もくじ

鬼平通りを十八種類のグラフにしてみた

歩いたり電車に乗ったりして

中学校の教室から解放されて

天下の形勢をよく見て行動しろと頼山陽は言った

一つの円からもっと大きな円が生まれるだろう

笹又高之助というアンチ・ヒーローは西部劇の悪役みたいだ

むかし築地小劇場でメイスフィールドの「忠義」をみた記憶から

碁盤割りの街だと殺人も時間割りどおりにやれるはずだ

作者が読者に「そのとき......」と呼びかけて場面転換すると

サンフランシスコとニューヨークで映画や芝居を見ながら

植草甚一

1908年東京生まれ。早稲田大学建築家中退。映画、ジャズ、外国文学、ミステリ、中間小説など、巾広いジャンルにわたるエッセイを書き、多くのファンに親しまれる。1979年没。

鬼平 対 甚一

植草甚一
鬼平通りを十八種類のグラフにしてみた
 きょうから始めるこの仕事が、どうにか片付くまでの三日間ばかり、ぼくは自分を小網の甚六とか甚兵衛とでも呼んでやろうと思った。そのほうが「鬼平犯科帳」をたのしんだあとで何かしら書いてみようとするとき、なんだか調子が出そうな気がしたからである。
 ゆうべ新宿の東口裏通りを突っ切ろうとして向こうの暗がりのほうまで歩いて行くと、その角の手前に古本屋の鈴平があって、まだ明かりがついていた。それでなかに入って安い本を三冊買い、もう一冊高いやつを思いきって買った。昔の値段にすると一両だった。そんなにはしないかもしれないが、とにかく一両だなと思い、いまどき本屋にしては珍しい鈴平という屋号も、外へ出て歩きだすと愉快になってきた。そのときこっちも小網の甚六とか甚兵衛とかになりたくなったわけだ。
 この一両の和装本とも関係のある話だが、「鬼平犯科帳」を読んでいると、料理屋がよく出てくる。そこでは何事かが、たいていきまって起こるので小網の甚六は、文春元版の余白に料理屋の名前と場所を大きな字で書きとめ、鰻屋とか茶漬屋とかしておく癖がついた。やりだすと面白くなるし、池波ファンとしてはリストをつくらなければならないと考えている。
 時代は約二百年まえの天明の終わりから寛政にかけてだが、料理屋では大きな店ではないけれど本所二ツ目に軍鶏鍋しゃもなべ屋の「五鉄」があって、ここが鬼平はすきだとみえ誰かしらつかまえては連れていく。なぜちょいちょい行くかというと、それは「本所・桜屋敷」や「寒月六間堀」や「本門寺暮雪」を読んでいるうちに、だんだん分かってくる。そうして「男色一本饂飩うどん」でも「密偵たちの宴」でも、おやまた「五鉄」が出てきたなと思うようになり、そのときこの名前だけでも、ちょっとした緊張感をあたえることになるのだ。
 この「五鉄」から赤い線をまっすぐに引っぱった先にある深川・石島町の船宿「鶴や」もよく出てくるが、この二軒のあいだを鬼平の子分の密偵たちが急いで行き来するようになると、さっきの緊張感がぐんと強まって、曲りくねっているらしい道筋が赤い線で一本道にしたようになってしまうのである。
 これとは違う場所だが、たとえば「追跡」では鬼子母神の茶店「笹や」から鬼平の尾行がはじまり、くねくねした道筋になって尾行の邪魔者が入ったりする。「お雪の乳房」でも尾行は、浅草・田原町にはじまり、上野山下、神田、日本橋、金杉となって相手は田町の蕎麦屋「まきや」へ入った。尾行からは、たしかにサスペンスが生まれてくるが、その場合、あたりの風景の変化や相手の挙動だけでなく、料理屋のたぐいをそこに置いてみると謎の要素が加わってくる。これは分かりきったことだろう。けれど「鬼平犯科帳」を読みながら小網の甚六は、どこかにもっと秘密があるような気がしたので、グラフをつくったらハッキリするかもしれないと考えた。
 それで文春元版の余白下段に、サスペンスから事件になって、それがまた変化していく起伏状態を線描きにし、リラックスしながら読んでいるときは水平線にして書き込むようにしてみた。これは再読したときのメモなので余白上段には、最初のときのメモが書き込んである。「用心棒」になると、それが頻繁になって、本所近辺の「笹や」という茶店「翁庵」という蕎麦屋、洲崎にある茶店「槌屋」とか仲町の鰻屋「山口」とか深川の茶店「みなとや」のほか、大根河岸の「万七」という兎の吸物が名物になっている料理屋が出てくるから、食いしん坊がいるなあ。ほんとうは誰なんだろうという好奇心さえ起こさせるのだった。
 こんなことばかり考えているとき、小網の甚六は古本屋の鈴平でさっきの和装本を目にしたのであって、それが古本ではなく新刊のうえ、限定二五〇部のうち二一五番となっている。だから趣味の和本にちかい。四六判横綴じで五冊にしたのを一緒に二寸ぐらいの深さの紺色布製箱に入れてある。この箱も横にひらいた。そしてボール箱の背中に平たい字体で「川柳江戸名物図絵」と刷った和紙が貼り付けてあった。
 「鬼平」の世界では川柳なんかに打ち興じるだけの呑気な時間は誰にもなかったし、小綱の甚六にもやっぱり縁がなかったが、箱をあけて一冊だしてみると、それが「江戸のたべものや」と題した分冊なのである。めくってみると寛政年間あたりのお菓子の包み紙につかったらしい商標などが、たくさん出してあるので、引用してある川柳よりもこっちのほうが面白くなった。
 ほかの四冊は「江戸のくすりや」と「江戸の呉服だな」と「江戸の化粧品・小間物店」と「江戸のほんや」で、合わせると六〇〇ページになる。「鬼平犯科帳」に出てくる大泥棒たちは、くすりや、呉服屋などで金持ちの店に押し込みをやったし、手下たちは小間物屋などの主人になりすまして親分からの指図があるのを待っていた。それを思い出すと、これがはたして役に立つかどうか分からないけれど買ってしまったのである。
 ほかにも「川柳岡場所図絵」や「江戸買物独案内」などの編著がある花咲一男の名前を、このときまで知らなかったが、帰宅してから図版を見たり解説を読んだりしていると結構おもしろく時間がたっていく。けれど「鬼平犯科帳」に出てくる料理屋とか商店とカチ合ってくるのは一つもなかった。天明・寛政ごろの川柳もすこしあるが、もっと江戸後期のが多いからだろう。
 まえにも鬼平が機縁で、この種類の本をすこし買った。そのなかに俳句の引用で同じことをやった鹿児島徳治の「隅田川の今昔」があるが、やっぱりカチ合ってこない。それから西山松之助編「江戸町人の研究」の第三巻に、文政七年出版「江戸買物独案内」の五三○ページもある木版刷りが縮小して紹介されているが、これが面白い。鬼平は蒲焼きがすきだったから、そのページをひらいてみると二十二軒の広告が出ている。神田仲町の「深川屋」や麹町の「伊勢屋」や深川仲町の「山口」なんか有名であった。この「山口」が、さっき書いた「用心棒」のなかに入っている。小網の甚六は一休みしてタバコに火をつけた。
