もくじ

【序】歌舞伎の殺陣

【一】尾上松之助の殺陣

【二】沢田正二郎の殺陣

【三】阪東妻三郎の殺陣

【四】大河内伝次郎の殺陣

【五】〝傾向映画〟から明朗時代劇へ

【六】戦時下の空白

【七】嵐寛・長谷川の殺陣

【八】右太衛門・千恵蔵の殺陣

【九】二スケ二ゾウの殺陣

【十】三船敏郎の殺陣

【十一】勝新太郎の殺陣

【十二】近衛十四郎の殺陣

【十三】若山富三郎の殺陣

【十四】任侠映画の殺陣

【十五】ニュー時代劇の殺陣

【十六】テレビ時代劇の殺陣

【終】殺陣論


永田哲朗(ながたてつろう)

1931年 北海道に生まれる
1955年 早稲田大学法学部卒業
出版社勤務を経て、フリーライター

永田哲朗(ながたてつろう)

1931年 北海道に生まれる
1955年 早稲田大学法学部卒業
出版社勤務を経て、フリーライター

殺陣 チャンバラ映画史

永田哲朗
〝タテ〟と〝立回り〟
 歌舞伎では闘争形式を「タテ」という。闘争の演技そのものは「立回り」であり、その型が「タテ」だ。タテは立回りの立の字をとって略称されたという説が普通である。
 もっとも享和三年(1803)に出された『戯場訓蒙図彙しばいきんもうずい』に「殺陣」と書いて「たちうち」とふり仮名がしてあり、さらに「三個殺陣」を「さんにんのたて」とよませている。
 従って、「殺陣」はもとから歌舞伎にあったものだ。
 タテは専門の「タテ師」または「立師」と呼ばれるその職分に熟練した俳優がつける。タテの種類は昔から四十八手といわれているが、その組み合わせは必ずしも一定していない。
 歌舞伎の狂言の中に現れる闘争は、合戦、仇討ち、試合、暗殺、捕物、辻斬り、喧嘩、組み討ち等々、いろいろなケースがあり、それに相対掛かりをはじめ、三人掛かり、五人掛かり、十人掛かり、二十人掛かりの形式もある。そこで、上演のつど、前後の配合を考え、脚本の内容によってタテ師が選択研究し、一定の手順をこしらえ、舞踊の振り付けのように動きを考案する。
 このとき、江戸では「ツケ」、関西では「カゲ」というが、気勢を加えるために拍子木を板に打ちつける鳴物入りで立回りを構成する。
『国劇要覧』(昭和七年刊)に、
《立廻りも昔は『暫』や『千本桜』の弁慶芋洗ひに名残りを留めてゐるやうに、荒事師の大太刀で大勢一時に倒れたものである。それが今日の如く手が込んで様式化され、軽業式になったのは安永天明頃からである。本来の殺伐味や惨忍味を殆ど失って了って、ある時は軽妙極まる曲芸となり、ある時は振面白き舞踊に化し去り、又ある時は賑かな相方で道化三昧さえ加はって、見る者は陽気に楽しむ事が出来る。これは観客を飽かせまいとする歌舞技の一つの手法である。》
 とあり、立回りの流れがこれでわかる。
「タテは『立手』で能の方から来ており、『働き』という意味。陣立て、いくさ立てが原典であり兵法の言葉だ。元祿以降、太刀打ち、兵法、修羅事などに用いられ、これに見世物(高場物)から力技、足芸、早技が入ってきて、トンボがとり入れられる。
 そして享保年間(1920年代)に立回りが定着した。この時代は二人で斬り合ったりすることや組み打ちを立回り、大勢の場合はタテといって使い分けていた。
 明治以降、二つは混同して使われるようになった」
 と国立劇場制作室長の織田紘二氏は述べている。

〝だんまり〟
 歌舞伎の形式に「だんまり」という一種のパントマイムがあるが、これには筋はなく、主役をはじめ、花形役者が登場し、暗闇の中で宝物や白旗などを奪い合い探り合う模様を、誇張し、舞踊風に様式化したものだ。
《演技としては、ただ舞台を歩き、探り合いの立廻りを見せる。立廻りの手順も大体きまった型をもっている。人の体に触れかけて避けたり、入れ替ったり、腰にとりつく、払う、背中合わせになる、そういった動きのうちに、美しい景容すなわち「見得」をするのである。》(金沢康隆『歌舞伎の事典』より)
 この「だんまり」に暗闘の字をあてる場合が多く、暗闇の中で数人が闘うのであるから、これはタテそのものともいえる。「だんまり」は、脚本の内容によって「時代だんまり」と「世話だんまり」に大別されるが、各人物の動きには常に一貫する相互の関連があり、結んだり離れたりしながら、いろいろな形と見得とを美しく連続させていく典型的な歌舞伎ショーであることに変わりはない。
 タテは、見得を極度に生かして、ほとんど連続的に美しい静止態を見せる。よく大見得を切るなどというが、「見得」は演技感情の最高潮に達したとき、一瞬静止の形をとり、からだ全体、とくに眼に力を入れて睨み、その形をより強く観客に印象づける手法をいう。タテはあくまで様式美を重んずるから、ときには見得を切らせるために動作があるほどの、見得過多も生まれるわけだ。
「だんまり」は見得の連続であり、歌舞伎の粋を集約したものといえるだろう。

〝所作ダテ〟
 歌舞伎を〝動く絵〟と表現する人がいるが、ドラマとしてより、どのように美しく見せるかという視覚的要素が勝っているから、見得のような非リアリズムの演出がいまも通用する。それは、受けとめる側が昔からの約束ごととして肯定しているからであり、その演出にしろ演技にしろ、完成されているからでもあるのだ。
 舞踊劇、たとえば『吉野山道行』とか、お軽勘平の『落人』等に見られるタテは「所作ダテ」といい、音楽につれて、踊りながら演じるものだ。この所作ダテにからむ下回りを、派手な模様の四天という衣装を着ているから「花四天」と呼ぶが、清元の出語りで花四天の捕り手のかかる場合など、動きはもとより、掛け声一つでも三味線の間に合わせていくのである。
 ほかに主役を群衆がとりまいて演じる『逆癖』とか『鈴ヶ森』『千本桜』等のスペクタルとしてのタテがある。これが十人掛かり、二十人掛かりなどの立回りだが、単なる乱闘ではなく、やはり手順どおりの美しい型を作るものであることはいうまでもない。

〝ドンタッポ〟
 このように歌舞伎のタテはあくまでも約束事を守った様式美本位であって、リアルさを要求される映画などの殺陣とは大いに違うのだが、映画の殺陣は歌舞伎のタテからはじまり、その型にも歌舞伎のタテがずいぶんとり入れられている。
 その上、一見スローテンポで悠長ですらある歌舞伎のタテのほうが、かえってむずかしい場合もあるのだ。
 歌舞伎の立師・坂東八重之助が『演劇界』(三十一年七月号)の「歌舞伎のタテ」という座談会で、
「長谷川一夫さんが国際劇場で『権八』をやったことがあるのです。そのときに映画式の早い立廻りの間にどんたっぽが入れたい。自分はどんたっぽで息を抜くつもりだと言われるのです。ところが初日があいてみると、長谷川さんが、こんなえらいものはない、形をしょっ中つけていなければならない。早い方の立廻りは、自分の体ははずみ浮かせておればいい。私はこれで休もうと思ったらとんでもない、これが一番苦しいと言っていましたね」
 といっている。
 ドンタッポというのは、大時代な鷹揚な立回りに使われる伴奏の音楽がそう聞こえるのでつけられたものだが、早い立回りよりもゆっくりドンタッポとやったほうが肉体的には楽だろうという思惑がすっかり外れたわけで、この例だけでも、歌舞伎のタテの性質がつかめるだろう。
 立回りの様式は昔にさかのぼるほど鷹揚で、非写実的だった。写実的な、型に従わない立回りを、歌舞伎では普通使うことはない。そして、一定の型のないリアルな立回りを、タテ師は〝むく犬の喧嘩〟といってさげすんだ。

タテの〝四十八手〟
 タテの種類は俗に四十八手というが、坂東八重之助が前記の座談会で、
「この間学生さんが論文を書くのだということで、いろいろ調べてみたらしいですけれども、ずいぶんあるのですよ。私たちも知らない名称が二百幾つくらいあるのです。ところが現在使っておるのはせいぜい十か十五ですね」
 と語っているのは、一つの目安になる。
 市川市十郎は「殺し場の動きの定型」という表現を用い、
《『戯場訓蒙図彙』にも、天地・切り身・文七・柳・山形・千鳥・引廻し・つめより・ぎば・鬼飛び〉など三十種に及ぶ例があげられ、さらにさかのぼると二百種にも及んだと先輩から聞かされています。現在でもなお二十種近い定型が残されています。》
 と述べている。(『歌舞伎』四十八年七月号「殺しの工夫」)
 高沢初風氏の『現代演劇総覧』(大正七年刊)には、
《タテの種類は大別すると二種に分れる、一は所作タテと云って時代物に用ゆる大まかな型で、一は活歴――普通の二番目物などに出るムク犬と称する型である。其名称のおもなるものを挙げると先づ△宙返り △段返り △二つ返り △後ろ返り △胸返り △仏返り △猿返り △ほうろく返り △逆立ち △あごつき △重ねどんどん △飛び越し △ひょっくり △ぎば △腹ぎば △手這い △胸ぎば △水車 △大まくり △蛇腹 △遅這い △俵転び △頭ひねり △杉立 △廻り天地 △ぶん回し △山形 △羽がえ △連理引 △千鳥 △かんつう △文七 △切身 △大廻り △天地 △廻り天地 △から臼 △柳 △取った △遠当て △入鹿腰 △大まくり △石投げ △偽中にせちゅう △かさね △仕ぬき、其他まだ沢山ある。》
 と書かれている。
 また、雑誌『演劇界』三十一年七月号には、
《歌舞伎の「たて」には基本的な形があり、音楽の力を借りて様式的に見せるのが特色です。種類は色々あって、「天地」「文七」「柳」「切り身」「廻り天地」「千鳥」「手ばち」「宙返り」「ひょっくり」「猿」「杉立ち」「五段返り」「ぎば」「麗つき」「引廻し」「二つ返り」「詰寄せ」「膝つめ」「大廻り」「後ろ返り」「一所返り」「段々返り」「ほろくで返り」「逆立返り」「素首返り」「しばて返り」「手這い」「遅這い」「ぶん廻し」「突き廻し」「眼つぶし」「連理引」「遠当て」「死人返り」「入鹿腰」「続け返り」「皮剥ぎ」「ひとも返り」「水車」と、多種多様です。これら「たて」のテクニックの中で一番訓練を要するのは「とんぼ」で立廻りにかかる俳優は、これが出来ないと等級が下位になる程です。》
 とある。
 これらの型を解説すると――。
△天地 上下に刀を合わす。
△山形 山の形を描くように斬る。立回りの最初の手に多く用いられる。
△柳 受流し。打ってくる刀を逆に斬り込み、二度目の刀をまた逆に受ける。
△文七 捕り手が左右を突くこと。
△切回し 主役が斬る。捕り手は斬られて回る。
△早切り 主役が刀を振るたびごとに、左右の幾人もの捕り手が、一人一人素早く宙返る。
△千鳥 大勢の者を、右と左一人一人入れ違えて斬っていく。
空臼からうす 主役が前へ斬って出るとき、同時に左右の者が後ろへ斬って出る。多人数の場合は、列を揃えて互い違いに前と後ろとへ斬りおろす。
△海老折り 後ろへ返り、足を離して背で受ける。
△将棋倒れ はじめ一人の捕り手が海老えび折りに倒れると、それに準じて後につづく者が、順々に同じ形式に倒れる。
△ギバ 高く飛び上がって、足を開いたまま尻で受け落ちる。
△腹ギバ 一束いっそくに立ったまま、飛び上がって腹ばいに落ちる。
△背ギバ 反り身になって足を前に投げ、背中で受け落ちる。
△横ギバ 一束に立ったまま、体を真横に投げて受け落ちる。
△地蔵倒れ 一束に直立したまま、体を曲げずに横に倒れる。
△眼痛 相手の眼を平手の甲で打つ。
△当て身 拳固げんこまたは平手あるいはひじで、相手の脾腹ひばらを突く。
△遠当て 遠くにいて当て身をする意味。例えば花道で舞台の者を宙返らせるの類。
えら突き 前に頭を見せ胴を下へつけて足を上げる。
△平馬返り 座ったままトンボをきる。
△死人返り 立身のまま棒倒しになる。
さかずき 仰向きに寝た上へ一人トンボを打ってくるのを受ける。
△五段返り 二人が背中合わせになり、足と足と反対にして起き返る。
△仕ぬき 主役に対し大勢が一人ずつタテをする。
△大回り 主役を中心におき、大勢で外を回る。
△闇試合 手さぐりに足をはらう。
△首投げ 主役の右の肩へ、後ろから頭を突き出すのを持って、前へ投げ出す。
△背負い投げ 捕り手の首筋を持って肩へ背負いかけ、それを前へ投げ出す。
△蛇籠 大勢が主役の腰につくこと。暗闘では必ず行われる型。
△羽がい締め 主役の後ろから左右の両手を脇の下へ差しこみ、締め下げる。
△猿返り サルの字を忌んで、ヤエン返りという。仰向けに寝ていて後ろへ返る。
△戸板返し 仰向けに寝ていて、その居所で腹ばいに返る。
△杉立ち 両手を並べてその甲の間へ鼻を入れ、ひじを張って逆立ちをする。
鯱鉾しゃちほこ立ち 舞台へ顔を横につけて、両手を突っ張り逆立ちをする。
△竹田返し 向かい合って相手の両手を持ち、その手を頭上からもぐらせて背中合わせとなり、これをかついで投げる。
△獅子落とし 大の字形に立った者の後ろから股間へ首を差し入れて、背中合わせの逆さかつぎにして、後ろへ投げる。
入鹿いるか越し 向かい合いの者の腰へ両手をかけ、一方は相手の両肩へ手をかけ、はずみを利用して腰を高く持ち上げ、頭上を飛び越えさせる。この技は飛ぶ者と投げる者の呼吸さえ合えば、一挙に五人以上も飛び越し得るとされている。
△人楷子 屋形などの高い所へ登るとき、屋根寄りの最初の者が立ち、次ぎはかがんで順々に低く腰につき、楷子はしごとなって、主役が最後の一番低い者の背中から上っていくと、左右から捕り手が棒を突き出し、それを力にして上る段どりがつけてある。
 このほか、「柄返し」「矢払い」「矢筈」「かんぬき」「飛び違い」「切違い」「切返し」「ヒョックリ」「錐揉きりもみ」「ホホ返り」「八つねじり」「尻飛び」「鉄砲」「蜈蚣むかで」「鬼瓦」「棒投げ」等々、種類はすこぶる多い。
『演劇通史』には《だんだんがへり、とんぼがへり、ぼろんでがへり(よじれて返る)、むねぎば、そつくびおとし(俵ころがし)》等も見えている。

〝トンボ〟
 トンボについては、『昭和歌舞伎大鑑』(昭和二十三年刊)の川尻清潭氏「立まはりの話」が詳しい。
「三徳」に落ちる事が出来れば一人前。三徳とは片足ではづんで、ポンと返へって両手で受ける方法。漸くの事でこれを仕上げた所で、筋斗とんぼ返へりの種類はまだ何十種もあって、「居所返へり」と名附ける、床几しょうぎの上で返へって床几の上へ落ちるもの。「後返へり」と名附けて逆に後ろへ返へるもの。「返へり越し」と名附けて三人五人を返へり越すもの。「平馬返へり」「段々返へり」「車返へり」等もあり、又曲芸としては傘をさして返へる芸の中、舞台へ置いた開いた傘を返へり越し、其居所で三徳に返へり、更に猿返へりをして柄を股にはさみ、股抜きに傘を前へ取り、轆轤の方を持って上へ廻して突上げ、落ちて来る間に宙返へりをして傘を股の上で受けるのを、「傘の盃」と名附けられてゐるが、斯う云ふ事をする人がなくなった。其他水撒き桶を冠った儘宙返へるなどは、『新薄雪』でも出れば清水堂の妻平の立廻りの件で、今でも見られる仕事である。》
 よく「トンボを切る」というが、主役の強さを強調するため、これにかかる下回りの役は、主役が手を返したり、足で蹴飛ばすごとに宙返りを演じるのだ。下回りの役は、踏まれたり、蹴飛ばされたり、襟首をつかまれたり、さんざんな目にあわされるのだが、どんな場合でも、主役と一体となって、タテの様式美を構成しなくてはならない。
 だが現在、この技術はきわめて低下し、やれる者は数人といわれている。トンボは、主役がトンボを返れないと、返される捕り手は非常な危険を伴うそうで、主役俳優がやれないために、下回りの連中もできなくなり、トンボがだんだんすたれる傾向にあるのは惜しむべきことだ。

立回りの武器
《立廻りに使用される武器は、刀、短刀、槍、長刀、十手、突棒、刺股、袖からみの類が多く、時に大立廻りの一部には、「忠度の畳のタテ」「五右衛門の梯子のタテ」「忠弥の戸板のタテ」など云ふ特殊なものもあり。又は蘭平の「井戸屋形のタテ」とか、小金吾の「竹藪のタテ」とか、弁天小僧の「極楽寺の山門のタテ」とか、場所の名で呼ぶものもある。此外立廻り中の趣向としては、『逆贈』の樋口の捕物に、大勢の船頭を舞台一杯に並べ、下手の端の者が一人の肩の上へ、逆立となるがへさきの形、上手をに見立た入船の模様。又『道成寺』の幕切に、蛇体が釣鐘の上へ登る時、鱗四天が其鐘を巻くやうに下手まで流れ、最後の一人が蛇尾の形に逆立をして、舞台一杯の大蛇を出現する模様。又『土蜘つちぐも』の大見得に、八人の軍兵が四人づつ左右に別れて、後ろ向きに蜘の精の腰へ附くのが、蜘の足の見立となって、舞台の中央へ偉大な土蜘が現はれるなど、佳き立師佳き振附の立廻りの工夫が、今日に伝へ残されたものである。》(「立まはりの話」)
 市川市十郎の解説もわかりやすい。
各場面やすぐれた型のなかに、狂言や役柄に因んだ趣向、あるいは、時世風俗、有名画面や神仏の形、最近上演の有名狂言のもじりや俚諺りげんなど、なにか一手は新趣向を盛り込む事を誇りとしてきています。いま、その中の二三を御紹介します。
〈狂言の役柄を利用したタテ〉『逆櫓』の樋口と船頭のかいを使ってのタテは、海を背景として海産物や船の形を見せています。
〈そこの大道具を利用したタテ〉『千本桜』の竹藪の小金吾のタテは、捕方が数本並列した竹の一本一本を渡ってゆく(竹渡り)、『曽我の石段』で近江・八幡が段の上下を利用したタテ。
〈可笑味のタテ〉『鈴ヶ森』の権八と雲助達のタテは此種のものの横綱格です。『夏祭』の住吉で団七は、大鳥佐賀右衛門との立廻りで琴浦に道を教え、また『都鳥』の食事をしながらの「おまんまの立廻り」という傑作もあります。
〈小道具を利用したタテ〉『賀の祝』の松王、梅王の米俵を使った「俵ダテ」、『京人形』の大工達の大工道具のタテ。
〈有名狂言をもじったタテ〉世話狂言の三枚目の活躍として付けられています。『弁天小僧』の浜松屋、『加賀鷲』の質店で番頭と小僧が錣引しころびきをもじったタテがあります。
〈特殊道具を利用したタテ〉『安中草三』の水車の立廻り、『蘭平』の屋根付き井戸や石灯籠を利用したタテ等があります。
 こうしてきますと、立廻りの趣向は必ずしも狂言、役柄に合わせた真面目なものだけとは限らず、遊びを意識して他狂言や役者の得意芸をもじり、そして観客と楽しみあうような御趣向に仕立てています。》(「殺しの工夫」)

