にこれをおいて行けと言われ、陶兵衛は山に帰って、自分のそれをつくりはじめた。思ったよりそれはむつかしく、むつかしさが陶兵衛を夢中にさせた。悪戦苦闘の末、漸く五本つくり、ためらわず陶兵衛はわが名の「と」の字をほりこんだ。ちょうど註文の角皿の窯があったので、陶兵衛はそれへ白釉をほどこし焼きあげた。
 窯をあけると陶兵衛は、それを真っ先にとりだし、一本えらび、あとは粉々にうちくだいてから、山に独り入り、木陰の岩に腰かけ、その感触をたしかめたり、とみこうみした。青葉の映えで淡く染ったそれは、ういういしくはじらっている。山風が渡りはじめると、陽がそれへ集まりそそぎ、あたたかく白々としたそれは、ほのかな火色とあかい土の色を浮きたたせ、つよくやさしさをたたえてくる。それはひたすら藻子を求めており、極まっている。一瞬、陶兵衛は悟った。これだこれなのだと思った。もう永い間、陶兵衛は自分の作品に満たされなかった。口づくりにも確信が持てなかった。なにかどこか弛んでいるのである。近年陶兵衛の茶盌はすこぶる迎えられて、ほどなく百万の声を聞きそうであるが、それにつれて弛みつづけているのである。その原因がどこにあるのか、陶兵衛は一瞬啓示されたのだった。いつの間にか、よく売れるために、「客」の像が出来あがってしまっていたのである。その「客」にむけてつくれば、万人むけになるという「客」の像が、作品を弛ませてきたにちがいない。物をつくるためには、たしかな相手が要るのである。
 陶兵衛は昂奮した。それを握りしめて岩上に立ちあがり、それを高くさしあげ、やったぞっとときの声をあげた、山もおどろくほどに。

 陶兵衛の作品は漸くひきしまりはじめ、大きなつつましさがにじみ出はじめた。
 それをひっさげて個展を開いたとき、陶兵衛は初めて、
「触診に行こう」
 と藻子を展覧会場へ連れだした。そしてその晩、陶兵衛は藻子に、どうかね、多治見に来てくれないかねと頼んでみた。もとより足許のわるい山の窯場での暮らしは藻子には無理だが、多治見の市に家を建て、自分が山へ通うようにすればよい。藻子のためには葉子のほかに、市の様子に詳しい者をやとって面倒みさせれば、そう不自由はないだろう。
 すると藻子はひどく哀し気にはらはら涙をこぼしはじめた。まるでいよいよお別れのときがやってきましたというような、音のない泣きかたである。
「わたしはここで育ったここだけの人間なのよ、ここの風や光や音や匂いがわたしなのよ。いまわたしを追っかけてきてる枯葉は角の鈴木さんとこの木蓮ちゃんだとか、いまわたしをよびとめている花の匂いは、三田さんちの山茶花だとか、あっあれは森さんとこの猫ちゃんのロンの声だとか、風がそっと額へやってきて、ここで曲るのよと教えてくれるのよ。匂いや音や光や風がわたしなのよ。わたしだっていつもあなたのそばに居たいわよ。でも、どうしようもないでしょ、ここの匂いや風や音を持って多治見に行けはしないでしょう」
 涙がとまってから、藻子はよみがえった。
「約束して。お仕事が出来なくなったら、あなたがここに戻ってみえるのよ」
 むろん陶兵衛は、約束してげんまんもしたのだが、その日から重い荷を背負わねばならなくなった。もっと藻子を倖せに出来る男がこの世にいることを、知らんぷりしているのは、楽なわざではない。こころの肩が凝り、それが目にくるのである。

 藻子はいつも服である。少し短いスリップをきて、ワンピースの服を頭からかぶって、落すように着る。
 藻子の服はどれもおなじ仕立で、胸もとはボタン、腰にはベルトをつけ、それを前で結ぶ。脇の下からスカートまでステッチがしてあって、それに時折さり気なく触れて、服のゆがみを直すのである。
 春の半ばの頃のある日、陶兵衛が玄関へ入ると、おかえりなさいといきなり着物姿の藻子が現われた。小絞り小紋のあでやかなとき色の着物をきた藻子は、優美で神秘で、陶兵衛はあっと夢見心地になった。あでやかな着物は、藻子のために在るのではなくて、陶兵衛だけのものなのである。束の間、陶兵衛は、
「おどろいたな」
 と言いながら、師の陶心のことをちらりと思いだした。陶心は備前の金重陶陽と並び称せられる近代の名工だったが、陶陽とちがって、萩でも唐津でも茶盌一つ造らなかった。それぞれ土地にはすぐれた陶工がいるのであり、ろくに知らぬ土を自分がつこうては、土がもったいないと言っていた。
 しかし陶兵衛は、それを忘れ、あくる日、三越の現代作家展に顔をだすと、そのあと藻子のために友禅を買って戻ってきた。
 茶の間の燈のもとで藻子は、うれしそうにそれを撫でたり、葉子を相手にそれを肩にかけたりした。陶兵衛は、もうそのとき着物を買ってきたことを後悔し、はらはらしはじめ、居たたまれなくなってきた。どんな着物ときかれてはたまらない。
 陶兵衛はその場を葉子にまかせ、さり気なく湯に入ったのだが、独りになればなったで気持ちは重い。こんなわかりきったことを忘れて、うきうき買物をした自分がおそろしい。なさけない顔で顎まで湯に沈んでいると、すぐにあとから藻子が、白い美しい魔物のようにすっと湯殿に入ってきた。陶兵衛がひるんでいる分だけ、藻子はいきいきはずんではしゃいで、今日はわたしの好きなようにさせてねと、陶兵衛の体を洗ってくれだした。細い指をつつんだタオルがこまかく行届いて心地がよい。なんだか術でもかけられているように、ためらいが一枚一枚はぎとられ消えて行く。ずいぶんはしゃいで藻子は、こちょこちょ悪戯しながら陶兵衛を洗っていたが、そのうち陶兵衛の大きな背中へ、うしろから頬をおしつけ、ぴったしもたれかかってきた。
「ああいい気持ち、大きくてしっかりしてて、安心。とても安心よ」
 それからちょっと間をおいて、陶兵衛の背中で藻子の唇がうごいた。
「あのね」
 藻子は精一杯あまえた言い方をした。
「今度は、多治見の窯へ行く着物を買ってね、窯にわたしを見せたいの。わたしは、窯に言うつもりよ、あなたばかりでなくてわたしとも仲よくしてねって」
 奥の洞の中から七歩か八歩は出てきている声だった。

 陶兵衛は夜が白みかけたころ悪い夢をみた。
 陶の魔神というのが現われて、なにか大声で罵りながらいきなり陶兵衛の右手の指を三本もぎとったのである。あっと驚いて陶兵衛は目を覚した。腕の中には隣の寝床から藻子がもぐりこんできて、すやすや眠っている。もう山は若葉で埋まっているが、夜明けの頃は冷えこんでくるのである。
 仄白んだ山の家の二階の部屋で陶兵衛は、ぽっかり目をあけ、息を細くして、右手をひろげたりむすんでみたりした。指はちゃんとあったがまだ幽かにしびれがのこっている。昨日の午すぎ、新しい久留米の着物をきせ、藻子と葉子を連れて東京を発ったのだが、見知らぬ音と風や声に藻子はおびえて、陶兵衛の指をかたときも放すことが出来なかった。そのしびれがまだ幽かに残っているのである。やがて名古屋から車で、若葉の映えに染まりながら、山峡いのくねくねした山道を走り、せせらぎの音のする谷川の橋を渡り、山の中の一軒家へ戻ってきたのだが、白い杖によく似合う飛鶴模様の久留米絣の藻子は疲れきって顔色がなくなってしまった。陶兵衛の弟子達と挨拶もそこそこ、湯に入りはやばやとやすんだのである。
