もくじ

【序】歌舞伎の殺陣

【一】尾上松之助の殺陣

【二】沢田正二郎の殺陣

【三】阪東妻三郎の殺陣

【四】大河内伝次郎の殺陣

【五】〝傾向映画〟から明朗時代劇へ

【六】戦時下の空白

【七】嵐寛・長谷川の殺陣

【八】右太衛門・千恵蔵の殺陣

【九】二スケ二ゾウの殺陣

【十】三船敏郎の殺陣

【十一】勝新太郎の殺陣

【十二】近衛十四郎の殺陣

【十三】若山富三郎の殺陣

【十四】任侠映画の殺陣

【十五】ニュー時代劇の殺陣

【十六】テレビ時代劇の殺陣

【終】殺陣論


永田哲朗(ながたてつろう)

1931年 北海道に生まれる
1955年 早稲田大学法学部卒業
出版社勤務を経て、フリーライター

永田哲朗(ながたてつろう)

1931年 北海道に生まれる
1955年 早稲田大学法学部卒業
出版社勤務を経て、フリーライター

殺陣 チャンバラ映画史

永田哲朗
〝タテ〟と〝立回り〟
 歌舞伎では闘争形式を「タテ」という。闘争の演技そのものは「立回り」であり、その型が「タテ」だ。タテは立回りの立の字をとって略称されたという説が普通である。
 もっとも享和三年(1803)に出された『戯場訓蒙図彙しばいきんもうずい』に「殺陣」と書いて「たちうち」とふり仮名がしてあり、さらに「三個殺陣」を「さんにんのたて」とよませている。
 従って、「殺陣」はもとから歌舞伎にあったものだ。
 タテは専門の「タテ師」または「立師」と呼ばれるその職分に熟練した俳優がつける。タテの種類は昔から四十八手といわれているが、その組み合わせは必ずしも一定していない。
 歌舞伎の狂言の中に現れる闘争は、合戦、仇討ち、試合、暗殺、捕物、辻斬り、喧嘩、組み討ち等々、いろいろなケースがあり、それに相対掛かりをはじめ、三人掛かり、五人掛かり、十人掛かり、二十人掛かりの形式もある。そこで、上演のつど、前後の配合を考え、脚本の内容によってタテ師が選択研究し、一定の手順をこしらえ、舞踊の振り付けのように動きを考案する。
 このとき、江戸では「ツケ」、関西では「カゲ」というが、気勢を加えるために拍子木を板に打ちつける鳴物入りで立回りを構成する。
『国劇要覧』(昭和七年刊)に、
《立廻りも昔は『暫』や『千本桜』の弁慶芋洗ひに名残りを留めてゐるやうに、荒事師の大太刀で大勢一時に倒れたものである。それが今日の如く手が込んで様式化され、軽業式になったのは安永天明頃からである。本来の殺伐味や惨忍味を殆ど失って了って、ある時は軽妙極まる曲芸となり、ある時は振面白き舞踊に化し去り、又ある時は賑かな相方で道化三昧さえ加はって、見る者は陽気に楽しむ事が出来る。これは観客を飽かせまいとする歌舞技の一つの手法である。》
 とあり、立回りの流れがこれでわかる。
「タテは『立手』で能の方から来ており、『働き』という意味。陣立て、いくさ立てが原典であり兵法の言葉だ。元祿以降、太刀打ち、兵法、修羅事などに用いられ、これに見世物(高場物)から力技、足芸、早技が入ってきて、トンボがとり入れられる。
 そして享保年間(1920年代)に立回りが定着した。この時代は二人で斬り合ったりすることや組み打ちを立回り、大勢の場合はタテといって使い分けていた。
 明治以降、二つは混同して使われるようになった」
 と国立劇場制作室長の織田紘二氏は述べている。

〝だんまり〟
 歌舞伎の形式に「だんまり」という一種のパントマイムがあるが、これには筋はなく、主役をはじめ、花形役者が登場し、暗闇の中で宝物や白旗などを奪い合い探り合う模様を、誇張し、舞踊風に様式化したものだ。
《演技としては、ただ舞台を歩き、探り合いの立廻りを見せる。立廻りの手順も大体きまった型をもっている。人の体に触れかけて避けたり、入れ替ったり、腰にとりつく、払う、背中合わせになる、そういった動きのうちに、美しい景容すなわち「見得」をするのである。》(金沢康隆『歌舞伎の事典』より)
 この「だんまり」に暗闘の字をあてる場合が多く、暗闇の中で数人が闘うのであるから、これはタテそのものともいえる。「だんまり」は、脚本の内容によって「時代だんまり」と「世話だんまり」に大別されるが、各人物の動きには常に一貫する相互の関連があり、結んだり離れたりしながら、いろいろな形と見得とを美しく連続させていく典型的な歌舞伎ショーであることに変わりはない。
 タテは、見得を極度に生かして、ほとんど連続的に美しい静止態を見せる。よく大見得を切るなどというが、「見得」は演技感情の最高潮に達したとき、一瞬静止の形をとり、からだ全体、とくに眼に力を入れて睨み、その形をより強く観客に印象づける手法をいう。タテはあくまで様式美を重んずるから、ときには見得を切らせるために動作があるほどの、見得過多も生まれるわけだ。
「だんまり」は見得の連続であり、歌舞伎の粋を集約したものといえるだろう。

〝所作ダテ〟
 歌舞伎を〝動く絵〟と表現する人がいるが、ドラマとしてより、どのように美しく見せるかという視覚的要素が勝っているから、見得のような非リアリズムの演出がいまも通用する。それは、受けとめる側が昔からの約束ごととして肯定しているからであり、その演出にしろ演技にしろ、完成されているからでもあるのだ。
 舞踊劇、たとえば『吉野山道行』とか、お軽勘平の『落人』等に見られるタテは「所作ダテ」といい、音楽につれて、踊りながら演じるものだ。この所作ダテにからむ下回りを、派手な模様の四天という衣装を着ているから「花四天」と呼ぶが、清元の出語りで花四天の捕り手のかかる場合など、動きはもとより、掛け声一つでも三味線の間に合わせていくのである。
 ほかに主役を群衆がとりまいて演じる『逆癖』とか『鈴ヶ森』『千本桜』等のスペクタルとしてのタテがある。これが十人掛かり、二十人掛かりなどの立回りだが、単なる乱闘ではなく、やはり手順どおりの美しい型を作るものであることはいうまでもない。

〝ドンタッポ〟
 このように歌舞伎のタテはあくまでも約束事を守った様式美本位であって、リアルさを要求される映画などの殺陣とは大いに違うのだが、映画の殺陣は歌舞伎のタテからはじまり、その型にも歌舞伎のタテがずいぶんとり入れられている。
 その上、一見スローテンポで悠長ですらある歌舞伎のタテのほうが、かえってむずかしい場合もあるのだ。
 歌舞伎の立師・坂東八重之助が『演劇界』(三十一年七月号)の「歌舞伎のタテ」という座談会で、
「長谷川一夫さんが国際劇場で『権八』をやったことがあるのです。そのときに映画式の早い立廻りの間にどんたっぽが入れたい。自分はどんたっぽで息を抜くつもりだと言われるのです。ところが初日があいてみると、長谷川さんが、こんなえらいものはない、形をしょっ中つけていなければならない。早い方の立廻りは、自分の体ははずみ浮かせておればいい。私はこれで休もうと思ったらとんでもない、これが一番苦しいと言っていましたね」
 といっている。
 ドンタッポというのは、大時代な鷹揚な立回りに使われる伴奏の音楽がそう聞こえるのでつけられたものだが、早い立回りよりもゆっくりドンタッポとやったほうが肉体的には楽だろうという思惑がすっかり外れたわけで、この例だけでも、歌舞伎のタテの性質がつかめるだろう。
 立回りの様式は昔にさかのぼるほど鷹揚で、非写実的だった。写実的な、型に従わない立回りを、歌舞伎では普通使うことはない。そして、一定の型のないリアルな立回りを、タテ師は〝むく犬の喧嘩〟といってさげすんだ。

タテの〝四十八手〟
 タテの種類は俗に四十八手というが、坂東八重之助が前記の座談会で、
「この間学生さんが論文を書くのだということで、いろいろ調べてみたらしいですけれども、ずいぶんあるのですよ。私たちも知らない名称が二百幾つくらいあるのです。ところが現在使っておるのはせいぜい十か十五ですね」
 と語っているのは、一つの目安になる。
 市川市十郎は「殺し場の動きの定型」という表現を用い、
《『戯場訓蒙図彙』にも、天地・切り身・文七・柳・山形・千鳥・引廻し・つめより・ぎば・鬼飛び〉など三十種に及ぶ例があげられ、さらにさかのぼると二百種にも及んだと先輩から聞かされています。現在でもなお二十種近い定型が残されています。》
 と述べている。(『歌舞伎』四十八年七月号「殺しの工夫」)
 高沢初風氏の『現代演劇総覧』(大正七年刊)には、
《タテの種類は大別すると二種に分れる、一は所作タテと云って時代物に用ゆる大まかな型で、一は活歴――普通の二番目物などに出るムク犬と称する型である。其名称のおもなるものを挙げると先づ△宙返り △段返り △二つ返り △後ろ返り △胸返り △仏返り △猿返り △ほうろく返り △逆立ち △あごつき △重ねどんどん △飛び越し △ひょっくり △ぎば △腹ぎば △手這い △胸ぎば △水車 △大まくり △蛇腹 △遅這い △俵転び △頭ひねり △杉立 △廻り天地 △ぶん回し △山形 △羽がえ △連理引 △千鳥 △かんつう △文七 △切身 △大廻り △天地 △廻り天地 △から臼 △柳 △取った △遠当て △入鹿腰 △大まくり △石投げ △偽中にせちゅう △かさね △仕ぬき、其他まだ沢山ある。》
 と書かれている。
 また、雑誌『演劇界』三十一年七月号には、
《歌舞伎の「たて」には基本的な形があり、音楽の力を借りて様式的に見せるのが特色です。種類は色々あって、「天地」「文七」「柳」「切り身」「廻り天地」「千鳥」「手ばち」「宙返り」「ひょっくり」「猿」「杉立ち」「五段返り」「ぎば」「麗つき」「引廻し」「二つ返り」「詰寄せ」「膝つめ」「大廻り」「後ろ返り」「一所返り」「段々返り」「ほろくで返り」「逆立返り」「素首返り」「しばて返り」「手這い」「遅這い」「ぶん廻し」「突き廻し」「眼つぶし」「連理引」「遠当て」「死人返り」「入鹿腰」「続け返り」「皮剥ぎ」「ひとも返り」「水車」と、多種多様です。これら「たて」のテクニックの中で一番訓練を要するのは「とんぼ」で立廻りにかかる俳優は、これが出来ないと等級が下位になる程です。》
 とある。
 これらの型を解説すると――。
△天地 上下に刀を合わす。
△山形 山の形を描くように斬る。立回りの最初の手に多く用いられる。
△柳 受流し。打ってくる刀を逆に斬り込み、二度目の刀をまた逆に受ける。
△文七 捕り手が左右を突くこと。
△切回し 主役が斬る。捕り手は斬られて回る。
△早切り 主役が刀を振るたびごとに、左右の幾人もの捕り手が、一人一人素早く宙返る。
△千鳥 大勢の者を、右と左一人一人入れ違えて斬っていく。
空臼からうす 主役が前へ斬って出るとき、同時に左右の者が後ろへ斬って出る。多人数の場合は、列を揃えて互い違いに前と後ろとへ斬りおろす。
△海老折り 後ろへ返り、足を離して背で受ける。
△将棋倒れ はじめ一人の捕り手が海老えび折りに倒れると、それに準じて後につづく者が、順々に同じ形式に倒れる。
△ギバ 高く飛び上がって、足を開いたまま尻で受け落ちる。
△腹ギバ 一束いっそくに立ったまま、飛び上がって腹ばいに落ちる。
△背ギバ 反り身になって足を前に投げ、背中で受け落ちる。
△横ギバ 一束に立ったまま、体を真横に投げて受け落ちる。
△地蔵倒れ 一束に直立したまま、体を曲げずに横に倒れる。
△眼痛 相手の眼を平手の甲で打つ。
△当て身 拳固げんこまたは平手あるいはひじで、相手の脾腹ひばらを突く。
△遠当て 遠くにいて当て身をする意味。例えば花道で舞台の者を宙返らせるの類。
えら突き 前に頭を見せ胴を下へつけて足を上げる。
△平馬返り 座ったままトンボをきる。
△死人返り 立身のまま棒倒しになる。
さかずき 仰向きに寝た上へ一人トンボを打ってくるのを受ける。
△五段返り 二人が背中合わせになり、足と足と反対にして起き返る。
△仕ぬき 主役に対し大勢が一人ずつタテをする。
△大回り 主役を中心におき、大勢で外を回る。
△闇試合 手さぐりに足をはらう。
△首投げ 主役の右の肩へ、後ろから頭を突き出すのを持って、前へ投げ出す。
△背負い投げ 捕り手の首筋を持って肩へ背負いかけ、それを前へ投げ出す。
△蛇籠 大勢が主役の腰につくこと。暗闘では必ず行われる型。
△羽がい締め 主役の後ろから左右の両手を脇の下へ差しこみ、締め下げる。
△猿返り サルの字を忌んで、ヤエン返りという。仰向けに寝ていて後ろへ返る。
△戸板返し 仰向けに寝ていて、その居所で腹ばいに返る。
△杉立ち 両手を並べてその甲の間へ鼻を入れ、ひじを張って逆立ちをする。
鯱鉾しゃちほこ立ち 舞台へ顔を横につけて、両手を突っ張り逆立ちをする。
△竹田返し 向かい合って相手の両手を持ち、その手を頭上からもぐらせて背中合わせとなり、これをかついで投げる。
△獅子落とし 大の字形に立った者の後ろから股間へ首を差し入れて、背中合わせの逆さかつぎにして、後ろへ投げる。
入鹿いるか越し 向かい合いの者の腰へ両手をかけ、一方は相手の両肩へ手をかけ、はずみを利用して腰を高く持ち上げ、頭上を飛び越えさせる。この技は飛ぶ者と投げる者の呼吸さえ合えば、一挙に五人以上も飛び越し得るとされている。
△人楷子 屋形などの高い所へ登るとき、屋根寄りの最初の者が立ち、次ぎはかがんで順々に低く腰につき、楷子はしごとなって、主役が最後の一番低い者の背中から上っていくと、左右から捕り手が棒を突き出し、それを力にして上る段どりがつけてある。
 このほか、「柄返し」「矢払い」「矢筈」「かんぬき」「飛び違い」「切違い」「切返し」「ヒョックリ」「錐揉きりもみ」「ホホ返り」「八つねじり」「尻飛び」「鉄砲」「蜈蚣むかで」「鬼瓦」「棒投げ」等々、種類はすこぶる多い。
『演劇通史』には《だんだんがへり、とんぼがへり、ぼろんでがへり(よじれて返る)、むねぎば、そつくびおとし(俵ころがし)》等も見えている。

〝トンボ〟
 トンボについては、『昭和歌舞伎大鑑』(昭和二十三年刊)の川尻清潭氏「立まはりの話」が詳しい。
「三徳」に落ちる事が出来れば一人前。三徳とは片足ではづんで、ポンと返へって両手で受ける方法。漸くの事でこれを仕上げた所で、筋斗とんぼ返へりの種類はまだ何十種もあって、「居所返へり」と名附ける、床几しょうぎの上で返へって床几の上へ落ちるもの。「後返へり」と名附けて逆に後ろへ返へるもの。「返へり越し」と名附けて三人五人を返へり越すもの。「平馬返へり」「段々返へり」「車返へり」等もあり、又曲芸としては傘をさして返へる芸の中、舞台へ置いた開いた傘を返へり越し、其居所で三徳に返へり、更に猿返へりをして柄を股にはさみ、股抜きに傘を前へ取り、轆轤の方を持って上へ廻して突上げ、落ちて来る間に宙返へりをして傘を股の上で受けるのを、「傘の盃」と名附けられてゐるが、斯う云ふ事をする人がなくなった。其他水撒き桶を冠った儘宙返へるなどは、『新薄雪』でも出れば清水堂の妻平の立廻りの件で、今でも見られる仕事である。》
 よく「トンボを切る」というが、主役の強さを強調するため、これにかかる下回りの役は、主役が手を返したり、足で蹴飛ばすごとに宙返りを演じるのだ。下回りの役は、踏まれたり、蹴飛ばされたり、襟首をつかまれたり、さんざんな目にあわされるのだが、どんな場合でも、主役と一体となって、タテの様式美を構成しなくてはならない。
 だが現在、この技術はきわめて低下し、やれる者は数人といわれている。トンボは、主役がトンボを返れないと、返される捕り手は非常な危険を伴うそうで、主役俳優がやれないために、下回りの連中もできなくなり、トンボがだんだんすたれる傾向にあるのは惜しむべきことだ。

立回りの武器
《立廻りに使用される武器は、刀、短刀、槍、長刀、十手、突棒、刺股、袖からみの類が多く、時に大立廻りの一部には、「忠度の畳のタテ」「五右衛門の梯子のタテ」「忠弥の戸板のタテ」など云ふ特殊なものもあり。又は蘭平の「井戸屋形のタテ」とか、小金吾の「竹藪のタテ」とか、弁天小僧の「極楽寺の山門のタテ」とか、場所の名で呼ぶものもある。此外立廻り中の趣向としては、『逆贈』の樋口の捕物に、大勢の船頭を舞台一杯に並べ、下手の端の者が一人の肩の上へ、逆立となるがへさきの形、上手をに見立た入船の模様。又『道成寺』の幕切に、蛇体が釣鐘の上へ登る時、鱗四天が其鐘を巻くやうに下手まで流れ、最後の一人が蛇尾の形に逆立をして、舞台一杯の大蛇を出現する模様。又『土蜘つちぐも』の大見得に、八人の軍兵が四人づつ左右に別れて、後ろ向きに蜘の精の腰へ附くのが、蜘の足の見立となって、舞台の中央へ偉大な土蜘が現はれるなど、佳き立師佳き振附の立廻りの工夫が、今日に伝へ残されたものである。》(「立まはりの話」)
 市川市十郎の解説もわかりやすい。
各場面やすぐれた型のなかに、狂言や役柄に因んだ趣向、あるいは、時世風俗、有名画面や神仏の形、最近上演の有名狂言のもじりや俚諺りげんなど、なにか一手は新趣向を盛り込む事を誇りとしてきています。いま、その中の二三を御紹介します。
〈狂言の役柄を利用したタテ〉『逆櫓』の樋口と船頭のかいを使ってのタテは、海を背景として海産物や船の形を見せています。
〈そこの大道具を利用したタテ〉『千本桜』の竹藪の小金吾のタテは、捕方が数本並列した竹の一本一本を渡ってゆく(竹渡り)、『曽我の石段』で近江・八幡が段の上下を利用したタテ。
〈可笑味のタテ〉『鈴ヶ森』の権八と雲助達のタテは此種のものの横綱格です。『夏祭』の住吉で団七は、大鳥佐賀右衛門との立廻りで琴浦に道を教え、また『都鳥』の食事をしながらの「おまんまの立廻り」という傑作もあります。
〈小道具を利用したタテ〉『賀の祝』の松王、梅王の米俵を使った「俵ダテ」、『京人形』の大工達の大工道具のタテ。
〈有名狂言をもじったタテ〉世話狂言の三枚目の活躍として付けられています。『弁天小僧』の浜松屋、『加賀鷲』の質店で番頭と小僧が錣引しころびきをもじったタテがあります。
〈特殊道具を利用したタテ〉『安中草三』の水車の立廻り、『蘭平』の屋根付き井戸や石灯籠を利用したタテ等があります。
 こうしてきますと、立廻りの趣向は必ずしも狂言、役柄に合わせた真面目なものだけとは限らず、遊びを意識して他狂言や役者の得意芸をもじり、そして観客と楽しみあうような御趣向に仕立てています。》(「殺しの工夫」)

夕テ師
 このように、歌舞伎のタテは多種多様である。そしてこうした立回りによって舞台が引き立つも立たぬも、タテ師の技量一つということになる。
 市川市十郎はこういっている。
《立師は狂言の質を考慮しながら残されたこれら定型を組み合わせ、時には全く新しい型を創案、加味しながら〈殺し〉の構図を創ってゆくわけです。しかし、この構図を花や実に演じ生かすのが間(ま)と呼吸(いき)で、これで殺陣が生きもし死にもします。また、浄瑠璃、下座音楽、ツケなどと混然一体となって、歌舞伎芝居らしい雰囲気を醸し出すのです。》(「殺しの工夫」)
 歌舞伎のタテは、一時に何組かの争闘が平行して行われるということはまれで、たいてい、一人の主役を大勢がとり囲んでかかっていく。それで主役を極度に疲れさせないために、周囲の人がはげしく動き、主役はあまりはげしく動かず、ただあしらっているという演出が多い。これだけでも映画などとは大いに異なる特殊性だ。
 また、川尻氏は、
立師は立廻りの型をこしらえるのが職業であって、それには先づ最初一応剣道の先生に就て、太刀、長刀、槍等のつかひ方を覚えた上、芝居の鳴物に合せて組上げて行くのに、必ずしも剣道柔道の本手ばかりを編入れて行くのでなく、寧ろ逆に本手の裏を用ひるなどが、却て斯道の性根とも言ひ得る所で、正直に本手計りを用ひてゐては、真に立つ俳優が疲れて了ふ結果となる為、立廻りの秘訣は真を取る人を動かさずに、周囲から掛る者を替る替る働らかせて、然も真の者が充分活躍してゐるが如く、又様式的にも見栄みばえよく、緩急よろしきを得た変化の手順を見せるのが技倆とされている。》(「立まはりの話」)
 タテ師は立回りの師匠番の意味で「立師」という字も使うが、多くは身分の低い俳優の中から出た。
 名題下なだいしたで三階の板の間に敷物を敷いて部屋にしていたところから俗に「板の間」とも呼ばれる「中通ちゅうどおり」の階級の役者が、立回りにトンボを返るのを専門としていた。その頭を「中頭」といい、中通りの取り締りに当たり、給金も一括して中頭が受けとり、分配した。
《昔は大定たいてい、「中通り」と云った役者の初めに、「立師頭」と呼ばれる者がゐて、これと並んで「頭脇」があって、この立師頭は尺長の樫の十手に銀箔を置かせて、歯止めまで本式に附けてある物を、常に大切にして持ってゐて、家へ帰れば神棚へ上げて置いた位、そうして頭脇が出世をする日でも来れば、其品を譲渡するのが、伝授を許すことになってゐて、右の銀棒十手の事一本握ってるれば、日本国中の芝居は、何処でも裸一貫で渡り歩けたものであった。》(「立まはりの話」)という。
 何やら包丁一本さらしに巻いての板前を連想させるが、このようにタテ師は、役者というよりは〝職人〟のニュアンスが強い。

歌舞伎の〝タテ〟
 歌舞伎は伝統芸術である。長い歴史の中に構築され、伝承されて来たその形とか様式などは、それなりに完成されたものといえる。歌舞伎のテンポが現代にマッチしない、若い人にはふりむかれないといっても、それを性急に変えることはむずかしいし、また、古典は古典としてそのまま残すべきであろう。
 したがって、歌舞伎の立回りが間延びしているとか、退屈であるとかいっても、それは所作の一つ、あるいは一種の舞踊のように、狂言の中に組み込まれ、そして全体が構成されている。だから、立回りの場面だけをとくに現代風にリアルな演出をするということは、趣向として、あるいは実験として前衛的意図をもってなされるかもしれないが、あくまで例外的なものにとどまるだろう。
 歌舞伎のタテ――立回りは、伝統をふまえ、完成された様式美をさらに洗練されたものにすることだ。アレンジするのはいいとしても、原型は確実に残しておく、これが最も大切だ。
 最近の歌舞伎俳優は、テレビ出演などによって、非常にポピュラーな人気タレント化した反面、勉強不足、練習不足が目立っている。ただ単に恵まれた資質を受けついだだけでは、遠からず歌舞伎は滅びる。すぐれた資質に加えて血のにじむような努力があってこそ、この古典芸術は永く生命を保つ。
 特殊な演技である立回りはとくにそうだ。卑近な例で、トンボがかつてのような多彩なものが見られなくなったことがあげられる。現代に順応する立回りなどというより、基本技でありカナメ技であるトンボを強化するのが先決だ。
 昔は単に立回りといえば、すなわちトンボを意味したほどだった。現在のように立回りといっても、トンボを返らず追っかけばかりに終始しているのは、立回りの本来の姿ではない。歌舞伎の立回りは、その意味で変質しつつあり、型さえ残らなくなるおそれもある。
 市川市十郎が、
《歌舞伎のタテの技術は変化しつつ、映画の時代劇を通して、今はテレビの殺陣にもその伝統の余波をもたらしている。日本の演劇伝統のなかで、いちばん現代演劇に抵抗なく摂取されている分野はといえば、やはりタテの技術に尽きるのではあるまいか。》(「殺しの工夫」)
 といっているのは、彼が先に立回りが様式化の範囲を逸脱して形骸化していることを指摘した後だけに、当時者の意見として興味深い。
 ビートたけしが『週刊文春』(平成四年一月九日)の「場外乱闘」に、
《(歌舞伎の)立ち回りのカタチがどうも古すぎるっていうか、千葉真一さんの「JAC」をテレビで見慣れている時代なんだから、主役や女役はともかく、アクション場面に改革があってもいい気がしたね。スタントマンを採用するって方法もあるし、逆にもっと形式美に徹してさ、捕り物場面なんかロープを使わずに、パントマイムでやって踊りに近いカタチで演出するってのも考えられるよな。》
 といっているのも、芸能界の人間がいっていることだけに参考になる。
 終わりの話はすでに「だんまり」があるから別として、アクション場面を改革しろというのは、現代のスピードとあまりにもかけ離れているからだろう。その意味で市川猿之助の「スーパー歌舞伎」における一連の大胆な試みは、立回りだけでなく、歌舞伎そのものの未来を問うものとして注目されるのだ。
松之助以前の〝活動写真〟
 日本で最初の国産劇映画は、明治三十二年(1899)に小西写真店が撮影した『ピストル強盗清水定吉』(または『稲妻強盗』)だといわれている。
 それ以前には町や風景の実写、芸者の舞踊が撮影されたていどであった。それから二カ月ほどたって、名優市川団十郎と尾上菊五郎の『紅葉狩』が撮影されているが、もちろん劇映画とはいえない。
 その後、明治三十五年に、横田商会が『肥後の駒下駄』を作っている。ただし、作品の出来が悪く東京では上映されなかった。
 本格的に製作されだしたのは明治四十年からで、横田商会が『本能寺合戦』『菅原伝授手習鑑』『児島高徳誉の桜』等をつぎつぎと撮影、『本能寺合戦』は翌四十一年九月十七日、錦輝館で公開された。これが旧劇物上映の最初だろう。
 この間、吉沢商店が、川上音二郎一派の出演で『和洋折衷結婚式』という喜劇を作り、また『焼け野の雉子』『恋と恋』等も作った。
 こうして創世期の日本映画界は、旧劇の横田、新派の吉沢という二つの大きな流れが形成されていく。ほかにMパテー、福宝堂の二社があり、後にこの四社が合同して日本活動写真株式会社(日活)を創立するのである。
 旧劇とか新派というのは、明治二十年に時の政府から東京を追放された自由民権運動の青年たちが、弾圧をまぬがれるため、演説に代わるものとして〝壮士節〟と〝壮士芝居〟をはじめた。もちろん正論鼓吹のためである。次いで川上音二郎の〝書生芝居〟が誕生。それが新演劇として確立されたとき、江戸時代の産物である歌舞伎を旧時代のもの、すなわち〝旧派〟〝旧劇〟とし、それに対して、〝新派〟と呼びならわされたのだ。
 創世期からしばらく後まで映画は〝活動写真〟と呼ばれていた。その活動写真はほとんど舞台の模写ないし〝複製〟で、ことに旧劇は歌舞伎の舞台そのままの引き写しだったから、当時の歌舞伎俳優が活動写真を軽んじたのも無理はなかった。
 彼らには歌舞伎が大衆にとって最高の娯楽という自負があったし、当時の支配階級から保護されて一種の特権意識を持っていた。だから戸外で撮影する活動写真に出る役者を〝土の匂いがする〟といってさげすんだ。役者にとっては板の上の芝居、つまり舞台が最高で、土の上におりてする芝居、つまり活動写真に出ることなどは、役者としての堕落であると、敬遠する傾向があった。
 さらに、活動写真の人気がようやく高まってくると、東京の劇場組合は、組合所属の歌舞伎俳優が活動に出ることを禁止する通達を出した。このため、当時の旧劇出演俳優は、地方回りや小芝居の、役者としてはランクが下の連中がほとんどだった。
 後年、テレビ局が出来たとき、映画会社が専属スターのテレビ出演を禁じたのと状況がよく似ているではないか。