夕テ師
 このように、歌舞伎のタテは多種多様である。そしてこうした立回りによって舞台が引き立つも立たぬも、タテ師の技量一つということになる。
 市川市十郎はこういっている。
《立師は狂言の質を考慮しながら残されたこれら定型を組み合わせ、時には全く新しい型を創案、加味しながら〈殺し〉の構図を創ってゆくわけです。しかし、この構図を花や実に演じ生かすのが間(ま)と呼吸(いき)で、これで殺陣が生きもし死にもします。また、浄瑠璃、下座音楽、ツケなどと混然一体となって、歌舞伎芝居らしい雰囲気を醸し出すのです。》(「殺しの工夫」)
 歌舞伎のタテは、一時に何組かの争闘が平行して行われるということはまれで、たいてい、一人の主役を大勢がとり囲んでかかっていく。それで主役を極度に疲れさせないために、周囲の人がはげしく動き、主役はあまりはげしく動かず、ただあしらっているという演出が多い。これだけでも映画などとは大いに異なる特殊性だ。
 また、川尻氏は、
立師は立廻りの型をこしらえるのが職業であって、それには先づ最初一応剣道の先生に就て、太刀、長刀、槍等のつかひ方を覚えた上、芝居の鳴物に合せて組上げて行くのに、必ずしも剣道柔道の本手ばかりを編入れて行くのでなく、寧ろ逆に本手の裏を用ひるなどが、却て斯道の性根とも言ひ得る所で、正直に本手計りを用ひてゐては、真に立つ俳優が疲れて了ふ結果となる為、立廻りの秘訣は真を取る人を動かさずに、周囲から掛る者を替る替る働らかせて、然も真の者が充分活躍してゐるが如く、又様式的にも見栄みばえよく、緩急よろしきを得た変化の手順を見せるのが技倆とされている。》(「立まはりの話」)
 タテ師は立回りの師匠番の意味で「立師」という字も使うが、多くは身分の低い俳優の中から出た。
 名題下なだいしたで三階の板の間に敷物を敷いて部屋にしていたところから俗に「板の間」とも呼ばれる「中通ちゅうどおり」の階級の役者が、立回りにトンボを返るのを専門としていた。その頭を「中頭」といい、中通りの取り締りに当たり、給金も一括して中頭が受けとり、分配した。
《昔は大定たいてい、「中通り」と云った役者の初めに、「立師頭」と呼ばれる者がゐて、これと並んで「頭脇」があって、この立師頭は尺長の樫の十手に銀箔を置かせて、歯止めまで本式に附けてある物を、常に大切にして持ってゐて、家へ帰れば神棚へ上げて置いた位、そうして頭脇が出世をする日でも来れば、其品を譲渡するのが、伝授を許すことになってゐて、右の銀棒十手の事一本握ってるれば、日本国中の芝居は、何処でも裸一貫で渡り歩けたものであった。》(「立まはりの話」)という。
 何やら包丁一本さらしに巻いての板前を連想させるが、このようにタテ師は、役者というよりは〝職人〟のニュアンスが強い。

歌舞伎の〝タテ〟
 歌舞伎は伝統芸術である。長い歴史の中に構築され、伝承されて来たその形とか様式などは、それなりに完成されたものといえる。歌舞伎のテンポが現代にマッチしない、若い人にはふりむかれないといっても、それを性急に変えることはむずかしいし、また、古典は古典としてそのまま残すべきであろう。
 したがって、歌舞伎の立回りが間延びしているとか、退屈であるとかいっても、それは所作の一つ、あるいは一種の舞踊のように、狂言の中に組み込まれ、そして全体が構成されている。だから、立回りの場面だけをとくに現代風にリアルな演出をするということは、趣向として、あるいは実験として前衛的意図をもってなされるかもしれないが、あくまで例外的なものにとどまるだろう。
 歌舞伎のタテ――立回りは、伝統をふまえ、完成された様式美をさらに洗練されたものにすることだ。アレンジするのはいいとしても、原型は確実に残しておく、これが最も大切だ。
 最近の歌舞伎俳優は、テレビ出演などによって、非常にポピュラーな人気タレント化した反面、勉強不足、練習不足が目立っている。ただ単に恵まれた資質を受けついだだけでは、遠からず歌舞伎は滅びる。すぐれた資質に加えて血のにじむような努力があってこそ、この古典芸術は永く生命を保つ。
 特殊な演技である立回りはとくにそうだ。卑近な例で、トンボがかつてのような多彩なものが見られなくなったことがあげられる。現代に順応する立回りなどというより、基本技でありカナメ技であるトンボを強化するのが先決だ。
 昔は単に立回りといえば、すなわちトンボを意味したほどだった。現在のように立回りといっても、トンボを返らず追っかけばかりに終始しているのは、立回りの本来の姿ではない。歌舞伎の立回りは、その意味で変質しつつあり、型さえ残らなくなるおそれもある。
 市川市十郎が、
《歌舞伎のタテの技術は変化しつつ、映画の時代劇を通して、今はテレビの殺陣にもその伝統の余波をもたらしている。日本の演劇伝統のなかで、いちばん現代演劇に抵抗なく摂取されている分野はといえば、やはりタテの技術に尽きるのではあるまいか。》(「殺しの工夫」)
 といっているのは、彼が先に立回りが様式化の範囲を逸脱して形骸化していることを指摘した後だけに、当時者の意見として興味深い。
 ビートたけしが『週刊文春』(平成四年一月九日)の「場外乱闘」に、
《(歌舞伎の)立ち回りのカタチがどうも古すぎるっていうか、千葉真一さんの「JAC」をテレビで見慣れている時代なんだから、主役や女役はともかく、アクション場面に改革があってもいい気がしたね。スタントマンを採用するって方法もあるし、逆にもっと形式美に徹してさ、捕り物場面なんかロープを使わずに、パントマイムでやって踊りに近いカタチで演出するってのも考えられるよな。》
 といっているのも、芸能界の人間がいっていることだけに参考になる。
 終わりの話はすでに「だんまり」があるから別として、アクション場面を改革しろというのは、現代のスピードとあまりにもかけ離れているからだろう。その意味で市川猿之助の「スーパー歌舞伎」における一連の大胆な試みは、立回りだけでなく、歌舞伎そのものの未来を問うものとして注目されるのだ。
松之助以前の〝活動写真〟
 日本で最初の国産劇映画は、明治三十二年(1899)に小西写真店が撮影した『ピストル強盗清水定吉』(または『稲妻強盗』)だといわれている。
 それ以前には町や風景の実写、芸者の舞踊が撮影されたていどであった。それから二カ月ほどたって、名優市川団十郎と尾上菊五郎の『紅葉狩』が撮影されているが、もちろん劇映画とはいえない。
 その後、明治三十五年に、横田商会が『肥後の駒下駄』を作っている。ただし、作品の出来が悪く東京では上映されなかった。
 本格的に製作されだしたのは明治四十年からで、横田商会が『本能寺合戦』『菅原伝授手習鑑』『児島高徳誉の桜』等をつぎつぎと撮影、『本能寺合戦』は翌四十一年九月十七日、錦輝館で公開された。これが旧劇物上映の最初だろう。
 この間、吉沢商店が、川上音二郎一派の出演で『和洋折衷結婚式』という喜劇を作り、また『焼け野の雉子』『恋と恋』等も作った。
 こうして創世期の日本映画界は、旧劇の横田、新派の吉沢という二つの大きな流れが形成されていく。ほかにMパテー、福宝堂の二社があり、後にこの四社が合同して日本活動写真株式会社(日活)を創立するのである。
 旧劇とか新派というのは、明治二十年に時の政府から東京を追放された自由民権運動の青年たちが、弾圧をまぬがれるため、演説に代わるものとして〝壮士節〟と〝壮士芝居〟をはじめた。もちろん正論鼓吹のためである。次いで川上音二郎の〝書生芝居〟が誕生。それが新演劇として確立されたとき、江戸時代の産物である歌舞伎を旧時代のもの、すなわち〝旧派〟〝旧劇〟とし、それに対して、〝新派〟と呼びならわされたのだ。
 創世期からしばらく後まで映画は〝活動写真〟と呼ばれていた。その活動写真はほとんど舞台の模写ないし〝複製〟で、ことに旧劇は歌舞伎の舞台そのままの引き写しだったから、当時の歌舞伎俳優が活動写真を軽んじたのも無理はなかった。
 彼らには歌舞伎が大衆にとって最高の娯楽という自負があったし、当時の支配階級から保護されて一種の特権意識を持っていた。だから戸外で撮影する活動写真に出る役者を〝土の匂いがする〟といってさげすんだ。役者にとっては板の上の芝居、つまり舞台が最高で、土の上におりてする芝居、つまり活動写真に出ることなどは、役者としての堕落であると、敬遠する傾向があった。
 さらに、活動写真の人気がようやく高まってくると、東京の劇場組合は、組合所属の歌舞伎俳優が活動に出ることを禁止する通達を出した。このため、当時の旧劇出演俳優は、地方回りや小芝居の、役者としてはランクが下の連中がほとんどだった。
 後年、テレビ局が出来たとき、映画会社が専属スターのテレビ出演を禁じたのと状況がよく似ているではないか。

牧野省三と松之助
 横田商会は、京都西陣の千本座の座主であった牧野省三に活動写真の製作を請け負わせていた。牧野は『本能寺合戦』を皮切りに、数本の作品を発表したが、たまたま旅行中に、岡山県玉島町の芝居小屋で尾上松之助を見出した(これには異説もあるが従来通りにしておく)。彼を得たことによって、牧野の活動写真作りには拍車がかかった。
 牧野省三のことを後世〝日本映画の父〟と呼ぶが、尾上松之助とコンビで、はじめて興行価値ある作品が生まれたし、松之助は日本映画最初のスターとなったのである。
 第一作は明治四十二年の『碁盤忠信』だった。
 滝沢一氏の「日本時代映画史稿」(『時代映画』三十五年六月号)によると、
《ともかく松之助の第一回作品『碁盤忠信』は当時たいへんな好評であった。「立回りがよかったんですネ」(池田富保・談)というのだが、このばあいそれ以上の表現の言葉がないであろう。映画の内容そのものは歌舞伎を一歩も出ていない。ただ立回りだけが普通の歌舞伎の舞台のそれよりも動きに軽快さがあったに違いない。トンボ松の身の軽さが役立ったことであり、そこにいささかでも歌舞伎ばなれのしたテンポがあったのだと想像する。
「舞台からみたら新しい人でした」という池田富保の批評はこの際適切であろう。》
 ということで、さすがに牧野の目は高かった。この成功で自信を得た牧野は、昼間は種とり(撮影のことを当時そういった)、夜は千本座の芝居で松之助を使ったが、第三作目『石山軍記』のとき、楠七郎に扮した松之助が、櫓の上から敵軍をにらみつけ、キッと目玉をむいて歌舞伎独特の見得を切った。このシーンで観客は「よう、目玉ァ」と大喝架を送り、それ以来彼は〝目玉の松ちゃん〟の愛称で呼ばれるようになった。
 だが本当は、決して目の大きい人ではなく、むしろ細いほうだったという。細いからこそ目をむいたとき、いっそう引き立ったのだろう。
 とにかく松之助はたちまち人気者になり、牧野は矢つぎ早に彼の主演ものを製作した。『日活四十年史』によると、三日に一本ぐらいのペースで大量生産され、松之助が大正十五年、五十一歳の生涯を終えるまで、実に一千本以上という驚異的な製作記録を生んでいる。
 松之助映画は横田商会のドル箱であり、大正元年四社合同で日活が成立してからも、依然として日本映画界に君臨した。
 大量生産されたということは、それだけ大衆が松之助映画を求めたということだが、牧野は同じセット、同じロケーション先で、ちょっと髷とか衣装を変えただけで違った劇を作った。それが三日に一本のハイペースの秘密である。
 牧野は一筋、二ぬけ、三動作を映画製作の信条としていた。ストーリーの面白さを一番重んじ、ぬけ、すなわち画面のきれいなことがその次、俳優の演技は第二義的なものに考えていたわけだ。それで、撮影台本もなく、義太夫ファンだった牧野が口ダテで筋やセリフをしゃべり、役者はカンで芝居をしたという。もちろん、無声映画なればこそ出来たテクニックといえよう。

「立川文庫」と松之助
 松之助映画が生まれて間もなくの明治四十四年十月五日初刷で「立川文庫」の第一巻『一休禅師』が売り出され、以後、続々刊行されたが、みなベストセラーになる大変な人気だった。ことに『猿飛佐助』を頂点とする忍術ものは、熱狂的な支持を得た。この「立川文庫」の普及と松之助映画は相乗作用を起こした。『徳川天一坊』『小楠公』『柳生荒木奉書試合』『木村長門守重成』『牛若丸』『真田幸村』『曽我兄弟』『由比正雪』『三日月次郎吉』『堀部安兵衛』『笹野権三郎』『岩見重太郎』『尼子十勇士』『石川五右衛門』『八犬伝』『清水の次郎長』『高山彦九郎』『大石内蔵助一代記』『梁川庄八』『二蓋笠柳生又十郎』『霧隠才蔵』『宇都宮釣天井』『塚原卜伝』『松平長七郎』『自雷也』『花川戸長兵衛』等々、英雄、豪傑、剣聖、義士、俠客、忍術使い、およそ人口に膾炙かいしゃされたヒーローで松之助のやらなかったものはない。
 そのネタは、歌舞伎、講談、浪曲、義太夫、稗史はいし、伝説等、いろいろあるが、一番ウケたのが「立川文庫」が生んだ猿飛佐助をはじめとする忍術名人たちだった。
 松之助の忍術映画はまさに一世を風靡し、子供たちは〝忍術ごっこ〟に夢中になった。ちょうど戦後のプロレスブームで、子供たちの間に〝プロレスごっこ〟がはやり、また怪獣ブームで〝怪獣ごっこ〟がはやったのと同じ現象である。
 その〝忍者ごっこ〟ひいてはカツドウの害悪が識者の間で論じられるほどだったが、印を結んで呪文を唱えるとパッと消える式の、きわめて幼稚なものが、当時はアピールしたのである。もっとも、それなりに製作する側も苦心して、トリックを発明した。

忍者映画のトリック
 塀から飛び降りるところを逆回転で撮影すると、見事ヒラリと飛び上がったように見える。観客は、なんと身の軽い男だろうと、まるで本当の忍術使いのように松之助を英雄視するのである。
 また、波の上を六法を踏んで歩くトリックは、撮影技師が適当に波を撮影し、別に白バックで白布を敷きつめたところを松之助に歩かせ、これを焼きつけガラスに墨を塗って二重焼きにすると、一分のスキなく波の上を歩くように見え、拍手喝采鳴りやまずということになるのだった。
 高木健夫氏は、
《尾上松之助のチャンバラ、忍術映画が出た「大正」というあの時代は、日本の歴史の上でも、奇妙にもの悲しい時代であった。(中略)夢と現実がいりまじって、なんともいえない酸っぱいロマンの時代であった。
 その頃の子供たちの夢は、しかしはてしなく多様でバラ色で、満蒙へ行って馬賊になる夢から、月の世界に飛行船で探険旅行に出るという、なかなかスケールの大きなもので、プロ野球の選手になって月給を三十万円とって、お父さんを安心させようなどというケチな考え方なんかしていなかった。
 ラジオもトーキーもなかったから、読書欲は旺盛で、猿飛佐助や、霧隠才蔵、真田十勇士は修身の時間の副教科書であり、手工をやりながら、徳川将軍の首を狙う豊臣の残党の行動を心配していた。
 そういう時に現われたのが、目玉の松ッちゃんの忍術映画なのである。わァッと来たのも無理がない。人の眼からおのれの姿を消して自由自在に歩き回るという夢は、これは人類の「飛びたい」という夢と同じくらい古くしかも深刻な欲望である。「飛ぶ」方は実現したが忍術の方はまだ凡人には実行できない。つまりまだ「夢」の段階である。この「夢」をあのころの映画カツドウは現実のものとして与えてくれたのである。あに、それよろこばざるべけんや。
 尾上松之助時代の時代劇の社会性は、そのような意味では純粋に「大正時代」のものであった。とにかく「夢」を与えてくれ、たのしさを与えてくれ、エキストロージネールな世界の妖しさを現前させてくれた――超人的な力の不思議さえをも。》(『映画評論』二十六年四月号「時代劇の社会性」)
 と松之助映画、とくに忍術ものの魅力を述べている。総理大臣の名前を知らなくとも、松之助の名は全国津々浦々、知らない者はないほどの人気を確保するに至った土壌がこの一文でよくわかる。

松之助は小男だった!
 松之助は日本映画が生んだ最初のスターであることはたしかだが、当然、大衆の好き嫌いはあり、田中純一郎氏は、
《松之助映画は、どぎついメーキャップと、グロテスクな衣裳と、眼にもとまらぬめまぐるしい動作と、目も鼻もわからぬノッペラボーな画面と、短小矮躯お化けのような松之助の立廻りで、何もかもが不自然の一語につきた。》(『キネマ旬報』四十一年六月上旬号「秘稿日本映画」)
 と酷評している。
 松之助をはじめ、当時のスターは背の低い男が多かったが、その理由をマキノ雅弘監督は次のように説いている。
《あまり大男だと、全身を入れるためにキャメラをうしろに引かなければならない。となると狭い場所では撮影ができない。背が低ければ、それだけキャメラが前に出られるというわけで、自然と小柄な男が重宝がられるようになった。》(『カツドウ屋一代』)

松之助の立回り
 旧劇は歌舞伎の舞台をそのまま引き写したもので、はじめはカメラは据えっぱなしだった。立回りも舞台の様式どおり、きまりきまりにギックリと格好をつけて見得をする悠長で大仰なものだった。
 たとえば松之助の『豪傑児雷也』など、児雷也を大勢がとり囲んでヤアヤアと斬りかかろうとする。それを児雷也が両手を八双にひろげてハッタとネメ回すと、みなタジタジと後ずさり、エイとやればいっせいにバタンと倒れる。そして目をむいて見得を切るごとに、ガタンガタンと拍子木が入るといった調子。
 この場面は歌舞伎と全く同じだが、松之助は身の軽さとトンボのうまい利点を活かし、立回りという面からだんだん歌舞伎ばなれしていった。
 彼は明治九年、岡山市に生まれた。幼くして父をなくし、母親が中ノ島の旭座という芝居小屋の前で小料理屋をやっていた関係で芝居の連中と知り合い、六歳のとき初舞台を踏んだ。そしてそのころからトンボの稽古に励んだために、後には〝トンボ松〟と評判されるほどの名手になった。上から下へトンボを切るだけでなく、逆に下から上へ返ることさえやってのけた。
 第一回作品『碁盤忠信』で、一本足で鼓を口にくわえ、花道を飛んで入りトンボを切る松之助十八番の所作とケレンは観客に大ウケだった。
 松之助の立回りについては、岸松雄氏の『日本映画人伝』が詳しい。
《松之助は二、三度剣術の道場へ通ったことがあるくらいで、ろくに剣道を知ってはいなかったが、そのタテは小手さきでなく、人格というか何というか、出るだけで相手役と観客を威圧した。重い、大きな刀、それも本身を振りまわしていた。小手返しが得意だったので、派手に見えた。長い刀を短くも使えば、短い刀を長くも見せた。
『中山安兵衛』の時の相手役は、かろうじて身体はよけたが、松之助の真剣はのびて着物の背中を切られた。『くめの平内』の時は、うけとめた竹光が七分通り切りこまれていた。従って彼にかかって行く十人組も、いくら刃をつぶしてあってもガチリと合わせると竹光では半分以上斬りこまれて危いので、やむを得ず、みな本身をつかうようになった。
 本身の、しかも重い刀をつかったので、松之助の指にはつばダコが出来ていた。
 自尊心の強い松之助は、タテ師の型をつけている時など、ろくに見ないことがある。周囲の者が心配すると、「なに俺は剣劇の元祖だ」と笑いながら返事したと云う。》
 事実、彼は、カラミが手順を間違えてかかっても、絶対に受け損じたことがなかったという。
 林徳三郎氏によると松之助のカラミは顔ぶれがきまっていて、かかりのうまさによって等級がつけられ、銀棒組などは松之助から声もかけてもらえなかった。まずカメラを置きっ放しにして、十人組が出る。次にカメラを変えて八人組、六人組と選ばれ、アップ気味にして四人組がかかる。この四人組が最もうまいといわれた。さらに二人、最後に一人が斬られるという手順である。このあとに大敵役の中村仙之助などが登場するわけで、これが松之助劇の〝イロ〟だった。
 松之助の妹婿で後に松之助映画の監督もやった池田富保氏は、
《「松之助が立回りのとき、対手を斬った刀をさっと斜めにふりおろす。本当に斬ったように見えたもんです。斬ると同時に片足をよじらせて半身にきまる形。あれなんか松之助のはじめた型ですよ。これがタテ師からタテ師へしらずしらずの間に伝えられていって、いまだに残っていますな。タテをつけている御当人もこれが松之助のはじめた型だとは知らないんです。舞台の大江美智子まで同じ型をやっています」》(『時代映画』三十五年五月号より連載の滝沢一「日本時代映画史稿」)
 といっている。
 どちらかというと不美男で、背も小さい松之助が、刀を持って構えると大きく見える。ヒーローらしい風格が全身からにじみ出るのは、やはり「おれは剣劇の元祖」という自信に満ちていたからだろう。