 それほど見知らぬ音や風や匂いが藻子をおびやかすありさまは、いささか以上に陶兵衛へショックを与えた。とてもここへは連れてくるわけにはいかない。そのショックと指のしびれが、悪い夢をみさせたのである。それにしても指をもぎとられたのは、指をもぎとられ、仕事が出来なくなれば東京へ行くことが出来るというような願望のせいだろうか。あるいは知らんぷりの罰ということか。陶兵衛は答を出すのをこばむようにいそいで目を閉じ、しっかり藻子を抱きよせた。
 二度目に陶兵衛が目をさました時は、もう八時すぎで、隣の部屋から屈託のない葉子のくすくす笑う声がした。どうやら話は弟子たちのことらしい。葉子が藻子の土産のシャツを弟子たちのところへ届けに行くと、仕事場の隣の部屋の中から、藻子のことを話しあっている声が聞えたらしい。「あんな奥さんなら仕事をやめておそばにつかえたいよ」と言ったりしており、葉子は声をかけそびれ土産包を持って戻ってきたそうである。そういうことを言うのは木村にちがいない。苦笑をしながら陶兵衛がうつ伏せになり、煙草に火をつけると、その音で藻子が、あらお目ざめと言って部屋に入ってきた。そして襖づたいに明るい出窓へまわり、障子をあけて、陽の射しこんだ窓際にそっと坐った。昨日とかわって藻子は、血色もよくいきいきとしている。陽をうけながら、少しはしゃいで、ねえあなたとすぐ話しかけてきた。
「風の音、葉ずれの音、いろんな小鳥の声でしょ、枝から枝へ飛ぶ羽根の音、空へ飛んで行く音、竹藪もあるのね、せせらぎの音でしょ、虫の声もするのよ。ずいぶんいろんな音がするのよ。でもね、東京とまるで違うのよ。高い音だとか低い音だとかあるけど、ごちゃごちゃしてないのね、みんなとけ合っていくのね。ドレミファソラシドって、この音を聞いてて出来たものだって、すぐわかったわ。とても素敵ね、自然って」
 いきいきはずんだ声で、いつもの藻子とはちがった感じである。声にも洞を感じさせるものがない。陶兵衛はくわえ煙草でむっくり寝床の上に起きあがった。どうやら藻子は洞を捨ててしまう気になったようなのである。ここならわかりがよくてやれそうだと思ったようである。陶兵衛は胸に若者のようにこみあげてくるものがあって、
「おい」
 と言った。はいという答のかわりに、はいというように藻子は、ぱっと笑顔になった。それからふっと、
「あら雨よ」
 と言いながら陶兵衛のほうへにじりよってきた。開けた障子からは朝陽と山の朝の匂いが明るくみずみずしく流れこんでいる。しかし藻子が陶兵衛の隣へきて、ぴったしをして、陶兵衛とおなじように開いた障子のほうを、凝っと眺める姿になると、射しこんでいた陽がすうっと消えた。ちょっと間をおいて、雨の音が陶兵衛にも聞えはじめた。
「ほんとに雨だ」
 思わず陶兵衛がそう言うと、藻子は、ねえねえと軀をふった。
「雨って、どんな色?」
 陶兵衛は、ぎょっとなった。いよいよここが正念場だなと思った。ここでの答次第で、藻子を完全に洞からひっぱりだすことが出来るにちがいない。そう思うと、「こころ色」だとか、「その日その日で色がちがうのだ」などという答がうかんだが、すぐあとおれは五十六、藻子は二十四。おれが死んだら藻子はこの山奥でどうなる? その思いが答のようにぴたりと陶兵衛の喉もとへこびりつき、声をふさいでしまった。
 答を待つ今日の藻子は、小学生のように神妙で、天人のようにあでやかである。
畳の目
 このごろ幸子は、夜なかに、びくんと軀が震えて、目を覚すことがある。夢でへんな鼠にまとわりつかれ、恐しくて思わず蹴とばしたとたん、肢がびくんとして、目が覚めることがあるが、このごろのびくんと軀が震えるのは、夢のときのものとは感じがちがう。夢のときは、目が覚めると、びくんとした軀の余韻は、素早くかき消えて行き、ほっとした安堵がひろがってくるが、このごろはそういう感じでなく、目ざめたあと、息苦しいほど心をじっとりとしめつけてくる。しばらくは、眠ることが出来なかったりする。暗いアパートの四帖半の部屋の寝床の中で、たてつけの悪い窓のガラス戸が鳴る音、遠くを走る電車の音などぼんやり聞きながら、重ったくもの思いにふけったりする。石油ショック以来、不況がつづき、幸子が勤めている新建材の会社はすっかり痛めつけられてしまった。昨年は高給取りの年配の連中が、次々に退職していった。しかしそれは、焼石に水のようなことでしかない。さむざむしい出来事にすぎなかったばかりでなく、社内の雰囲気をじめじめした、落着かぬ投げやりな感じに変えてしまった。抜擢ばってきもそのまわりの数人の連中をころすが、整理は会社への信頼感をうちくだいて行く。幸子の職場の営業部の部屋でも、明るい笑声が滅多に聞えなくなり、仕事に熱中する者が少くなった。今度は、不急な職場の人員、成績のわるい連中が整理される番だという噂がながれている。そういう噂は、ほとんど当り、そういうことになるのである。営業庶務の仕事をしている幸子は、不況と共にこれといった仕事がなくなっている。噂のとおりになれば、幸子も整理される一人になるかもしれない。小さい町工場からのしあがり、従業員は四百人ちかくなった会社だから、もちろん組合はある。賃上げ闘争一点ばりだった組合は、好況時代に高賃金で目標をかわされ、徐々に切り崩され、幸子が四年まえ高校を卒業して入社した頃には、とうてい信頼しかねる無力なものになっていた。近頃、急にあれこれ動きだしたが、あまりに足許が見えすいており、おいそれとついて行く気になれない。もともと幸子の父親は、茨城の工場のほうで働いていて、つまらぬ事故で亡くなり、そのことから幸子を本社に採用してくれたのだった。社に対して特別の愛着を持っているばかりでなく、父親が亡くなったあと、幸子は自分の意志でこの社を撰んだのでもあった。その頃、母は料亭の下働きになっており、そこの女将から幸子は、うちにきておくれと、かなり熱心に誘われた。ずいぶん高い給金をくれる話だったが、幸子は男に軀で相手になるようなことを、どうしても仕事というふうに考えられなかった。幸子は社会的な分業の責任をはっきり感じられない職業を、自分の仕事にすることが出来なかったのだった。むろんいまの職をうしなったとしても、分業の責任を感じることの出来る職場がないとは言えない。しかし四年もの間、愛をこめて働いてきたところから、見知らぬ人達のいる職場へ入って行くのは、なんだかおそろしい。母でも生きていてくれたら、気持ちを支えてくれるのだが、その母もこの春さき亡くなって、独りぽっちなのである。
 夜更けに独り考えてみたところで、会社の気持ちがわかるわけもない。あれこれ悩んでみたところではじまらない。このごろでは、夜なかに目が覚めても、あれこれさきのことを案じて心をいためるのに疲れ果てたのか、ただなんとなくぼんやり秋の夜風に耳をかたむけていたり、暗がりの中でぽっかり目を開けていたりする。ときには、なんだか自分が可哀相になってきて、泣けて泣けてしようがないこともある。
 その日は、退職希望者を会社が募ったことで、幸子の心はひとしおいためつけられた。
「あんたはさ、若いしさ、ちょっと男好きのする顔だしさ、どこへだって勤められるけどさ、わたしは、子持ちのおばちゃんだもんね」