牧野省三と松之助
 横田商会は、京都西陣の千本座の座主であった牧野省三に活動写真の製作を請け負わせていた。牧野は『本能寺合戦』を皮切りに、数本の作品を発表したが、たまたま旅行中に、岡山県玉島町の芝居小屋で尾上松之助を見出した(これには異説もあるが従来通りにしておく)。彼を得たことによって、牧野の活動写真作りには拍車がかかった。
 牧野省三のことを後世〝日本映画の父〟と呼ぶが、尾上松之助とコンビで、はじめて興行価値ある作品が生まれたし、松之助は日本映画最初のスターとなったのである。
 第一作は明治四十二年の『碁盤忠信』だった。
 滝沢一氏の「日本時代映画史稿」(『時代映画』三十五年六月号)によると、
《ともかく松之助の第一回作品『碁盤忠信』は当時たいへんな好評であった。「立回りがよかったんですネ」(池田富保・談)というのだが、このばあいそれ以上の表現の言葉がないであろう。映画の内容そのものは歌舞伎を一歩も出ていない。ただ立回りだけが普通の歌舞伎の舞台のそれよりも動きに軽快さがあったに違いない。トンボ松の身の軽さが役立ったことであり、そこにいささかでも歌舞伎ばなれのしたテンポがあったのだと想像する。
「舞台からみたら新しい人でした」という池田富保の批評はこの際適切であろう。》
 ということで、さすがに牧野の目は高かった。この成功で自信を得た牧野は、昼間は種とり(撮影のことを当時そういった)、夜は千本座の芝居で松之助を使ったが、第三作目『石山軍記』のとき、楠七郎に扮した松之助が、櫓の上から敵軍をにらみつけ、キッと目玉をむいて歌舞伎独特の見得を切った。このシーンで観客は「よう、目玉ァ」と大喝架を送り、それ以来彼は〝目玉の松ちゃん〟の愛称で呼ばれるようになった。
 だが本当は、決して目の大きい人ではなく、むしろ細いほうだったという。細いからこそ目をむいたとき、いっそう引き立ったのだろう。
 とにかく松之助はたちまち人気者になり、牧野は矢つぎ早に彼の主演ものを製作した。『日活四十年史』によると、三日に一本ぐらいのペースで大量生産され、松之助が大正十五年、五十一歳の生涯を終えるまで、実に一千本以上という驚異的な製作記録を生んでいる。
 松之助映画は横田商会のドル箱であり、大正元年四社合同で日活が成立してからも、依然として日本映画界に君臨した。
 大量生産されたということは、それだけ大衆が松之助映画を求めたということだが、牧野は同じセット、同じロケーション先で、ちょっと髷とか衣装を変えただけで違った劇を作った。それが三日に一本のハイペースの秘密である。
 牧野は一筋、二ぬけ、三動作を映画製作の信条としていた。ストーリーの面白さを一番重んじ、ぬけ、すなわち画面のきれいなことがその次、俳優の演技は第二義的なものに考えていたわけだ。それで、撮影台本もなく、義太夫ファンだった牧野が口ダテで筋やセリフをしゃべり、役者はカンで芝居をしたという。もちろん、無声映画なればこそ出来たテクニックといえよう。

「立川文庫」と松之助
 松之助映画が生まれて間もなくの明治四十四年十月五日初刷で「立川文庫」の第一巻『一休禅師』が売り出され、以後、続々刊行されたが、みなベストセラーになる大変な人気だった。ことに『猿飛佐助』を頂点とする忍術ものは、熱狂的な支持を得た。この「立川文庫」の普及と松之助映画は相乗作用を起こした。『徳川天一坊』『小楠公』『柳生荒木奉書試合』『木村長門守重成』『牛若丸』『真田幸村』『曽我兄弟』『由比正雪』『三日月次郎吉』『堀部安兵衛』『笹野権三郎』『岩見重太郎』『尼子十勇士』『石川五右衛門』『八犬伝』『清水の次郎長』『高山彦九郎』『大石内蔵助一代記』『梁川庄八』『二蓋笠柳生又十郎』『霧隠才蔵』『宇都宮釣天井』『塚原卜伝』『松平長七郎』『自雷也』『花川戸長兵衛』等々、英雄、豪傑、剣聖、義士、俠客、忍術使い、およそ人口に膾炙かいしゃされたヒーローで松之助のやらなかったものはない。
 そのネタは、歌舞伎、講談、浪曲、義太夫、稗史はいし、伝説等、いろいろあるが、一番ウケたのが「立川文庫」が生んだ猿飛佐助をはじめとする忍術名人たちだった。
 松之助の忍術映画はまさに一世を風靡し、子供たちは〝忍術ごっこ〟に夢中になった。ちょうど戦後のプロレスブームで、子供たちの間に〝プロレスごっこ〟がはやり、また怪獣ブームで〝怪獣ごっこ〟がはやったのと同じ現象である。
 その〝忍者ごっこ〟ひいてはカツドウの害悪が識者の間で論じられるほどだったが、印を結んで呪文を唱えるとパッと消える式の、きわめて幼稚なものが、当時はアピールしたのである。もっとも、それなりに製作する側も苦心して、トリックを発明した。

忍者映画のトリック
 塀から飛び降りるところを逆回転で撮影すると、見事ヒラリと飛び上がったように見える。観客は、なんと身の軽い男だろうと、まるで本当の忍術使いのように松之助を英雄視するのである。
 また、波の上を六法を踏んで歩くトリックは、撮影技師が適当に波を撮影し、別に白バックで白布を敷きつめたところを松之助に歩かせ、これを焼きつけガラスに墨を塗って二重焼きにすると、一分のスキなく波の上を歩くように見え、拍手喝采鳴りやまずということになるのだった。
 高木健夫氏は、
《尾上松之助のチャンバラ、忍術映画が出た「大正」というあの時代は、日本の歴史の上でも、奇妙にもの悲しい時代であった。(中略)夢と現実がいりまじって、なんともいえない酸っぱいロマンの時代であった。
 その頃の子供たちの夢は、しかしはてしなく多様でバラ色で、満蒙へ行って馬賊になる夢から、月の世界に飛行船で探険旅行に出るという、なかなかスケールの大きなもので、プロ野球の選手になって月給を三十万円とって、お父さんを安心させようなどというケチな考え方なんかしていなかった。
 ラジオもトーキーもなかったから、読書欲は旺盛で、猿飛佐助や、霧隠才蔵、真田十勇士は修身の時間の副教科書であり、手工をやりながら、徳川将軍の首を狙う豊臣の残党の行動を心配していた。
 そういう時に現われたのが、目玉の松ッちゃんの忍術映画なのである。わァッと来たのも無理がない。人の眼からおのれの姿を消して自由自在に歩き回るという夢は、これは人類の「飛びたい」という夢と同じくらい古くしかも深刻な欲望である。「飛ぶ」方は実現したが忍術の方はまだ凡人には実行できない。つまりまだ「夢」の段階である。この「夢」をあのころの映画カツドウは現実のものとして与えてくれたのである。あに、それよろこばざるべけんや。
 尾上松之助時代の時代劇の社会性は、そのような意味では純粋に「大正時代」のものであった。とにかく「夢」を与えてくれ、たのしさを与えてくれ、エキストロージネールな世界の妖しさを現前させてくれた――超人的な力の不思議さえをも。》(『映画評論』二十六年四月号「時代劇の社会性」)
 と松之助映画、とくに忍術ものの魅力を述べている。総理大臣の名前を知らなくとも、松之助の名は全国津々浦々、知らない者はないほどの人気を確保するに至った土壌がこの一文でよくわかる。

松之助は小男だった!
 松之助は日本映画が生んだ最初のスターであることはたしかだが、当然、大衆の好き嫌いはあり、田中純一郎氏は、
《松之助映画は、どぎついメーキャップと、グロテスクな衣裳と、眼にもとまらぬめまぐるしい動作と、目も鼻もわからぬノッペラボーな画面と、短小矮躯お化けのような松之助の立廻りで、何もかもが不自然の一語につきた。》(『キネマ旬報』四十一年六月上旬号「秘稿日本映画」)
 と酷評している。
 松之助をはじめ、当時のスターは背の低い男が多かったが、その理由をマキノ雅弘監督は次のように説いている。
《あまり大男だと、全身を入れるためにキャメラをうしろに引かなければならない。となると狭い場所では撮影ができない。背が低ければ、それだけキャメラが前に出られるというわけで、自然と小柄な男が重宝がられるようになった。》(『カツドウ屋一代』)

松之助の立回り
 旧劇は歌舞伎の舞台をそのまま引き写したもので、はじめはカメラは据えっぱなしだった。立回りも舞台の様式どおり、きまりきまりにギックリと格好をつけて見得をする悠長で大仰なものだった。
 たとえば松之助の『豪傑児雷也』など、児雷也を大勢がとり囲んでヤアヤアと斬りかかろうとする。それを児雷也が両手を八双にひろげてハッタとネメ回すと、みなタジタジと後ずさり、エイとやればいっせいにバタンと倒れる。そして目をむいて見得を切るごとに、ガタンガタンと拍子木が入るといった調子。
 この場面は歌舞伎と全く同じだが、松之助は身の軽さとトンボのうまい利点を活かし、立回りという面からだんだん歌舞伎ばなれしていった。
 彼は明治九年、岡山市に生まれた。幼くして父をなくし、母親が中ノ島の旭座という芝居小屋の前で小料理屋をやっていた関係で芝居の連中と知り合い、六歳のとき初舞台を踏んだ。そしてそのころからトンボの稽古に励んだために、後には〝トンボ松〟と評判されるほどの名手になった。上から下へトンボを切るだけでなく、逆に下から上へ返ることさえやってのけた。
 第一回作品『碁盤忠信』で、一本足で鼓を口にくわえ、花道を飛んで入りトンボを切る松之助十八番の所作とケレンは観客に大ウケだった。
 松之助の立回りについては、岸松雄氏の『日本映画人伝』が詳しい。
《松之助は二、三度剣術の道場へ通ったことがあるくらいで、ろくに剣道を知ってはいなかったが、そのタテは小手さきでなく、人格というか何というか、出るだけで相手役と観客を威圧した。重い、大きな刀、それも本身を振りまわしていた。小手返しが得意だったので、派手に見えた。長い刀を短くも使えば、短い刀を長くも見せた。
『中山安兵衛』の時の相手役は、かろうじて身体はよけたが、松之助の真剣はのびて着物の背中を切られた。『くめの平内』の時は、うけとめた竹光が七分通り切りこまれていた。従って彼にかかって行く十人組も、いくら刃をつぶしてあってもガチリと合わせると竹光では半分以上斬りこまれて危いので、やむを得ず、みな本身をつかうようになった。
 本身の、しかも重い刀をつかったので、松之助の指にはつばダコが出来ていた。
 自尊心の強い松之助は、タテ師の型をつけている時など、ろくに見ないことがある。周囲の者が心配すると、「なに俺は剣劇の元祖だ」と笑いながら返事したと云う。》
 事実、彼は、カラミが手順を間違えてかかっても、絶対に受け損じたことがなかったという。
 林徳三郎氏によると松之助のカラミは顔ぶれがきまっていて、かかりのうまさによって等級がつけられ、銀棒組などは松之助から声もかけてもらえなかった。まずカメラを置きっ放しにして、十人組が出る。次にカメラを変えて八人組、六人組と選ばれ、アップ気味にして四人組がかかる。この四人組が最もうまいといわれた。さらに二人、最後に一人が斬られるという手順である。このあとに大敵役の中村仙之助などが登場するわけで、これが松之助劇の〝イロ〟だった。
 松之助の妹婿で後に松之助映画の監督もやった池田富保氏は、
《「松之助が立回りのとき、対手を斬った刀をさっと斜めにふりおろす。本当に斬ったように見えたもんです。斬ると同時に片足をよじらせて半身にきまる形。あれなんか松之助のはじめた型ですよ。これがタテ師からタテ師へしらずしらずの間に伝えられていって、いまだに残っていますな。タテをつけている御当人もこれが松之助のはじめた型だとは知らないんです。舞台の大江美智子まで同じ型をやっています」》(『時代映画』三十五年五月号より連載の滝沢一「日本時代映画史稿」)
 といっている。
 どちらかというと不美男で、背も小さい松之助が、刀を持って構えると大きく見える。ヒーローらしい風格が全身からにじみ出るのは、やはり「おれは剣劇の元祖」という自信に満ちていたからだろう。

松之助のライバルたち
 この松之助に対抗したのが沢村四郎五郎である。彼は日活から別れて出来た「天活」の看板スターとして大正三年十一月からカメラの前に立ち、天活、国活を経て十年十月松竹に入り、十三年八月末退社――舞台に復帰するまで、一貫して松之助のライバルであり、旧劇の一方の旗頭だった。
 田中純一郎氏は四郎五郎らの出演する天活旧劇が、松之助ものの粗雑さに対して一種の気品と落ちつきがあり、トリックや場面転換などもスマートに仕上げられていて、見た眼も楽しかったといい、それにもかかわらず松之助が伝説的偶像として、当時の映画界を代表するスターのごとく宣伝されている理由を、次のように挙げている。
《①明治四十二年以来の映画出演歴を持つ松之助に対して、四郎五郎は八年の出遅れをみせているから、人気の浸透度が薄い。
 ②松之助映画の配給館二四七に対し、四郎五郎映画の配給館はその半数に近い一三四(いずれも大正七年上半期)に過ぎないから、観客に対する普及度が少ない。
 ③松之助は身体の割合に顔が大きく、目玉が鋭く、そのスタイルは化け物じみてはいるが、動作が活発で、映画的な写実性があり、一度見たら忘れられない印象を与えるが、四郎五郎は長身の上に、顔がタテ長で、しかも頬がやせているのをかくすため、つねにフクミ綿をしていたから、顔の表情が鈍く、動作も歌舞伎の型から脱け切れないから、一見優雅ではあるが、印象は薄い。
 ④松之助活動の題材は、当時の健全思想とされた忠君愛国を骨子とし、多くの英雄豪傑伝を扱ったから、みていて痛快であるが、四郎五郎ものは俠客や人情物が多く、ムードはあったが少年たちの対象にはなりにくい。
 などであろう。》(『キネマ旬報』「秘稿日本映画」)
 四郎五郎は松之助より美男だったので、俠客ものなどはよかったが、目玉の松ちゃん、のような強烈なキャラクターがなく、活動写真的動きに乏しかった。とくに立回りは、舞台調のスロー・テンポなところが、松之助とくらべて見劣りした。
 松之助と同様、「立川文庫」に拠って、『猿飛佐助』『霧隠才蔵』『忍術虎若丸』『魔風来太郎』等、忍術ものもずいぶん撮ったし、『宮本武蔵』『堀部安兵衛』『塚原ト伝』『後藤又兵衛』『丸橋忠弥』といった豪傑、『国定忠次』『日蓮大吉郎』『祐天吉松』等の俠客にも扮して大いに松之助とハリ合ったのだが、ついに松之助には及ばず、彼が大正十五年世を去る前に映画界から消えている。
 旧劇役者としては、日活に中村扇太郎が大正六年に入社し、松之助ものとは別に主演作品を撮っていたが、病弱のため五、六年でいなくなった。また、松之助を育てた牧野省三が、スターとなった松之助の増長ぶりを怒り、大正八年市川姉蔵を連れて来て、松之助を牽制しようとした。彼はフックラとした容貌をもち、松之助より芸はすぐれていたが、特徴はなかった。デビュー作『一条大蔵卿』をはじめ好評で、『忠臣蔵』では松之助の大石に対し立花左近役で堂々わたり合い、松之助をおさえるほどだったという。だがこの姉蔵も十年四月急逝して、松之助のひとり天下がつづくのである。姉蔵は自分で、不器用なので共演の人たちに迷惑をかけて申しわけないといっていたそうだから、多少謙遜でいったとしても、松之助のように立回りはうまくなかったのだろう。
 四郎五郎と同じく天活――国活で活躍した市川莚十郎えんじゆうろうは四郎五郎よりかなり年配だったし、大正九年帝国キネマ演芸(略して帝キネ)創立以来、旧派を代表した嵐璃徳りとくは、明治四十年に作った『本能寺合戦』に出演しているいわば最古参。デップリして大石内蔵助など貫禄のある役や温厚な人柄の役を得意とした。また、日活や国活で活躍した実川延一郎もいる。
 松之助が明治九年、姉蔵十一年、四郎五郎十年、延一郎八年、扇太郎十年、璃徳八年と、ほぼ同年配だが、大正十年ころにはみな四十五、六歳というところで、幼いころからトンボで鍛えた松之助と肉体的年齢で差があったのかもしれない。莚十郎にいたっては明治元年生まれだからもっと無理だろう。
 このあと、牧野省三が独立したマキノ映画に十五年生まれの市川幡谷(有田松太郎)、帝キネに二十一年生まれの尾上紋十郎、二十七年生まれの実川延松、松竹に二十五年生まれの市川荒太郎、日活に十七年生まれの中村吉十郎らが、各社の旧劇スターとして登場するが、これらはいずれも松之助の人気が生んだ剣劇ブームに乗って出てきたものである。
 中では市川荒太郎がアメリカ帰りの小谷ヘンリー監督・撮影で『ロビン・フッド』を焼き直して作った『荒法師』で、なかなかスピーディな立回りを見せて注目されたていどで、みないわゆる〝旧劇〟のカラを捨てきれなかった。そして立回りも歌舞伎の型を踏襲し、わずかに個々のスターのキャラクターが加わるていどで目ぼしい変化は現れなかった。歌舞伎畑出身の俳優ばかりだったから無理もないが、舞台の見得を切るクセは松之助にすら残っていたようだ。いかに松之助が巧者でも、歌舞伎の立回りの延長であることに変わりはなかったし、声色鳴物入りの古い形態を最後まで保った。

松之助時代の〝殺陣師〟
 映画の殺陣は時代劇の前身ともいうべき旧劇が歌舞伎の舞台の引き写しからはじまったことから、当然、その立回りも、歌舞伎の様式通りであった。タテ師もしたがって歌舞伎の世界から入って来た。これが明治の末頃のことである。
 足立伶二郎氏によると、その当時、名古屋に「勇み連」というグループがあり、ここで立回り一切に関する研究をしていたが、この中から何人かが、松之助映画の流行とともに映画界に入っていった。中村柴栗、市川金時、沢村伝八といった人たちだ。
 林徳三郎氏の話では、名古屋に沢村伝八、市川桃栗の二人がいて、日本中の歌舞伎といわず芝居といわず、立回りを全部引き受けていた。この二人のハンをもらわないと立回りはやれなかったという。
 関西にもう一人、市川金時がいたが、子分がいないのでは格は一枚落ちたそうだ。
 そして、その一門から出た人たちが各社に散ってタテ師になったのだけれども、旧劇の立回りにあきたらない気運に乗じて、それまでカラミ(斬られ役)をやっていた連中で、意欲的な人がタテをつけるようになり、旧劇の立回りを打破した新しい時代劇にふさわしい立回りを生み出したのである。
 稲垣浩監督著書『ひげとちょんまげ』には、
《チャンバラのことを、私たち仲間では「立ち回り」または「立て」とよんでいるが、これは歌舞伎からきた用語で、チャンバラの段どりをつける人を「立師」といい、また「頭」とも「親方」ともいったことがあった。字幕に出す場合は、時代によってまちまちだが、「殺陣」「技闘」「凝闘(ママ)」「剣技」などの文字を使ったこともある。》
 と書かれている。戦中は「剣導」という表現がもっぱら用いられた。いかにも精神的な面が強調されているニュアンスである。
「擬闘」という言葉を、私はタイトルで見た記憶がない。いずれにしろ新しい言葉だと思っていた。
 ところが寿々喜多呂九平が雑誌『マキノ』(十年十一月号)で『浮世絵師・紫頭巾』の回顧談を書いていて、その中に、
《ともかくこの写真は格闘をもって終始一貫しているのであるから擬闘術指南の尾上誉(市川金時の別名)氏の努力は目ざましいものであった。》
 とある。
 さらに松竹キネマ映画研究所の講師として市川左升が「擬闘術及び扮装術」を教えたという。これが大正七年のことだ。
 したがってこの頃から「擬闘」ないし「擬闘術」という言葉があったわけである。
「技斗」というのは、戦後日活で高瀬将敏氏が現代劇の格斗に対してつけた造語で、「演技の格斗の意味」だ。そして殺陣師でなく技斗士と称した。
 このほか、〝殺し屋さん〟などの呼び名もあり、籍は俳優部にあって、カラミも兼業するのが普通だった。林徳三郎氏は、大名の行列などをこしらえるのも殺陣師の仕事だったという。それも祿高に応じて違うのを作るのだから、もの識りでなければならないし、それだけ殺陣師の権限は強大だった。
 そのことについては『ひげとちょんまげ』で稲垣氏がこう書いている。
《私の記憶に忘れえない殺陣師は、モモクリとよばれる頭である。モモクリ氏は阪東妻三郎を仕立てた殺陣師である。阪妻プロダクションができて、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった阪妻も、このモモクリ氏だけには一目おいていた。『邪痕魔道』という作品そのときのモモクリ氏が御大妻三郎に、
「妻さん、その左足の引き方は逃げ足や、それでは人は斬れまへん」
 と、注文をつけているのを見て驚いたことがある。所員のだれもが「先生」とか「ンせい」とかいっている人を、彼だけが「妻さん」とよんでいた。また阪妻も彼の注文には、何の反抗もなく従っているのに感心した。》
新国劇の誕生
 大正六年に創立した沢田正二郎の「新国劇」は、松之助、四郎五郎らの、旧劇の立回りを完全に打ち破った。
 沢田は明治二十五年生まれ。早稲田大学在学中から演劇活動をやり、はじめ坪内逍遙の文芸協会に入ってほんの端役で舞台に出たことがあるが、大正二年に協会が解散すると、島村抱月、松井須磨子の芸術座に加入、悲劇役者としての素質を一部から認められた。
 しかし、野心家の沢田はそれにあきたらず、芸術座を脱退して、大正六年春、新国劇を創立した。そして四月に旗挙げ公演を行ったが不入りで大失敗。都落ちして京都で打った芝居もまた不入りで、十三名の座員が八名に減ったほどだった。
 そこで、大阪での公演のとき、『深川音頭』という芝居の中で、舞台一面に防水布を張って水中の立回りをやったのがウケた。その作者である仲木貞一氏は、
《これは酷暑の折でもあったし、一番新式の立廻りを見せてやらうと云ふ事になり、怪我を覚悟のほんとのつかみ合ひ、切合ひの恐しい立廻りだ。毎日怪我人は続出したが、客はヤンヤと喜んだ。その間に電光の投影を受けて、沢田は刀を引かついで目玉を寄せてミエを切ると云ふ旧劇では最も臭い古い型を示したのが大当り。次に『秋の唄』と云ふ満洲を舞台にした矢張り立廻り物、それが又大当りで、愈々松竹専属の一座となり、一座は初めて月給に有りついて、新しい着物を買ふ事が出来た。》(『演芸画報』昭和三年一月号「沢田正二郎評伝」)
 といっている。
「チャンバラに本身の刀を使うんだ」とか、「火花の散るのがウケるんだ」「取っ組み合いも本気だそうだ」というような評判が立ち、ご難つづきでイチかバチか試みた大立回りがウケたわけだが、これは新劇をやってきた沢田にとっては不本意だったろう。観客から「剣劇の神様ァ」とか「いよう沢正!日本一」とかかけ声がかかると、楽屋へ戻るなり、「ダメだ、まだ客は俺の立回りばかり見て、芝居のほうは見てくれない」とニガ虫かみつぶしたような顔でぼやいたという。
 だが、沢田の意図にかかわりなく、これまでには見られなかった迫力ある写実的な立回りは大衆を魅了した。
 ふたたび仲木氏の文を引用すると――、
《従来皆悠長なセリフ廻はしで、のろのろした動作をしてゐたのに、彼の一座は元気にまかせて電光石火のやうな動作をする。セリフを云ふにもケンカのようにガミガミと強く速く言ふ。これが当時の見物の気に入ったのである。時あたかも欧州大戦で好況の最絶頂の時で、気が立ってゐる。従ってピッチの早い物がぴたり気持ちに合ふのである。大阪計りが然うではない。この大戦期を境として、東京でも何処でも都会地では、この速いテンポの物でなくては客に喜ばれなくなった。新派劇の衰退した一つの理由は、矢張りこのテンポのおくれが負けとなったのである。》
 歌舞伎や活動写真の旧派で「タテ」といっていたのを「殺陣たて」としたのは沢田だ。ろんあて字だが、いいフィーリングである。

「剣劇」という言葉の発生
 ところで「剣劇」という言葉はいつごろから使われ出したか。説がいろいろある。
 籠寅興行社長保良浅之助氏は、
《大体剣劇という言葉が出来たのは大正末期で、浅草の常盤座で明石・田中・小川の三座が合同したときに、太夫元の木内末吉が「剣劇三派合同」と称したのが最初だろう。》(『夕刊読売新聞』よみうり演芸館「女剣劇」)
 といっている。また、徳田純宏氏は、
《田中介二に言わせると「剣劇という名をつけたのは、僕らが浅草に出ていた頃、客を惹くため二、三の人と作った名称だ」と言う。だが、これは少し時代的ズレがあるように想う。
 亦、現在日本特(ママ)鉛工業株式会社の常務取締役をしている糸川東洋男氏は、昔、岩木某と言って、浅草の興業師堀倉吉氏の傘下で文芸部員として働らいていた時代があった。その頃、糸川氏は、興行上、立廻り芝居に何んとか良い名称をつけてはとあって、小川隆その他の連中と共に剣劇団と名付けたと聞いている。
 これは事実かもしれない。そして、それが立廻りの多い時代劇(新国劇の亜流を汲んだ)に波及して、剣劇と称ばれるようになったと解される。
 処で、僕の知っている確実なものには、こんな原因がある。
 或る宣伝部員が、大阪の劇場(たしか弁天座だったと思う)の表飾りにキャッチ・フレーズ(狂言内容のつのがき)を書いた。その文句に、剣戟のひびきと書くのを、誤って剣劇の響きと書いた。処が、その文字が立廻り芝居を代表した適切な字句だとあって、語韻をそのまま、剣劇々々と名づけるようになった。そして、宣伝広告にも、何々剣劇大一座と用うるようになったのである。》(『演劇界』二十九年四月号「剣劇まんだん」)
 と書いている。もう一つ、
《第二新声劇でよく使った言葉に「剣俠劇」というのがあり、浅草公園劇場の表看板などには、よく見られたのだが、或る時、その看板の丁度〝俠〟に当る処が破れて〝剣劇〟となっていたと言う事、その為だけでもなかろうが、以来、誰ともなく縮めて、〝剣劇〟と呼ぶようになったという。》(『講談秘話』五十二年二月号、佐怒賀三夫「女剣劇を斬る」)
 という説もある。
 いずれにしろ、大正十三、四年ころ、この「剣劇」という言葉が定着したと思われる。

行友李風と『月形半平太』
 沢田正二郎の新国劇には、行友李風という座付作者がいて、『月形半平太』『国定忠治』等、いまも新国劇の十八番になっている作品を発表し、熱狂的な受け方をした。
『月形半平太』は行友李風が沢田のキャラクターに合わせて書きおろしたものだけに、相当キザで、有名なあの「春雨じゃ、濡れて行こう」というセリフに表される軟派の月形と、三条河原の決闘や大乗院の立回りに見られる硬派の月形とがうまく渾然となって、幕末の志士の一つのタイプを作った。
 大正十四年に『月形半平太』を映画化したときの大乗院の立回りは、二刀流の獅子奮迅ぶり。大きく足を開いて二刀を天地に構えた沢田のフォームは、剣をふりかぶるようなオーバーなものだが、気魄がこもり、スピードがあって、鮮やかにきまる華麗な立回りだった。とくに四、五人をいっぺんに斬って落とすのが得意だった。

殺陣師段平と『大菩薩峠』
 沢田の殺陣師は市川段平という人で、映画『殺陣師段平』が戦後、月形龍之介や森繁久弥、中村鷹治郎によって演じられた。
『月形半平太』と並んで沢田の立回りが評判だった『国定忠治』は、大井広介氏によると、
《沢正の小松原の殺陣は山形屋藤蔵一味に暗討ちをかけられた忠治は、ちょうちんを横に倒し、燃やして伏勢を目算し、一気にバラバラと斬り倒し、最後に藤蔵の竹槍を叩きおとす、藤蔵は長脇差を二、三寸抜いた処を仕留められる。これが段平のつけたたてだといわれているものである。》(『ちゃんばら芸術史』)
「赤城の山も今宵限り」の詠嘆調のセリフとともに、この殺陣は受けつがれている。
 さらに大河小説であり、大衆文学の金字塔ともいうべき中里介山の『大菩薩峠』をとり上げ、沢田は机龍之助に扮したが、これが、「沢正の机龍之助か、龍之助の沢正か」と絶賛され、〝沢田龍之助〟といわれるほどの当たり役で、剣の新国劇の名声は決定的なものとなった。
 沢田はもともと三白眼だが、その表情は虚無の剣士龍之助にふさわしく、邪剣といわれた〝音無しの構え〟からは鬼気妖気が発散するかのようだった。
 原作にはこの構えについて具体的なことは書いていない。要するに相手の出鼻を撃つのだが、沢田はやや足を開きかげんにして刀を中段につけ、「出れば斬る、横に払えば胴を斬る」という〝静〟の剣を見せた。この沢田の机龍之助は剣に性格を与えた最初であって、これまでの一気に四、五人をナデ斬りにする得意の立回りとはまた別な境地を生み出したのである。
 とくに龍之助が盲目になってからの立回りにはすごみがあり、相手の喉首のどくびを狙った刀の切先が、まるで目が見えるように、相手の動きと一緒になり、木の幹に背中がくっつくと、それを串刺しにして、ハラハラと花が散るのを手に受けて、花が散るなあとやった演出、このへんが〝邪劇〟と酷評される理由だ。
 しかし、この『大菩薩峠』劇化の成功が、映画、演劇、大衆文学に剣戟ブームをまき起こした事実は否定できない。そして沢田の机龍之助以後、丹下左膳から眠狂四郎にいたるニヒリストの剣士が、ヒーローとなったのだった。現代の人気者座頭市にしても、その源流をたずねれば、盲目の剣士・机龍之助に到達するのである。