 このほか「江戸深川情緒の研究」の復刻版や、稲垣史生編・三田村鳶魚えんぎょの「江戸生活事典」などが机のそばに置いてある。この二冊で、なぜ鬼平たちが鰻丼をくれと注文したことがないのかが分かった。まだそんなものはなく蒲焼きだけだったからだ。寛政、享和についで文化の年号になってから間もなくのことである。日本橋堺町にあった芝居小屋・中村座のパトロンだった大久保今助というのが、毎日のように蒲焼きばかり食べていた。ところが中村座にいると鰻屋へ行くのが面倒くさくなって、買いにやらせるが、持って帰るあいだにさめている。それでいいことを思いついた。炊きたての白飯をどんぶりにいれて、そのうえに蒲焼きをのせさせたのである。これが鰻丼のはじまりだった。江戸っ子でも、こういうのはいい。
 小網の甚六は、もっと一所懸命になって本格的にこの仕事をやるつもりだった。それで本の余白に書き込みをやるのに先立って、気に入った革製の小型ルーズリーフ・ブックがあったのを使い、その一枚ずつに「鬼平犯科帳」の元版七冊にある題名を全部記入したところ、八十四枚になったのである。
 念のため書きとめておくと鬼平シリーズ・第一巻は昭和四十三年十二月一日に文藝春秋から出版された。掲載誌は「オール讀物」で一年間の十二篇がこの巻に収録され、その順序は「唖の十蔵」「本所・桜屋敷」「血頭の丹兵衛」であるが、本書でも最初の三篇は同じ順序になっている。そうして「鬼平犯科帳」は毎年おなじ時期に巻をかさねながら、四十九年十二月十日に第七巻が出版された。
 ご存じのとおり鬼平は現在も活躍中であって、第八巻もこないだ出版されたが、本書には七年間の鬼平シリーズ七冊・八十四篇のうちから各巻ごとに二篇か三篇をえらんである。それが十八篇になったが、これらを読みながら、すこしも飽きない。どうしてなんだろう。飽きさせない秘訣があるのかもしれない。けれども考えてみると秘訣というのは、型にはまってしまう特別な方法のことだ、と小網の甚六は漠然とだが気がついた。それでなぜ飽きさせないかをグラフで解決しようとしているうちに、やっと分かりだしたのである。
 まず第一にルーズリーフのノートを使うことにした。ああ面白かったと言ってすましてしまうのもいいだろう。けれど一所懸命にこの仕事をやるとなると、一週間か二週間たって題名を見たとき、すぐさまその事件が思い出せなければならない。面白かったなあと言って安心していると、ふっと忘れてしまったところがあって、そうだったっけと思い出すのに手間が掛ることがよくある。鬼平シリーズ・八十四篇の題名は全部ノートの一枚ずつに書いておいた。けれどなまけたので白紙のままのがあって、そのため思い出せないのがあったのだ。
 いい名前だなあ、どれも大泥棒だが、野槌のづちの弥平、血頭ちがしらの丹兵衛、墓火はかびの秀五郎、中釘なかくぎの三九郎、土蜘蛛つちぐもの金五郎、赤観音あかかんのんの久兵衛、みんないい。小泥棒には船明ふなぎらの鳥平、みの虫の久なんかがいる。香具師やしの元締・羽沢の嘉兵衛にしろ名幡なはたの利兵衛にしろ、二人とも年寄りのせいか名前だけで貫禄をかんじさせる。
 とにかく一度で覚えてしまう名前であって、そういうのがまたゾロゾロと出てくることがあるし、サスペンスから事件へと急に物語が盛り上がっていく。そんなときグラフでは平らな地面からビルが建ったようなパターンになって、すこしたつとまたビルが建つ。そのビルには高い低いができてくる。けれどその一つのビルだけ見たってしようがないし、右から左へと全体の風景を見渡さなければならない。このグラフは前に書いたように再読しながら作製したが、ノートが白紙だったので、どんな事件だったか忘れていたのがあるのに、このとき気がついた。
 やっと十八篇のグラフができたとき、どれも違ったパターンになっているので、どうして飽きさせないで読ませたかという秘密が、これでよく分かった。第七巻までの八十四篇全部のグラフをつくったとすると、その一つ一つのパターンは、どんなふうに違ってくることだろう。それが見たかったら、これらのグラフの右から左への距離をもっと長く伸ばさないと、うまくいかないだろうと小網の甚六は考えた。なぜかというと、ここにある十八種類のグラフには、もっとこまかい副事件が、サスペンスが続く時間として引っぱった水平線上で、いくつも起こっているのに、それが抜けているからである。
 たとえば「穴」の老盗・帯川の源助の物語では、一年前の事件が現在とからみ合っていて、それもサスペンスになっている。日本橋小網町二丁目の右端にかかっている思案橋ぎわの船宿「加賀や」の船頭は、浜崎の友蔵という老盗だった。「大川の隠居」というのが友蔵のことで、こっちの事件はストレートに展開していく。そこでこの二つの物語のグラフをくらべてみると、両方とも面白さは似ているが、強弱の度合いが違っている。それがグラフに出てきた。
 それからエピソードの効果がある。それは映画のフラッシュ・バックのように、そのときの登場人物の過去があらわれ、これもサスペンスになるわけだ。「敵」や「乞食坊主」や「猫じゃらしの女」のほか、たいていの物語にエピソードの役割というのがあるが、これがグラフでは出せなかった。右から左への距離が短いからである。
 いっそのこと「鬼平通り」としてしまおうかなと小網の甚六は考えた。「鬼平犯科帳」は鬼平通りの物語なんだ。そうしてまたタバコをすいだしたが、すこしくたびれていた。それでもうすこし話したいことを甚兵衛にまかせた。
 小網の甚兵衛は、甚六のやつ、つまらぬことばかり喋ってやがるなと思いながら、瀧川政次郎の「長谷川平蔵――その生涯と人足寄場にんそくよせば」を読んでいた。人足寄場というのは非行青少年感化院みたいな非行中年男感化院であって、佃島から船で一足飛びに行ける石川島にあった。それを鬼平は老中の松平定信と一緒にプランをねりながら、夢中になってつくったのである。なぜ夢中になってしまったんだろう。
 平蔵こと鬼平は、ご存じのとおり金ばなれがいい男だった。尾行の途中で四回もチップをやったことがある。鬼平は佃島から歩いてすぐ行ける本所二ツ目に実家があって、若いころグレてしまい「本所のてつ」と呼ばれながら羽振りをきかせた時代があった。そのころから金ばなれがよかったんだなと小網の甚兵衛には、鬼平の気持ちが分かり、そのとき密偵いぬ小房こぶさ粂八くめはちが頭に浮かんだのである。
 鬼平が自分のため最初に密偵にしたのが小房の粂八で、「唖の十蔵」と「血頭の丹兵衛」で印象につよく残った。「妖盗あおい小僧」にも出てくるし、ここでは深川・石島町の船宿「鶴や」の主人におさまりながら、密偵ぶりにも手腕を発揮している。鬼平は逮捕した泥棒の性格に目をつけ、これはと思うのがいると密偵にして、押し込み強盗の裏をかくのがうまかった。「密偵たちの宴」では、主人思いの密偵たちが鬼平に一泡吹かせてやろうと相談した喜劇が展開するが、親分のほうでは、ちゃんと見破っているのだった。
 それだけでなく鬼平は松平定信の胸のうちまで見破って、逆に裏をかいているのが「長谷川平蔵」を読むと分かるが、あまりすきではない定信をたすけて、なぜ人足寄場建設に夢中になったんだろう。それは与太者だったことのある鬼平が、きらいな泥棒は叩き斬ってしまったが、どうしてもすきになってしまう泥棒がいて、そういう連中はどうしようという個人としての意志からではなかったろうか、と小網の甚兵衛は考えた。そうしたら甚六のほうも、「鬼平犯科帳」を読んでいたら、やっぱりおんなじ気持ちになったなあ、と言ってタバコの火をもみ消したのだった。