 あんたがやめれば、わたしは助かるのよといわんばかりの顔つき目つきで、隣りの小高安江にいわれたのもこたえたのだろう。
 夜なかに、びくんとなって目が覚めると、それきり眠れなくなってしまった。なんだか気持ちがひどくたかぶってきて、幸子は泣けて泣けて涙がとまらなくなった。人に生れてきて、独りぽっちで泣いて暮すだけの生活がなさけなくなり、
「母ちゃんとこへ行きたいよう」
 としゃくりあげたりした。
 そしてその嵐のようなたかぶりがようやくおさまったあと、ほんのしばらくして、不意に廊下の突きあたりの洗面所のほうから、金盥かなだらいを流しに投げだしたような音が、するどくひびいてきた。それから水音がし、水音が消えると今度は、低い、うっうっという男の声が聞えだした。よろよろしながら、その男は間もなく幸子の部屋の前を通りすぎ、階段のほうへ歩いていった。二階には三つ部屋があり、三四人、近くの大学の学生が住んでいた。よくうるさく徹夜で麻雀しているのだが、試験がおわり、帰郷したのか、ここ数日、さわいでいる声を耳にしなかった。どうやらそのうちの誰かが戻ってきたらしい。それにしてもそのうめき声が普通でない。酔っぱらいのものとちがい、なにか訴えるような感じのものなのである。幸子は、人の迷惑に鈍感な、親のすねかじりの学生たちが、好きになれないのだが、それでもなんだか気になりだした。ほとんど同時に、階段のところで、どしんと階段から落ちた大きな音がした。そしてそのまま階段をのぼる音がせず、また苦しげなあえぐようなうめき声が聞えてきた。
 階下には、三つの部屋があり、階段のすぐ横の大きな二タ間つづきの部屋には、新宿のナイトクラブの、二十八九の女が入っている。幸子の隣りの部屋には、保険の外交員の四十ちかい、男のような女が入っている。ナイトクラブの女のほうは、廊下で会っても、じろっとさげすんだような目つきで、幸子の着たものを見る。保険のおばさんのほうは、小うるさくて、学生たちが騒ぐとすぐ呶鳴りこんで行く。どちらも自分の流儀でしかやらない人たちだし、学生たちとは仲が悪い。もしかすると、今の大きな音を聞いて、目をさましたかもしれないが、出ていって様子をみてやるような気にはならないにちがいない。幸子も、傍若無人ぼうじゃくぶじんな学生たちにはかかわりたくない。しばらく知らんぷりしていたが、いつまでたってもうめき声がやまらない。だんだん心配になって、幸子はとうとう起きだして、そっとドアーを細目に開け、ついむこうの階段のほうをみた。縞のパジャマ姿の学生が、階段の下のところへうつ伏せに倒れているのが、すぐ幸子の目にとびこんできた。廊下へ顔をつけたまま幽かにもがいている。階段へ手をのばそうとしている。見るからにただごとではない。知らんぷり出来なくなって、幸子は急いで服に着替えて、様子をみにいった。
「どうしたんですか、大丈夫ですか」
 近よって声をかけたが、その声も聞えないふうである。ただもがいている。大家は庭をへだてたむこうに住んでいるのだが、それを起しに行くのも大変である。はじめは知らぬ男の体にさわることにこだわりを覚えていたのに、苦しがっている様子をみているうち、そんな気持ちがけし飛んでしまった。幸子は廊下に膝をつき、
「しっかりしなさいよ」
 と、学生の両脇へ手を入れ、抱き起した。二階の階段ぎわの八帖の部屋にいる中川という学生だった。彼は幸子が抱き起してくれる力を利用して、階段へ手をかけ、はいのぼろうとした。しかし中途で力つきて、ぐらっとなり、あっと幸子が力を入れた腕の中へ、仰向けに倒れこんだ。その時はじめて幸子は、パジャマ姿の中川の体が湯のように熱いのに気がついた。すごい高熱なのである。
 どうやら彼はその高熱で、独り二階で寝ていたらしい。腕の中へ倒れこんだその顔は、無精髭がのびている。階段にぶつけたのだろう、額の真ン中がはれあがり、血がにじんでいる。その額の下の目が、高熱でうるみながら、幸子の顔をみつめ、哀願している。乾いて白っぽくひびわれた唇が、なにか言おうとして幽かにうごいている。幸子は彼がなにを言おうとしているのか、すぐわかった。
「いいわ、連れてってあげるわ」
 それが聞えるか聞えないかのうちに、彼はほっとしたような気配になり、幸子の腕の中でぐったりしてしまった。ぐったり重くなった。

 床の間つき八帖の彼の部屋には、綺麗な本箱やがっしりした机や椅子、立派な洋服ダンスや整理ダンス、テレビやステレオ、ギターもあった。
 壁際に低いベッドがあったので、そこへ幸子は中川を寝かせ、額の傷の手当をしてやり、ビニールの袋に氷を詰め、紐を張り、その紐に氷の袋をさげて、額をひやすようにしてやった。一ト段落つき、ほっとした時には、もう夜が白々と明けていた。ベッドの中川はさっきから幸子の掌をにぎったまま、いくらか安らいだ顔になり、こんこんと眠りはじめている。やがて幸子の掌をにぎりしめた中川の手がゆるんでから、幸子はベッドの端から離れた。
 これからひと眠りするのには遅すぎる。
 このまま社へ出て行く気になり、階下におりて中川の食べるものをつくりはじめた。あの高熱では、重湯以外は喉をとおらないだろう。重湯をつくり、梅干と卵、それにけずりぶしを添えて、それを中川の枕許へおいて、それから自分の朝食にとりかかった。出しなにもう一度中川のところへ行き、氷を入れかえて、部屋を出た。
 庭のむこうの大家のところへ、中川の病気のことを話しに寄ってみると、大家たちは親戚に不幸があって、青梅のほうに昨日から出かけて留守だった。留守番の高校生の娘と中学生の男の子に、医者のことを頼んでも無理だろう。
「それじゃ悦ちゃんたち、御飯まだでしょ。なんかつくってあげなくちゃあね」
「母ちゃんがしておいてくれたから、もう食べちゃった」
 やはり医者にてもらったほうがいい。
 幸子は少し遠まわりして、西荻診療所に寄って、看護婦さんに事情を話し、往診を引受けてもらった。
 薬は会社からの帰りにとりに寄ることにして、秋晴れの表に出て駅へ急ぎながら、幸子は、これですることだけはしたと、爽快な気持ちになった。
 神田にある社に出て、落着かぬやる気のない社内の雰囲気にまとわりつかれだすと、それから逃げだしたいのか、だんだん中川のことが気にかかり、念頭から離れなくなってしまった。まるで子どもが母親の手をにぎりしめていないと眠られないような感じで、中川の熱っぽい手が自分の手をつかんでいたことや、中川の体が重くて、階段で苦労したことや、ベッドにやっと連れこんで寝かせたあと、内腿の肉がびりびりふるえつづけていたこと、それにおでこに大きなこぶが出来た、へんてこでなんとなく可愛らしい中川の無精髭の寝顔がうかんで来たりした。
 午後になり疲れが出てくると、眠りが足りないせいで、軀が火照ってきはじめた。しかし頭はいっそう熱くはりつめてきて、中川のことが気になり、心配になり、大家のところへ電話をかけてみたりした。悦ちゃんたちも留守らしく、電話はただ鳴りっぱなしだった。三時すぎから課長たちが、会合に出かけて行き、これといった仕事がなくなったので、幸子は、早退させてもらい、四時少し前に社から出た。
