もくじ

渋谷百軒店
(テアトルSS際の路地)

銀座

本郷菊坂裏の路地

団子坂

神田駅界隈

上野スター座の路地

常盤座

柴又の帝釈天様

池袋地下道入口

新宿

東京文学画帖

画集/随筆。1978年創林社刊。「文学に登場する東京の街々」をテーマに、昭和27年~49年までのスケッチ画に散文を添えた小針美男氏による随筆集。

小針美男(こはり よしお)

昭和2年2月3日、東京都墨田区東向島に生まれる。晩年の安藤鶴夫に師事。永井荷風の世界に心を惹かれ、昭和27年頃から、変貌はげしい東京の街角をスケッチするようになる。かたわら「孔版・濹東通信」を発行しつづける。
著書に「東京つれづれ画帖(創林社)」「追憶の東京(河出書房新社)」がある。

東京文学画帖

小針美男
渋谷百軒店
(テアトルSS際の路地)
 道玄坂は大正の末頃から急速ににぎやかになってきたようで、戦前は特に夜店が盛んで神楽坂をしのぐという程だったらしい。一頃は「放浪記」の作家、林芙美子もこの道玄坂に夜店を出していたことが、その作品で知られる。小柄な林芙美子が裸電球の下で、二十銭均一のメリヤスの猿股を雨戸の上に並べて、客を待ちながら背中を丸くして本に読みふける姿が目にみえるようだ。その道玄坂の中程にある百軒店の夜景を某社から頼まれて写生にいった。この絵はその百軒店の奥にあるテアトルSSという劇場の丁度横手の路地口を書いたものである。この辺り、馬鹿に薄暗くて、劇場の楽屋口だろうか、真黒な口をあけているのが妙に物淋しさをましている。
 薄暗い路地口で、スケッチブックに鉛筆を走らせていると、不意に後から「旦那さん、いい所がありますよ、いかがですか、いい子がいますよ。安いんです、ご案内しますよ」と一メートル七五ぐらいもある長身の三十がらみの男が、小さな私を見下すようにいった。今、仕事で絵を書いているんだから駄目だといっても、いっこうに離れようとしない。「いいじゃありませんか、書き上がるまでまってますよ」といって実にしつこい。何だかんだと柄にもなくいやらしい声まで出して誘惑にかかる。人通りはあまりないし薄暗いわで、いささか薄気味悪くなったが、写生の邪魔になることおびただしい。そのうちに態度を一変させて強面で迫ってくるのではないかと警戒したが、とうとう堪忍袋の緒が切れて「さっきからいってるように今仕事中だし、これからも用があるから駄目なんだよ君」といささか声を荒らげてつっぱねた。さすがに男も私の態度の急変に形勢不利とみたか、「ちえっ」と舌打ちをし、いかにもいまいましげに私の顔をじろっと一瞥すると、ふてくされたような態度でやっと離れていった。やれやれと思って、叉鉛筆を走らせる。何ともあと昧の悪い思いが胸にわだかまり、忽々にスケッチをすませると百軒店を後にした。
銀座
 煉瓦作り時代の銀座はともかくとして、植えてうれしい銀座の柳と歌われ、そして露店で賑った時代の銀座から現在へ、銀座は、それぞれに、何らかの形で大勢の人の心の奥深く、あの日あの時の想いをそっと植えこんでいったにちがいない。
 私も青年時代から時折、足を運んでいるが、近頃では友人や知人に絵を書いたり写真を撮ったりする人が多いせいか、しきりと案内状がきて、銀座の画廊へ出掛けたり、時には新聞などで見たい展覧会があれば足まめに出掛けていく。そんな時に気がつくのだが、銀座というところ、やたらと画廊が多くて、それぞれに個展を聞いている。つまり個展をやるなら銀座で、という人が多いということに外ならないし、そんなところにも銀座の銀座たる所以があるように思える。