沢正の亜流たち
 沢田は〝半歩前進主義〟を唱え、具体的には歌舞伎と新劇の中間をゆく大衆に接近した芝居を考えていたのだが、沢田の立回りが人気を得ると、われもわれもと立回りをやり出し、新国劇を脱退して一派を作る者も現れ、その亜流は大変な数に上った。
 大正八年に幹部俳優中田正造、伊川八郎、小川隆、小笠原茂夫の四人が脱退して「新声劇」を組織したのをはじめ、大正十二年九月の関東大震災後、「国精劇」「同志座」「純国劇」「国粋劇」「剣星劇」「新光劇聯盟」等々の剣劇団が東西に簇生ぞくせいし、大正末期から昭和二、三年までは空前の剣劇全盛時代となった。
 だが、この剣劇団の中には立回りを売りものにするあまり、非現実的なチャンバラ劇に堕したものも少なくなかった。
 しかし沢田の亜流が、剣戟のための剣劇に終始し、一部のヒンシュクを買ったとしても、それによって、彼が新しい立回りを創始した功績をそこなうことにはならない。
 沢田はその著『蛙の放送』の中で、
《人は曉倖ぎょうこうの夢のみを追ひ世はあげて浮華の幻に酔ふといふ危険な時代でした。私はまづ舞台に立って剣を振りました。脂によごれ、脛をはぎ、腕を傷つけて懸命の大立ち回り。白刃の下、生死の境、夢も虚栄も偽りもない生命愛の刹那、その生活の至境を演劇化して世人の心に植ゑつけることでありました。》
 と書いている。このような沢田の立回りにかけた情熱が生み出したのが、今日、新国劇に残っている「殺陣田村」だ。
 従来いわれていた「タテ」に「殺陣」の字を当てはめ、謡曲「田村」を伴奏として、立回りの根本的な形を総合して、一つの舞台様式を創造した。
 舞台でいう主役、シンをとるものを「シテ」と呼んで白紋付、立回りにかかるほうを「ワキ」として黒紋付とし、シテとワキの意気がぴったりと合い、剣の躍動と美の総合されたものに仕立てているのである。
 はじめは十五種類の基本的な型を持っていたが、新国劇の研究会の工夫やアレンジで、百種類以上にふえているという。
 革新的意図を持つ先駆者は常に伝統保守の側からは白眼視される。だが、沢田によって剣劇が確立され、立回りに生命が吹きこまれたことは事実で、亜流の剣劇団ばかりでなく、新派や新劇の連中も立回りに熱心になり、当然のように映画の旧劇に大きな影響を与えたのだった。
『キネマ』(三年十一月号)に豊沢光夫氏が「剣劇の茶話」と題して、
《沢正は今述べた如く、所謂剣劇の元祖のやうに一般に認められて居るが、剣劇と云ふものが、旧派ならぬ俳優が髷物をして、白刃相交へての乱闘をやるのを云ふとすべくんば、明治四十二年頃、日本映画作成開始の初期に今は俳優界を退いて、本所の寿座々主となって居る森三之助が、吉沢商店の手で『梁川庄八』などの髷物を多く撮ったのが、在来の旧派のするよりも烈しい立廻りをやって、それが舞台で好評を博し、更にそれを映画に持って来ても、同様に成功した。これが所謂剣劇の元祖と云へやう。其起るや古しと謂ふべしだ。但し其立廻りたるや、烈しく目ざましかったは事実だが、要するに、旧劇の立廻りを新派式に烈しく且つ間を詰めてやったのに過ぎなかったのだ。》
 と述べている。
 一つの見方ではあろうが、沢正の名声が確立されてしまって、一般も関係スジにも受け入れられなかったようである。
「新時代劇」と勝見庸太郎
 旧劇の立回りを直接破壊したのは意外にも松竹の蒲田撮影所であった。松竹は沢村四郎五郎に代表される旧派が、日活の松之助劇に対抗していたが、この声色、鳴物入りの歌舞伎型旧劇にあきたらず、旧劇といえども映画的テンポを持ったリアルな演出が必要だと考えていた人たちよる新しい試みが成功したのである。
 大正十一年八月に封切られた『清水次郎長』がそれで、伊藤大輔のシナリオで野村芳亭が監督し、主演は勝見庸太郎。
 勝見はもともと現代ものの活劇スターだったが、この作品では動いているうちに殺陣師のつけた手順を忘れて、手当たり次第にそこいらにある物を取っては投げるという滅茶苦茶な立回りをやってのけた。
 ところが、これが従来のスローで型にはまった立回りに見飽きた観客にはすごく新鮮なものにうつり、大受けしたのだった。
 この作品は、〝純映画化されたる旧劇〟と宣伝され、映画館にかけるとき、現代劇と同じように声色なしで説明するので「映画劇」といわれた。そして、この一作によって、明治以来伝統的に作られてきた旧劇は次第に影を薄くし、時代劇と呼ばれるものにとって代わられるのである。
 同じトリオで翌十二年『女と海賊』を製作したときは、女優川田芳子を勝見の相手役に起用、女形を使っていた旧劇に衝撃を与えた。これは大きな改革であるとして非常な人気を博した。
 脚本を書いた伊藤大輔は、このとき立回りについて研究した結果、人物の動きにつけてカメラを左右に回転することをはじめた。これだと勝見が殺陣師のつけた通りの立回りをやらない場合でもカメラにおさまるわけだ。
 さらに野村監督、勝見主演の国定忠治もの『雁の群』も作られたが、これらの作品は、「新時代劇」と銘打たれた。単に立回りだけでなく、演出にもカメラにも新解釈や新しい映画テクニックが用いられていることが、評判を呼んだ。
 たとえば、人物の動くままに左右へカメラのレンズを動かす「パノラマ」という新しい手法だ。これを後年伊藤大輔が『大岡政談』等で用いた。
 このため、四郎五郎一派は大正十三年八月末、『円蔵と忠次』を最後に解散し、舞台へ戻った。松竹の旧劇はまっさきに消滅したのである。

市川百々之助と〝乱闘劇〟
 旧劇の立回りを駆逐した一人に市川百々之助がいる。
 彼は大正十二年九月に帝キネに入社し、『異端者の恋』でデビューしたが、翌年には『抜討権八』はじめ、つぎつぎと主演作品を発表し、たちまち帝キネの看板スターとなった。
 厚い唇と、乱れ髪になって前をはだけ、ふんどしちらつかせての大乱闘がセックス・アピールして、日本じゅうのミーハー・ファンの人気を集めた。
〝百々ちゃん〟とか〝フンドシ百々ちゃん〟と呼ばれた百々之助は、中年ばかりだった旧劇スターをまず、若さと美貌で圧倒した。彼こそは〝美剣士スター〟の第一号だった。そして、どちらかというと、新派悲劇のほうを向きがちだった女性ファンを、剣戟映画にひきつけた功績は大きい。
 彼は「百々ちゃんは刀さえ持たせておけば喜んでいる」といわれたくらい立回りが好きで、若さにまかせての大立回りが、ファンの喝栄を浴びた。しかし、ただそれだけでなく、新国劇の殺陣を見たり、外国映画の格闘を研究したりして、独自の型を創案し、一作ごとに新しいテを見せる努力をしたのは凡庸ではない。
 ダンスに凝って、ダンスの型を立回りにとり入れたりもした。散歩にステッキを持って行くと、このステッキでふと思いついたタテをすぐ用いて工夫したりしたという。
 彼の立回りには、やはり自分の美剣士ぶりを強調するための、美しいフォームを作る工夫があった。テレビの殺陣師大内竜生氏は「あの華麗な踊るような殺陣を当時は満喫したものです」と回想する。左足を思い切って後ろへ引いて、片ひざつきそうなくらい低く構え、時には寝そべってしまうような異様な形のときもあった。それと、刀身を顔の前にまっすぐ立てるのが得意の型で、乱闘になると、必ず褌を見せた。はいているはかまを脱ぎ捨ててまで、白いものを出さなければ気がすまなかったようだ。
 キビキビしていたし、手数も多く、奇麗な立回りだったが、大勢取り巻いた捕り方が、百々之助が叩くと、いっせいにバタンと棒で床を鳴らす式の、旧劇そのままのバカバカしいテを使ったりして、インテリ層からは軽んじられた。
 大正十五年の『剣難』は、百々之助の代表作である。両親と恋人を奪われた主人公が、御前試合で仇敵を倒し、復讐を遂げるが、主君から乱心者とみなされて、ウンカのような捕り手に囲まれ、斬りまくったあげくに自刃する。このときは全十一巻のうち半分が乱闘場面で、実に三昼夜も乱闘をつづけるという記録を作った。
 こうなると、まったく乱闘のための乱闘としかいいようがないが、マキノ映画の初期の作品と並んで、百々之助映画は、旧劇がすたれ、時代劇が完成されるに至る過渡期に発生した〝乱闘劇〟だったのだ。
 百々之助は自宅に道場を作り、弟子たちに剣術の稽古をさせた。その熱心さは買うとしても、人気におぼれて、イージーなワンマン映画を乱作し、自ら墓穴を掘ったのは惜しまれる。
『競艶美男』など、一人四役で、百々之助対百々之助の立回りが随所にあるというサービス過剰ぶり。ほかにも『勤王か佐幕か』『朱房の十手』等でも一人三役ないし四役の変幻自在の大活躍を見せた。なるほど、百々之助ファンは熱狂しただろうが、ほかからはひんしゅくを買うだけだった。
『木村長門守』のようなまともな作品もあるけれども、多くは前髪か白塗り、どぎついメーキャップ、あいも変わらぬ褌ちらほらの、ミーハー・ファンに迎合するチャンバラのヒーローの域からついに出なかった。
 これは一つには帝キネという会社の体質による。一時、小唄映画『籠の鳥』で大儲けした帝キネは社業拡張を図ったが、内紛のため挫折してしまった。その後は二流会社に甘んじ、百々之助の人気だけに頼って量産をつづけたのだ。いわば百々之助は、そういう安易な会社の製作方針の犠牲になったともいえる。だが、百々之助自身も、非常に次元の低いところで満足していた。あたら剣戟映画の先駆者として、阪東妻三郎と天下を二分する勢いだったものが、六、七年でスターの座を失うことになった。その最大の責めは彼自身に帰すべきだろう。

牧野省三と寿々喜多呂九平
 横田商会――日活と、尾上松之助作品を手がけ、松之助を日本一の大スターに育てたマキノ(牧野)省三は、人気におごった松之助を見かぎり、松之助を使用せずに何か自分の仕事をしようとして、教育映画を作りはじめた。これには忍術映画を濫作して日本じゅうの子供たちに悪影響を与えたという自責の念も含まれていた。この結果、日活の横田永之助社長との対立を生じ、ついに大正十年六月、独立して牧野教育映画製作所を創立することになった。
 マキノ省三は「歌舞伎の立回りじゃダメだ。真に迫った剣の術こそ、これからの時代劇になる」と主張した。新国劇の剣劇に影響されたこともあるが、松之助を頂点とする旧劇に対する挑戦でもあったわけだ。
《従来、歌舞伎で用いられた舞踊まがいの殺陣に如何に生々とした生息を吹き込むかと苦心した。
「今までの歌舞伎の殺陣は、昔の剣術時代の組太刀の亜流で、寧ろ舞踊化して仕舞うたんで生気が抜けて仕舞うた。武道各流の組太刀も、組太刀としては完成されてまんが時代を経るに従うてマンネリズム化しよりました。それを源流とした殺陣は見た目には美しゅうおますが肝心の殺気などいうもんは皆目あれしまへん。尤も江戸の素町人には殺気など厭でっしゃろな。狂犬みたいな本もののお侍が街を横行してる時代ではチャンバラは悦ばれまへん。泰平ムードのお色気万歳だす。ところが現代の日本はどうだす。右翼やないが気に入らん奴は殺しとうなりまっしゃろ。暗殺はどもなりまへんが殺さな始末つかん場合もおまっしゃろ。左様な理屈つけんかて胡散うさん臭い奴は切りとうなりまんな。まったく問答無用とはえ表現や」
 マキノ省三は延々として彼のチャンバラ談義を聞かせたことがある。けれど吾には彼の着眼の優れていることを否定することは出来なかった。》(『オール読物』四十八年十月号、今東光「阪東妻三郎の鼻」より)
 大正十一年製作の『忠臣蔵』など、乱暴といっていいくらい、写実的で型破りな立回りで注目された。橋の上で組み討ちしたまま池へ落ちるという、たったそれだけのことでも、大変リアルで斬新な立回りとして評判を呼んだのである。
 この『忠臣蔵』の立回りを見て感心した映画青年が寿々喜多呂九平で、「旧派映画の素晴らしく新しいやつを作ってみたいと思っていたオレは、この牧野氏に監督してもらったら、必ずおもしろいものが出来ようと思って、はるばる東京から牧野氏を訪れた」といっている。彼の持ってきた『浮世絵師・紫頭巾』というシナリオを見たマキノは直ちに寿々喜多を迎え入れ、そのシナリオを映画化した。大正十二年のことである。
 出演俳優はいかに迫力を出すかで、刀は竹光じゃなく本身を使って火花を発し、雨の中でビショ濡れになりながら大乱闘をやり、泥水の中にバタバタ倒れてのたうち回るという立回りシーンを生んだが、そのため、撮影のすんだあとは怪我人が大勢出たほどだった。
 旧劇のイメージを持つ立回りはオミットされ、ここに映画的な新しい立回りが生まれたのだ。新国劇がはじめた剣劇に遅れること四年で、映画もリアルな、そしてスピードと躍動美あふれた立回りを確立し得たわけだ。寿々喜多呂九平自身も、「少なくとも殺陣映画として、当時の旧劇映画に対する革命的先鋒であった」ことを自負している。この『紫頭巾』の成功を皮切りに呂九平は『恐怖の夜叉』『鮮血の手型』『討たるゝ者』『怪傑鷹』『刃光』『毒刃』『怪物』『影法師』等々を矢つぎばやに発表し、これらの作品は旧劇を嘲笑していた映画ファンまでが熱狂的に歓迎する結果となった。

寿々喜多のオリジナリティ
 松之助に代表される旧劇のヒーローは、講談、立川文庫そのままの不死身のような英雄・豪傑・義人ばかりだった。それは勧善懲悪というモラルに裏打ちされたサムライであるけれども、非常に類型的なでく人形のようなものだった。呂九平は自我をもった人間くさい人間像を描いた。苦しみ、喜び、愛し愛される血の通った人間が彼の作品には登場した。そして同時に社会の矛盾、非条理をも鋭く掘り下げた。勧善懲悪か、〝末は陸軍大将か大臣か〟といった立身出世が生きがいであった時代相を反映して功名を立てることにもっぱら用いられていた剣が、虚無的な主人公の、世に対する反逆の武器となった。そこに立回りにおける新鮮な解釈が生じたわけである。
 滝沢一氏は、呂九平の《作品の公式は、概ね抵抗――反逆――破壊――挫折という経路を踏んでいる。》という。その反逆――破壊の部分が大乱闘なのだ。大衆は苦悩し、絶望し、怒りをぶっつける主人公の心情に共鳴して、立回りを必然的なものとして捉えた。ロボットかでく人形のような旧劇の英雄豪傑が、目をむいて見得をきったり、当たるを幸いバッタバッタとなぎ倒したりするのにくらべ、迫真力に富み、しかも流動美にあふれていた。
 呂九平作品のもう一つの特徴はダイナミックな活劇性にある。当時『三銃士』『奇傑ゾロ』『ドンQ』等でハリウッドで最高の人気スターだったダグラス・フェアバンクスの活劇を模倣し、スリルとスピードとサスペンスに満ちていた。捕物帖という形を映画にもちこんだのも彼が最初である。
 このように呂九平シナリオは、全く旧劇のカラを打ち破ったオリジナルなものであり、すでに新国劇流の写実的立回りを採用していたマキノ映画は、呂九平のシナリオによって強力なバックボーンを得、新しい時代劇のメッカとなった。
 そして、旧劇とは全然異なる立回りの様式と、殺陣を構成する心構えが、新しい剣の美学、殺陣の美学として受け入れられ、剣戟映画全盛時代がおとずれる。新国劇の成功を見て、幾多の剣劇団が出現したのと同様に、激しい立回りを主にした剣戟映画が流行したのである。

阪東妻三郎の登場
 マキノの最初のスターは、浅草の舞台も踏んだことのある名古屋の役者・有田松太郎改め市川幡谷が筆頭で、日活からマキノ省三について来た片岡市太郎が二枚目だった。
 しかし、寿々喜多呂九平の作品がマキノ映画の主流になると、幡谷らの下で「御用、御用」と銀棒ふり回していた阪東妻三郎、高木新平、月形龍之介らが、代わってスターの座を占めるようになる。
 そもそもが、『浮世絵師・紫頭巾』は、寿々喜多呂九平が、同じ下宿で親しくなった阪東妻三郎を主役に想定して書いたものだった。それで一度は阪妻でテストしたのだが、浮世絵師の扮装がうまくいかず、オロされてしまい、初主演のチャンスを逸している。このときは呂九平もがっかりしたが、阪妻は失望のあまり、自殺しようかとさえ思ったそうだ。しかし、彼はこのあと、同じく呂九平の書いた『鮮血の手型』で立派に主役をつとめ、一躍スターにのし上がった。その立回りの型といい、表情といい、これまでになかった新しいものという評判を得た。
 さらに『菊の井物語』『小雀峠』『燃ゆる渦巻』『怪傑鷹』等に助演したが、ますます人気は高まる一方で、『雪の峠』『血桜』『討たるゝ者』『逆流』に主演。大正十四年の『江戸怪賊伝影法師』で、阪妻の人気は決定的なものとなった。それは〝白熱的〟という形容がふさわしいほどだった。
 阪妻は背が高いし、マスクも立派なので、「御用、御用」とからみをやらせても目立ってしょうがなかったという。そのころあだ名を〝ソッポ〟とつけられていて、市川幡谷あたりからはずいぶんイビられたらしい。幡谷にしてみれば、めざわりで面白くない存在だったのだろう。
 阪妻は自分の将来に期するものがあったせいか、カラミのときはなるべく後ろのほうになって、目立たないように目立たないように努力していた。将来大スターになったとき、そんな自分の写っている写真を残したくなかったというのだ。
『小雀峠』など、主役の片岡市太郎よりずっと押し出しがいいし、『怪傑鷹』でも敵役ながら堂々たる貫禄でヒカった。やはり下積みのころから大物になる素質の片鱗が出ていたわけで、追われる立場の幡谷が阪妻の台頭をおさえつけようとした気持ちもわかる。
 それがいやで、帝キネの重役立石駒吉が、「東邦映画」を作って、スターの大量引き抜きをやったとき喜んで阪妻も参加したのだが、幡谷もまた抜かれて来ていたので、すっかりくさり、早々にマキノへ復帰したエピソードがある。阪妻はマキノに入社する前、旅回りなどして下積みが長かった。呂九平の脚本は例外なしに下積みの武士が主人公で、下積みなるがゆえの希望のない人生であり、その虚無感から世をそねみ、反逆する。このような主人公のキャラクターが阪妻自身とオーバーラップして、ラストのすさまじい乱闘へと盛り上がっていったのだ。

〝剣戟王〟の素質と努力
 旧劇を打破した乱闘劇の立役者は、阪妻と並んで百々之助がいたし、松竹の勝見庸太郎もその一人に数えられなくもない。しかし、阪妻ひとり〝剣戟王〟の名をほしいままにしたのは、彼の立回りのうまさと同時に、松之助流の旧劇を批判するマキノ映画の体質、そして阪妻を盛り立てようとした呂九平はじめ、若い映画作家たちのバックアップが大きくものをいっている。
 二川文太郎監督によれば、当時の剣戟日本一、沢田正二郎の映画『国定忠次』や『月形半平太』をマキノで撮ったとき、阪妻もまのあたりにその立回りを見て、それから死にもの狂いの剣戟修業をやったという。だから阪妻の剣は明らかに沢正から受けついだものといえる。
 マキノ撮影所で殺陣の猛稽古をするだけでなく、家へ帰って、遅くまで弟子たちを相手にドタンバタン毎晩やったので、とうとう八畳二間つづきの部屋のネダが抜けてしまったほどだったそうだ。

『雄呂血』の立回り
 大正十四年十一月公開の『雄呂血おろち』は、阪妻畢生ひっせいの名作だった。例によって下級武士の権力に対するニヒルな抵抗と反逆がテーマである。
 久利富平三郎は漢学塾の宴会で家老の息子にからまれ喧嘩となるが、相手はおとがめがないのに自分だけ閉門という不公平な処分を受ける。しかも人々はそれ以来彼を乱暴者扱いする。ひそかに想っていた塾主の娘にまでよそよそしくされ、懊々おうおうとして楽しまない。
 そんなとき、藩の若侍が、塾主の娘について不愉快な噂話をしているのを聞き、彼らと格闘し、そのため塾を追放され、娘からも絶交をいい渡される。不本意な平三郎は夜中、娘のところへ忍んで事件のことを弁明しようとするのだが、娘が助けを呼んだため、門下生たちに捕まり、今度は藩から追放される憂き目に会う。
 一年後、落魄らくはんして別の城下町に現れた平三郎は料理屋の二階から吸い物をかけられたことから争いとなり、捕らえられて牢にぶちこまれる。二カ月後出獄して、先の料理屋の娘を好きになり会いに行くが、ここでまた人の喧嘩にまきこまれ、彼がその張本人にされてしまう。そして彼はすっかり無頼漢として子供たちからも恐れられる。
 そんな風だから料理屋の娘に恋を打ち明けてもこわがられるだけ。ついに娘をかどわかすのだが、犯すこともできず、捕らえられて入牢する。だが、獄中にあってもその娘のことが忘れられず破牢して娘のところへ行ってみれば、もうすでに彼女はほかの男の女房になっていた。
 落胆して泣く平三郎に追手がかかる。彼は逃げて顔役にかくまわれる。この親分が表面は立派だが裏へ回ればとんでもない悪党。ある日、それが旅の途中病気で困っている侍夫婦を助けて連れてきた。侍の妻女は最初の恋人・塾主の娘だった。悪親分はこの女に毒手を伸ばす。平三郎は彼女を助けるため親分たちと戦う。そこへ大勢の捕り方が現れ、えんえんと乱闘がつづくのだが、日がギラギラと照りつけ、平三郎は疲労と烈日でめまいがしてくる。彼はついに抵抗をやめ、自分の左手で刀を握った右手をほどき、バッタリ刀を落としてばくに就く。助けられた夫婦は涙ながらに彼を見送るのであった。
 およそ、これほどツイてない男もいないだろうと思うくらい不運な、哀れな男の物語で、いささかバカバカしくもなるのだが、権力に対する弱者の憤怒と抵抗、ということでとらえるならば、やはりこの作品は記念すべきものに違いない。
 衝動によって作ると主張した寿々喜多呂九平の強烈な反逆精神が、ラストの執拗な大立回りに投影されている。それが単なるチャンバラを〝殺しの美学〟にまで昇華させたのだ。
 呂九平はずっと後になって『雄呂血』についてこう書いている。(『スポーツニッポン』二十八年七月二十六日号)
《――『雄呂血』に盛られたものは、終始一貫弱者の憤りの爆発で、封建的階級制度に対する不満、疑義、反抗が飛沫をあげてほとばしっている。随所に不備なところや生硬な個所はあるにしても、いかにも青年らしい情熱がみなぎっている。テーマは暴虐な強者の権力に反逆した一若侍が不幸な運命にあやつられ転落し、だれよりも善良でありながら世に容れられず、無頼漢と誤解され、没落していく性格悲劇である。妻三郎はこういった性格をたくみに演技し、単なる剣劇俳優でないことを認識させた。かれのもつ若さとパーソナリティがこの役にはまって、この映画を成功させたのはもちろんだが、主人公の反逆意識や行動が当時の大衆の代弁者であった事実を見のがすことはできない。『雄呂血』は妻三郎の浪人ものというひとつの型をつくったのみならず、時代映画のなかへやたらに虚無思想を織りこむ傾向をつくった。》
 こういう反逆意図を持つ作品だけに、最初『無頼漢』というタイトルだったこの作品は、検閲で千二百フィートもカットされた。
 浅薄なセンチメンタリズムに満ちているとはいいながら、権力への反抗を内包するものは危険思想とみなしたわけだ。
 西沢治氏は『時代映画』誌「時代劇を創ったひとびと」(三十年七月号より連載)の中でこの作品についてこう書いている。
《この作品を傾向映画の芽生えとしてみる向きもあるが、旧派における善悪の観念を逆転させた形での、善悪対立劇の頂点を示すものといってよく、暗黒、悲惨な条件を積み重ねて、ラストは予定された殺陣へ善なる主人公を逸散に追う構成が、善悪対立劇の作法の典型として、接続する時代劇の中に宿命のように消え難い痕跡をきざみつけた。》
 そのころの殺陣の集大成版といわれる『雄呂血』の立回りについて、二川文太郎監督は、
「ボクも妻ちゃんも脂の乗りきった時代で、情熱をぶちまけて、呂九平のシナリオのイメージに忠実に撮りました。ラストの立回りにはボクとしてとくに力を入れました。最高の立回り映画を撮ってやろうと思って。立回りの場面のロケは奈良の東大寺の法蓮町というところです。捕モノにはずいぶんいろんなテを使いましたよ。こしらえもののカワラを作ってカワラ投げをやったり、熊手、サス叉、袖からみと、若い妻ちゃんがくたくたになるまで、長い移動のカットなんかも撮りましてネ。最後に主人公の眼がくらんできて、目先がくらくらする感じを出すために、フラッシュ・バック式に間に黒コマをつないで幻覚感を出す。妻ちゃんがカッと眼を見開くと、捕り手がパッと散るという風に、今考えれば幼稚なことですが、こんなテクニックも使ってます」
 と述べている。
 このとき、屋根に上った火消しがカワラをはいで投げるシーンを考え出すと、阪妻はそれを刀でよけてみせるといいだした。
 そこで三通りのカワラを五十枚ずつ作った。一つはボール紙をカワラの上にかぶせ、屋根ではぎとるカットに使う。もう一つは木のカワラで投擲用。三つ目は土のカワラで、阪妻が刀で受けると真二つに割れるようにした。こうした苦心が実ってたしかに最後の捕物シーンはすばらしいものとなった。『モロッコ』などの大監督ジョセフ・フォン・スタンバーグがこの映画を見て、「世界最高の剣劇スウォード・プレー」と絶賛したそうだ。