 真直ぐに駅から診療所へ出かけて行き、年配の看護婦さんに、病気のぐあいをたずねてみると、
「いま流行はやっている風邪ですよ。もう頂上を越しているから、二三日もすれば、熱もとれて元気になるんじゃないかしら。はい、お薬よ」
「なにか気をつけなければならないことはないのでしょうか」
「栄養のあるものをたべて安静にしていることだけね」
 中途で幸子は、果物や魚や鶏のがらなどを買い、急ぎ足でアパートにもどってきた。その時間には、アパートの連中は誰もいなくなっている。玄関わきの台所に買物をおいて、まず中川の氷袋をとりに、幸子は二階へあがっていった。診察してくれた時、看護婦さんが持ってきてくれたのだろう、西荻診療所とかいてある氷枕をして、中川はこんこんと眠っていた。熱がさがったのだろう、今朝の熱での紅潮が寝顔にはなくなり、いくらかなごやかな表情になっている。枕許の重湯の小鍋をあけてみると、いくらかたべたらしく量がへっている。梅干は種までなくなっていたが、卵はそのまま盆の隅に転がっていた。
 薄暗い台所に戻り灯をともして、幸子は、新たに重湯をつくってやり、中川がのこした重湯のほうには、御飯と野菜を足し、卵を入れて自分の雑炊ぞうすいにした。鳥のがらでスープをつくってやりながら、幸子はなんだかとても充実していた。そんな自分にはっきり幸子は気がついていた。
 今朝も診療所から表に出て、秋晴れの深い空を仰ぎながら、幸子は、善いことをするというのは爽快なことなんだわと思ったものだが、こうして独りであれこれ工夫をしながら御飯をつくっていると、すごくたのしい。爽快以上の心地である。そうした感じが、古い螢光灯の下ではたらく幸子の動きの線にも顔にもはっきりあふれている。
 もともと幸子は、小ぢんまりした、派手なところのない顔立ちで、薄化粧しか似合わない。彼女自身も母と二人で生きて行くために、一生懸命だったので、普通のOLのように化粧どころでなかったし、派手な衣裳をきてみたいと思わなかった。しかしなにも幸子は器量がわるいほうでもなければ、魅力のない顔というわけでもない。濃い眉に少しくっつきすぎた目にしても、黒眸くろめがちでキラキラよく輝いている。薄からず厚からずの唇も、きゅっと締っていてかたちがよい。派手ではないが、ひめられた情熱をどことなく感じさせる顔なのである。母が働いていた店の女将が、彼女に目をつけたのも、そういうひめられたものに惹かれてのことだが、幸子自身は、自分の容貌を女らしさのない、優しくない顔だと思い、顔より心だわと思っていた。そうした自信のない態度が、かえってその顔をなんとなくはっきりしないくすぶった感じに仕立てているのだった。そのくすぶった感じが、今はその顔から綺麗に拭いとられている。拭いとられて、いきいきとした輝きが顔の隅々にあふれているばかりでなく、ひかえ目な地味な眉が高くあげられ、眉と目との間が広くなり、そこから優美なほどの女らしさがにじみ出ており、口もとには満ち足りた微笑がうかんでいて、やわらかな官能的な美しさをたたえている。いかにもみずみずしい色気が、その顔を倖せそうに飾っているのだった。
 むろん幸子は、自分のいきいきとはずんでいる気持ちを、あれこれせんさくしたり、中川と結びつけて考えてみたりもしなかった。中川は年下だし、金持ちの息子だし、もともと彼女の対象からはずれていた。ただそれを下敷のようにして、恋愛なり家庭なりへのあこがれを、これまで満されたことのないそれを、いくらか無意識に満そうとしてはいたが、それはむしろほんのつけたしのようなことだった。そんな淡い夢のような思いで、自分をかりたてて行くようなゆとりある暮しとは、ずっと幸子は縁もゆかりもなかった。
 今、幸子にいきいきとした輝きが宿っているのは、心の深いうごきをそのまま流露して行ける機会と場を与えられ、そのことに幸子の心が歓喜しているせいなのだった。

「欲しくなくてもたべなきゃ、病気とたたかえないわよ」
 幸子は姉のような口をきき、ベッドの端に腰かけ、強引にスープをのませてやり、重湯をたべさせてやった。熱は七度台に下っており、いくらか元気になった中川は、弟のように従順だった。あついスープと重湯をのまされた中川は、たちまちびっしょり汗をかき、それで着替えさせると、そのあたりからだんだん生意気な口調になり、三日もなにもたべないで寝ていたこと、小便は窓からしたこと、ぶっ倒れたときは大便におりたときだということ、それから伊豆の温泉場の自分の家の話などしたりした。
 そういうおしゃべりや気のつかいかたが、まだ無理だったらしく、そのうち声があえぐようにきれだし、咳がふえ、力つきたように突然、ことんと眠りに落ちていった。それがまだまだ子供っぽかった。そしていくらか熱が出てきたのか、寝顔があかくなり苦しげになりはじめた。
 そのあと幸子は自分の部屋にもどり、寝床に入ったのだが、噴きだすような眠気のけむりにあっという間につつまれ、深い眠りの中へ連れこまれたのだが、その夜なか三度もぱっと目が覚めた。
 そのたび幸子は、中川のことが気になり、抜き足差し足で、階下の連中に気どられないよう階段をのぼって、様子を見にいった。
 三度目に目が覚めたときには、もう夜が明けており、部屋の中はほのあかるくなっていた。少々早すぎる時間だったが、そのまま幸子は起きだし、裏の洗濯場へ行き、中川のパジャマや肌着を洗ってやった。そのあと御飯のおかゆや味噌汁をつくり、洗濯物と一緒に中川のところへ運んでいった。
「今日は、寒いから、ちゃんとお蒲団をきてなさいよ、窓をあけるから」
 窓をあけて洗濯物を干し、窓を閉めてから幸子は、ベッドに近づき検温してみた。六度八分である。
「熱は下ったわよ、気分はどう?」
「関節がゆるんだみたいだけど、気分はいいな。お腹が空いた。ステーキがたべたいなあ」
「そんな気になったのなら、もう大丈夫ね。晩御飯にはステーキをたべさせてあげる。今は、これで我慢するのよ」
 自分でたべると中川は、起きあがったが、頭がふらふらして、
「やっぱり駄目だ」
 と、幸子の厄介になった。
 御飯を漸くたべおわったときには、また元気をとり戻して中川は、幸子をみながら、
「だけどさ、君、どうしてこんなに親切なの? 誰にでも、親切なの?」
 と不思議そうに言った。
「親切なのかどうかわかんないわ、でも誤解しないでね。可哀相だから面倒みたんじゃないわよ。ほっとけないから、介抱してあげただけよ。わたしが特別の感情をもってるなんて思わないでよ」
「そんなこと思ってないよ」
「その顔みたら、女の子は、誰だってよりつかないわ。親切かどうかはわかんないけど、もの好きなことだけはたしかね」
 本箱の上にたてかけてある鏡をとって、幸子は中川に自分の顔をみせてやった。
 額のはれはかなりひいているが、血のにじんだところがむらさき色にもりあがり、そのまわりも内出血で色が変っている。無精髭が顴骨かんこつのあたりまで、へんにまばらに伸びており、むさ苦しい顔になっている。
「これはひどいや」
 中川がたまげた声をあげて、すぐ髭を剃るといいだした。笑いながら幸子は、机の引出しの中から、ジレットを出してやり、タオルにシャワーの湯をかけて渡してやった。寝たまま中川は、濡れタオルで顔の無精髭をやわらかにして、器用に無精髭をそりだした。じゃりじゃり小気味のいい音がする。たちまち無精髭がなくなり、すべすべした少年っぽい顔があらわれた。
