もくじ

鬼平通りを十八種類のグラフにしてみた

歩いたり電車に乗ったりして

中学校の教室から解放されて

天下の形勢をよく見て行動しろと頼山陽は言った

一つの円からもっと大きな円が生まれるだろう

笹又高之助というアンチ・ヒーローは西部劇の悪役みたいだ

むかし築地小劇場でメイスフィールドの「忠義」をみた記憶から

碁盤割りの街だと殺人も時間割りどおりにやれるはずだ

作者が読者に「そのとき」と呼びかけて場面転換すると

サンフランシスコとニューヨークで映画や芝居を見ながら



植草甚一

1908年東京生まれ。早稲田大学建築家中退。映画、ジャズ、外国文学、ミステリ、中間小説など、巾広いジャンルにわたるエッセイを書き、多くのファンに親しまれる。1979年没。

植草甚一

1908年東京生まれ。早稲田大学建築家中退。映画、ジャズ、外国文学、ミステリ、中間小説など、巾広いジャンルにわたるエッセイを書き、多くのファンに親しまれる。1979年没。

鬼平 対 甚一

植草甚一
鬼平通りを十八種類のグラフにしてみた
 きょうから始めるこの仕事が、どうにか片付くまでの三日間ばかり、ぼくは自分を小網の甚六とか甚兵衛とでも呼んでやろうと思った。そのほうが「鬼平犯科帳」をたのしんだあとで何かしら書いてみようとするとき、なんだか調子が出そうな気がしたからである。
 ゆうべ新宿の東口裏通りを突っ切ろうとして向こうの暗がりのほうまで歩いて行くと、その角の手前に古本屋の鈴平があって、まだ明かりがついていた。それでなかに入って安い本を三冊買い、もう一冊高いやつを思いきって買った。昔の値段にすると一両だった。そんなにはしないかもしれないが、とにかく一両だなと思い、いまどき本屋にしては珍しい鈴平という屋号も、外へ出て歩きだすと愉快になってきた。そのときこっちも小網の甚六とか甚兵衛とかになりたくなったわけだ。
 この一両の和装本とも関係のある話だが、「鬼平犯科帳」を読んでいると、料理屋がよく出てくる。そこでは何事かが、たいていきまって起こるので小網の甚六は、文春元版の余白に料理屋の名前と場所を大きな字で書きとめ、鰻屋とか茶漬屋とかしておく癖がついた。やりだすと面白くなるし、池波ファンとしてはリストをつくらなければならないと考えている。
 時代は約二百年まえの天明の終わりから寛政にかけてだが、料理屋では大きな店ではないけれど本所二ツ目に軍鶏鍋しゃもなべ屋の「五鉄」があって、ここが鬼平はすきだとみえ誰かしらつかまえては連れていく。なぜちょいちょい行くかというと、それは「本所・桜屋敷」や「寒月六間堀」や「本門寺暮雪」を読んでいるうちに、だんだん分かってくる。そうして「男色一本饂飩うどん」でも「密偵たちの宴」でも、おやまた「五鉄」が出てきたなと思うようになり、そのときこの名前だけでも、ちょっとした緊張感をあたえることになるのだ。
 この「五鉄」から赤い線をまっすぐに引っぱった先にある深川・石島町の船宿「鶴や」もよく出てくるが、この二軒のあいだを鬼平の子分の密偵たちが急いで行き来するようになると、さっきの緊張感がぐんと強まって、曲りくねっているらしい道筋が赤い線で一本道にしたようになってしまうのである。
 これとは違う場所だが、たとえば「追跡」では鬼子母神の茶店「笹や」から鬼平の尾行がはじまり、くねくねした道筋になって尾行の邪魔者が入ったりする。「お雪の乳房」でも尾行は、浅草・田原町にはじまり、上野山下、神田、日本橋、金杉となって相手は田町の蕎麦屋「まきや」へ入った。尾行からは、たしかにサスペンスが生まれてくるが、その場合、あたりの風景の変化や相手の挙動だけでなく、料理屋のたぐいをそこに置いてみると謎の要素が加わってくる。これは分かりきったことだろう。けれど「鬼平犯科帳」を読みながら小網の甚六は、どこかにもっと秘密があるような気がしたので、グラフをつくったらハッキリするかもしれないと考えた。
 それで文春元版の余白下段に、サスペンスから事件になって、それがまた変化していく起伏状態を線描きにし、リラックスしながら読んでいるときは水平線にして書き込むようにしてみた。これは再読したときのメモなので余白上段には、最初のときのメモが書き込んである。「用心棒」になると、それが頻繁になって、本所近辺の「笹や」という茶店「翁庵」という蕎麦屋、洲崎にある茶店「槌屋」とか仲町の鰻屋「山口」とか深川の茶店「みなとや」のほか、大根河岸の「万七」という兎の吸物が名物になっている料理屋が出てくるから、食いしん坊がいるなあ。ほんとうは誰なんだろうという好奇心さえ起こさせるのだった。
 こんなことばかり考えているとき、小網の甚六は古本屋の鈴平でさっきの和装本を目にしたのであって、それが古本ではなく新刊のうえ、限定二五〇部のうち二一五番となっている。だから趣味の和本にちかい。四六判横綴じで五冊にしたのを一緒に二寸ぐらいの深さの紺色布製箱に入れてある。この箱も横にひらいた。そしてボール箱の背中に平たい字体で「川柳江戸名物図絵」と刷った和紙が貼り付けてあった。
 「鬼平」の世界では川柳なんかに打ち興じるだけの呑気な時間は誰にもなかったし、小綱の甚六にもやっぱり縁がなかったが、箱をあけて一冊だしてみると、それが「江戸のたべものや」と題した分冊なのである。めくってみると寛政年間あたりのお菓子の包み紙につかったらしい商標などが、たくさん出してあるので、引用してある川柳よりもこっちのほうが面白くなった。
 ほかの四冊は「江戸のくすりや」と「江戸の呉服だな」と「江戸の化粧品・小間物店」と「江戸のほんや」で、合わせると六〇〇ページになる。「鬼平犯科帳」に出てくる大泥棒たちは、くすりや、呉服屋などで金持ちの店に押し込みをやったし、手下たちは小間物屋などの主人になりすまして親分からの指図があるのを待っていた。それを思い出すと、これがはたして役に立つかどうか分からないけれど買ってしまったのである。
 ほかにも「川柳岡場所図絵」や「江戸買物独案内」などの編著がある花咲一男の名前を、このときまで知らなかったが、帰宅してから図版を見たり解説を読んだりしていると結構おもしろく時間がたっていく。けれど「鬼平犯科帳」に出てくる料理屋とか商店とカチ合ってくるのは一つもなかった。天明・寛政ごろの川柳もすこしあるが、もっと江戸後期のが多いからだろう。
 まえにも鬼平が機縁で、この種類の本をすこし買った。そのなかに俳句の引用で同じことをやった鹿児島徳治の「隅田川の今昔」があるが、やっぱりカチ合ってこない。それから西山松之助編「江戸町人の研究」の第三巻に、文政七年出版「江戸買物独案内」の五三○ページもある木版刷りが縮小して紹介されているが、これが面白い。鬼平は蒲焼きがすきだったから、そのページをひらいてみると二十二軒の広告が出ている。神田仲町の「深川屋」や麹町の「伊勢屋」や深川仲町の「山口」なんか有名であった。この「山口」が、さっき書いた「用心棒」のなかに入っている。小網の甚六は一休みしてタバコに火をつけた。
 このほか「江戸深川情緒の研究」の復刻版や、稲垣史生編・三田村鳶魚えんぎょの「江戸生活事典」などが机のそばに置いてある。この二冊で、なぜ鬼平たちが鰻丼をくれと注文したことがないのかが分かった。まだそんなものはなく蒲焼きだけだったからだ。寛政、享和についで文化の年号になってから間もなくのことである。日本橋堺町にあった芝居小屋・中村座のパトロンだった大久保今助というのが、毎日のように蒲焼きばかり食べていた。ところが中村座にいると鰻屋へ行くのが面倒くさくなって、買いにやらせるが、持って帰るあいだにさめている。それでいいことを思いついた。炊きたての白飯をどんぶりにいれて、そのうえに蒲焼きをのせさせたのである。これが鰻丼のはじまりだった。江戸っ子でも、こういうのはいい。
 小網の甚六は、もっと一所懸命になって本格的にこの仕事をやるつもりだった。それで本の余白に書き込みをやるのに先立って、気に入った革製の小型ルーズリーフ・ブックがあったのを使い、その一枚ずつに「鬼平犯科帳」の元版七冊にある題名を全部記入したところ、八十四枚になったのである。
 念のため書きとめておくと鬼平シリーズ・第一巻は昭和四十三年十二月一日に文藝春秋から出版された。掲載誌は「オール讀物」で一年間の十二篇がこの巻に収録され、その順序は「唖の十蔵」「本所・桜屋敷」「血頭の丹兵衛」であるが、本書でも最初の三篇は同じ順序になっている。そうして「鬼平犯科帳」は毎年おなじ時期に巻をかさねながら、四十九年十二月十日に第七巻が出版された。
 ご存じのとおり鬼平は現在も活躍中であって、第八巻もこないだ出版されたが、本書には七年間の鬼平シリーズ七冊・八十四篇のうちから各巻ごとに二篇か三篇をえらんである。それが十八篇になったが、これらを読みながら、すこしも飽きない。どうしてなんだろう。飽きさせない秘訣があるのかもしれない。けれども考えてみると秘訣というのは、型にはまってしまう特別な方法のことだ、と小網の甚六は漠然とだが気がついた。それでなぜ飽きさせないかをグラフで解決しようとしているうちに、やっと分かりだしたのである。
 まず第一にルーズリーフのノートを使うことにした。ああ面白かったと言ってすましてしまうのもいいだろう。けれど一所懸命にこの仕事をやるとなると、一週間か二週間たって題名を見たとき、すぐさまその事件が思い出せなければならない。面白かったなあと言って安心していると、ふっと忘れてしまったところがあって、そうだったっけと思い出すのに手間が掛ることがよくある。鬼平シリーズ・八十四篇の題名は全部ノートの一枚ずつに書いておいた。けれどなまけたので白紙のままのがあって、そのため思い出せないのがあったのだ。
 いい名前だなあ、どれも大泥棒だが、野槌のづちの弥平、血頭ちがしらの丹兵衛、墓火はかびの秀五郎、中釘なかくぎの三九郎、土蜘蛛つちぐもの金五郎、赤観音あかかんのんの久兵衛、みんないい。小泥棒には船明ふなぎらの鳥平、みの虫の久なんかがいる。香具師やしの元締・羽沢の嘉兵衛にしろ名幡なはたの利兵衛にしろ、二人とも年寄りのせいか名前だけで貫禄をかんじさせる。
 とにかく一度で覚えてしまう名前であって、そういうのがまたゾロゾロと出てくることがあるし、サスペンスから事件へと急に物語が盛り上がっていく。そんなときグラフでは平らな地面からビルが建ったようなパターンになって、すこしたつとまたビルが建つ。そのビルには高い低いができてくる。けれどその一つのビルだけ見たってしようがないし、右から左へと全体の風景を見渡さなければならない。このグラフは前に書いたように再読しながら作製したが、ノートが白紙だったので、どんな事件だったか忘れていたのがあるのに、このとき気がついた。
 やっと十八篇のグラフができたとき、どれも違ったパターンになっているので、どうして飽きさせないで読ませたかという秘密が、これでよく分かった。第七巻までの八十四篇全部のグラフをつくったとすると、その一つ一つのパターンは、どんなふうに違ってくることだろう。それが見たかったら、これらのグラフの右から左への距離をもっと長く伸ばさないと、うまくいかないだろうと小網の甚六は考えた。なぜかというと、ここにある十八種類のグラフには、もっとこまかい副事件が、サスペンスが続く時間として引っぱった水平線上で、いくつも起こっているのに、それが抜けているからである。
 たとえば「穴」の老盗・帯川の源助の物語では、一年前の事件が現在とからみ合っていて、それもサスペンスになっている。日本橋小網町二丁目の右端にかかっている思案橋ぎわの船宿「加賀や」の船頭は、浜崎の友蔵という老盗だった。「大川の隠居」というのが友蔵のことで、こっちの事件はストレートに展開していく。そこでこの二つの物語のグラフをくらべてみると、両方とも面白さは似ているが、強弱の度合いが違っている。それがグラフに出てきた。
 それからエピソードの効果がある。それは映画のフラッシュ・バックのように、そのときの登場人物の過去があらわれ、これもサスペンスになるわけだ。「敵」や「乞食坊主」や「猫じゃらしの女」のほか、たいていの物語にエピソードの役割というのがあるが、これがグラフでは出せなかった。右から左への距離が短いからである。
 いっそのこと「鬼平通り」としてしまおうかなと小網の甚六は考えた。「鬼平犯科帳」は鬼平通りの物語なんだ。そうしてまたタバコをすいだしたが、すこしくたびれていた。それでもうすこし話したいことを甚兵衛にまかせた。
 小網の甚兵衛は、甚六のやつ、つまらぬことばかり喋ってやがるなと思いながら、瀧川政次郎の「長谷川平蔵――その生涯と人足寄場にんそくよせば」を読んでいた。人足寄場というのは非行青少年感化院みたいな非行中年男感化院であって、佃島から船で一足飛びに行ける石川島にあった。それを鬼平は老中の松平定信と一緒にプランをねりながら、夢中になってつくったのである。なぜ夢中になってしまったんだろう。
 平蔵こと鬼平は、ご存じのとおり金ばなれがいい男だった。尾行の途中で四回もチップをやったことがある。鬼平は佃島から歩いてすぐ行ける本所二ツ目に実家があって、若いころグレてしまい「本所のてつ」と呼ばれながら羽振りをきかせた時代があった。そのころから金ばなれがよかったんだなと小網の甚兵衛には、鬼平の気持ちが分かり、そのとき密偵いぬ小房こぶさ粂八くめはちが頭に浮かんだのである。
 鬼平が自分のため最初に密偵にしたのが小房の粂八で、「唖の十蔵」と「血頭の丹兵衛」で印象につよく残った。「妖盗あおい小僧」にも出てくるし、ここでは深川・石島町の船宿「鶴や」の主人におさまりながら、密偵ぶりにも手腕を発揮している。鬼平は逮捕した泥棒の性格に目をつけ、これはと思うのがいると密偵にして、押し込み強盗の裏をかくのがうまかった。「密偵たちの宴」では、主人思いの密偵たちが鬼平に一泡吹かせてやろうと相談した喜劇が展開するが、親分のほうでは、ちゃんと見破っているのだった。
 それだけでなく鬼平は松平定信の胸のうちまで見破って、逆に裏をかいているのが「長谷川平蔵」を読むと分かるが、あまりすきではない定信をたすけて、なぜ人足寄場建設に夢中になったんだろう。それは与太者だったことのある鬼平が、きらいな泥棒は叩き斬ってしまったが、どうしてもすきになってしまう泥棒がいて、そういう連中はどうしようという個人としての意志からではなかったろうか、と小網の甚兵衛は考えた。そうしたら甚六のほうも、「鬼平犯科帳」を読んでいたら、やっぱりおんなじ気持ちになったなあ、と言ってタバコの火をもみ消したのだった。