阪妻の立回りの特徴
 阪妻扮する主人公・久利富平三郎に何十人という捕吏、目明かしが、あらゆる捕物用具を手にしてかかり、呂九平の脚本にはただ「半鐘乱打、大立回り」としか書かれていない部分をえんえんと二巻分撮ったわけだが、乱闘乱刃の末、捕らえられて引き立てられていく平三郎が、手にしていた血刀を離して自嘲するシーン、観客はその悲壮美に陶酔した。
 阪妻の身のこなし、目のくばり、刀の扱い方の天才的なうまさなど、観客を熱狂させるだけのことはあった。
 彼は人並み以上に背丈が高かったせいか、いつも猫背気味で、その上から首をちょっと前に出す独特のポーズで、肩の力を抜き、グッと腰を据え、刀をダラリと下げる。そして、両の足先を内股ににじらせ、適度の間をおいてジリジリと下がる。その全身のみだれに色気があると評されたものだ。
 阪妻は「立回りはいくらはげしくても、なれてくると面白いもので、カメラの位置はちゃんとわかって、まわりまわりはキチンとその正面に入ります。往来にクギ一本落ちていてもカンでわかり、ケガは一度もしたことがありません」といっていたが、とにかく、畳一枚あれば、その範囲内でどんな型でも自由自在にこなしてみせるというほどの名手で、これは映画が舞台と違って限られたカメラのフレームの中で烈しく動かねばならないところから、彼が苦心して編み出したのだろう。その流麗でしかもスゴみのある立回りは、《彼に依て剣劇が始めて美化されたと云ふても差支がない。》(『劇と映画』昭和二年八月号長崎武「剣劇春秋」)といわれた。
 普通、立回りは、斬る、よける、突くという手順だが、阪妻は、斬って、よけて、ここで間をとる。内股でジリジリ下がり、払って突くのである。
 立回りといっても、ただ丁々発止やるだけではない。やはり名手になると、個性があり、とくに間のとり方がうまい。刀を抜く、腰を落として構える、斬る――その間の呼吸は、「スターそれぞれ違うが、キマリとキマリの瞬間が生命であることは誰の場合でも同じだ。
 阪妻の立回りの特徴を、松竹の殺陣師だった川原利一氏が紹介している。
《先生の剣は非常に特徴があった。ふつうの人はヤッと切りつけた刀をサッと下に流して止めるが、先生は切り下げた刀を胴のあたりまでで止めてブルンと上に振り上げるという独特の型をいつも見せていた。ミネ打ちならイザ知らず、これではちょっと迫力が出にくいものだが、先生は見事な鋭さでこれをやってのけていた。
 その秘密は立回りのテンポの速さにあった。ふつうの人がかりにケサ切りに一秒かかるとすれば、先生のは〇・五秒で済んだ。残った〇・五秒分が切ったあとのキマリとして見事に引き立った。だからカラむ方もそのテンポに合わせて、いつも半間(はんま)早く切りかかっていったものだ。》(よみうり演芸館「殺陣」)
 また、二川文太郎監督は、
《当時の立回りでは、一人斬るごとに見得を切った。しかし、斬っちまえばもう敵じゃない。その次の敵に襲いかからなければウソだ。それを妻三郎にやらせると実にうまい。斬っても目を左右にギラギラ光らせる。次の襲撃に移る。そのすばやさ。こんなすばらしい剣劇俳優がほかにいるものかと思った。あの猫背も、そのとき力を入れた身構えから自然になったものだ》と語っている。(足立巻一『大衆芸術の伏流』)

殺陣師とカラミ役
 阪妻は「私が一時剣戟王なんていわれたのは、私のスタッフにこんな工夫をしてくれる人が多かったせいです」と、口にしていたそうだが、彼の殺陣師は市川金時(酒井誉)という人で(最初は市川桃栗)、相手役には阪妻とドサ回り時代からの仲間である中村吉松を筆頭に、「阪妻十人組」といわれた阪東妻之助、阪東要二郎、春日清、浮田勝三郎、平木政之助、永江勇吉、岩井扇之助、森妻真三郎、河原利夫、岡田喜久也がいた。彼らとの呼吸の合ったチームワークが、すばらしい立回りを生んだのだ。
 さらにカメラマン鈴木博氏も、刀をふりかぶったときは遅く、斬りおろすときは速くというふうに、独特のカメラ技術を編み出して阪妻の殺陣を効果的にした。
 阪妻は歌舞伎畑の出だけに、美しい線を見せる剣戟を重んじたから、本身といって、真剣を刃引きしたものを使うリアルな立回りがはやったときも、彼だけは竹光に薄金を張ったものを用いた。重たい本身を使うことによって線が崩れるのを恐れたからだ。
 子供たちが棒切れふり回してやるチャンバラごっこも、みな猫背の阪妻のポーズを真似るほどだった。同じ〝乱闘劇〟のライバル百々之助まで、阪妻の立回りを鏡で研究したという。
 そして、大正十五年製作の『尊王』で、「東山三十六峰静かに眠る頃、突如辺りの静寂を破って聞こえる剣戟の響」というトップタイトルを、弁士、伍東宏郎などがうたい上げて、剣戟映画を代表する名文句といわれた。これも阪妻作品なればこそであろう。

高木新平と月形龍之介
 阪妻に続いて高木新平が頭角を現した。『怪傑鷹』でのアメリカ冒険活劇顔負けのアクションがウケて、彼は一躍人気者になった。小兵で身軽なうえ、曲芸師から軽業を習っただけに、高い所から飛んだり跳ねたりするのはお手のもので〝鳥人〟の名をほしいままにした。
『戦国時代』では、本当に城の大屋根から飛びおりる放れ業をやったし、現代活劇『争闘』では、ホテルの屋上から隣りのビルへヒラリと飛んで大センセーションをまき起こした。トリックなしのこのようなアクションは、文句なしに新鮮で、痛快で、大衆にとってはカタルシスだったに違いない。
 高木は立回りにセンスがあり、鮮やかな突っこみもやれば、トンボもきる。人気がパッと上がったのは当然だった。
 つづいて月形龍之介が高木新平とコンビで売り出された。彼は阪妻よりマキノでは先輩だったが、地味な個性のため浮かび上がれないでいた。しかし、松之助の映画にも端役で出ていたほどキャリアがあったし、立回りはうまかった。マキノ省三は、
「剣を握って構えた月形は、蹴っても突いても倒れないという感じだ」
と、ほめていた。
 彼は阪妻の『討たるゝ者』に共演し、『刃光』に初主演、このあと高木との共演がつづくが、〝鳥人〟高木の活躍に押され気味だった。本格的に名声の上がったのは、大正十五年初めの『美丈夫』『修羅八荒』などからで、そのシブい魅力と見事な立回りで一家をなした。
 月形の芸名は、寿々喜多呂九平が、机龍之助と月形半平太から合成したものだ。彼は剣道三段だった。剣戟俳優は大勢いるが、有段者は珍しい。
 立回りは剣道ではないから、剣道の心得がなくともいい。むしろ、剣道をやったことがあると、かえって邪魔になるという人がいるくらいだ。それは、映画的な型をつけにくいからだろう。しかし、立回りの根本の構えは剣道から発している。剣道の技をいかに巧みにアレンジすることができるかが問題であって、剣道を知っていることが邪魔というのは極論だ。事実、月形の場合、剣道をやっていたからこそ、風格のある立回りができた。
 月形はたいてい自分で殺陣をつけた。そして竹光でなく本身を使うのが特徴だった。はげしい立回りは別として、スゴみを出す場合など、刃びきもしていない真剣を使ったそうだ。これだとカラミの連中も緊張する。その緊張が映画に現れるのがいいわけである。
 ただ、月形はリアルであるが地味なため損をしている面があった。
 月形は自分の意欲を燃やした作品を作るために三回も独立プロを興しては失敗した反逆児である。ほかのスターたちが白塗りで派手にやれば、わざと黒っぽいメーキャップでシブくやり、乱闘に明け暮れるような映画ばかりがはやると、逆にチャンバラを避けようとする。いささかヘソ曲りなところのあるスターだ。
 そのせいかどうか、彼の立回りは、逆足、逆胴をはじめ、カラミにも普通は左なのに右によけさせるなど、好んで逆手を使うのが昔からのクセだった。それと、間のとり方が大きいのも特徴で、彼は自分を大きく見せるため、腹に力を入れる訓練をしたそうだが、ドッシリとした安定感と格調とがそこから生まれ、間を大きくとっても、いささかもスキがない。
 スタンスの広い八双のかまえから、相手の打込みを体を横に開いてかわし、ズンと斬り下げる。重々しく、テンポが緩慢のようでいて、いかにも斬ったという迫真力があるのはさすがだった。

市川右太衛門の登場
 阪妻は大正十四年に独立プロダクションを興し、マキノを離れる。その後釜として、関西青年歌舞伎から市川右太衛門が迎えられた。そのとき彼はまだ若冠十九歳だったが、堂々たる体躯と、目鼻立ちの大きい立派なマスクに恵まれ、一見二十四、五に見えたという。そして、顔や体に相応して、すべての動きが派手で華やかだった。
 彼は阪妻の後継者だけに、阪妻流の華麗な線の美しい立回りで、デビュー作『黒髪地獄』からすばらしい人気を得、『怪傑夜叉王』『孔雀の光』『紫頭巾』と、ぞくぞく主演作を発表し、たちまち阪妻の牙城に迫った。
 若さと情熱にまかせてのエネルギッシュな立回りは〝乱闘劇〟のヒーローとして申し分なく、しかもそれが、舞踊を生かした奇麗なフォームで、美丈夫・右太衛門がいっそう強烈に印象づけられたのだった。彼は帝キネの百々之助と青年歌舞伎で一緒だったことがある。それで、百々之助を意識してか、乱闘のとき前をはだけて、裸を見せる立回りもやった。
 しかし、明治三十九年生まれの同年でも、彼のほうがはるかにおとなびていたので、阪妻をピッタリとマークし、マキノ映画のキャラクターというべき反逆もので、大衆の共感を集めた。それが、百々之助との間に水をあける結果となったのだろう。
 右太衛門は阪妻の名を高からしめた『影法師捕物帳』に主演して阪妻に劣らぬ声価を得たし、その前には阪妻が失敗したいわくつきの『紫頭巾』もやっている。このことは、右太衛門を阪妻以上だとするマキノの作戦とみていい。

新しい時代劇の確立
 それはともかく、マキノ名物の〝乱闘劇〟は、ラストシーン二巻くらいを大立回りにし、追いつめられた主人公が、不平不満や怒りを爆発させ、斬って斬って斬りまくるものだった。呂九平の脚本はじめ、例外なくそのようなシチュエーションで、監督も脚本家もこの立回りシーンの構成に全力を傾けたのである。
 それだけに、すべて大仕掛けで、何十人という捕吏、目明かしが、あらゆる捕物用具を手にして、主人公の回りをとり囲み、乱舞する。十手、捕り縄はもとより、六尺棒、突棒、袖がらみ、さす叉などの得物えものを使い、召し捕る方法として、梯子、戸板、大八車、目つぶし、火ぜめ、水ぜめ、油ぜめ、瓦ぜめ、さらに投げ網と、あらゆるものをくり出して、いろいろ変わった立回りを見せるのだ。
 終末への盛り上がりと、この大立回りが、マキノ映画にファンを吸収した。
 寿々喜多呂九平作品、とくに『雄呂血』は〝乱闘劇〟の最高峰といってよく、これを真似て、乱闘だけをこととするエピゴーネンが続出したが、『雄呂血』をピークに呂九平作品は次第に後退しはじめた。
 それと同時に〝乱闘劇〟も、その過渡的役割りを終え、乱闘――立回りが映画の主題ではなく、あくまで映画の一要素として収斂しゅうれんする形で、新しい時代劇が確立されていくのである。
晩年の松之助の焦り
 尾上松之助は大正十五年九月十一日に死んだ。享年五十一。『俠骨三日月』が最後の作品となった。
 日本映画最初の大スターであり、〝剣劇の元祖〟を自任し、日活の撮影所長を兼ね、重役にもなった松之助だが、阪妻などのマキノや百々之助の〝乱闘劇〟が熱狂的人気を得た時点で、完全にとり残されてしまった。
 昔のままの旧劇を作っていたのでは、もう〝剣劇の神様〟の神通力が失われるのも当然だ。それでも大正十四年ころから、ようやくこれまでの講談本的な英雄豪傑ばかりではダメだと気づき、大佛次郎の『鞍馬天狗』や前田曙山の『落花の舞』等を作って、旧劇からの脱皮を試みたのだが、その成果を十分見ぬまま世を去ったのである。
 大正十四年十一月に封切られた『荒木又右衛門』は松之助の一千本記念作品で、女優を使い、単なる三十六番斬りでなく、又右衛門の人間性を掘り下げた松之助最後の光芒だった。
 それまで実川延車と名乗って、女形をやったり松之助のカラミをやったりしていた林徳三郎氏が殺陣師に抜擢され、この殺陣をつけたのだが、
「三十六人斬りやから三十六カ所斬りどころを変えて見せんならん。一週間考えてフラフラになって、ようよう出来た殺陣をつけたら、松之助が体ぐあい悪いといって中止になってしまった。松之助の気に入らんかったいうことや。いままでのと違うテンポの早いやつをやったのが気に入らんらしい。あれは叩き斬るんだな、といってたそうですわ。
 それで師匠(実川延一郎という日活の古参俳優)が心配して、前と同じテの立回りをつけろと、こないいうし、仕方ありませんわ、ヘイ、そうしますと返事したんです。そしたら二日間中止して、その間に松之助が、あれがホントかもわからんいうて、よし、思い切り立回りをつけろ、絶対ワシ文句いわんからということになりよった。
 よっしゃ、そならやりまっせ、張り切ってテンポの早い立回りをつけたんです。先生もいう通りになってよう動いてくれましたわ。キャメラを動かすというのはそのときまでなかったもんや。わてが殺陣ではじめてやってみせたんや。そのときタイトルに松之助劇いうのを消して〝剣劇映画〟荒木又右衛門とはじめてつけましたんや」
 と、その時の事情を回想して語ったが、松之助の晩年の苦悩と焦りが感じられる。
 松之助の死によって、旧劇は全くその幕を閉じる。《松之助が後年何年生きのびたとしても日本の時代映画の進歩にあまり貢献することはなかったであろう。むしろ松之助の死によって日本の時代映画革新の速度は速められた。》(『日本映画人伝』)と岸松雄氏はいっている。

後継者は河部五郎
 松之助は自分の後継者として「国精劇」の河部五郎を迎えた。大正十四年八月、日活入りした河部は『義刃』でデビュー。松之助の『荒木又右衛門』に河合又五郎役で出演して地歩を固め、松之助の死後は『修羅八荒』『照る日くもる日』等に主演して、文字どおり日活時代劇を背負って立った。彼の登場によって、革新にたち遅れた日活時代劇も、ようやくマキノなどと同じレベルで競合することになったのである。
 河部は線の太いおおまかなキャラクターで、立回りも、あくまで正攻法であり、荘重さと熱が力強い感じを与えた。その代わり潑刺さとスピードに欠けたのはいなめない。久世竜氏も「この人はなかなか覚えないし、やってもヘマするしで、だいたいふつうの人が一日にやる二十カットぐらいの立回りを二日かけてやりましたからね」(『噂』四十九年三月号「チャンバラの見方教えます」)といっている。
 どっしりとした頼りがいのあるヒーローらしい風格だが、目が細く、優しいおだやかなマスクなので、凄壮せいそうの気がないのだ。剣劇団出身らしく型は美しかったけれども、動きもにぶく手数もわりと少なかった。河部にも〝十人の剣士団〟がついてカラみ、その立回りをひきたてた。その中の一人に伴淳三郎がいたというのは意外である。
 河部につづいて、新国劇出身の大河内伝次郎が大正十五年八月、日活に入社した。そして、これも入社したばかりの伊藤大輔監督の『長恨』でデビューしたが、以後、伊藤監督とコンビで、『忠次旅日記』『大岡政談』等で日本映画界を席捲する。
 最初は河部が人気絶頂で、女性ファンの楽屋訪問が一日じゅう絶え間がないほどだった。その楽屋の窓から見える撮影所の一隅で、ギョロ眼の小柄な男が、よれよれの浴衣を片肌脱いで、うしろ鉢巻きで木刀をふるい、汗みどろになってひとり立回りの稽古をしていた。河部ファンたちはそれを見て嘲笑したそうだが、その主こそ売り出し前の大河内伝次郎だった。
 彼はタッパがなく、容貌も決して二枚目とはいえない特異なものだけに、もし伊藤大輔という名伯楽がいなかったならば、あれほど大きな存在になり得たかどうか疑問である。

伊藤大輔と『忠次旅日記』
 伊藤大輔ははじめ、蒲田のシナリオライターだった。このとき彼の書いた『女と海賊』『清水次郎長』等が「新時代劇」と呼ばれ、旧劇打破の火をつけたのだった。彼は監督をやりたくて帝キネに転じ、『酒中日記』やアクションもの『星は乱れ飛ぶ』等と、最初の時代劇『剣は裁く』を発表したが、あまり認められず、帝キネの内紛から東邦映画へ移った。ここがつぶれると大正十五年には自ら奈良に伊藤映画研究所を設けるなど、曲折を経た後、日活に入った。
 この困窮と失意の逆境の中でつちかわれた情念が、絶望と反抗、虚無、センチメンタリズムとなって作品に投影された。それは、寿々喜多呂九平をはじめとするマキノ系作家と傾向を同じくするものだったが、呂九平らが観念的なのにくらべ、肉体的に迫るナマナマしさがあった。『長恨』をはじめ、彼の作品には反逆精神が横溢し、時代劇に仮託して現代の矛盾と不満をぶっつけていた。
 日本映画のオールタイム・ベストワンに挙げられる『忠次旅日記』を、
《ここで彼は流転敗残の博徒の身の上をかりて、彼自身の感傷、詠嘆、自棄、焦躁、ひがみの感情を思うさま吐露した。それが今日省みて、安価な文学青年的感傷であるといわばいえ、大河内伝次郎の異様に歪んだマスクによって、伊藤は、日本映画に最初の人間的息吹を与えた。》
 と、筈見恒夫氏はその著『新版映画五十年史』で絶賛している。
 これから『下郎』『血煙高田馬場』『新版大岡政談』『素浪人忠弥』『興亡新選組』『一殺多生剣』『斬人斬馬剣』等、昭和六、七年ごろまで伊藤大輔の全盛時代がつづくが、スポークン・タイトルを十分駆使した映画話術とスピーディな演出は心にくいばかりで、ファンを陶然とさせるものがあった。

大河内伝次郎の殺陣
 大河内伝次郎は阪妻とか右太衛門と違って小男なので、カメラの位置を低くして撮ったというが、彼自身も、少しでも体を大きく見せるため、いつも爪先立って、ツツツーとすべるような動きで斬り払ったり飛び上がって斬った。また、斬って下がる癖があった。立回りの時に必ず刀の目釘を湿すのも特徴の一つだ。
 しかし、ただそのような技巧だけでは、あの画面を圧するような巨人の風格は出ない。やはりそれは大河内の強烈な個性と演技力によるものだ。
 彼は新国劇の出で、阪妻はじめ、歌舞伎出のスターたちとは自ずから芸風が異なる。歌舞伎出の人たちは雰囲気も芸もわりあい華やかで、ことに立回りは派手で見栄えがする。肉体的条件においても劣る大河内は、それに対抗するため、体当たり的にやったと自分でいっている。
 彼は強度の近眼で、その上、立回りになるとムキになって、実際に自分の刀を相手の体に当てないと気がすまない。いくら竹光でも当てられると痛いので、カラミは大河内のときには、空気枕を腹に巻いてかかったという。
 足を互いちがいにし、体を低く構えるのが得意のポーズで、俊敏、はやぶさのようなバネのある動きと、重厚盤石のようなドッシリした貫禄とは、阪妻と並んで時代劇の王者とうたわれるにふさわしかった。
 彼の特異なマスク、三白眼に近い〝眼技〟は妖気を漂わし、美しい線と流動美を生かした歌舞伎出身派の華麗な剣、さらにいえば、松之助にはじまった天下無敵調、正義の士の〝陽の剣〟に対し、ニヒリスティックな、人を斬ってニタリと笑うたぐいの〝陰の剣〟を生み出した。
『忠次旅日記』で、捕り方に囲まれた忠次が背中におぶった勘太郎に「目をつぶっていな、十数えたらいいぜ」といって、一ツ、一ツと捕り方を斬っていった胸のすくような立回り。あるいは、階段から駆け下りてきて、かかってくるのを二、三人サッと斬りすてると、そのままふり返りもせず、表へ鉄砲玉のような勢いで飛び出して行く、そのうしろ姿の美しさなど、まさに絶品といってよかった。
 こういう颯爽としたところを見ているからこそ、『忠次旅日記・御用篇』で、中風を病んで足腰立たない忠次が、ふるえる手で愛刀小松五郎をつかもうとして、もうつかむ力すらない悲惨さが観客の胸を打ったのだ。

丹下左膳とラグビー
 大河内の左膳か、左膳の大河内かといわれるくらいの当たり役・丹下左膳は『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』のタイトルで、日活、東亜、マキノの三社が競作したが、日活の看板と伊藤大輔の力量で、大河内が一番傑出し、この後、彼の十八番となった。
 丹下左膳は右眼・右腕を失った不具の剣士である。したがって、その左腕一本だけの立回りは非常にユニークなものだった。たいてい、利き腕は右だから、左腕だけではやりにくい。大河内も立回りに熱中のあまり、二度も右手を出して撮り直しをやったそうだ。また、ロケ先で、雨上がりだったので足場が悪く、斜面で足をすべらした。右手は懐ろ、左手は刀を持ったままなので、ズルズルと体がすべって止まらない。そこで、顔でブレーキをかけたなんてこともあった。こうした全身火の玉のような闘志、体当たりする意気込みが、見事な立回りシーンを生んだのだろう。
 丹下左膳は〝独眼片腕の剣怪〟という表現のグロテスクなヒーローだが、伊藤大輔は彼に、武士道社会の非条理に抵抗するというバックボーンを与え、生命を吹き込んだ。
 刀剣マニヤの主君のために、命がけで乾雲けんうん坤龍こんりゅうの名刀を手に入れた左膳が、最後に主君に裏切られ、「おめでたいぞよ、丹下左膳!」と自嘲し、絶叫し、二刀を求めて櫛巻お藤も斬り、群がる捕り方を斬って斬って斬りまくる。
 忠君愛国が至上のものであり、教育・文化がそれを根幹として形成され、映画もおおむね、その思想鼓吹の線に添って作られていた中で、君命絶対の武士道、ご都合主義の権威を批判し、権力者に利用され、犠牲となる下積みの人間の怒りをたたきつけた。単なる裏切った者への復讐というだけでなく、左膳を通じて武士道社会を批判したところが、インテリ層から歓迎されたゆえんである。
 この大詰めの乱闘では、乾雲・坤龍二刀の争奪戦を、ラグビーのボールのように、捕り手から捕り手へパスさせる手法を用い、その目新しいアイデアは観客を熱狂させた。
 さらに、伊藤大輔、大河内伝次郎と名トリオとうたわれたカメラマン唐沢弘光の功績も見落とすことはできない。彼はアイモを竹竿の先にくくりつけて、左右にブン回した。それで、疾駆する左膳、空中に飛ぶ宝刀などがカメラに追われ、驚異といえるほどのスピード感とリアルさが出たのである。
 大河内の台頭によって、日活時代劇は河部と大河内が競合する形となり、『地雷火組』『照る日くもる日』等の共演作品もあったが、やがて大河内の名声が断然、日本映画界を圧し、河部に水をあけるに至った。河部は昭和四年、日活をやめ実演に走り、後に映画界に復帰したが、もはや昔日の人気をとり戻すことはできなかった。両雄並び立たずとはこのことだった。
林長二郎『稚児の剣法』
 沢村四郎五郎、市川荒太郎一派が退陣し、旧劇の殻を捨てた松竹蒲田は、大正十三年から森野五郎を中心に時代劇を作ったが、森野はなんとなくスケールの小さい、地味なスターで、立回りの動きはよかったが、蒲田時代劇のカラミが、大井広介氏にいわせれば《一勢一律、舞台なら速くやればそれでも通用するが、マキノ映画をみてきた眼には、あまりにも安易すぎた。》(『ちゃんばら芸術史』)というわけで、常に他社の後塵を拝してばかりいた。
『修羅八荒』『孔雀の光』『黒髪地獄』等、他社との競作も、ことごとくおくれをとり、松竹は阪妻プロダクションと提携して、時代劇の劣勢を補う始末だった。
 ところが、昭和二年一月、林長二郎が松竹下加茂撮影所に入社し、『稚児の剣法』でデビューするや、たちまち爆発的人気を得た。松竹では起死回生の切り札というわけで『お嬢吉三』『鬼あざみ』等、息もつがせず長二郎映画を連発し、彼の出現によってようやく松竹時代劇の市場価値が日活、マキノなどと比肩できるようになった。
 長二郎は女形出身だけに、その女にも見まほしい美貌は女性ファンを一手に吸収した。彼の水もしたたる美男ぶりの前に、これまでミーハー・ファンのアイドルだった市川百々之助は影が薄れてしまった。
 前髪スター、若衆スターは市川市丸とか百々之助をはじめ、今日まで数多く輩出したが、長二郎ほどの美しさと気品を備えたものは見られない。おそらく不世出といっていいだろう。素顔は黒くてちっとも奇麗じゃなかったというが、とにかく映像ばえのする美貌だったのである。
 松竹は当時の金で十四、五万、いまなら五億もの空前の宣伝費をかけたが、長二郎はたちまち一日で一館が一万円の水揚げがあるくらいの人気者になった。
 デビュー作『稚児の剣法』は、意地悪ざむらいからいじめ抜かれた長二郎が、ついに剣を抜いて立ち、大勢を相手に戦い、最後は斬り死にする。弱々しい女性的な色若衆の長二郎が、まなじり決して大立回りをやる、その意外性、コントラストがきわ立っており、剣豪とか俠客などのヒーローらしいヒーローよりも悲壮感が倍加された。
 長二郎映画は最初の年は十四本、翌年は十六本も量産されたが、どれもみなヒットした。
 その初期の作品を多く手がけ、彼の売り出しに力あったのは衣笠貞之助監督だった。彼は女形俳優として一世を風靡したことがあるだけに、女形出身の長二郎の素質をよくのみこんで、女形としてのよさ悪さを十分心得て演出した。これは長二郎にとって非常に幸運なことだった。
 松之助からはじまる剣戟スターは、それぞれ正義の剣、剛剣、あるいは虚無の剣、陰の剣といったものを立回りの上で表現したが、長二郎はこれまでの剣戟スターにはなかったやさ型の剣、軟派の剣とでもいうべき色と匂いをその立回りから感じさせた。
 長二郎の華々しい成功に刺激されて、日活が沢田清を売り出し、松竹は長二郎につづく者として阪東寿之助を、帝キネは嵐斗蔵、嵐徳太郎(嵐菊麿)、東亜が市川龍男、実川長三郎と、ぞくぞく若衆スターをスクリーンに登場させたが、これらの中では沢田清がかなり売ったくらいで、あとは大成しなかった。

嵐長三郎と片岡千恵蔵
 長二郎が売れ出して間もなく、市川右太衛門がマキノから独立し、阪妻に次いで二人目のスター・プロダクションを興した。
 中心スターである右太衛門を失ったマキノは、急遽、歌舞伎界から嵐長三郎、片岡千恵蔵の二人をスカウトする。
 嵐長三郎は『鞍馬天狗』でデビューしたが、これが無類の当たり役となり、以来四十数本もの〝天狗もの〟を撮った。これと〝むっつり右門〟で彼の主演作品の三分の一を占めるのだから、いかにスターの十八番が重みを持つものであるかがわかる。
 長三郎は一年後にマキノを飛び出し、そのとき芸名を返上して嵐寛寿郎を名乗る。
 一方、千恵蔵はその第一作『萬花地獄』が長三郎の『鞍馬天狗』にくらべて内容がシブく、人気の上ではおくれをとった。彼も一年後には長三郎とともにマキノを去って独立プ口を作るが、真価が発揮されるのはそれからである。

〝マキノ立回り学校〟と勝見庸太郎
 この二人をスカウトするより前にマキノでは勝見庸太郎を傘下に加えていた。
 松竹蒲田で『女と海賊』や『清水次郎長』に主演し、「新時代劇」を生んだ勝見庸太郎は大正十五年松竹を離れて勝見プロを作ったが、彼の仕事ぶりに関心を寄せていたマキノ省三が勝見プロと提携したのである。
 勝見は〝猛優〟といわれるだけに、マキノでの第一作『恋の丸橋』では本身を使い、型はずれの猛闘を展開したため、カラミが十数人もケガをしたという。
 マキノの殺陣は、マキノ省三がうるさく仕込んだので、監督も俳優も熱心で、井上金太郎監督が〝マキノ立回り学校〟といっていたくらいだった。そして歩き方ひとつにも、第一歩はどう歩き第二歩はどう動くというふうに非常にこまかい注文がついた。
 ところが、勝見はマキノ流の殺陣を全部無視し、普通、立回りの動きを早く見せるため〝コマ落とし〟といって、カメラの回転を遅くする方法を認めない。しゃにむに本身をふるって斬ってくるため、マキノのカラミ連中は大恐慌を来した。
 それでもマキノ省三は「うまいもんやなあ」とほめちぎっていたそうだ。それだけ勝見を優遇したわけで、彼のいうとおり製作費をかけた。
『恋の丸橋』では捕物シーンにありとあらゆる小道具を使った。「もっこ投げ」という立回りの新手もこの作品から生まれたといわれる。
 ところが、それほど優遇して作った勝見ものも、最初のうちはよかったが、次第に当たらなくなった。それは長三郎や千恵蔵が売れ出してくると、かつての「新時代劇」も古くさく見えてきたからだ。十歳の年齢差がそこに現れたともいえる。
 勝見はマキノ省三が四年に没した後、プロダクションを解散して実演の旅に出る。そして第一線から遠ざかってしまった。