 髭をそる音には、官能的な刺戟がある。
 少年っぽい顔が出てくるのにも、母性本能をくすぐるものがある。
 なんとなく触ってみたくなってくる。
「髭そりあとに塗るものは?」
「本箱の上」
「これね」
 男性用クリームの蓋をあけ、指ですくって掌に移し、
「はい」
 と幸子は、中川の顔へ塗ってやった。中川にあとを塗らせる気だったのだが、中川は自分でしようとする気配もみせなかった。おとなしい児どものように目を閉じた。
 閉じた目もとのあたりが、束の間、ぼうっとあからんできた。
 それで幸子は、急に胸がどきどき高鳴りだした。
 幽かに名状しがたい恐怖が、鳥影のように胸の中を横切っていった。
 幸子はそれを知らんぷりした。あわただしく頬へクリームをすりこんでやった。
 すべすべした気持ちのよい頬だった。

 勤めがおわって社を出ると、幸子はなんとなくあわただしく、駅にむかって歩きだす。小さい陽あたりのわるい巣に帰り、はやく独りになり自由にくつろぎたい。まるでそんなふうに急ぎ足になるのだが、しかしほんとうは、あたたかい家庭のある仲間の社員たちに、歩調を合せているだけである。ほんとうに帰りたいと思うのは、見たいテレビの番組があるときくらいのものである。むしろそんな日より、またあの陰気な部屋へ帰るのか、あんなところよりほかに行くところもないのかと、情ないような、重っ苦しい気分になり、足が重くなる時のほうが、よほど多い。
 その午後は、いつものそうした気持ちとは、ずいぶんちがっていた。髭をそりクリームを塗ってやった中川の気持ちよさそうな顔がうかんできて、一秒でも早く幸子はアパートに帰りたかった。勤め人たちで混んだ薄暮の歩道を、人の流れを縫いながら、幸子は飛ぶように駅へいそいだ。息切れして胸は苦しかったが、足はいつまでも疲れを知らず軽ろやかだった。
 やがて買物袋を抱きしめてアパートにもどると、それを台所において、そのまま幸子はいそいそと二階へあがっていった。うまいぐあいに、階下のおばさんたちは留守なのだった。
「どう、元気になった? お肉、買ってきたわよ」
 幸子は、はずんだ声をかけながら、ドアーをあけた。部屋の中は、灯がついてなくて真っ暗である。
「あら、寝ちゃってるの」
 小さくなった声が、いきいきとよけいはずんでいた。そっと部屋に入った幸子は、壁をさぐり、束の間、灯をけた。
 とたんにあっと幸子は棒立ちになった。手からハンドバッグがすべり落ち、畳の上におちたはずみに口があき、口紅や鍵やなんかがあふれて転がった。
 なんと部屋の中には、中川もいなければ、ベッドも机も洋服ダンスもない。今朝の洗濯物もない。なにもかも中川の物は一つもなくなり、部屋の中はがらんどうになっている。
 中川は荷物をまとめて伊豆に帰っていったにちがいない。
 帰っていったのである。
 まるで白銀色の大きな稲妻にうたれたように、棒立ちになった幸子は、全身の力が抜け、全身がちぢんで行きだした。ちぢんで行くのがはっきり幸子はわかった。どんどん小さくなって行く。子どもくらいになり、お酒の瓶くらいになり、まだ小さくなって行く。お人形みたいになり、口紅くらいになり、豆粒ほどになり、どんどん小さくなり、やがて畳の目の間に入ってみえなくなってしまった。
 そして空白な時間がひと流れしたあと、細い溜息をしながら、漸く幸子はわれにかえった。
 なにひとつ期待してはいなかったし、ほっておけなかったから面倒みてあげただけのことである。どんな結末だろうと、かかわりないことなのである。
 それにしても、黙って行ってしまうはずがない。今朝の中川の笑顔には、そんな薄情な心はかけらほどもかげを宿していなかった。きっとわたしの部屋だ、わたしの部屋に置手紙がおいてあるにちがいない。
 幸子は急いでハンドバッグを拾い、階下の自分の部屋に戻ってきた。しかし紙切れ一枚もさしこんでなかった。
 きっと大家のおばさんとこへあずけたんだわ。
 それならそれでいいじゃないの、自分が帰ってきたことがわかれば、大家のおばさんがもってきてくれるじゃないの。さあ、御飯の支度をしよう、ステーキもあるんじゃない。しかしそれを幸子は、部屋の戸口で立ちすくんだようになって思っただけだった。ちょっと間をおき、幸子は手の荷物を投げだすようにおき、部屋から急に出ていった。
 幸子は、暗い庭をよこぎり、にぎやかな子供たちの声がしている大家の勝手口から、
「こんばんは、お邪魔かしら?」
 と台所のたたきへ入っていった。
 大家のおばさんたちは台所のむこうの茶の間で、にぎやかに御飯の最中だった。
「あら、いらっしゃい。電話ならどうぞ」
 幸子はもじもじっとした。
「あの、二階の学生さん、引っ越したのかしら」
「そうなのよ、昨日、電話しといたら、今朝、トラック持ってやってきてね。いやになったわよ、病気で寝てる子を三日も四日も知らんぷりしてるような家には、おいとけないという調子なんだからさ」
「なにか言ってなかったかしら?」
「あんたにかい?」
「ほら、診療所の支払いあるでしょ」
 おばさんの声はまたもとのように大きくざっくばらんになった。
「大丈夫よ、ちゃんと払ってきてもらったよ。氷枕もかえしたよ」
「彼、元気で帰ってった?」
「ギターかかえて車にのって、うれしそうだったよ」
 うれしそうに帰っていったのなら、まあいいわ。
 幸子は、いくらか気持ちがおちついてきた。
「そうならいいわ」
「そうだ、あんた、立替えがあったんじゃない?」
「いうほどの額じゃないの」
「そうかね。ちょっと顔色がわるいよ、熱でもあるんじゃないかい」
「風邪気味なの。でも大したことないわ」
 それで幸子は、さよならを言って、暗い庭へ出た。
 とたんにぽろぽろ涙があふれて頬を伝いだした。さようならくらい書きのこしてもいいじゃない。五六歩あるいたところで、ぞくっと悪寒がして幸子は立ちどまった。額に手をあててみるとばかに熱い。もしかしたらほんとに風邪かもしれない。中川の風邪がうつったのかもしれない。
「人の世話なんかするから、こんな目にあうんだわ」
 もう泣いてなんかいられない。高熱で倒れても、看病してくれる者はないのだから、一週間分くらいの食糧を買って来なければならない。薬も買って来よう。まさかの用意に牛乳の配達もたのんでおこう。もしも寝込んでしまったら、クビキリの理由にされるかもしれない。
 暗い庭で幸子はびくんとなった。
 幸子はその思いだけで、突然憑きものが落ちたようになった。こわい世の中を見まわすように、おびえた顔であたりを見まわしたかと思うと、ぎゅっと幸子はひとまわり小さくなった。そしてたちまち暗い庭を子供のように小走りに駈けだした。
春のの重たさ
「ちょっと、あんた」
 暗がりからよびとめられて、その若い男は立ちどまった。
 暗がりの中に、女の黒い影のような姿が、おぼろげにみえていた。
 その若い男は、年寄りのように、ジャンパーのポケットに両手を突っこみ、寒そうに背を丸くちぢめながら、
 ああ、あすこだな
 と思った。