歩いたり電車に乗ったりして
 きょうは明治座へ池波正太郎の芝居をみにいく日なので、すこし早めに人形町へ出てブラついてみよう。そう思って両方とも楽しみにしていたところ、朝起きたら雨が降っている。それで出かけるのが遅くなったとき、郵便物がどっさり来て、そのなかに小説新潮の一月号がはいっていた。
 雨降りでも何か読む本を持って出ないと気が抜けてしまってダメなので、まだ途中までしか読んでいない池波さんらしい見かたの「映画を食べる」を机のうえに置いといたが、こっちにしよう。小説新潮だから「剣客商売」が、毎月発表されるが、こんどのは「道場破り」となっていて、題名からしていいし、すぐ読みたくなってくる。それはこんな発端だった。
 ある日のことだが、冬がすぎたばかりの朝はやく、ツルの群れが西北へ向かって飛んでいく。女武芸者の三冬は庭を掃く手をやすめて空を見上げた。そこは下谷の根岸にある和泉屋吉右衛門の別荘で、ふだんは老僕の喜助が留守番をしているが、ひさしぶりに三冬は夫の秋山大治郎と、喜助をよろこばすために泊まりにいった。そうして翌朝になって食事をすますと大治郎は出かける。日本橋本銀町にある無外流・間宮孫七郎の道場へ行くのだった。
 そのとき別荘のすぐそばにあるお稲荷さんの番小屋から、あかじみた中年男があらわれたが、その格好を見ると浪人らしい。近所の人たちは「稲荷の先生」と呼んでいた。本をよく読んでいるからだが、じつは鷲巣見平助といって、ひさしぶりに道場破りをしてやろうと考えている腕に自信がある浪人だった。それも秋山大治郎が行こうとしている間宮道場を破ってやろうと思いながら歩いている。
 こんな発端だが、あとは人形町へ小田急と千代田線でいく途中で読もうと思い、ほかの郵便物に大急ぎで目をとおしたとき、ついまた「女武芸者」のページをめくってしまった。いつでもすぐ読めるように単行本になった「剣客商売」の五冊がそばに置いてある。全部で物語は三十六編になるが、その最初のが、この作品集の「女武芸者」で、こないだ読みなおしたばかりだった。その発端を読者はまだちゃんと覚えていると思うけれど、『なるほどなあ』とぼくは自分に言って、そのまますこし考えていたので、出かけるのがまた遅れた。
 発端の情景であるが浅草に近い隅田川のほとりにお稲荷さんがあって、西のほうは田圃たんぼだが、その片隅に無外流・秋山大治郎の道場がある。竹藪にかこまれた、ちっぽけな道場であって、夕暮れどきの竹藪のなかの空地では数羽のミソサザイが、うつくしい声を出して飛びまわっていた。そのうごきを井戸のそばで飽きずに見ている大治郎のほうへ、ネギのみそしるのにおいが台所からしてきた。
 濃い眉をした二十四歳の大治郎は独身なので、近所の百姓女がきて食事の仕度をしてくれるのだが、ネギのみそしると麦飯と大根の漬物だけにきまっている。それでも満足して食べ終わったとき夜になっていた。そのときである。見たこともない中年で立派な風采の侍がはいってきて『大垣四郎兵衛と申す』と名乗ったのだった。
 ぼくは『なるほどなあ』と思い、この本も小説新潮とメモ・カードとエンピツといっしょにショルダーバッグに入れて、2DKの安部屋を出ると、すぐそばの小田急経堂駅で切符を買った。ホームには、いつものように急行待ちの新宿ゆきが右側にとまっている。腰をおろすと「道場破り」のページをひろげて、出だしから読みなおしはじめた。電車も動きはじめる。それから代々木八幡で乗り換えるまでに物語は佳境に入っていた。千代田線代々木公園駅のほうも、降りたすぐそばにあるが、そこまで傘をさして歩きながら、なぜこんなにも佳境へと読者をさそい込むのがうまいんだろうと考えていると、なんとなく分かってきたことがある。そうしてそれは、繰り返しそんな気持ちにさせたことでもあった。ところがなんとなく分かってきたのに、それから先をハッキリと自分に説明することができない。それでしかたなしに『やっぱり面白いんだよ』と自分にいい、そうして傘をさして歩いていたときの気持ちはといえば、大治郎が食事をしているときの満足感にくらべたくなるのだった。
 千代田線の地下鉄も、いつものように止っていた。終点だから発車までに余裕があって、両側のどっちかに止っているが、いま止っている右側のほうが左側のときより、なかに入りやすい。これもなぜだか分からないが、腰をおろすと「剣客商売」を出して、いつ発行されたんだろうと思いながら奥付をみた。昭和四十八年一月十五日である。すると「仕掛人・藤枝梅安」のほうはいつだったかな。おんなじころのような気がするけれど帰ったら調べてみよう。
 それはそうと無外流の秋山大治郎は、このシリーズの最初に二十四歳で初登場した。「道場破り」はシリーズの四十三編目にあたり、大治郎は二十八歳になっていて、三冬を妻にしたばかりである。ぼくは『ああそうだったな』と思った。独り合点しているのだが、じつは「剣客商売」五冊の最後になる「たのまれ男」までの三十六編を逆の順序で読んでいき、これは偶然にそうなった池波作品の復習のしかただった。そうして一編ずつの題名だけ先にメモ・カードに書いておいて、発端とか重要な登場人物とかクライマックスとかをメモしていった。その間にいくども『なるほどなあ』と思ったことがあるが、シリーズの出発点だった「女武芸者」へと逆に戻ったときだった。こんどは『ああそうだったな』とつぶやき、忘れていたものをふと見つけたような気持ちになったのである。
 ぼくはネギの異名が根深ねぶかだとは知らなかった。その根深汁に付き合わされてばかりいた大治郎が、ある日のこと『うまい』とつぶやく。ネギのかわりにタニシがはいっていたからだった。「女武芸者」が発表されたのは小説新潮の昭和四十七年一月号だったが、その次号に出た「剣の誓約」では大治郎が『うまい』とつぶやく食事の場面から物語は始まっている。それで「女武芸者」のとき、ぼくは『ああそうだったな』とつぶやいたのだった。
 大治郎はめったに独りごとを言わない男だそうだ。ところがぼくときたら『なるほどなあ』とか『ああそうだったな』とか繰り返えしつぶやいてばかりいる。池波正太郎の短編シリーズは新作が雑誌に出るとすぐ読みたくなるいっぽう、まえの作品を読んでいると、こんな気持ちにさせられてしまうし、しかたなしに『やっぱり面白いんだよ』とつぶやいているのは、こんどはじめて気がついたことだ。
 そんなことから二つの発端をならべてみたわけだが、くらべてみると、そのとき目のまえに浮かんでくる情景はどんなだろう。たとえばジョン・フォードとかヒッチコックとかがすきな映画ファンがいて、そのある場面で思わず『いいなあ』とうなってしまったときだ。そうした映画ファンにはジョン・フォード的場面やヒッチコック的場面が、ほかの人たちよりもピーンとくることになる。いつか前に見て感心したときの気持ちと、おんなじような気持ちにさせられてしまうからだ。それはジョン・フォードに独特だったりヒッチコックに独特だったりする映画の文章のはたらきだと言っていいだろう。
 なんだか遠回りになったが、こんなことが言いたくなったのは「女武芸者」と「道場破り」の情景をくらべたときだった。三冬がツルの飛んでいくのを見ている。大治郎がミソサザイが飛びまわっているのを見ている。そこは庭のなかだ。竹藪のなかだ。そのどっちにも近くにお稲荷さんがある。そうして朝の食事をした。夜の食事をした。そのときである。見たこともない男が登場するのだ。ぼくは『いいなあ』と思う。『いいぞ』とあとでまた言ってしまう。ぼくはヒッチコック・ファンなんだけれど、いつのまにか池波ファンにもなっていた。
 そうなったのは五年まえのことで、正確にいうと十月二十二日の夜八時ごろだった。まえの日にオール讀物が発売され、それに「鬼平犯科帳」のシリーズ「泥鰌の和助始末」が出ていたが、夜の八時ごろ人形町から地下鉄・日比谷線に乗ると、二人の乗客が「泥鰌の和助始末」を読んでいた。二人とも物語の佳境にはいっていて、ぼくが降りるまでページから目をそらさなかったのを、ぼくは霞ヶ関でまた乗り換えた日比谷線のなかで、いま思い出している。あのときの二人の乗客は買いたての雑誌をひろげると「泥鰌の和助始末」から読みだしたのにちがいない。二人が「鬼平犯科帳」の面白さに取りつかれたのは、いつごろだったんだろう。とにかく先輩格だ。ぼくも池波ファンの仲間にいれてもらえないかな。そう思ってから五年しかたっていない。それなのにいい気持ちになって、こんなことを書いている。

 明治座では高橋英樹が博徒の手越の平八に扮した「あばれ狼」を見た。幕切れ近くに用心棒の辰巳柳太郎が甲州安倍峠にあらわれ、ユーモラスな演技で観客を笑わせたが、どうして辰巳はあんなにもリラックスさせるのがうまいんだろう、いつでも彼の演技には目がはなせなくなってしまうんだ、と帰り道には辰巳のことばかり考えていた。そうしてリラックスさせる技術といえば「剣客商売」でも「まゆ墨の金ちゃん」になると、発端の情景からして描きかたに調子の変化がみられるようになった。そう考えはじめる。
 すっかり梅雨つゆに入った。というのが発端の文章の一行で、その日も雨つづきなのが、ちょっと晴れたかとおもうと、また降りだした。その雨をながめながら夕飯まえの酒をチビリチビリやっているのが、奥山念流の牛堀九万之助くまのすけである。そこへ老僕の権兵衛が酒のおかずを持ってくると、イヤなやつがたずねて来ましたよと言って顔をしかめてみせた。その男が「まゆ墨」の金ちゃんこと三浦金太郎で、何の用事できたかと思ったら、じつは秋山大治郎の命があぶないと知らせにきたのだった。
『そりゃ、まことに、危ないのか』ときくと『秋山大治郎殿の腕前は、私は、いささかも存じませんがはい、はい、ちょいとあぶない』と答える。ぼくは『いいぞ』とつぶやいた。辰巳柳太郎のセリフみたいにリラックスしているからだった。
 明治座から帰って、いつもすぐ読めるようにしてある仕掛人・藤枝梅安の単行本二冊「殺しの四人」と「梅安蟻地獄」を出して、最初のほうの奥付をみると昭和四十八年三月十日となっている。だいたい合っていたなと思いながら、こんどは平凡社カラー新書の「江戸古地図散歩」を出した。これも池波正太郎の著書で、ちょうど一年まえに出版されたとき『なるほどなあ』とつぶやいては、いろんな箇所に赤インクで棒を引っぱっておいたが、ここではその一箇所がとりわけ興味ぶかい。すこし説明を加えて書いてみよう。
 昭和四十六年三月に桃源社から出版された「闇は知っている」に短編「梅雨の湯豆腐」がはいっていて、〈殺し屋〉の物語だった。この殺し屋は彦次郎という四十二歳の小柄な男で、ふだんは楊子ようじつくりとして何食わぬ顔をしていた。浅草観音の参道にある「卯の木屋」へ、歯をみがく「ふさ楊子」と「平楊子」の二種類を卸しにいっているが、ある日のこと赤坂の顔役である赤大黒の市兵衛がやってきた。
『どうだろう。引きうけておくんなさるかえ?』
 こう市兵衛は何事かをたのむ。これが殺し屋の物語の真っ先に出てくるセリフだった。そうして藤枝梅安が初登場する「おんなごろし」は、この「梅雨の湯豆腐」がキッカケとなって生まれ、ある日のこと江戸切絵図の嘉永三年版を持って、南千住のほうから浅草へと歩いてきたとき、ふと「仕掛人」という言葉を思いつき、このほうが梅安を「殺し屋」と呼ぶよりずっと面白いと思ったそうだ。
「仕掛者」とか「仕掛物」とかの言葉はあるが、それまで「仕掛人」という言葉はなかった。それにしてもどうして「仕掛」の二字が歩きながら頭にひらめいたんだろう。ぼくは池波さんが芝居をやっているからだと当て推量したことがあった。というのは舞台装置でその一部がアッと思った瞬間に変化している特殊な製作法があって、「仕掛物」とか「仕掛」とか「どんでん返し」と称しているからだ。けれどこれは、ぼくの勝手な想像にすぎないだろう。
 ところで彦次郎の殺しかたは、こうだった。お照という女が浅草寺の境内を女中連れで歩いているのに近づくと、長さ三寸ほどの針を、ふところへ入れた手でさぐって、たもとへ落しこんでから、右手の親ゆびへ革づくりの指輪をはめた。そうして「殺し針」をお照の帯の内側から鳩尾みぞおちへと突っ込んでいる。梅安も突っ込んだ急所のほうはちがうが似たような場所で、おんなじ殺しかたをした。
 この作品集の仕掛人シリーズ六編のうち「殺気」をのぞくと、あとは梅安と彦次郎がコンビで行動している。いつも梅安が仕掛けをたのまれ、最初にあらわれた依頼人は赤大黒の市兵衛で、まえに彦次郎に仕掛けをたのんだのと同一人にしてある。
『承知しておくんなさるかえ?』
 と言うセリフの調子もおんなじだし、作者の打ち明け話で彦次郎の物語がキッカケになったというのを思い出して、ぼくは『なるほどなあ』と、またもやつぶやいてしまった。そうして「殺気」での発端は、こうなっている。
 その日。
 藤枝梅安は、目黒不動尊への参詣をおもいたち、着換えをするとき、衿の上前の裏へ自分で縫いつけた「針鞘」の中に、長さ三寸余の仕掛針を二本ひそませた。
『いいぞ』とぼくはつぶやく。どうなるんだろう。参詣のあとで梅安は近くの料理屋・伊勢虎にはいり、あわびの酢貝で冷酒を飲みながら、ふと中庭越しに向こうの座敷を見た。十五年前のことだが捨子をして逃げた女がいる。その女らしいのが商人の亭主といっしょに入ってきたのだ。
 そうして「闇の大川橋」では、最後の場面で「女武芸者」の大治郎と根深汁とを思い出してしまい『ああそうだったな』とつぶやいてから、骨が折れた仕掛けのあとで梅安と彦次郎が、暗い道を歩きながら話し合っているところを書いておきたくなった。
『さ、急ごう。腹がすいて腹がすいて、どうにもたまらない』
『だって梅安さん。おれのところには、酒はあるが、食い物は何もないぜ』
ねぎはあるかね?』
『そりゃあ、ある』
『味噌は?』
『味噌なんぞ、切れるわけがねえ』
『それでいいじゃないか。熱い熱い根深汁をふうふういいながら吸いこむのさ。うまいぞ』
『そして、飯を五杯もおかわりをしなさるのかえ?』
『そうとも。こんなに気もちのよい仕掛けは久しぶりだよ、彦さん』
 こんなふうにすっかり肩の重荷をおろした二人。ぼくたちもリラックスしているし、すぐまた池波正太郎のものが読みたくなってくる。
中学校の教室から解放されて
 さっきまで、それがずいぶん昔の記憶になってくるが、中学校の教室で黒板を背にした歴史の先生が、ぼくたち生徒に桶狭間おけはざまの戦いや川中島の戦いのありさまを、たいして面白くもなさそうな顔をして話してくれていたのを、どうしたわけか思い出していて、なるほどあのころからだったな、ぼくが日本の歴史をさっぱり勉強しない落第生になったのはと考えたり、ことによるとそれは、あの先生のせいだったかもしれないと思ってみたりした。
 こんな悪態をついたのも、やっぱりさっきまで、こないだ出たばかりの「池波正太郎の男の系譜」(文化出版局)を読んでいたからである。この本は佐藤隆介という大の池波ファンの編著であって、戦国時代にふさわしい生きかたをした武将たちの性格を聞いたとおりに、テープ録音から起こして口述筆記のかたちで七回ぶんをまとめたものだ。けれど普通の口述筆記とはちがって、聞き手が池波ファンだから話している先生のほうでも個人教授らしい親しみにあふれていて、それが読者にもよく伝わってくるのだった。
 だから読んでいるとき、とても気持ちがよかったが、ぼくが思い出しているのは中学校の教室で年とった歴史の先生が、黒板に向かって桶狭間とか川中島とか、そうしてそばに今川義元や織田信長や武田信玄や上杉謙信など、有名な場所と武将たちの名前を書いているところであって、ふとフェリーニの「アマルコルド」のユーモラスな教室場面が頭に浮かんだ。
 あの「アマルコルド」を見てからは、タバコをすっているとき灰が落ちないように途中で垂直に持つ癖がついてしまったが、ぼくたちの歴史の時間には、フェリーニの先生のように質問はしてこない。おとなしく聞きながら歴史用の薄い筆記帳に先生が黒板に書いたのを写しておけばよかった。それを学期末の試験になると暗記したのである。そうして試験がすむと、きれいに忘れてしまった。
 ここで虎の巻のことを書かなければならない。じつはさっき一休みして近所の古本屋をのぞきに行ったら、最近の虎の巻で「中学歴史」というのが目についたので「秀吉の国内統一」としてあるページをめくったところ、気が利いた図表になっているのでほしくなった。それをいま見ているのだが、分かりやすいし、ぼくにもいい勉強になってくる。これでよく分かったが、ぼくには中学生にもバカにされるような歴史の知識しかないのだった。
 中学生のころは誰でも虎の巻がほしくなってくる。大正十年ごろのベストセラーは三省堂から出た「植物要項」とか「生物要項」とかのシリーズになったクリーム色の表紙のやつで、その大きさは、いまの三省堂ポケット辞典とおんなじだったが、それをみんなが買ったものだった。ある日のこと教室で授業がはじまるまえに遠野という生徒が何を考えたのか、買いたての表紙にペタペタ一面に糊をつけて本屋の包装紙を貼り付けている。あっけにとられたぼくは本屋から掻っぱらったのかとうたぐったが、どうやら虎の巻なのを隠す工夫だったらしい。
 ところでぼくは、いまでも虎の巻を買ってばかりいる。このまえ浅草へ行ったとき、国際通り東映側にある本屋の二階が古本売場で、一階の新本売場から階段をあがったとき、その店を知らなかったのでビックリした。五十年以上はたった本がたくさんあるからで、それをゆっくり見ながら五冊だけ買うのに二時間たっぷりかかったが、本棚のうえのほうに「日本武道全集」のバラが二冊ならんでいる。これは古い本ではないけれど、ぼくは知らなかった。その一冊の「砲術・水術・忍術史」をひろげてみたところ「萬川集海ばんせんしゆうかい」が収録されているのだ。ははぁ、これなんだなと思い、掘り出し物をしたような気持ちになった。
 というのは半年ほどまえに滋賀県甲賀町の本屋さんが、甲賀・伊賀流忍術の秘本として有名な「萬川集海」を写本のまま復刻したからと言って内容見本を送ってきたのである。こんな忍術の秘本があるなんて知りもしないくせに、忍者がつかう水中下駄の図解を見ていると想像するだけでもスリルたっぷりなのだ。ほかにどんな忍びの道具があるんだろう。そう思うとこの復刻本がほしくなったが限定本でもあるし、ぼくには手が出ない。三○○ドルだった。
 高い本で買えないときは、こんなふうにして換算してみると洋書なら、古本にかぎらず取りまぜ一〇〇冊は買えると考えはじめるから、あきらめやすい。その「萬川集海」がどんな内容なのか、漢文まじりなので手を焼いたけれど大体のところ理解できたのである。なんだか禅の本を読んでいるみたいだと思ったが、勉強するのに、一〇ドルですんだ。
 いちばん面白いのは、やっぱり最後のほうの図解一覧表で「忍器」としてあるが、十四ページにわたって四十五種類の道具が出ている。もっとたくさんあるはずだ。ほんとうならあと八ページくらい使って残りの全部を出せばいいのに、この全集のは抄録となっていた。それでもいろいろと役に立ってくる。たとえば「火の国の城」の主人公は物語がすすむにつれ加藤清正だと分かってくるが、最初から登場するもう一人の主人公は〝甲賀忍び〟の丹波大介だ。その大介が活躍する場面を思い出しながら、暗夜の山のなかで敵の〝忍び〟数名に取り囲まれたとき、「飛苦無とびくない」という武器をつかったので、これが出ているかなと思ったら「苦無くない」のほうが図示してあった。どうして「飛苦無」のほうは出てないんだろう。
 そこで池波正太郎の「忍者丹波大介」を出して、物語の最初のほうをひろげてみた。そこにはつぎのように説明してある。
「飛苦無」は甲賀独自の武器である。
 別に「苦無」とよぶ道具もある。これは一尺二寸におよぶ長釘で、石垣や岩壁などへ打ちつけ、高所への昇降に用いるものだが、「飛苦無」は形状が相似していても使用目的は全く異なり、いわば手裏剣同様の武器であるといってよい。
 長さ二寸前後。手の親指よりやや太目の鉄製で、甲賀忍者は思い思いに工夫をこらした「飛苦無」を用意している。
 大介の「飛苦無」は、柏木郷に住む「蟇仙ひきせん」と呼ばれる老人が製作してくれるもので、やや円錐形の尖端と根本に微妙な細工がほどこしてあった。敵を撃ち、より強烈に敵の肉へ食いこむための工夫なのである。
 