松之助のライバルたち
 この松之助に対抗したのが沢村四郎五郎である。彼は日活から別れて出来た「天活」の看板スターとして大正三年十一月からカメラの前に立ち、天活、国活を経て十年十月松竹に入り、十三年八月末退社――舞台に復帰するまで、一貫して松之助のライバルであり、旧劇の一方の旗頭だった。
 田中純一郎氏は四郎五郎らの出演する天活旧劇が、松之助ものの粗雑さに対して一種の気品と落ちつきがあり、トリックや場面転換などもスマートに仕上げられていて、見た眼も楽しかったといい、それにもかかわらず松之助が伝説的偶像として、当時の映画界を代表するスターのごとく宣伝されている理由を、次のように挙げている。
《①明治四十二年以来の映画出演歴を持つ松之助に対して、四郎五郎は八年の出遅れをみせているから、人気の浸透度が薄い。
 ②松之助映画の配給館二四七に対し、四郎五郎映画の配給館はその半数に近い一三四(いずれも大正七年上半期)に過ぎないから、観客に対する普及度が少ない。
 ③松之助は身体の割合に顔が大きく、目玉が鋭く、そのスタイルは化け物じみてはいるが、動作が活発で、映画的な写実性があり、一度見たら忘れられない印象を与えるが、四郎五郎は長身の上に、顔がタテ長で、しかも頬がやせているのをかくすため、つねにフクミ綿をしていたから、顔の表情が鈍く、動作も歌舞伎の型から脱け切れないから、一見優雅ではあるが、印象は薄い。
 ④松之助活動の題材は、当時の健全思想とされた忠君愛国を骨子とし、多くの英雄豪傑伝を扱ったから、みていて痛快であるが、四郎五郎ものは俠客や人情物が多く、ムードはあったが少年たちの対象にはなりにくい。
 などであろう。》(『キネマ旬報』「秘稿日本映画」)
 四郎五郎は松之助より美男だったので、俠客ものなどはよかったが、目玉の松ちゃん、のような強烈なキャラクターがなく、活動写真的動きに乏しかった。とくに立回りは、舞台調のスロー・テンポなところが、松之助とくらべて見劣りした。
 松之助と同様、「立川文庫」に拠って、『猿飛佐助』『霧隠才蔵』『忍術虎若丸』『魔風来太郎』等、忍術ものもずいぶん撮ったし、『宮本武蔵』『堀部安兵衛』『塚原ト伝』『後藤又兵衛』『丸橋忠弥』といった豪傑、『国定忠次』『日蓮大吉郎』『祐天吉松』等の俠客にも扮して大いに松之助とハリ合ったのだが、ついに松之助には及ばず、彼が大正十五年世を去る前に映画界から消えている。
 旧劇役者としては、日活に中村扇太郎が大正六年に入社し、松之助ものとは別に主演作品を撮っていたが、病弱のため五、六年でいなくなった。また、松之助を育てた牧野省三が、スターとなった松之助の増長ぶりを怒り、大正八年市川姉蔵を連れて来て、松之助を牽制しようとした。彼はフックラとした容貌をもち、松之助より芸はすぐれていたが、特徴はなかった。デビュー作『一条大蔵卿』をはじめ好評で、『忠臣蔵』では松之助の大石に対し立花左近役で堂々わたり合い、松之助をおさえるほどだったという。だがこの姉蔵も十年四月急逝して、松之助のひとり天下がつづくのである。姉蔵は自分で、不器用なので共演の人たちに迷惑をかけて申しわけないといっていたそうだから、多少謙遜でいったとしても、松之助のように立回りはうまくなかったのだろう。
 四郎五郎と同じく天活――国活で活躍した市川莚十郎えんじゆうろうは四郎五郎よりかなり年配だったし、大正九年帝国キネマ演芸(略して帝キネ)創立以来、旧派を代表した嵐璃徳りとくは、明治四十年に作った『本能寺合戦』に出演しているいわば最古参。デップリして大石内蔵助など貫禄のある役や温厚な人柄の役を得意とした。また、日活や国活で活躍した実川延一郎もいる。
 松之助が明治九年、姉蔵十一年、四郎五郎十年、延一郎八年、扇太郎十年、璃徳八年と、ほぼ同年配だが、大正十年ころにはみな四十五、六歳というところで、幼いころからトンボで鍛えた松之助と肉体的年齢で差があったのかもしれない。莚十郎にいたっては明治元年生まれだからもっと無理だろう。
 このあと、牧野省三が独立したマキノ映画に十五年生まれの市川幡谷(有田松太郎)、帝キネに二十一年生まれの尾上紋十郎、二十七年生まれの実川延松、松竹に二十五年生まれの市川荒太郎、日活に十七年生まれの中村吉十郎らが、各社の旧劇スターとして登場するが、これらはいずれも松之助の人気が生んだ剣劇ブームに乗って出てきたものである。
 中では市川荒太郎がアメリカ帰りの小谷ヘンリー監督・撮影で『ロビン・フッド』を焼き直して作った『荒法師』で、なかなかスピーディな立回りを見せて注目されたていどで、みないわゆる〝旧劇〟のカラを捨てきれなかった。そして立回りも歌舞伎の型を踏襲し、わずかに個々のスターのキャラクターが加わるていどで目ぼしい変化は現れなかった。歌舞伎畑出身の俳優ばかりだったから無理もないが、舞台の見得を切るクセは松之助にすら残っていたようだ。いかに松之助が巧者でも、歌舞伎の立回りの延長であることに変わりはなかったし、声色鳴物入りの古い形態を最後まで保った。

松之助時代の〝殺陣師〟
 映画の殺陣は時代劇の前身ともいうべき旧劇が歌舞伎の舞台の引き写しからはじまったことから、当然、その立回りも、歌舞伎の様式通りであった。タテ師もしたがって歌舞伎の世界から入って来た。これが明治の末頃のことである。
 足立伶二郎氏によると、その当時、名古屋に「勇み連」というグループがあり、ここで立回り一切に関する研究をしていたが、この中から何人かが、松之助映画の流行とともに映画界に入っていった。中村柴栗、市川金時、沢村伝八といった人たちだ。
 林徳三郎氏の話では、名古屋に沢村伝八、市川桃栗の二人がいて、日本中の歌舞伎といわず芝居といわず、立回りを全部引き受けていた。この二人のハンをもらわないと立回りはやれなかったという。
 関西にもう一人、市川金時がいたが、子分がいないのでは格は一枚落ちたそうだ。
 そして、その一門から出た人たちが各社に散ってタテ師になったのだけれども、旧劇の立回りにあきたらない気運に乗じて、それまでカラミ(斬られ役)をやっていた連中で、意欲的な人がタテをつけるようになり、旧劇の立回りを打破した新しい時代劇にふさわしい立回りを生み出したのである。
 稲垣浩監督著書『ひげとちょんまげ』には、
《チャンバラのことを、私たち仲間では「立ち回り」または「立て」とよんでいるが、これは歌舞伎からきた用語で、チャンバラの段どりをつける人を「立師」といい、また「頭」とも「親方」ともいったことがあった。字幕に出す場合は、時代によってまちまちだが、「殺陣」「技闘」「凝闘(ママ)」「剣技」などの文字を使ったこともある。》
 と書かれている。戦中は「剣導」という表現がもっぱら用いられた。いかにも精神的な面が強調されているニュアンスである。
「擬闘」という言葉を、私はタイトルで見た記憶がない。いずれにしろ新しい言葉だと思っていた。
 ところが寿々喜多呂九平が雑誌『マキノ』(十年十一月号)で『浮世絵師・紫頭巾』の回顧談を書いていて、その中に、
《ともかくこの写真は格闘をもって終始一貫しているのであるから擬闘術指南の尾上誉(市川金時の別名)氏の努力は目ざましいものであった。》
 とある。
 さらに松竹キネマ映画研究所の講師として市川左升が「擬闘術及び扮装術」を教えたという。これが大正七年のことだ。
 したがってこの頃から「擬闘」ないし「擬闘術」という言葉があったわけである。
「技斗」というのは、戦後日活で高瀬将敏氏が現代劇の格斗に対してつけた造語で、「演技の格斗の意味」だ。そして殺陣師でなく技斗士と称した。
 このほか、〝殺し屋さん〟などの呼び名もあり、籍は俳優部にあって、カラミも兼業するのが普通だった。林徳三郎氏は、大名の行列などをこしらえるのも殺陣師の仕事だったという。それも祿高に応じて違うのを作るのだから、もの識りでなければならないし、それだけ殺陣師の権限は強大だった。
 そのことについては『ひげとちょんまげ』で稲垣氏がこう書いている。
《私の記憶に忘れえない殺陣師は、モモクリとよばれる頭である。モモクリ氏は阪東妻三郎を仕立てた殺陣師である。阪妻プロダクションができて、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった阪妻も、このモモクリ氏だけには一目おいていた。『邪痕魔道』という作品そのときのモモクリ氏が御大妻三郎に、
「妻さん、その左足の引き方は逃げ足や、それでは人は斬れまへん」
 と、注文をつけているのを見て驚いたことがある。所員のだれもが「先生」とか「ンせい」とかいっている人を、彼だけが「妻さん」とよんでいた。また阪妻も彼の注文には、何の反抗もなく従っているのに感心した。》
新国劇の誕生
 大正六年に創立した沢田正二郎の「新国劇」は、松之助、四郎五郎らの、旧劇の立回りを完全に打ち破った。
 沢田は明治二十五年生まれ。早稲田大学在学中から演劇活動をやり、はじめ坪内逍遙の文芸協会に入ってほんの端役で舞台に出たことがあるが、大正二年に協会が解散すると、島村抱月、松井須磨子の芸術座に加入、悲劇役者としての素質を一部から認められた。
 しかし、野心家の沢田はそれにあきたらず、芸術座を脱退して、大正六年春、新国劇を創立した。そして四月に旗挙げ公演を行ったが不入りで大失敗。都落ちして京都で打った芝居もまた不入りで、十三名の座員が八名に減ったほどだった。
 そこで、大阪での公演のとき、『深川音頭』という芝居の中で、舞台一面に防水布を張って水中の立回りをやったのがウケた。その作者である仲木貞一氏は、
《これは酷暑の折でもあったし、一番新式の立廻りを見せてやらうと云ふ事になり、怪我を覚悟のほんとのつかみ合ひ、切合ひの恐しい立廻りだ。毎日怪我人は続出したが、客はヤンヤと喜んだ。その間に電光の投影を受けて、沢田は刀を引かついで目玉を寄せてミエを切ると云ふ旧劇では最も臭い古い型を示したのが大当り。次に『秋の唄』と云ふ満洲を舞台にした矢張り立廻り物、それが又大当りで、愈々松竹専属の一座となり、一座は初めて月給に有りついて、新しい着物を買ふ事が出来た。》(『演芸画報』昭和三年一月号「沢田正二郎評伝」)
 といっている。
「チャンバラに本身の刀を使うんだ」とか、「火花の散るのがウケるんだ」「取っ組み合いも本気だそうだ」というような評判が立ち、ご難つづきでイチかバチか試みた大立回りがウケたわけだが、これは新劇をやってきた沢田にとっては不本意だったろう。観客から「剣劇の神様ァ」とか「いよう沢正!日本一」とかかけ声がかかると、楽屋へ戻るなり、「ダメだ、まだ客は俺の立回りばかり見て、芝居のほうは見てくれない」とニガ虫かみつぶしたような顔でぼやいたという。
 だが、沢田の意図にかかわりなく、これまでには見られなかった迫力ある写実的な立回りは大衆を魅了した。
 ふたたび仲木氏の文を引用すると――、
《従来皆悠長なセリフ廻はしで、のろのろした動作をしてゐたのに、彼の一座は元気にまかせて電光石火のやうな動作をする。セリフを云ふにもケンカのようにガミガミと強く速く言ふ。これが当時の見物の気に入ったのである。時あたかも欧州大戦で好況の最絶頂の時で、気が立ってゐる。従ってピッチの早い物がぴたり気持ちに合ふのである。大阪計りが然うではない。この大戦期を境として、東京でも何処でも都会地では、この速いテンポの物でなくては客に喜ばれなくなった。新派劇の衰退した一つの理由は、矢張りこのテンポのおくれが負けとなったのである。》
 歌舞伎や活動写真の旧派で「タテ」といっていたのを「殺陣たて」としたのは沢田だ。ろんあて字だが、いいフィーリングである。

「剣劇」という言葉の発生
 ところで「剣劇」という言葉はいつごろから使われ出したか。説がいろいろある。
 籠寅興行社長保良浅之助氏は、
《大体剣劇という言葉が出来たのは大正末期で、浅草の常盤座で明石・田中・小川の三座が合同したときに、太夫元の木内末吉が「剣劇三派合同」と称したのが最初だろう。》(『夕刊読売新聞』よみうり演芸館「女剣劇」)
 といっている。また、徳田純宏氏は、
《田中介二に言わせると「剣劇という名をつけたのは、僕らが浅草に出ていた頃、客を惹くため二、三の人と作った名称だ」と言う。だが、これは少し時代的ズレがあるように想う。
 亦、現在日本特(ママ)鉛工業株式会社の常務取締役をしている糸川東洋男氏は、昔、岩木某と言って、浅草の興業師堀倉吉氏の傘下で文芸部員として働らいていた時代があった。その頃、糸川氏は、興行上、立廻り芝居に何んとか良い名称をつけてはとあって、小川隆その他の連中と共に剣劇団と名付けたと聞いている。
 これは事実かもしれない。そして、それが立廻りの多い時代劇(新国劇の亜流を汲んだ)に波及して、剣劇と称ばれるようになったと解される。
 処で、僕の知っている確実なものには、こんな原因がある。
 或る宣伝部員が、大阪の劇場(たしか弁天座だったと思う)の表飾りにキャッチ・フレーズ(狂言内容のつのがき)を書いた。その文句に、剣戟のひびきと書くのを、誤って剣劇の響きと書いた。処が、その文字が立廻り芝居を代表した適切な字句だとあって、語韻をそのまま、剣劇々々と名づけるようになった。そして、宣伝広告にも、何々剣劇大一座と用うるようになったのである。》(『演劇界』二十九年四月号「剣劇まんだん」)
 と書いている。もう一つ、
《第二新声劇でよく使った言葉に「剣俠劇」というのがあり、浅草公園劇場の表看板などには、よく見られたのだが、或る時、その看板の丁度〝俠〟に当る処が破れて〝剣劇〟となっていたと言う事、その為だけでもなかろうが、以来、誰ともなく縮めて、〝剣劇〟と呼ぶようになったという。》(『講談秘話』五十二年二月号、佐怒賀三夫「女剣劇を斬る」)
 という説もある。
 いずれにしろ、大正十三、四年ころ、この「剣劇」という言葉が定着したと思われる。

行友李風と『月形半平太』
 沢田正二郎の新国劇には、行友李風という座付作者がいて、『月形半平太』『国定忠治』等、いまも新国劇の十八番になっている作品を発表し、熱狂的な受け方をした。
『月形半平太』は行友李風が沢田のキャラクターに合わせて書きおろしたものだけに、相当キザで、有名なあの「春雨じゃ、濡れて行こう」というセリフに表される軟派の月形と、三条河原の決闘や大乗院の立回りに見られる硬派の月形とがうまく渾然となって、幕末の志士の一つのタイプを作った。
 大正十四年に『月形半平太』を映画化したときの大乗院の立回りは、二刀流の獅子奮迅ぶり。大きく足を開いて二刀を天地に構えた沢田のフォームは、剣をふりかぶるようなオーバーなものだが、気魄がこもり、スピードがあって、鮮やかにきまる華麗な立回りだった。とくに四、五人をいっぺんに斬って落とすのが得意だった。

殺陣師段平と『大菩薩峠』
 沢田の殺陣師は市川段平という人で、映画『殺陣師段平』が戦後、月形龍之介や森繁久弥、中村鷹治郎によって演じられた。
『月形半平太』と並んで沢田の立回りが評判だった『国定忠治』は、大井広介氏によると、
《沢正の小松原の殺陣は山形屋藤蔵一味に暗討ちをかけられた忠治は、ちょうちんを横に倒し、燃やして伏勢を目算し、一気にバラバラと斬り倒し、最後に藤蔵の竹槍を叩きおとす、藤蔵は長脇差を二、三寸抜いた処を仕留められる。これが段平のつけたたてだといわれているものである。》(『ちゃんばら芸術史』)
「赤城の山も今宵限り」の詠嘆調のセリフとともに、この殺陣は受けつがれている。
 さらに大河小説であり、大衆文学の金字塔ともいうべき中里介山の『大菩薩峠』をとり上げ、沢田は机龍之助に扮したが、これが、「沢正の机龍之助か、龍之助の沢正か」と絶賛され、〝沢田龍之助〟といわれるほどの当たり役で、剣の新国劇の名声は決定的なものとなった。
 沢田はもともと三白眼だが、その表情は虚無の剣士龍之助にふさわしく、邪剣といわれた〝音無しの構え〟からは鬼気妖気が発散するかのようだった。
 原作にはこの構えについて具体的なことは書いていない。要するに相手の出鼻を撃つのだが、沢田はやや足を開きかげんにして刀を中段につけ、「出れば斬る、横に払えば胴を斬る」という〝静〟の剣を見せた。この沢田の机龍之助は剣に性格を与えた最初であって、これまでの一気に四、五人をナデ斬りにする得意の立回りとはまた別な境地を生み出したのである。
 とくに龍之助が盲目になってからの立回りにはすごみがあり、相手の喉首のどくびを狙った刀の切先が、まるで目が見えるように、相手の動きと一緒になり、木の幹に背中がくっつくと、それを串刺しにして、ハラハラと花が散るのを手に受けて、花が散るなあとやった演出、このへんが〝邪劇〟と酷評される理由だ。
 しかし、この『大菩薩峠』劇化の成功が、映画、演劇、大衆文学に剣戟ブームをまき起こした事実は否定できない。そして沢田の机龍之助以後、丹下左膳から眠狂四郎にいたるニヒリストの剣士が、ヒーローとなったのだった。現代の人気者座頭市にしても、その源流をたずねれば、盲目の剣士・机龍之助に到達するのである。