歩いたり電車に乗ったりして
 きょうは明治座へ池波正太郎の芝居をみにいく日なので、すこし早めに人形町へ出てブラついてみよう。そう思って両方とも楽しみにしていたところ、朝起きたら雨が降っている。それで出かけるのが遅くなったとき、郵便物がどっさり来て、そのなかに小説新潮の一月号がはいっていた。
 雨降りでも何か読む本を持って出ないと気が抜けてしまってダメなので、まだ途中までしか読んでいない池波さんらしい見かたの「映画を食べる」を机のうえに置いといたが、こっちにしよう。小説新潮だから「剣客商売」が、毎月発表されるが、こんどのは「道場破り」となっていて、題名からしていいし、すぐ読みたくなってくる。それはこんな発端だった。
 ある日のことだが、冬がすぎたばかりの朝はやく、ツルの群れが西北へ向かって飛んでいく。女武芸者の三冬は庭を掃く手をやすめて空を見上げた。そこは下谷の根岸にある和泉屋吉右衛門の別荘で、ふだんは老僕の喜助が留守番をしているが、ひさしぶりに三冬は夫の秋山大治郎と、喜助をよろこばすために泊まりにいった。そうして翌朝になって食事をすますと大治郎は出かける。日本橋本銀町にある無外流・間宮孫七郎の道場へ行くのだった。
 そのとき別荘のすぐそばにあるお稲荷さんの番小屋から、あかじみた中年男があらわれたが、その格好を見ると浪人らしい。近所の人たちは「稲荷の先生」と呼んでいた。本をよく読んでいるからだが、じつは鷲巣見平助といって、ひさしぶりに道場破りをしてやろうと考えている腕に自信がある浪人だった。それも秋山大治郎が行こうとしている間宮道場を破ってやろうと思いながら歩いている。
 こんな発端だが、あとは人形町へ小田急と千代田線でいく途中で読もうと思い、ほかの郵便物に大急ぎで目をとおしたとき、ついまた「女武芸者」のページをめくってしまった。いつでもすぐ読めるように単行本になった「剣客商売」の五冊がそばに置いてある。全部で物語は三十六編になるが、その最初のが、この作品集の「女武芸者」で、こないだ読みなおしたばかりだった。その発端を読者はまだちゃんと覚えていると思うけれど、『なるほどなあ』とぼくは自分に言って、そのまますこし考えていたので、出かけるのがまた遅れた。
 発端の情景であるが浅草に近い隅田川のほとりにお稲荷さんがあって、西のほうは田圃たんぼだが、その片隅に無外流・秋山大治郎の道場がある。竹藪にかこまれた、ちっぽけな道場であって、夕暮れどきの竹藪のなかの空地では数羽のミソサザイが、うつくしい声を出して飛びまわっていた。そのうごきを井戸のそばで飽きずに見ている大治郎のほうへ、ネギのみそしるのにおいが台所からしてきた。
 濃い眉をした二十四歳の大治郎は独身なので、近所の百姓女がきて食事の仕度をしてくれるのだが、ネギのみそしると麦飯と大根の漬物だけにきまっている。それでも満足して食べ終わったとき夜になっていた。そのときである。見たこともない中年で立派な風采の侍がはいってきて『大垣四郎兵衛と申す』と名乗ったのだった。
 ぼくは『なるほどなあ』と思い、この本も小説新潮とメモ・カードとエンピツといっしょにショルダーバッグに入れて、2DKの安部屋を出ると、すぐそばの小田急経堂駅で切符を買った。ホームには、いつものように急行待ちの新宿ゆきが右側にとまっている。腰をおろすと「道場破り」のページをひろげて、出だしから読みなおしはじめた。電車も動きはじめる。それから代々木八幡で乗り換えるまでに物語は佳境に入っていた。千代田線代々木公園駅のほうも、降りたすぐそばにあるが、そこまで傘をさして歩きながら、なぜこんなにも佳境へと読者をさそい込むのがうまいんだろうと考えていると、なんとなく分かってきたことがある。そうしてそれは、繰り返しそんな気持ちにさせたことでもあった。ところがなんとなく分かってきたのに、それから先をハッキリと自分に説明することができない。それでしかたなしに『やっぱり面白いんだよ』と自分にいい、そうして傘をさして歩いていたときの気持ちはといえば、大治郎が食事をしているときの満足感にくらべたくなるのだった。
 千代田線の地下鉄も、いつものように止っていた。終点だから発車までに余裕があって、両側のどっちかに止っているが、いま止っている右側のほうが左側のときより、なかに入りやすい。これもなぜだか分からないが、腰をおろすと「剣客商売」を出して、いつ発行されたんだろうと思いながら奥付をみた。昭和四十八年一月十五日である。すると「仕掛人・藤枝梅安」のほうはいつだったかな。おんなじころのような気がするけれど帰ったら調べてみよう。
 それはそうと無外流の秋山大治郎は、このシリーズの最初に二十四歳で初登場した。「道場破り」はシリーズの四十三編目にあたり、大治郎は二十八歳になっていて、三冬を妻にしたばかりである。ぼくは『ああそうだったな』と思った。独り合点しているのだが、じつは「剣客商売」五冊の最後になる「たのまれ男」までの三十六編を逆の順序で読んでいき、これは偶然にそうなった池波作品の復習のしかただった。そうして一編ずつの題名だけ先にメモ・カードに書いておいて、発端とか重要な登場人物とかクライマックスとかをメモしていった。その間にいくども『なるほどなあ』と思ったことがあるが、シリーズの出発点だった「女武芸者」へと逆に戻ったときだった。こんどは『ああそうだったな』とつぶやき、忘れていたものをふと見つけたような気持ちになったのである。
 ぼくはネギの異名が根深ねぶかだとは知らなかった。その根深汁に付き合わされてばかりいた大治郎が、ある日のこと『うまい』とつぶやく。ネギのかわりにタニシがはいっていたからだった。「女武芸者」が発表されたのは小説新潮の昭和四十七年一月号だったが、その次号に出た「剣の誓約」では大治郎が『うまい』とつぶやく食事の場面から物語は始まっている。それで「女武芸者」のとき、ぼくは『ああそうだったな』とつぶやいたのだった。
 大治郎はめったに独りごとを言わない男だそうだ。ところがぼくときたら『なるほどなあ』とか『ああそうだったな』とか繰り返えしつぶやいてばかりいる。池波正太郎の短編シリーズは新作が雑誌に出るとすぐ読みたくなるいっぽう、まえの作品を読んでいると、こんな気持ちにさせられてしまうし、しかたなしに『やっぱり面白いんだよ』とつぶやいているのは、こんどはじめて気がついたことだ。
 そんなことから二つの発端をならべてみたわけだが、くらべてみると、そのとき目のまえに浮かんでくる情景はどんなだろう。たとえばジョン・フォードとかヒッチコックとかがすきな映画ファンがいて、そのある場面で思わず『いいなあ』とうなってしまったときだ。そうした映画ファンにはジョン・フォード的場面やヒッチコック的場面が、ほかの人たちよりもピーンとくることになる。いつか前に見て感心したときの気持ちと、おんなじような気持ちにさせられてしまうからだ。それはジョン・フォードに独特だったりヒッチコックに独特だったりする映画の文章のはたらきだと言っていいだろう。
 なんだか遠回りになったが、こんなことが言いたくなったのは「女武芸者」と「道場破り」の情景をくらべたときだった。三冬がツルの飛んでいくのを見ている。大治郎がミソサザイが飛びまわっているのを見ている。そこは庭のなかだ。竹藪のなかだ。そのどっちにも近くにお稲荷さんがある。そうして朝の食事をした。夜の食事をした。そのときである。見たこともない男が登場するのだ。ぼくは『いいなあ』と思う。『いいぞ』とあとでまた言ってしまう。ぼくはヒッチコック・ファンなんだけれど、いつのまにか池波ファンにもなっていた。
 そうなったのは五年まえのことで、正確にいうと十月二十二日の夜八時ごろだった。まえの日にオール讀物が発売され、それに「鬼平犯科帳」のシリーズ「泥鰌の和助始末」が出ていたが、夜の八時ごろ人形町から地下鉄・日比谷線に乗ると、二人の乗客が「泥鰌の和助始末」を読んでいた。二人とも物語の佳境にはいっていて、ぼくが降りるまでページから目をそらさなかったのを、ぼくは霞ヶ関でまた乗り換えた日比谷線のなかで、いま思い出している。あのときの二人の乗客は買いたての雑誌をひろげると「泥鰌の和助始末」から読みだしたのにちがいない。二人が「鬼平犯科帳」の面白さに取りつかれたのは、いつごろだったんだろう。とにかく先輩格だ。ぼくも池波ファンの仲間にいれてもらえないかな。そう思ってから五年しかたっていない。それなのにいい気持ちになって、こんなことを書いている。