 以上を書き写しながら「飛苦無」という飛び道具は拳銃よりも怖いな、忍者が敵の一人にこれを投げつけると、ねらいたがわず片眼にグサリと深く突き刺さってしまうけれど、西部劇のヒーローでも片眼をぶち抜くなんてやって見せた者はいなかったようだ。こんな比較をしているうちに、ぼくは中学生の昔に戻ったような気持ちになっていて、あのころは何を読んでいたろう。人形町のまんなかの角にオモチャも売っている清水屋という本屋があって、五センチくらいの厚さがある「柳川庄八」や「霧隠才蔵」を買って読んだっけ。いや、ちがうぞ。あれは中学校にはいる前のことだった。
 こんなことを書いていたら、しかられるかもしれない。けれど「火の国の城」で京都伏見の肥後屋敷へと場面が移ったときだ。ちょうど映画の移動撮影のように外濠を小舟がゆるやかに進んでいく。やがて目指した地点で〝伊那忍び〟の奥村弥五兵衛と大介が舟から降りて、高さ六尺の塀を飛び越えると、そこは木立ちが茂った屋敷内の庭園であって大きな池がある。あたりは真っ暗だが水面に四角い格好をした「通い」が浮かんでいるのが大介だけに見えた。そうするとぼくたちにも「通い」と称する潜水用の忍器が見えるようになるが、そのときの薄気味わるさがどんな性質のものかというと、そこが書きたくなったし、しかられるだろうと思ったのも、そんなことは分かりきったことだからである。けれど池波正太郎の自伝の一部になっている「青春忘れもの」の少年時代は、すこし年うえのぼく自身の少年時代と似たところがだいぶあると思うので、ここでは余計なことを書いたっていいだろう。
 小学四年生のころだったが、授業の合い間に校庭で「ジゴマごっこ」という遊びがはやった。当時フランスで赤い表紙の小型本だがレオン・ザジー作「ジゴマール」という兇賊が活躍する大衆小説がベストセラーになったので、連続活劇として映画化され、それが日本でもヒットしたのである。けれど浅草の電気館あたりで「ジゴマ」を楽しめるのは大人だけで未成年者は入場禁止だった。ぼくたちにはアメリカの連続映画「電話の声」があったけれど、これはつまらなかった。
 そんなとき「ジゴマ」は怖いよと、だれか一人うまくやって見た生徒がいて威張りはじめる。そうして一人がジゴマになり三人か四人かいる探偵と鬼ごっこになるが、この「ジゴマごっこ」を先生に見つかるとしかられるのだった。じつはしかられるのが面白いのでやっていたのである。
 そのときの校庭を見回わすと、あっちこっちで立ったまま「立川文庫」を読んでいるのが五、六人いるのだった。ぼくも猿飛佐助や孫悟空のシリーズを二冊か三冊読んだけれど、あんまり面白くもないので、すぐやめてしまって、立川文庫ファンをバカにするようになり、それで「柳川庄八」や「霧隠才蔵」を買ったのである。
 余計な話は打ち切ることにして、ぼくが興味をいだいたのは、昭和四十年八月に出版された「忍者丹波大介」の〈あとがき〉を読んだときで『数年前までは忍びの人びとに、あまり興味がなかった』と言っているからで、なるほどそうだったのかと思った。それは浅草という下町育ちのせいであって、あたりまえのことだし、そうじゃないとおかしくなってくる。はやい話が当時の忍術使いというのは、両手を目のまえで組んで親指をそろえて何かつぶやくと、パッと姿が消えてしまうスーパーマンにすぎなかったのだ。
 もうすこし〈あとがき〉で知ったことにふれると、忍びの者を活躍させた長編第一作は「夜の戦士」で、「忍者丹波大介」は第二作であったが、ちょっと説明を加えたいのは、このときが慶長四年で翌年九月に関ヶ原の戦いがあった。慶長五年は西暦一六○○年にあたるので、ぼくなんかには覚えやすくっていいけれど、この「火の国の城」では慶長十年に物語がはじまっていて、大介は三十歳になっている。
 いくらか中学生ばなれがしたぼくは、このときの大介の心境が分かりだしてきた。その心境こそ池波正太郎が、この作品の前後に「蝶の戦記」と「忍びの風」と「忍びの女」を書く一貫した動機にもなっていて、このこともいっしょに分かったのである。というのは〈あとがき〉に戻ると、関ヶ原の戦いを境い目にして、これに先立つ戦乱激動の時代と、それにつぐ戦乱終局の時代とで忍びの人びとの生きかたが、すっかり変ってしまった。それなのに忍術は一般武芸とは異ったスパイの特殊技術だと考えられるようになり、戦国時代には数百名もの伊賀忍者がいたのに頭領クラスの名前が残っているだけで、忍者の興隆と衰退をたどるだけの資料はないそうだ。「萬川集海」にしても一六七〇年代に書かれたもので、だいぶ歳月がたっているし、忍術の秘伝書となっているが、専門家に言わせると実行不可能にちがいないものがあるのだ。そうなってくるのも口伝による秘術だったからだろう。
 けれどそこをよく考えてみると、忍者は歴史の裏側的な存在であって、たとえば丹波大介は二つの時代を生き抜いた典型的な一人となってくる。なによりも大介の心からは〝忍び〟のパッションが失われていなかった。慶長十年になると。〝伊賀忍び〟も〝甲賀忍び〟も徳川幕府に吸収されてしまい、単なるスパイとして行動するだけでパッションのかけらもない存在となっている。そんな連中数名に遠く近く包囲されたとき、どうやって大介は危地を脱するだろうか。
 ここで加藤清正の心境にもちょっとふれてみると「火の国の城」が後半部に入ったときだ。前半部から物語の進行には四年の空白期間があって慶長十五年になっているが、大介の消息は四年まえから絶えている。清正はというと白髪もふえ四十九歳になっていた。その心境はどうなんだろう。「池波正太郎の男の系譜」のなかで、つぎのような感想を聞き手に語っている。
『もしも、清正が大坂の陣まで生きていたら、どういうことになったろうか。それを考えながら、ぼくは「火の国の城」という小説を書いたわけですよ』
 こういうプランのもとに、後半部では清正の心境をもっとよく読者に分かってもらうために、大介には気の毒だけれど、しばらく引っ込んでいたほうがいいよと言ったのにちがいない。四年まえの血闘でどんな結果になったか、読者のほうでは知っているが、一人だけ逃げのびた〝女忍び〟の小たまは、自分たちの手で大介をやっとのこと斬殺したんだと信じ込んでいる。やがてそれが早合点だと知って愕然となるが、清正はというと大介の生死いかんを気にしていたが、それにしても築城と人事関係とであまりにも忙しかった。
 ぼくはさっきの中学生用・虎の巻を出して「秀吉の国内統一」の図表を見た。その下に図表の読みかたとして「豊臣秀吉は、織田信長のあとをついで統一の事業をおし進め、一五九〇年に全国統一をなしとげた」とある。ページをめくると「江戸幕府の成立と鎖国」の図表で、その読みかたは「関ヶ原の戦いに勝って政治上の実権をにぎった徳川家康は、江戸に幕府を開いて、封建支配の体制を整えた。江戸幕府は強大な権力をにぎって大名を支配する」となっている。
 もういちど池波正太郎の「男の系譜」をひろげてみよう。それは四回目の個人教授のときで真田幸村の話だが『こんどは大坂落城のあたりをやろう』ではじまり、やがて話がはずんで「火の国の城」を読むのにだいじな局面になった。
『秀吉が死んで、だんだん家康が力をのばして、ほとんど天下を取ったわけだが、まだ大坂城には豊臣秀頼がいた。簡単にいうと、家康は秀頼が自分に頭を下げてくれればなんのことはない。ところが太閤秀吉の伜だから、なかなか頭をさげない。というよりも、おっかさんの淀君が下げないわけだ。これには加藤清正や福島正則も困って、いろいろ苦労して、やっと秀頼が大きくなったとき、ちょうど京都へ来ていた家康のところへ秀頼をあいさつに行かせたわけです。こうすればいちおう頭を下げた形になるから。清正なんかも安心した』
 こんなとき四年ぶりで丹波大介が姿をあらわしたのだ。そうして浅野幸長からの密書を秀頼にわたすという使命をおびた大介が、大坂城の外濠から忍び込んでいくあたりになると、まるで映画を見ているような気持ちになってしまうのだった。映画が大すきな作者のことだ。それが読者のイマジネーションをごく自然に駆り立てる文章のうごきになってくるし、そうすると映画と小説とでは、いったいどっちがいいんだろう。ぼくは映画を見るのも小説を読むのもすきだから、そこんところを面白がって考えてばかりいる。
天下の形勢をよく見て行動しろと頼山陽は言った
 いつも古本屋の話を持ちだす癖がついたが、こないだ経堂から下高井戸まで散歩に出かけ、その店は豊川書店といって奥のほうの棚の下に、古書即売会に出す本がたくさん積んだままになっているが、普通の古本でほしいのがなかったので、積んであるほうの一冊を何気なしに手にとって背中をみたら、頼山陽の「日本外史」だったから、そのまま元へ戻そうとした。そのとき、おや、これは何のことなんだろうと思ったのは、背中の題名の下にそれとおんなじ大きさで「利」と印刷してあって、目次をみたところ「利冊」となっているからで、ぼくにはその意味が分からない。それで主人に訊いたら教えてくれた。
 その本は昭和五年十二月に弘道館というのから出版された「大礼記念・昭和漢文双書」の一冊で第十七回配本となっている。ということはこの「日本外史」は四冊本で揃うと値打ちがあるけれど、これはバラの一冊で「利」とあるのは二冊目だからだと、とっさに主人は教えてくれたのである。明治生まれの人間なら、いまから百五十年前に書かれた頼山陽の全二十二巻からなる「日本外史」を漢文のままで、中学生になったころにはもう読んだり読まされたりしたはずだ。それが明治の終わりに生まれたぼくたちの時代になると、「日本外史」はだいぶ縁がとおい教養書になってしまった。
 けれど不思議なことに漢文を読む余力はまだ残っている。それは漢文を読むのに二〇〇字詰め原稿用紙の枡目ますめを窓みたいにくり抜いた厚手の白い紙があって、それを返り点がある漢文のうえに置くと白文になる。その白文を読みながら分からなくなると、返り点が見えるように隠し紙をずらすのだが、これが割合おもしろかった。いまでも学校ではこれを使っているのかしら。とにかくまだぼくに漢文を読む余力があるのは中学時代の勉強のせいなのだ。
 そんなことを思い出しながら文学士・頼成一が解義した「日本外史新釈」の目次をみると、この巻は足利幕府の後半期から始まっているので、池波正太郎の「応仁の乱」を復習するのによさそうだから買っておこう。そう思って念のため書き出しをちょっと読んでみたところ、ぼくの目を開かさせるような記述ぶりだった。漢詩人の頼山陽が「日本外史」の執筆をはじめたのは二十五歳のときで、二十四年後の文政十年(一八二七年)に完成している。すると足利幕府の部分は途中の半分あたりだから、頼山陽が三十五、六歳のころに書いたんだと勝手に推定しておこう。漢文体の武家興亡史が、ここでは剛健でドライな筆致でつらぬかれている。ぼくはそこが気に入ってしまったが、なるほどそうかと思わさせる頼山陽の鋭い史観にちょっと触れておきたい。

 天下を取り押えて自分の意志のままに動かしていくには、土地の形勢がいいのが何よりもだいじなことだ。ずっと以前に東西各地を歩き回ったことがあるが、そのとき山河の起伏状態を観察して、こう思った。日本の地脈は東北から来ていて、西へ向かうほど、すこしずつ小さくなっていく。これを人間の身体にたとえると陸奥・出羽は首にあたり、甲斐・信濃は背中だ。そうして関東八州や東海道の諸国は胸と腹になり、京畿といえば腰尻になるわけである。さらに西へ向かって山陽・南海にはいるとももすねにすぎなくなる。だから腰や尻の地勢にいる者が股や脛にあたる地勢を押えつけることはできるとしても、腹や背中の地勢を押えつけることはできない。
 このような見方から頼山陽の武家興亡史が展開されていった。もうすこし具体的な説明を加えてみよう。鎌倉幕府は地勢にめぐまれていた。それで北条氏にとって天下を取り押えることは、ひじで指を使うように簡単にいったのである。いっぽう室町幕府は地勢がよくなかった。だから足利氏が鎌倉を捨てて京都にいたのは失敗のはじまりなのである。けれど南朝のことが気にかかったので、鎌倉から離れることもできず、子弟に鎌倉を鎮めさせた。
 ところが、これが争いの原因になり、それから起こった内乱を利用して転覆させた。その結果はどうだろう。室町幕府もこのときから乱れはじめたのである。そうして足利氏の末世になると、七道の豪傑が相次いで噛み合いをはじめ、元亀・天正のころには天下が分裂したが、そのなかで最も大きな国が、北条氏と武田氏と上杉氏と毛利氏だった。
 北条氏は伊豆を取ったあとで関東八州を押えていた。武田氏は甲斐から起こって、信濃・飛騨、駿河、上野かみつけを併合した。上杉氏は越後から起こって越中・能登・加賀のほか荘内・会津にまで及んだ。毛利氏はというと安芸あきより起こって山陽・山陰十三州を併合したから領土は最も広い。けれど地勢が股や脛に当るところだったから、腰や尻に当る京畿で戦いを挑むのは無理だった。
 いっぽう北条氏が天下の胸や腹に当る地勢の利を占めながら一度も京畿ヘ兵を繰り出さなかったのは、その背中の地勢にある武田・上杉の二氏が通路をふさいでいたからだった。この武田氏と上杉氏といえば双方の勢力が匹敵していて勝負がきまらない。それで両氏とも西のほうへ向かう暇はなかった。
 これら四氏のあいだに挟まれていたのが織田氏である。天下の形勢を見抜いた織田氏は、攻めやすい西を先にして東をあと回しにした。険しい所を捨てて平らな所を取った。それで力もそう使わず、目的をたっすることも早かったが、豊臣氏もこの教えにしたがったため、ついに天下を一つに合わせることに成功したのだった。
 頼山陽は以上のように室町時代末期の群雄割拠のありさまを観察し、だから天下の形勢を知らなければならないと言っているので、なるほどと感心し「応仁の乱」や「戦国幻想曲」を復習している気持ちにもなったのである。それにしても本屋さんが教えてくれた「利」と「利冊」の意味が気になってしようがない。それで「岩波古語辞典」を引っぱってみたところ利益の意味しか出ていない。おやおや、漢和辞典だとどうなんだろうと思ったが、必要がないから買ってなかった。おかしいなあ、どうして「利」を二冊目だと教えてくれたんだろう。
 翌日また気になったので近所の古本屋でなじみの遠藤書店へ出かけ、丸い腰掛けを借りて漢和辞典をめくったが、やっとさがした「利」には、やっぱり普通とおんなじ意味しかない。あきらめて横を見ると歴史関係書の棚で、土橋治重著「城攻め・落城秘話」というのが目についた。ぼくは日本のお城には興味がもてない男なのである。けれどこのまえ「火の国の城」を読んで大坂城のことが分かったし、落城秘話となると、その題名からの受け取りかたも以前とはだいぶ違ってきている。「戦国幻想曲」には最初のアクション場面で、槍の渡辺勘兵衛が殊勲をたてる織田信忠の大軍の高遠攻めがあった。
 天正十年(一五八二年)三月一日の夜明け、伊那の飯島城を落した信忠軍は天竜川をわたり、赤石山脈の山すそを斜めに進み、天竜川の支流・三峰みぶ川にそって東へまがり、海抜一千メートルの月蔵山の山すそが西へのびた段丘のうえにある高遠城を目ざして肉薄した。
 このような地勢的な叙述に「戦国幻想曲」と「応仁の乱」を読んでいるとき、いくどもぶつかって緊張させるが、高遠城内の兵力といえば、おそらく五千ほどであったろう。それを五万余の織田の大軍が包囲している。『あの城は明日いっぱいに落ちるだろう』と本陣の将兵は、語り合っていたが、城を死守する仁科盛信や小山田備中守の奮戦にもかかわらず、そのとおりになってしまった。
 この一日だけで終わった籠城戦のことが「城攻め・落城秘話」にも説明してあるが、これはぼくには大いに役立った。というのは第一に城兵の十倍以上の敵軍に包囲されたとき、その城は守りきれない。第二に鉄砲を多数持った優勢な敵の攻撃にあうと、味方はきわめて不利な立場に陥る。第三に援軍のない城はかならず落ちてしまう。という戦術上の三原則があって、この原則を無視したわけではなく、はじめから落城するのを覚悟して戦ったのが武田勢だった。

 ほかにも参考書を三冊買った。その一冊は昨年十月に出版された建築家・西沢文隆著「庭園論」で、これも三宿の江口書店という古本屋で何気なく手に取ってめくったのである。そうしたら「日本庭園のモチーフ」という章があって、そのとき「応仁の乱」に出てくる庭師善阿弥のことを思い出したが、日本庭園のモチーフには「石」の項目があって、つぎのように説明してあった。
 室町時代にはいると禅宗や宋の水墨画の影響もあって、石に自然の気骨を見出すようになり、以前のような石にたいする信仰ではなく、造形意識から生まれた枯山水の庭の美的構成材として重要なものになった。そうして中国から渡来した盆石の影響だろう。石の実体というよりも石のなかに潜んでいる自然の気韻と生動を感じ取り、虚の世界のなかで自然の風韻を味わうのが根本であった。
 こう説明されると善阿弥に室町御所の庭造りをさせた足利義政の心境を、またすぐ考えはじめるが、ついで当時の庭石の蒐集家十名のなかに、義教と義政がはいっていて、つぎのような古い記録を書きとめてある。
 永享元年(一四二九年)二月、足利義教は万里小路殿までのこうじどのの設営に、鹿苑寺より庭石を、同年十月、青蓮院より大石を運ぶ。
 康正三年(一四五七年)四月、足利義政は万里小路殿を作庭するために仁和寺の庭石を運ぶ。石一個を運ぶのに四百人を要した。(「看聞御記」より)
 ここでまたぼくには重要な参考資料になり、室町時代をよりよく理解させてくれたのが、つい最近出版された「新書日本史」の第四巻で上島有著「戦乱と一揆」(講談社現代新書)である。この本から、つぎのようなことを教わった。
 文明五年(一四七三年)の十二月に足利義尚は九歳で征夷大将軍になった。ここで中編「応仁の乱」は終わっている。それから義政はどうしたのだろうか。望みどおり隠退することができると、それからは六年目にはいった大乱をよそに、酒にひたり連歌会をもよおして風流の道に生きがいを見出していたのである。そうして文明十四年二月から隠棲いんせいの場所として浄土寺山に東山山荘の造営をはじめ、善阿弥に作庭させた。
 この庭園は静けさと寂しさに徹底していて、翌十五年六月にできあがった東山殿ひがしやまどのや、十八年に完成した仏間の東求堂とうぐどう、茶室の起源とされている書院造の同仁斎どうじんさいなど、庭園のなかに溶け込むように配置されている。もちろん銀閣もその配置の一つだが、義政は中風で半身不随となり、その完成を見ずに延徳二年(一四九〇年)の一月に五十五歳で世を去った。
 なお九歳で征夷大将軍になった義尚が、将軍として実際の政治をみるようになったのは、義政が東山山荘へ移った文明十五年からで、この山荘生活のころを東山時代といい、そのころ発生した特色ある文化を東山文化といっている。