 女が立っているのは、陸橋の下で、少し戻ったところには、公衆便所がある。その公衆便所を去年つくったとき、彼はブロック運びにやとわれていたのだった。
 それを思いだしているとき、夜風に乗ってその便所の匂いがただよってきた。彼はその場所を知っていることで、気丈夫になり、寒そうに丸めた背をのばした。しかし夜更よふけのそのあたりは、ベつに寒くはなかった。もう三月半ばすぎで、きびしい冬は去っており、その日は昼間からぽかぽかと陽気がよかった。寒そうに背を丸めるのは、彼の癖だった。彼は田舎から去年の正月すぎの、寒いさなかに出稼でかせぎに来て、いつもそんなふうに背を丸くちぢめていたので、それが癖になっている。
 その陸橋のコンクリートの壁には、トラックがぶつかったあとがあった。その女はそのぶつかったあとがあるあたりへたたずんでいて、また彼に声をかけた。今度の声は、前よりぞんざいになっていた。
「一枚でいいよ」
 彼は、女がそういう商売の女だということを、それで気がついた。すると去年、便所をつくっている時、左官の親方が、
「こんなとこへ便所をたてるなア、簡易ホテルをたててやってるようなもんだ」
 と言って、いやらしい笑いかたをしたのを、俄かに思い出した。その時、彼は、便所の中で男と女がそれをしている、あやしい雰囲気ふんいきを、ちらりと想像して息がつまりそうになったものだった。彼はまだ女とそれをしたことがなかった。
 暗がりの中の女は、立ちどまったままの彼の様子に、いくらか手応てごたえを感じて、あわててつけたした。
「ホテル代は別だよ」
 彼は今日、中勘定をもらったばかりで、金は十分持ち合せていた。しかし、まだそんなことをする気にはなっていなかった。もっとてまえの、女と親しくなろうという気も、まだおこしていなかった。こんなふうに女と話をしたことがないので、どぎまぎしながらも、心の扉を少しずつ開けかけているだけだった。
 女はすぐに金のことばかり言いすぎた自分に気がついた。それでいそいで、あまい鼻声になった。
「ねえ、つき合ってよ、お兄さん」
 陸橋の下の壁際かべぎわの暗がりから、女は彼のほうへ近より、びた笑顔を仰向あおむけた。
 もう終電が通りすぎた夜更けなので、女は真剣だった。それがその態度にはっきりあらわれていた。そのせいだろう、その媚びた笑顔は、夜の暗がりの中へぽっかり浮んだ白い花のようだった。おぼろげにかすみ、清らかにみえた。
 彼はずいぶん綺麗な人だなと思った。
 そのときには女は彼の腕へ手をかけていた。そのまま彼のまん前からからだをぴったりおしつけて来た。
「いいでしょう、ねえ、サービスしてあげるからさ」
 とその軀を揺り動かした。
 彼はずいぶんやさしい人だなと思った。
 もうそのときには、女は彼の腕にからみついて、彼をひっぱりはじめていた。
「こっちよ」
 女は彼が今やって来た新宿の駅のほうへ、どんどん彼を肩でおすようにして歩きはじめた。
 彼はそれをこばもうとはしなかった。
「あんたみたいな人が、あたし、好きなんだよ」
 だんだん女は、いいかげんなことを言いだした。
 彼はそれでもそれが気にならなかった。そんなふうに体をくっつけ合って話をするのは、東京へきてからはじめてのことだった。なんだか酔っぱらった時みたいな、ぼうっとあたたかい気分だった。

「あんた、若いのね、びっくりしちゃったわ」
 とその女は、あとから風呂へ入ってきて、全然びっくりしてない声で言った。そして彼が入っているせまいポリバスの中へ、わりこんできた。
 とても二人も入れそうにないせまい風呂だったが、彼が体をちぢめると、女の軀は簡単にすっぽり首まで入った。
 ちょっとあたたまって、気持よさそうな顔になると、女は空色のポリバスから出て、軀を石鹸で洗いだした。
 さっき彼は、ずいぶん綺麗な人だなと思ったのだが、明るいところでみると、少しもきれいでなかった。眉毛が濃くて、色が黒く、唇はかさかさしていた。ずいぶん年をとった女で、四十にちかいようだった。
 裸の軀も、肉づきがわるく、胸はぺしゃんこで、お腹は皮がたるんでおり、お尻は薄くて見ばえがしなかった。
 しかし彼はべつにそれが気にならなかった。こんなふうに女と一緒に風呂に入ったのは、子供のとき以来のことだった。
 たぶん子供のとき母親に風呂へ入れてもらった折の気持が、体の底でよみがえっているのだろう、彼はかえってほっとしたような気分になっていた。
 ほんとにのびのびした気持になり、そこに女がいるのに、少しも気にならなかった。
 それより風呂がせまいことのほうが、なんとなく気になった。風呂場は半坪で、すぐ湯気がたまり、白っぽくかすみ、息苦しい感じになると、頭の上で換気扇が自動的に回転しはじめる。それがうるさいだけだった。
 女は軀を洗うと、
「出といでよ、洗ってあげるからさ」
 と立ちあがり、湯の中の彼のほうへ腹を近づけ、湯のほうの蛇口じやぐちをひねった。
 そのお腹の下の黒いひとかたまりの毛が、べったりれてお腹へくっつき、奥のほうの毛からぽてぽて湯がしたたっていた。それがつららそっくりだった。
「おれ、現場で、風呂へ入ったんだ、いいんだよ」
 彼はあわてて目をそらしながら、湯の中で前をかくして立ちあがった。
「なんの現場なんだい」
「ホテルだよ」
 女は彼と入れちがいに、湯の中へ入り、首のところまでずりこんで、気持よさそうにああと言った。
 とろんとした目で、体を拭いている彼のうしろ姿を仰いだ。その目を閉じながら、もう少し深く湯の中へずりこんだ。
「いい体してるねえ」
 蛇口からの熱い湯を、仰向けに寝た恰好かつこうのまま、女は立てた足の膝頭ひざがしらを開けたり閉めたりして、かきまわしはじめた。
 湯が揺れて、気持よさそうに目を閉じている女のあごを、ひたひた濡らしていた。

 暗い部屋の寝床の中で、
「あんた」
 と女が面倒臭そうに言った。
「はじめてなのかい」
 彼は女の顔の両側へ手をついて、自分の体を支えながら、
「うん」
 と答えた。
「トルコ風呂へも連れていってもらわなかったのかい」
 彼はもう一度、
「ああ」
 と答えた。
 彼の体はこまかくふるえていた。
「しょうがないね、厄介やつかいなのをしょいこんじゃったね、しょうがないよ、言うとおりにするんだよ。なにもあせることはないんだからね、ゆっくり落着いてね、ここへ入れるんだよ。ばか、待ってよ、そっとしないと痛いじゃないか。そうだよ、そうそう、ゆっくりね、それでいいんだよ、いい気持だろ。そっと動かすんだよ、そっとだよ」
 女は彼の腰の両側へ手を当て、腰を動かすように教えてやった。
 ほんのちょっと彼は従順だった。言われたことを忠実に守ろうとした。しかしなんとも言えない熱い昂奮が、そこにぐんぐん高まりだし、女が腰をうごめかすなり、その昂奮がたちまち全身にひろがった。熱くなったものがぱっと燃えあがるように、一瞬、彼は絶頂をあっけなく迎えてしまった。
 女は、なにかあわてた声をあげ、いそいで彼に抱きつき、軀をゆすった。
 やがて彼は女に突きのけられてから、女の横に転がった。生れてはじめての昂奮とれぬ姿勢をしていたせいで、彼の体のあちこちがびりびりふるえていた。