 明治座では高橋英樹が博徒の手越の平八に扮した「あばれ狼」を見た。幕切れ近くに用心棒の辰巳柳太郎が甲州安倍峠にあらわれ、ユーモラスな演技で観客を笑わせたが、どうして辰巳はあんなにもリラックスさせるのがうまいんだろう、いつでも彼の演技には目がはなせなくなってしまうんだ、と帰り道には辰巳のことばかり考えていた。そうしてリラックスさせる技術といえば「剣客商売」でも「まゆ墨の金ちゃん」になると、発端の情景からして描きかたに調子の変化がみられるようになった。そう考えはじめる。
 すっかり梅雨つゆに入った。というのが発端の文章の一行で、その日も雨つづきなのが、ちょっと晴れたかとおもうと、また降りだした。その雨をながめながら夕飯まえの酒をチビリチビリやっているのが、奥山念流の牛堀九万之助くまのすけである。そこへ老僕の権兵衛が酒のおかずを持ってくると、イヤなやつがたずねて来ましたよと言って顔をしかめてみせた。その男が「まゆ墨」の金ちゃんこと三浦金太郎で、何の用事できたかと思ったら、じつは秋山大治郎の命があぶないと知らせにきたのだった。
『そりゃ、まことに、危ないのか』ときくと『秋山大治郎殿の腕前は、私は、いささかも存じませんがはい、はい、ちょいとあぶない』と答える。ぼくは『いいぞ』とつぶやいた。辰巳柳太郎のセリフみたいにリラックスしているからだった。
 明治座から帰って、いつもすぐ読めるようにしてある仕掛人・藤枝梅安の単行本二冊「殺しの四人」と「梅安蟻地獄」を出して、最初のほうの奥付をみると昭和四十八年三月十日となっている。だいたい合っていたなと思いながら、こんどは平凡社カラー新書の「江戸古地図散歩」を出した。これも池波正太郎の著書で、ちょうど一年まえに出版されたとき『なるほどなあ』とつぶやいては、いろんな箇所に赤インクで棒を引っぱっておいたが、ここではその一箇所がとりわけ興味ぶかい。すこし説明を加えて書いてみよう。
 昭和四十六年三月に桃源社から出版された「闇は知っている」に短編「梅雨の湯豆腐」がはいっていて、〈殺し屋〉の物語だった。この殺し屋は彦次郎という四十二歳の小柄な男で、ふだんは楊子ようじつくりとして何食わぬ顔をしていた。浅草観音の参道にある「卯の木屋」へ、歯をみがく「ふさ楊子」と「平楊子」の二種類を卸しにいっているが、ある日のこと赤坂の顔役である赤大黒の市兵衛がやってきた。
『どうだろう。引きうけておくんなさるかえ?』
 こう市兵衛は何事かをたのむ。これが殺し屋の物語の真っ先に出てくるセリフだった。そうして藤枝梅安が初登場する「おんなごろし」は、この「梅雨の湯豆腐」がキッカケとなって生まれ、ある日のこと江戸切絵図の嘉永三年版を持って、南千住のほうから浅草へと歩いてきたとき、ふと「仕掛人」という言葉を思いつき、このほうが梅安を「殺し屋」と呼ぶよりずっと面白いと思ったそうだ。
「仕掛者」とか「仕掛物」とかの言葉はあるが、それまで「仕掛人」という言葉はなかった。それにしてもどうして「仕掛」の二字が歩きながら頭にひらめいたんだろう。ぼくは池波さんが芝居をやっているからだと当て推量したことがあった。というのは舞台装置でその一部がアッと思った瞬間に変化している特殊な製作法があって、「仕掛物」とか「仕掛」とか「どんでん返し」と称しているからだ。けれどこれは、ぼくの勝手な想像にすぎないだろう。
 ところで彦次郎の殺しかたは、こうだった。お照という女が浅草寺の境内を女中連れで歩いているのに近づくと、長さ三寸ほどの針を、ふところへ入れた手でさぐって、たもとへ落しこんでから、右手の親ゆびへ革づくりの指輪をはめた。そうして「殺し針」をお照の帯の内側から鳩尾みぞおちへと突っ込んでいる。梅安も突っ込んだ急所のほうはちがうが似たような場所で、おんなじ殺しかたをした。
 この作品集の仕掛人シリーズ六編のうち「殺気」をのぞくと、あとは梅安と彦次郎がコンビで行動している。いつも梅安が仕掛けをたのまれ、最初にあらわれた依頼人は赤大黒の市兵衛で、まえに彦次郎に仕掛けをたのんだのと同一人にしてある。
『承知しておくんなさるかえ?』
 と言うセリフの調子もおんなじだし、作者の打ち明け話で彦次郎の物語がキッカケになったというのを思い出して、ぼくは『なるほどなあ』と、またもやつぶやいてしまった。そうして「殺気」での発端は、こうなっている。
 その日。
 藤枝梅安は、目黒不動尊への参詣をおもいたち、着換えをするとき、衿の上前の裏へ自分で縫いつけた「針鞘」の中に、長さ三寸余の仕掛針を二本ひそませた。
『いいぞ』とぼくはつぶやく。どうなるんだろう。参詣のあとで梅安は近くの料理屋・伊勢虎にはいり、あわびの酢貝で冷酒を飲みながら、ふと中庭越しに向こうの座敷を見た。十五年前のことだが捨子をして逃げた女がいる。その女らしいのが商人の亭主といっしょに入ってきたのだ。
 そうして「闇の大川橋」では、最後の場面で「女武芸者」の大治郎と根深汁とを思い出してしまい『ああそうだったな』とつぶやいてから、骨が折れた仕掛けのあとで梅安と彦次郎が、暗い道を歩きながら話し合っているところを書いておきたくなった。
『さ、急ごう。腹がすいて腹がすいて、どうにもたまらない』
『だって梅安さん。おれのところには、酒はあるが、食い物は何もないぜ』
ねぎはあるかね?』
『そりゃあ、ある』
『味噌は?』
『味噌なんぞ、切れるわけがねえ』
『それでいいじゃないか。熱い熱い根深汁をふうふういいながら吸いこむのさ。うまいぞ』
『そして、飯を五杯もおかわりをしなさるのかえ?』
『そうとも。こんなに気もちのよい仕掛けは久しぶりだよ、彦さん』
 こんなふうにすっかり肩の重荷をおろした二人。ぼくたちもリラックスしているし、すぐまた池波正太郎のものが読みたくなってくる。
中学校の教室から解放されて
 さっきまで、それがずいぶん昔の記憶になってくるが、中学校の教室で黒板を背にした歴史の先生が、ぼくたち生徒に桶狭間おけはざまの戦いや川中島の戦いのありさまを、たいして面白くもなさそうな顔をして話してくれていたのを、どうしたわけか思い出していて、なるほどあのころからだったな、ぼくが日本の歴史をさっぱり勉強しない落第生になったのはと考えたり、ことによるとそれは、あの先生のせいだったかもしれないと思ってみたりした。
 こんな悪態をついたのも、やっぱりさっきまで、こないだ出たばかりの「池波正太郎の男の系譜」(文化出版局)を読んでいたからである。この本は佐藤隆介という大の池波ファンの編著であって、戦国時代にふさわしい生きかたをした武将たちの性格を聞いたとおりに、テープ録音から起こして口述筆記のかたちで七回ぶんをまとめたものだ。けれど普通の口述筆記とはちがって、聞き手が池波ファンだから話している先生のほうでも個人教授らしい親しみにあふれていて、それが読者にもよく伝わってくるのだった。
 だから読んでいるとき、とても気持ちがよかったが、ぼくが思い出しているのは中学校の教室で年とった歴史の先生が、黒板に向かって桶狭間とか川中島とか、そうしてそばに今川義元や織田信長や武田信玄や上杉謙信など、有名な場所と武将たちの名前を書いているところであって、ふとフェリーニの「アマルコルド」のユーモラスな教室場面が頭に浮かんだ。
 あの「アマルコルド」を見てからは、タバコをすっているとき灰が落ちないように途中で垂直に持つ癖がついてしまったが、ぼくたちの歴史の時間には、フェリーニの先生のように質問はしてこない。おとなしく聞きながら歴史用の薄い筆記帳に先生が黒板に書いたのを写しておけばよかった。それを学期末の試験になると暗記したのである。そうして試験がすむと、きれいに忘れてしまった。
 ここで虎の巻のことを書かなければならない。じつはさっき一休みして近所の古本屋をのぞきに行ったら、最近の虎の巻で「中学歴史」というのが目についたので「秀吉の国内統一」としてあるページをめくったところ、気が利いた図表になっているのでほしくなった。それをいま見ているのだが、分かりやすいし、ぼくにもいい勉強になってくる。これでよく分かったが、ぼくには中学生にもバカにされるような歴史の知識しかないのだった。
 中学生のころは誰でも虎の巻がほしくなってくる。大正十年ごろのベストセラーは三省堂から出た「植物要項」とか「生物要項」とかのシリーズになったクリーム色の表紙のやつで、その大きさは、いまの三省堂ポケット辞典とおんなじだったが、それをみんなが買ったものだった。ある日のこと教室で授業がはじまるまえに遠野という生徒が何を考えたのか、買いたての表紙にペタペタ一面に糊をつけて本屋の包装紙を貼り付けている。あっけにとられたぼくは本屋から掻っぱらったのかとうたぐったが、どうやら虎の巻なのを隠す工夫だったらしい。
 ところでぼくは、いまでも虎の巻を買ってばかりいる。このまえ浅草へ行ったとき、国際通り東映側にある本屋の二階が古本売場で、一階の新本売場から階段をあがったとき、その店を知らなかったのでビックリした。五十年以上はたった本がたくさんあるからで、それをゆっくり見ながら五冊だけ買うのに二時間たっぷりかかったが、本棚のうえのほうに「日本武道全集」のバラが二冊ならんでいる。これは古い本ではないけれど、ぼくは知らなかった。その一冊の「砲術・水術・忍術史」をひろげてみたところ「萬川集海ばんせんしゆうかい」が収録されているのだ。ははぁ、これなんだなと思い、掘り出し物をしたような気持ちになった。
 というのは半年ほどまえに滋賀県甲賀町の本屋さんが、甲賀・伊賀流忍術の秘本として有名な「萬川集海」を写本のまま復刻したからと言って内容見本を送ってきたのである。こんな忍術の秘本があるなんて知りもしないくせに、忍者がつかう水中下駄の図解を見ていると想像するだけでもスリルたっぷりなのだ。ほかにどんな忍びの道具があるんだろう。そう思うとこの復刻本がほしくなったが限定本でもあるし、ぼくには手が出ない。三○○ドルだった。
 高い本で買えないときは、こんなふうにして換算してみると洋書なら、古本にかぎらず取りまぜ一〇〇冊は買えると考えはじめるから、あきらめやすい。その「萬川集海」がどんな内容なのか、漢文まじりなので手を焼いたけれど大体のところ理解できたのである。なんだか禅の本を読んでいるみたいだと思ったが、勉強するのに、一〇ドルですんだ。
 いちばん面白いのは、やっぱり最後のほうの図解一覧表で「忍器」としてあるが、十四ページにわたって四十五種類の道具が出ている。もっとたくさんあるはずだ。ほんとうならあと八ページくらい使って残りの全部を出せばいいのに、この全集のは抄録となっていた。それでもいろいろと役に立ってくる。たとえば「火の国の城」の主人公は物語がすすむにつれ加藤清正だと分かってくるが、最初から登場するもう一人の主人公は〝甲賀忍び〟の丹波大介だ。その大介が活躍する場面を思い出しながら、暗夜の山のなかで敵の〝忍び〟数名に取り囲まれたとき、「飛苦無とびくない」という武器をつかったので、これが出ているかなと思ったら「苦無くない」のほうが図示してあった。どうして「飛苦無」のほうは出てないんだろう。
 そこで池波正太郎の「忍者丹波大介」を出して、物語の最初のほうをひろげてみた。そこにはつぎのように説明してある。
「飛苦無」は甲賀独自の武器である。
 別に「苦無」とよぶ道具もある。これは一尺二寸におよぶ長釘で、石垣や岩壁などへ打ちつけ、高所への昇降に用いるものだが、「飛苦無」は形状が相似していても使用目的は全く異なり、いわば手裏剣同様の武器であるといってよい。
 長さ二寸前後。手の親指よりやや太目の鉄製で、甲賀忍者は思い思いに工夫をこらした「飛苦無」を用意している。
 大介の「飛苦無」は、柏木郷に住む「蟇仙ひきせん」と呼ばれる老人が製作してくれるもので、やや円錐形の尖端と根本に微妙な細工がほどこしてあった。敵を撃ち、より強烈に敵の肉へ食いこむための工夫なのである。
 