マキノ正博『浪人街』
 昭和三年四月、千恵蔵、長三郎をはじめ、山口俊雄、市川小文治、中根龍太郎、山本礼三郎ら、マキノの主力スターが大量離脱し各々独立プロを作り、日本映画プロダクション聯盟を結成した。
 一本立ちのスターの主演映画を作れなくなったマキノは、ノースターで、一種の集団映画を生み出した。
 二十一歳のマキノ正博が監督した『浪人街第一話・美しき獲物』『同第二話・楽屋風呂』『同第三話・憑かれた人々』等の一連の作品である。これらは近代的センスのあふれた佳作として好評だったが、代表作である『浪人街』第一話の梗概は、
 浪人者荒牧源内は女スリお新を情婦に持ち、お新の献身的な愛を利用し、ヒモとして打算的に生きている。そして同じ浪人の赤牛弥五右衛門や母衣権兵衛と酒場で知り合う。赤牛は喧嘩をした旗本の弟と意気投合し、その食客になるが、いろいろなからみがあって、お新はその旗本一味に人質になり、源内が来なければ子恋の森で牛裂きにされそうになる。さしもの源内も、その卑怯なやり口に眠っていた反骨がよみがえり、一人で斬り込む。それを追って正義の権兵衛が助太刀にかけつけ、赤牛も〝表返って〟旗本たちと戦う。「オイ、一升だぞ一升」といってしんがりを引き受けた赤牛は斬り死にし、源内とお新を逃がした後、居酒屋で権兵衛が赤牛の位牌と酒を酌みかわす――。
 浮かび上がるスベもなく長屋にくすぶる貧乏浪人たちの生態を通じ、現代に生きる人間像が描かれた。しかもキャラクターの異なった幾人かの登場人物をほぼ対等の立場でからみ合わせ、次第に終局に運んでいくという手法は斬新でユニークさがあった。
 当然、殺陣も一人のヒーローを中心とするものとは様式が違ってくる。これまでも、『忠臣蔵』という代表的な集団映画があるにはあったが、これはユニフォームに象徴されるような統制されたタイプのもので、しかもあくまで中心人物は大石内蔵助という設定がある。その点『浪人街』は、自由な、バラバラなものをそれぞれ活かして結集したエネルギーの力強さがあり、立回りも単なる乱闘ではなく、底辺に生きる人間のせっぱつまった心理を投影していた。そのためにも、一人のヒーローが斬って斬って斬りまくるよりは、この集団映画のほうが、はるかにリアリティがあったわけである。
『キネマ旬報』(昭和三年十一月十一日号)の批評に《呂九平対二川の時代は過ぎてマキノでは今や正博対山上の時代が到来した。》とある。
 大井広介氏も『ちゃんばら芸術史』で、
『浪人街』二話や、殆ど立回りのない『首の座』や『可哀想な大九郎』や『オイコラ行進曲』を製作した時期は、マキノは剣劇映画(ママ)から、時代映画をして劇映画一般のなかに解消する段階に足をつきこんでいたと思われる。谷崎十郎がスターとして充実した演技を示し、十六ミリ沢正の小金井勝が台頭したが、マキノ剣戟映画はとっくに、剣戟映画としては行詰っていたのだ。
 剣戟映画がなお繁昌しているかにみえたが、実は惰性でそうしていただけで、おそらくマキノの当事者も、『鮮血の手型』当時のハリや情熱を剣戟映画に抱き続けてはいなかっただろう。呂九平、二川による阪妻の『雄呂血』や月形の『毒蛇』が、剣戟映画の峠だったと回顧される。》
 と述べている。
 かつて一世を風靡した寿々喜多呂九平らの〝乱闘劇〟はその使命を終わり、反逆と抵抗は、伊藤大輔、大河内伝次郎コンビの作品に見られるようになったが、マキノでは呂九平作品のニヒリズムを社会批判へと高めた。それがマキノ正博とコンビの山上伊太郎だった。『浪人街』第三話では、《社会の惨景を縦横の観点から提示して、天下は貧に苦悶する裡にあって、只ひとり「天下泰平」の将軍家を描いて「あれは天下の淫楽よ」と呼んでゐる。》(『キネマ旬報』昭和四年十二月一日号批評)
 このことは支配者と被支配者を対比させて、世の矛盾と、社会悪の根源を衝こうとしたものだ。それは階級闘争を時代劇の形で描く姿勢であり、マキノ・山上コンビの作品は、この前後に流行した〝傾向映画〟と相互に影響し合ったのである。

マキノ・プロダクションの解散
 四年七月に〝日本映画の父〟マキノ省三が世を去り、主柱を失ったマキノ・プロダクションは急速に下降線をたどり、五年十二月ストライキが起こって、ついに解散するにいたった。
 マキノ省三が日活を飛び出てこのプロダクションを興したこと自体、反骨と反逆のファクターがあったのだから、ここが既成の大会社に対する抵抗の総本山となるのは当然だった。
 筈見恒夫氏は『映画五十年史』に、
注目されねばならないのは、寿々喜多、山上の二人のシナリオ作家を所有し得たマキノ・プロダクションの性格である。その時代的役割である。マキノ省三自身が、意識するとしないとに拘らず、ここには、伝統に対する破壊の精神が結集されたことはたしかである。他の会社に於て恵まれぬ地位にあり、逆境に置かれた若い人々の精神が、ここに集って、噴火口のやうにほとばしったと考へることが出来るであらう。そこに、職を失った浪人や、市井のごろん棒や、やくざ者や、庶民的階級への共感も生れ、形式的な武士階級や権勢者への反抗、増悪も自づと生れて来るわけであらう。時代映画に於ける人間的自覚も生じて来る。》
 と書いている。
 映画史上に輝かしい足跡を残したマキノは消滅した。しかし、旧劇の立回りを葬り、剣劇のメッカとしてその存在を誇った伝統は太く受けつがれた。〝七剣聖〟と呼ばれる七大スターのうち、五人はマキノ出であり、その他多くのスター、監督がマキノの流れを汲んで活躍したのである。

傾向映画の立回り、モッブ・シーン
 寿々喜多呂九平の、伊藤大輔の、山上伊太郎=マキノ正博の、共通した下積みの人間の反逆が、はっきりと目的意識を持って現れたものが〝傾向映画〟と呼ばれる一連の作品である。
 昭和四年の日活・内田吐夢監督作品『生ける人形』とか、翌五年の帝キネ・鈴木重吉監督作品『何が彼女をそうさせたか』を嚆矢として、当時のきびしい検閲の眼を逃れるため、時代劇に擬装した〝傾向映画〟がぞくぞく作られた。
 伊藤大輔の『一殺多生剣』と『斬人斬馬剣』、辻吉朗の『傘張剣法』『金四郎半生記』、古海卓二の『戦線街』『日光の円蔵』、松竹の〝プロレタリア映画三部作〟といわれた『挑戦』(小石栄一)、『弾丸』(古野英治)、『火蓋』(悪麗之助)等がそれだ。
 講談の主人公遠山の金さんは、父に反逆して革命運動に走ったブルジョアの子弟を連想させたし、浪人が長屋の住人と団結して、家老の息子や高利貸しと戦う『傘張剣法』は、そっくり階級闘争に置換できる。
『一殺多生剣』は新しい支配階級である官軍への抵抗、『斬人斬馬剣』は悪家老一味の悪政に対し、浪人に指導された農民が、一揆という手段で起ち上がる。
 とうてい現代劇では許可されない社会主義的イデオロギーを持った内容の作品が、歴史的時間や時代劇のコスチュームによってカムフラージュされたわけだ。
 それすらもカットされ、検閲の強化によって昭和六年末には姿を消してしまう。
 傾向映画の場合、これまでの一人の浪人が世を呪い、反逆し、大勢の捕り手を向こうに回して悲壮な死闘を展開する式の立回りはなく、階級闘争が下敷きとなっているだけに、モッブ・シーンが多いのが特徴といえるだろう。たとえば『斬人斬馬剣』は、浪人側の白馬隊と城側の黒馬隊が、めまぐるしいフラッシュ・バックの中で戦う。
 ヒーローは松之助時代の勧善懲悪の英雄豪傑や、ニヒリストの浪人ではなく、抑圧された民衆の味方として、農民と連帯したり、長屋の住民の代表になったりして権力者と戦うのである。
 市川右太衛門、月形龍之介、沢田清といったこれら傾向映画の主演スターたちの剣技に変化があるわけではないが、立回りの背景が従来のものとは異質だった。それが剣戟映画にかつて見たことのない新味を出していた。

『斬人斬馬剣』のモンタージュ
 エイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』によって成功したソ連映画の〝モンタージュ理論〟は全世界を風靡したが、『斬人斬馬剣』で伊藤大輔がモンタージュを用いているのは注目に価する。
 互いに無関係な画面と画面とをつなぎ合わせて、その画面自体がもっている意味のほかに、新たに全体としての意味を生むモンタージュ手法のソ連映画は、昭和五年に公開された『アジアの嵐』が最初であり、『斬人斬馬剣』の製作はその前年だから模倣ではない。この作品のラストのスピーディな追っかけモンタージュは、武田忠哉氏の「スピード・モンタアジュの技術的解剖――《斬人斬馬剣》の追跡手法に関するコンティニュティ的研究」に紹介されている。(『映画往来』昭和八年四月号)
(二七八)5 白黒 森と空 滑走
(二七九)8 やや黒 〃
(二八〇)6 黒   来三郎(全身)(格子少し見える)
(二八一)6 白   白馬の脚(大写)
(二八二)6 白   〃   (〃)
(二八三)5 黒白 砂塵
(二八四)5 白   白馬の脚(大写)
(二八五)5 やや黒 〃   (〃)
(二八六)8 黒   馬の脚切れている。来三郎(全身)
(二八七)6 白   来三郎(大写)
(二八八)5 やや白 佐源太(〃)
(二八九)5 白   正面を見る黒馬隊隊長(大写)
(二九〇)5 黒   頼母(〃)
(二九一)5 白   来三郎(〃)
(二九二)5 黒   弓を射る黒馬隊の一人(大写)
(二九三)5 白   佐源太(〃)
(二九四)5 黒   馬隊長(〃)
(二九五)5 黒   頼母(〃)
(二九六)5 白   空と森 滑走
(二九七)5 白   来三郎(〃)
(二九八)5 白   佐源太(〃)
(二九九)5 白   黒馬隊長(〃)
(三〇〇)1 白コマ
(三〇一)1 黒コマ
(三〇二)1 白コマ
(三〇三)5 黒   叫ぶ来三郎(大写)
(三〇四)5 やや白 来三郎 疾走(全身)
 上からショット・ナンバー、コマ数、画面の調子である。
 こういう感覚的手法が、新鮮に映ったことは当然で、立回りシーンには大いに応用され、立回りの映像表現の効果を高めた。それは立回りの美しさ、あるいは激しさをより映画的にしたが、反面、モンタージュ技術の行きすぎのため、いたずらに目まぐるしく、立回りの型をじっくり見ることもできないという弊をもたらしたこともいなめない。しかし、映像表現のテクニックの上で、大きな刺激となったし、それは現在でも用いられているのである。

伊丹万作と〝ナンセンス時代劇〟の殺陣
 傾向映画の弾圧によって、寿々喜多、伊藤以来の激情的な反逆反体制の叫びは時代劇の表面から後退せざるを得なくなった。
 代表的作家と目された伊藤大輔も『続大岡政談・魔像篇』『鼠小僧旅枕』等の娯楽作品に職人的手腕をふるうにとどまった。そして、それに代わって、ナンセンス時代劇と呼ばれるものが登場した。
 内田吐夢が昭和六年に作った『仇討選手』は傾向映画の変形といわれるが、それは傾向映画を喜劇的に展開させた諷刺映画というべきものである。
 仇討流行時代に、自分の領内に仇討ちをした者がいないのを恥じた殿様が、植木職人が斬られたのを利用し、その息子を、仇討選手に仕立てるというストーリー。
 翌七年の『国士無双』は、伊藤大輔の推薦で千恵蔵のプロダクションに入った伊丹万作の作品で、剣豪のニセモノがホンモノをあっさりやっつけて偶像を破壊する。そこに痛烈な権威否定と諷刺があった。
 暗い世相を反映して現れた傾向映画に対して、今度は明るいもの、軽快なものへの要求が時代劇にも求められたわけだ。千恵蔵がマキノ時代の陰性な内攻型の美男とはうって変わって明朗闊達なキャラクターを押し出し、ニヒルと反逆を内容とした時代劇に対して、明朗、諷刺、知性等の要素を持ったユニークな作品を生んだ。もちろんそれは伊丹万作の力によるところが大きかった。
『御存知源氏小僧』では、
《ありふれたチャンバラはやりたがらない。どうせ千恵蔵のふんする主人公が超人的に強いなら、一人二人はめんどう、大刀を引き抜き、エイッと一振りすると多勢の捕手たちの首がコロリと一どきに落ちるという演出だ。ちょっとした歌舞伎十八番の『暫』(しばらく)だが、千恵蔵の大刀はおかげでノコギリの歯のようになってしまう。》(『東京新聞』夕刊連載、岩松雄「けんげき映画今昔」)
 という殺陣を見せている。乱闘に次ぐ乱闘、チャンバラのためのチャンバラを皮肉った逆説であり、伊丹万作―千恵蔵映画の姿勢がうかがわれる。そして、このシニカルなナンセンス時代劇は、傾向映画の沈滞以来、無気力なマンネリズムに陥りつつあった時代劇に刺激を与え、新風を吹きこんだ。
 時代劇に三つの段階があり、松之助から阪妻に至る〝修身教科書的思想善導時代〟、阪妻から大河内にかけての〝虚無的剣戟時代〟、大河内から千恵蔵に移って〝明朗時代ものの時代〟に分けるという説がある。
 この説が妥当かどうかはともかく、千恵蔵が明朗時代劇で一つのエポックを作ったのは確かだ。

山中貞雄と立回りの省略
 寛寿郎プロからスタートした山中貞雄にも剣戟映画から無意味なチャンバラを追放しようとする意図があったようだ。その処女作『抱寝の長脇差』はありふれた股旅ものだが、主人公が暴れる浪人をとっちめると、その浪人がつんのめって刀で障子を突き破る。その破れ穴を通して壁の錦絵を写す。錦絵に描かれている立回りの図をフラッシュ・バックして、ありきたりの剣戟シーンに代えていたのだが、それがかえって画面の外で行われているのであろう争闘を想像させ効果的だった。
 同じく『抱寝の長脇差』で、やくざ仲間にからまれた磯の源太が「川べりに来い」といいすてて出て行く。相手は「逃げるなよ」と後を追う。庭下駄の大写しがあって、それをつっかけて出て行くその男の足。オーバーラップしてその庭下駄が川の中に浮いている。源太にあっさり川の中に叩きこまれたわけだ。そして下駄に「冷てえ水でノボセを下げて、ゆっくり考えてみることだね」という源太のセリフがスーパー・インポーズされる。なんともシャレたセンスで、無声映画ならではのよさが横溢している。(「けんげき映画今昔」より)
 このような立回りの巧みな省略と、ナイーブな情感に満ちた描写が新鮮だった。アメリカ映画の手法をとり入れ、剣戟映画で駆使した点もユニークだった。
『盤嶽の一生』『風流活人剣』『国定忠次』『街の入墨者』『百万両の壺』『河内山宗俊』『人情紙風船』といった一連の山中作品は、小市民映画の時代劇版ともいうべき〝新時代劇〟であり〝髷をつけた現代劇〟だった。
 丹下左膳も国定忠次、河内山宗俊、金子市之丞も、これまでのヒーローとは違った市井の一庶民として、現代人的性格を与えられ、現代的感覚で描かれたその作品は、新しい時代映画のスタイルを生み出したのである。
 ことに『河内山宗俊』や『人情紙風船』は、前進座と組んだ作品だが、河原崎長十郎や中村翫右衛門は、これまでの大河内らとは異質の芸風を見せた。
『人情紙風船』の長十郎はならず者たちにはコテンパンにのされ、仕官を頼んだ相手からは乞食扱いにされ、あげくの果ては前途を悲観した女房と無理心中というみじめったらしい浪人である。翫右衛門も一向に喧嘩は強くないのにイキがる小悪党だ。
 また『河内山宗俊』は芝居や講談で知られるヒーローではなく、無頼漢どもから純情な娘を助けるため木戸を支えて背中を刺され死んでいく。
 派手な立回りもなく、ヒーローはちっとも強くない。浪人や小悪党、ルンペンプロレタリアートが長屋ではいずり回っている生態は、どう見たってカッコイイものじゃないが、そこにいいしれぬ人間的息吹きを感じ、親しみを覚えるのだ。

稲垣浩と〝鳴滝組〟一党
 伊丹万作とともに千恵プロに拠った稲垣浩は『弥太郎笠』『一本刀土俵入』『瞼の母』等、人情の美しさを基調とする甘いリリシズムをただよわせた佳作をものにした。
 彼の作風は、時代劇特有の懐疑がなく、明るく開放的で、どんな逆境にも屈しない楽天主義のようなものがあった。千恵蔵のいわゆる〝明朗時代劇〟は伊丹と稲垣によって生まれたが、稲垣作品も、時代劇を反抗的、虚無的傾向から、一種のあきらめを伴った諷刺的傾向の、〝髷をつけた現代劇〟へと転換させたのだった。
 この稲垣浩と山中貞雄、滝沢英輔、三村伸太郎、藤井滋司、八尋不二、萩原遼、鈴木桃作(土肥正幹)の八人の監督と脚本家が、京都鳴滝に住んでいたところから、昭和九年鳴滝組一党をつくり、〝梶原金八〟という共同ペンネームで時代劇に大いに楽しい雰囲気を盛りこもうとした。トーキー初期の時代劇は、この鳴滝組の活躍によって光芒を放った。
 それらはおおむねヒロイズムを否定し、むしろ、人間の弱さを描くことによって、リアリズムを打ち出しているようだ。
 大井広介氏は『ちゃんばら芸術史』で、
《時代映画を劇映画一般のなかに、解消する地点に接近した山上、正博、松田といま一つのグループは、片岡千恵蔵プロダクションに拠った伊丹万作、稲垣浩のグループである。》
 といい、
《山上だの、伊丹だのといった人達がなお健在だったら、時代映画は、劇映画一般のなかに止揚され、剣戟映画は、劇映画のなかの西部劇みたいな、特殊な残りかたをするようになっていたかもしれない。すくなくとも、マゲモノを阪東、市川、嵐、片岡といった歌舞伎の名題から切離していた場合なども想像される。》
 山中についても、
《山中は剣戟映画の映画技術者として優れていたが、同時に時代劇映画を劇映画のなかに止揚することを、やはり真剣に考えていたと信じられる。》
 と、彼らの業績を高く評価している。時代劇イコール、単なる剣戟映画であってはならないという主張がここに見られる。

〝剣戟〟の衰退と〝股旅〟の台頭
 そして、その剣戟についても、
《剣戟映画は既にその最盛時をすぎ、『国士無双』『仇討選手』『盤嶽の一生』などが、現れるべくして現れたのだと、私は解釈している。
 単なる剣戟映画では、大人の鑑賞を維持することができなくなった。(略)
 和洋合奏でにぎにぎしく乱闘を上映したものが、トーキーになり、まさか和洋合奏ではやしたてるわけにも行かず、せいぜいエフェクトで殺気をだすというような、トーキーによる演出の変化も、殺陣のブレーキになった。
 剣戟映画が映画界を席捲した時代は、実はこういう経過で、降り坂にさしかかっていた。》
 と見る。
 さらに、大井氏は、
《剣戟映画や剣劇が、大人の鑑賞に耐えなくなった一半の理由は、またたび物のせいだと私は思う。》
 と、喝破しているが、これは卓見だ。
 長谷川伸が戯曲『沓掛時次郎』を発表したのは昭和三年のことであった。つづいて『一本刀土俵入』とか『瞼の母』等を書いたが、翌四年の『股旅草鞋』以来、やくざの旅がらすを描いたものは〝股旅もの〟といわれるようになった。
うらぶれた一本独鈷どっこのやくざは、講談調のカッコイイ俠客にくらべて、はるかに人間的に映った。ことに稲垣浩は、時代劇の底に流れる感傷主義と、ながれ者のやくざの抒情的描写によって成功した。
 伊藤大輔の描いた忠次のような悲壮感ただよう反逆と虚無の影はなく、素朴なセンチメンタリズムとユーモアが入りまじっていた。
 不況を反映して生まれた〝傾向映画〟のあと、諷刺に満ちた明朗時代劇へと時代劇の流れが変わったが、昭和八年ごろからの軍需景気による不況の解消は、大衆を浮ついた気分にした。もはや悲壮な剣戟映画は共感を呼ばなくなった。それで明るく、軽い股旅ものが大いに流行することになる。
 しかし、その股旅映画は、長谷川伸や稲垣浩の描いたしがない旅がらすの世界のエピゴーネンで、はなはだしくご都合主義的なものに変質した作品が激増した。
 大井氏は、
《否定的な浪人主人公が捨てばちに剣をふるい捕り手の重囲にほろんで行くのは、心情として首肯されるが、「一宿一飯の義理」ですぐ前後見境なしに凶行を演じ、ズラかってしまうような、テーマが、チンピラやくざはしらぬ(ママ)ど、普遍的に感銘をよびおこすだろうか。剣戟映画や剣劇は脚本からして、大人の鑑賞に耐えないようなものへ、オチてしまったのである。》
 といい切っている。そして、長谷川伸や、『弥太郎笠』等の子母沢寛は、佳作も出したが、股旅ものを流行させ、そのおびただしいエピゴーネンによって、簡単に殺生を行い高飛びするという形で責任の追及から逃れる弊風をまんえんさせた、とも批判するのだ。
 高田浩吉あたりの鼻うたまじりのご機嫌な股旅映画が出てくるようになっては、もうおしまいである。人生の苦悩も、生活も、なんのかかわりあいもない気ままなカッコイイ旅がらすがそこに描かれるだけで、大衆に迎合する、いわゆるミーハー・ファン受けのするものが圧倒的に多くなった。

殺陣の変貌
 殺陣についても、自ずと変化が生じた。つまり、剣戟映画はすべてのシチュエーションがラストの立回りに向けられていた。だが、その比重がすっかり変わったのだ。それは、ファンが立回りよりも二枚目スターの颯爽たる美剣士ぶりや、いなせな旅がらすぶりに関心を持ち、立回りはそのスターをアピールするための手段でしかなくなった。これでは舞踊と大して意味は変わらない。もちろん例外はあるが、大部分の時代劇はスター中心、ヒーロー中心で、テーマ不在の作品さえ見られた。
 社会情勢を敏感に反映して、大衆の絶望とか怒り、怨念を、剣戟映画の中に叩きつけていた熱狂的な情熱に喝采が送られた時代が去ると、内面的な知的な〝髷をつけた現代劇〟がもてはやされた。しかし、それ以後は、インテリとかいわゆるオトナのファンは洋画に去り、ミーハー層がファンの主流となったのである
 時代劇の主演スターは、立回りの巧拙よりもまずルックスのいい二枚目でなければならなかった。
 常にカラを破ろうとして発達して来た殺陣も、マンネリズムに陥るのは当然だろう。スター個々が、キャリアを積むことによって、あるていどの進歩を見せたにしても
 昭和十年、日活で『大菩薩峠』が映画化された。机龍之助には大河内伝次郎が扮したが、このとき撮影見学に来た原作者の中里介山が、大河内の爪先立ってやる立回りにクレームをつけ、また道場に飾ってある木剣が流儀が違うとか、出演者は剣道の稽古をしろなどといい出す。そこで道場をこしらえ、一刀流の高野弘正氏に教えを受けたのだが、本格的な剣道家が剣技を指導し、型をつけたのは映画ではこれがはじめてだった。
 その成果は格調高い殺陣を生んで、それ以後の時代劇の立回りに大きな影響を与え、パッと斬るとバラバラと倒れる式の派手な立回りは影をひそめ、剣道の理にかなった殺陣が多くなった。それと、各人の型で見せるのではなくて、全体的なものを描写するという傾向、さらに内面的な気持ちを汲んだ立回りが生まれた。これは特筆すべきことである。
日米開戦と映画統制
 昭和十二年七月七日、日中戦争が起こり、これが十六年十二月八日の太平洋戦争にまで発展する。この戦時体制突入のため、時代劇は、いちじるしい変貌を強いられた。
 十四年四月に映画法が公布され、十月から実施されたが、この結果、映画は国民に対する宣伝機関として、情報局、つまり軍部の統制下に置かれ、作家の個性を曲がりなりにも発揮できた自由は次第にせばめられた。
 時代映画については、大陸に戦火が拡大されてから、日本のあり方を歴史に立脚した眼で再認識しようということで、勤皇史観と武士道鼓吹を内容とする歴史映画が重んぜられ、忍術や荒唐無稽なチャンバラ映画はすっかり影をひそめることになる。
 日米開戦を前にした十六年六月には、重要な軍需品とみなしている生フィルムの欠乏という事態もあって、統制は一層強化され、劇映画の製作は二社ないし三社、配給を一元化する情報局の映画臨戦体制案が押しつけられた。その結果、十七年一月日活、新興、大都の三社合併による大日本映画製作株式会社(大映)が生まれ、映画会社はこの大映と松竹、東宝の三社に統合されたわけである。そして娯楽らしい娯楽は制限され、いわゆる国民精神総動員の国策に添った作品以外は、ほとんど製作不可能の状態となった。

歴史映画と娯楽の制限
 歴史映画は、十四年日活の辻吉朗作品『海援隊』あたりがそのはしりと目される。翌十五年には内田吐夢監督の『歴史』、十六年には松竹・溝口健二監督の『元祿忠臣蔵』、日活・稲垣浩監督の『江戸最後の日』、東宝・衣笠貞之助監督の『川中島合戦』、十七年に新興・森一生監督の『大村益次郎』、大映・稲垣浩監督の『独眼流正宗』等が作られた。
 代表的な『歴史』は、戊辰ぼしん戦争のときの会津二本松の戦いを中心に、時代の流れと人間の生き方を描いたもので、現代劇スターの小杉勇を主演に起用するなど、新しい意欲を見せた。
 しかし、この『歴史』といい、ほかの作品といい、〝歴史映画〟はおおむね興行的には当たらなかった。戦時下の暗い時代、息ぬきに娯楽を求める大衆は、軍・官僚の統制の下に作られたお仕着せくさい歴史映画に、本能的に背を向けたのかもしれない。
 ただ、歴史映画は、従来の時代劇がややもすると歴史を自由に、作者が勝手に解釈する弊があったことを改めたし、勤皇史観という一つの歴史観の上に立ってものをみつめ、そしてそれを忠実に描こうとした意図は、たとえその歴史観が、当時の国策に添ったものであったにせよ、時代劇にとって一つの進歩ではあった。
 娯楽が制限されたとはいっても、十八年東宝・滝沢英輔監督の『伊那の勘太郎』とか大映・押本七之輔監督の『虚無僧系図』、西原孝監督の『護る影』、十九年大映・松田定次監督の『高田の馬場』のような娯楽時代劇が、わずかながら作られ、大衆の渇きをいやした。それは時代劇、現代劇を通じての〝国策映画〟の生硬さから生じる反動といえよう。
 戦況の不利が目立ってきた十九年以降、国民の不安感をまぎらわそうということからか、娯楽ものの制限がいくらか緩和された。その顕著な例として、二十年に海軍航空本部の委嘱で大映が『東海水滸伝』(伊藤大輔・稲垣浩共同監督)を作ったことがあげられる。
 これは海軍の慰問映画だが、ただ〝撃ちてし止まむ〟ばかりではダメと、軍部もようやく悟ったのだろう。
 次郎長と石松の物語で、人がいないため、清水一家の二十八人衆の大半は西陣の織屋の旦那方、御用御用は愛国婦人会の婦人たちがやったという。応召や徴用でカラミの連中がいなくなったからで、これでは満足な剣戟シーンなど出来っこない。いや、そういうことより先に、時代劇はもうかつてのエネルギーを失っていたのだ。

〝七剣聖〟の時代
 大正末期から昭和二年までに輩出した剣戟の大スターは、河部五郎と市川百々之助がスター・ダムから脱落したほかはいずれも健在で、ほかの追随を許さなかった。
 大正十三年に阪妻が出たのが一番古く、それから昭和二年にかけての四年間に、月形、右太衛門、大河内、長二郎、長三郎(寛寿郎)、千恵蔵の六人がデビューした。そして、この七人はデビュー以来、三十数年ずっとトップ・スターの座を占めた。南部僑一郎氏はこれを〝七剣聖〟と呼んでいる。
 この、〝七剣聖〟は、立回りにおいてもそれぞれ一家をなし、殺陣師も彼らの意のままといってよかった。なにしろ、その実力の前には、監督さえ従属的立場に置かれるケースがしばしばあったくらいだから推して知るべしである。
 たとえば、阪妻プロの安田憲邦監督が、撮影の際、阪妻に「オン大、アップを一つちょうだいします」といったとかで、嘲笑まじりでこの言葉が流布されたり、十四年に東宝で『新篇丹下左膳』を作ったとき、大河内が第一篇のみで渡辺邦男監督をおろさせたことなどが挙げられる。
 彼らの場合もう〝型〟は出来上がっていて、キャリアの積み重ねによって、それが円熟していくわけだが、反面、マンネリとかイージーといった欠点が生まれるのはやむを得なかった。
 歌舞伎界出身が多いだけに、時代劇の撮影所は歌舞伎界の身分制度のようなものを踏襲し、封建的な空気が支配している。その中で彼らは絶対的といっていい権力を握って、しかも自意識過剰である。立回りという個人的な技能に関しては、普通の演技以上に誇りと自信を持ち、自分で殺陣をつける者さえいた。だから昭和初期から三十数年、殺陣が本質的に変わらなかったのは当然だろう。
 そして、時代劇そのものが、いわゆる〝髷をつけた現代劇〟や股旅や歴史劇など、立回りを主としない方向に傾いたため、日活、松竹、東宝のメジャー会社からは、奔放な、娯楽に徹した剣戟映画が出なくなった。もちろん、十四年の映画法施行以後は、軍・官僚の娯楽規制によってだが、それ以前から剣戟というよりチャンバラの野放図な面白さをこれらメジャー系の作品に期待することはできなくなっていた。
 十二年から十三年にかけて時代劇スター地図が大きく塗り変えられた。
 日活の大統領だった大河内と、松竹の看板だった林長二郎が東宝に移り、代わって日活に独立プロを解散した阪妻、嵐寛寿郎が加わり、これまでも日活と提携していた千恵蔵とともに三大スターが拠ることになった。
 ところが、この三大スターのほか、月形、沢村国太郎、尾上菊太郎らを擁した日活ですら、阪妻の『魔像』『鍔鳴浪人』『風雲将棋谷』、千恵蔵の『宮本武蔵』、寛寿郎の『鞍馬天狗』と『右門捕物帖』『髑髏銭』、そして原健作の『まぼろし城』等を剣戟映画、チャンバラ映画として数え得るにすぎない。
 日活の伝統的なオールスターものは『忠臣蔵』『水戸黄門廻国記』『王政復古』等があったが、戦前の時代劇の栄光はこのあたりで終わったようだ。