 個展を見ただけでは時聞が余るので、その足で他の画廊をのぞいたりした後、デパートの書籍売場へ寄って本を見歩いたり、裏通りをほっつき歩くということになる。その頃になると、敷地の狭いノッポビルの上から下までびっしりとつまったバーの看板が夜の顔をみせて、それなりに絵になっている。そんな銀座裏を昭和九年に発表した武田麟太郎の「銀座八丁」に見ると、
 ――大体において、銀座裏の数多いバアでは、女たちの顔ぶれは決っていた、同じところに永い間いるのは稀で、甲から乙へと動いているのである、だから、自然と互いに馴染になって、銘銘の性癖は云うまでもないこと、一身上の私事にいたるまで通じあっているのは、驚くほどである。
 薄暗い道の片隅に寄ってスケッチしている聞にも、夜の蝶の艶かな姿態と高価な香水の香りが通りすぎてゆく。彼女たちは、まぎれもなく銀座の女であって、銀座以外の女ではない。
本郷菊坂裏の路地
 大震災で倒れ、焼かれ、戦争で破壊され、焼きつくされた東京で、奇跡のように焼亡倒壊をまぬがれ、明治という時代をそのまま残している数少ない一画が、この本郷菊坂裏の路地である。昭和も半世紀を閲した今日では、さすがにその老朽振りが目につき、近い将来まったくその様相を一変するものと思われる。
 明治の中頃、菊坂町に住んでいた樋口一葉も、おそらくこの路地を春日町方面に抜けていっとことが再三あったことと思われる。私はこの絵を書いている途中で、ふと、この絵の中に一葉を点景人物として置いても、いささかの異和感も感じさせないだろうと想像したりした。
 地味で、いささか陰鬱だが、それだけに渋く奥行きの深さを感じさせる明治の町の佇まいに、私は明治の人々の生活を思い、当時の人々の心の在り方を、こんな庶民の住宅や町造りの中からも感得できるような気がするのだった。
 路地の突き当りには急勾配の石段が、崖下の路地に接し、その路地口に古風な門構えのような屋根があるのが、実によく明治の雰囲気を漂わせている。石段を下りたすぐ傍に、共向井戸と思われる井戸が博物館のように未だに存在しているのには驚かされた。
 折柄、石段の中程で可愛い女の子が二人遊んでいて、何やら話している外、テレビやラジオの声も聞えない。そんな路地の佇まいに魅せられたように、ぼんやり突立っている私は、まるでタイムマシンで明治時代に逆行された人間のように思えた。
 不意に、ばたばたと数人の男の子が私のそばを駆け抜けていった。呆けたように突立っている私を振り返って怪訝けげんな顔をすると、「変なおじさん」と叫んだ。その声に私は白昼夢から覚めたように正気に返り、思わず顔を赤らめた。
団子坂
 団子坂なんて、考えて見れば随分とふざけたような名前だが、何となく滑稽味があるし、覚え易いので親しみを感じる。一名汐見坂というそうだが、そんな気取った名前でなくて、江戸時代にこの坂のどこかに団子を売る有名な店があった、という極めて単純なことがそのまま名称になったのだと思える。昔からある名称には随分とそんなのがあるようだ。九段下の牛が淵は、たまたま牛が淵に落ちて死んだから牛が淵という名がついたというのと同じ類である。そんな素朴な名称の方が、かえって江戸時代の雰囲気が感じられていいようだ。実にのどかで、巧まないよさがある。
 坂の下でスケッチをしていると、目の前に商店の日除けの支柱にぶらさがった石原慎太郎の参院選のポスターが目に止った。石原慎太郎というと「太陽の季節」が頭に浮かび、あの奇妙な障子破りの描写が作品の文学的価値とはまったく別個な形で、何の脈絡もなく思い出されるのは、私自身が世間でよくいうミーハーの部類に属する人種だからだろうか、と自ら疑ったりする。
 その現代作家のポスターがタレントのようにぶらさがっている団子坂も、明治の頃には坂上にあった鴎外の観潮楼に出入りした文人歌人達が何度となく上り下りしたところである。例えば、露伴、緑雨、篁村、信綱、子規、虚子、敏、寛、左千夫、勇、杢太郎、啄木、白秋、茂吉、荷風、長江等々