「戦乱と一揆」のおかげで以上の引用ができたが、ここまで引用したわけは、もう一冊の参考書として山崎正和著「室町記」(朝日選書)を読んだとき、すっかり感心してしまったからである。それで前著とおなじく勝手な引用をさせてもらおう。あまりに断片的な引用のうえ前後が転倒したりするので、著者には迷惑がかかるのを知りながらも書いておきたくなった。

 応仁の乱それ自体が論理的な筋の乏しい戦争であった。この空前の戦乱は京都の町を焼きつくしたが、奇蹟的なことは、この乱世がまた偉大な趣味の時代だったことだ。西洋人を感動させる日本の「庭」を完成したのも、この時代の趣味であった。義政はしだいに政治の実権から離れていった。
 室町将軍というものを、どのように位置づけたらいいだろうか。簡単にいえば、それは純粋な権威として、あたかも天皇のように生きるか、歴代の天皇は自然の一部のように権力争いのうえに超然としていたのだ、それとも本来の征夷大将軍として実質的な権力をいくらかでも取ることにするか、これが将軍にとっての課題となってくる。
 このどっちかという選択は足利歴代の将軍に絶えずつきまとった難問であって、どの将軍にも多かれ少なかれ迷いがあった。そのなかで義政はとくに純粋な権威に徹した将軍であり、義教と義尚は、はっきり権力に生きようとして敗北した例であった。本来は関東出身の足利家が、幕府を京都室町に開いたことは歴史の興味深いいたずらであった。幕府がもしこの古い都会に置かれなかったら、日本の都市文化は少なくともなお百年は遅れていたにちがいない。だから偶然とはいえじつに計り知れない幸運であった。
 それにしても応仁の乱ほどわかりにくい戦争は珍しい、と著者はいい「あとがき」を読むと、室町時代は日本史の各時代のなかでも、もっとも日本人の一般的な興味から縁遠い時代だといわれてきた。たしかに普通の日本人に、ひとつの統一あるイメージをあたえないことは事実のようだ、と言っている。最初に引用したように「日本外史」と「室町記」とで足利幕府にたいする考えかたが否定と肯定とに分かれるあたりは、シロウトのぼくにも関心をいだかさせることになるのだった。

 引用ずくめの受け売りでここまで来たとき、やっとぼくにも、ひとこと言わせてもらうことができそうだ。それは足利義政の心境を想像してみたイメージなのだが、すこし突飛なので口に出せなかったのである。思いきって言ってしまうとルネ・マグリットの油絵であって、こないだ銀座のイエナ書店で買った薄くて小型の「シュルレアリスム辞典」をめくったら、またもや出てきたのだった。
 この本は一九七三年にジョゼ・ピェールがパリで出版したのを、翌年W・J・ストラカンが英訳したものだが、知らなかったシュルレアリスム関係のデータが豊富なので面白い。マグリットの油絵は有名な「療法学者」で、日本でも五年前に「ルネ・マグリット展」が描いてないのに平たい帽子と両手と片手のステッキと外套みたいな鳥籠のおおい切れ。草地に腰をおろしている両足で、まぎれもない人間に見えてくる。
 これが「応仁の乱」を読んだあとで、ぼくには足利義政の姿に見えたのだった。顔のないマグリットの人間の全体像は、なんとなく鎧かぶとの将軍を連想させるし、ハトがいる鳥籠が義政にとっての庭園みたいに見えてくるからだった。ほくはまた池波正太郎の師匠だった長谷川伸が『これを書いて、きみはちょいと変ったね』と、土方歳三のエピソード「色」を読んだときの印象を語ったのを「応仁の乱」にぶつかって思い出さないではいられなかった。師匠の言葉のよりどころは、この作品ではなかったかと考えられるからである。
 短編の「鳥居強右衛門すねえもん」は籠城戦のエピソードだが、念のため角川版・日本史辞典をひいたら、この主人公の説明がつぎのようになっていた。知っている人も多いだろう。戦国時代の武士。生年不明。三河長篠城主・奥平貞昌の家臣。名は勝商かつあきというが不詳。天正三年(一五七五年)に武田勝頼が長篠城を包囲し城が危機にひんしたとき、城を脱出、密使として徳川家康に援助を請うたが、帰途捕えられて殺された。

 このとき貞昌の手勢は僅かに五百で、一万七千の敵の大軍に包囲されている。さきに引用した落城の相互関係からも絶望的だし、家康の援軍もいつ来るか分からない状況になっている。強右衛門といえば夫婦仲はとてもよかったが、子供が七人もできたので生活がくるしい。戦場で手柄をたてなければ出世はのぞまれない時代だった。そんなわけで主君思いの彼は、敵の監視の目をくぐって目的をはたそうとするのだが、そのあいだも女房のことが頭から去らないのだった。池波作品では「猛婦」のお津那のような印象につよく残る女がよく出てくる。長谷川伸が褒めたのも、そこから庶民的な人情味が出てきたからであるが、作者にとっても執筆中に直面する、重くて堅い壁のどこかへ穴をあけることになった。
 その穴はちっぽけだったと彼は謙そんしているけれど、その穴は人間が通り抜けられるような大きい穴である必要はない。ちっぽけな穴のほうが、そこに目をくっつけて覗いたとき、むこうの景色はより視野がひろがって、はじめて見るような印象をあたえることが多いからである。いま思い出したのはルイス・ブニュエルの映画「ロビンソン・クルーソー」(一九五四年)を見たときであるが、波打ちぎわを双眼鏡で遠くから覗いた光景に、ダニエル・デフォの小説がこんなにも魅力があるのかと驚いたものだった。
 もちろん双眼鏡で覗いたときと壁の穴から覗いたときとは、近景と遠景といったふうに違ってくるが、映画で鍛えた作者の目は、その関係をうまく保ち続けながら物語を展開していく。そうした目のはたらきを「戦国幻想曲」を読んでいるとき、いくども感じ取った。渡辺勘兵衛は大和の郡山城主・増田長盛の家臣として、手勢三百の籠城軍の先頭に立ちながら、藤堂高虎が率いる千の部隊に包囲されても、なかなか城を明け渡さなかった。
 この場面は「真田太平記」の合戦場面を思い出させる雄大な構想だ。渡辺勘兵衛という戦国武士は、アメリカの歴史でいえば南北戦争時代の「ソルジャー・オブ・フォーチュン」といっていいだろう。社会の変革期にチャンスをつかんで活躍する風雲児的な性格として共通したものがある。そういえば独立戦争のときに繰り返された戦闘図を数十葉にした一抱えもある大きな本をニューヨークで見付けたが、その地勢や部隊配置図を見たとき、日本の戦国時代とおんなじだなあと思ったものだった。
一つの円からもっと大きな円が生まれるだろう
 この「池波正太郎作品集」第五巻のためにセレクトされた中編二つと短編六つ、それから長編の「獅子」を読み終わった日に、夜の七時から芝の郵便貯金会館ホールでジャッキー・マクリーンのジャズ演奏会があった。その日はまた、国鉄ストになったので、仕事机から離れずに「錯乱」ほか八篇の特別メモを作製したほうが利口だと思ったが、昔から大すきなマクリーンだから、やっぱり行きたくなってくる。途中で読む本は何でもいい気持ちになって芝居の本を持って出た。
 いま特別メモと言ったのは、この第五巻ではじめて気がついたことがあって、そのために作製したいのだった。それにはちょっと手間が掛かりそうだが、一冊の本を読みとおしているときに、こんな読書経験をしたことは一度もぼくにはなかったから、そこをハッキリさせたいと考えはじめる。どんなふうにメモを作製すればいいかな。それは電車のなかで考えてみよう。
 そんなわけで持っていく本は何でもいいのだった。それに芝居の本だと薄くて軽いからで、おやこんなのが買ってあったなと思ったのが「クリストフ王の悲劇」という黒人詩人エメ・セゼールの戯曲であって偶然そのとき、玄関に積んだままにしてある本のうえに乗っていたものだから、それを手にすると軽いのでカバンにも入れず、電車のなかでは立ちん坊だったので、つい読みはじめた。こんなときは小説より戯曲のほうが活字が大きいから読みやすい。
 黒人詩人エメ・セゼールは西インド諸島のマルチニック生まれで、最初はシュルレアリスムの詩をパリで発表していたが、マルチニック島に帰ると反植民主義派の闘士として、ハイチ島の英雄トゥーサン・ルーヴェルチュールが黒人暴動を起こしたときの詩劇をかいた。この暴動のときの副官がアンリ・クリストフであって、ぼくはルーヴェルチュールのことは写真でもよく見る顔なので、どんな英雄だったかほんのすこし知っていたけれど、クリストフのほうはなんにも知らない。それなのにプロローグの「闘鶏」の場面を読みだすなり、幕開きの強烈なイメージが浮かび上がってきたので、思わず引き込まされてしまった。
 ジャッキー・マクリーンのほうは昨年九月にニューヨークのカーネギー・ホールにも出演していたし、実力があって、ぼくにはとてもいい。二十年ほど前にジャッキーのファンが繰りかえしレコードで楽しんだアルト・サックスのサウンドが、そのまま気持ちよく残っていた。おかげで元気が出てきたし、帰りは友人といっしょに新宿に出てコーヒーを飲んだが、そのあとで小田急電車に乗るとスト日だったせいかガランとしている。すこしくたびれていたので芝居の台本を読むのは後回しにして、経堂に着くまで特別メモのつくりかたを考えていた。
 ぼくは買いおきの画用紙を出して十本の線を定規でタテに引き、中編の「真田騒動」「信濃大名記」と長編の「獅子」は、左右の幅をほかの六篇よりも広くした。それからそれぞれの欄に題名を書き込んでから、そのしたが上下二つの部分になるように横線を引っぱった。この下のほうの欄に書き込むことが、ぼくには重要になってくるのだ。

 すこし眠くなったので、メモ作業をやめ寝るまえに外国人名辞典を引っぱってみたところ、トゥーサン・ルーヴェルチュールはもちろん、それより詳しくアンリ・クリストフのことが書いてあるので、おやと思った。真田幸村のことなら中学生のころから知っていたのに真田信之となると、このまえ「火の国の城」を読むまで、てんで知らなかったのだから、いい年をした日本人なのにと思いながら自分の無学のほどが、あらためて分かってくる。このクリストフの場合も、おんなじことだった。
 それで余計なことかもしれないが、ハイチ島の歴史には、どこの国でもそうだったろうけれど、ふと戦国時代や幕末時代や百姓一揆などが浮かんでくるような出来事がいくつかある。といっても国情がまったく違うから比較対象にはならないが、動乱期の人心というのは身分の上下にかかわらず似たようなものだから、ちょっとばかり書いておいてもいいだろう。
 トゥーサン・ルーヴェルチュールは寛保三年(一七四三年)にアフリカ奴隷の息子として生まれ、フランス大革命の二年後に黒人暴動を起こしてハイチ島の奴隷を残らず解放させると、仏政府任命の支配者となった。ところが十年後にナポレオンが再び奴隷島にしようとして、ルーヴェルチュールを逮捕するとフランスの牢獄に監禁したのである。いっぽう彼より二十三歳若いアンリ・クリストフもハイチ島の奴隷として明和四年(一七六七年)に生まれたが、ルーヴェルチュールが六十歳で獄死すると、彼もまた黒人暴動を起こした。
 ついで三十九歳のときハイチ共和国初代大統領に就任したが、五年後には、みずからアンリ一世と称した。三幕二十一場の「クリストフ王の悲劇」は大統領のころから始まるが、プロローグの「闘鶏」の場面で異様な印象を与えられたのは、農夫たちが強そうな一羽のほうをクリストフと呼びながら、逃げ回っている一羽をつつき殺せと大声でけしかけているからであった。
 当時のハイチ島は南のフランス属領と北のクリストフ領土とに二分されていて、逃げ回っている一羽はフランス側の支配者なのである。だが英雄として衆望をになったクリストフも、アンリ一世となると山の頂上に海が見渡せる城砦の構築をはじめ、その資材運搬のため島民を奴隷同様に酷使した。それにたいし大司教が抗議すると幽閉して餓死させようとしたので、島民の暴動となり、大司教の亡霊を見たクリストフは南から軍勢が侵攻してくるのを知って、ピストル自殺してしまうが、作者がシュルレアリスムの詩人だっただけに、一五〇年前のハイチ島の歴史が夢のように展開するのだった。

 だいぶ回り道をしたが、こんどは「獅子」にふれた箇所が「池波正太郎の男の系譜」のなかに談話として出てくるので、すこし長い引用になるけれど抜き書きしたくなってくる。

 いま話したように真田信之の信念たるや大変なものだった。それがね、家康が生きている間はよかったけれども、家康の死後は真田家をつぶそうとする動きがずいぶんとあった。そのたびに信之は徳川と戦って九十三になるまで、敵の魔手をはねのけ、ついに真田家を安泰にみちびいて死んじゃった人なんですよ。「信濃の獅子」とまでいわれた人物だ。
 信州松代まつしろ十万石を守りぬいて、九十を越えてからようやく次男の内記信政のぶまさに譲り渡し、やっと引退して一当斎と号した。そうして松代城下のちょっと北へ寄ったところに隠居所を構えたんだが、このときになって、とんでもない大事件が起こった。
 真田の本家は、信州松代十万石。分家は上州沼田三万石。この本家と分家の間で、大変なお家騒動が持ち上がったわけですよ。あらゆる陰謀を行なっても機会おりさえあらば取りつぶそうと狙っている幕府の前に、真田家は実にあぶないことになってしまった。
 それを、すでに隠居していた信之が九十三の高齢で出てきて、見事に解決して真田家を安泰にみちびいた。その話は、「獅子」という小説に書いておいたけれど。

 ぼくはこの第五巻にはいった九篇を、いつものように順序どおりには読まなかった。そうなったのは昭和三十五年に第四十三回直木賞をとった「錯乱」が短編集となって同年十月に出て、それに「碁盤の首」と「刺客」がはいっていたが、古本屋を捜し回ったけれど見つからない。それで貸してもらうまで「獅子」をまっさきに読んでいたからである。そうしてこの長編のプロットは、いま書き写した談話のとおりであるが、読んでいるときの気持ちはというと「鬼平犯科帳」や「剣客商売」や「仕掛人・藤枝梅安」、それから「火の国の城」ともちがっていた。そのちがいは読んでいるときのスピードをくらべてみるのが一番いいと思うけれど、いまあげた作品よりずっとゆっくり読んでいた。
 その原因はというと思ったよりアクション場面がすくなかったからだろう。そのかわりに周囲の事情を読者に感じとってもらおうという書きかたになっている。どうしてそういう手法にしたのかと考えてみると、さっきの談話で、とんでもない大事件が起こったと言い、ついで真田家がお家騒動で実にあぶないことになったんだと付け足しているが、なるほどそうかと読者が思うようにするのには、アクション場面よりも状況説明のほうに力を入れなければならない。そうするとサスペンスもたりなくなってくる。ぼくたちは鬼平や梅安でサスペンスのさまざまな変化を楽しんできたのだった。
 こんなことを考えながら「錯乱」を読んだとき、もうすこしこのへんをハッキリさせようと思って特別メモをつくることにし、その上の段に状況を書き、下の段にサスペンスとショックのありかたを書いてみた。そうすると「獅子」のなかのサスペンスとショックが、ほかの作品でも同一状況のもとに発生し、それが短編のほうでは長編や中編よりも強く作用するように書いてあったのである。そのことを具体的に例証してみよう。
 たとえば「錯乱」を読むと、まず最初に堀平五郎というのが将棋の駒を自分でつくる趣味があって、信之もよく平五郎を隠居所に呼んでは将棋の手合わせをするほど気に入っている。それがまず読者の頭にはいるように書き出してあるが、「獅子」を読んでいるときの最初のサスペンスになるのは、この堀平五郎が騎乗で隠居所へ向かう雪の日、途中で中年の旅僧があらわれたときだった。
 このときの旅僧の怪しい行動は暗示的であって、平五郎の正体も伏せてある。さらに読みすすめると平五郎には紺屋町に住む市兵衛という塗師ぬしが仲よしの将棋相手になっていて、ある夜のこと二人で将棋を指しはじめた場面で最初のショックが発生する。二人ともスパイだったのだ。
 こうしたサスペンスからショックにいたるあいだに、真田家のお家騒動の事情がこまかに語られている。そうしないと談話にもあるように、信之が九十三歳の高齢で、難題を見事に解決したという一番だいじなことが漠然となってしまうだろう。そうしてさっきのショックのあとで、じつは塗師の市兵衛はダブル・スパイなのだと伏線が張ってある。この長編には伏線がいくつも使ってあるのだ。スパイ・スリラーと称することもできる。
 さらに読みすすめたとき、ふとぼくは「寒い国から帰ってきたスパイ」を思い出したが、ダブル・スパイの市兵衛が信之のために困難な役目をはたしただけでなく、深慮遠謀の信之が鋭い探偵眼も持ち合わせていたので、真田家を安泰にみちびいたのだということを、よく理解できたのだった。