稲垣浩『宮本武蔵』の〝擬闘〟
 これらの中で昭和十五年稲垣浩監督作品の『宮本武蔵』は吉川英治のベストセラーを映画化したもので、剣の神髄をきわめるため、お通の愛もしりぞけて流浪する求道者武蔵の姿は、戦中の青年層の心の支えになったといえる。相手役佐々木小次郎には月形が扮したが、前髪立ちの美剣士小次郎にしてはトウが立っていたけれども、堂々たる風格で千恵蔵を圧倒した。厳流島の決闘はチャンバラ史上屈指の対決シーンとして記憶される。
 殺陣師の足立伶二郎氏によれば、このとき京都の武道家大野熊雄氏から天地陰陽の構えをはじめ、上段、中段、下段、八双、脇構えという有名な、〝五輪の型〟を教えてもらったが、いままでにない新鮮な立回りと好評だった。
 一乗寺決闘は《多勢の敵を相手に一人で戦うのだから、マトモには立向えない。敵陣をカク乱して武蔵は田んぼのアゼ道に逃げ込む。一人しか通れないから一対一の勝負がくりかえされる。一しきりやるとこんどは竹ヤブに敵をさそい込む。ここで、竹が絶好の味方となる。こうした場所の移動と切合いが絶えず交錯して、どこからみてもウソのない決闘シーンが展開された。これが本当の立回りなのだナ、と私はそのとき痛感したものだ。》(よみうり演芸館「殺陣」)
 稲垣監督は従来の〝殺陣〟に代えて擬闘、という言葉を考え出したほどの熱の入れようで、この一乗寺決闘の型はその後の『宮本武蔵』にほとんど踏襲されている。
 大河内と林長二郎改め長谷川一夫を迎えた東宝時代劇は、演出陣もマキノ正博、滝沢英輔、衣笠貞之助と充実し、さらに前進座と提携して『新篇丹下左膳』『昨日消えた男』『蛇姫様』『戦国群盗伝』『阿部一族』『忠臣蔵』等で日活の牙城に迫った。
 これに反して長二郎を失った松竹時代劇はたちまち不振に陥り、坂東好太郎、高田浩吉に新人の川浪良太郎らでお茶をにごすていどであった。

中小プロダクションの興亡
 メジャー系でも一段格が落ちる新興キネマが、松竹時代劇衰退の間隙を衝いて活発に、娯楽時代劇を製作したのが目立つ。この社はマキノ以来のヴァンプ女優鈴木澄子を使って〝化け猫映画〟というゲテモノを作り、大当たりをして以来、狸や狐や忍術を使い、目玉の松ちゃんの昔にかえったような講談ダネのヒーローを、臆面もなくスクリーンに登場させて、子供やある種のファンの支持を得た。
 市川右太衛門を別格にして、大谷日出夫、羅門光三郎、大友柳太郎(当時)らが活躍、質的には低俗のそしりをまぬがれないが、徹底した娯楽路線で、三社合併で大映になるまで『阿波狸合戦』『直参風流男』『落花の舞』『江戸の紅葵』などを撮りつづけた。
 もともと河合プロというプロダンションから発した大都映画は、どちらかといえばマイナーだが、理屈抜きの娯楽作品で一貫し、新興キネマに近い実力を持つようになった。
 阿部九州男、杉山昌三九はじめ、松山宗三郎、近衛十四郎、大乗寺八郎、本郷秀雄らがイキのいいところを見せ、『拓榴一角』『塚原ト伝』『神州天馬俠』『愛憎乱麻』『鞍馬天狗』等のチャンバラを大映になる直前の十六年にも作っている。
 このほかにチャンバラ・キネマとして、極東映画、全勝キネマの二社があり、メジャー系作品の半分程度の四巻物の時代劇を発表していたが、例の企業統制で、極東は大宝となり東宝ブロックに、全勝は興亜と名を変え松竹傘下に吸収された。十五年度には極東が『忍術廻国三勇士』『武俠八剣伝』『塙団右衛門』『河童大合戦』等、全勝が『三剣怒濤に躍る』『白龍葵頭巾』『尾州三勇士』『旗本三日月侍』等を発表している。極東には雲井龍之介、綾小路紘三郎、市川寿三郎の〝三大スター〟と中野伝次郎らがおり、全勝には松本栄三郎、大河内龍、天津龍太郎らがいた。
〝七剣聖〟がマンネリになり、メジャー系各社の時代劇が、意識的に〝大作〟を指向しはじめたころから、剣戟映画――チャンバラは生気を失い、わずかに新興、大都、そして極東、全勝の、いわば日本映画の傍流で命脈を保ったのだった。
 剣戟映画の源流であるマキノは、そもそもアンチ日活、アンチ松之助から出発したものだ。そのマキノは東亜キネマと合併し、分離し、経営的には苦難の道をたどりながらも、映画界にとくに時代劇に確固とした地盤を築いた。しかし〝映画の父〟といわれたマキノ省三の没後はますます経営困難となり、六年六月につぶれてしまう。マキノ正博が十年九月マキノ・トーキーを起こすが、昭和十二年解散し、ついにその栄光の幕を閉じるのである。
 東亜キネマは東活となり、これがつぶれると宝塚キネマが生まれ、さらにエトナ映画、富国キネマ、大衆文芸映画、赤沢キネマ等々の小会社が簇生ぞくせいした。これら小会社やプロダクションの興亡は、大資本の谷間に浮き沈みした映画人の哀史であるが、ほとんど顧みられることがなかった。
 帝キネは六年に新興キネマとなり、河合プロが大都映画と改称して存続したが、この二社と、興亡をくり返した小会社、プロダクションの時代劇に、メジャー系には見られない、メジャー系が失った活力があった。理屈抜きの面白さ、楽しさをそこに見出すことができた。
 たとえ低俗とか荒唐無稽とか、子供だましなどと酷評されようとも、その野放図なものこそ、映画の〝原点〟ではなかったか。

羅門光三郎その他
 私は小学生時代に、歴史映画のハシリともいうべき日活の『海援隊』を見に行った。寛寿郎、月形らが主演する〝大作〟だった。このとき併映で極東オール・スターの『武俠八剣伝』を見たが、『里見八犬伝』のパロディで、八つの珠の代わりに仁義忠孝信悌礼智の字をそれぞれ刻んだ剣を持つ八剣士の縦横無尽の活躍に驚喜したものである。この映画の前に、『海援隊』は全く生彩を失っていた。
 私はチャンバラ狂といわれるくらい見まくったが、小遣いの関係と時間の問題からいくぶん選択するようになり、まず松竹作品、次は歴史映画、町人・芸道ものにソッポを向いた。東宝はもともと時代劇は少ないし、日活も娯楽作品が減ってきて、結局一番見たのは新興、大都、極東の作品だった。全勝は配給系統の都合でか、私の育った北海道釧路市にはあまり来なかったように思う。それでも『三剣怒濤に躍る』とか『再現蝙蝠魔』などというウレシい作品に接している。
 阪妻や大河内たち〝大スター〟の作品もずいぶん見て、カンロクがあるだのカッコイイだのといっていたが、〝大スター〟たちのものものしさが、だんだん子供ごころにもハナについてきたのかもしれない。〝大〟にならない中堅スターの熱のこもったチャンバラに熱狂するようになった。
 たとえば新興の羅門光三郎。彼は〝小キネマの大統領〟といわれたくらい東亜―東活―宝塚―富国キネマ―極東甲陽―今井映画と、マイナーばかり歩いて苦労したが、彼の立回りは猛闘という表現が一番ふさわしく、実にエネルギッシュでたくましかった。『森の石松』『直参風流男』等でその〝猛闘〟ぶりを遺憾なく発揮したものだ。『御存じ紫頭巾』では左手での抜討ちを二、三度見せ、それでトンボを切ったりした。
 戦中に製作されたが公開は二十五年だった大映作品『乞食大将』。これは右太衛門が後藤又兵衛になる大仏次郎原作の映画化で、羅門は宇都宮鎮房に扮し、城中の廊下を進みながら行く手を阻む黒田長政の家来たちの刃を、無人の曠野を行く勢いでハネ飛ばす。剛刀といおうか、いかにも戦国の豪傑らしい風格で、最後は又兵衛の槍に刺されるのだが、完全に右太衛門を圧倒していた。
 無声映画鑑賞会で極東の『剣聖荒木又右衛門』を見たが、憤怒の形相ものすごく、若かりし時の猛演、熱演ぶりは小気味がよかった。べつだん二枚目でない彼は、それでスターの座を得ていたわけである。
 戦後はバイプレーヤーに転じた。『銭形平次捕物控・地獄の門』で、刀を背中に回したまま居合抜きをやったが見事だった。こういうのが〝芸〟というものだろう。私は新劇役者あたりが演技力がどうのこうのとモッタイぶっても、ことチャンバラに関しては全く認めない。やはり叩きこんだものが、キラッと光る、そこにバイプレーヤーの価値を見出すのだ。
 羅門はまだいい。戦後もバイプレーヤーとしてでも活躍したのだから。だが多くの剣戟スターがスクリーンを離れ、そのまま埋もれてしまった。消えるべくして消えたスターもあれば、いい素質を持ちながら開花せぬまましぼんでしまった悲劇的なケースもある。なにしろ大半が三十代後半から四十代で、まさにアブラののりきったときに〝場〟を失ったのは痛かった。
 彼らは一座を組んで、映画スターの〝実演〟というフレコミで地方巡業を打ったのだが、最初ははなばなしかったものの、だんだんドサ回りの小屋芝居に転落していくケースが非常に多かった。
 ザッとその顔触れを挙げると――(チャンバラ・スターでない者も含む)
▽日活系――沢田清、尾上菊太郎、沢村国太郎、原健作、市川百々之助、青柳龍太郎、市川正二郎、河部五郎、小川隆、遠山満、香川良介、団徳麿、中田弘二、山本礼三郎、片山明彦、松本秀太郎、杉狂児、宮城千賀子、市川春代、深水藤子、大倉千代子、月宮乙女、川上朱美、日暮里子、沢村貞子、酒井米子。
▽松竹系――坂東好太郎、高田浩吉、川浪良太郎、藤井貢、海江田譲二、大内弘、坂東橘之助、中村吉松、葉山純之輔、堀正夫、南光明、嵐菊麿、梅若礼三郎、中村時三郎、富本民平、夏川大二郎、野沢英一、乃木年雄、飯塚敏子、伏見直江、伏見信子、花岡菊子、原駒子、最上米子、河上君栄、林喜美枝、井上久栄。
▽東宝系――伊原史郎、小林重四郎、市川朝太郎、岡譲二、高勢実乗、小笠原章二郎、藤原鶏太、千葉早智子。
▽新興系――大谷日出夫、羅門光三郎、大友柳太郎、市川男女之助、立松晃、浅香新八郎、尾上栄五郎、南条新太郎、千代田勝太郎、賀川清、光岡龍三郎、伊庭駿三郎、芝田新、寺島貢、妻紀正二郎、松本泰輔、由利健次、伴淳三郎、鈴木澄子、森静子、高山広子、歌川絹枝、大河三鈴、志賀暁子、国友和歌子、甲斐世津子、松浦妙子。
▽大都系――阿部九州男、杉山昌三九、近衛十四郎、大乗寺八郎、本郷秀雄、藤間林太郎、椿三四郎(津島慶一郎)、相良伝三郎、雲井三郎、琴糸路、中野かほる、光川京子、東龍子、水川八重子、城木すみれ、三島慶子。
▽極東系雲井龍之介、綾小路紘三郎、市川寿三郎、中野伝次郎、片岡左衛門、神田烈、結城昌三郎、小浜美代子、森野洋子、中村直江。
▽全勝系|松本栄三郎、天津龍太郎、大河内龍、富士幸三郎、双葉勝太郎、樺山龍之介、宮川敏子、貴志洋子、水木令子。
▽その他(元映画スター)――鈴木伝明、市川小太夫、明石潮、森野五郎、高木新平、実川延松、小金井勝、中村吉十郎、竹内良一、沢田義雄、和田君示、関時男、森肇、河合菊三郎、阪東扇太郎、小島陽三、関根英三郎、市川米十郎、マキノ正美、阪東要二郎、五月信子、梅村蓉子、環歌子、マキノ智子、岡島艶子、中山(市松)延見子、桜井京子、月澄江。
 このほか時代劇の大スターたちも一座を組んで随時実演興行をした。中でも嵐寛寿郎は満州など大陸にまで巡業をしたものである。
刀を抜かない時代劇
 昭和二十年八月十五日、戦争は終結し、日本は敗戦国となり、連合軍の占領するところとなった。しかしその代わり、戦時下とは比較にならない自由を得た。軍国主義から民主主義への転換という体制の変化によってもたらされたものの中で、何よりも言論の自由、表現の自由が大きかった。
 軍の統制下にあってろくろく映画を作れなかった映画界が、こぞって意欲を燃やしたのも無理はない。
 ところが、連合軍の方針で、「封建的忠誠及び復讐の信条に立脚する歌舞伎的演劇は、現代の世界においては通用せず、譎許けっき殺人及び不信が大衆の面前において正当化され、個人的復讐が法律を無視して許容されるかぎり、日本人は現代の世界における国際関係を支配する行為の根本を理解し得ないであろう」ということになって、旧来の時代劇映画も批判され、時代劇を主とした二百二十七本が〝反民主主義映画〟と烙印を押され、上映禁止となった。
 それより先、日本映画の製作方向は、一は軍国主義及び軍国的国家主義の撤廃、二は自由主義的傾向及び運動の促進、三が再び世界の平和及び安全を脅かさないことの保障、の三原則が打ち出されていた。時代劇は、従来の内容が、殺人、復讐、やくざ精神、武家制度にみられる封建精神などが、三原則に反するものとみなされたわけである。
 このきびしい措置に、日本映画界はふるえ上がった。時代劇の製作関係者もスターもなかばあきらめて、現代劇への転向をはかった。
 阪妻、大河内、長谷川、右太衛門、千恵蔵、寛寿郎ら、時代劇の巨星は、なれない背広姿で芝居をしたが、どうしてもギコチなく、陸に上がった河童という表現がピッタリのありさまだった。
 この中では阪妻が戦時中の『無法松の一生』に次いで『破れ太鼓』『王将』等で成功したことと、千恵蔵が『七つの顔』を皮切りに〝多羅尾伴内シリーズ〟でピストルをふり回して興行的にヒットを生んだのが目立つぐらいで、右太衛門のマドロスとかギャングなど見ておかしかったし、大河内も現代ものになると急に老けこんで見えた。
 かといって全く時代劇が作られなかったわけではない。『お夏清十郎』『田之助紅』『歌麿をめぐる五人の女』等の世話ものや芸道もの、『国定忠治』『森の石松』『木曽の天狗』『黒馬の団七』等、やくざ否定の股旅ものや『月の出の決闘』『素浪人罷り通る』等が作られたが、立回りはないか、あっても素手でやるとか薪ザッポウを振り回すといった調子で、刀を抜くことをやっと許されても峰打ち。いわば〝刀を抜かない時代劇〟だった。
「ドスはあんまり抜いちゃいけない、斬るところは見せずに、倒れたかっこうで斬ったことにしろというようなワクでは、作る方も、観る方も血ワキ肉オドルというわけにいかない」(伊藤大輔談『週刊朝日』二十七年三月二日号)
 これじゃ全く手も足も出なかったわけだ。しかし二十四年に入ってようやく時代劇復興のキザシが現れた。

チャンバラ解禁へ
 ちょうどその時分に新聞夕刊が復活し、これに時代小説がはなばなしく登場、大衆から大好評で迎えられた。チャンスとばかりに、まず東映の前身である東横映画が『大菩薩峠』の企画を出し、つづいて各社が『鳴門秘帖』『丹下左膳』『修羅八荒』等々、往年のヒット作再映画化の企画をぞくぞくと持ち出した。
 だが、このときは、CIEから日本映画に対する指導助言の仕事を移管されたばかりの映画倫理規定監理委員会が、連合軍に対する幾分かの気兼ねもあってか、「時代劇は、新作たると新版たるとを問わず、一配給系統につき、年間十二本を超えず、月一本以内とする」という〝自粛規定〟を作らせ、一応おさえた形となった。
 しかし、いったん盛り上がった気運はおさまらず、二十四年十月にこの協定が成立したのに、早くも翌月から協定違反が生まれるなど、時代劇映画の本数制限は紛糾を重ねつつ、二十六年七月にはついに〝自粛協定〟が撤廃された。つまり、映倫委の監視下にあるとはいえ、自由に時代劇が作られることになったのである。
 以来、加速度的に時代劇の製作がふえ、戦前の黄金時代をしのぐほどの隆盛を見ることになる。
 ちなみに、戦後の時代劇製作状況を調べてみると、次のようだ。



 時代劇解禁の背景には、二十五年の朝鮮動乱発生、そして二十六年の講和条約発効という日本の置かれている政治情勢の変化があった。それと同時に、業界、ファンを問わず、日本人の大多数が抱いていた時代劇への郷愁が執念となって、壁を突き崩したといえるだろう。
 時代劇復興のエポック・メーキングとなった作品としては、まず二十四年の新演伎座、長谷川一夫、山田五十鈴主演の『小判鮫』があげられる。これは往年のヒット作『雪之丞変化』のリメークで、内容は復讐劇である。占領軍が最もいみ嫌っていた復讐をテーマとする時代劇が現れたことは注目していい。人気随一の長谷川が、女形と二役を演じ、監督は『雪之丞変化』も手がけたベテラン衣笠貞之助とあって、文句なしの大ヒット。
 次いで同じ年、阪東妻三郎、大河内伝次郎の二大巨頭初顔合わせをうたった『紫頭巾』が作られる。
 翌二十五年の阪妻の『影法師』もヒット。
 この年の暮れ、梨園のホープといわれた大谷友右衛門を引き抜いて、東宝が『佐々木小次郎』三部作を作った。村上元三が吉川英治の『宮本武蔵』に挑戦した話題作の映画化で、〝新星〟友右衛門は幸運なデビューを飾った。戦前派スターには見られない憂愁をたたえたみずみずしさは爆発的人気を呼び、この三部作のヒットがチャンバラ・ブームの口火を切ったともいえる。
 出雲お国の舞い姿にヒントを得て〝燕返し〟の秘剣を会得するなど、ロマンチックであり、求道者的でストイックな武蔵とは逆に、華美で、多くの恋に彩られたハムレット風に悩む小次郎の青春像は、巌流島で若い生命を散らすだけに刹那的な燃焼を覚えさせ、いかにも戦後派アプレ的だった。
 このときの武蔵には三船敏郎が扮し、後年の剣豪スターたる資質を現した。だが、三船よりも、小次郎をつけ狙う刺客大場甚内になった東野英治郎の鋭い太刀さばきが印象に残った。
 二十五年には黒沢・三船コンビの『羅生門』が製作されているが、公開当時はさほど問題にならず、翌年ベネチア映画祭でグラン・プリを受賞してから大騒ぎされたが、日本映画の海外進出の端緒となった記念すべき作品だ。黒沢監督は「あれはむしろ現代劇だ」と語っていたが、ともかく時代劇にインテリ層の目を向けさせる効果を生んだ。
 こうして二十七年に東映で戦後初の忠臣蔵映画『赤穂城』が製作された時点で、時代劇は完全に復興したのだが、この間、二十四年に長谷川一夫の十八番となった銭形平次もの『平次八百八町』が作られ、嵐寛寿郎の右門捕物帖が『謎の八十八夜』で復活。翌二十五年には同じく寛寿郎の鞍馬天狗が『大江戸異変』で不死鳥のごとくよみがえり、また、市川右太衛門のお家芸、旗本退屈男も十数年ぶりに『七人の花嫁』『毒殺魔殿』で再登場した。
 さらに極付き大河内伝次郎の国定忠治は、名前は違うが『赤城から来た男』で懐しい姿を見せ、新解釈の猿飛佐助が『千丈ヶ嶽の火祭』で現れ、二十六年には片岡千恵蔵の『いれずみ判官』シリーズがスタート、『佐々木小次郎』が出、二十七年に『丹下左膳』『月形半平太』『水戸黄門』『新選組』『武蔵と小次郎』『清水次郎長伝』等が作られ、時代劇のヒーローはこの時点でほぼ勢揃いする。
 再映画化は『鳴門秘帖』が『甲賀屋敷』とタイトルを変え、『ごろつき船』『万花地獄』『薩摩飛脚』『三万両五十三次』『落花の舞』『修羅八荒』『魔像』『夕焼け富士』『治郎吉格子』などがぞくぞくと発表され、チャンバラ・ブームをあおったのである。

捕物帖の時代
 戦後時代劇ブームが定着するまでの間は捕物帖が娯楽時代劇を代表する勢いだった。刀を抜かずに戦前作品の持つ痛快さにせまるには捕物帖が最適だった。サムライが刀を抜かずに説教ばかりしたり、やくざが長脇差の代わりに薪ザッポウをふり回す不自然さよりは、十手、捕り縄、格闘の捕物帖のほうがはるかにサマになっていた。
 右門と銭形平次という〝二大捕物帖〟を別にしても、二十三年には松竹で遠山金さんもの『遊俠の群れ』、大映で『狙われた女』、新東宝で『大江戸の鬼』『歌うエノケン捕物帖』が作られ、二十四年には、大映で大岡越前もの『大江戸七変化』、東宝で『紫頭巾』、二十五年になると松竹で『鮮血の手型』、大映で『千両肌』『紅蝙蝠』、新東宝で『若さま侍捕物帖』、東映で『千里の虎』『いれずみ判官』、二十六年には松竹『吃七一番手柄』、大映『阿修羅判官』、二十七年松竹『若君罷り通る』、東宝『トンチンカン捕物帖』、東映『銭なし平太捕物帖』、二十八年東宝『江戸ッ子判官』『青春銭形平次』、東映『素浪人奉行』、二十九年松竹で〝伝七捕物帖シリーズ〟がスタート、東宝『素ッ飛び男』、大映〝投げ唄左門シリーズ〟と『鉄火奉行』、東映『妖異忠臣蔵』といった捕物映画が相次いで作られ、有名無名の捕物名人がスクリーンを闊歩したのだった。
 この〝捕物帖時代〟ともいえるころのチャンピオンは嵐寛寿郎だ。戦前からの十八番である〝右門捕物帖シリーズ〟をいち早く復活させたほか、『人形佐七捕物帖・通り魔』(新東宝・二十八年)、『当り矢金八捕物帖・千里の虎』(東映・二十五年)、『陽気な捕物帖・狙われた女』(大映・二十三年――にやりの文七)などを作っている。彼は戦前、右門のほかにも〝銭形平次〟を三本撮っているから、まさに捕物王といっていい。

嵐寛寿郎の殺陣
 寛寿郎という人は阪妻とか右太衛門らと比べて〝柄〟がないし、また白塗り二枚目を長くやったがカメラ・フェイスに長谷川のような甘さもない。そのハンディをはね返して三十数年間も大看板を張り通してきたのだから、やはり大変なスターである。
〝カラミ〟の経験豊かな近衛十四郎に、これまで相手をして一番立回りのうまいスターは、と聞いたら寛寿郎の名をあげた。「スピードがあるし、剣に伸びがあって鋭い。グーンと胸もとに迫ってくる感じだ」と表現する。
 また、新東宝スターだった明智十三郎も、「先生のはただうまいというだけでなくて、スゴみがありますね。カランでいてこわいくらいです。あのころの先生がナンバーワンだと思いますよ」と語っていた。
 新東宝の殺陣師・中村幹二郎(幹次郎の場合もある)氏はよみうり演芸館の「殺陣」で、寛寿郎の立回りをこう分析している。
《先生の場合、いつも殺陣師のつけた手より一手か二手多く切るのがふつうで、しかも必ず刀を当てないと気がすまない。カラミがいやがって当てられないうちに逃げると、迫力が出ないといっておこるのだ。
 このとき(『女人曼陀羅』)もそのデンで、あとで一緒にふろに入ってそのカラミの腹と背中にできたミミズばれにびっくりした。それほど強く当てられたのに驚いたのではない。テストと本番と合わせて二度切られているのに、傷は腹にも一つ、背内にも一つ、つまりこのときの先生の剣は二度とも寸分の狂いもなく同じところをピタリと切っていたのである。
 先生の得意の型は逆八双くずしだ。刀身をほとんど真直ぐ立て、右ヒジをぐっと水平にまで張って右に構えるのが八双、この右ヒジを下げると八双くずし、そのまま左に構えると逆八双くずしになるわけだが、この構えはケサに切ってくる相手の刀をそのまま横に受けて逆胴に切るという手に発展していく。非常に豪快な感じで、先生の持ち味がイカンなく発揮される。相手の体に当てることを意に介さないから、腕と剣が一直線に伸びる。これがいわゆる〝剣が伸びる〟というやつだ。》
 彼のデビュー作『角兵衛獅子』や独立したときの『鞍馬天狗』を見ると、実に目まぐるしいばかりのはげしいエネルギッシュなチャンバラで、二刀流は使うわ、柔術、空手も使うわの大活躍。無声映画なので、コマ数のせいでスピーディに見えるというのとは明らかに違う。
 ほかの〝大スター〟たちが中年過ぎるとすっかり太って貫禄づいてしまったのに対し、彼はあまり変わらず、それで若いときと同じキビキビした動きができたのだろう。強靭なムチのうなるようなはげしさとスピードは最高だった。
 斬り下げた瞬間、刀が反射的にハネ上がるような形でキマると、頬の肉をピピッと痙攣させる。斬ったとき左手を水平に差し出す。突きを連続入れる。片手下段で相手の剣をチャリンと受け流す。二刀を使う立回りを好む。――逆八双くずしのほかに、寛寿郎の特徴はこのくらいあるが、ふだんが地味でもの静かな演技だけに、剣戟に転じたときの迫力は爆発的で、静と動とのコントラストがよく生かされていた。
 彼はスターで最初に自動車を乗り回したり、飛行機の操縦に熱中したりしたことなどでわかるように、運動神経がよく発達している。見かけよりはずっとむずかしい二刀流をよくやるのも、運動神経がすぐれているからだ。立回りをやっても裾が乱れないのも見事だ。
 普通の人は右利きで、左を右と同じには使えない。彼は堀部安兵衛を四回、荒木又右衛門を四回、清水一角を三回というぐあいに、二刀流の剣客を多くやっているし、鞍馬天狗でも二刀を使った。また、さもないときは必ず片手にピストル、片手に刀を持って闘っている。短銃を構えての立回りはバランスを崩しがちだが、その点、寛寿郎の場合は危うげがなかった。