 殊に、当時の歌壇に新風を吹きこんだという彼等が、胸を芸術上の情熱で熱くしながら通ったであろう、その坂の風景を、私は一本、一本、心を込めてスケッチブックの上に描線で構成していくのだった。
神田駅界隈
 国電神田駅の改札口を出ると、左手の奥に地下鉄銀座線の昇降口がぽっかりと口を開け、その周辺に待ち合わせの若い男女が何人も柱の蔭により腕時計を見ながら、国電の改札口や地下鉄の昇降口から人が吐き出されてくるたびに、素早く視線を走らせて相手を探し求めている。
 三木澄子の「小説・菊田一夫」の中で作者が、今、私が佇んでいるあたりで若き日の菊田一夫と初めて会う所が描かれている。
 菊田さんは『若草』で私の詩を読み、私を『女性詩人』に誘ったのだ。私はさっそく、新作を送り、何回か手紙を交換し、神田駅で初対面ということになったわけなのである。
 私たちは互いの顔も知らなかったし、電話で話し合ったこともなかったけれど、私は改札口を出て、声をかけられるより先に、柱の蔭に立っている若者が菊田さんだと判った。中略しかも彼は小身痩躯、だぶだぶの上衣を、後日の安藤さんの表現を借りれば「荒縄の如き」ボロ紐で、かろうじて胴体にまとわりつかせていた。下半身にからみつくズボンのよれよれもひどく、素足に突っかけているのは、スリッパの如くすりへった下駄だった。
 後年、大衆演劇界の天皇と称された菊田一夫が詩人たらんとした貧困時代の若き姿がここにある。
 構内を出ると、そこはもうおびただしい飲食店街が櫛比している。蒸し風呂のような夜空の底を絢爛とネオンの輝きが彩り、ガード下の陰湿な空気を、走り去る国電の轟音が震わせている。路地にはもつ焼の食欲をそそる匂いが充満し、酔漢の張り上げる調子の狂った歌声がネオン街の妖しい空間を掻き廻していた。
上野スター座の路地
 友人の老画家から誘いがあり、上野一番街から広小路付近にかけて梯子酒となる。その夜は浅草、上野などを飲み歩いていた放浪の異色画家、長谷川利行の話になった。今でも利行の絵は画集を出せば数万部も売れるというし、東洋のゴッホとまで崇拝している人もいる人気のある画家だ。
 その長谷川利行がある日、絵描き仲間のNとKと三人連れだって浅草に遊びに行った。貧乏絵描きのこととてNは林檎を一個手に持つ外一銭もなく、Kも二銭を持っているのみ。たまたま路傍に乞食がいて、その乞食にNが持っていた林檎を与えたところ、利行は乞食にやる位なら俺によこせ、というなり乞食の手から林檎を奪い取って逃げ出した。NとKは怒って利行を追いかけ、やっと林檎を取り返し乞食に返してやったという。こんな調子で利行の奇行は続く。利行が二科会に初出品した絵が樗牛賞をとり、有島生馬(兄は作家の有島武郎、弟は里見弴)からほめられ、大変可愛がられて金まで与えられた。これが間違いのもとで利行は三日にあげず有島邸を訪れ、臆面おくめんもなく金を貸してくれとねだった。これには有島先生も頭を抱え込んでしまった。M先生などは一度絵を買ってやったのが運のつきで、これまた三日にあげず絵を持ちこんで買ってくれと玄関に坐りこまれた。
 そんな利行の愉快な話の後、飲み屋を出るともう上野の街は師走の寒空の下に体を固くしているようだった。老画伯は上野日活(上野スター座の路地を公園下の大通りに出た所にあった)の並びを指さし、あの不忍池の曲り角に小糸源太郎の生家の揚出しがあり、指先をやや右に戻して、あの辺りに清凌亭という料理屋があって、若き日の佐多稲子がいたんだよ、とろれつの怪しくなった口調で私に語りかけた。
常盤座