 しかしうわさで聞いていたような、素晴らしい快感はまるでなくて、彼はなんだか期待を裏切られ、もどかしい気持だった。なんだ、こんなことかと思っていた。
 布団の中の隣りでは、女がもぞもぞ身動きしながら、あとの始末をしていた。
 新宿の歌舞伎町から少し奥に入っただけのところだが、あたりはもう寝しずまっているのか、ひどくしずかだった。
 紙の音だけがはっきり聞えていた。
 彼は初めて女を抱いたのだが、そのことからの感慨は、あまりなくて、ただとても安らかな気分になりだしていた。田舎の家へ久しぶりに帰っているような、なにもかもあたりのことをよく知っているような、落着いた安息な気持になった。田舎で役場につとめている、従姉のことがぼんやり浮んできた。
 隣りで女は、彼のほうへむきを変え、彼のあと始末をするため、
「さあ、こっちへむいて」
 と手をのばしてきた。
 彼は言われた通りに女のほうへむき直った。すぐに女の手がそのあたりをさぐり、それをさぐりあてた。女の指先は小さくてこころよかった。彼の中で、難なく従姉とその女とが一つになった。
 女がおどろいて小さい声をあげた。
「まあ、しょうがない子だわ。もう一度おいでよ」
 その言い方は、値引きをする八百屋のおばさんみたいだった。

 二度目はいくらか時間がかかった。
 女は幼稚園の口うるさい先生のように、ひっきりなしに、どうしろこうしろ、そうそうそうするのよ、よくなったらそう言うのよとしゃべりつづけた。
 彼はだんだんしゃべらないでいてもらいたくなった。
 前とちがって、はっきりと快感を感じはじめた。そこの中のあたたかさやまとわりついてくる感触を、あわくせわしなく感じはじめ、力がわきあがってきだした。
 相手はもっとよく承知していて、彼の変化に気がつくと、彼にしがみつき、ものすごく軀をつかい、変な声をあげはじめた。その声で彼はたちまち前と同じようにわけがわからない昂奮にとりかれ、絶頂をむかえてしまった。
 とたんに女は、邪怪じやけんになり、
「さあ、どいてよ」
 と顔をしかめた声で言った。
 彼はいそいで女から離れた。
 今度は、女は、紙だけおしつけた。
「自分でするもんよ」
 彼はそのほうが気楽だった。自分で始末してから、ぼんやり暗がりの中で、目をあけていた。
 ずいぶんがわるいもんだな
 彼は、こっちが高い金を払っているのに、どうしてこんなに文句ばかり言われなければならないのだろうと、なんとなく考えはじめた。
 するとはじめて東京で、散髪をしにいった時のことが、すぐにうかんできた。その散髪屋の女の子は、看護婦さんのような白い服をきた、すごく清らかで綺麗な人だったが、自分で刈りやすいように、彼の頭を指先で勝手に、あっちこっちへむけた。指先が固くて心地がよくないばかりでなく、乱暴で不親切だった。
 東京の女はみんなこんなふうなんだよな
 彼はそれでまた心のふたを、さざえのようにしっかり閉めはじめた。
 布団の中の隣りで、女はもそもそ始末をしていたが、今度は、
「紙をだして。捨ててくるからさ」
 と手をさしだした。
 彼が手さぐりで拾ってそれを渡すと、女はすぐ布団の中から出ていった。トイレの音がし、それから女は湯へ入っていった。
 彼は寝床の中でひとりになると、仕事と給料のことを思い浮べた。彼は二度ほど勤めをかえたが、いまは左官にやとわれて、その手伝いをやっている。セメントや壁土を運ぶ仕事をやっており、九千円の日当を貰い、親方の家の裏の別棟の寄宿舎へ住んでいる。いずれ彼は左官の仕事を覚える気で、親方の〝寄宿舎〟に住みこんでいるのだが、その仕事が好きでもきらいでもなかった。仕事がらくで、日当がよいから、それをえらんだだけのことだった。
 彼は朝は六時半に起き、夕方は七時すぎにめしをたべ、九時すぎには寄宿舎へ帰って独り寝る。実際こんなふうに人間と親しくなったことなど、出稼ぎにきてからただの一度もなかった。しっかり閉じていた心の蓋が、なんだかゆるんだようになり、彼は田舎が恋しくなってきたのだった。
 しかし田舎には、こんならくな仕事でいっぱし金をかせげるところなどはない。
 やっぱり駄目かなあ
 彼はべつにそれで悲しんだりはしなかった。田舎では、小さい農家の三男で、彼は邪魔者なのだった。
 風呂から女が出てくる音がし、ドアーのむこうの脱衣場で、
「スタンドつけてよ」
 という声がした。
 それで彼は腹ばいになり、枕許まくらもとをさぐってスタンドに灯をともしてやった。
 女はすぐ境のふすまをあけ、隣りの三点セットのおいてある洋間から、浴衣の前を合わせておさえながら、和室の寝床へもどってきた。
 ひと風呂浴びて、女はさっぱりした感じになっていた。
 するするっと寝床へもぐりこむと、
「さっき眠くてしょうがなかったのに、全然、眠くなくなっちゃった」
 とはずんだ調子で言いながら、うつぶせになり、枕をかかえるようにして、煙草に火をつけ、うまそうに吸いだした。
 彼は、そうするとさっきは眠たくて、文句ばかり言っていたのかなと思った。しかしべつに彼は腹も立たなかった。
 女はそんな彼には関心がなくて、勝手におしゃべりをはじめた。
「ねえ、ちょっと、あんた、ほんとに童貞だったの」
「そうだよ」
「そういえば、あんた、あの時ふるえてたわね」
 女はずっと昔のことのように言った。
「どういう気持? 童貞を失った感じってさ」
「うん、よくわからないよ」
「でもさ、なんか感じるんじゃない。女は初めての男を忘れられないものよ」
「おれも、ずっと覚えてると思うよ」
「きっと、そうよ。あんたは、はじめてだから、わかんないだろうけどさ、あたしのはとても出来がいいんだよ。ざらにあるもんじゃないんだよ、ほんとだよ。ちょっと聞いてるの」
「聞いてるよ」
「気のない言い方ね、こっちへむきなよ」
 彼はそれで女のほうへむき直った。
 女は煙草を消して、左手で枕を抱え、うつぶせのまま顔を横に枕へのせ、なんとなくあどけない笑顔になっていた。
「あとでわかるよ、つまんないのが多いんだから」
 彼はそれが本当なら女を抱くのは、大したことじゃないなと思った。
「信用してないね」
「そんなことないよ」
「あたしがその気になったら、すごいんだよ、こんなもん、半殺しにしちゃうんだよ」
 女の片手が布団の中で、彼のそこをにぎりしめた。そこから快感が彼の全身へぐうんとひろがり、彼の頬があざやかにあからんだ。彼ははずかしそうに、あわてて目を閉じた。
「縁だからさ、しょうがないよ、もういっぺんおいでよ。忘れないように念入りに教えておいてやるよ」
 女のその声にはちがった感じがこもっていた。

 今度はそれまでと様子がちがっていた。
 あれこれ口喧くちやかましく文句を言ったりせず、舌なめずりをするように女は勢いこんでいた。
「じっとしてるのよ、いいというまで動かしちゃ駄目よ」
 女はそれを彼に誓わせるような言い方をして、独りであれこれ軀をうごかせはじめた。女はすごく真剣で、すごくあらあらしかった。歯をくいしばり、それ以上に動けまいと思うほど、リズミカルに軀をつかったり、腰を曲げたり、高く足をあげたりした。その歯をくいしばったり、唇を血がにじむほどかみしめたり、顔を左右にねじまげたりする女を、枕許のスタンドの灯があからさまに照らしていた。