 ここで「錯乱」に戻ると、将棋のことから話を切りだし、やがて堀平五郎がスパイとしての自信でいい気持ちになっているとき、塗師・市兵衛と将棋を指すことになるが、この場面が「獅子」とおなじなのに、ずっと面白いのは短編として書かれたという理由がある。こうした長編と短編との比較は、ベつの例をあげると中編「真田騒動」と短編「刺客」の場合でも成立するし、「真田騒動」と「この父その子」の場合にも当てはまるのだった。そうして最初のところで書いておいたが、これはぼくの読書経験としては一度もないことだった。
 いま小説から離れて話を日常的会話に移してみると、ぼくたちはよく大すきな話を友だちに話すけれど、ついそのとき言い忘れたことがあって、つぎの機会に誰かに逢ったとき、そこまで全部を話すことがある。また逆にすっかり話してしまったので、二度目には話をはしょってみることもあるし、その関係のしかたを小説でいうと、長編と短編ということになるんじゃないかと考えてみた。
 それで週刊朝日に目下連載中の大河小説「真田太平記」の単行本になった三冊を出してみた。第一巻の「天魔の夏」をめくると扉ページに一九七五年一月二十六日に、ノートをとりながら読みはじめると記入してある。物語の発端は十九歳の足軽・向井佐平次のことからで、しだいに登場人物がふえ、やがて真田幸村に焦点が合わされると、第二巻の「秘密」でも幸村の活躍がずうっと続き、そうして第三巻の「上田攻め」になったとき、やっと真田信之が正面きって登場するのだった。
 上田攻めにおける奇襲、猛戦、乱戦のありさまは、これら三巻中のクライマックスになっているが、とにかく大河小説「真田太平記」では作者が大すきな話を、ゆっくり時間をかけて思う存分いつまでも語り続けていくことだろう。そうするとこの第五巻の九篇は「真田太平記」のエピソードなのだと考えていいかもしれない。
 そうなってくるのは真田藩の下っ端である「碁盤の首」の馬場主水もんどや「へそ五郎騒動」の平野小太郎や「槍の大蔵」の雨宮大蔵といった変人・奇人は、この巻のエピソードにふさわしいし、「信濃大名記」も真田信之の生涯におけるエピソードになっている。それに気がつくのは「錯乱」からはじめて「獅子」まで読み終わったときであって、そうさせた作品選択ぶりは、じつにうまいなと思った。なぜかというとエピソードとしてあるだけでなく、全体が一つの円を描くことになったからである。
 こういう場合に「フル・サークル」という言葉をよく使うのを思い出した。具体的にいうと「錯乱」という出発点から始まって、いくつものエピソードを読みながら「獅子」で真田信之が死んでいったとき、グルリと円を一周したようになって、とても気持ちがいいのである。そうして「真田太平記」になると、その世界はもっと大きな円であって、やがては「フル・サークル」になってくるだろう。そんなイメージを頭に浮かべていると、これらの九篇もより大きな円を形成するエピソードになってくるのだった。
笹又高之助というアンチ・ヒーローは西部劇の悪役みたいだ
「俠客」をゆっくり読みながら楽しんでいた四日間はよかったが、読み終わってすこしたったとき、ぼくは一人の読者から解説者みたいな存在になっているのを意識したので、どうしたらいいかと考えはじめた。
 解説ってイヤな言葉だなあ。字引きをめくってみた人がいるかしらん。そばに古語辞典があったので引っぱってみたら出ていない。当り前だなと思った。けれど気になるので似た言葉をさがしてみたら「解文げぶみ」というのがあったが、まるで意味がちがっている。「鎌倉・室町時代に原告と被告の両方から出す訴状と陳状」のことで、普通は「解状げじよう」というそうだ。ぼくにはいつか役に立つこともあるだろう。こんどは普通の字引きで「解説」の意味を引っぱったら「よくわかるように物事を分析して説明すること」と広辞苑に出ていた。
 なんだい広辞苑でもこれっぽっちか。なんだかバカにされたような気持ちになり、ついでに邪魔っけだから捨てようかなと思った岡倉由三郎編「新和英中辞典」をめくると、これがいまごろになって面白くなってくる。第一版が昭和八年に出て昭和十六年に百十五版になっているので驚いたが、二〇〇ページの付録の部分も面白い。「解説」を英語では何というか引っぱってみた。「エクスプラネーション」と「コメンタリー」が出ている。なるほど広辞苑の意味は、この二つの英語をくっつけて訳したんだな。
 ぼくは言われたとおりに広辞苑の単語の一つを分析したような気持ちになったけれど、こんな調子で「俠客」の解説と取組むなんてイヤだなあと、また思った。なぜかというとこの長編は「そのとき。」という読者への呼びかけで始まっていて、ちょうど映画のタイトルが終わった瞬間、それもサイレント映画のほうがふさわしいが、さて最初にどんな場面があらわれるかと期待させる。そんな瞬間とおんなじだと思うし、ついでにちょっと書いておきたいこともあるからだ。
 いまサイレント映画のほうがふさわしいと言ったのは、最近の映画はアウトラインふうなイントロ場面がついているのが多く、誰が最初にこのアイデアを使ったんだろう。ぼくはズルイなと思うしキライなんだけれど、そのことは別にして、映画では「そのとき。」というカットを使うことができない。そんなカットがはいってきたのを思い出せないのだ。ところが面白いことにサイレント映画のときには、ステージの左側ソデに安っぽい演壇みたいのがあって、徳川夢聲とか生駒雷遊とかいった活弁さんが、説明台本を見ながらしゃべることもあったが、ときたま合の手に『そのとき。』と大きな声を出すことがあったものだ。
 そんなとき映画は当時のはやり言葉で「場面転換」するわけだが、池波正太郎は根っからの映画ずき芝居ずきだったから『そのとき。』という活弁用語を、ふと思い出したりして忘れられなかったにちがいない。そう勝手に想像しながら、ぼくは「池波正太郎の作品における〈そのとき〉の使いかたと効果」という技巧面を目下研究中なのである。うまくいくかどうか怪しいが、次回配本の第九巻「にっぽん怪盗伝」のとき報告することにしよう。たいていの場合が場面転換するときに使われるのだが、そのときの緊張感とサスペンスは池波独特のものなのだ。それがこの「俠客」では出しなに使ってある。どれくらい考えたあとで、こうしたんだろう。
 そういえば「俠客」の一冊は、かなり以前にページをひろげた記憶がある。それは「鬼平犯科帳」に夢中になりだしたころで、ほかの長編も読もうと考え、古本屋をあさっては買いあつめたことがあった。それをこんどの仕事で全部ひと山に積んでみたところ「俠客」がなくって表紙カバーだけがあった。どこへしまい込んだのだろう。あとで朝日新聞出版局の福原清憲さんが持ってきてくれたが、あったら買っておこうと思って、それまで古本屋へ行くたびに気をつけたが手にはいらなかった。
 そんなとき、これは掘り出し物だとよろこんだのが短編集「眼」(昭和三十九年九月・東方社刊)と、やはり短編集「娼婦の眼」(昭和四十年九月・青樹社刊)で、両方で十五篇あるが、すべて現代小説であって、そのうち九篇は娼婦が登場する連作形式になっている。あるとき池波さんにこの話をしたところ、あんなものを買ったのかいと笑っていた。けれど衆目の一致するとおり時代小説における池波の「眼」は、女性にたいして時代を超越した魅力を敏感にキャッチしてしまうのが特色だが、そうさせた下地がこのへんにあったと考えても間違ってはいないだろう。
 いっぽう「俠客」は昭和四十三年十月から一年間にわたって、サンケイ・スポーツ紙に連載され、四十四年十月に毎日新聞社から出版、四十七年五月には三版となっている。手元にあるのはこの版だが、作者のあとがきを引用しておこう。

 〔侠客〕という言葉を、こころみに机上の辞書でひいてみると、
強い者を押え、弱い者を助けることを標榜した任俠にんきょうの徒。おとこだて」
 と、ある。
 幡随院長兵衛は、その侠客の元祖などと呼ばれているが、私は彼の若き日だけを描きたかったのである。
 そうして、この小説を書きすすめていったわけだが、若い日の長兵衛(塚本伊太郎)の人生が、必然的に、のちの侠客としての彼の後半生へむすびつかざるを得なかったので、ついに、彼の死までを見とどけることになってしまった。

 以上のような作者のあとがきだが、さっき使った広辞苑があるので「俠客」をひっぱってみたら、池波さんの机上の辞書はこのことで、おやと思ったのは「おとこだて」のまえに「江戸の町奴まちやつこに起源。多くは賭博・喧嘩渡世などをこととし、親分子分の関係で結ばれている」という付け足しがある。この箇所をオミットしたのは余計な説明になるからだろうが、念のため「おとこだて」(男伊達)をひいてみたところ、こう書いてあった。
「男子としての面目を立たせるように、強きを挫き弱きを助け、仁義を重んじ、そのためには身をすてても惜しまぬこと。またその人。任俠。俠客」
 なるほど、これなら幡随院長兵衛の性格にピッタリするなあ。

 といってもぼくは子供のころに、幡随院長兵衛って風呂場のなかで槍に突き刺されて死んだんだと聞かされ、錦絵か何かでさらしを腹に巻いた風呂場のなかの長兵衛が、両手で槍をにぎったまま、突き刺されたところから血が吹き出している絵を見た記憶があるだけで、ほかのことは何も知らない。といったわけで、まるでお話にならない解説者なのだ。
 それでどうしたらいいか考えているとき、一策として中版の方眼紙を五枚ヨコに貼り合わせてから二センチおきに線をタテに引いてみたらどうだろう。そうすると「俠客」は二十五章あるから、それぞれの章の題名を二センチ幅に割った方眼紙の上のほうに書くと一覧表みたいになる。よし、この一覧表をつくろう。それから方眼紙とハサミと糊を出してはじめたら二時間で出来あがった。
 こんなことをしていたのも「俠客」をもういちど読むための用意なのである。再読しながら各章のタテ割りスペースを上段・下段にして、その上段に筋をごく簡単に書きこもう。下段はそのままにしておく。そうして再読し終ったとき、ぼくにとって問題なのは、その下段がどのくらい上段の出来事と関係したことで埋まっているかということで、それがやってみたかった。その理由は、つぎのとおりである。
「俠客」は面白い。ぼくには「火の国の城」よりも「戦国幻想曲」よりも面白かった。なぜなんだろう。おそらくそれは新聞の連載だったせいだろう。こんなことは考えたことがなかったが、池波正太郎の長編は週刊誌連載のが多く、それを単行本になって読んだときの全体的な印象と、「俠客」から受けた全体的な印象とが、どこかしら違うことに、ふと気がついた。それは結果からいうと、作者にとって、取って置きの面白いものが週刊誌よりも日刊紙のほうに数多く使われ、積み重ねられていったからである。そうした微妙な違いでもあった。
 たとえば「俠客」を読みながら、あ、面白いなと思ったとき、すぐつぎの面白さを期待しながら読み続けると同時に、あ、面白いな、前の作品でもどこか似たような面白さがあったなと感じさせるときがあって、不思議なことに、そんな感じ取りかたから面白さが倍加するようにもなるのだ。この第二の場合をぼくは一覧表の下段に書きとめてみたくなったのだった。なぜなら池波正太郎の職業上の秘密はこの点にあるからだと思うし、新作が生まれるたびに面白さが増していくのが生きた証拠である。

 ここで一覧表の下段に書き込みをするまえに、上段のほうに、各章のメモを書いてみた。それが、第一章の「暗殺」と第二章の「東海道」と第三章の「あぶらや騒ぎ」では、つぎのようになっている。
「暗殺」(二〇ページ)六尺に近い二十歳の伊太郎。足軽。使いに出た帰り。夏の午後四時。芝・源助町で夕立。父の塚本伊織が五人の浪人相手に死闘している。伊太郎の助太刀。見知らぬ武士の救援。父は「か、ら、つ」と言い残して絶命した。
「東海道」(一八ページ)伊太郎、大坂へ。剣難の相。きのうの浪人・笹又高之助また現われる。四日目に田子浦で襲われ、こんどは山脇宗右衛門に救われた。
「あぶらや騒ぎ」(一○ページ)父親の家来だった塩田半平が大阪で数珠屋をやっている。「あぶらや・仁平治」という看板。その店に入ってきた編笠の武士が、数珠を買うとみせかけ、抜き打ちに半平を斬ったが、それはもう一人の老人・虎四郎で、半平と似ているので間違えたのだった。この編笠の武士も笹又高之助。
 以上の三章のメモは、この程度しか上段のスペースに入らなかったが、ここまで書いたとき、第一章の「暗殺」の下段スペースに、〈ヒッチコック〉〈シャブロル〉〈ロマン・ギャリ〉と書き込んでおいた。それは塚本伊織が苦しい息の下から「か、ら、つ」という謎めいた暗示語を吐き出して絶命したとき、いいぞ! と思ったぼくは、まっさきにヒッチコックの「知りすぎていた男」のファースト・シーンを思い出したからである。
 このファースト・シーンはモロッコのマラケッシュ市場で、追跡されながら逃げてきた男が倒れて死んでいく。その男は背中を短刀で刺されていて、黒人にみえたが、その顔をなでると塗料がはげて白人だった。クロード・シャブセルのヒッチコック的な「ジャガーの眼」のファースト・シーンは似たようなアフリカの市場での追跡場面になっていて、その場面の撮影が素晴らしかった。
 フランス作家ロマン・ギャリのスリラー「あえぎ」では、ヴァチカン庁の朝の祈禱が行われている広場がファースト・シーンだが、そこへ向こうのほうから黒革のスーツケースをかかえた紳士が、よろめくように駈けてくるとピストルの音がしてパッタリと倒れた。それを助け起こそうとした助司祭に紳士は、スーツケースは法王にわたしてくれと言うなり絶命する。そのあとで助司祭は部屋においた黒いスーツケースに目を向けると、ちいさな生きものでも入れてあるのかピクピクと革のおもてが動いているので開けてみた。
 するとなかからピンポン玉みたいのが床に落ちたが、その玉はころがらずに落ちた場所で同じ高さの上下運動を続けている。不思議なものを見た助司祭は驚いて法王の部屋へ駈け出そうとしたが、気持ちが動転していたのかドアを開けようとして意識をうしなった。やがて意識が戻ったが、不思議な玉っころは相変らず同じ高さの上下運動を続けている。助司祭は恐怖に襲われた。
「暗殺」の章を読んでいるとき「か、ら、つ」という暗示語の効果で、ヒッチコックやシャブロルやギャリの場面を同時に思い出したのは、どれもがファースト・シーンであって、伊織暗殺の場面もまた映画的だからだろう。それだけではなく「そのとき。」と作者が読者に呼びかけてから、ここまでずっと映画をみているような気持ちで読んでいた。
 つぎの「東海道」では下段スペースに〈笹又高之助〉と書き込んだ。「俠客」におけるこの浪人剣客の登場は、その無気味さで、ほかの池波作品に登場する浪人や武士とくらべたとき、ずうっと緊張させるし迫力にもとんでいる。フィクションとしての人物だろうが、どこからこういうアンチ・ヒーローが生まれてきたんだろう。アメリカの西部劇のなにかに池波ごのみの原型があったのではないかな。
 つぎの「あぶらや騒ぎ」では、この笹又高之助が数珠師の虎四郎をうっかり、「あぶらや・仁平治」こと塩田半平と間違えて抜き打ちに斬り殺した。それで下段スペースに「火の国の城」と書き込んだ。この長編は前半の終わりで女忍者・小たまが丹波大介を討ち取ったと思ったが、それは馬杉の甚五の間違いだったことが、ぼくにはつよい印象に残っていたからである。この作品集第九巻の「にっぽん怪盗伝」でも「熊五郎の顔」と「さざ浪伝兵衛」の短編二つが〈間違いのテーマ〉になっていて、ここをもっと研究してみると面白いだろうと思った。
 短編の「元禄色子」は短編集「仇討ち群像」(昭和四十四年・学習研究社刊)と自選傑作集「智謀の人」(昭和四十八年・立風書房刊)に収録されたことがあるが、この二冊ともに中編「大石内蔵助」が入っているので読んでみた。ここでは内蔵助が百姓女おやすの肉体に溺れたり、比丘尼びくにとよばれたあま姿の娼婦にのぼせてしまうエロチックな話になっている。それが吉良屋敷討入り直前のことで、そのころ十五歳の息子・主税ちからも相川幸之助という男色なんしょくを売る色子いろことホモ関係になっていて、そういった父と子との話が作者にとってはヴァリエーションになっている。そうして面白さでは「元禄色子」のほうが上であるが、池波正太郎作品集でも、いままでの六冊に、いろいろなヴァリエーションがあった。
 けれどいま書いたように笹又高之助は、あたらしい性格人物としての登場であって、そのせいかぼくには「火の国の城」や「戦国幻想曲」よりも面白かったんだろうと考えた。
むかし築地小劇場でメイスフィールドの「忠義」をみた記憶から
 八月一日にサンフランシスコのマーク・ホプキンス・ホテルに着くと、ここは格式があるホテルだが、どうも見晴らしのよくない二階の部屋にされたなと思いながら、すこしたってトランクをあけると「おれの足音」と参考資料を五冊なにはともあれ、机にもなる大きな台のうえに重ねて置いた。そうして引き出しをあけてみると、黒い装丁の聖書がはいっている。それを取り出すと押入れになっているドアをあけて、その棚のすみに放りあげた。
 五冊の参考資料は軽量なので持ってきた海音寺潮五郎の文庫版「赤穂義士」と大石慎三郎の「元禄時代」(岩波新書)と軽くするために表紙をはがして持ってきた林屋辰三郎ほか編集の「変革と情報―日本史のしくみ」と暉峻康隆の新著「元禄の演出者たち」(朝日選書)と雑誌「歴史と人物」に連載された南条範夫の「真説元禄太平記」の切抜きである。
 これらを東京でトランクにつめ込みながらふと考えたのは、池波正太郎の「おれの足音」を読んだあとで、なにもわざわざ参考資料にせかせかした気持ちで手を出す必要はないだろうということだった。そう考えさせたのは読者にとってもおんなじだろうと思うけれど、結果から単純に割り切ってしまうと、そこには歴史家と小説家との違いがあるからである。
 一例をあげると「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵で、ぼくはこの大石内蔵助を読みながら、ときどき鬼平の若いころの話を思い出しては、おかしくなってニヤリとしたが、こんなとき歴史家はイヤな顔をするにちがいないのだ。そうした例が実際にあって、それにはここで触れないが、そんなことからアメリカ人やイギリス人が出した「伝記の研究」とか「どんな方法で伝記を書いたらいいか」といった本が買ってあったので、そんなのを旅先に持ってきたほうがよかったな、と飛行機のなかで考えたものだった。けれどぼくにとって赤穂義士と大石内蔵助のことは、少年時代に知っていたことと四十年以上まえに見た芝居からの知識しかなかった。だから心細くなって上記の参考資料を持ってきたのである。
 東京を立つ前に、ほんのすこし書き出してあった。それで標題がさきにできてしまったので、いまさら変えるわけにはいかない。とにかく書き出してあったので、それをサンフランシスコのホテルで書き続ければいいと思って、いくらか安心していたのだった。そうして書き出しを一ヵ月以上たったいま読みなおしてみると、こんなことが書いてある。