沢正の亜流たち
 沢田は〝半歩前進主義〟を唱え、具体的には歌舞伎と新劇の中間をゆく大衆に接近した芝居を考えていたのだが、沢田の立回りが人気を得ると、われもわれもと立回りをやり出し、新国劇を脱退して一派を作る者も現れ、その亜流は大変な数に上った。
 大正八年に幹部俳優中田正造、伊川八郎、小川隆、小笠原茂夫の四人が脱退して「新声劇」を組織したのをはじめ、大正十二年九月の関東大震災後、「国精劇」「同志座」「純国劇」「国粋劇」「剣星劇」「新光劇聯盟」等々の剣劇団が東西に簇生ぞくせいし、大正末期から昭和二、三年までは空前の剣劇全盛時代となった。
 だが、この剣劇団の中には立回りを売りものにするあまり、非現実的なチャンバラ劇に堕したものも少なくなかった。
 しかし沢田の亜流が、剣戟のための剣劇に終始し、一部のヒンシュクを買ったとしても、それによって、彼が新しい立回りを創始した功績をそこなうことにはならない。
 沢田はその著『蛙の放送』の中で、
《人は曉倖ぎょうこうの夢のみを追ひ世はあげて浮華の幻に酔ふといふ危険な時代でした。私はまづ舞台に立って剣を振りました。脂によごれ、脛をはぎ、腕を傷つけて懸命の大立ち回り。白刃の下、生死の境、夢も虚栄も偽りもない生命愛の刹那、その生活の至境を演劇化して世人の心に植ゑつけることでありました。》
 と書いている。このような沢田の立回りにかけた情熱が生み出したのが、今日、新国劇に残っている「殺陣田村」だ。
 従来いわれていた「タテ」に「殺陣」の字を当てはめ、謡曲「田村」を伴奏として、立回りの根本的な形を総合して、一つの舞台様式を創造した。
 舞台でいう主役、シンをとるものを「シテ」と呼んで白紋付、立回りにかかるほうを「ワキ」として黒紋付とし、シテとワキの意気がぴったりと合い、剣の躍動と美の総合されたものに仕立てているのである。
 はじめは十五種類の基本的な型を持っていたが、新国劇の研究会の工夫やアレンジで、百種類以上にふえているという。
 革新的意図を持つ先駆者は常に伝統保守の側からは白眼視される。だが、沢田によって剣劇が確立され、立回りに生命が吹きこまれたことは事実で、亜流の剣劇団ばかりでなく、新派や新劇の連中も立回りに熱心になり、当然のように映画の旧劇に大きな影響を与えたのだった。
『キネマ』(三年十一月号)に豊沢光夫氏が「剣劇の茶話」と題して、
《沢正は今述べた如く、所謂剣劇の元祖のやうに一般に認められて居るが、剣劇と云ふものが、旧派ならぬ俳優が髷物をして、白刃相交へての乱闘をやるのを云ふとすべくんば、明治四十二年頃、日本映画作成開始の初期に今は俳優界を退いて、本所の寿座々主となって居る森三之助が、吉沢商店の手で『梁川庄八』などの髷物を多く撮ったのが、在来の旧派のするよりも烈しい立廻りをやって、それが舞台で好評を博し、更にそれを映画に持って来ても、同様に成功した。これが所謂剣劇の元祖と云へやう。其起るや古しと謂ふべしだ。但し其立廻りたるや、烈しく目ざましかったは事実だが、要するに、旧劇の立廻りを新派式に烈しく且つ間を詰めてやったのに過ぎなかったのだ。》
 と述べている。
 一つの見方ではあろうが、沢正の名声が確立されてしまって、一般も関係スジにも受け入れられなかったようである。
「新時代劇」と勝見庸太郎
 旧劇の立回りを直接破壊したのは意外にも松竹の蒲田撮影所であった。松竹は沢村四郎五郎に代表される旧派が、日活の松之助劇に対抗していたが、この声色、鳴物入りの歌舞伎型旧劇にあきたらず、旧劇といえども映画的テンポを持ったリアルな演出が必要だと考えていた人たちよる新しい試みが成功したのである。
 大正十一年八月に封切られた『清水次郎長』がそれで、伊藤大輔のシナリオで野村芳亭が監督し、主演は勝見庸太郎。
 勝見はもともと現代ものの活劇スターだったが、この作品では動いているうちに殺陣師のつけた手順を忘れて、手当たり次第にそこいらにある物を取っては投げるという滅茶苦茶な立回りをやってのけた。
 ところが、これが従来のスローで型にはまった立回りに見飽きた観客にはすごく新鮮なものにうつり、大受けしたのだった。
 この作品は、〝純映画化されたる旧劇〟と宣伝され、映画館にかけるとき、現代劇と同じように声色なしで説明するので「映画劇」といわれた。そして、この一作によって、明治以来伝統的に作られてきた旧劇は次第に影を薄くし、時代劇と呼ばれるものにとって代わられるのである。
 同じトリオで翌十二年『女と海賊』を製作したときは、女優川田芳子を勝見の相手役に起用、女形を使っていた旧劇に衝撃を与えた。これは大きな改革であるとして非常な人気を博した。
 脚本を書いた伊藤大輔は、このとき立回りについて研究した結果、人物の動きにつけてカメラを左右に回転することをはじめた。これだと勝見が殺陣師のつけた通りの立回りをやらない場合でもカメラにおさまるわけだ。
 さらに野村監督、勝見主演の国定忠治もの『雁の群』も作られたが、これらの作品は、「新時代劇」と銘打たれた。単に立回りだけでなく、演出にもカメラにも新解釈や新しい映画テクニックが用いられていることが、評判を呼んだ。
 たとえば、人物の動くままに左右へカメラのレンズを動かす「パノラマ」という新しい手法だ。これを後年伊藤大輔が『大岡政談』等で用いた。
 このため、四郎五郎一派は大正十三年八月末、『円蔵と忠次』を最後に解散し、舞台へ戻った。松竹の旧劇はまっさきに消滅したのである。

市川百々之助と〝乱闘劇〟
 旧劇の立回りを駆逐した一人に市川百々之助がいる。
 彼は大正十二年九月に帝キネに入社し、『異端者の恋』でデビューしたが、翌年には『抜討権八』はじめ、つぎつぎと主演作品を発表し、たちまち帝キネの看板スターとなった。
 厚い唇と、乱れ髪になって前をはだけ、ふんどしちらつかせての大乱闘がセックス・アピールして、日本じゅうのミーハー・ファンの人気を集めた。
〝百々ちゃん〟とか〝フンドシ百々ちゃん〟と呼ばれた百々之助は、中年ばかりだった旧劇スターをまず、若さと美貌で圧倒した。彼こそは〝美剣士スター〟の第一号だった。そして、どちらかというと、新派悲劇のほうを向きがちだった女性ファンを、剣戟映画にひきつけた功績は大きい。
 彼は「百々ちゃんは刀さえ持たせておけば喜んでいる」といわれたくらい立回りが好きで、若さにまかせての大立回りが、ファンの喝栄を浴びた。しかし、ただそれだけでなく、新国劇の殺陣を見たり、外国映画の格闘を研究したりして、独自の型を創案し、一作ごとに新しいテを見せる努力をしたのは凡庸ではない。
 ダンスに凝って、ダンスの型を立回りにとり入れたりもした。散歩にステッキを持って行くと、このステッキでふと思いついたタテをすぐ用いて工夫したりしたという。
 彼の立回りには、やはり自分の美剣士ぶりを強調するための、美しいフォームを作る工夫があった。テレビの殺陣師大内竜生氏は「あの華麗な踊るような殺陣を当時は満喫したものです」と回想する。左足を思い切って後ろへ引いて、片ひざつきそうなくらい低く構え、時には寝そべってしまうような異様な形のときもあった。それと、刀身を顔の前にまっすぐ立てるのが得意の型で、乱闘になると、必ず褌を見せた。はいているはかまを脱ぎ捨ててまで、白いものを出さなければ気がすまなかったようだ。
 キビキビしていたし、手数も多く、奇麗な立回りだったが、大勢取り巻いた捕り方が、百々之助が叩くと、いっせいにバタンと棒で床を鳴らす式の、旧劇そのままのバカバカしいテを使ったりして、インテリ層からは軽んじられた。
 大正十五年の『剣難』は、百々之助の代表作である。両親と恋人を奪われた主人公が、御前試合で仇敵を倒し、復讐を遂げるが、主君から乱心者とみなされて、ウンカのような捕り手に囲まれ、斬りまくったあげくに自刃する。このときは全十一巻のうち半分が乱闘場面で、実に三昼夜も乱闘をつづけるという記録を作った。
 こうなると、まったく乱闘のための乱闘としかいいようがないが、マキノ映画の初期の作品と並んで、百々之助映画は、旧劇がすたれ、時代劇が完成されるに至る過渡期に発生した〝乱闘劇〟だったのだ。
 百々之助は自宅に道場を作り、弟子たちに剣術の稽古をさせた。その熱心さは買うとしても、人気におぼれて、イージーなワンマン映画を乱作し、自ら墓穴を掘ったのは惜しまれる。
『競艶美男』など、一人四役で、百々之助対百々之助の立回りが随所にあるというサービス過剰ぶり。ほかにも『勤王か佐幕か』『朱房の十手』等でも一人三役ないし四役の変幻自在の大活躍を見せた。なるほど、百々之助ファンは熱狂しただろうが、ほかからはひんしゅくを買うだけだった。
『木村長門守』のようなまともな作品もあるけれども、多くは前髪か白塗り、どぎついメーキャップ、あいも変わらぬ褌ちらほらの、ミーハー・ファンに迎合するチャンバラのヒーローの域からついに出なかった。
 これは一つには帝キネという会社の体質による。一時、小唄映画『籠の鳥』で大儲けした帝キネは社業拡張を図ったが、内紛のため挫折してしまった。その後は二流会社に甘んじ、百々之助の人気だけに頼って量産をつづけたのだ。いわば百々之助は、そういう安易な会社の製作方針の犠牲になったともいえる。だが、百々之助自身も、非常に次元の低いところで満足していた。あたら剣戟映画の先駆者として、阪東妻三郎と天下を二分する勢いだったものが、六、七年でスターの座を失うことになった。その最大の責めは彼自身に帰すべきだろう。

牧野省三と寿々喜多呂九平
 横田商会――日活と、尾上松之助作品を手がけ、松之助を日本一の大スターに育てたマキノ(牧野)省三は、人気におごった松之助を見かぎり、松之助を使用せずに何か自分の仕事をしようとして、教育映画を作りはじめた。これには忍術映画を濫作して日本じゅうの子供たちに悪影響を与えたという自責の念も含まれていた。この結果、日活の横田永之助社長との対立を生じ、ついに大正十年六月、独立して牧野教育映画製作所を創立することになった。
 マキノ省三は「歌舞伎の立回りじゃダメだ。真に迫った剣の術こそ、これからの時代劇になる」と主張した。新国劇の剣劇に影響されたこともあるが、松之助を頂点とする旧劇に対する挑戦でもあったわけだ。
《従来、歌舞伎で用いられた舞踊まがいの殺陣に如何に生々とした生息を吹き込むかと苦心した。
「今までの歌舞伎の殺陣は、昔の剣術時代の組太刀の亜流で、寧ろ舞踊化して仕舞うたんで生気が抜けて仕舞うた。武道各流の組太刀も、組太刀としては完成されてまんが時代を経るに従うてマンネリズム化しよりました。それを源流とした殺陣は見た目には美しゅうおますが肝心の殺気などいうもんは皆目あれしまへん。尤も江戸の素町人には殺気など厭でっしゃろな。狂犬みたいな本もののお侍が街を横行してる時代ではチャンバラは悦ばれまへん。泰平ムードのお色気万歳だす。ところが現代の日本はどうだす。右翼やないが気に入らん奴は殺しとうなりまっしゃろ。暗殺はどもなりまへんが殺さな始末つかん場合もおまっしゃろ。左様な理屈つけんかて胡散うさん臭い奴は切りとうなりまんな。まったく問答無用とはえ表現や」
 マキノ省三は延々として彼のチャンバラ談義を聞かせたことがある。けれど吾には彼の着眼の優れていることを否定することは出来なかった。》(『オール読物』四十八年十月号、今東光「阪東妻三郎の鼻」より)
 大正十一年製作の『忠臣蔵』など、乱暴といっていいくらい、写実的で型破りな立回りで注目された。橋の上で組み討ちしたまま池へ落ちるという、たったそれだけのことでも、大変リアルで斬新な立回りとして評判を呼んだのである。
 この『忠臣蔵』の立回りを見て感心した映画青年が寿々喜多呂九平で、「旧派映画の素晴らしく新しいやつを作ってみたいと思っていたオレは、この牧野氏に監督してもらったら、必ずおもしろいものが出来ようと思って、はるばる東京から牧野氏を訪れた」といっている。彼の持ってきた『浮世絵師・紫頭巾』というシナリオを見たマキノは直ちに寿々喜多を迎え入れ、そのシナリオを映画化した。大正十二年のことである。
 出演俳優はいかに迫力を出すかで、刀は竹光じゃなく本身を使って火花を発し、雨の中でビショ濡れになりながら大乱闘をやり、泥水の中にバタバタ倒れてのたうち回るという立回りシーンを生んだが、そのため、撮影のすんだあとは怪我人が大勢出たほどだった。
 旧劇のイメージを持つ立回りはオミットされ、ここに映画的な新しい立回りが生まれたのだ。新国劇がはじめた剣劇に遅れること四年で、映画もリアルな、そしてスピードと躍動美あふれた立回りを確立し得たわけだ。寿々喜多呂九平自身も、「少なくとも殺陣映画として、当時の旧劇映画に対する革命的先鋒であった」ことを自負している。この『紫頭巾』の成功を皮切りに呂九平は『恐怖の夜叉』『鮮血の手型』『討たるゝ者』『怪傑鷹』『刃光』『毒刃』『怪物』『影法師』等々を矢つぎばやに発表し、これらの作品は旧劇を嘲笑していた映画ファンまでが熱狂的に歓迎する結果となった。

寿々喜多のオリジナリティ
 松之助に代表される旧劇のヒーローは、講談、立川文庫そのままの不死身のような英雄・豪傑・義人ばかりだった。それは勧善懲悪というモラルに裏打ちされたサムライであるけれども、非常に類型的なでく人形のようなものだった。呂九平は自我をもった人間くさい人間像を描いた。苦しみ、喜び、愛し愛される血の通った人間が彼の作品には登場した。そして同時に社会の矛盾、非条理をも鋭く掘り下げた。勧善懲悪か、〝末は陸軍大将か大臣か〟といった立身出世が生きがいであった時代相を反映して功名を立てることにもっぱら用いられていた剣が、虚無的な主人公の、世に対する反逆の武器となった。そこに立回りにおける新鮮な解釈が生じたわけである。
 滝沢一氏は、呂九平の《作品の公式は、概ね抵抗――反逆――破壊――挫折という経路を踏んでいる。》という。その反逆――破壊の部分が大乱闘なのだ。大衆は苦悩し、絶望し、怒りをぶっつける主人公の心情に共鳴して、立回りを必然的なものとして捉えた。ロボットかでく人形のような旧劇の英雄豪傑が、目をむいて見得をきったり、当たるを幸いバッタバッタとなぎ倒したりするのにくらべ、迫真力に富み、しかも流動美にあふれていた。
 呂九平作品のもう一つの特徴はダイナミックな活劇性にある。当時『三銃士』『奇傑ゾロ』『ドンQ』等でハリウッドで最高の人気スターだったダグラス・フェアバンクスの活劇を模倣し、スリルとスピードとサスペンスに満ちていた。捕物帖という形を映画にもちこんだのも彼が最初である。
 このように呂九平シナリオは、全く旧劇のカラを打ち破ったオリジナルなものであり、すでに新国劇流の写実的立回りを採用していたマキノ映画は、呂九平のシナリオによって強力なバックボーンを得、新しい時代劇のメッカとなった。
 そして、旧劇とは全然異なる立回りの様式と、殺陣を構成する心構えが、新しい剣の美学、殺陣の美学として受け入れられ、剣戟映画全盛時代がおとずれる。新国劇の成功を見て、幾多の剣劇団が出現したのと同様に、激しい立回りを主にした剣戟映画が流行したのである。

阪東妻三郎の登場
 マキノの最初のスターは、浅草の舞台も踏んだことのある名古屋の役者・有田松太郎改め市川幡谷が筆頭で、日活からマキノ省三について来た片岡市太郎が二枚目だった。
 しかし、寿々喜多呂九平の作品がマキノ映画の主流になると、幡谷らの下で「御用、御用」と銀棒ふり回していた阪東妻三郎、高木新平、月形龍之介らが、代わってスターの座を占めるようになる。
 そもそもが、『浮世絵師・紫頭巾』は、寿々喜多呂九平が、同じ下宿で親しくなった阪東妻三郎を主役に想定して書いたものだった。それで一度は阪妻でテストしたのだが、浮世絵師の扮装がうまくいかず、オロされてしまい、初主演のチャンスを逸している。このときは呂九平もがっかりしたが、阪妻は失望のあまり、自殺しようかとさえ思ったそうだ。しかし、彼はこのあと、同じく呂九平の書いた『鮮血の手型』で立派に主役をつとめ、一躍スターにのし上がった。その立回りの型といい、表情といい、これまでになかった新しいものという評判を得た。
 さらに『菊の井物語』『小雀峠』『燃ゆる渦巻』『怪傑鷹』等に助演したが、ますます人気は高まる一方で、『雪の峠』『血桜』『討たるゝ者』『逆流』に主演。大正十四年の『江戸怪賊伝影法師』で、阪妻の人気は決定的なものとなった。それは〝白熱的〟という形容がふさわしいほどだった。
 阪妻は背が高いし、マスクも立派なので、「御用、御用」とからみをやらせても目立ってしょうがなかったという。そのころあだ名を〝ソッポ〟とつけられていて、市川幡谷あたりからはずいぶんイビられたらしい。幡谷にしてみれば、めざわりで面白くない存在だったのだろう。
 阪妻は自分の将来に期するものがあったせいか、カラミのときはなるべく後ろのほうになって、目立たないように目立たないように努力していた。将来大スターになったとき、そんな自分の写っている写真を残したくなかったというのだ。
『小雀峠』など、主役の片岡市太郎よりずっと押し出しがいいし、『怪傑鷹』でも敵役ながら堂々たる貫禄でヒカった。やはり下積みのころから大物になる素質の片鱗が出ていたわけで、追われる立場の幡谷が阪妻の台頭をおさえつけようとした気持ちもわかる。
 それがいやで、帝キネの重役立石駒吉が、「東邦映画」を作って、スターの大量引き抜きをやったとき喜んで阪妻も参加したのだが、幡谷もまた抜かれて来ていたので、すっかりくさり、早々にマキノへ復帰したエピソードがある。阪妻はマキノに入社する前、旅回りなどして下積みが長かった。呂九平の脚本は例外なしに下積みの武士が主人公で、下積みなるがゆえの希望のない人生であり、その虚無感から世をそねみ、反逆する。このような主人公のキャラクターが阪妻自身とオーバーラップして、ラストのすさまじい乱闘へと盛り上がっていったのだ。

〝剣戟王〟の素質と努力
 旧劇を打破した乱闘劇の立役者は、阪妻と並んで百々之助がいたし、松竹の勝見庸太郎もその一人に数えられなくもない。しかし、阪妻ひとり〝剣戟王〟の名をほしいままにしたのは、彼の立回りのうまさと同時に、松之助流の旧劇を批判するマキノ映画の体質、そして阪妻を盛り立てようとした呂九平はじめ、若い映画作家たちのバックアップが大きくものをいっている。
 二川文太郎監督によれば、当時の剣戟日本一、沢田正二郎の映画『国定忠次』や『月形半平太』をマキノで撮ったとき、阪妻もまのあたりにその立回りを見て、それから死にもの狂いの剣戟修業をやったという。だから阪妻の剣は明らかに沢正から受けついだものといえる。
 マキノ撮影所で殺陣の猛稽古をするだけでなく、家へ帰って、遅くまで弟子たちを相手にドタンバタン毎晩やったので、とうとう八畳二間つづきの部屋のネダが抜けてしまったほどだったそうだ。