 以上を書き写しながら「飛苦無」という飛び道具は拳銃よりも怖いな、忍者が敵の一人にこれを投げつけると、ねらいたがわず片眼にグサリと深く突き刺さってしまうけれど、西部劇のヒーローでも片眼をぶち抜くなんてやって見せた者はいなかったようだ。こんな比較をしているうちに、ぼくは中学生の昔に戻ったような気持ちになっていて、あのころは何を読んでいたろう。人形町のまんなかの角にオモチャも売っている清水屋という本屋があって、五センチくらいの厚さがある「柳川庄八」や「霧隠才蔵」を買って読んだっけ。いや、ちがうぞ。あれは中学校にはいる前のことだった。
 こんなことを書いていたら、しかられるかもしれない。けれど「火の国の城」で京都伏見の肥後屋敷へと場面が移ったときだ。ちょうど映画の移動撮影のように外濠を小舟がゆるやかに進んでいく。やがて目指した地点で〝伊那忍び〟の奥村弥五兵衛と大介が舟から降りて、高さ六尺の塀を飛び越えると、そこは木立ちが茂った屋敷内の庭園であって大きな池がある。あたりは真っ暗だが水面に四角い格好をした「通い」が浮かんでいるのが大介だけに見えた。そうするとぼくたちにも「通い」と称する潜水用の忍器が見えるようになるが、そのときの薄気味わるさがどんな性質のものかというと、そこが書きたくなったし、しかられるだろうと思ったのも、そんなことは分かりきったことだからである。けれど池波正太郎の自伝の一部になっている「青春忘れもの」の少年時代は、すこし年うえのぼく自身の少年時代と似たところがだいぶあると思うので、ここでは余計なことを書いたっていいだろう。
 小学四年生のころだったが、授業の合い間に校庭で「ジゴマごっこ」という遊びがはやった。当時フランスで赤い表紙の小型本だがレオン・ザジー作「ジゴマール」という兇賊が活躍する大衆小説がベストセラーになったので、連続活劇として映画化され、それが日本でもヒットしたのである。けれど浅草の電気館あたりで「ジゴマ」を楽しめるのは大人だけで未成年者は入場禁止だった。ぼくたちにはアメリカの連続映画「電話の声」があったけれど、これはつまらなかった。
 そんなとき「ジゴマ」は怖いよと、だれか一人うまくやって見た生徒がいて威張りはじめる。そうして一人がジゴマになり三人か四人かいる探偵と鬼ごっこになるが、この「ジゴマごっこ」を先生に見つかるとしかられるのだった。じつはしかられるのが面白いのでやっていたのである。
 そのときの校庭を見回わすと、あっちこっちで立ったまま「立川文庫」を読んでいるのが五、六人いるのだった。ぼくも猿飛佐助や孫悟空のシリーズを二冊か三冊読んだけれど、あんまり面白くもないので、すぐやめてしまって、立川文庫ファンをバカにするようになり、それで「柳川庄八」や「霧隠才蔵」を買ったのである。
 余計な話は打ち切ることにして、ぼくが興味をいだいたのは、昭和四十年八月に出版された「忍者丹波大介」の〈あとがき〉を読んだときで『数年前までは忍びの人びとに、あまり興味がなかった』と言っているからで、なるほどそうだったのかと思った。それは浅草という下町育ちのせいであって、あたりまえのことだし、そうじゃないとおかしくなってくる。はやい話が当時の忍術使いというのは、両手を目のまえで組んで親指をそろえて何かつぶやくと、パッと姿が消えてしまうスーパーマンにすぎなかったのだ。
 もうすこし〈あとがき〉で知ったことにふれると、忍びの者を活躍させた長編第一作は「夜の戦士」で、「忍者丹波大介」は第二作であったが、ちょっと説明を加えたいのは、このときが慶長四年で翌年九月に関ヶ原の戦いがあった。慶長五年は西暦一六○○年にあたるので、ぼくなんかには覚えやすくっていいけれど、この「火の国の城」では慶長十年に物語がはじまっていて、大介は三十歳になっている。
 いくらか中学生ばなれがしたぼくは、このときの大介の心境が分かりだしてきた。その心境こそ池波正太郎が、この作品の前後に「蝶の戦記」と「忍びの風」と「忍びの女」を書く一貫した動機にもなっていて、このこともいっしょに分かったのである。というのは〈あとがき〉に戻ると、関ヶ原の戦いを境い目にして、これに先立つ戦乱激動の時代と、それにつぐ戦乱終局の時代とで忍びの人びとの生きかたが、すっかり変ってしまった。それなのに忍術は一般武芸とは異ったスパイの特殊技術だと考えられるようになり、戦国時代には数百名もの伊賀忍者がいたのに頭領クラスの名前が残っているだけで、忍者の興隆と衰退をたどるだけの資料はないそうだ。「萬川集海」にしても一六七〇年代に書かれたもので、だいぶ歳月がたっているし、忍術の秘伝書となっているが、専門家に言わせると実行不可能にちがいないものがあるのだ。そうなってくるのも口伝による秘術だったからだろう。
 けれどそこをよく考えてみると、忍者は歴史の裏側的な存在であって、たとえば丹波大介は二つの時代を生き抜いた典型的な一人となってくる。なによりも大介の心からは〝忍び〟のパッションが失われていなかった。慶長十年になると。〝伊賀忍び〟も〝甲賀忍び〟も徳川幕府に吸収されてしまい、単なるスパイとして行動するだけでパッションのかけらもない存在となっている。そんな連中数名に遠く近く包囲されたとき、どうやって大介は危地を脱するだろうか。
 ここで加藤清正の心境にもちょっとふれてみると「火の国の城」が後半部に入ったときだ。前半部から物語の進行には四年の空白期間があって慶長十五年になっているが、大介の消息は四年まえから絶えている。清正はというと白髪もふえ四十九歳になっていた。その心境はどうなんだろう。「池波正太郎の男の系譜」のなかで、つぎのような感想を聞き手に語っている。
『もしも、清正が大坂の陣まで生きていたら、どういうことになったろうか。それを考えながら、ぼくは「火の国の城」という小説を書いたわけですよ』
 こういうプランのもとに、後半部では清正の心境をもっとよく読者に分かってもらうために、大介には気の毒だけれど、しばらく引っ込んでいたほうがいいよと言ったのにちがいない。四年まえの血闘でどんな結果になったか、読者のほうでは知っているが、一人だけ逃げのびた〝女忍び〟の小たまは、自分たちの手で大介をやっとのこと斬殺したんだと信じ込んでいる。やがてそれが早合点だと知って愕然となるが、清正はというと大介の生死いかんを気にしていたが、それにしても築城と人事関係とであまりにも忙しかった。
 ぼくはさっきの中学生用・虎の巻を出して「秀吉の国内統一」の図表を見た。その下に図表の読みかたとして「豊臣秀吉は、織田信長のあとをついで統一の事業をおし進め、一五九〇年に全国統一をなしとげた」とある。ページをめくると「江戸幕府の成立と鎖国」の図表で、その読みかたは「関ヶ原の戦いに勝って政治上の実権をにぎった徳川家康は、江戸に幕府を開いて、封建支配の体制を整えた。江戸幕府は強大な権力をにぎって大名を支配する」となっている。
 もういちど池波正太郎の「男の系譜」をひろげてみよう。それは四回目の個人教授のときで真田幸村の話だが『こんどは大坂落城のあたりをやろう』ではじまり、やがて話がはずんで「火の国の城」を読むのにだいじな局面になった。
『秀吉が死んで、だんだん家康が力をのばして、ほとんど天下を取ったわけだが、まだ大坂城には豊臣秀頼がいた。簡単にいうと、家康は秀頼が自分に頭を下げてくれればなんのことはない。ところが太閤秀吉の伜だから、なかなか頭をさげない。というよりも、おっかさんの淀君が下げないわけだ。これには加藤清正や福島正則も困って、いろいろ苦労して、やっと秀頼が大きくなったとき、ちょうど京都へ来ていた家康のところへ秀頼をあいさつに行かせたわけです。こうすればいちおう頭を下げた形になるから。清正なんかも安心した』
 こんなとき四年ぶりで丹波大介が姿をあらわしたのだ。そうして浅野幸長からの密書を秀頼にわたすという使命をおびた大介が、大坂城の外濠から忍び込んでいくあたりになると、まるで映画を見ているような気持ちになってしまうのだった。映画が大すきな作者のことだ。それが読者のイマジネーションをごく自然に駆り立てる文章のうごきになってくるし、そうすると映画と小説とでは、いったいどっちがいいんだろう。ぼくは映画を見るのも小説を読むのもすきだから、そこんところを面白がって考えてばかりいる。
天下の形勢をよく見て行動しろと頼山陽は言った
 いつも古本屋の話を持ちだす癖がついたが、こないだ経堂から下高井戸まで散歩に出かけ、その店は豊川書店といって奥のほうの棚の下に、古書即売会に出す本がたくさん積んだままになっているが、普通の古本でほしいのがなかったので、積んであるほうの一冊を何気なしに手にとって背中をみたら、頼山陽の「日本外史」だったから、そのまま元へ戻そうとした。そのとき、おや、これは何のことなんだろうと思ったのは、背中の題名の下にそれとおんなじ大きさで「利」と印刷してあって、目次をみたところ「利冊」となっているからで、ぼくにはその意味が分からない。それで主人に訊いたら教えてくれた。
 その本は昭和五年十二月に弘道館というのから出版された「大礼記念・昭和漢文双書」の一冊で第十七回配本となっている。ということはこの「日本外史」は四冊本で揃うと値打ちがあるけれど、これはバラの一冊で「利」とあるのは二冊目だからだと、とっさに主人は教えてくれたのである。明治生まれの人間なら、いまから百五十年前に書かれた頼山陽の全二十二巻からなる「日本外史」を漢文のままで、中学生になったころにはもう読んだり読まされたりしたはずだ。それが明治の終わりに生まれたぼくたちの時代になると、「日本外史」はだいぶ縁がとおい教養書になってしまった。
 けれど不思議なことに漢文を読む余力はまだ残っている。それは漢文を読むのに二〇〇字詰め原稿用紙の枡目ますめを窓みたいにくり抜いた厚手の白い紙があって、それを返り点がある漢文のうえに置くと白文になる。その白文を読みながら分からなくなると、返り点が見えるように隠し紙をずらすのだが、これが割合おもしろかった。いまでも学校ではこれを使っているのかしら。とにかくまだぼくに漢文を読む余力があるのは中学時代の勉強のせいなのだ。
 そんなことを思い出しながら文学士・頼成一が解義した「日本外史新釈」の目次をみると、この巻は足利幕府の後半期から始まっているので、池波正太郎の「応仁の乱」を復習するのによさそうだから買っておこう。そう思って念のため書き出しをちょっと読んでみたところ、ぼくの目を開かさせるような記述ぶりだった。漢詩人の頼山陽が「日本外史」の執筆をはじめたのは二十五歳のときで、二十四年後の文政十年(一八二七年)に完成している。すると足利幕府の部分は途中の半分あたりだから、頼山陽が三十五、六歳のころに書いたんだと勝手に推定しておこう。漢文体の武家興亡史が、ここでは剛健でドライな筆致でつらぬかれている。ぼくはそこが気に入ってしまったが、なるほどそうかと思わさせる頼山陽の鋭い史観にちょっと触れておきたい。