十手の殺陣の特質
 寛寿郎が捕物帖ブームでもっとも活躍したのは、肉体的条件が劣っていることがかえって幸いしたともいえる。小柄だから岡っ引きにもなれるので、これが右太衛門じゃエラそうで困る。戦後は右門以外のシリーズはできなかつたが、いろいろな岡っ引きに扮した。
 岡っ引きは同じ捕物帖のヒーローでも、与力や同心より俊敏な動きが必要だ。張り込み、追跡、短い十手で敵の刀と渡り合う、捕り縄をかけるこういったアクションは、刀を用いる立回りとは大いに異なる。捕物の主眼は〝斬る〟のじゃなくて召し捕ることにあるからだ。
 しかし、捕物帖だからといって、マトモに推理中心にすると、これは動きがないので全く失敗する。どうしても捕物名人としてのスーパーマンぶりを見せなければならず、必ずラストは立回りになる。
 その場合、第一の武器は十手だが、十手の殺陣について、川原利一氏はよみうり演芸館「殺陣」で次のようにいっている。
《立回りに使う武器はいろいろあるが、相手が刀をもっているのに、主役が短刀とか懐剣などの短い武器で相対する場合が一番やりにくい。第一、見た目も長い方がハデだし、実際にやる人も、同じ長さのもので戦う方が間合がとりやすい。十手も同じことで相手に接近しなければ勝負にならないし、それには大変な機敏さが要求される。おまけに十手という武器は、相手の刀を払って突く、なぐる、根元のカギ型になったところに刀を受け止めて押え込む、といった程度の手しかないので、ますます絵がハエないのだ。》
 そしてこの十手の《短所を補うため、その場の地形、置かれている物を利用することが、捕物映画の立回りの重要なカギとなる。竹材の置き場での立回りなら並べて立てかけてある所をガラガラッと倒して攻撃のホコ先をかわすとか、水車小屋での立回りでは、ヤッと投げ飛ばした相手が水車にたたきつけられ、向う側の川にドブンと落ちるとかいった調子だ。これなど、水車に乗っかって半回転もするようなことはありえない話なのだが、そこは娯楽本位の捕物映画のこと、こういう誇張もごかんべん願っている。》といっている。
 最近は「地獄の底」のように、長大な特製十手で武器としての不利な点をカバーしたり、『御用牙』のかみそり半蔵のように十手に鎖分銅が仕込んであったりするが、あくまで特殊例だ。
 ただ、こうしたアイデアは新しいものではなく、松竹の「伝七捕物帖」で子分の獅子っ鼻の竹に扮した伴淳三郎が、長さ六十センチのキングサイズ十手や、先端から手裏剣が飛び出す〝手裏剣十手〟などを発明しているから、人間の考えることはだいたい似通ったものだ。
 その点、同じ捕物帖でも、右門の場合は同心で刀も使えるから、岡っ引きよりも殺陣に変化をもたせることができる。立回り巧者な寛寿郎は、チャンバラ禁止時代はやむを得ず抜かなかったが、後には派手な大立回りを演じてファンの期待に応えていた。

『荒木又右衛門』二刀流の殺陣
 寛寿郎のキビキビした動きは、三枚目が登場したりして、とかく遊びが多くなり、人情ばなし風に展開しがちな捕物帖をスピーディに見せた。右門のときはとくにそうだが、空手の手刀をよく使うことも〝刀を抜かない時代劇〟において大い引き立った。
 再びチャンバラ全盛を迎えた時点で、彼はおもに新東宝を舞台に活躍したが、この社は他社にくらべるとやや格が下がり、ワキ役の層も厚くない。だからせっかくの寛寿郎の剣技も存分に発揮されなかったうらみがある。
 たとえば『剣聖暁の三十六番斬り』、例の荒木又右衛門鍵屋の辻の決闘だが、このときピタリ三十六人じゃ何かもの足りなく見えるというので、実際には五十人ぐらい斬りまくったそうだ。つまり、数人はらしく見えるが、あと出てくるカラミが安っぽすぎてハエないのだ。
 中村幹二郎氏によれば、
《このときは二刀流でおもしろい手を考えた。ふつう二刀の場合、左の小刀で受け右の大刀で切るのが定石だが、それだけでは新味がないので、二刀を平行に下に向けて受け、それをバッンと外して左右の敵を同時に切ってしまった。こういうハデな手を安心してつけられるのも嵐寛先生なればこそ》(前出「殺陣」)
 というわけで、新東宝ではこの作品と、『女人曼陀羅』前後篇、『危うし! 伊達六十二万石』での、能楽に合わせた原田甲斐刃傷の場の立回りがメリハリがきいて印象に残る。
 あと松竹の『鞍馬の火祭』での黒川弥太郎、海江田譲二との対決、大河内と共演した『鞍馬天狗・青銅鬼』や『復讐浄瑠璃坂』等が見ごたえあった。
 さすがの寛寿郎も、年齢には勝てずスピードが落ちてきたし、三十六年ころからはバイプレーヤーに転じて任俠ものなどに親分役でよく出演している。高倉健のヒット・シリーズ〝網走番外地〟の何作目かで、八人殺しの鬼寅に扮した彼が、横暴な看守をおどすシーン。出刃包丁の先を持ってヒョイと回して柄のほうを相手に向け、「どうぞ」とやるのだが、そのなんでもないような出刃の扱いに、長年時代劇でたたきこんできた芸の年輪を見る思いがした。
 晩年も彼がちょっと顔を出すだけで画面がシマった。やはり貴重な役者であった。五十五年十月二十一日死去。

絵になる長谷川平次の殺陣
 捕物帖といえば、長谷川一夫の銭形平次は右門と双璧だった。長谷川の甘さは世話もの向きであり、町人などもよく似合うから、岡っ引きも同様、スッキリ絵になるのだ。
 岡っ引きは下にパッチをはいて尻ぱしょりというスタイルだ。長谷川とか高田浩吉ら、ソフトな二枚目、あるいは寛寿郎のような鋭いタイプでなければならないゆえんである。
 大映のドル箱シリーズだった長谷川の銭形平次は、十手の殺陣の単調さを救うため、投げ銭を生み出した。ツブテの一種で、目とか利き腕を狙うのだが、投げ銭を武器にしたアイデアは抜群である。ただ、遠いのも近いのも片っぱしから投げ銭でやっつけるのは、ちょっとおかしい。ああいう小さいものは加速度によって打撃を与えるのだから、あるていど距離がないとこしらえごとが目立ちすぎるのである。
 長谷川は林長二郎の芸名で昭和二年にデビューしたが、第一作『稚児の剣法』以来若衆役を得意とし、ナヨナヨとした弱々しい風情をたたえていた。ほかのスター連は前髪をつけた役はほとんどやっていない。長谷川はだから戦前は二枚目といっても、偉丈夫、美丈夫といった男らしいキャラクターとは縁遠かった。その女のようなやさしい美男が、最後に憤然決起して大立回りをやるという意外性が印象を強め、大いにトクをしている。長二郎デビュー以来の殺陣師・林徳三郎氏は当時日活の殺陣師だったのが、支度金千円で松竹に引き抜かれ、長二郎売り出しにひと役買ったそうだ。
「わても女形出身ですやろ、長丸(長二郎の前名)とは一緒に机並べたこともあったんや。監督の衣笠さんが女形の出でしょ。長さんはもちろんそうだし、ピシャーと息が合うから、こりゃもうはじめっからもらったようなもんですわ」
 女形の剣ということは〝女の剣〟だ。そこで、「顔をアップにして、顔で切らせた」のだ。それと同時に線の流れを重視した。優美に、乱闘になってもあくまで美しさをそこなわないような立回りでなければならなかった。
 女形の美しさを生かしたいろっぽい立回りで、立回りが要所要所でキマるとき、ジロッと流し目をくれる女性客を意識した演出もこうして生まれたのである。しかしそれは、しょせん〝小味〟なものでしかなく、殺陣も割引きされた評価になる。華麗な、舞うようなという表現はできるが、しかし立回りの持つ〝殺しの美学〟とは離れた位置にある。
 長谷川の立回りについては大映の殺陣師の宮内昌平氏がやはりよみうり演芸館「殺陣」で詳しく述べている。
《長谷川さんの殺陣を語るとき、舞踊との関係についてふれないわけにはいかない。御承知のように長谷川さんは先代中村鷹治郎に師事した方で、踊りがおできになる。だから立回りも踊っているような感じで、そのきれいな剣さばきには、たまらない色気がある。正眼の構えから相手の胴に切込むときも、刀がいったんクルッと横に回ってサッと胴に入るといった工合だ。
 しかし、これはどちらかといえばやさ型の剣であって、モノによってはこれでは困るときがある。》
 女形出身で日舞をミッチリ仕込んでいるから、カラダの線は柔らかいし、テクニシャンだが、いわゆる〝立役〟の剣ではない。
《ロングにカメラを引いた場合、剣さばきに鋭さがもう一つ足りないように思うのだが、長谷川さんの場合はヨリ(アップ)が多いので、これでそのマイナスを立派にカバーしておられる。というのは、表情に殺気がこもっているので、切っても本当に切ったように見えるのだ。「顔で切る」ということ、これの模範をいつも見せておられるのが、長谷川さんなのだ。》
 宮内氏によれば、逆足で斬る〝ナンバ〟ができるのは長谷川だけだという。つまり普通なら左をケサがけに斬るときは左足が前、右なら右足が前になるがそれを逆に足を出して斬るのだ。もともと舞踊で見せる足さばきでカッコよく見せるのだが、当然力は入らない。
 長谷川は後年、役柄を転換して荒木又右衛門とか清水次郎長、大石内蔵助といった立ち役をやったが、演技はともかく、立回りとなるとどうしても不満が残った。たとえば『伊賀の水月』の荒木でも、両足のかかとをくっつけたまま二刀を天地に構えた。なるほどスッキリした姿だが、こんな刀の重さと次なるアクションを計算に入れない無茶なポーズはあるまい。型にのみとらわれているからで、殺陣の迫力や凄絶せいぜつな雰囲気は出ない。
 よく、そのスターの個性に合った殺陣を考え、特徴を作り上げないと死んだ殺陣になるといわれるが、結局、長谷川は剣豪というガラではなく、やくざとか美剣士に扮しての奇麗な殺陣にとどまる。
 しかし、〝万年二枚目〟〝不世出の美男スター〟という長谷川一夫の存在は、尾上松之助、あるいは阪妻、大河内らとは別の意味で、映画史上に不滅の光を放つものだ。五十九年四月六日死去。

歌でカバー、高田浩吉の殺陣
 長谷川と同じく〝万年二枚目〟が売りものだった高田浩吉は〝伝七捕物帖シリーズ〟で一時代を画し、〝松竹の法皇〟といわれたこともあった。一度スターダムから落ちた者は再び浮かび上がることはできないというジンクスを破って、奇跡的カムバックを遂げたのは立派だが、三十年以上のキャリアのあるベテランに似ず、立回りの雰囲気を作れないのは時代劇スターとして致命的な弱点だった。
 〝柄〟がないという肉体的条件でほかのスターとのハンディがあるにしても、美貌と美声を売りものにしてきたためか、彼の剣には格調がなく、また長谷川ほどのうまさもない。役は三尺ものが多く、やくざ剣法は型に捉われなくてもいいから、リズミカルな軽い動きでよかったわけだ。
 彼はカラミが横に回ったりすると怒るそうだ。正面から斬ってくるのを相手にするだけでは、まず第一にスケールが小さいし、変化にも乏しい。殺陣師川原利一氏によると、浩吉は、
「私は、身体が大きくないせいか、やるものも、武士よりやくざものの方が多く、立回りもやくざの方がやりやすい。本当は、武士の剣の方が決まった型でやれるだけやりやすいはずなんだが
 といっていたそうだ。
 ところが、浩吉自身、旅がらすと伝七だけじゃと、サムライをやるようになったが、リキんだ格好はおかしいし、殺陣に迫力とスピードがない。とにかく時代劇スターの中ではもっとも立回りが下手だった。とうてい三十年のキャリアがある人のものとは思われなかった。
 戦前彼の殺陣をつけた林徳三郎氏も「長さんは器用やったが浩吉は下手やった」といっている。
 彼がカムバックしてから話題になったのは〝美貌タイム〟といって、時間外の仕事をやらなかったこと。その節制と努力はいいが、それをもっと立回りのほうにも向けるべきだったろう。〝美貌〟と〝美声〟がとりえのチャンバラ・スターとして記憶に残るのみである。
〝もうええやないか、二、三人斬ってみい〟
 このような〝捕物帖時代〟を経て、本格的なチャンバラ・ブームが訪れる。その推進力となったのはなんといっても東映だった。二十二年東横映画として発足、片岡千恵蔵、市川右太衛門を両車輪に二十五年ころから時代劇製作に猛スパートした。この社の製作責任者は〝日本映画の父〟といわれたマキノ省三氏の次男・マキノ満男(後に光雄)氏であり、明らかにマキノ映画の伝統の復活といえる”東映カラー”を打ち出し、短時日のうちに既成会社に肉薄した。
 足立伶二郎氏は、
《一九五〇年(昭和二十五年)ごろだったと思うが、当時のマキノ光雄専務が「もうええやないか、ちょっと二、三人切ってみい」といったので、わたしたちは『いれずみ判官』におそるおそる切り合いの場面を入れてみた。おそらく検閲にひっかかるだろうと思いきやパスした。こうしてはでな立回りもなしくずしに復活していくことになり、それから一年後、殺陣師の仕事もにわかに忙しくなっていった》
 と『赤旗』(四十四年九月連載)の「殺陣師四十年」で述べている。

『旗本退屈男』と〝諸羽流正眼崩し〟
 千恵蔵、右太衛門は毎年七、八本、多いときは十二本も主演作を出して東映の基盤を築いた。そして二十八年の『加賀騒動』で大友柳太朗が主演スターにカムバック、また、二十九年からはじめた〝東映娯楽版〟という中篇の連続映画の成功で、一気に日本映画界を席捲した。
 東映躍進の原動力の一人、市川右太衛門は舞台映えのする大きな体と顔を持ち、絶対不敗のヒーローにうってつけである。彼は大正十四年阪妻がマキノから独立した後釜として迎えられたもので、やはり阪妻の豪快、かつ線の美しさを重んずる殺陣に近かった。
 若いときは傾向映画も作ったし、深刻でニヒルな主人公もずいぶんやった。だが右太衛門の本領は、十八番の旗本退屈男・早乙女主水之介さおとめもんどのすけに象徴される陽性なヒーローにある。
 百姓、町人、三ン下など、弱い役やみじめったらしい役は引き受けない。勧善懲悪のパターンを一片の疑問もなくくり返し、ワッハッハッと哄笑し、大いばりで去って行く。――これが右太衛門映画だ。映画の技法はともかく内容的には〝目玉の松ちゃん〟と大差はない。それは右太衛門の限界であると同時に強みでもあった。年齢的な衰えを自覚して、大河内も嵐寛もワキ役に回り、千恵蔵もテレビでバイプレーヤーをやった。だが右太衛門は相変わらず『旗本退屈男』をテレビでやったし、八十を過ぎても舞台で演じている。主役以外はやらないという彼の姿勢が感じられ、ある意味では小気味がいい。
 彼は日舞をやり、立回りのフォームの美しさは定評がある。足立伶二郎氏にいわせれば「型から感情が入っていく」殺陣で、そのキャラクターを反映して絢爛たる趣きがあり、それでいて斬った迫力も相当なものだ。あのボリュームでダダダッと押し寄せてくるとたいてい馬力に圧倒されてしまう。
 退屈男のトレードマークは眉間の三日月傷と〝諸羽流正眼崩し〟という〝秘剣〟。
 これは原作者佐々木味津三がそう書いただけで、どんな構えなのか、具体的には何も表現されていない。右太衛門はいろいろ工夫して、逆足(左足を前に出す)で、剣を真っ直ぐ立てる構えを生み出した。足立氏はよみうり演芸館「殺陣」で次のようにいっている。
《一体に時代劇では、刀が画面に入るかどうかは大変な問題だが、かといって真正面に構えると、こんどは顔が邪魔される。この矛盾を立派に解決しているのが右太衛門先生の諸羽流正眼くずしで、刀が立っている上に、これこそ左右どちらにも構えることができるから、カメラ・アングルは少しも制限されない。アップによし、ロングによしというまことに映画的な、力強い美しさにあふれた構えとなっている。
 それだけでなく、先生はもうこの構えを完全に自分のものにしておられるから、実に変化が早い。大きなお体でよく変幻自在な動きができるものだと、私は感心を通りこしてアキれるばかりだ。》
 たしかに右太衛門は体の大きなわりにはよく動く。しかし乱闘になると、体の位置を動かさずに右を斬り、ついで左を払い、真ん中を拝み打ちにするといったあまりにも手順のととのいすぎた立回りをくり返すのが目についた。それと必ず一合チャリンと合わせてから斬るのがクセで、これなど一太刀で決めるのと併用すべきだ。手刀をよく使うがこれは体が大きいだけに効果的だ。
 彼の馬力を見て、ずいぶんスピーディだと思っていたところが、『朝やけ天狗』などで近衛十四郎と共演したら、近衛の速さには及ばなかった。しかし歌舞伎調の見得タップリの殺陣は、派手な右太衛門映画にふさわしいものといえる。旗本退屈男シリーズはコスチューム・プレイであり一種のショー映画だからいっそうその感を強くするのだ。
 この人のものでは『きさらぎ無双剣』で、近衛の横なぎの必殺剣をとっさに左手で小刀を抜いて受け、右に持った大刀の柄頭で敵の頭蓋を割った殺陣、『髑髏銭』で月形竜之介の鎖鎌と対決し、刀を巻きつけられながらつけ入ってこれを斬った殺陣などがとくに印象に残る。カラミがうまいと主役の殺陣がサエるのは当然だが、右太衛門の場合、進藤英太郎とか山形勲らが相手のときと、月形や近衛が相手のときとでは落差が大きすぎた。

片岡千恵蔵の〝残心〟
 片岡千恵蔵は右太衛門とは反対に、陰性、内攻的なものが殺陣の上に現れる。足立氏は、
《千恵蔵先生の殺陣は役の性格から割出されていく。動きはむしろ不細工な方だが、感情が出ているから迫力も出る。》
 と表現している。
 腰をグッと落としてじっくり構え、全身の力を刀にこめてブッタ斬るように斬る。斬ったあと、しばらくそのポーズをくずさずにいる〝残心〟がキザっぽく見えないのは、やはり年季の入ったたまもの。左足をグッと上げ、同時に左手の掌を思いきり開くのが彼のキマリだ。千恵蔵は渡辺邦男、内田吐夢両監督によって『大菩薩峠』三部作を二度撮っている。彼の机龍之助は左足をグッと引いて重心を低く構え、相手の出ばなを一撃する。もともと動きの少ない人だけにこの殺陣はきまった。初めは中段ないし上段の構えが多いが、盲目になってからは下段が多くなる。その構えで龍之助の明暗を表現したわけで、刀身に耳を傾けるようなポーズにはスゴみがあった。肥満してニヒリスト龍之助にはほど遠いが、この知的な殺陣には感心した。
 千恵蔵にしても右太衛門にしても、いかにも重役スターらしく、デップリと肥ったが、あれでは立回りのスポーティな味が半減される。当然スピードも衰えている。ムキになって、『任俠東海道』とか『任俠中仙道』などで、やたらと刀をビュンビュンふり回して、それこそ大根でも斬るみたいにバサバサ斬りまくっていたが、爽快さよりバカらしさが先に立った。
 戦前、千恵蔵が十八番にしていた『宮本武蔵』では、どうしても小次郎に扮した月形に、剣士としての格で一歩を譲ったが、『剣豪二刀流』で巌流島以後の武蔵をやったときは大きな成長の跡がみえた。武蔵を仇と狙う千原しのぶと徳大寺伸が、短銃を背後から撃とうとしても威圧を感じて撃てず、ついにあきらめてしまう。千恵蔵はギロッと一にらみするだけで背を見せたまま悠々と立ち去るのだが、さして不自然に思わせなかったのだから立派である。だが、彼は気張りすぎて、演技が大時代がかってクサくなるのはいただけない。噴飯ものは、千恵蔵・右太衛門の共演で、両重役の顔を立て、カット数もセリフの量も全く同じくしたそうだが、二人が刀を抜き合わせると、ただにらみ合うだけ。どちらも貫禄を見せて重々しく重々しくふるまうのだからバカバカしいかぎりだった。
 その千恵蔵も五十八年三月三十一日死去した。

名優阪妻の早い死
 こうした戦前からの時代劇スターが活躍しチャンバラ全盛期を迎えつつあった二十八年七月七日に、阪妻がわずか五十一歳で惜しまれつつ世を去った。まさに〝巨星堕つ!〟だった。『影法師』『大江戸五人男』『稲妻草紙』『魔像』『丹下左膳』等でわずかに往年の〝剣戟王〟の片鱗をのぞかせただけなのは残念なことである。
 阪妻は戦時中の『無法松の一生』で名演技を謳われ、戦後も『壮士劇場』『王将』『破れ太鼓』等の成功で、現代劇にも大きな地歩を占める。
 戦後、チャンバラを封じられた時代劇スターの中で、いち早く現代劇で活躍したのが阪妻だった。
 しかし〝阪妻の時代劇〟の興行価値は抜群だから、封建主義批判とか農民解放、やくざ否定といったこじつけのテーマでチャンバラなしの『国定忠治』を製作したところ大ヒット。『月の出の決闘』の刀を抜かず棒をふり回しての殺陣がこれまた大受け。さらに伊藤大輔監督の『素浪人罷り通る』も、立回りなしだが阪妻の大きなスケールと腹芸でファンを熱狂させた。
 大河内との大顔合わせ『佐平次捕物帖・紫頭巾』前後篇は、両大スターの顔を立ててやたら重々しいだけの失敗作だった。猫背スタイルの阪妻の長広舌に閉口させられたものである。だが客は入った。
 そして二十五年の『影法師』前後篇は、戦後はじめてのチャンバラらしいチャンバラで、渇望久しかったファンを堪能させた。阪妻は双生児の兄弟に扮して熱演、往年の剣戟王の面影が見られた。
 さらに『おぼろ駕籠』の豪快な演技、『大江戸五人男』で幡随院長兵衛ばんずいいんちょうべえに扮し、右太衛門の水野十郎左衛門とガップリ渡り合った対決は見ものだった。
 このあと『稲妻草紙』『魔像』『丹下左膳』に主演、『あばれ獅子』が遺作となったが、病がちで十分にその真価を発揮できなかったのは残念なことだった。
『稲妻草紙』の石段の立回りなど、やはり阪妻ならではのもの。『魔像』は戦前ヒット作のリメークで、二枚目剣士としてはトウが立っていたが、二役で昔に近い大暴れを見せた。しかし『丹下左膳』は淡島千景の櫛巻お藤相手にダラダラしてイメージをそこねた。やはり大映や東映と異なり、伝統的に軟らかい時代劇』を作ってきた松竹のせいだろうか。
『あばれ獅子』撮影中に逝ってしまい、残り部分は似た体型の者の後ろ姿ばかり撮ってなんとか作品を完成させている。衰えた阪妻は見るも痛々しかった。
 どうせなら、『丹下左膳』のような愚作ではなく、近藤勇とか大石内蔵助、あるいは撮影中止となった『王将一代』坂田三吉で最後を飾らせてやりたかった。

戦後生彩を欠いた大河内
 もう一方の巨人、大河内は長年君臨した日活から東宝へ転じて以来、会心作に恵まれず、今さらながら会社のカラーによる差をまざまざと感じさせた。
 林不忘でない川口松太郎原作の『新篇丹下左膳』四部作にしても、二、三年前までの日活作品と比べると問題にならぬくらい生ぬるく、大河内の大殺陣はほとんど封殺されてしまった格好だった。ただ『蛇姫様』で黒川弥太郎を竹林に追いつめ、竹をスパーッスパーッと切り払いながら、ツツーッとすべるように迫っていく場面に大河内らしい凄みを見た。
 しかしそのほかは彼を生かすシナリオも監督もいないのか、さっぱり往年の覇気とか凄愴せいそうなものが失われた。現代劇出演が多くなったせいかもしれない。『姿三四郎』の矢野正五郎は柄にハマってはいたがしょせん助演である。とくに戦後は中年肥りが目立ち、生彩を欠いた。
『大江戸の鬼』や阪妻との共演『紫頭巾』等、大河内の岡っ引きじゃ鮮度が落ちる。『盤嶽江戸へ行く』とか『愉快な仲間』『白頭巾現わる』等も喜劇タッチ、往年の極付き国定忠治を思わせる『赤城から来た男』もしまらない。
 やっと大河内らしいチャンバラに接したのは二十五年の『ごろつき船』でだった。敵役の月形竜之介がまた素晴らしく、後の重厚な立回りと違って激しいチャンバラで、さすがの大河内もタジタジとなるほど。この両雄の決闘が何回もあるのだからたまらない。たおれたはずの月形が執念の鬼と化して立ち上がるサマは凄絶そのもの。大河内の体を沈めて跳ねるようにして斬る得意の殺陣と、月形の真っ向上段からのしかかるようにして迫ってくる殺陣と戦前のチャンバラを彷彿ほうふつさせた。
 しかしもうこの頃で五十一、二歳。主役をやるにはむずかしい年齢になっている。だから長谷川一夫の『修羅城秘聞』でやった初の大敵役の方が堂々として、大河内の存在感をアピールしたのである。
 このあと阪妻の『丹下左膳』に反発して二十八年、九年に『丹下左膳』を三本撮ったが、とてもピーク時の大河内左膳とは比較にならず、地を摺るように駆け、跳躍して斬る動きに幾らか往時をしのぶのみであった。
 マキノ雅弘監督の『映画渡世』によると、
《(大河内が前篇を撮っただけで)もう後篇は撮らないと言い出した。理由は、第一に脚本が悪い、第二に昔のように自分が動けない、立回りが出来ない、走れない――自分の夢に描いたようにやれない、というのであった。》
 とある。
 あの三白眼をむいて虚無の妖気を漂わす〝眼技〟も衰え、『ごろつき船』の時よりずっと肥満し、もともと背はないからスゴみが消えてしまった。それでも三作目を撮ったのは〝こけ猿の壺〟の巻だからだろう。これなら〝乾雲・甲龍の巻〟ほどシリアスでないから楽だし、大河内としても最後の花でというつもりだったのではないか。事実、これ以降は共演作品ばかりで単独主演はない。
『盤嶽江戸へ行く』の共演以来、嵐寛寿郎とはウマが合ったのか、〝鞍馬天狗もの〟はじめ十本ほども共演した。大もの同士の対決シーンを期待したが『鞍馬天狗・青銅鬼』あたりがまあまあで、『桂小五郎と近藤勇・竜虎の決戦』にしてもタイトルだけで火の出るような斬り合いがあまりなく、サービス不足を感じたものである。
 三十二年完全にバイプレーヤーとして東映に入社し、老け役などが多くなったが、かつて大河内が主演した『大菩薩峠』で島田虎之助に扮し、新選組隊士をバッタバッタと一太刀ずつで斬り伏せる立回りは見事だった。これと『修羅八荒』の薩陀峠の対決で、いかにも剛剣といった貫禄で右太衛門を圧倒したのが、剣のスターとしての大河内最後の華といえよう。
 東映では五年間に約七十本という多数の作品に出演し、三十七年七月十八日死去した。戦前の、それも日活時代の足跡があまりに巨大なため、かえってその後の活躍に不満が残るとはいえ、阪妻と並んで〝剣戟王〟大河内はやはり不世出のスターである。
時代劇スターぞくぞく登場
 二十九年正月の『真田十勇士』からスタートした〝東映娯楽版〟は『雪之丞変化』で東千代之介、『笛吹童子』で中村錦之助という新スターを生み、年少ファンを一手にひきつけ、二本立旋風を映画界にまき起こした。なにしろ三部作、五部作の連続活劇で、毎週スクリーンに現れるのだから、前例のないスピードで彼らは売り出され、アイドルとなった。
 同じ年に大映から市川雷蔵、勝新太郎がデビュー、翌三十年に大川橋蔵がデビューというぐあいに戦後派時代劇スターはだいたいこのころくつわを並べる。
 それ以前は二十五年に大谷友右衛門(現中村雀右衛門)が東宝から出、二十七年に東宝で小堀明男が主演に抜擢、松竹から北上弥太郎がデビュー。二十八年、中村扇雀(現中村鴈治郎)が宝塚映画、坂東鶴之助(現中村富十郎)が新東宝から売り出される。
 そのほかツブはこまいが、若杉英二(後に新東宝で天城竜太郎)が松竹中篇時代もののヒーローとなり、長門裕之が子役を卒業して東宝の〝次郎長三国志シリーズ〟に出、石井一雄も同じシリーズで出てくる。
 二十九年は錦・千代・雷蔵・勝のほか、阪妻二世の田村高広が松竹、長谷川二世の林成年が大映からデビュー、東映で明智三郎(後に新東宝で明智十三郎)が時代劇スターとして再売り出し、宝塚映画に中川晴彦(後に新東宝で中村竜三郎)が現れる。
 三十年は東映に伏見扇太郎、松竹に中村賀津雄(現嘉葎雄)がアイドルめざしてデビュー。弟の勝より遅れて若山富三郎が新東宝から出、同じく中村又三郎(後に大映で丹羽又三郎)、宝塚映画から沖諒太郎(後に島田竜三)、大映から夏目俊二、日活から名和宏がそれぞれ売り出された。
 三十一年は松竹から森美樹、大映から梅若正二が名乗りを上げ、右太衛門二世の北大路欣也も子役でデビューした。さらに新東宝の小笠原弘が小笠原竜三郎と改名、本格的に主演スターとなる。
 三十二年には東映から里見浩太郎、尾上鯉之助、松竹から松本錦四郎が出、新東宝の和田孝も和田桂之助と改名し時代劇スターとなる。
 三十三年は東映・沢村訥升とつしょう(現沢村宗十郎)、沢村精四郎(現沢村藤十郎)の兄弟と南郷京之助、松竹・花ノ本寿、新東宝・片岡彦三郎が売り出された。
 阪妻を除く戦前派大スターは依然健在ではあったが、戦後の空白期を経て、ようやく次代をになうべく新星が勢揃いしたのだった。
 これらの中で、とくに人気のあった若手のトップスター四人を〝ニスケニゾウ〟といった。錦之助、千代之介、橋蔵、雷蔵をさす。勝は二枚目をふっきるまで、この四人には差をつけられていた。また友右衛門や扇雀はこの四人の人気が定着する三十二年ころには舞台に復帰している。