 看客の立去った後俄に薄暗く物淋しくなる六区の夜は、表通の町の夜ともちがって、ここにはまた固有の情趣が見られます。わたしは学生の時分から、遊び半分ヰヨロンをひきに来た時分から、興行のはねた後の興行町を歩くのが好きなのでした。吉原遊郭の大引過に似たような趣があるからです。何とも知れず恋の思出に耽りながらしみじみ泣いて見たいような心持になるからです。
 永井荷風は「踊子」の中で、このように書いている。荷風ならずとも、華やかな興行街の灯が、一軒また一軒と消えていき、道行く人も疎らになって、先程まで舞台でライトを浴びていたストリッパーが、何気ない服装で目の前を通り過ぎ、家路へ急いでいくのを見かけたりすると、ふと、声をかけてみたい気持ちにさえなる。遠く表通りの街灯の明りが物淋しく、街路の一画を照している時などは、何ともいえないわびしい気持ちに引込まれてしまう。
 時計の針はすでに九時をすぎている。やがて常盤座もはねる頃だ。そして、また今夜も興行街通りに静寂がやってくる。
 荷風が浅草通いをしていた昭和三十年代には、まだ浅草に女剣劇があった。大江美智子、浅香光代、不二洋子、中野弘子、神田千恵子等、それぞれにファンをつかんで熱狂させたのも嘘のように、今の女剣劇のない浅草は何となく一本釘の抜けたような物足らなさを感じる。
 数年前、ある会合の帰りに数人の友人と千束町のお好み焼の「あらい」で、たまたま浅香光代さんをお見かけした。私達が声をかけると気軽に私達の席に坐ってくれた。とてもお元気そうで、ブラウン管の中で見る浅香さんより、更に美しくお見受けした。日頃、テレビの中でしかお目にかかれず、あの、さっそうとした常盤座の舞台姿が見られないのは何としても淋しいことだ。
柴又の帝釈天様
 下町の人々にとって柴又の帝釈天様は、昔からお馴染みであったが、全国的に有名になったのは、渥美清扮するフーテンの寅さん映画がヒットして以来のことと思われる。むしろ、あまり有名になりすぎて、昔の鄙びた趣がなくなりはしないか、と危ぶんだりする気持ちも出てくる。とにかく、この頃の帝釈天様は若いアベックが目につく程にぎわっている。
 電車の中で隣りに坐った若い男女の会話が耳に入ってくる。どうやら遠路、世田谷の方から来たらしく、映画の影響であることがすぐ分った。映画とかテレビの影響が大きいことは、NHKの大河テレビドラマの舞台が毎年変るごとに、その土地がブームになるのを見ても分るし、周知の事実である。そのこと自体に問題はないのだが、観光客目当ての商業主義のために俗化され、その土地の良さが失われるのはやり切れない。近年、城が島を訪れた際、島全体が土産物屋などで埋まったのではないかと疑う程で、かつての、あの自然の情趣はどこへ行ってしまったのかと、あきれる思いであった。ねがわくは帝釈天様が俗悪にならぬことを願う次第だ。
 文学に表れた帝釈天様は、結城昌治の「志ん生一代」がある。志ん生が若い頃端席の楽屋で知り合い、その後さんざん世話になった兵隊寅が帝釈天様門前町の裏手でひっそりと死んでいく。
「早く行かねえかい」「家を知らないんだよ」「京成電車の柴又で下りれば分かる。帝釈さまの仲見世の、突き当たりの左側が川千家で、その真裏だ」 川千家は川魚料理の老舗だが、寅が住んでいた家は川千家の家作だった。家といっても大風が吹いたら倒れそうな二階家で、四畳半ずつ仕切って六世帯入っていた。
 私は、その川千家の前を通り、山門をくぐって境内に入った。目の前に見事な彫刻を欄干にめぐらせた本堂があった。そこは又、芝木好子の「葛飾の女」のヒロイン真紀が、自ら生命を断つ前日に訪れた所でもある。
池袋地下道入口