『雄呂血』の立回り
 大正十四年十一月公開の『雄呂血おろち』は、阪妻畢生ひっせいの名作だった。例によって下級武士の権力に対するニヒルな抵抗と反逆がテーマである。
 久利富平三郎は漢学塾の宴会で家老の息子にからまれ喧嘩となるが、相手はおとがめがないのに自分だけ閉門という不公平な処分を受ける。しかも人々はそれ以来彼を乱暴者扱いする。ひそかに想っていた塾主の娘にまでよそよそしくされ、懊々おうおうとして楽しまない。
 そんなとき、藩の若侍が、塾主の娘について不愉快な噂話をしているのを聞き、彼らと格闘し、そのため塾を追放され、娘からも絶交をいい渡される。不本意な平三郎は夜中、娘のところへ忍んで事件のことを弁明しようとするのだが、娘が助けを呼んだため、門下生たちに捕まり、今度は藩から追放される憂き目に会う。
 一年後、落魄らくはんして別の城下町に現れた平三郎は料理屋の二階から吸い物をかけられたことから争いとなり、捕らえられて牢にぶちこまれる。二カ月後出獄して、先の料理屋の娘を好きになり会いに行くが、ここでまた人の喧嘩にまきこまれ、彼がその張本人にされてしまう。そして彼はすっかり無頼漢として子供たちからも恐れられる。
 そんな風だから料理屋の娘に恋を打ち明けてもこわがられるだけ。ついに娘をかどわかすのだが、犯すこともできず、捕らえられて入牢する。だが、獄中にあってもその娘のことが忘れられず破牢して娘のところへ行ってみれば、もうすでに彼女はほかの男の女房になっていた。
 落胆して泣く平三郎に追手がかかる。彼は逃げて顔役にかくまわれる。この親分が表面は立派だが裏へ回ればとんでもない悪党。ある日、それが旅の途中病気で困っている侍夫婦を助けて連れてきた。侍の妻女は最初の恋人・塾主の娘だった。悪親分はこの女に毒手を伸ばす。平三郎は彼女を助けるため親分たちと戦う。そこへ大勢の捕り方が現れ、えんえんと乱闘がつづくのだが、日がギラギラと照りつけ、平三郎は疲労と烈日でめまいがしてくる。彼はついに抵抗をやめ、自分の左手で刀を握った右手をほどき、バッタリ刀を落としてばくに就く。助けられた夫婦は涙ながらに彼を見送るのであった。
 およそ、これほどツイてない男もいないだろうと思うくらい不運な、哀れな男の物語で、いささかバカバカしくもなるのだが、権力に対する弱者の憤怒と抵抗、ということでとらえるならば、やはりこの作品は記念すべきものに違いない。
 衝動によって作ると主張した寿々喜多呂九平の強烈な反逆精神が、ラストの執拗な大立回りに投影されている。それが単なるチャンバラを〝殺しの美学〟にまで昇華させたのだ。
 呂九平はずっと後になって『雄呂血』についてこう書いている。(『スポーツニッポン』二十八年七月二十六日号)
《――『雄呂血』に盛られたものは、終始一貫弱者の憤りの爆発で、封建的階級制度に対する不満、疑義、反抗が飛沫をあげてほとばしっている。随所に不備なところや生硬な個所はあるにしても、いかにも青年らしい情熱がみなぎっている。テーマは暴虐な強者の権力に反逆した一若侍が不幸な運命にあやつられ転落し、だれよりも善良でありながら世に容れられず、無頼漢と誤解され、没落していく性格悲劇である。妻三郎はこういった性格をたくみに演技し、単なる剣劇俳優でないことを認識させた。かれのもつ若さとパーソナリティがこの役にはまって、この映画を成功させたのはもちろんだが、主人公の反逆意識や行動が当時の大衆の代弁者であった事実を見のがすことはできない。『雄呂血』は妻三郎の浪人ものというひとつの型をつくったのみならず、時代映画のなかへやたらに虚無思想を織りこむ傾向をつくった。》
 こういう反逆意図を持つ作品だけに、最初『無頼漢』というタイトルだったこの作品は、検閲で千二百フィートもカットされた。
 浅薄なセンチメンタリズムに満ちているとはいいながら、権力への反抗を内包するものは危険思想とみなしたわけだ。
 西沢治氏は『時代映画』誌「時代劇を創ったひとびと」(三十年七月号より連載)の中でこの作品についてこう書いている。
《この作品を傾向映画の芽生えとしてみる向きもあるが、旧派における善悪の観念を逆転させた形での、善悪対立劇の頂点を示すものといってよく、暗黒、悲惨な条件を積み重ねて、ラストは予定された殺陣へ善なる主人公を逸散に追う構成が、善悪対立劇の作法の典型として、接続する時代劇の中に宿命のように消え難い痕跡をきざみつけた。》
 そのころの殺陣の集大成版といわれる『雄呂血』の立回りについて、二川文太郎監督は、
「ボクも妻ちゃんも脂の乗りきった時代で、情熱をぶちまけて、呂九平のシナリオのイメージに忠実に撮りました。ラストの立回りにはボクとしてとくに力を入れました。最高の立回り映画を撮ってやろうと思って。立回りの場面のロケは奈良の東大寺の法蓮町というところです。捕モノにはずいぶんいろんなテを使いましたよ。こしらえもののカワラを作ってカワラ投げをやったり、熊手、サス叉、袖からみと、若い妻ちゃんがくたくたになるまで、長い移動のカットなんかも撮りましてネ。最後に主人公の眼がくらんできて、目先がくらくらする感じを出すために、フラッシュ・バック式に間に黒コマをつないで幻覚感を出す。妻ちゃんがカッと眼を見開くと、捕り手がパッと散るという風に、今考えれば幼稚なことですが、こんなテクニックも使ってます」
 と述べている。
 このとき、屋根に上った火消しがカワラをはいで投げるシーンを考え出すと、阪妻はそれを刀でよけてみせるといいだした。
 そこで三通りのカワラを五十枚ずつ作った。一つはボール紙をカワラの上にかぶせ、屋根ではぎとるカットに使う。もう一つは木のカワラで投擲用。三つ目は土のカワラで、阪妻が刀で受けると真二つに割れるようにした。こうした苦心が実ってたしかに最後の捕物シーンはすばらしいものとなった。『モロッコ』などの大監督ジョセフ・フォン・スタンバーグがこの映画を見て、「世界最高の剣劇スウォード・プレー」と絶賛したそうだ。

阪妻の立回りの特徴
 阪妻扮する主人公・久利富平三郎に何十人という捕吏、目明かしが、あらゆる捕物用具を手にしてかかり、呂九平の脚本にはただ「半鐘乱打、大立回り」としか書かれていない部分をえんえんと二巻分撮ったわけだが、乱闘乱刃の末、捕らえられて引き立てられていく平三郎が、手にしていた血刀を離して自嘲するシーン、観客はその悲壮美に陶酔した。
 阪妻の身のこなし、目のくばり、刀の扱い方の天才的なうまさなど、観客を熱狂させるだけのことはあった。
 彼は人並み以上に背丈が高かったせいか、いつも猫背気味で、その上から首をちょっと前に出す独特のポーズで、肩の力を抜き、グッと腰を据え、刀をダラリと下げる。そして、両の足先を内股ににじらせ、適度の間をおいてジリジリと下がる。その全身のみだれに色気があると評されたものだ。
 阪妻は「立回りはいくらはげしくても、なれてくると面白いもので、カメラの位置はちゃんとわかって、まわりまわりはキチンとその正面に入ります。往来にクギ一本落ちていてもカンでわかり、ケガは一度もしたことがありません」といっていたが、とにかく、畳一枚あれば、その範囲内でどんな型でも自由自在にこなしてみせるというほどの名手で、これは映画が舞台と違って限られたカメラのフレームの中で烈しく動かねばならないところから、彼が苦心して編み出したのだろう。その流麗でしかもスゴみのある立回りは、《彼に依て剣劇が始めて美化されたと云ふても差支がない。》(『劇と映画』昭和二年八月号長崎武「剣劇春秋」)といわれた。
 普通、立回りは、斬る、よける、突くという手順だが、阪妻は、斬って、よけて、ここで間をとる。内股でジリジリ下がり、払って突くのである。
 立回りといっても、ただ丁々発止やるだけではない。やはり名手になると、個性があり、とくに間のとり方がうまい。刀を抜く、腰を落として構える、斬る――その間の呼吸は、「スターそれぞれ違うが、キマリとキマリの瞬間が生命であることは誰の場合でも同じだ。
 阪妻の立回りの特徴を、松竹の殺陣師だった川原利一氏が紹介している。
《先生の剣は非常に特徴があった。ふつうの人はヤッと切りつけた刀をサッと下に流して止めるが、先生は切り下げた刀を胴のあたりまでで止めてブルンと上に振り上げるという独特の型をいつも見せていた。ミネ打ちならイザ知らず、これではちょっと迫力が出にくいものだが、先生は見事な鋭さでこれをやってのけていた。
 その秘密は立回りのテンポの速さにあった。ふつうの人がかりにケサ切りに一秒かかるとすれば、先生のは〇・五秒で済んだ。残った〇・五秒分が切ったあとのキマリとして見事に引き立った。だからカラむ方もそのテンポに合わせて、いつも半間(はんま)早く切りかかっていったものだ。》(よみうり演芸館「殺陣」)
 また、二川文太郎監督は、
《当時の立回りでは、一人斬るごとに見得を切った。しかし、斬っちまえばもう敵じゃない。その次の敵に襲いかからなければウソだ。それを妻三郎にやらせると実にうまい。斬っても目を左右にギラギラ光らせる。次の襲撃に移る。そのすばやさ。こんなすばらしい剣劇俳優がほかにいるものかと思った。あの猫背も、そのとき力を入れた身構えから自然になったものだ》と語っている。(足立巻一『大衆芸術の伏流』)

殺陣師とカラミ役
 阪妻は「私が一時剣戟王なんていわれたのは、私のスタッフにこんな工夫をしてくれる人が多かったせいです」と、口にしていたそうだが、彼の殺陣師は市川金時(酒井誉)という人で(最初は市川桃栗)、相手役には阪妻とドサ回り時代からの仲間である中村吉松を筆頭に、「阪妻十人組」といわれた阪東妻之助、阪東要二郎、春日清、浮田勝三郎、平木政之助、永江勇吉、岩井扇之助、森妻真三郎、河原利夫、岡田喜久也がいた。彼らとの呼吸の合ったチームワークが、すばらしい立回りを生んだのだ。
 さらにカメラマン鈴木博氏も、刀をふりかぶったときは遅く、斬りおろすときは速くというふうに、独特のカメラ技術を編み出して阪妻の殺陣を効果的にした。
 阪妻は歌舞伎畑の出だけに、美しい線を見せる剣戟を重んじたから、本身といって、真剣を刃引きしたものを使うリアルな立回りがはやったときも、彼だけは竹光に薄金を張ったものを用いた。重たい本身を使うことによって線が崩れるのを恐れたからだ。
 子供たちが棒切れふり回してやるチャンバラごっこも、みな猫背の阪妻のポーズを真似るほどだった。同じ〝乱闘劇〟のライバル百々之助まで、阪妻の立回りを鏡で研究したという。
 そして、大正十五年製作の『尊王』で、「東山三十六峰静かに眠る頃、突如辺りの静寂を破って聞こえる剣戟の響」というトップタイトルを、弁士、伍東宏郎などがうたい上げて、剣戟映画を代表する名文句といわれた。これも阪妻作品なればこそであろう。

高木新平と月形龍之介
 阪妻に続いて高木新平が頭角を現した。『怪傑鷹』でのアメリカ冒険活劇顔負けのアクションがウケて、彼は一躍人気者になった。小兵で身軽なうえ、曲芸師から軽業を習っただけに、高い所から飛んだり跳ねたりするのはお手のもので〝鳥人〟の名をほしいままにした。
『戦国時代』では、本当に城の大屋根から飛びおりる放れ業をやったし、現代活劇『争闘』では、ホテルの屋上から隣りのビルへヒラリと飛んで大センセーションをまき起こした。トリックなしのこのようなアクションは、文句なしに新鮮で、痛快で、大衆にとってはカタルシスだったに違いない。
 高木は立回りにセンスがあり、鮮やかな突っこみもやれば、トンボもきる。人気がパッと上がったのは当然だった。
 つづいて月形龍之介が高木新平とコンビで売り出された。彼は阪妻よりマキノでは先輩だったが、地味な個性のため浮かび上がれないでいた。しかし、松之助の映画にも端役で出ていたほどキャリアがあったし、立回りはうまかった。マキノ省三は、
「剣を握って構えた月形は、蹴っても突いても倒れないという感じだ」
と、ほめていた。
 彼は阪妻の『討たるゝ者』に共演し、『刃光』に初主演、このあと高木との共演がつづくが、〝鳥人〟高木の活躍に押され気味だった。本格的に名声の上がったのは、大正十五年初めの『美丈夫』『修羅八荒』などからで、そのシブい魅力と見事な立回りで一家をなした。
 月形の芸名は、寿々喜多呂九平が、机龍之助と月形半平太から合成したものだ。彼は剣道三段だった。剣戟俳優は大勢いるが、有段者は珍しい。
 立回りは剣道ではないから、剣道の心得がなくともいい。むしろ、剣道をやったことがあると、かえって邪魔になるという人がいるくらいだ。それは、映画的な型をつけにくいからだろう。しかし、立回りの根本の構えは剣道から発している。剣道の技をいかに巧みにアレンジすることができるかが問題であって、剣道を知っていることが邪魔というのは極論だ。事実、月形の場合、剣道をやっていたからこそ、風格のある立回りができた。
 月形はたいてい自分で殺陣をつけた。そして竹光でなく本身を使うのが特徴だった。はげしい立回りは別として、スゴみを出す場合など、刃びきもしていない真剣を使ったそうだ。これだとカラミの連中も緊張する。その緊張が映画に現れるのがいいわけである。
 ただ、月形はリアルであるが地味なため損をしている面があった。
 月形は自分の意欲を燃やした作品を作るために三回も独立プロを興しては失敗した反逆児である。ほかのスターたちが白塗りで派手にやれば、わざと黒っぽいメーキャップでシブくやり、乱闘に明け暮れるような映画ばかりがはやると、逆にチャンバラを避けようとする。いささかヘソ曲りなところのあるスターだ。
 そのせいかどうか、彼の立回りは、逆足、逆胴をはじめ、カラミにも普通は左なのに右によけさせるなど、好んで逆手を使うのが昔からのクセだった。それと、間のとり方が大きいのも特徴で、彼は自分を大きく見せるため、腹に力を入れる訓練をしたそうだが、ドッシリとした安定感と格調とがそこから生まれ、間を大きくとっても、いささかもスキがない。
 スタンスの広い八双のかまえから、相手の打込みを体を横に開いてかわし、ズンと斬り下げる。重々しく、テンポが緩慢のようでいて、いかにも斬ったという迫真力があるのはさすがだった。

市川右太衛門の登場
 阪妻は大正十四年に独立プロダクションを興し、マキノを離れる。その後釜として、関西青年歌舞伎から市川右太衛門が迎えられた。そのとき彼はまだ若冠十九歳だったが、堂々たる体躯と、目鼻立ちの大きい立派なマスクに恵まれ、一見二十四、五に見えたという。そして、顔や体に相応して、すべての動きが派手で華やかだった。
 彼は阪妻の後継者だけに、阪妻流の華麗な線の美しい立回りで、デビュー作『黒髪地獄』からすばらしい人気を得、『怪傑夜叉王』『孔雀の光』『紫頭巾』と、ぞくぞく主演作を発表し、たちまち阪妻の牙城に迫った。
 若さと情熱にまかせてのエネルギッシュな立回りは〝乱闘劇〟のヒーローとして申し分なく、しかもそれが、舞踊を生かした奇麗なフォームで、美丈夫・右太衛門がいっそう強烈に印象づけられたのだった。彼は帝キネの百々之助と青年歌舞伎で一緒だったことがある。それで、百々之助を意識してか、乱闘のとき前をはだけて、裸を見せる立回りもやった。
 しかし、明治三十九年生まれの同年でも、彼のほうがはるかにおとなびていたので、阪妻をピッタリとマークし、マキノ映画のキャラクターというべき反逆もので、大衆の共感を集めた。それが、百々之助との間に水をあける結果となったのだろう。
 右太衛門は阪妻の名を高からしめた『影法師捕物帳』に主演して阪妻に劣らぬ声価を得たし、その前には阪妻が失敗したいわくつきの『紫頭巾』もやっている。このことは、右太衛門を阪妻以上だとするマキノの作戦とみていい。

新しい時代劇の確立
 それはともかく、マキノ名物の〝乱闘劇〟は、ラストシーン二巻くらいを大立回りにし、追いつめられた主人公が、不平不満や怒りを爆発させ、斬って斬って斬りまくるものだった。呂九平の脚本はじめ、例外なくそのようなシチュエーションで、監督も脚本家もこの立回りシーンの構成に全力を傾けたのである。
 それだけに、すべて大仕掛けで、何十人という捕吏、目明かしが、あらゆる捕物用具を手にして、主人公の回りをとり囲み、乱舞する。十手、捕り縄はもとより、六尺棒、突棒、袖がらみ、さす叉などの得物えものを使い、召し捕る方法として、梯子、戸板、大八車、目つぶし、火ぜめ、水ぜめ、油ぜめ、瓦ぜめ、さらに投げ網と、あらゆるものをくり出して、いろいろ変わった立回りを見せるのだ。
 終末への盛り上がりと、この大立回りが、マキノ映画にファンを吸収した。
 寿々喜多呂九平作品、とくに『雄呂血』は〝乱闘劇〟の最高峰といってよく、これを真似て、乱闘だけをこととするエピゴーネンが続出したが、『雄呂血』をピークに呂九平作品は次第に後退しはじめた。
 それと同時に〝乱闘劇〟も、その過渡的役割りを終え、乱闘――立回りが映画の主題ではなく、あくまで映画の一要素として収斂しゅうれんする形で、新しい時代劇が確立されていくのである。
晩年の松之助の焦り
 尾上松之助は大正十五年九月十一日に死んだ。享年五十一。『俠骨三日月』が最後の作品となった。
 日本映画最初の大スターであり、〝剣劇の元祖〟を自任し、日活の撮影所長を兼ね、重役にもなった松之助だが、阪妻などのマキノや百々之助の〝乱闘劇〟が熱狂的人気を得た時点で、完全にとり残されてしまった。
 昔のままの旧劇を作っていたのでは、もう〝剣劇の神様〟の神通力が失われるのも当然だ。それでも大正十四年ころから、ようやくこれまでの講談本的な英雄豪傑ばかりではダメだと気づき、大佛次郎の『鞍馬天狗』や前田曙山の『落花の舞』等を作って、旧劇からの脱皮を試みたのだが、その成果を十分見ぬまま世を去ったのである。
 大正十四年十一月に封切られた『荒木又右衛門』は松之助の一千本記念作品で、女優を使い、単なる三十六番斬りでなく、又右衛門の人間性を掘り下げた松之助最後の光芒だった。
 それまで実川延車と名乗って、女形をやったり松之助のカラミをやったりしていた林徳三郎氏が殺陣師に抜擢され、この殺陣をつけたのだが、
「三十六人斬りやから三十六カ所斬りどころを変えて見せんならん。一週間考えてフラフラになって、ようよう出来た殺陣をつけたら、松之助が体ぐあい悪いといって中止になってしまった。松之助の気に入らんかったいうことや。いままでのと違うテンポの早いやつをやったのが気に入らんらしい。あれは叩き斬るんだな、といってたそうですわ。
 それで師匠(実川延一郎という日活の古参俳優)が心配して、前と同じテの立回りをつけろと、こないいうし、仕方ありませんわ、ヘイ、そうしますと返事したんです。そしたら二日間中止して、その間に松之助が、あれがホントかもわからんいうて、よし、思い切り立回りをつけろ、絶対ワシ文句いわんからということになりよった。
 よっしゃ、そならやりまっせ、張り切ってテンポの早い立回りをつけたんです。先生もいう通りになってよう動いてくれましたわ。キャメラを動かすというのはそのときまでなかったもんや。わてが殺陣ではじめてやってみせたんや。そのときタイトルに松之助劇いうのを消して〝剣劇映画〟荒木又右衛門とはじめてつけましたんや」
 と、その時の事情を回想して語ったが、松之助の晩年の苦悩と焦りが感じられる。
 松之助の死によって、旧劇は全くその幕を閉じる。《松之助が後年何年生きのびたとしても日本の時代映画の進歩にあまり貢献することはなかったであろう。むしろ松之助の死によって日本の時代映画革新の速度は速められた。》(『日本映画人伝』)と岸松雄氏はいっている。