 ぼくが大石内蔵助について知っていることといえば、この仕事をはじめるまでに、たった一つしかなかった。だから情けなくなって参考書を見つけるたびに買っておいた。そんなとき、そうそうもうひとつ知っていることがあったなと思い出したのが、少年時代のつまらないことだった。
 それは大正年間のはじめだったが、小学生のころ夏休みになると日本橋から友だちと一緒に、品川のお台場まで水泳の練習にときどき行ったことだった。当時の日本橋界隈の小学生たちは、みんな隅田川の両国橋の下で、犬っ搔きから始めて水泳をおぼえたが、平泳ぎができるようになると品川沖まで足がのばしたくなってくる。そんな日は帰りにすぐ電車には乗らずに、みんなで電車道をくたびれるまで歩いた。そうすると途中で泉岳寺のまえに出るから、そのとき堀部安兵衛などのことを得意になって話しはじめる生徒が一人いたのを、ぼくは思い出したのである。
 それからまたぼくの家の寺は両国の回向院えこういんだったので、法事で出かけるたびにお相撲さんの顔を見ることができるいっぽう、赤穂義士が泉岳寺まで歩いていったのは回向院で討入り後に休息しようとして断わられたからだということを、いつのまにか知っていた。こんなふうにもう記憶にはないけれど、また聞きで知っていることが割合いにあったし、誰でもそうなんではないだろうか。
 ただ一つだけ知っていることがあったと最初に書いたのは昭和四年一月のことだった。ぼくと姉といっしょに築地小劇場へ、小山内薫が訳したジョン・メイスフィールド作「忠義」を見に行っていて、その舞台の情景が三ヵ所だけハッキリと印象に残っているからである。それは第一幕で浅野内匠頭が舞台の下手で切腹するところで、顔を白く塗った友田恭助が刀を腹に刺し込んで上半身を前にのめらす演技がじつにいいと思った。
 この芝居は土方梅子の自伝を読んだとき、昭和三年十一月に死んだ小山内薫の追悼公演だったことを知ったが、それ以外のことにはふれていなかった。印象に残っている二つ目は第二幕で桜の花が満開の祇園茶屋の場となって幕あきから大石内蔵助が酔っぱらっているところだった。汐見洋の内蔵助が舞台のまんなかでフラフラ歩きながら何かしゃべっているときは、なんだか二日酔いみたいな印象を受けた。けれど汐見洋は背が高かったから、二枚目としての内蔵助なのであって、そばで姉が汐見洋はいいねえとつぶやいた。内蔵助がちっぽけな男だったということを、ぼくはすこしも知らなかったのである。
 ついで第三幕の討入りの夜の情景で、上手の物置き小屋から吉良上野介が引きずり出されるクライマックスの場面になるが、丸山定夫の吉良が這いつくばるような格好になるあたり、この俳優らしい大げさな演技だったが、それがぼくには面白かった。

 こんなイメージが「おれの足音」を読むまえからあったので、どうしてもここから書き出さなければならなかった。そうしたところサンフランシスコに着いた日から始まって、しだいにこのイメージが消えていくのに気がついたときは、あわててしまった。くだらない出発点だが、そのイメージが消えてしまえば、あとが書けなくなるからである。それで外出するときは、ショルダー・バッグに海音寺潮五郎の「赤穂義士」を入れていったが、いまその裏表紙を見ると、サンフランシスコのエリス・ストリート六二六番地に「アンチック・ワールド」という古道具屋があると書いてある。
 つい横道にそれたが店の番地と住所は、ここの主人が横文字で書いてくれたのであって、あいにく紙っ切れがなかったので、この文庫本の裏に書いてくれと言ったのである。そうして約束したとおり、そのエリス・ストリートのアンチック・ショップをやっと見付けたとき、むこうでは喜んだが、こっちではガッカリした。ガラクタだけしかなかったからである。困ったことになったなと思っていると大昔のハイフェッツのシェラック盤のレコードが二ドルで出てきたりし、そのあとで主人が引き出しのなかから変てこなものをいくつも出し、捨て値にしたのでいくつか買った。
 なぜこんなことを書いたかというと、サンフランシスコに着くなり、ぼくはニューヨークと比較しないではいられなくなったからである。ひと口にいうとニューヨークという都会には奥行きがあるが、サンフランシスコは悪くいえば薄っぺらな感じがする都会であった。ニューヨークでバスに乗っているとき、窓外に見える建物や町角は、それ自体が何かを語りかけてくるが、サンフランシスコの有名なケーブルカーに乗っていても、みんなおんなじ人間だといった感じがするし、ニューヨークのように刺激をあたえるものが、街のなかにほとんど何もなかったのである。だから毎日きまって、いったいなぜなんだろうというように比較のしどおしではじまり、ほかには何も考えないで一ヵ月をすごしてしまったのだった。
 そんなとき、じつに不思議な日本関係の本にぶつかり、そのなかに「忠臣蔵」の銅版画がはいっているのを見たときは、幽霊が出たんではないかと思ったほどビックリしたのである。
 その本の題名は「日本とイスラエルの失われた種族」JAPAN AND THE LOST TRIBES OF ISRAELとなっていて、著者はN・マクロードという人だが、どこで発行されたんだろうと思ってよく見ると、一八七九年・東京なので、とても不思議な気持になった。いくらするんだろう。百二十二ドルという古本値がついている。やっぱり高い本だなと思ったが、この百年前に出た銅版画がたくさん入っている本が、もっときれいに保存されていて、もしサンフランシスコの有名な古本屋ジョン・ハウェルにあったとしたら、神保町の一誠堂のガラス・ケースとおんなじようなのに飾られて、値段は三千ドル以上になっているにちがいないと想像した。
 余談になるが、ジョン・ハウェル書店の特別ガラス・ケースのなかに、ぼくが持っているシュルレアリスムの雑誌が飾ってあって、六十ドルの古本値なのでビックリしたのである。それはエール大学のフランス文学研究雑誌のシュルレアリスム特集号で、ぼくは三十年以上まえに東京の古本屋で五十銭で買ったのだった。ところがもっとおどろいたのは、この雑誌のそばにトリスタン・ツアラの大型で薄い本が置いてある。見たことのないツアラの本だった。
 参考のために記録しておくとTRISTAN TZARA: Le signe de vie, Bordas. 1945.でマチスのデッサン六点ほかオリジナル・リトが一枚はいっている。買う気はしなかったけれど、二百ドルぐらいかなと思って訊いてみると、若い女店員がケースから出したのをページをめくって見せた。千七百五十ドルだった。ぼくは何もいえなくなったので、六十ドルの雑誌のほうは、むかし東京で五十セントで買ったというと、意味ありげに微笑したあとで、一誠堂の主人がときどきに買いに来ると言った。
 ところで問題の日本で百年前に出版された銅版の本は、二年越しに顔なじみになっているニューヨーク四番街の古本屋「パジェント」の主人が見せてくれたのである。そういえばサンフランシスコのジョン・ハウェル書店では銅版画などのオリジナル・プリントをアンチックとして売っていて、それが全紙大だと二千ドル見当らしいが、「パジェント」古本屋でも一枚売りのエッチングがそれこそ山ほど、あっちこっちに置いてあって、いちばん値が張るものでも五ドルから七ドル半どまりであった。
 そんなことから「日本とイスラエルの失われた種族」に百二十二ドルという半端な値段がなぜついているかが分かった。この本は最初に著者の解説が数ページあって、あとはすベて八十五種類の日本人の手になるエッチングで構成されていて、その紙質をみるとイギリスから輸入されたものにちがいない。四六判の横開き式の造本だが、綴じ糸はなくなっていて一枚ずつバラバラになっていた。そうして八十五種類のエッチングは解説をのぞいた六十一ページのなかにおさまっている。つまりそれらの一枚を二ドルの値段で計算すると百二十二ドルということになるわけだし、とても正直な売り値だと思って感心した。
 この不思議な題名を見たとき、日本で誰かがユダヤ人と日本人とは先祖がおんなじだと言ったことをすぐ思い出した。それでこの本が幽霊みたいな気がしたのだが、話のキッカケにはいいと思って、「パジェント」の主人のヘンリー・シャフェツにその話をしてみると、こういう説明は主人のパートナーであるシドニー・ソロモンのほうが、ぼくみたいな日本人にはいつも分かりやすい英語でやってくれるのでうまい。シドニーが横から引き受けてくれて、まずシャガールのステンド・グラスの話から始めた。

 シャガールには十枚からなるステンド・グラスがあって、それにはイスラエルの初期のころ生存していた十種族が描いてあるが、そのうち八種類は消滅してしまい、どういうふうにしてそうなったかを調べる材料はなくなっている。二種類だけがいまのユダヤ人として生存を続けてきたというのである。それでいくらか分かってきたが、「忠臣蔵」の銅版画があるので「おれの足音」のあとがきに使える材料だと話したあとで買いたいといった。そうしたら京都のある金持ちに売れてしまったという返事なので、またビックリしたのである。けれどヘンリーは参考になるのなら、読んだあとで返せばいいと親切にいってくれたので「忠臣蔵」のところをゼロックスでコピーさせてもらうことにした。
 このゼロックス・コピーを見ただけでは、たいして不思議な気もしないだろうと思ったので、ぼくは勝手に原画を数枚コピーしとかないではいられなくなった。それらはイスラエルの失われた種族と大和民族とが、どんなぐあいに関係してくるかを証拠づけるものであって、著者のN・マクロードが日本に滞在中の十年間にわたる研究の成果だった。
 ①はイスラエル民族の紋章と皇室の紋章との類似関係をしめしている。②は太古パレスタインの墓石とおなじ格好のものが日本の天皇の墓石にも発見されたという証拠である。③で著者はソロモン王の派遣員がシバの女王から贈り物をされたときは、こんなありさまだったろうと想像している。④でもイスラエルの紋章とよく似たのが熊野神社で発見されたといい⑤は著者がさかんに比較する行列の構成のされかたで、これは慶応四年になっているが、原画のデリケートな味がつたえたくくなった。そうして⑥のような面白い説明図版がいくつもはいっているのだった。


 それから著者も言っているように、いくにんかの達者なアーティストに原画を見せてエッチングをつくってもらったが、なにぶん英語を知らなかったので、出来あがってみると、ちょいちょい間違っていたと断わり書きをつけているが、綴り字の誤りをながめているだけでもぼくには興味がつきなかった。そうしたところ「忠臣蔵」がはいっていたのでビックリしたというわけである。
 サンフランシスコで「おれの足音」を読み返そうとしているうちに、こんなことになってしまったが、ついでニューヨークの古本屋「パジェント」で見つけた本に、そこの主人もすっかり忘れていた一八三七年ロンドン発行の「肖像画のギャラリー」という厚い本が二冊あって、見ると第六巻と第七巻となっていたが、エッチングの肖像画が二十四枚ずつ入っていて数ページの伝記がついている。四十八ドルの付け値なのを三十ドルにまけてくれたが、この場合も銅版画を一枚一ドルで計算したわけだ。そうして第六巻の最初にサー・ウォルター・ローリーの伝記が出ているので、タバコを思い出しながら読んでみるとローリーの若いころのことは何も分かっていないと書いてある。それで大石内蔵助を連想することになった。
 そんなときまた別な新刊本屋で目についたのがサーラ・メイフィールド著「モナ・リザ――肖像画のなかの女」という本で、手にとると重い三五○ページの大型本で十ドルのが安本棚に入っていた。この著者はH・L・メンケンやスコット・フィッツジェラルドの伝記を最近書いて有名になったが、このモナ・リザはフィクションの伝記としてある。そうなってくるのは、リザ・ジョコンダが一五〇五年にフロレンスから姿を消したきり、生死のほども分からなくなったということや、レオナルド・ダ・ヴィンチが放浪生活に入ってからも持ち歩いていたモナ・リザの肖像画が、一五一九年五月二日にフランスのアンボワーズ城で、レオナルドが六十三歳の生涯をおえたとき、フランチェスコ・メルツィが遺産そのほかの処理にあたることになったから、モナ・リザの絵はしばらく彼の手元にあったにちがいないが、それからルーヴル美術館へ行ったルートがまったく分かっていないということなどがあるからだろう。ともかく「フィクションの伝記」だということで、ぼくはまた「おれの足音」に描かれた大石内蔵助の前半を思い出したのだった。
 また余談になるが若手の社会評論家マイケル・ハリングトンの自伝「世紀の断片」に、グリニッジ・ビレッジのいちばん活気があった一九五〇年代のことが書いてあるので買ったが、これには「社会的自伝」と副題がついている。彼が言うには自伝としてルソーみたいな告白録にする気なんかなかったし、といって日常生活をありのまま書いていくのも意味ない。ぼくが生きている時代をよりよく理解するために自分のことを書いた自伝的なものだと言っているので、なるほどと感心したのであった。
 だいたいサンフランシスコやニューヨークにいて、原稿まで書こうと欲張るのが間違っていて、一昨年も昨年も四ヶ月ずつニューヨークにいて、約束した原稿が一枚も書けなかった。その最大原因は毎日カタコトでアメリカ人と話し合っていると、長い間かかって覚えた英語とはちがっているので面白くない、そういった言い回しをいつも考えてばかりいるので、日本語で文章が書けなくなってしまうからだった。逆に言うと、アメリカ人に日本語を使われると、なんだか穴にはいりたい気持になるのとおんなじことなのである。
 こないだから机のうえにイギリスで出たポール・M・ケンダルの「伝記の技術」(一九六五年)が置きっ放しになっているので、インデックスをたよりにヘンリー・ジェイムズの箇所をめくってみると、最近やっと四冊目で完結したレオン・エデルの評伝にふれ、これはスーパーバイオグラフィだと言ってから、エデル自身の執筆中における信念を引用している。それはこうで、
「伝記作家は、自分にあるだけの想像力を発揮してもかまわないだろう。いや、そういった想像力にめぐまれているほど伝記はよくなっていく。これは材料をつなぎ合わせる想像力がどうかということであって、想像力で材料が生まれるのとは違っている」。
 これにたいするケンダル教授の意見も興味ぶかいが、それにはここで触れる必要はないし、ぼくが横から口をはさみたくなったのは、エデルにとっての想像力は、結果として、つまりフィクションの伝記ということになるんだろうということである。だからこそ「おれの足音」は読んでいて面白いのであって、そこに歴史家と小説家との違いがあるんだと言いたくなってくる。
碁盤割りの街だと殺人も時間割りどおりにやれるはずだ
 いい年をして十七年前まで京都を知らなかった男がいる。その年に京都の親戚の一人が最初に死んだ。翌年に二人目が死んだ。それで二度つづけて葬式に出かけ、二日か三日泊まって東京に帰ってくると、すぐまた京都へ行きたくなってくる。すると一年おいて三人目が死んだ。お寺は二つあって、一つは円山公園のてっぺんにあり、一つは四条通りを入った細い横町にあったけれど、その名前は覚えやすいのに、いくど聞かされても忘れてしまうのだった。安養寺だったかな。もう一つは新徳寺だったかな。
 こんなふうにして法事なども手伝ってくれながら、十七年前から急に繰りかえし京都ヘ行くようになったが、いいあんばいに残った親戚がみんな長生きしているので、このところは出かけないですんでいた。ぼくは有名なお寺にも、そこにある有名な庭にも興味がないせいか、七回目ぐらいで京都が飽きてしまったのだ。いつ行っても河原町あたりをぼんやりブラつきながら、東京にはなさそうなものを買ったり食べたりしているだけだから、親戚では笑って相手にしなくなっている。
 ぼくのほうでは、そんなとき、すきだったものが京都にはなくなっているじゃないかとか、碁盤割りの街だというけれど、ついニューヨークの街が頭にきて実際にはそれほどじゃない、地図で見た感じとは違っているなあと言いたくなってくる。けれど夜がふけて人通りもへった時間に、河原町のはじっこにあるホテルに戻ってくるとき、昼間とおんなじ通りを歩いているのに、なんだか距離がずっと長いような気がするのだった。歩道がまっすぐで両側の商店が看板をおろしたせいだろう。
 ついこないだ、そのホテルのロビーのまんなかにある平べったい黒革張りの大きなソファにかけて、五分間後にくる友人を待ちながら正面玄関を見ていた。そのとき気がついたのは、ガラス・ドアの向こうから入ってくるホテル客の歩きかたに二種類あって、左側のエレベーター口まで行く動作が違っている。入口から四歩まっすぐに歩いて直角に向きをかえ、五歩すすむと、また直角に向きをかえてエレベーター口まで一直線に行くのは外国人の客だが、入口を一歩はいると斜めに六歩すすみ、そこからエレベーターが見えるほうへ斜めに歩いて行くのは、東京からの客にちがいなかった。
 東京の人間は斜めに歩きやすい習性があって、そうなってしまったのは、東京の街のほとんどあらゆる地点、おまけに終着駅の大きな構内でもよく見かけるが、歩行者の目が向かう対象が斜めに位置しているのが多いからだ。そこへいくと京都生まれの人間は、碁盤割りの街になじんできたから、歩きかたの習性も直角的だと思うけれど、そう言い切るにはもっと観察しなければならない。
 正面ドアから姿をあらわすのを待っていた友人の名前は朝日新聞出版局の福原清憲といって、この作品集の仕事で親しくなったうえ、池波正太郎の作品を読破しているので、ぼくには不明なデテイルが生じるたびに教えてもらうのだった。二人は人出の多い河原町を歩きながら、どこから始めようかと相談したが、車道がタクシーのはげしい交通のため、歩道で話し合っても通じない。こんなことは東京でも経験していないなと思った。
 最初に見学したのは四条坊城に祇園社というお寺があって、そこが角になる細い横町をまんなか近くまで行った右側にある八木源之丞の邸宅だった。そのときぼくがなんて自分はバカなんだろうと思ったのは二度法事で行った親戚のお寺が左側にあって、それが新徳寺なのである。ここで清河八郎は浪士隊を前にして堂々たる裏切り演説をブッたのかと、すぐ思い出し、その日はどこの法事もないらしく寺門がとざしてあるので、ぼくは本堂の屋根瓦についている小猿の飾りを見上げただけで向きを変え、そうして八木邸の入口右側に「新選組遺跡」と彫った大型の石碑が立っているのに、はじめて気がついた。
 二度目の法事で新徳寺へ行ったときも、屋根瓦の上からこっちを見ている小猿に愛きょうがあって、とてもよく、これを書いているいまもこんな鬼瓦があるのかと思って、また見たくなるほどだが、その新徳寺の正面左手に壬生寺があって、その広い殺風景な境内で、かつて沖田総司が近所の子供たちと遊んだことなんかも知らないでいたのである。ぼくはこんな「近藤勇白書」の読者だった。