 天下を取り押えて自分の意志のままに動かしていくには、土地の形勢がいいのが何よりもだいじなことだ。ずっと以前に東西各地を歩き回ったことがあるが、そのとき山河の起伏状態を観察して、こう思った。日本の地脈は東北から来ていて、西へ向かうほど、すこしずつ小さくなっていく。これを人間の身体にたとえると陸奥・出羽は首にあたり、甲斐・信濃は背中だ。そうして関東八州や東海道の諸国は胸と腹になり、京畿といえば腰尻になるわけである。さらに西へ向かって山陽・南海にはいるとももすねにすぎなくなる。だから腰や尻の地勢にいる者が股や脛にあたる地勢を押えつけることはできるとしても、腹や背中の地勢を押えつけることはできない。
 このような見方から頼山陽の武家興亡史が展開されていった。もうすこし具体的な説明を加えてみよう。鎌倉幕府は地勢にめぐまれていた。それで北条氏にとって天下を取り押えることは、ひじで指を使うように簡単にいったのである。いっぽう室町幕府は地勢がよくなかった。だから足利氏が鎌倉を捨てて京都にいたのは失敗のはじまりなのである。けれど南朝のことが気にかかったので、鎌倉から離れることもできず、子弟に鎌倉を鎮めさせた。
 ところが、これが争いの原因になり、それから起こった内乱を利用して転覆させた。その結果はどうだろう。室町幕府もこのときから乱れはじめたのである。そうして足利氏の末世になると、七道の豪傑が相次いで噛み合いをはじめ、元亀・天正のころには天下が分裂したが、そのなかで最も大きな国が、北条氏と武田氏と上杉氏と毛利氏だった。
 北条氏は伊豆を取ったあとで関東八州を押えていた。武田氏は甲斐から起こって、信濃・飛騨、駿河、上野かみつけを併合した。上杉氏は越後から起こって越中・能登・加賀のほか荘内・会津にまで及んだ。毛利氏はというと安芸あきより起こって山陽・山陰十三州を併合したから領土は最も広い。けれど地勢が股や脛に当るところだったから、腰や尻に当る京畿で戦いを挑むのは無理だった。
 いっぽう北条氏が天下の胸や腹に当る地勢の利を占めながら一度も京畿ヘ兵を繰り出さなかったのは、その背中の地勢にある武田・上杉の二氏が通路をふさいでいたからだった。この武田氏と上杉氏といえば双方の勢力が匹敵していて勝負がきまらない。それで両氏とも西のほうへ向かう暇はなかった。
 これら四氏のあいだに挟まれていたのが織田氏である。天下の形勢を見抜いた織田氏は、攻めやすい西を先にして東をあと回しにした。険しい所を捨てて平らな所を取った。それで力もそう使わず、目的をたっすることも早かったが、豊臣氏もこの教えにしたがったため、ついに天下を一つに合わせることに成功したのだった。
 頼山陽は以上のように室町時代末期の群雄割拠のありさまを観察し、だから天下の形勢を知らなければならないと言っているので、なるほどと感心し「応仁の乱」や「戦国幻想曲」を復習している気持ちにもなったのである。それにしても本屋さんが教えてくれた「利」と「利冊」の意味が気になってしようがない。それで「岩波古語辞典」を引っぱってみたところ利益の意味しか出ていない。おやおや、漢和辞典だとどうなんだろうと思ったが、必要がないから買ってなかった。おかしいなあ、どうして「利」を二冊目だと教えてくれたんだろう。
 翌日また気になったので近所の古本屋でなじみの遠藤書店へ出かけ、丸い腰掛けを借りて漢和辞典をめくったが、やっとさがした「利」には、やっぱり普通とおんなじ意味しかない。あきらめて横を見ると歴史関係書の棚で、土橋治重著「城攻め・落城秘話」というのが目についた。ぼくは日本のお城には興味がもてない男なのである。けれどこのまえ「火の国の城」を読んで大坂城のことが分かったし、落城秘話となると、その題名からの受け取りかたも以前とはだいぶ違ってきている。「戦国幻想曲」には最初のアクション場面で、槍の渡辺勘兵衛が殊勲をたてる織田信忠の大軍の高遠攻めがあった。
 天正十年(一五八二年)三月一日の夜明け、伊那の飯島城を落した信忠軍は天竜川をわたり、赤石山脈の山すそを斜めに進み、天竜川の支流・三峰みぶ川にそって東へまがり、海抜一千メートルの月蔵山の山すそが西へのびた段丘のうえにある高遠城を目ざして肉薄した。
 このような地勢的な叙述に「戦国幻想曲」と「応仁の乱」を読んでいるとき、いくどもぶつかって緊張させるが、高遠城内の兵力といえば、おそらく五千ほどであったろう。それを五万余の織田の大軍が包囲している。『あの城は明日いっぱいに落ちるだろう』と本陣の将兵は、語り合っていたが、城を死守する仁科盛信や小山田備中守の奮戦にもかかわらず、そのとおりになってしまった。
 この一日だけで終わった籠城戦のことが「城攻め・落城秘話」にも説明してあるが、これはぼくには大いに役立った。というのは第一に城兵の十倍以上の敵軍に包囲されたとき、その城は守りきれない。第二に鉄砲を多数持った優勢な敵の攻撃にあうと、味方はきわめて不利な立場に陥る。第三に援軍のない城はかならず落ちてしまう。という戦術上の三原則があって、この原則を無視したわけではなく、はじめから落城するのを覚悟して戦ったのが武田勢だった。