後継者は河部五郎
 松之助は自分の後継者として「国精劇」の河部五郎を迎えた。大正十四年八月、日活入りした河部は『義刃』でデビュー。松之助の『荒木又右衛門』に河合又五郎役で出演して地歩を固め、松之助の死後は『修羅八荒』『照る日くもる日』等に主演して、文字どおり日活時代劇を背負って立った。彼の登場によって、革新にたち遅れた日活時代劇も、ようやくマキノなどと同じレベルで競合することになったのである。
 河部は線の太いおおまかなキャラクターで、立回りも、あくまで正攻法であり、荘重さと熱が力強い感じを与えた。その代わり潑刺さとスピードに欠けたのはいなめない。久世竜氏も「この人はなかなか覚えないし、やってもヘマするしで、だいたいふつうの人が一日にやる二十カットぐらいの立回りを二日かけてやりましたからね」(『噂』四十九年三月号「チャンバラの見方教えます」)といっている。
 どっしりとした頼りがいのあるヒーローらしい風格だが、目が細く、優しいおだやかなマスクなので、凄壮せいそうの気がないのだ。剣劇団出身らしく型は美しかったけれども、動きもにぶく手数もわりと少なかった。河部にも〝十人の剣士団〟がついてカラみ、その立回りをひきたてた。その中の一人に伴淳三郎がいたというのは意外である。
 河部につづいて、新国劇出身の大河内伝次郎が大正十五年八月、日活に入社した。そして、これも入社したばかりの伊藤大輔監督の『長恨』でデビューしたが、以後、伊藤監督とコンビで、『忠次旅日記』『大岡政談』等で日本映画界を席捲する。
 最初は河部が人気絶頂で、女性ファンの楽屋訪問が一日じゅう絶え間がないほどだった。その楽屋の窓から見える撮影所の一隅で、ギョロ眼の小柄な男が、よれよれの浴衣を片肌脱いで、うしろ鉢巻きで木刀をふるい、汗みどろになってひとり立回りの稽古をしていた。河部ファンたちはそれを見て嘲笑したそうだが、その主こそ売り出し前の大河内伝次郎だった。
 彼はタッパがなく、容貌も決して二枚目とはいえない特異なものだけに、もし伊藤大輔という名伯楽がいなかったならば、あれほど大きな存在になり得たかどうか疑問である。

伊藤大輔と『忠次旅日記』
 伊藤大輔ははじめ、蒲田のシナリオライターだった。このとき彼の書いた『女と海賊』『清水次郎長』等が「新時代劇」と呼ばれ、旧劇打破の火をつけたのだった。彼は監督をやりたくて帝キネに転じ、『酒中日記』やアクションもの『星は乱れ飛ぶ』等と、最初の時代劇『剣は裁く』を発表したが、あまり認められず、帝キネの内紛から東邦映画へ移った。ここがつぶれると大正十五年には自ら奈良に伊藤映画研究所を設けるなど、曲折を経た後、日活に入った。
 この困窮と失意の逆境の中でつちかわれた情念が、絶望と反抗、虚無、センチメンタリズムとなって作品に投影された。それは、寿々喜多呂九平をはじめとするマキノ系作家と傾向を同じくするものだったが、呂九平らが観念的なのにくらべ、肉体的に迫るナマナマしさがあった。『長恨』をはじめ、彼の作品には反逆精神が横溢し、時代劇に仮託して現代の矛盾と不満をぶっつけていた。
 日本映画のオールタイム・ベストワンに挙げられる『忠次旅日記』を、
《ここで彼は流転敗残の博徒の身の上をかりて、彼自身の感傷、詠嘆、自棄、焦躁、ひがみの感情を思うさま吐露した。それが今日省みて、安価な文学青年的感傷であるといわばいえ、大河内伝次郎の異様に歪んだマスクによって、伊藤は、日本映画に最初の人間的息吹を与えた。》
 と、筈見恒夫氏はその著『新版映画五十年史』で絶賛している。
 これから『下郎』『血煙高田馬場』『新版大岡政談』『素浪人忠弥』『興亡新選組』『一殺多生剣』『斬人斬馬剣』等、昭和六、七年ごろまで伊藤大輔の全盛時代がつづくが、スポークン・タイトルを十分駆使した映画話術とスピーディな演出は心にくいばかりで、ファンを陶然とさせるものがあった。

大河内伝次郎の殺陣
 大河内伝次郎は阪妻とか右太衛門と違って小男なので、カメラの位置を低くして撮ったというが、彼自身も、少しでも体を大きく見せるため、いつも爪先立って、ツツツーとすべるような動きで斬り払ったり飛び上がって斬った。また、斬って下がる癖があった。立回りの時に必ず刀の目釘を湿すのも特徴の一つだ。
 しかし、ただそのような技巧だけでは、あの画面を圧するような巨人の風格は出ない。やはりそれは大河内の強烈な個性と演技力によるものだ。
 彼は新国劇の出で、阪妻はじめ、歌舞伎出のスターたちとは自ずから芸風が異なる。歌舞伎出の人たちは雰囲気も芸もわりあい華やかで、ことに立回りは派手で見栄えがする。肉体的条件においても劣る大河内は、それに対抗するため、体当たり的にやったと自分でいっている。
 彼は強度の近眼で、その上、立回りになるとムキになって、実際に自分の刀を相手の体に当てないと気がすまない。いくら竹光でも当てられると痛いので、カラミは大河内のときには、空気枕を腹に巻いてかかったという。
 足を互いちがいにし、体を低く構えるのが得意のポーズで、俊敏、はやぶさのようなバネのある動きと、重厚盤石のようなドッシリした貫禄とは、阪妻と並んで時代劇の王者とうたわれるにふさわしかった。
 彼の特異なマスク、三白眼に近い〝眼技〟は妖気を漂わし、美しい線と流動美を生かした歌舞伎出身派の華麗な剣、さらにいえば、松之助にはじまった天下無敵調、正義の士の〝陽の剣〟に対し、ニヒリスティックな、人を斬ってニタリと笑うたぐいの〝陰の剣〟を生み出した。
『忠次旅日記』で、捕り方に囲まれた忠次が背中におぶった勘太郎に「目をつぶっていな、十数えたらいいぜ」といって、一ツ、一ツと捕り方を斬っていった胸のすくような立回り。あるいは、階段から駆け下りてきて、かかってくるのを二、三人サッと斬りすてると、そのままふり返りもせず、表へ鉄砲玉のような勢いで飛び出して行く、そのうしろ姿の美しさなど、まさに絶品といってよかった。
 こういう颯爽としたところを見ているからこそ、『忠次旅日記・御用篇』で、中風を病んで足腰立たない忠次が、ふるえる手で愛刀小松五郎をつかもうとして、もうつかむ力すらない悲惨さが観客の胸を打ったのだ。

丹下左膳とラグビー
 大河内の左膳か、左膳の大河内かといわれるくらいの当たり役・丹下左膳は『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』のタイトルで、日活、東亜、マキノの三社が競作したが、日活の看板と伊藤大輔の力量で、大河内が一番傑出し、この後、彼の十八番となった。
 丹下左膳は右眼・右腕を失った不具の剣士である。したがって、その左腕一本だけの立回りは非常にユニークなものだった。たいてい、利き腕は右だから、左腕だけではやりにくい。大河内も立回りに熱中のあまり、二度も右手を出して撮り直しをやったそうだ。また、ロケ先で、雨上がりだったので足場が悪く、斜面で足をすべらした。右手は懐ろ、左手は刀を持ったままなので、ズルズルと体がすべって止まらない。そこで、顔でブレーキをかけたなんてこともあった。こうした全身火の玉のような闘志、体当たりする意気込みが、見事な立回りシーンを生んだのだろう。
 丹下左膳は〝独眼片腕の剣怪〟という表現のグロテスクなヒーローだが、伊藤大輔は彼に、武士道社会の非条理に抵抗するというバックボーンを与え、生命を吹き込んだ。
 刀剣マニヤの主君のために、命がけで乾雲けんうん坤龍こんりゅうの名刀を手に入れた左膳が、最後に主君に裏切られ、「おめでたいぞよ、丹下左膳!」と自嘲し、絶叫し、二刀を求めて櫛巻お藤も斬り、群がる捕り方を斬って斬って斬りまくる。
 忠君愛国が至上のものであり、教育・文化がそれを根幹として形成され、映画もおおむね、その思想鼓吹の線に添って作られていた中で、君命絶対の武士道、ご都合主義の権威を批判し、権力者に利用され、犠牲となる下積みの人間の怒りをたたきつけた。単なる裏切った者への復讐というだけでなく、左膳を通じて武士道社会を批判したところが、インテリ層から歓迎されたゆえんである。
 この大詰めの乱闘では、乾雲・坤龍二刀の争奪戦を、ラグビーのボールのように、捕り手から捕り手へパスさせる手法を用い、その目新しいアイデアは観客を熱狂させた。
 さらに、伊藤大輔、大河内伝次郎と名トリオとうたわれたカメラマン唐沢弘光の功績も見落とすことはできない。彼はアイモを竹竿の先にくくりつけて、左右にブン回した。それで、疾駆する左膳、空中に飛ぶ宝刀などがカメラに追われ、驚異といえるほどのスピード感とリアルさが出たのである。
 大河内の台頭によって、日活時代劇は河部と大河内が競合する形となり、『地雷火組』『照る日くもる日』等の共演作品もあったが、やがて大河内の名声が断然、日本映画界を圧し、河部に水をあけるに至った。河部は昭和四年、日活をやめ実演に走り、後に映画界に復帰したが、もはや昔日の人気をとり戻すことはできなかった。両雄並び立たずとはこのことだった。
林長二郎『稚児の剣法』
 沢村四郎五郎、市川荒太郎一派が退陣し、旧劇の殻を捨てた松竹蒲田は、大正十三年から森野五郎を中心に時代劇を作ったが、森野はなんとなくスケールの小さい、地味なスターで、立回りの動きはよかったが、蒲田時代劇のカラミが、大井広介氏にいわせれば《一勢一律、舞台なら速くやればそれでも通用するが、マキノ映画をみてきた眼には、あまりにも安易すぎた。》(『ちゃんばら芸術史』)というわけで、常に他社の後塵を拝してばかりいた。
『修羅八荒』『孔雀の光』『黒髪地獄』等、他社との競作も、ことごとくおくれをとり、松竹は阪妻プロダクションと提携して、時代劇の劣勢を補う始末だった。
 ところが、昭和二年一月、林長二郎が松竹下加茂撮影所に入社し、『稚児の剣法』でデビューするや、たちまち爆発的人気を得た。松竹では起死回生の切り札というわけで『お嬢吉三』『鬼あざみ』等、息もつがせず長二郎映画を連発し、彼の出現によってようやく松竹時代劇の市場価値が日活、マキノなどと比肩できるようになった。
 長二郎は女形出身だけに、その女にも見まほしい美貌は女性ファンを一手に吸収した。彼の水もしたたる美男ぶりの前に、これまでミーハー・ファンのアイドルだった市川百々之助は影が薄れてしまった。
 前髪スター、若衆スターは市川市丸とか百々之助をはじめ、今日まで数多く輩出したが、長二郎ほどの美しさと気品を備えたものは見られない。おそらく不世出といっていいだろう。素顔は黒くてちっとも奇麗じゃなかったというが、とにかく映像ばえのする美貌だったのである。
 松竹は当時の金で十四、五万、いまなら五億もの空前の宣伝費をかけたが、長二郎はたちまち一日で一館が一万円の水揚げがあるくらいの人気者になった。
 デビュー作『稚児の剣法』は、意地悪ざむらいからいじめ抜かれた長二郎が、ついに剣を抜いて立ち、大勢を相手に戦い、最後は斬り死にする。弱々しい女性的な色若衆の長二郎が、まなじり決して大立回りをやる、その意外性、コントラストがきわ立っており、剣豪とか俠客などのヒーローらしいヒーローよりも悲壮感が倍加された。
 長二郎映画は最初の年は十四本、翌年は十六本も量産されたが、どれもみなヒットした。
 その初期の作品を多く手がけ、彼の売り出しに力あったのは衣笠貞之助監督だった。彼は女形俳優として一世を風靡したことがあるだけに、女形出身の長二郎の素質をよくのみこんで、女形としてのよさ悪さを十分心得て演出した。これは長二郎にとって非常に幸運なことだった。
 松之助からはじまる剣戟スターは、それぞれ正義の剣、剛剣、あるいは虚無の剣、陰の剣といったものを立回りの上で表現したが、長二郎はこれまでの剣戟スターにはなかったやさ型の剣、軟派の剣とでもいうべき色と匂いをその立回りから感じさせた。
 長二郎の華々しい成功に刺激されて、日活が沢田清を売り出し、松竹は長二郎につづく者として阪東寿之助を、帝キネは嵐斗蔵、嵐徳太郎(嵐菊麿)、東亜が市川龍男、実川長三郎と、ぞくぞく若衆スターをスクリーンに登場させたが、これらの中では沢田清がかなり売ったくらいで、あとは大成しなかった。

嵐長三郎と片岡千恵蔵
 長二郎が売れ出して間もなく、市川右太衛門がマキノから独立し、阪妻に次いで二人目のスター・プロダクションを興した。
 中心スターである右太衛門を失ったマキノは、急遽、歌舞伎界から嵐長三郎、片岡千恵蔵の二人をスカウトする。
 嵐長三郎は『鞍馬天狗』でデビューしたが、これが無類の当たり役となり、以来四十数本もの〝天狗もの〟を撮った。これと〝むっつり右門〟で彼の主演作品の三分の一を占めるのだから、いかにスターの十八番が重みを持つものであるかがわかる。
 長三郎は一年後にマキノを飛び出し、そのとき芸名を返上して嵐寛寿郎を名乗る。
 一方、千恵蔵はその第一作『萬花地獄』が長三郎の『鞍馬天狗』にくらべて内容がシブく、人気の上ではおくれをとった。彼も一年後には長三郎とともにマキノを去って独立プ口を作るが、真価が発揮されるのはそれからである。

〝マキノ立回り学校〟と勝見庸太郎
 この二人をスカウトするより前にマキノでは勝見庸太郎を傘下に加えていた。
 松竹蒲田で『女と海賊』や『清水次郎長』に主演し、「新時代劇」を生んだ勝見庸太郎は大正十五年松竹を離れて勝見プロを作ったが、彼の仕事ぶりに関心を寄せていたマキノ省三が勝見プロと提携したのである。
 勝見は〝猛優〟といわれるだけに、マキノでの第一作『恋の丸橋』では本身を使い、型はずれの猛闘を展開したため、カラミが十数人もケガをしたという。
 マキノの殺陣は、マキノ省三がうるさく仕込んだので、監督も俳優も熱心で、井上金太郎監督が〝マキノ立回り学校〟といっていたくらいだった。そして歩き方ひとつにも、第一歩はどう歩き第二歩はどう動くというふうに非常にこまかい注文がついた。
 ところが、勝見はマキノ流の殺陣を全部無視し、普通、立回りの動きを早く見せるため〝コマ落とし〟といって、カメラの回転を遅くする方法を認めない。しゃにむに本身をふるって斬ってくるため、マキノのカラミ連中は大恐慌を来した。
 それでもマキノ省三は「うまいもんやなあ」とほめちぎっていたそうだ。それだけ勝見を優遇したわけで、彼のいうとおり製作費をかけた。
『恋の丸橋』では捕物シーンにありとあらゆる小道具を使った。「もっこ投げ」という立回りの新手もこの作品から生まれたといわれる。
 ところが、それほど優遇して作った勝見ものも、最初のうちはよかったが、次第に当たらなくなった。それは長三郎や千恵蔵が売れ出してくると、かつての「新時代劇」も古くさく見えてきたからだ。十歳の年齢差がそこに現れたともいえる。
 勝見はマキノ省三が四年に没した後、プロダクションを解散して実演の旅に出る。そして第一線から遠ざかってしまった。

マキノ正博『浪人街』
 昭和三年四月、千恵蔵、長三郎をはじめ、山口俊雄、市川小文治、中根龍太郎、山本礼三郎ら、マキノの主力スターが大量離脱し各々独立プロを作り、日本映画プロダクション聯盟を結成した。
 一本立ちのスターの主演映画を作れなくなったマキノは、ノースターで、一種の集団映画を生み出した。
 二十一歳のマキノ正博が監督した『浪人街第一話・美しき獲物』『同第二話・楽屋風呂』『同第三話・憑かれた人々』等の一連の作品である。これらは近代的センスのあふれた佳作として好評だったが、代表作である『浪人街』第一話の梗概は、
 浪人者荒牧源内は女スリお新を情婦に持ち、お新の献身的な愛を利用し、ヒモとして打算的に生きている。そして同じ浪人の赤牛弥五右衛門や母衣権兵衛と酒場で知り合う。赤牛は喧嘩をした旗本の弟と意気投合し、その食客になるが、いろいろなからみがあって、お新はその旗本一味に人質になり、源内が来なければ子恋の森で牛裂きにされそうになる。さしもの源内も、その卑怯なやり口に眠っていた反骨がよみがえり、一人で斬り込む。それを追って正義の権兵衛が助太刀にかけつけ、赤牛も〝表返って〟旗本たちと戦う。「オイ、一升だぞ一升」といってしんがりを引き受けた赤牛は斬り死にし、源内とお新を逃がした後、居酒屋で権兵衛が赤牛の位牌と酒を酌みかわす――。
 浮かび上がるスベもなく長屋にくすぶる貧乏浪人たちの生態を通じ、現代に生きる人間像が描かれた。しかもキャラクターの異なった幾人かの登場人物をほぼ対等の立場でからみ合わせ、次第に終局に運んでいくという手法は斬新でユニークさがあった。
 当然、殺陣も一人のヒーローを中心とするものとは様式が違ってくる。これまでも、『忠臣蔵』という代表的な集団映画があるにはあったが、これはユニフォームに象徴されるような統制されたタイプのもので、しかもあくまで中心人物は大石内蔵助という設定がある。その点『浪人街』は、自由な、バラバラなものをそれぞれ活かして結集したエネルギーの力強さがあり、立回りも単なる乱闘ではなく、底辺に生きる人間のせっぱつまった心理を投影していた。そのためにも、一人のヒーローが斬って斬って斬りまくるよりは、この集団映画のほうが、はるかにリアリティがあったわけである。
『キネマ旬報』(昭和三年十一月十一日号)の批評に《呂九平対二川の時代は過ぎてマキノでは今や正博対山上の時代が到来した。》とある。
 大井広介氏も『ちゃんばら芸術史』で、
『浪人街』二話や、殆ど立回りのない『首の座』や『可哀想な大九郎』や『オイコラ行進曲』を製作した時期は、マキノは剣劇映画(ママ)から、時代映画をして劇映画一般のなかに解消する段階に足をつきこんでいたと思われる。谷崎十郎がスターとして充実した演技を示し、十六ミリ沢正の小金井勝が台頭したが、マキノ剣戟映画はとっくに、剣戟映画としては行詰っていたのだ。
 剣戟映画がなお繁昌しているかにみえたが、実は惰性でそうしていただけで、おそらくマキノの当事者も、『鮮血の手型』当時のハリや情熱を剣戟映画に抱き続けてはいなかっただろう。呂九平、二川による阪妻の『雄呂血』や月形の『毒蛇』が、剣戟映画の峠だったと回顧される。》
 と述べている。
 かつて一世を風靡した寿々喜多呂九平らの〝乱闘劇〟はその使命を終わり、反逆と抵抗は、伊藤大輔、大河内伝次郎コンビの作品に見られるようになったが、マキノでは呂九平作品のニヒリズムを社会批判へと高めた。それがマキノ正博とコンビの山上伊太郎だった。『浪人街』第三話では、《社会の惨景を縦横の観点から提示して、天下は貧に苦悶する裡にあって、只ひとり「天下泰平」の将軍家を描いて「あれは天下の淫楽よ」と呼んでゐる。》(『キネマ旬報』昭和四年十二月一日号批評)
 このことは支配者と被支配者を対比させて、世の矛盾と、社会悪の根源を衝こうとしたものだ。それは階級闘争を時代劇の形で描く姿勢であり、マキノ・山上コンビの作品は、この前後に流行した〝傾向映画〟と相互に影響し合ったのである。