 十七年前の五十一歳のときまで京都を知らなかったのはいいとしても、こいつはひどいな。けれど池波正太郎のエッセイ集で「新選組異聞」(昭和四十七年六月・新人物往来社刊)という最近は古本屋でも見かけない面白い本をめくると、最初のエッセイは「色」を書いたときの打ち明け話であって『六年ほど前の夏まで、私は「新選組」を書こうという意欲があまりなかったといってよい』と言っている。ぼくも「近藤勇白書」にぶつかるまでは、ほかにもある長編小説の「新選組」を読む意欲があったかといえば、ほとんどなかったのだ。
 もっとも短編としてエピソードになった「新選組」の話はいくつか読んだことがあるが、印象に残ったのは、京都の寝静まった寒い夜の街で乱闘がはじまる光景ぐらいなもので、それを覚えているのも碁盤割りの街だから、描写の遠近法がきいて、ずっと向こうの人物まで浮き出してくるようになるからだった。そうして誰と誰とが斬り合っていたかは忘れて、すました顔をしていたのも、ただの小説として読んでいたからで、新選組だからという興味はぼくにはなかった。これは歴史の知識がとぼしいから歴史小説を読むのに乗り気がしないのとおなじことである。
 ところで池波正太郎のほうは少年のころから、子母沢寛の著作のおかげで新選組のイメージが頭のなかにできあがっていた。ぼくの場合でいえば少年のころに「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」を読み、ずっとあとで「明暗」まで読んだうえ参考書もすこし買ったので、夏目漱石のイメージがどうにかあるのと似たようなものだったろう。だからもうあんまり漱石のものを読む気がしなくなっている。池波さんは「新選組始末記」という子母沢寛の不滅の史伝などがあって、それ以上に足をふみ入れる余地はないと考えたりし、それで新選組を書こうという意欲があまりなかったそうだ。けれどそんなとき、なにか偶然のキッカケで気持ちが変ってしまうこともあるものなのである。
 そのキッカケというのは、じつは池波作品が生まれるほとんど全部のキッカケの一つのケースであって、また創作上の秘密でもあると、ぼくはその打ち明け話を読んだとき思ったので、本書にも収録された土方歳三が主人公の短編「色」の余談を引用しておきたくなった。
 池波正太郎の母方の祖父は今井教三といって、下総・多古一万二千石、松平勝行につかえた家老の三男に生まれた。その実家が維新後につぶれたので、そのとき少年だった教三は、江戸の御家人ごけにん今井義教よしのりの養子にもらわれた。けれどすぐ丁稚でっち奉公へ行かなければならない。養父は御家人だったが当時の浪人のように、傘張かさはりの内職でもしないと暮らすのに困るようになったからで、奉公先は浅草にあるかざり職人(金銀アクセサリー細工人)のところだった。そうして年をとると腕のいい錺職人になったが、そのころの話なのである。
 すぐそばの浅草・田原町に山口宗次郎という錺職人がいたが、この人は土方歳三の馬丁ばていの息子だった。馬丁だったから新選組の親分の一人だった土方歳三の秘密を知っていたんだろう。その秘密というのは『歳三の色女は、京都の大きな経師屋きょうじやの後家さんだった』ことで、この馬丁は「色」の最初に登場する山口平吉にあたるが、その息子の宗次郎が、おやじさんから聞いた話を相棒の今井教三に受け売りするときは『後家さんだったそうだよ』となってくる。とにかく新選組を知っている人には耳寄りな話だが、あまり知っている人がいなかった。
 それが四十年ほどたった夏のある日のこと、テレビを見ていた池波さんの母親の口から『土方って人の彼女は、京都の経師屋の未亡人だったんだってねえ』と何気なしに口から出たのである。びっくりして訊きだすと、おじいさんから聞いたんだよ、おじいさんは山宗さんから聞いたのさ、というわけでそれ以上は記憶をたぐり出せなくなっている。こういうことは誰にだってあるだろう。ここでぼくが興味をいだいたのは、上記の三つの会話の言葉じりが、肯定から半ば肯定へ、そうして肯定に近くなっていることだった。

 話を中途にして新選組の 屯所とんしょの一つだった八木邸の見学に移ると、こっちの勝手な用件をきいた三代目の老婦人は、ではお上がりなさい、このせつは見学をお断わりしているんですけれどと言ったあとで、中庭に面した昔のまんまの十畳部屋の戸をすっかり開けてくれた。そのとたん靴をまだぬいでないぼくは、あのわがまま放題の芹沢鴨せりざわかもが、なぜ第二の屯所でほかの連中といっしょに暮らすのがいやになったか、その気持ちがよく分かった。
 芹沢鴨という男は、こんないい家に住んだことがなかったのである。ぼくはそう断言しちゃおう。それに主人顔まですることができた。ぼくが立っている場所から見ると、植え込みのきれいな中庭が天井と畳とのあいだで長方角になって目に映る。十畳の手前に四畳と板敷きがあって、畳のほうも縦敷きにしてあるから奥深く見えるのだった。この家にくらべると、すぐそばの第二の屯所のほうは近藤勇向きなのである。当時の前川荘司の邸宅は隊士八十名以上が暮らせたのだから、第一の屯所より、ずっと広い。大きな門を入った右側とっつきが、下駄げたをぬいで上がる板の間になっていて、そこから、畳敷きの居間につながっている。この板の間は外出するとき、そこに下駄がなければ腰をおろすように低くしてあった。
 それを見たとき、ぼくは思わずうなってしまったのは、子供のころ似たような板の間に腰をおろし、そこに下駄がないと板の間のしたの戸を右か左に開け、手さぐりで自分の下駄を出して遊びにいった記憶が突然ぶり返してきたからである。こんな下駄入れは東京中のどこにも、いまはもうないだろう。そうしてこの新選組がつかった下駄入れは、たまには自分の下駄をつっ込んだかもしれないが、たいていきまって多勢の下駄が乱雑にぬぎっぱなしになっていたことだろうと想像した。
 この大きな邸宅は田野製袋所になっているが、気さくな女主人に案内されて、古高俊太郎を拷問した土蔵にはいったときである。左側についた階段の側面が見るからに厚い板張りになっていて、手をのばせば届くあたりに大きな引き出しがついていた。引き出し付の階段なんて見たこともなかったので、ぼくはそれが気に入ってしまい、そうするとうえまで上がってみたくなった。
 その足場はゆったりしていて十段ほどあり、上がったところは踊場おどりばを広くしたような床になっていて、まんなかの空間には、かなり太いナワが淡灰色をしてブラさがっている。そのときぼくは妄想を起こした。太いナワは滑車仕掛けで米俵みたいな重いものを吊し上げたのだろう。このナワで古高俊太郎は逆吊りにされたのだが、天井まではすこし距離がありすぎるのだ。
 どのくらいの高さまで吊り上げたのだろう。ぼくは頭が床から五、六寸くらい離れる程度にしてゴツンゴツンと何回もぶつけてみたが、それでも最初のあいだ古高は白状しなかったんだと推理した。その長いナワがグルグルとうまく巻いて結んであって、その先端だけがすこし垂れている。その恰好がとてもいい。もしぼくが錺職人だったら、とっくの昔に銀製のペンダントにしていただろう。
 思い出すと浅草の吉原は広かったが、それくらいに広いのが島原遊郭だった。はしゃぐのが好きで酔うと無茶になる芹沢鴨には、大きな構えの角屋がお誂え向きだったなと思ったりし、一回りして福原さんと食事しているとき、あすこまで壬生の屯所から一本道でしょう、池波さんから聞いたんだけれど、ブラブラ歩いて二十分間で行けたそうですよ、と話してくれた。
 それから河原町まで引っ返して三条小橋のたもとに立ったとき、十時になっていた。夜気ですこし寒い。これも池波さんに聞いたんですがと言って、また福原さんが説明してくれた。やや斜め向こうに池田屋があって、十七年前は修学旅行の中学生たちにいい旅館だったことは、ぼくも覚えている。それが変容して食べ物ビルになった。それはともかく池田屋騒動の晩の十時だったが、それまでしばらく近藤勇たちが、川っぷちの植え込みの前にしゃがんで、そーっと形勢をうかがっていると、池田屋の前でスパイの山崎すすむが合図の提灯ちょうちんをふったのだった。
 そのときの光景が不思議なくらいクッキリと目のまえに浮かび上ってくる。それでぼくはサルトルがニューヨークへはじめて行ったときの印象をどう語ったかを思い出した。ニューヨークのような碁盤割りの街だと、秘密は筒抜けになってしまうと言ったのである。これは京都の街についても言えることだ。芹沢鴨がいた屯所から島原遊郭までは一本道だから、二十分で歩いていける。近藤勇たちの屯所から先斗ぼんと町の町会所への道筋はどこも直角に通りが折れている。それで池田屋騒動の日は、隊士たちが朝から二、三人ずつ遊郭がよいの着流しでボツボツと町会所にあつまったが、そうでもしないと秘密がバレてしまうからであった。
 こうして曲り角に来たときの時間を測っておけばよかったと思ったが、碁盤割りの街だと陰謀などが時間割りどおりにやれるはずだと考えた。この池田屋騒動の日は襲撃時刻が夜の八時の時間割りになっていたが、守護職や所司代の応援藩士たちの出動がすっかり遅れたので、血気にはやった原田佐之助は川っぷちの植え込みの陰でイライラしどおしだった。

 この原田佐之助にまつわるユーモラスなエピソードを活かしたのが「ごろんぼ佐之助」で、作者の新選組に取材した第二作にあたり、そのつぎが永倉新八を主人公にした長編「幕末新選組」となって、そのつぎの第四作が「近藤勇白書」である。最初の「色」を書いたとき師匠の長谷川伸から『ちょいと変ったね』と褒められたそうだ。
「近藤勇白書」の最初のほう小石川の柳町にある道場「試衛館」のころだが、勇にたいする女房つねのひそかな軽蔑心が急に尊敬心から愛情へと変化していくあたり、ユーモアがあってとても面白いが、これは「色」と「ごろんぼ佐之助」からの発展だ。そうして新選組の物語で近藤勇の女房が登場するのは、この作品がはじめてなのである。
 それから「賊将」は日本最初の陸軍少将になった桐野利秋が、こう改名する以前の中村半次郎を主軸にし、これが長編「人斬り半次郎」へと発展した。最後の短編「剣客山田又蔵従軍」は長編「その男」へと発展していくのだが、題名のその男とはいったい誰のことなんだろう。よく「コンポジット・キャラクター」(合成人物)という言葉が文学用語として使われるが、山田又蔵が杉虎之助という半実在的人物になったり、中村半次郎が桐野利秋となったとき、杉虎之助はやっぱり山田又蔵じゃないかというふうになる。ぼくは、「その男」を読んだとき長谷川伸のセリフもどきに『またちょいと変りましたね』と言いたくなった。
作者が読者に「そのとき」と呼びかけて場面転換すると
 四年前になるが「にっぽん怪盗伝」を読みながら面白くなって、一つ読み終わるともう一つ読みたくなり、ある朝のことだったが目がさめると電気がつけっぱなしになっていたのが、ついこないだのような気がしてくる。その四年前だが「にっぽん怪盗伝」が角川文庫で出たとき、ぼくはごく短いものだが解説を書いたのだった。
 だからこの短編集「にっぽん怪盗伝」の十二篇は、まだよく覚えているはずなので、あとまわしにして、こんどのえり抜き十一篇から読みだしたのは当り前な順序だった。そしてこっちの全部を読み終わったあとの印象はというと、「にっぽん怪盗伝」よりも面白かったような気がしてくる。そんな気持ちでもって四年ぶりに、あとの十二篇を読みなおしはじめたのだった。
 そうしたところ、あと二週間すれば六十九歳になるという男の記憶力というやつは、まったくダメだということになった。どうしてこんなにキレイに忘れてしまったんだろう。いちばん面白かった「鬼坊主の女」は半分くらいおぼえていたが、二番目にした「金太郎蕎麦」は読みだしたとき、不思議なことには、はじめて接した作品みたいな気がしたのである。そのときぼくはフェリーニの映画「8½」を二度見たときの驚きを思い出した。
 最初に見たときはスクリーンを見つめたまま、うなりどおしだったし、いい映画を見るときの習慣で、とがったエンピツをにぎった手先が自動的にうごいていって、場面のこまかい変化をちいさなノートブックにメモしているのだった。フェリーニ作品のなかでもこれは、目をうばうような美しさで瞬間に消えてしまうといった短いショットが無数にあって、それをメモするのは大変な仕事だったのである。
 そのメモ帖を帰ると取り出して、最初から最後までイメージを思い浮かべていく。いい映画のときは、そうしないと気がすまないのであった。
 十日目あたりに「8½」がまた見たくなった。驚いたのはこのときで、こないだ見たばかりなのに、おや、こんなショットがあったかなあと思うようなのが繰り返し出てきたからである。その原因はつまり、素晴らしいなと思ったショットについで、もっと素晴らしいショットが出てきたからで、そんなときは先行したショットの力が弱まってくるのだ。メモを見てもハッキリと思い出せないのがあるのも、おんなじ理由からだった。
 こういったことを小説の場合で考えてみると、いちばん忘れやすいのは探偵小説なのである。面白いなあと思った探偵小説でも、すこしたって思い出そうとすると、頭に残っているのはほんのちょっぴりしかない。一例をあげるとアガサ・クリスティーの「象は忘れない」があって、これは晩年の傑作である。ある仲のいい夫婦が海に面した崖の上のせまい場所で、向い合ったまま心中していて、二人のあいだにピストルが落ちていた。いったい夫がさきに発砲したのか、それとも妻のほうだったかという謎が設定され、それにはオリジナリティがあって素晴らしかったし、その解決にも文句はつけられなかった。けれどその間のこまごました出来事は、もういちど読まなければ思い出せなくなっている。
 だいたい探偵小説は、その作りかたとして、ある発端を頭に浮かべた作者が、こいつはイケると考えると、ついで解決としてのショックを工夫する。そうして最後のほうから逆に筋のお膳立てをしたうえで執筆開始というのが本格派ミステリーの常套手段だった。それはいいけれど書きながら、人間関係を突っ込んでハッキリさせると犯人が分かってしまうことに気がつく。だからそこをオミットして事件を進行させなければならない。黄金時代の本格派ミステリーの弱点はここにあった。
 この弱点は人間がえがかれていないということにある。そうして探偵小説を面白く読み終わったあとで、やがて筋をキレイに忘れてしまうのは、こんなところに原因があるわけだ。ぼくはそう考えている。

 ここで「日本怪盗伝」の短編がそれぞれどんなものだったか、その大部分を忘れていたのに驚いたので、なぜなんだろうと、もういちど考えてみると、作者はなんども打ち明けたことだが、発端が頭に浮かんだとき、先の先まで考えないで書きはじめるのが癖で、いつもそんなふうにして事件は進行していく。だから探偵小説の手法だとすると、あとで忘れてしまうという理由が適用できない。いっぽう発端といっても、やたらに浮かんでくるんだろうとぼくたちが想像したら間違っている。たとえばこんど長編になる「雲竜剣」までで「鬼平犯科帳」は百篇になるが、毎回の発端にはじつに苦労のしつづけだったと、これもよく打ち明けていることだ。けれど発端のあとでは登場人物の気持ちになってしまうので、うまいぐあいにスラスラといく。そう読んでいて感じさせるが、これも探偵小説でつい人間性が無視されてしまうのとは違っている。
 ぼくの記憶力がおとろえたのは、さしあたり別問題にして、ではなぜ忘れたんだろうか。「鬼坊主の女」は半分くらいおぼえていて、忘れていたのは前半だった。そうするとこんどはフェリーニの「8½」のつくられかたが、間接的に適用できると思うのは、後半の面白さより前半の面白さの力のほうが、弱かったということになる。そういえば「鬼平犯科帳」を読んだとき、サスペンスの起伏のありかたをグラフにしてみたが、そのパターンを見ると前半の起伏状態より後半のほうが、緊張した感じの起伏状態になっているのだった。
 こんなふうに考えていったのは「にっぽん怪盗伝」を読み終わりかけたときであって、おや一番いいのは最後の「さざ浪伝兵衛」じゃあないかなと思い、そうすると角川文庫の解説で「鬼坊主の女」がいちばん面白かったと書いたのと違ってくる。もっとも「一番いい」と「いちばん面白い」とでは感じ取りかたのニュアンスが違ってくるけれど、とにかく気になったので自分の解説をイヤだが読みなおしてみた。そうしたら自分のものを批評したくなったので、適当に引用してみよう。

 新宿に出るあいだ小田急線の電車のなかで(註――四年まえのいまごろの季節だったが)「鬼坊主の女」のところを読んでいた。この本をゆうべ読みだしたら面白くなって、ほかになんにもしていない。文化二年ころの江戸には、こんな泥棒もいたんだな。ずうっとあとで自分が伝説的な大泥棒だったと思われるように、死ぬまえに決め手を打っておきたい。死ぬのは六月二十七日だ。その日に辞世の句を声高らかに、引っ立てられていく馬上で読みあげてやろう。見物人からはワーッと喚声が起こるのが、目に見えるようだ。伝馬町の牢屋でそんな空想にふけっている鬼坊主清吉は、死ぬ日が待ちどおしくなってくる。
 ヴィクトリア朝のロンドンでも暗黒社会では、似たようなユーモアを考えてよろこぶ悪漢たちがいたことだろう。(後記――くだらないことを書いたなあ)。十九世紀フランスのパリ暗黒社会になると、悪漢のイメージは貴族的になるが、マルセル・カルネの映画「天井桟敷の人々」で、性格俳優マルセル・エランがふんした剣客で悪漢のラスティニヤックの冷酷な表情が浮かび上がってくる。バルザックの「幻滅」などにも登場する暗黒社会のヒーローで、親分のヴォートランがルバンプレとともにもっとも頼みにした子分だった。
 このヴォートランはバルザックの創造人物だが、当時のパリ警察署長として有名なヴィドックがモデルで、ヴォートランはルバンプレが死んだあとでパリ秘密警察の親分に変身してしまうのである。ふとぼくは鬼平こと長谷川平蔵が実在の人物であることを思い出した。この短編集の最初の二篇では、池波正太郎のおかげで有名になった長谷川平蔵が登場するが、まだ鬼平と呼ばれるまでにはなっていないのが興味をひく。
 いっぽう鬼坊主清吉は(後記――しつこいなあ)辞世の句を誰かに注文してつくってもらうために、秘密の埋蔵金のことまで明かしてしまい、そこからサスペンスについで殺人となるあたり、ヒッチコックがユーモアとスリルを背中合わせにして演出する手法とよく似ているなと思いながら感心した。
 そうして帰宅すると、つづけて「金太郎蕎麦」以下の四篇を読みあげてから、最初の「江戸怪盗記」から思い出してみると、ぼくには「鬼坊主の女」と「金太郎蕎麦」がいちばん面白かった。このあとで出版された短編集には「仇討ち群像」「夢中男」「闇は知っている」「敵討ち」(註――あとの十一篇のうちこの四冊から六篇がセレクトされた)があり、「鬼平犯科帳」も四冊の単行本(註――このあと出版されたのが五冊)になった。
 いま週刊誌に連載中の「雲霧仁左衛門」は「熊五郎の顔」が構想をかえて発展している。「正月四日の客」は鬼平犯科帳のスリルにとんだ簡潔な文章でいく語り口の出発点といっていい作品だった。