 ほかにも参考書を三冊買った。その一冊は昨年十月に出版された建築家・西沢文隆著「庭園論」で、これも三宿の江口書店という古本屋で何気なく手に取ってめくったのである。そうしたら「日本庭園のモチーフ」という章があって、そのとき「応仁の乱」に出てくる庭師善阿弥のことを思い出したが、日本庭園のモチーフには「石」の項目があって、つぎのように説明してあった。
 室町時代にはいると禅宗や宋の水墨画の影響もあって、石に自然の気骨を見出すようになり、以前のような石にたいする信仰ではなく、造形意識から生まれた枯山水の庭の美的構成材として重要なものになった。そうして中国から渡来した盆石の影響だろう。石の実体というよりも石のなかに潜んでいる自然の気韻と生動を感じ取り、虚の世界のなかで自然の風韻を味わうのが根本であった。
 こう説明されると善阿弥に室町御所の庭造りをさせた足利義政の心境を、またすぐ考えはじめるが、ついで当時の庭石の蒐集家十名のなかに、義教と義政がはいっていて、つぎのような古い記録を書きとめてある。
 永享元年(一四二九年)二月、足利義教は万里小路殿までのこうじどのの設営に、鹿苑寺より庭石を、同年十月、青蓮院より大石を運ぶ。
 康正三年(一四五七年)四月、足利義政は万里小路殿を作庭するために仁和寺の庭石を運ぶ。石一個を運ぶのに四百人を要した。(「看聞御記」より)
 ここでまたぼくには重要な参考資料になり、室町時代をよりよく理解させてくれたのが、つい最近出版された「新書日本史」の第四巻で上島有著「戦乱と一揆」(講談社現代新書)である。この本から、つぎのようなことを教わった。
 文明五年(一四七三年)の十二月に足利義尚は九歳で征夷大将軍になった。ここで中編「応仁の乱」は終わっている。それから義政はどうしたのだろうか。望みどおり隠退することができると、それからは六年目にはいった大乱をよそに、酒にひたり連歌会をもよおして風流の道に生きがいを見出していたのである。そうして文明十四年二月から隠棲いんせいの場所として浄土寺山に東山山荘の造営をはじめ、善阿弥に作庭させた。
 この庭園は静けさと寂しさに徹底していて、翌十五年六月にできあがった東山殿ひがしやまどのや、十八年に完成した仏間の東求堂とうぐどう、茶室の起源とされている書院造の同仁斎どうじんさいなど、庭園のなかに溶け込むように配置されている。もちろん銀閣もその配置の一つだが、義政は中風で半身不随となり、その完成を見ずに延徳二年(一四九〇年)の一月に五十五歳で世を去った。
 なお九歳で征夷大将軍になった義尚が、将軍として実際の政治をみるようになったのは、義政が東山山荘へ移った文明十五年からで、この山荘生活のころを東山時代といい、そのころ発生した特色ある文化を東山文化といっている。