 仲間と池袋へ飲みにいくと、勢い梯子酒になって、パルコの傍にある地下道をくぐって西口に東口に、それこそ東奔西走して飲み歩く、私達にはそのための地下道であるとさえ思えた。一頃は地下道の中に浮浪者でも住みついていたのか、中で焚火をするとみえて、何時も煙がたちこめていて随分とけむたい思いをしたが、この頃では内部に蛍光灯が数メートルおきに取付けられて明るくなったし、清潔にもなったようだ。
 最近、真昼に池袋へ行ったら高速道路の向うにサンシャイン60という途方もなく高いビルがそそり立っていて、西口には近く芸術の殿堂も出来ると聞き、池袋も本当に変ったもんだな、とあらためて街を見廻した。そんな池袋と対比して、森茂吉さんという人の書いた「新興の池袋」という随筆を読むと大正初期の池袋の思わず「本当かい」と思わせるような記述があって驚かされる。要約すると、その頃の池袋は西口の方は一面の芋畑とか大根畑だったし、東口の方も遠く巣鴨の刑務所が見えたという。西武線は〝肥し電車〟といわれていた。東口には根津山という山が迫っていて、二万坪にも及ぶ所に雑木林と身の丈をかくす程の熊笹が一面に生えていて、道路といえば護国寺から池袋に抜ける道がたった一本、山の中を通っていた、というから驚きである。古いところでは江戸時代の池袋は辻斬りの名所で、享保十七年(一七三二年)の夏、一夜にして十七人の人が辻斬りにあい斬殺されたという。その遭難者の霊を慰めるために出来たのが、例の地下道の北側に現在でもある四面供養塔である。
 さて、そんなことにはお構いなく池袋は発展しつつある。丹羽文雄の「蛇と鳩」では新興宗教の教祖の候補者を探している緒方という青年が目を付けた白衣の男をつけて地下道を通り、西口にあった飲み屋街に入っていく。その飲み屋街もきれいさっぱりなくなって、地下道だけが昔ながらの顔をみせている。
新宿
 私が新宿に足まめに通ったのは、戦後間もない昭和二十四、五年の頃で、たしか、伊勢丹通りの横丁に都電の終点があって、その並びに、銀鈴座とか銀鈴劇場という映画館があり、通りには露店商がぎっしり並んで店を出していた頃である。武蔵野館通りには、戦後復活した、かの有名な「ムーラン・ルージュ」の赤い風車が夕空にゆっくりと廻っていて、やっぱり新宿はいいなあ、と思わせてくれた。
 西口の線路添いには、おびただしいバラック建ての飲み屋街があって、共同便所の便器が何時も汚物でつまっていて、道路にまで川のように溢れ出した小便が、臭気を辺りにまき散らしていた。そんな不潔な所であるにもかかわらず、なぜか酒飲みに人気があって、どの飲み屋も混んでいたようだ。その頃は、いい酒もなかったので、もっぱら大コップになみなみとつがれた焼酎とか泡盛に、青春の哀歓を浮かべては飲み干した。時には稚気に満ちた芸術論を、ある時は猥雑な話に腹を抱えて笑い転げた、まだ若かった頃の自分を、今、私は白頭を掻きつつ書き綴っている。
 絵書きや文士の卵や、安サラリーマンなどが、くしゃくしゃになって酔っぱらい、快気炎を上げていた、その小便臭い路地奥の飲み屋街が、ある日、きれいさっぱり取り壊されて、消えてなくなった。その消えてなくなった昭和三十六年の九月、私は、その小便臭い、いとしの飲み屋街に訣別を告げるべく写生に出掛けた。折柄、中秋の名月の夜で、月の光にあきらかに照し出された飲み屋街の、おびただしい残骸に、私は呆然として立ちすくんでしまった。累々とした壁土や、油の滲みこんだ柱や障子、板戸や棒切れが散乱して、一種荒涼とした風景を現出していた。私は何ともいえぬ、その廃滅の美しさにも似た詩情に、胸の痛むのを覚え、我が青春の傷つけられるような悲しみに打たれた。

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