 きみの解説を読んだあとで、「鬼坊主の女」を読んだら面白かったよと言った友人が一人いたけれど、いまのところぼくが「一番いい」と思っているのは「さざ浪伝兵衛」なのである。これは国光くにみつの名刀にまつわる因縁話で、伏線の張りかたがうまい。ぼくは伏線の設置がその効果をあらわしたとき、ははあと思うけれど、あまりいい気持ちにはなれない読者である。なるほどと思ったとき、どうだいという声が、どこからとなくして、こっちは頭が悪いぞと思うからだ。よく探偵小説ファンが途中で犯人は分かっちゃったと言ってニヤリとするが、それは伏線の張りかたがマズかったということになる。そうしてニヤリとされたぼくのほうでは、最後まで犯人が分からなかったものだから、頭がわるいぞと言われたような気がする。
 そんなこともあって解説を書くため、大体の筋がわかったとき、「一番いい」とさっきもいった最後のシークェンスを走り読みしたんだろう。その最後のシークェンスというのは、尾行につぐ殺人、そうして富士川の上流の場面である。女を買ったあとで伝兵衛は身の危険も忘れ、口笛を吹きながら山道を歩いているが、乞食の綱六が尾行していた。その綱六が締め殺される。伝兵衛は死体を木立のなかへ引きずり込んで隠したが、その夜から豪雨になった。
 夜明けごろ富士川の濁流に沿って歩いている伝兵衛は、追手が迫ってるのに気がつかない。泳ぎがすきな男だった。それで「さざ浪」と名のったことが、ここで分かってくるが、下帯したおび一つになり、ほかのものは頭のうえに乗せて川を渡ろうとしたとき、大勢の追手が近づくのを見た。
「しまった‼」
 こう叫んでから、川を泳いで逃げようとする伝兵衛が、むかし殺した伊之助の亡霊が、自分の足をつかんでいるのを見て、恐怖にすくみあがるクライマックスの場面になる。
「シークェンス」という術語は現代文学では詩歌のほかは、ほとんど使われていないようだし、映画用語として幅を利かせているが、以上のような場面のつながりを書きながら、そのイメージが右から左へと動いてゆき、流れるように重なっていくせいか、ぼくはゴダールの映画「気狂いピエロ」のシークェンスを思い出した。
「にっぽん怪盗伝」よりも、そのあとで書かれた十一篇の全体から受けた印象が、もっと面白かったと最初のところで書いたのは、ことによるとこういったシークェンスのせいではないかと、いま考えている。その一つの理由として、追手が殺到してくるのを見た伝兵衛が「しまった‼」と口走ったとき、それは主観的な叫びであって、つぎの場面と直結しているが、この瞬間を客観的な立場から眺めると「そのとき」というふうに読者に呼びかける呼吸になってくる。「鬼平犯科帳」にこの場合がよく出てきたが、ここではどうかと思って「梅雨の湯豆腐」からページを早いスピードでめくっていくと、二つめの「おみよは見た」でピッタリした例とは言えないが、つぎのような場面が出てきた。
 青堀の小平次が二十五両で、〈殺し〉を引き受け、お八重を殺したのを目撃したおみよを、殺害現場の近くの蕎麦屋で女中になっているのを発見した。そこがこう書いてある。おみよが注文した蕎麦をはこんできたときだ。

 小平次の、驚愕から茫然となった表情が、急に険悪なものに変りかけた。
 変りかけた、そのとき
 おみよが、にっと笑ったものである。
 悪意のない、無言の笑いであった。

 こうして小平次の殺意は、いったん消え失せるのだが、ついで場面転換すると、「殺し屋」の小平次には皮肉な運命が待ち構えている。似たような運命が「梅雨の湯豆腐」でも「殺し屋」の彦次郎にも待ち構えているのだった。そうして興味ぶかいのは、この二作が書かれたころは、「仕掛人」という作者の新造語がまだ使ってないし、仕掛人・藤枝梅安の構想が浮かんだのは「梅雨の湯豆腐」という土台があったからだった。
 ついでエロチックでユーモアがそれと背中合わせになったりする「あほうがらす」と「あいびき」と「白痴こけ」の三篇を読んだあとで、「お千代」と「狐の嫁入り」になったとき、あと四篇あるけれど、いままで読んだ池波正太郎の世界とちがって、ファンタスチックでもあり、フォークロア的でもあり、そうして怖かったりするので、ぼくとしては、この二つがいちばん気に入ってしまうのである。
 けれどそう思って油断することはできない。「にっぽん怪盗伝」のとき油断してミスをやったからだ。いっぽうここまでの七篇を読んだとき、この短編集のセレクトのしかたが頭がいいので感心したのだった。
 その頭のよさがどんなところにあるかというと、よく昔から言われた「一つのテーマのヴァリエーション」という連想遊戯を作者と読者とのあいだに立って自然にやらせるようにしたことなのである。「お千代」と「狐の嫁入り」とは相互に引き立てるヴァリエーションといっていいだろう。すると「恋文」にヴァリエーションはあるんだろうか。それは「間違いのテーマ」のヴァリエーションということになるし、さっきの「おみよは見た」がそうだった。
「激情」は心理的スリラー、「情炎」は三歳の少女の記憶が中心になった敵討ちの心理スリラー、「興奮」は「情炎」とおなじく「仇討ち無残」と副題された自選傑作集「あばた又十郎」(昭和四十八年・立風書房刊)に収録されていた。この副題にしても言い換えれば、「一つのテーマのヴァリエーション」ということになるが、ぼくはあとの言いかたのほうが自由な読書ができるし、そこに池波正太郎の魅力があるのだと、いまごろになって気がつくようになった。
サンフランシスコとニューヨークで映画や芝居を見ながら
 ニューヨークに来てからは、抜き刷りにして出版局が渡してくれた池波正太郎の戯曲を、二編はいつもショルダー・バッグにカメラといっしょにいれて街のなかを歩いていた。そうすると気持ちが落ちつくからだ。といってニューヨークでは落ちついて本が読めるような喫茶店はない。それが分かっていても持って歩いていた。
 こっちに来るまえに佐藤隆介著「池波正太郎の芝居の本」は読んでいた。ぼくが見た池波正太郎の芝居は、この三年間に四回だけ、そのあいだに辰巳柳太郎の大のファンになってしまったが、上記のインサイド・レポートを読んでいるとき、池波さんの演出中に辰巳がゴテるあたり、とりわけ面白かった。そのときぼくは芝居の世界で仲がよすぎるとゴテりたくなるんだろうと思った。
 サンフランシスコにいたとき、ロサンゼルス・タイムズの演劇欄で、ハイム・トポルというユダヤ俳優の演技をめちゃめちゃに褒めている記事にぶつかった。それはマルセル・パニョルの昔の映画で彼自身が名優レーミュを主役にして監督した「パン屋の女房」というのがあって、日本では上映されなかったが、これをミュージカルにしたものである。プロデューサーは、ぼくはきらいなデイビッド・メリックだった。
 サンフランシスコのダウンタウンで夜になるとギアリー・ストリートを中心にしてにぎやかになる。その通りの「シビック・ライト・オペラ」で「パン屋の女房」The Baker's Wifeを上演していて、ぼくのホテルはすぐそばのポスト・ストリートにあったから、ちょっと歩けば行けた。
「パン屋の女房」の歌詞・作曲はスティヴン・シュワルツ、装置はジョー・ミールツィナー、演出はジョゼフ・ハーディでいかにも興行師デイビッド・メリックごのみのポピュラー・ミュージカルだったが、ある町に女房を連れてやってきたパン屋になるトポルが二回やってみせるセリフなしの一人芝居ときたら、めちゃめちゃに褒められたのも当り前だと思うほどだった。舞台は左右が逆方向に回転する二つの廻り舞台が並んでいて、下手(しもて)がトポルが旅装をといたパン屋、上手(かみて)が町の人たちが集まるカフェになったり、普通の家の居間になったりする。
 パントマイムにちかい一人芝居で十五分くらい続く第一回目は、町の人たちに歓迎されたトポルが、その晩、パン粉をねるところから始め、オーブンにいれて蓋(ふた)をするまでを、アッケにとられるほど面白い身振りでやってのける。笑うのがすきなアメリカ人もシーンとなってしまい、そのあとで爆笑させる演技は、まったく見事なものだった。
 もうすこし続けてやってみせてくれないかと思ううちに、暗転でグルリと装置が回わると朝になっていて、パン屋の店頭には焼き立てのパンがいっぱい置いてある。その瞬間、観客はみんなカタルシス状態になったことだろう。

 二回目の一人芝居は、これを逆にやってみせる同じパンづくりの手順であって、観客への感情移入のありかたも逆の効果をあたえ、カタルシスではなくサスペンスになってくる。というのは可愛い女房が、町の若い運転手にほれて駆け落ちしてしまったのだった。ヤケになってブドウ酒ばかり飲んでいるトポルは、パンをつくる気にもなれない。一匹の猫を相手に女房にたいするグチばかりこぼす始末だった。
 そんな気持ちのパンづくりの名人が、さて腰をあげて夜おそくパンをつくり始めると、最初から終りまで、手もとが狂ってしまうのである。その連続はスラップスティックのスタイルになるが、サイレント映画のころのスラップスティックとはちがって、おかしくなると同時にトポルが可哀想になってしまうのだった。そうして第一幕と同じ暗転でグルリと装置が回わり、朝になって店頭を見ると、出来そこないのパンが二つか三つしか置いてない。町の人たちはトポルのことを心配しはじめる。いつ女房は帰ってくるんだろう。それがこの典型的メロドラマのサスペンスになってくるのである。
 ぼくはひさしぶりに廻り舞台の魅力に引き付けられ、池波正太郎が殺人の場面を廻り舞台にして、サスペンスと迫力にとんだクライマックスにしたのを思い出した。この二つの場合だけを比較してみると、アメリカの廻り舞台はスムースに回転するので重量感がない。俳優のほうでは舞台が回転するのにまかせ、自分は突っ立ったままでいる。日本の俳優は舞台が回転しはじめると自分はその上に乗りながら、その装置をもっと活かしてみせるようなアクションの工夫をしてみせるのだった。それは日本のほうが、この技術では伝統が古いからだろう。

 それは別としてニューヨークに来てから新聞の演劇欄に目をとおしていると、トポルがゴテはじめているのだった。プロデューサーというよりも興行師のメリックは、この暮れにブロードウェイで「パン屋の女房」を上演するため台本を書き直させたのである。その台本がくだらないのでトポルはやる気がしなくなった。メリックのほうではトポルがさっぱり台詞をおぼえないと言い、だからおろすことにしたと記者に語った。かわりの俳優もきまったようだが、あのパン屋をやってトポルくらいに観客をわかせられる俳優がいるんだろうか。そう思うとぼくはデイビッド・メリックがますますキライになった。
 一休みしてタバコをすいながら約百年前から五十年間にわたるニューヨークの芝居の写真帖を見ている。つい最近ドーヴァ出版社から出た新刊で、この出版社の本はたいてい丸善にはいってくるが、目の前にあるのを見ると買わないではいられなくなる。スタンリー・アペルバウムが編集した「ニューヨークの舞台」The NEW YORK STAGE, 1883―1939という大型のペーパーバックで、写真は一四八枚の全部がニューヨーク市立博物館の所蔵のものだが、その原写真はかなり大きなものらしく、複写からでも舞台が生きいきと再現されているようなので感心した。
 なかでも有名なのが、ノーマン・ベル・ゲデスの「デッド・エンド」の装置で、ぼくたちは映画でこの芝居を知っているから、イースト・リヴァーの波止場の装置を見ていると、この初演を見たニューヨークの人たちが、どんなに感心したかが分かってくる。面白くなって、あっちこっちをめくりながら、おやこれは何だろうと思ったのがベラスコの芝居「神々の寵児」で一九〇二年の暮れに初演され、ロングランをうった日本物だった。ジョージ・アーリスが扮した大名の酒宴の場であるが、さまざまな衣裳をした三十人ほどの登場人物が、いま見ると骨董品の人形みたいなので、いくら見ていても飽きない。
 おなじように、その前をいくど通っても飽きないで見とれてしまうのが、リンカーン・センターの入口に吹流しであるため風にハタハタとする新演出「三文オペラ」の広告で、メッキー・メッサーの顔をポール・デイビスが描いたのが素晴らしい。それを見るたびに、毎日のように早く芝居そのものが見たいなと思ったのは、ニューヨーク映画祭があって通いつめていたからだった。
 映画といえばサンフランシスコにいたときだが、ニューヨークに来る前日の八月三十一日に、ポーク・ストリートの映画館でイタリアの女流監督リナ・ウェルトミュラーの「男について語ろう」が封切られ、見ないではいられなくなった。「リージェンシー2」という映画館で上映していて、その入口には切符売場がなく、せまい梯子段みたいな空間にエレベーターだけが動いていた。それに乗ったら二階に出たが、そこがロビーになっていて、上がったところが受付けみたいな切符売場であり、そこに立ったとき、三角形みたいな空間に見えたのである。そのへんがじつに説明しにくいが、ビックリしたのは紫色のジュータンがきれいなことで、これも説明しにくいが、大柄のシャレた模様がはいっているあたり、どこかの一流料理店にでもやってきたような気がした。生まれて以来こんなにも粋な映画館にはいったことはない。いったい反対側のブロックにある「リージェンシー1」のほうはどんな設計になっているんだろう。ことによると、おんなじかもしれない。
 それが知りたくて映画が終わるとロビーにある売店のボーイに向って、こんなに気にいった映画館はない、「リージェンシー1」のほうもおんなじふうなのかと訊いてみると、ニコニコしながら似ているけれどすこし違っていると答え、ここがいちばん高級な映画館ですと付けたしたのである。
「男について語ろう」はリナ・ウェルトミュラーの五年ほどまえの作品であるせいか、それほどの出来ではなかったが、最近作の「セブン・ビューティズ」と「スエプト・アウェイ」くらいニューヨークの映画ファンに衝撃をあたえた作品はないだろう、とぼくは考えている。いまでも見たければ、どこかの映画館でやっているが、女の監督が男の監督でもカブトをぬぐほどのエネルギーと粘りづよさで、そのうえオリジナリティにとんだ作品をつくったことは、いままで絶対になかったので評判になった。
 サンフランシスコで見た二十本ほどの映画のなかでは「セブン・ビューティズ」がずば抜けていた。ニューヨークで見た三十本ほどの映画のなかでは、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが監督した西独映画「恐怖の恐怖」がもっとも魅力があった。主役の女優マルギット・カルステンセンの顔をこんなに美しく撮影した映画は、グレタ・ガルボなど黄金時代のハリウッド映画にもなかった。その色彩効果は普通の場合とはまったく逆でパステルの色にちかいが、その色は二、三日もすると、すっかり消えてしまうのではないだろうかと思わせるほど薄いトーンになっていて、女優のクローズ・アップの顔になったとき、あまりにもきれいなので、それがこの心理的スリラーの恐怖的要素となって、ヒッチコック映画にもない新しい映画的次元を生んでいるのでうなった。
 このニューヨーク映画祭は十九本の作品を十四日間にわたって上映したが、リンカーン・センターのアリス・タリー・ホールで前売開始をすると、初日に五ドルの席をのぞいて全部売り切れになり、二日目の朝に行ったときはまだ五ドルのは残っていたが、それも二日後には売り切れたそうだ。そういえばサンフランシスコで「パン屋の女房」をやっている劇場の前を朝はやく通りすぎたある日のこと、次回公演のオール黒人ミュージカル「ウィズ」の前売切符を買うため、若い男女が長い行列をつくり、午後五時ごろまでその行列が途切れなかった。ぼくはニューヨーク映画祭にせっせと通いつめたが、いつも満員だったので、そのため気が張りつめていたんだろう。アメリカの出品作品は、短編をのぞくと全部ダメだったので途中で気が抜けた映画祭になったが、それでも最後まで付き合ったのはアメリカ的環境のせいにちがいない。
 たしかにアメリカ的環境のせいで、ぼくの日常生活も変ってくる。朝起きて本捜しを始めると面白いから、五時ごろまで本屋にいることが多く、それからホテルで一休みすると四十分はバスでかかるリンカーン・センターに行き、そんなあいだに池波正太郎の戯曲を読んでいるが、環境変化でなかなかはかどらない。そうするうちに十一月八日になると記録破りの寒さになった。三十五年前の十一月八日に三十度に気温がさがり、これが同日の最寒記録になっていたが、二十七度になっている。ちょうど摂氏零度だ。
 たいていは五時すぎまでいる古本屋の「パジェント」で、芝居の原稿を送るデッドラインになってしまったと言うと、同情したのか薄い本を一冊くれたので、何だろうと思ったら、だいぶ以前に日本で出た英文のツーリスト・ライブラリーにはいっている「ジャパニーズ・ドラマ」だった。おかしくなったけれど、この双書では割合いに手にはいらない一冊だし、そんな本がニューヨークの古本屋にあるのに気がついたときは、なんだか不思議な気持ちになるものである。

 ここまで書いたとき腕時計をみると夜中の三時になっていて、寒いなと思ったら二時から暖房を止めているのであった。また池波正太郎の戯曲が読みなおせなくなったなと思ったとき、急にあしたの夜中はどうしよう、やっぱりイヨネスコの顔を見に行くのは断念したほうがいいかもしれない。そう考えたのは十丁目にある「アート・シアター」という映画館で、イヨネスコの自作シナリオで彼が主演している映画が真夜中十二時からたった一回映写されただけで本国へ返されてしまい、その上映後にはニューヨークに来ているイヨネスコがステージにあらわれ、みんなの質問におうじるというのだ。とても見たいが夜中の二時ごろ映画館から出たとき、はたしてタクシーがつかまえられるだろうか。そのうえあしたの晩から雪が降りはじめるかもしれないから。
 それはともかく、あしたの朝この原稿を投函しなければ、ほんとうに間に合わなくなってくる。出版局では、いつか十回分をまとめ、ほかの原稿といっしょに一冊の本にしてあげようと東京をたつまえに、ぼくに言ってくれた。ほかにも書きたい材料をいくつもニューヨークで見つけたから、いままでの十回だけでやめずに、ずうっと続けてみよう。そう考えながらあしたは早く起きて郵便局まで行くことにした。

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