 その女のそんな姿は、真剣なだけでなく、しなければならない大仕事を必死でしているようだった。彼はすっかり圧倒されて、快感の中へのめりこむことが出来なくなりだした。その女の様子は、彼の姉の出産の時の苦しみにひどく似ており、なにか厳粛なものをたたえているように見えた。そんなふうに彼はもう長い間まじまじとものを見たりしたことがなかった。
 実際、東京は広く大きく、あらゆる物があるのだが、生憎あいにく彼が自分のものにすることが出来るものは、ほとんどない場所なのだった。むろん田舎だって、山も畑も、誰かの持ち物にはちがいないのだが、森の中の花や鳥や小川の魚のように、あちこちに彼が自分のものにすることが出来るものが転がっている。しかしこの広い東京には、そうしたものがなくて、風景さえも彼のものになることをこばんでいる。
 彼はもうなにも見る必要がないのであり、なにもみないほうが、孤独を深めずにすむのであり、それがもうとっくに身についているのだった。
 その安全な世界から、彼はひきだされ、すくなからずとまどってもおり、それが彼を快感から遠ざけてもいるのだった。
 そのうち女は、鼻に汗をかいてあえぎだし、首がちぎれそうになるほど、顔を左右にうごかし、
「さあ、来てよっ」
 とうめくようにさけんだ。
 それで彼はあわてて動きはじめた。
 女はもっともっとと叫び声をあげ、彼にしがみつき、嵐のように狂いまわった。そしてばたんと両手を彼から放して落すと、目を白黒させながら、うわっうわっと声を吹きあげはじめた。
 それをなんども繰返し、それから死んだようにおとなしくなった。
「よかったでしょう」
 ちょっと間をおいてから、汗をかいた女は得意そうに言った。
「うん」
 彼はそう答えたが、それほどよくもなければ、深い感激もなかった。それよりひどく疲れて、ぐったりと女の隣りで仰向けに転がっていた。
 ちょうどその彼のむこうの鴨居かもいの上に、ひょっとこの面が飾ってあった。
 そのひょっとこの面は、すこし傾いて、小首をかしげたような感じになっていた。
 彼は今のさわぎで、ひょっとこの面がかたむいたのかなと思った。そんなふうなことを彼は、もう永い間、思ったりしたことがなかった。街でものが傾いていようが、ひっくりかえっていようが、彼にはなんの関心もなかった。彼のものになってくれたりするような仲の、そんな世界ではないのだった。しかしそのことを忘れたように、ふっと彼はつながりを外へもとうとしかけたのだった。すると彼は急にかなしくなった。
 ああもうすぐ祭りだなあ
 今年も、ひょっとこの面をつけて、伯父さん踊るかなあ
 帰りたいなあ
 彼は胸の中がきゅんと締めつけられたようになり、目頭が熱くなった。
 隣りの女は、元気なものだった。
 たったいま死んだようになっていたのに、もう起きだし、風呂場へ出かけて行き、熱いおしぼりをつくって戻り、彼の上から布団をとり、彼の腰へもたれかかって、あと始末をしてくれはじめた。
 彼はほんとはちょっと迷惑だった。
 今、彼がなにより必要なものは、彼のきずつきやすい心を守ってくれる、心の丈夫な蓋だけだった。
 しかし女はそれを全然気がついてくれなかった。
 だんだん親切になり、親身しんみになり、最後にそこへ軽く接吻し、
「あんたの奥さんになる人は、トクするねえ」
 と言って、布団をかけ、それからひとまわりして、濡れタオルを床におき、行儀よく寝床の中へ入ってきた。
「どうする、あんた、明日の朝、はやいんでしょ。あたしは、もう遅いから、泊って行くよ。さっきのお金には、朝御飯代が入ってるんだから、食べて帰ンなきゃ。卵に味つけ海苔のりに味噌汁だけだけどさ」
 明日は、十六日なので、仕事は休みになっていた。
「うん」
 帰ったところでいいことがあるわけはないが、彼はいま独りになりたかった。
「男は仕事が一番さ。帰ったほうがいいわねえ」
 しかしその女の声には、彼を帰して独りぽっちになりたくない気持が、はっきりにじみ出ていた。
「休んだっていいんだ」
 すると女は、一層やさしくなって、まるで姉かなんかみたいな口をきいた。
「休んじゃ駄目よ。そんなことじゃ上の人から信用されなくなってしまうからね。女とぐじぐじして、仕事を休むような男じゃ、しょうがないよ、一生、うだつがあがらないってことになっちまうよ」
「そうかなあ」
「そうだよ」
 彼がびっくりするほど、女はきっぱりと言った。
「それじゃ帰るか。あのガードのとこへ行けば、また逢えるのかな」
「もう駄目だよ、あたしはね、おなじ客を二度とらないことにしてるんだから。おなじとこには出ないんだ。だいいち、そんなやわな気じゃ、出世は出来ないよ。女を買うなんて年じゃないよ、二十歳そこいらで」
「そうかなあ」
「さあ、一本吸って帰んなさいよ」
 女は煙草に火をつけて、それを彼の口へもってきてくれた。
 彼は煙草なんか全然すいたくなかった。
 なん時ごろかなあ、四時かなと思った。
「今度の給料日に逢ってくれないかなあ。うんと御馳走したいんだがなあ」
 隣りで女の軀が、どきんとびっくりしたようにかたくなった。それで彼は、自分が言ったことに気がついて、ちょっとあわてた。本気にされては困るので、
「さあ帰るか」
 と起きあがった。
 女はなにかこみあげてくるものがあるような、かなしげな目になっていた。
「そうよ、それがいいよ」
 その顔をかくすようにして、女が起きあがろうとするのを、彼は、くわえ煙草でとめた。
「いいよ、寝てなよ」
「そうかい。じゃあね」
 彼は隣りの六帖の洋間へ出て、灯をともして、ズボンとジャンパーに着替えた。それから、煙草を消して、
「またな」
 と別れをつげて廊下へ出た。
 薄暗い廊下はひんやりとしていた。
 電車の走る音が近くから聞えてきた。いきのいい音だった。
 彼はいつものように背を丸くしてそっと歩きだした。その時になって女のことをなにひとつきかなかった自分に気がついた。
 初めての女の名くらい知っておかなくちゃあな
 彼はそれですぐひきかえした。半分以上、帰るのがおっくうになっていた。
 そっとドアーをあけて、和室のほうをのぞくと、女は枕を胸にあててうつぶせになり、なにかひとりごとを言っていた。
 彼はおばさんが泣いているのかと思った。
 しかしそうではなかった。
 おばさんは片手に千円札の重ねたのを持って、一枚二枚と数えているのだった。
 彼も独りでさびしい時、夜中に起きだして、そんなふうに銭勘定ぜにかんじようをする。
 銭はほんとうになかなかふえないが、それでも、なによりも、淋しさをやわらげてくれる。そのくせ、そんな真似をするのは、とてもいやなものなんだ。
 そのことを彼はよく知っている。
 だからといって、彼はおばさんをなぐさめてやったりする気には、これっぽっちもならなかった。
 誰にも誇りというものがあって、人に見られたくないことがあるものなんだ。
 いそいで首をひっこめ、急いでドアーを閉めた。
 人影のない廊下へ出ると、彼はジャンパーのポケットに両手を入れ、また背中を丸くちぢめて、うそ寒そうな恰好で、その部屋から忍び足で遠ざかっていった。

戻る