マキノ・プロダクションの解散
 四年七月に〝日本映画の父〟マキノ省三が世を去り、主柱を失ったマキノ・プロダクションは急速に下降線をたどり、五年十二月ストライキが起こって、ついに解散するにいたった。
 マキノ省三が日活を飛び出てこのプロダクションを興したこと自体、反骨と反逆のファクターがあったのだから、ここが既成の大会社に対する抵抗の総本山となるのは当然だった。
 筈見恒夫氏は『映画五十年史』に、
注目されねばならないのは、寿々喜多、山上の二人のシナリオ作家を所有し得たマキノ・プロダクションの性格である。その時代的役割である。マキノ省三自身が、意識するとしないとに拘らず、ここには、伝統に対する破壊の精神が結集されたことはたしかである。他の会社に於て恵まれぬ地位にあり、逆境に置かれた若い人々の精神が、ここに集って、噴火口のやうにほとばしったと考へることが出来るであらう。そこに、職を失った浪人や、市井のごろん棒や、やくざ者や、庶民的階級への共感も生れ、形式的な武士階級や権勢者への反抗、増悪も自づと生れて来るわけであらう。時代映画に於ける人間的自覚も生じて来る。》
 と書いている。
 映画史上に輝かしい足跡を残したマキノは消滅した。しかし、旧劇の立回りを葬り、剣劇のメッカとしてその存在を誇った伝統は太く受けつがれた。〝七剣聖〟と呼ばれる七大スターのうち、五人はマキノ出であり、その他多くのスター、監督がマキノの流れを汲んで活躍したのである。

傾向映画の立回り、モッブ・シーン
 寿々喜多呂九平の、伊藤大輔の、山上伊太郎=マキノ正博の、共通した下積みの人間の反逆が、はっきりと目的意識を持って現れたものが〝傾向映画〟と呼ばれる一連の作品である。
 昭和四年の日活・内田吐夢監督作品『生ける人形』とか、翌五年の帝キネ・鈴木重吉監督作品『何が彼女をそうさせたか』を嚆矢として、当時のきびしい検閲の眼を逃れるため、時代劇に擬装した〝傾向映画〟がぞくぞく作られた。
 伊藤大輔の『一殺多生剣』と『斬人斬馬剣』、辻吉朗の『傘張剣法』『金四郎半生記』、古海卓二の『戦線街』『日光の円蔵』、松竹の〝プロレタリア映画三部作〟といわれた『挑戦』(小石栄一)、『弾丸』(古野英治)、『火蓋』(悪麗之助)等がそれだ。
 講談の主人公遠山の金さんは、父に反逆して革命運動に走ったブルジョアの子弟を連想させたし、浪人が長屋の住人と団結して、家老の息子や高利貸しと戦う『傘張剣法』は、そっくり階級闘争に置換できる。
『一殺多生剣』は新しい支配階級である官軍への抵抗、『斬人斬馬剣』は悪家老一味の悪政に対し、浪人に指導された農民が、一揆という手段で起ち上がる。
 とうてい現代劇では許可されない社会主義的イデオロギーを持った内容の作品が、歴史的時間や時代劇のコスチュームによってカムフラージュされたわけだ。
 それすらもカットされ、検閲の強化によって昭和六年末には姿を消してしまう。
 傾向映画の場合、これまでの一人の浪人が世を呪い、反逆し、大勢の捕り手を向こうに回して悲壮な死闘を展開する式の立回りはなく、階級闘争が下敷きとなっているだけに、モッブ・シーンが多いのが特徴といえるだろう。たとえば『斬人斬馬剣』は、浪人側の白馬隊と城側の黒馬隊が、めまぐるしいフラッシュ・バックの中で戦う。
 ヒーローは松之助時代の勧善懲悪の英雄豪傑や、ニヒリストの浪人ではなく、抑圧された民衆の味方として、農民と連帯したり、長屋の住民の代表になったりして権力者と戦うのである。
 市川右太衛門、月形龍之介、沢田清といったこれら傾向映画の主演スターたちの剣技に変化があるわけではないが、立回りの背景が従来のものとは異質だった。それが剣戟映画にかつて見たことのない新味を出していた。

『斬人斬馬剣』のモンタージュ
 エイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』によって成功したソ連映画の〝モンタージュ理論〟は全世界を風靡したが、『斬人斬馬剣』で伊藤大輔がモンタージュを用いているのは注目に価する。
 互いに無関係な画面と画面とをつなぎ合わせて、その画面自体がもっている意味のほかに、新たに全体としての意味を生むモンタージュ手法のソ連映画は、昭和五年に公開された『アジアの嵐』が最初であり、『斬人斬馬剣』の製作はその前年だから模倣ではない。この作品のラストのスピーディな追っかけモンタージュは、武田忠哉氏の「スピード・モンタアジュの技術的解剖――《斬人斬馬剣》の追跡手法に関するコンティニュティ的研究」に紹介されている。(『映画往来』昭和八年四月号)
(二七八)5 白黒 森と空 滑走
(二七九)8 やや黒 〃
(二八〇)6 黒   来三郎(全身)(格子少し見える)
(二八一)6 白   白馬の脚(大写)
(二八二)6 白   〃   (〃)
(二八三)5 黒白 砂塵
(二八四)5 白   白馬の脚(大写)
(二八五)5 やや黒 〃   (〃)
(二八六)8 黒   馬の脚切れている。来三郎(全身)
(二八七)6 白   来三郎(大写)
(二八八)5 やや白 佐源太(〃)
(二八九)5 白   正面を見る黒馬隊隊長(大写)
(二九〇)5 黒   頼母(〃)
(二九一)5 白   来三郎(〃)
(二九二)5 黒   弓を射る黒馬隊の一人(大写)
(二九三)5 白   佐源太(〃)
(二九四)5 黒   馬隊長(〃)
(二九五)5 黒   頼母(〃)
(二九六)5 白   空と森 滑走
(二九七)5 白   来三郎(〃)
(二九八)5 白   佐源太(〃)
(二九九)5 白   黒馬隊長(〃)
(三〇〇)1 白コマ
(三〇一)1 黒コマ
(三〇二)1 白コマ
(三〇三)5 黒   叫ぶ来三郎(大写)
(三〇四)5 やや白 来三郎 疾走(全身)
 上からショット・ナンバー、コマ数、画面の調子である。
 こういう感覚的手法が、新鮮に映ったことは当然で、立回りシーンには大いに応用され、立回りの映像表現の効果を高めた。それは立回りの美しさ、あるいは激しさをより映画的にしたが、反面、モンタージュ技術の行きすぎのため、いたずらに目まぐるしく、立回りの型をじっくり見ることもできないという弊をもたらしたこともいなめない。しかし、映像表現のテクニックの上で、大きな刺激となったし、それは現在でも用いられているのである。

伊丹万作と〝ナンセンス時代劇〟の殺陣
 傾向映画の弾圧によって、寿々喜多、伊藤以来の激情的な反逆反体制の叫びは時代劇の表面から後退せざるを得なくなった。
 代表的作家と目された伊藤大輔も『続大岡政談・魔像篇』『鼠小僧旅枕』等の娯楽作品に職人的手腕をふるうにとどまった。そして、それに代わって、ナンセンス時代劇と呼ばれるものが登場した。
 内田吐夢が昭和六年に作った『仇討選手』は傾向映画の変形といわれるが、それは傾向映画を喜劇的に展開させた諷刺映画というべきものである。
 仇討流行時代に、自分の領内に仇討ちをした者がいないのを恥じた殿様が、植木職人が斬られたのを利用し、その息子を、仇討選手に仕立てるというストーリー。
 翌七年の『国士無双』は、伊藤大輔の推薦で千恵蔵のプロダクションに入った伊丹万作の作品で、剣豪のニセモノがホンモノをあっさりやっつけて偶像を破壊する。そこに痛烈な権威否定と諷刺があった。
 暗い世相を反映して現れた傾向映画に対して、今度は明るいもの、軽快なものへの要求が時代劇にも求められたわけだ。千恵蔵がマキノ時代の陰性な内攻型の美男とはうって変わって明朗闊達なキャラクターを押し出し、ニヒルと反逆を内容とした時代劇に対して、明朗、諷刺、知性等の要素を持ったユニークな作品を生んだ。もちろんそれは伊丹万作の力によるところが大きかった。
『御存知源氏小僧』では、
《ありふれたチャンバラはやりたがらない。どうせ千恵蔵のふんする主人公が超人的に強いなら、一人二人はめんどう、大刀を引き抜き、エイッと一振りすると多勢の捕手たちの首がコロリと一どきに落ちるという演出だ。ちょっとした歌舞伎十八番の『暫』(しばらく)だが、千恵蔵の大刀はおかげでノコギリの歯のようになってしまう。》(『東京新聞』夕刊連載、岩松雄「けんげき映画今昔」)
 という殺陣を見せている。乱闘に次ぐ乱闘、チャンバラのためのチャンバラを皮肉った逆説であり、伊丹万作―千恵蔵映画の姿勢がうかがわれる。そして、このシニカルなナンセンス時代劇は、傾向映画の沈滞以来、無気力なマンネリズムに陥りつつあった時代劇に刺激を与え、新風を吹きこんだ。
 時代劇に三つの段階があり、松之助から阪妻に至る〝修身教科書的思想善導時代〟、阪妻から大河内にかけての〝虚無的剣戟時代〟、大河内から千恵蔵に移って〝明朗時代ものの時代〟に分けるという説がある。
 この説が妥当かどうかはともかく、千恵蔵が明朗時代劇で一つのエポックを作ったのは確かだ。

山中貞雄と立回りの省略
 寛寿郎プロからスタートした山中貞雄にも剣戟映画から無意味なチャンバラを追放しようとする意図があったようだ。その処女作『抱寝の長脇差』はありふれた股旅ものだが、主人公が暴れる浪人をとっちめると、その浪人がつんのめって刀で障子を突き破る。その破れ穴を通して壁の錦絵を写す。錦絵に描かれている立回りの図をフラッシュ・バックして、ありきたりの剣戟シーンに代えていたのだが、それがかえって画面の外で行われているのであろう争闘を想像させ効果的だった。
 同じく『抱寝の長脇差』で、やくざ仲間にからまれた磯の源太が「川べりに来い」といいすてて出て行く。相手は「逃げるなよ」と後を追う。庭下駄の大写しがあって、それをつっかけて出て行くその男の足。オーバーラップしてその庭下駄が川の中に浮いている。源太にあっさり川の中に叩きこまれたわけだ。そして下駄に「冷てえ水でノボセを下げて、ゆっくり考えてみることだね」という源太のセリフがスーパー・インポーズされる。なんともシャレたセンスで、無声映画ならではのよさが横溢している。(「けんげき映画今昔」より)
 このような立回りの巧みな省略と、ナイーブな情感に満ちた描写が新鮮だった。アメリカ映画の手法をとり入れ、剣戟映画で駆使した点もユニークだった。
『盤嶽の一生』『風流活人剣』『国定忠次』『街の入墨者』『百万両の壺』『河内山宗俊』『人情紙風船』といった一連の山中作品は、小市民映画の時代劇版ともいうべき〝新時代劇〟であり〝髷をつけた現代劇〟だった。
 丹下左膳も国定忠次、河内山宗俊、金子市之丞も、これまでのヒーローとは違った市井の一庶民として、現代人的性格を与えられ、現代的感覚で描かれたその作品は、新しい時代映画のスタイルを生み出したのである。
 ことに『河内山宗俊』や『人情紙風船』は、前進座と組んだ作品だが、河原崎長十郎や中村翫右衛門は、これまでの大河内らとは異質の芸風を見せた。
『人情紙風船』の長十郎はならず者たちにはコテンパンにのされ、仕官を頼んだ相手からは乞食扱いにされ、あげくの果ては前途を悲観した女房と無理心中というみじめったらしい浪人である。翫右衛門も一向に喧嘩は強くないのにイキがる小悪党だ。
 また『河内山宗俊』は芝居や講談で知られるヒーローではなく、無頼漢どもから純情な娘を助けるため木戸を支えて背中を刺され死んでいく。
 派手な立回りもなく、ヒーローはちっとも強くない。浪人や小悪党、ルンペンプロレタリアートが長屋ではいずり回っている生態は、どう見たってカッコイイものじゃないが、そこにいいしれぬ人間的息吹きを感じ、親しみを覚えるのだ。

稲垣浩と〝鳴滝組〟一党
 伊丹万作とともに千恵プロに拠った稲垣浩は『弥太郎笠』『一本刀土俵入』『瞼の母』等、人情の美しさを基調とする甘いリリシズムをただよわせた佳作をものにした。
 彼の作風は、時代劇特有の懐疑がなく、明るく開放的で、どんな逆境にも屈しない楽天主義のようなものがあった。千恵蔵のいわゆる〝明朗時代劇〟は伊丹と稲垣によって生まれたが、稲垣作品も、時代劇を反抗的、虚無的傾向から、一種のあきらめを伴った諷刺的傾向の、〝髷をつけた現代劇〟へと転換させたのだった。
 この稲垣浩と山中貞雄、滝沢英輔、三村伸太郎、藤井滋司、八尋不二、萩原遼、鈴木桃作(土肥正幹)の八人の監督と脚本家が、京都鳴滝に住んでいたところから、昭和九年鳴滝組一党をつくり、〝梶原金八〟という共同ペンネームで時代劇に大いに楽しい雰囲気を盛りこもうとした。トーキー初期の時代劇は、この鳴滝組の活躍によって光芒を放った。
 それらはおおむねヒロイズムを否定し、むしろ、人間の弱さを描くことによって、リアリズムを打ち出しているようだ。
 大井広介氏は『ちゃんばら芸術史』で、
《時代映画を劇映画一般のなかに、解消する地点に接近した山上、正博、松田といま一つのグループは、片岡千恵蔵プロダクションに拠った伊丹万作、稲垣浩のグループである。》
 といい、
《山上だの、伊丹だのといった人達がなお健在だったら、時代映画は、劇映画一般のなかに止揚され、剣戟映画は、劇映画のなかの西部劇みたいな、特殊な残りかたをするようになっていたかもしれない。すくなくとも、マゲモノを阪東、市川、嵐、片岡といった歌舞伎の名題から切離していた場合なども想像される。》
 山中についても、
《山中は剣戟映画の映画技術者として優れていたが、同時に時代劇映画を劇映画のなかに止揚することを、やはり真剣に考えていたと信じられる。》
 と、彼らの業績を高く評価している。時代劇イコール、単なる剣戟映画であってはならないという主張がここに見られる。

〝剣戟〟の衰退と〝股旅〟の台頭
 そして、その剣戟についても、
《剣戟映画は既にその最盛時をすぎ、『国士無双』『仇討選手』『盤嶽の一生』などが、現れるべくして現れたのだと、私は解釈している。
 単なる剣戟映画では、大人の鑑賞を維持することができなくなった。(略)
 和洋合奏でにぎにぎしく乱闘を上映したものが、トーキーになり、まさか和洋合奏ではやしたてるわけにも行かず、せいぜいエフェクトで殺気をだすというような、トーキーによる演出の変化も、殺陣のブレーキになった。
 剣戟映画が映画界を席捲した時代は、実はこういう経過で、降り坂にさしかかっていた。》
 と見る。
 さらに、大井氏は、
《剣戟映画や剣劇が、大人の鑑賞に耐えなくなった一半の理由は、またたび物のせいだと私は思う。》
 と、喝破しているが、これは卓見だ。
 長谷川伸が戯曲『沓掛時次郎』を発表したのは昭和三年のことであった。つづいて『一本刀土俵入』とか『瞼の母』等を書いたが、翌四年の『股旅草鞋』以来、やくざの旅がらすを描いたものは〝股旅もの〟といわれるようになった。
うらぶれた一本独鈷どっこのやくざは、講談調のカッコイイ俠客にくらべて、はるかに人間的に映った。ことに稲垣浩は、時代劇の底に流れる感傷主義と、ながれ者のやくざの抒情的描写によって成功した。
 伊藤大輔の描いた忠次のような悲壮感ただよう反逆と虚無の影はなく、素朴なセンチメンタリズムとユーモアが入りまじっていた。
 不況を反映して生まれた〝傾向映画〟のあと、諷刺に満ちた明朗時代劇へと時代劇の流れが変わったが、昭和八年ごろからの軍需景気による不況の解消は、大衆を浮ついた気分にした。もはや悲壮な剣戟映画は共感を呼ばなくなった。それで明るく、軽い股旅ものが大いに流行することになる。
 しかし、その股旅映画は、長谷川伸や稲垣浩の描いたしがない旅がらすの世界のエピゴーネンで、はなはだしくご都合主義的なものに変質した作品が激増した。
 大井氏は、
《否定的な浪人主人公が捨てばちに剣をふるい捕り手の重囲にほろんで行くのは、心情として首肯されるが、「一宿一飯の義理」ですぐ前後見境なしに凶行を演じ、ズラかってしまうような、テーマが、チンピラやくざはしらぬ(ママ)ど、普遍的に感銘をよびおこすだろうか。剣戟映画や剣劇は脚本からして、大人の鑑賞に耐えないようなものへ、オチてしまったのである。》
 といい切っている。そして、長谷川伸や、『弥太郎笠』等の子母沢寛は、佳作も出したが、股旅ものを流行させ、そのおびただしいエピゴーネンによって、簡単に殺生を行い高飛びするという形で責任の追及から逃れる弊風をまんえんさせた、とも批判するのだ。
 高田浩吉あたりの鼻うたまじりのご機嫌な股旅映画が出てくるようになっては、もうおしまいである。人生の苦悩も、生活も、なんのかかわりあいもない気ままなカッコイイ旅がらすがそこに描かれるだけで、大衆に迎合する、いわゆるミーハー・ファン受けのするものが圧倒的に多くなった。