「戦乱と一揆」のおかげで以上の引用ができたが、ここまで引用したわけは、もう一冊の参考書として山崎正和著「室町記」(朝日選書)を読んだとき、すっかり感心してしまったからである。それで前著とおなじく勝手な引用をさせてもらおう。あまりに断片的な引用のうえ前後が転倒したりするので、著者には迷惑がかかるのを知りながらも書いておきたくなった。

 応仁の乱それ自体が論理的な筋の乏しい戦争であった。この空前の戦乱は京都の町を焼きつくしたが、奇蹟的なことは、この乱世がまた偉大な趣味の時代だったことだ。西洋人を感動させる日本の「庭」を完成したのも、この時代の趣味であった。義政はしだいに政治の実権から離れていった。
 室町将軍というものを、どのように位置づけたらいいだろうか。簡単にいえば、それは純粋な権威として、あたかも天皇のように生きるか、歴代の天皇は自然の一部のように権力争いのうえに超然としていたのだ、それとも本来の征夷大将軍として実質的な権力をいくらかでも取ることにするか、これが将軍にとっての課題となってくる。
 このどっちかという選択は足利歴代の将軍に絶えずつきまとった難問であって、どの将軍にも多かれ少なかれ迷いがあった。そのなかで義政はとくに純粋な権威に徹した将軍であり、義教と義尚は、はっきり権力に生きようとして敗北した例であった。本来は関東出身の足利家が、幕府を京都室町に開いたことは歴史の興味深いいたずらであった。幕府がもしこの古い都会に置かれなかったら、日本の都市文化は少なくともなお百年は遅れていたにちがいない。だから偶然とはいえじつに計り知れない幸運であった。
 それにしても応仁の乱ほどわかりにくい戦争は珍しい、と著者はいい「あとがき」を読むと、室町時代は日本史の各時代のなかでも、もっとも日本人の一般的な興味から縁遠い時代だといわれてきた。たしかに普通の日本人に、ひとつの統一あるイメージをあたえないことは事実のようだ、と言っている。最初に引用したように「日本外史」と「室町記」とで足利幕府にたいする考えかたが否定と肯定とに分かれるあたりは、シロウトのぼくにも関心をいだかさせることになるのだった。

 引用ずくめの受け売りでここまで来たとき、やっとぼくにも、ひとこと言わせてもらうことができそうだ。それは足利義政の心境を想像してみたイメージなのだが、すこし突飛なので口に出せなかったのである。思いきって言ってしまうとルネ・マグリットの油絵であって、こないだ銀座のイエナ書店で買った薄くて小型の「シュルレアリスム辞典」をめくったら、またもや出てきたのだった。
 この本は一九七三年にジョゼ・ピェールがパリで出版したのを、翌年W・J・ストラカンが英訳したものだが、知らなかったシュルレアリスム関係のデータが豊富なので面白い。マグリットの油絵は有名な「療法学者」で、日本でも五年前に「ルネ・マグリット展」が描いてないのに平たい帽子と両手と片手のステッキと外套みたいな鳥籠のおおい切れ。草地に腰をおろしている両足で、まぎれもない人間に見えてくる。
 これが「応仁の乱」を読んだあとで、ぼくには足利義政の姿に見えたのだった。顔のないマグリットの人間の全体像は、なんとなく鎧かぶとの将軍を連想させるし、ハトがいる鳥籠が義政にとっての庭園みたいに見えてくるからだった。ほくはまた池波正太郎の師匠だった長谷川伸が『これを書いて、きみはちょいと変ったね』と、土方歳三のエピソード「色」を読んだときの印象を語ったのを「応仁の乱」にぶつかって思い出さないではいられなかった。師匠の言葉のよりどころは、この作品ではなかったかと考えられるからである。
 短編の「鳥居強右衛門すねえもん」は籠城戦のエピソードだが、念のため角川版・日本史辞典をひいたら、この主人公の説明がつぎのようになっていた。知っている人も多いだろう。戦国時代の武士。生年不明。三河長篠城主・奥平貞昌の家臣。名は勝商かつあきというが不詳。天正三年(一五七五年)に武田勝頼が長篠城を包囲し城が危機にひんしたとき、城を脱出、密使として徳川家康に援助を請うたが、帰途捕えられて殺された。

 このとき貞昌の手勢は僅かに五百で、一万七千の敵の大軍に包囲されている。さきに引用した落城の相互関係からも絶望的だし、家康の援軍もいつ来るか分からない状況になっている。強右衛門といえば夫婦仲はとてもよかったが、子供が七人もできたので生活がくるしい。戦場で手柄をたてなければ出世はのぞまれない時代だった。そんなわけで主君思いの彼は、敵の監視の目をくぐって目的をはたそうとするのだが、そのあいだも女房のことが頭から去らないのだった。池波作品では「猛婦」のお津那のような印象につよく残る女がよく出てくる。長谷川伸が褒めたのも、そこから庶民的な人情味が出てきたからであるが、作者にとっても執筆中に直面する、重くて堅い壁のどこかへ穴をあけることになった。
 その穴はちっぽけだったと彼は謙そんしているけれど、その穴は人間が通り抜けられるような大きい穴である必要はない。ちっぽけな穴のほうが、そこに目をくっつけて覗いたとき、むこうの景色はより視野がひろがって、はじめて見るような印象をあたえることが多いからである。いま思い出したのはルイス・ブニュエルの映画「ロビンソン・クルーソー」(一九五四年)を見たときであるが、波打ちぎわを双眼鏡で遠くから覗いた光景に、ダニエル・デフォの小説がこんなにも魅力があるのかと驚いたものだった。
 もちろん双眼鏡で覗いたときと壁の穴から覗いたときとは、近景と遠景といったふうに違ってくるが、映画で鍛えた作者の目は、その関係をうまく保ち続けながら物語を展開していく。そうした目のはたらきを「戦国幻想曲」を読んでいるとき、いくども感じ取った。渡辺勘兵衛は大和の郡山城主・増田長盛の家臣として、手勢三百の籠城軍の先頭に立ちながら、藤堂高虎が率いる千の部隊に包囲されても、なかなか城を明け渡さなかった。
 この場面は「真田太平記」の合戦場面を思い出させる雄大な構想だ。渡辺勘兵衛という戦国武士は、アメリカの歴史でいえば南北戦争時代の「ソルジャー・オブ・フォーチュン」といっていいだろう。社会の変革期にチャンスをつかんで活躍する風雲児的な性格として共通したものがある。そういえば独立戦争のときに繰り返された戦闘図を数十葉にした一抱えもある大きな本をニューヨークで見付けたが、その地勢や部隊配置図を見たとき、日本の戦国時代とおんなじだなあと思ったものだった。

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