殺陣の変貌
 殺陣についても、自ずと変化が生じた。つまり、剣戟映画はすべてのシチュエーションがラストの立回りに向けられていた。だが、その比重がすっかり変わったのだ。それは、ファンが立回りよりも二枚目スターの颯爽たる美剣士ぶりや、いなせな旅がらすぶりに関心を持ち、立回りはそのスターをアピールするための手段でしかなくなった。これでは舞踊と大して意味は変わらない。もちろん例外はあるが、大部分の時代劇はスター中心、ヒーロー中心で、テーマ不在の作品さえ見られた。
 社会情勢を敏感に反映して、大衆の絶望とか怒り、怨念を、剣戟映画の中に叩きつけていた熱狂的な情熱に喝采が送られた時代が去ると、内面的な知的な〝髷をつけた現代劇〟がもてはやされた。しかし、それ以後は、インテリとかいわゆるオトナのファンは洋画に去り、ミーハー層がファンの主流となったのである
 時代劇の主演スターは、立回りの巧拙よりもまずルックスのいい二枚目でなければならなかった。
 常にカラを破ろうとして発達して来た殺陣も、マンネリズムに陥るのは当然だろう。スター個々が、キャリアを積むことによって、あるていどの進歩を見せたにしても
 昭和十年、日活で『大菩薩峠』が映画化された。机龍之助には大河内伝次郎が扮したが、このとき撮影見学に来た原作者の中里介山が、大河内の爪先立ってやる立回りにクレームをつけ、また道場に飾ってある木剣が流儀が違うとか、出演者は剣道の稽古をしろなどといい出す。そこで道場をこしらえ、一刀流の高野弘正氏に教えを受けたのだが、本格的な剣道家が剣技を指導し、型をつけたのは映画ではこれがはじめてだった。
 その成果は格調高い殺陣を生んで、それ以後の時代劇の立回りに大きな影響を与え、パッと斬るとバラバラと倒れる式の派手な立回りは影をひそめ、剣道の理にかなった殺陣が多くなった。それと、各人の型で見せるのではなくて、全体的なものを描写するという傾向、さらに内面的な気持ちを汲んだ立回りが生まれた。これは特筆すべきことである。
日米開戦と映画統制
 昭和十二年七月七日、日中戦争が起こり、これが十六年十二月八日の太平洋戦争にまで発展する。この戦時体制突入のため、時代劇は、いちじるしい変貌を強いられた。
 十四年四月に映画法が公布され、十月から実施されたが、この結果、映画は国民に対する宣伝機関として、情報局、つまり軍部の統制下に置かれ、作家の個性を曲がりなりにも発揮できた自由は次第にせばめられた。
 時代映画については、大陸に戦火が拡大されてから、日本のあり方を歴史に立脚した眼で再認識しようということで、勤皇史観と武士道鼓吹を内容とする歴史映画が重んぜられ、忍術や荒唐無稽なチャンバラ映画はすっかり影をひそめることになる。
 日米開戦を前にした十六年六月には、重要な軍需品とみなしている生フィルムの欠乏という事態もあって、統制は一層強化され、劇映画の製作は二社ないし三社、配給を一元化する情報局の映画臨戦体制案が押しつけられた。その結果、十七年一月日活、新興、大都の三社合併による大日本映画製作株式会社(大映)が生まれ、映画会社はこの大映と松竹、東宝の三社に統合されたわけである。そして娯楽らしい娯楽は制限され、いわゆる国民精神総動員の国策に添った作品以外は、ほとんど製作不可能の状態となった。

歴史映画と娯楽の制限
 歴史映画は、十四年日活の辻吉朗作品『海援隊』あたりがそのはしりと目される。翌十五年には内田吐夢監督の『歴史』、十六年には松竹・溝口健二監督の『元祿忠臣蔵』、日活・稲垣浩監督の『江戸最後の日』、東宝・衣笠貞之助監督の『川中島合戦』、十七年に新興・森一生監督の『大村益次郎』、大映・稲垣浩監督の『独眼流正宗』等が作られた。
 代表的な『歴史』は、戊辰ぼしん戦争のときの会津二本松の戦いを中心に、時代の流れと人間の生き方を描いたもので、現代劇スターの小杉勇を主演に起用するなど、新しい意欲を見せた。
 しかし、この『歴史』といい、ほかの作品といい、〝歴史映画〟はおおむね興行的には当たらなかった。戦時下の暗い時代、息ぬきに娯楽を求める大衆は、軍・官僚の統制の下に作られたお仕着せくさい歴史映画に、本能的に背を向けたのかもしれない。
 ただ、歴史映画は、従来の時代劇がややもすると歴史を自由に、作者が勝手に解釈する弊があったことを改めたし、勤皇史観という一つの歴史観の上に立ってものをみつめ、そしてそれを忠実に描こうとした意図は、たとえその歴史観が、当時の国策に添ったものであったにせよ、時代劇にとって一つの進歩ではあった。
 娯楽が制限されたとはいっても、十八年東宝・滝沢英輔監督の『伊那の勘太郎』とか大映・押本七之輔監督の『虚無僧系図』、西原孝監督の『護る影』、十九年大映・松田定次監督の『高田の馬場』のような娯楽時代劇が、わずかながら作られ、大衆の渇きをいやした。それは時代劇、現代劇を通じての〝国策映画〟の生硬さから生じる反動といえよう。
 戦況の不利が目立ってきた十九年以降、国民の不安感をまぎらわそうということからか、娯楽ものの制限がいくらか緩和された。その顕著な例として、二十年に海軍航空本部の委嘱で大映が『東海水滸伝』(伊藤大輔・稲垣浩共同監督)を作ったことがあげられる。
 これは海軍の慰問映画だが、ただ〝撃ちてし止まむ〟ばかりではダメと、軍部もようやく悟ったのだろう。
 次郎長と石松の物語で、人がいないため、清水一家の二十八人衆の大半は西陣の織屋の旦那方、御用御用は愛国婦人会の婦人たちがやったという。応召や徴用でカラミの連中がいなくなったからで、これでは満足な剣戟シーンなど出来っこない。いや、そういうことより先に、時代劇はもうかつてのエネルギーを失っていたのだ。

〝七剣聖〟の時代
 大正末期から昭和二年までに輩出した剣戟の大スターは、河部五郎と市川百々之助がスター・ダムから脱落したほかはいずれも健在で、ほかの追随を許さなかった。
 大正十三年に阪妻が出たのが一番古く、それから昭和二年にかけての四年間に、月形、右太衛門、大河内、長二郎、長三郎(寛寿郎)、千恵蔵の六人がデビューした。そして、この七人はデビュー以来、三十数年ずっとトップ・スターの座を占めた。南部僑一郎氏はこれを〝七剣聖〟と呼んでいる。
 この、〝七剣聖〟は、立回りにおいてもそれぞれ一家をなし、殺陣師も彼らの意のままといってよかった。なにしろ、その実力の前には、監督さえ従属的立場に置かれるケースがしばしばあったくらいだから推して知るべしである。
 たとえば、阪妻プロの安田憲邦監督が、撮影の際、阪妻に「オン大、アップを一つちょうだいします」といったとかで、嘲笑まじりでこの言葉が流布されたり、十四年に東宝で『新篇丹下左膳』を作ったとき、大河内が第一篇のみで渡辺邦男監督をおろさせたことなどが挙げられる。
 彼らの場合もう〝型〟は出来上がっていて、キャリアの積み重ねによって、それが円熟していくわけだが、反面、マンネリとかイージーといった欠点が生まれるのはやむを得なかった。
 歌舞伎界出身が多いだけに、時代劇の撮影所は歌舞伎界の身分制度のようなものを踏襲し、封建的な空気が支配している。その中で彼らは絶対的といっていい権力を握って、しかも自意識過剰である。立回りという個人的な技能に関しては、普通の演技以上に誇りと自信を持ち、自分で殺陣をつける者さえいた。だから昭和初期から三十数年、殺陣が本質的に変わらなかったのは当然だろう。
 そして、時代劇そのものが、いわゆる〝髷をつけた現代劇〟や股旅や歴史劇など、立回りを主としない方向に傾いたため、日活、松竹、東宝のメジャー会社からは、奔放な、娯楽に徹した剣戟映画が出なくなった。もちろん、十四年の映画法施行以後は、軍・官僚の娯楽規制によってだが、それ以前から剣戟というよりチャンバラの野放図な面白さをこれらメジャー系の作品に期待することはできなくなっていた。
 十二年から十三年にかけて時代劇スター地図が大きく塗り変えられた。
 日活の大統領だった大河内と、松竹の看板だった林長二郎が東宝に移り、代わって日活に独立プロを解散した阪妻、嵐寛寿郎が加わり、これまでも日活と提携していた千恵蔵とともに三大スターが拠ることになった。
 ところが、この三大スターのほか、月形、沢村国太郎、尾上菊太郎らを擁した日活ですら、阪妻の『魔像』『鍔鳴浪人』『風雲将棋谷』、千恵蔵の『宮本武蔵』、寛寿郎の『鞍馬天狗』と『右門捕物帖』『髑髏銭』、そして原健作の『まぼろし城』等を剣戟映画、チャンバラ映画として数え得るにすぎない。
 日活の伝統的なオールスターものは『忠臣蔵』『水戸黄門廻国記』『王政復古』等があったが、戦前の時代劇の栄光はこのあたりで終わったようだ。

稲垣浩『宮本武蔵』の〝擬闘〟
 これらの中で昭和十五年稲垣浩監督作品の『宮本武蔵』は吉川英治のベストセラーを映画化したもので、剣の神髄をきわめるため、お通の愛もしりぞけて流浪する求道者武蔵の姿は、戦中の青年層の心の支えになったといえる。相手役佐々木小次郎には月形が扮したが、前髪立ちの美剣士小次郎にしてはトウが立っていたけれども、堂々たる風格で千恵蔵を圧倒した。厳流島の決闘はチャンバラ史上屈指の対決シーンとして記憶される。
 殺陣師の足立怜二郎氏によれば、このとき京都の武道家大野熊雄氏から天地陰陽の構えをはじめ、上段、中段、下段、八双、脇構えという有名な、〝五輪の型〟を教えてもらったが、いままでにない新鮮な立回りと好評だった。
 一乗寺決闘は《多勢の敵を相手に一人で戦うのだから、マトモには立向えない。敵陣をカク乱して武蔵は田んぼのアゼ道に逃げ込む。一人しか通れないから一対一の勝負がくりかえされる。一しきりやるとこんどは竹ヤブに敵をさそい込む。ここで、竹が絶好の味方となる。こうした場所の移動と切合いが絶えず交錯して、どこからみてもウソのない決闘シーンが展開された。これが本当の立回りなのだナ、と私はそのとき痛感したものだ。》(よみうり演芸館「殺陣」)
 稲垣監督は従来の〝殺陣〟に代えて擬闘、という言葉を考え出したほどの熱の入れようで、この一乗寺決闘の型はその後の『宮本武蔵』にほとんど踏襲されている。
 大河内と林長二郎改め長谷川一夫を迎えた東宝時代劇は、演出陣もマキノ正博、滝沢英輔、衣笠貞之助と充実し、さらに前進座と提携して『新篇丹下左膳』『昨日消えた男』『蛇姫様』『戦国群盗伝』『阿部一族』『忠臣蔵』等で日活の牙城に迫った。
 これに反して長二郎を失った松竹時代劇はたちまち不振に陥り、坂東好太郎、高田浩吉に新人の川浪良太郎らでお茶をにごすていどであった。

中小プロダクションの興亡
 メジャー系でも一段格が落ちる新興キネマが、松竹時代劇衰退の間隙を衝いて活発に、娯楽時代劇を製作したのが目立つ。この社はマキノ以来のヴァンプ女優鈴木澄子を使って〝化け猫映画〟というゲテモノを作り、大当たりをして以来、狸や狐や忍術を使い、目玉の松ちゃんの昔にかえったような講談ダネのヒーローを、臆面もなくスクリーンに登場させて、子供やある種のファンの支持を得た。
 市川右太衛門を別格にして、大谷日出夫、羅門光三郎、大友柳太郎(当時)らが活躍、質的には低俗のそしりをまぬがれないが、徹底した娯楽路線で、三社合併で大映になるまで『阿波狸合戦』『直参風流男』『落花の舞』『江戸の紅葵』などを撮りつづけた。
 もともと河合プロというプロダンションから発した大都映画は、どちらかといえばマイナーだが、理屈抜きの娯楽作品で一貫し、新興キネマに近い実力を持つようになった。
 阿部九州男、杉山昌三九はじめ、松山宗三郎、近衛十四郎、大乗寺八郎、本郷秀雄らがイキのいいところを見せ、『拓榴一角』『塚原ト伝』『神州天馬俠』『愛憎乱麻』『鞍馬天狗』等のチャンバラを大映になる直前の十六年にも作っている。
 このほかにチャンバラ・キネマとして、極東映画、全勝キネマの二社があり、メジャー系作品の半分程度の四巻物の時代劇を発表していたが、例の企業統制で、極東は大宝となり東宝ブロックに、全勝は興亜と名を変え松竹傘下に吸収された。十五年度には極東が『忍術廻国三勇士』『武俠八剣伝』『塙団右衛門』『河童大合戦』等、全勝が『三剣怒濤に躍る』『白龍葵頭巾』『尾州三勇士』『旗本三日月侍』等を発表している。極東には雲井龍之介、綾小路紘三郎、市川寿三郎の〝三大スター〟と中野伝次郎らがおり、全勝には松本栄三郎、大河内龍、天津龍太郎らがいた。
〝七剣聖〟がマンネリになり、メジャー系各社の時代劇が、意識的に〝大作〟を指向しはじめたころから、剣戟映画――チャンバラは生気を失い、わずかに新興、大都、そして極東、全勝の、いわば日本映画の傍流で命脈を保ったのだった。
 剣戟映画の源流であるマキノは、そもそもアンチ日活、アンチ松之助から出発したものだ。そのマキノは東亜キネマと合併し、分離し、経営的には苦難の道をたどりながらも、映画界にとくに時代劇に確固とした地盤を築いた。しかし〝映画の父〟といわれたマキノ省三の没後はますます経営困難となり、六年六月につぶれてしまう。マキノ正博が十年九月マキノ・トーキーを起こすが、昭和十二年解散し、ついにその栄光の幕を閉じるのである。
 東亜キネマは東活となり、これがつぶれると宝塚キネマが生まれ、さらにエトナ映画、富国キネマ、大衆文芸映画、赤沢キネマ等々の小会社が簇生ぞくせいした。これら小会社やプロダクションの興亡は、大資本の谷間に浮き沈みした映画人の哀史であるが、ほとんど顧みられることがなかった。
 帝キネは六年に新興キネマとなり、河合プロが大都映画と改称して存続したが、この二社と、興亡をくり返した小会社、プロダクションの時代劇に、メジャー系には見られない、メジャー系が失った活力があった。理屈抜きの面白さ、楽しさをそこに見出すことができた。
 たとえ低俗とか荒唐無稽とか、子供だましなどと酷評されようとも、その野放図なものこそ、映画の〝原点〟ではなかったか。

羅門光三郎その他
 私は小学生時代に、歴史映画のハシリともいうべき日活の『海援隊』を見に行った。寛寿郎、月形らが主演する〝大作〟だった。このとき併映で極東オール・スターの『武俠八剣伝』を見たが、『里見八犬伝』のパロディで、八つの珠の代わりに仁義忠孝信悌礼智の字をそれぞれ刻んだ剣を持つ八剣士の縦横無尽の活躍に驚喜したものである。この映画の前に、『海援隊』は全く生彩を失っていた。
 私はチャンバラ狂といわれるくらい見まくったが、小遣いの関係と時間の問題からいくぶん選択するようになり、まず松竹作品、次は歴史映画、町人・芸道ものにソッポを向いた。東宝はもともと時代劇は少ないし、日活も娯楽作品が減ってきて、結局一番見たのは新興、大都、極東の作品だった。全勝は配給系統の都合でか、私の育った北海道釧路市にはあまり来なかったように思う。それでも『三剣怒濤に躍る』とか『再現蝙蝠魔』などというウレシい作品に接している。
 阪妻や大河内たち〝大スター〟の作品もずいぶん見て、カンロクがあるだのカッコイイだのといっていたが、〝大スター〟たちのものものしさが、だんだん子供ごころにもハナについてきたのかもしれない。〝大〟にならない中堅スターの熱のこもったチャンバラに熱狂するようになった。
 たとえば新興の羅門光三郎。彼は〝小キネマの大統領〟といわれたくらい東亜―東活―宝塚―富国キネマ―極東甲陽―今井映画と、マイナーばかり歩いて苦労したが、彼の立回りは猛闘という表現が一番ふさわしく、実にエネルギッシュでたくましかった。『森の石松』『直参風流男』等でその〝猛闘〟ぶりを遺憾なく発揮したものだ。『御存じ紫頭巾』では左手での抜討ちを二、三度見せ、それでトンボを切ったりした。
 戦中に製作されたが公開は二十五年だった大映作品『乞食大将』。これは右太衛門が後藤又兵衛になる大仏次郎原作の映画化で、羅門は宇都宮鎮房に扮し、城中の廊下を進みながら行く手を阻む黒田長政の家来たちの刃を、無人の曠野を行く勢いでハネ飛ばす。剛刀といおうか、いかにも戦国の豪傑らしい風格で、最後は又兵衛の槍に刺されるのだが、完全に右太衛門を圧倒していた。
 無声映画鑑賞会で極東の『剣聖荒木又右衛門』を見たが、憤怒の形相ものすごく、若かりし時の猛演、熱演ぶりは小気味がよかった。べつだん二枚目でない彼は、それでスターの座を得ていたわけである。
 戦後はバイプレーヤーに転じた。『銭形平次捕物控・地獄の門』で、刀を背中に回したまま居合抜きをやったが見事だった。こういうのが〝芸〟というものだろう。私は新劇役者あたりが演技力がどうのこうのとモッタイぶっても、ことチャンバラに関しては全く認めない。やはり叩きこんだものが、キラッと光る、そこにバイプレーヤーの価値を見出すのだ。
 羅門はまだいい。戦後もバイプレーヤーとしてでも活躍したのだから。だが多くの剣戟スターがスクリーンを離れ、そのまま埋もれてしまった。消えるべくして消えたスターもあれば、いい素質を持ちながら開花せぬまましぼんでしまった悲劇的なケースもある。なにしろ大半が三十代後半から四十代で、まさにアブラののりきったときに〝場〟を失ったのは痛かった。
 彼らは一座を組んで、映画スターの〝実演〟というフレコミで地方巡業を打ったのだが、最初ははなばなしかったものの、だんだんドサ回りの小屋芝居に転落していくケースが非常に多かった。
 ザッとその顔触れを挙げると――(チャンバラ・スターでない者も含む)
▽日活系――沢田清、尾上菊太郎、沢村国太郎、原健作、市川百々之助、青柳龍太郎、市川正二郎、河部五郎、小川隆、遠山満、香川良介、団徳麿、中田弘二、山本礼三郎、片山明彦、松本秀太郎、杉狂児、宮城千賀子、市川春代、深水藤子、大倉千代子、月宮乙女、川上朱美、日暮里子、沢村貞子、酒井米子。
▽松竹系――坂東好太郎、高田浩吉、川浪良太郎、藤井貢、海江田譲二、大内弘、坂東橘之助、中村吉松、葉山純之輔、堀正夫、南光明、嵐菊麿、梅若礼三郎、中村時三郎、富本民平、夏川大二郎、野沢英一、乃木年雄、飯塚敏子、伏見直江、伏見信子、花岡菊子、原駒子、最上米子、河上君栄、林喜美枝、井上久栄。
▽東宝系――伊原史郎、小林重四郎、市川朝太郎、岡譲二、高勢実乗、小笠原章二郎、藤原鶏太、千葉早智子。
▽新興系――大谷日出夫、羅門光三郎、大友柳太郎、市川男女之助、立松晃、浅香新八郎、尾上栄五郎、南条新太郎、千代田勝太郎、賀川清、光岡龍三郎、伊庭駿三郎、芝田新、寺島貢、妻紀正二郎、松本泰輔、由利健次、伴淳三郎、鈴木澄子、森静子、高山広子、歌川絹枝、大河三鈴、志賀暁子、国友和歌子、甲斐世津子、松浦妙子。
▽大都系――阿部九州男、杉山昌三九、近衛十四郎、大乗寺八郎、本郷秀雄、藤間林太郎、椿三四郎(津島慶一郎)、相良伝三郎、雲井三郎、琴糸路、中野かほる、光川京子、東龍子、水川八重子、城木すみれ、三島慶子。
▽極東系雲井龍之介、綾小路紘三郎、市川寿三郎、中野伝次郎、片岡左衛門、神田烈、結城昌三郎、小浜美代子、森野洋子、中村直江。
▽全勝系|松本栄三郎、天津龍太郎、大河内龍、富士幸三郎、双葉勝太郎、樺山龍之介、宮川敏子、貴志洋子、水木令子。
▽その他(元映画スター)――鈴木伝明、市川小太夫、明石潮、森野五郎、高木新平、実川延松、小金井勝、中村吉十郎、竹内良一、沢田義雄、和田君示、関時男、森肇、河合菊三郎、阪東扇太郎、小島陽三、関根英三郎、市川米十郎、マキノ正美、阪東要二郎、五月信子、梅村蓉子、環歌子、マキノ智子、岡島艶子、中山(市松)延見子、桜井京子、月澄江。
 このほか時代劇の大スターたちも一座を組んで随時実演興行をした。中でも嵐寛寿郎は満州など大陸にまで巡業をしたものである。

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