東千代之介の殺陣
 東千代之介は東映が自前で世に送り出したチャンバラ・スター第一号である。『雪之丞変化』でデビュー、『笛吹童子』『里見八犬伝』『紅孔雀』等の一連の〝童子もの〟ブームであっという間にアイドルスターとなった。
 そして一時は〝錦・千代〟と並び称された人気者だったがだんだん凋落ちょうらくし、スター生命は十年と保たなかった。
 彼は日舞の師匠だったせいか、形ばかりを気にして立回りは最初から見劣りがした。つまり新人らしい熱っぽさや体当たりのガムシャラなところがなく、痛快さが乏しかったのだ。
「踊りをやっていたにしては腰がきまらない感じで、歩くときもヒョコヒョコ歩きでどうも颯爽としない。ヒーローとしては線が細かったといえよう。
 地味な個性で錦之助や橋蔵と比べるとやはり華やかさに欠けるが、端正な憂愁をおびたマスクからいっても、もっと性格的な演技派スター、たとえば月形竜之介のような役者をめざすとよかったのではなかろうか。
 主役としても、自分なりの路線をきめて、『新納鶴千代』とか『紅孔雀』の浮寐丸うきねまるのようなニヒルな役柄が千代之介には合うのだから、その「型」を造ってしまうべきだった。明朗な剣士やガラじゃない豪快な役はイメージを損ねた。
 時代劇では絶対の優良銘柄『鞍馬天狗』をやりながら決定打に出来なかったのは、立回りが下手だったからだ。最高の見せ場である近藤勇との対決で、「卑怯なようだが」とか何とかいって、短銃を向けて逃げたのには失笑した。これは千代之介のせいでなく演出がそうさせたのだろうが、月形竜之介の近藤と千代之介の天狗では格が違いすぎてはじめっから勝負にならないと見たためと推察する。これではヒーローじゃない。
 千代之介の立回りは、彼の真面目な人柄が、教えられたとおりやるだけで、アドリブ的要素とか、個性的な味つけを殺陣の上に表現し得なかったことがダメな要因だった。

中村錦之助の殺陣
 中村錦之助は野性みがあった。元気ジルシというか若さ、情熱が画面からビンビン伝わってきて気持ちがよかった。若手スターはこうでなくてはという見本のようなものだった。
 デビューしたてのころは、尻を突き出し、刀を前に伸ばし低く構える妙なフォームだった。おそらく「腰をすえる」というので自分ではそうしたつもりだったのだろう。だが『獅子丸一平』あたりからメキメキうまくなり、歌舞伎出らしい華麗さに加えてスピードのある立回りを見せるようになった。チャンバラから世話ものまでレパートリーが広く、貴公子然とした気品のある役も、庶民的な軽妙な役もこなし、いち早くお子さま相手の〝若衆スター〟から脱皮した。
 石松とか桶屋の鬼吉などのガムシャラな殴りつけるような立回りと、源氏九郎など剣士としての格調正しい太刀さばきといったような使い分けに苦心の跡が見られ、また、ニヒルな感じの主人公と普通のヒーローとでは立回りのニュアンスを変えるなど芸が細かい。
 その錦之助にしても、よく見せる八双の構えは、スタンスが狭すぎて下半身が不安定だったし、〝源氏九郎シリーズ〟で自分の家の家紋を型どった〝秘剣・揚羽の蝶〟という二刀を上にかざす構えを作ったが、腕を水平にして重い刀を二刀とも上にあげるのは無理なフォームで、型の美しさだけを意識した失敗である。
 彼は月形竜之介を尊敬していて、殺陣も月形流の内面的なものを目ざすようになったが、何よりも『宮本武蔵』を五年がかりで完成させたことは収穫で、武蔵とともに錦之助もスターとして成長し、立回りもまた磨きがかかった。一乗寺決闘の頬をこわばらせて吉岡一門を田んぼのあぜ道で小人数ずつ仕止めながら駆けた緊張感は、千恵蔵や三船よりもずっと手ごたえのあるものだった。
 錦之助はチャンバラについて「やはりとスピードですよね。それと足の運び方。ま、これを私は一番大事にしてるんですけどね。ムダ足を使わないってこと。で、一歩足が出るときには、もう二人か三人斬ってると。で、一つのこういう間ではなくてね。ポンポンポンと押していくところと、抑えるところと、もう、なにしろ間ですね。間と、足の運び、スピード、これしかないですね。そう、あるリズムみたいなものですよね。
 だから、私は、他人ひとが二人斬るときには、もう五人斬っていたいという感じなんです、自分ではね」(浦谷年良編著『ちゃんばらグラフィティ』より)と語っている。
 日本映画のピークは昭和三十三年、それはチャンバラの全盛期でもあった。それが年々斜陽化して行く。「時代劇は東映」とうたっていた東映も危機感を深める。そんな中で錦之助は四十年に組合を作って会社と対立、それが原因となって四十一年東映を去る。
 時代劇の退潮期だったが、これは錦之助にとっても東映にとっても大きな損失であった。すでに三十九年ころから任俠路線へ転換しつつあったとはいえ、大看板の錦之助を失わなかったならば、東映もああも無残に時代劇の灯を消すことはなかったのではなかろうか。
 錦之助はフリーとなってテレビ『真田幸村』に主演、また自主映画『祇園祭』を作ったり独立プロを興したりしたが、苦労したためか、東映時代の燃えるようなバイタリティ、奔放で闊達なパーソナリティが影をひそめ、スケールが小さくなった。
『風林火山』『待ち伏せ』等、三船敏郎、石原裕次郎、勝新太郎ら独立プロの〝盟主〟たちとの共演でもなんとなく見劣りするのがいたましかった。
 萬屋錦之介と改名して舞台公演をやる一方、ブラウン管でも『破れ傘刀舟』とか『子連れ狼』等で活躍。とくに『子連れ狼』は高視聴率を上げた。
 しかし錦之介の拝一刀には不満が残った。東映時代の錦之助は白塗りでもスーパーマン的頼もしさがあったがテレビではそういう頼もしさや『宮本武蔵』のたくましさがない。刀の林、槍ぶすまの中に一子大五郎を乗せた乳母車とともに平然と入り、屍山血河を築く強靭な肉体と精神の持ち主には見えないのだ。
 しかも錦之介の拝一刀は剛刀胴太貫どうたぬきの差し方からして安定を欠き、抜刀に不便そうだし、柄の握り方も両手をくっつけて柄の端が余る形だ。もちろん意味はあるのだろうが、力学的にこれはおかしい。
 ただ立回りがはじまると、さすが錦之介、胸のすくような爽快さで、テレビタレントなどが束になってもとうてい及ばないと感じさせた。
 五十三年『柳生一族の陰謀』で錦之介は十二年ぶりに東映に出演した。これは東映としても十年ぶりの本格時代劇だったが、錦之介の堂々とした貫禄ある演技は断然他を圧し、時代劇復興の旗手は彼でなければという存在をアピールしたのだった。
 この後『赤穂城断絶』『真田幸村の謀略』と続くが、もはや時代劇映画が往年の勢いをとり戻すことは夢であることがわかった。
 錦之助は中村プロ倒産の上、奇病に倒れ、さらに離婚と相次ぐダメージで再起不能かとさえ見られたが、よく立ち直って舞台に活躍している。ブラウン管にも登場するが『柳生武芸帳』の山田浮月斉のような役ではもったいない。まだ老けこむ年齢ではないのだから、正統派時代劇スターとして、ベテランらしい太刀さばきを見せてほしい。

大川橋蔵の殺陣
 人気という点では大川橋蔵がダントツだった。油ツボから抜け出たみたいな、トロリとするようないい男である。しかも単なる二枚目でなく彼が出てきただけでパーッと舞台が明るくなる華やかさがあった。たちまち女性のファンを魅了したのも当然だった。
 橋蔵の立回りはだから、あくまで線の美しさを生かした舞うような趣きがあり、錦之助が性格的なものを出そうとしているのとは対照的だった。
 はじめのころは型にとらわれすぎて、優美なかわりにナヨナヨと女性的な感じで、これは彼が女形だったせいだが、刀を抜く動作一つにしてもキレイに見せようとするからテンポが緩くなる。また、刀を構えたときや殺陣のきまったときなどにチラと流し目をくれたりするのも舞台的なもので、立回りのが合わなくなる。かつての林長二郎流で、美剣士橋蔵らしいといえばいえるかもしれない。
 しかし、踊りで鍛えたカンもよく、体が非常に柔軟なので、動きがリズミカルで〝流れるように〟という形容がピッタリするくらい身のこなしはよかった。
 チャンバラ・トリオの山根伸介は『私を斬った10人』の中で、
《橋蔵旦那の殺陣の特色は、菊五郎劇団でトンボを切る習練(ママ)を重ねたこともあってよく腰がはいっている。これに踊りの下地がつけ加えられ、手数の多い立回りなど、うまいの一語につきるのだ。》
 といっている。
 だが、大勢を斬るときなど、体がクネクネ動いていま一つ腰がきまらない感じがあり、力強さ、たくましさが剣に出てこない。十八番の〝若さま侍シリーズ〟がそうだった。
 山根は同書で、
《華麗で、テンポがよく、あえて言えば、艶や伸びがあるのである。これは〝橋蔵剣法〟独特の魅力と言える。
 バサッ、と人を斬っておいて、ニコッと流し目で笑う芸当バサッ、ニコッのきまりは橋蔵旦那でなくてはかなわない芸。》
 ともほめている。
 橋蔵は嵐寛寿郎の殺陣が好きだったというが、その伸びがあるといわれるのは寛寿郎の立回りを研究したせいだろう。橋蔵の立回りについての考えはこうだ。
「映画の場合、リアリズムが基本ですから、斬るというときには、ほんとうに斬るという精神でいかなきゃいけない。ただ、これには、娯楽ですから、いろいろな方法があると思うんですよ。ほんとうに剣道的にやるのと、それと形容の美でやるのと、いろいろ、その俳優さん俳優さんによってあると思いますけどね。
 私の場合は、形容美というものを考えてやるようにしてますね。ですから、斬った形とかムードといったものを、リアリティの中にね、重要視してやってます」(『ちゃんばらグラフィティ』より)
 橋蔵は〝葵新吾シリーズ〟によって、その立回りが目に見えて上達した。新吾の厳しい剣の修行はそのまま橋蔵の成長にも当てはまった。これは錦之助が『宮本武蔵』でいちじるしく伸びたのと軌を一にしている。
 橋蔵も美剣士だけにあきたらず、野心的に黒ぬりで『炎の城』などにぶつかったが、ファンはあくまで〝美男〟橋蔵にしか関心がなく、完全に失敗に終わった。
 このように〝万年二枚目〟から脱皮できないまま、東映の任俠路線転換でテレビに活路を求め、『銭形平次』は十八年間という長寿番組を記録した。これは橋蔵の粋でいなせな面とフィットしたからでもあろう。
 長谷川一夫が映画でシリーズにしていただけに、同系の二枚目としてかえってやりづらかったのをしっかり自分のものにしたのは立派。しかし八百八十八回をもって、フジテレビの視聴率競争にあおられて降板すると、まるで『銭形平次』の終焉が原因かのように、五十九年十二月七日世を去った。

市川雷蔵の殺陣
 市川雷蔵は『花の白虎隊』で花柳武始、勝新太郎らと一緒にデビュー、はじめは線が細いといわれたが、その気品のある清潔な貴公子タイプでだんだん人気を得てきた。
 歌舞伎の出だけに、立回りのテンポが遅く間延びしていたが、じょじょにそれを克服し、格調ある立回りを見せるようになった。
 スピードの点でもの足りない面があるし、硬さも残っていたが、メリハリがきいていた。なかなか理論家で、内面的、性格的なものから立回りを構成しようとする。
 彼の繊細で鋭敏な、触れればピリリとくるような感性は、豪快さには遠いが緻密に計算された合理的なリアルな殺陣を生むにふさわしかった。
 雷蔵ほど悲壮美を表現できるスターはいなかった。『薄桜記』の丹下典膳、『剣鬼』の斑平、『斬る』の高倉信吾、そして浅野内匠頭、彼は主演スターのタブーである〝死なないこと〟を破って、あえて死んだ。雷蔵の薄命を思い合わせると、彼自身なんらか予知していたかのようである。
 雷蔵は四十四年七月十七日、三十七歳の若さで逝った。時代劇製作から手を引いた形の東映のお株を奪って、大映が時代劇で大いに気を吐いているとき、主力である雷蔵の夭折は大打撃だった。大映もまた四十六年十二月には倒産する。
 その死後も人気は衰えず、とくにここ数年は雷蔵ブームといっていいような現象がつづいている。それはハリウッドのジェームズ・ディーンに共通する。
 時代劇が皆無にひとしいことからくるノスタルジー、TV時代劇にあきたらない人たちの雷蔵作品の〝発見〟もあるだろう。
 しかし、何よりも市川雷蔵という気品にあふれた陰影の濃いスターを超える存在が現れない、そのことが決定的なのだ。
 当たり役の眠狂四郎にしても、鶴田浩二、松方弘樹、TVでは江見俊太郎、平幹二朗、田村正和、片岡孝夫、舞台で林与一らが演じているが、いずれも雷蔵に遠く及ばない。雷蔵の狂四郎か狂四郎の雷蔵かというほどなり切っていた。あの暗さと色気は雷蔵にしか表現できなかった。
 虚無の剣士はチャンバラ・ヒーローの一つの代表的なパターンだが、多くの場合、表情だけがニヒルっぽい。知的なもの、思想に裏打ちされ、それが内面からにじみ出てくるようでなければ真の虚無とはいえない。雷蔵はそれができた。机龍之助や『ひとり狼』の人斬り伊三蔵といったニヒルで孤高なヒーローが雷蔵のもつ個性とかムードにピタリと合うのもそのせいだ。
 眠狂四郎のふるう非情の剣は〝円月殺法〟である。下段に構えた剣をじょじょに大きく左から円月を描き、《完全な円を描き終るまで、能くふみこたえた敵はいまだ曾て、なかったのである。》というものだ。敵の闘魂を奪い、一瞬の眠りに陥らせて一刀で斬り下げるのだが、この殺陣を映像に表現するのはきわめてむずかしい。
 作者の柴田錬三郎はボクシングの練習にヒントを得て編み出したというが、ユニークなかわり、観客が納得するように具体的に見せるのには苦労がいる。
 最初に映画でやった鶴田浩二は、小手先で器用に刀を回しただけで、妖剣魔剣の殺気は出なかった。
 テレビの平幹二朗のときは、殺陣師の湯浅謙太郎氏が下段だとどうしてもサマにならないので、結局刀を肩のところで立てたといっている。
 雷蔵の場合は、ストロボ撮影で刀の動きをとらえるという工夫をし、刀が十本、二十本にも見えるのだが、なんとなくめくらましのようだった。
 そして抜き討ちで女の着物や帯をパラリと斬ったり、女陰スレスレに刀を突きたてたり、あるいは円月殺法対円月殺法といった趣向をこらしたが、ショー的要素が濃厚となり、活字の上の妖気と凄絶さには及ばなかった。
 しかし、狂四郎の暗い業を負った生い立ちと、出生に複雑な事情があるとされる雷蔵をオーバーラップさせると、宿命的な当たり役ともいえる。
 雷蔵は脚が細いので、股旅ものの後ろ姿などちょっと頼りない。それで『次男坊鴉』のときなど、宮川一夫カメラマンが「できるだけ上半身を中心にカメラをすえた」などということさえあったが、そのかわり浪人の着流し姿の美しさは抜群で、眠狂四郎が誰よりも適役という大きな理由でもある。
 惜しみてもあまりある雷蔵の死だった。

 チャンバラ・ブームがピークに達した三十二年から三年の時代劇スターの分布図をあげておく(バイプレーヤーに往年の主演スターが多い)。
▽東映片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形竜之介、大友柳太朗、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵、伏見扇太郎、里見浩太郎、沢村精四郎、尾上鯉之助、南郷京之助、山城新伍、北大路欣也。
大河内伝次郎、進藤英太郎、山形勲、薄田研二、原健策(健作)、加賀邦男、徳大寺伸、阿部九州男、吉田義夫、清川荘司、岡譲司、宇佐美淳、沢田清、河部五郎、堀正夫、百々木直(市川百々之助)、明石潮、団徳麿、小柴幹治、立松晃、青柳竜太郎、杉狂児、岸井明、星十郎、山口勇、上代悠司、小金井勝、高松錦之助、村田宏二、富田仲次郎、梅沢昇、尾上華丈、仁礼功太郎、中村時之介、片岡栄二郎、三条雅也、石井一雄(東宮秀樹)、楠本健二、五味勝之介。

▽大映――長谷川一夫、市川雷蔵、勝新太郎、黒川弥太郎、梅若正二、鶴見丈二、島田竜三、林成年、夏目俊二、和泉千太郎、桃山太郎。
中村鷹治郎、荒木忍、杉山昌三九、羅門光三郎、水原浩一、嵐三右衛門、光岡竜三郎、尾上栄五郎、南条新太郎、香川良介、南部彰三、葛木香一、原聖四郎、東良之助、寺島雄作、玉置一恵、藤川準、千葉登四男、伊達三郎、舟木洋一、市川謹也、浅尾奥山、横山文彦、春本富士夫、大崎史郎、藤間大輔。

▽松竹――高田浩吉、伴淳三郎、大谷友右衛門、大木実、近衛十四郎、北上弥太郎、中村賀津雄、名和宏、森美樹、田村高広、市川団子(猿之助)、松本錦四郎、花ノ本寿、林与一、大谷ひと江、大谷正弥、中山大介、川田浩三、小笠原省吾。
伊藤雄之助、市川小太夫、石黒達也、沢村国太郎、戸上城太郎、海江田譲二、寺島貢、山路義人、市川男女之助、尾上菊太郎、永田光男、藤間林太郎、須賀不二男、南光明、天野刃一、富本民平、北竜二、大邦一公、大友富右衛門、野沢英一、中田耕二、諸角啓二郎、青山宏、高野真二、天王寺虎之助、乃木年雄。

▽新東宝――嵐寛寿郎、若山富三郎、天城竜太郎、明智十三郎、中村竜三郎、坂東好太郎、和田孝、田崎潤、中山昭二。
高田稔、江川宇礼雄、細川俊夫、中村彰、鳥羽陽之助、芝田新、横山運平、沢井三郎、広瀬恒美、竜崎一郎、本郷秀雄、若月輝夫、江見俊太郎、浅野進治郎、若柳敏三郎、丹波哲郎、天知茂、沼田曜一、御木本伸介、舟橋元、杉山弘太郎、伊達正三郎、林寛、岬洋二。

▽東宝――三船敏郎、鶴田浩二、中村扇雀、小堀明男、志村喬。
河津清三郎、加東大介、藤田進、藤原釜足、上田吉二郎、高堂国典、岩井半四郎、田中春男、沢村宗之助、小杉義男、佐伯秀男、尾上九朗右衛門、吉頂寺晃、松尾文人。

▽日活――坂東鶴之助、長門裕之、津川雅彦、水島道太郎。
植村謙二郎、小林重四郎、瀬川路三郎、河野秋武、沢村昌之助、永井柳太郎、片桐常雄、伊丹慶治、冬木京三。
殺陣に革命をもたらした『椿三十郎』
 三十七年東宝の『椿三十郎』は殺陣に革命をもたらした。それは歌舞伎の引き写しだった旧劇の殺陣が新国劇によって打破されたときの衝撃に等しかった。
 この作品は四億五千万円もの興行収入をあげる大ヒットとなったが、もっとも話題をさらったのは、三船敏郎と仲代達矢のラストの対決である。シナリオでは《これからの二人の決闘はとても筆では書けない。長い恐ろしい間があって勝負はギラッと刀が一ぺん光っただけできまる》と書いてあるだけだ。
 このとき、三船〝三十郎〟は、左手で刀を内側にしぼるようにして抜き、右足を踏み出しながら、刀を右腕にのせて仲代を斬り上げた。血が噴水のように流れて即死する凄絶な殺陣に、観客は興奮の極み、場内がシーンとしてしまったほど。どう刀を抜き、どこを斬ったのか、一回見ただけではわからなかった。
 黒沢明監督はこう述べている。
「例の決闘の、血を噴き出す演出。あんなに出るとは思わなかったなあ、最後にどうしても、二人決闘しなければならない。よし、今回は居合いでやろう、と、殺陣の人もずいぶん苦労したけれども、三船君なかなか気に入らないで、結局は自分で考えたんですよ。向かい合う前に、刀をスーッと刃を上にしてしまう。向こうがパッと刀に手をかけたとき、そのままサッと抜いて、げんこつで、胸をぐっとえぐっちゃうんです。これが一挙動なんだ。これこそよく考えたものだね。近いとこまでは殺陣師の人も考えてたけど〈これじゃ斬られちゃう、斬られちゃう〉と三船君、さかんにがんばったんだ。抜くと同時に斬らなきゃダメだ、と。そういう点、『用心棒』以来、殺陣の魅力が一躍注目されたうらには、三船ちゃんの意見がずいぶん入っているんだよ。むろん、演出のぼくもいろいろ言いはするけど。
 クライマックスのあの決闘は、酸素ボンベを使ったんです、地面にボンベをおいて、パイプで仲代君につなげておいて、タイミング合わせて押すわけですよ。サッと、抜いて瞬間の斬りあいになるのと、このボンベが一致しなければならないから、たいへんな緊張だった。だいいち、バーンと噴出したのには仲代君自身がびっくりしたらしいね。
 撮影の手伝いをしていた人など、まっ青になっちゃった。ロケを見に来た御殿場の人たちなんか、ほんとうに三船が仲代を斬っちゃったと思ったらしい。実際、太陽光線のもとで見たら、すさまじい噴射なんだ。加山たち、九人の若侍まで仰天した。
 まァ、この血を噴出させるというアイディア自体は、もう手も尽きた感じだったでしょう、幾らも斬っているしねえ。スカッと一回だけで終る決闘を撮りたかった、ということですよ」(『別冊キネマ旬報』「黒沢明とその世界」)
『椿三十郎』は白黒作品だったが、それでもこの〝血の演出〟はすさまじい効果を出した。これ以後、バシッというリアルな擬音と、大量の血を流すことが流行となり、残酷時代劇というものが生まれる。

先駆としての『用心棒』と望遠レンズ
 その前年、三十六年に作った『用心棒』もダイナミックな迫真力ある殺陣で度胆を抜いた。『椿三十郎』はこの『用心棒』という下敷きがあったのでいっそうパワーが倍加したともいえる。つまり〝時代劇は東映〟のキャッチ・フレーズのままマンネリ化していた東映などにとって、黒沢―三船コンビの作品における殺陣が、決してフロックで生まれたものでないことをまざまざと認識せしめたからだ。
『用心棒』では二組のやくざが対立する宿場に流れてきた浪人・桑畑三十郎が、両方をあやつり噛み合わせて全滅させるが、まず〝逆抜き不意討ち斬り〟でならず者の腕をぶった斬ってショックを与えた。犬が斬られた人間の手首をくわえて走ってくる残酷なシーンは日本映画でははじめてのものだろう。さらに一応用心棒になった側のやくざ者十数人を、「たった一回では相手が死ぬわけがない」というので二回ずつぶった斬って見せた。こういう発想がリアルな殺陣となって結実したわけだ。
 このときもラストはピストルの名手仲代達矢との対決だが、三船はあらかじめ懐に包丁を入れてそれを投げ、相手がひるんだところを抜き打ちに倒す。矢でも鉄砲でも持ってこい式のスーパーマンが従来の時代劇には多かったけれども、そういうご都合主義はもう通用しなくなってきた。それだけに〝三船三十郎〟ほどの腕ききでも、包丁を投げて練習する伏線をちゃんと用意した心憎い演出が生きてくるのだ。
 とくに黒沢監督はこのとき望遠レンズを多用したため、独特の迫力ある殺陣が生まれた。映画にしろテレビにしろ、望遠を使った立回りシーンによくお目にかかるが、元祖は『用心棒』といっていいだろう。
 黒沢監督は、
「このときは、黒沢の望遠、なんて評判になったけど、望遠レンズで撮ると、動きがすごく早く写るんです。たとえば立回りにしても、このときの三船君は、からだもすごかったし、十人斬るのに、大体十秒ですよね。編集で一コマ見るでしょう。すると何も映ってないコマがあるんですよ。あれっ、これはえらいことだと思って映写してみると、ちゃんと見えるんです。そのくらい動きが早い。それだけに、彼、ワン・カット立回りが終ると、ゼーゼーあえいでね。斬るときは全然呼吸してないんだって。息を詰めたまま、バァーと斬りまくっちゃう。「カット」というと、ハァッハァハァッとすごい声なんだ。だいじょうぶかなと思うくらい。
 いままでのチャンバラを見てると、斬られるのを待ってる、みたいにノンキでしょう。とにかくいっぺん本式の立ち回りをやってみようじゃないか、というのが、このときですよね。初めてバシッと音を入れたの。十二人斬り殺すシーンがある。あすこなんか、一人でも虫の息が残るやつがいたら、全部バレちゃうわけだ。だから一ペン斬っておいた人間をもう一ぺん、返す刀で、のどをサッと斬るんです。あの三船君の速さといったら、相手になる面々もうまいんだけど。しかし、白黒だからよかった。カラーだったら見ていられないよね。あの町全体、血だらけだ。
 しかも、この立ち回りを望遠で撮ると、なお早く見えるわけです。クローズアップなんかでも二百五十とか五百の望遠で撮ると、表情が、三十五ミリなんかと違って、ものすごくはっきりわかります。まあ、この作が、できあがったときの気持ちとしても、おもしろかった、と言えますね」といっている。

ショックを受けた東映時代劇
 この『用心棒』と『椿三十郎』が当時どんな影響を及ぼしたか。もっともショックを受けた東映では、監督の中には「もう時代劇を作るのがいやになった」といい出すものもいたが、加藤泰監督は次のような意見を述べていた。
「ペチャンコにやられました。やはりラストの殺陣がすばらしい。それとキャスト、セット、衣装、小道具など、この作品に集中された感じ。建て物は日本家屋の美しさを再認識させてくれたし、カツラもマゲからモミアゲまで人物に即してリアルに作られている。多くの時代劇が事件を設定、その葛藤だけで組み立てられているのに反し『椿三十郎』はあくまで人物同士の葛藤、からみ合いでドラマが組み立てられている。殺陣は、スタイル、ポーズよりも合理性をねらっている。この合理性を煮つめ、一種の美しさに達しているのはなんといっても演出の力です」
 また、ある中堅監督は、
「普通に撮れば四十五日ぐらいはかかるものを二十日から二十五日ぐらいであげてきたんだから、手を抜いていたということでしょうね。そして作品の内容がマンネリ化してきた。そこへ『用心棒』ですっかりやられました。チャンチャン、バラバラの剣の舞いはテレビで見ればいいので、もはや舞踊的立回りの時代ではなくなったんですよ。正直いって、それが興行成績に現れてきた。だから、いま、われわれは一大反省期を迎えているわけです」
 と率直に語っていた。
『用心棒』は三十六年のゴールデン・ウィークに封切られ、三億三千万円の興行収入をあげたが、東映は橋蔵の『月形半平太』とひばりの『緋ざくら小天狗』、後半は大友の『丹下左膳』と松方弘樹の『霧丸霧がくれ』を出して完敗。
 また『椿三十郎』は三十七年正月作品で四億五千万円を稼いだ。そのときの東映は錦之助の『東海道のつむじ風』と『ひばり・チエミの弥次喜多』で二億円と健闘したが及ばなかった。
 どちらの場合も、橋蔵、錦之助プラスひばりという最強力の布陣でのぞみながら一敗地にまみれただけに東映時代劇の受けたショックは大きかったのである。
 時代劇の流れも当然のように大きく変えられるが、ただ、黒沢監督が、
「これ以後、こういう種類のチャンバラ映画がたくさん出てきてるけれども、幾ら趣向こらして人をたたき斬ったからって、それでおもしろいわけじゃない。三十郎という男がおもしろい、という点が肝腎かんじんなんですよ」
 といっているのは傾聴に価しよう。

黒沢流立回りにおける久世竜の役割
 腕が飛び、首がすっ飛び、血ノリがあふれる黒沢亜流のドギツい残酷チャンバラが氾濫したことについて、黒沢監督は自分にも責任の一端があると、四十年にヒューマニズムに満ちた『赤ひげ』を製作することになるのだが、黒沢監督のこのような〝反省〟とはかかわりなく、殺陣と、そして時代劇のあり方は変革された。
 ここで問題なのは、黒沢監督が『用心棒』で、「とにかくいっぺん本式の立回りをやってみようじゃないか」といっていたこと、また『椿三十郎』では「あの殺陣が決まったから『椿三十郎』が生まれたのだ」といったことである。
 では黒沢監督の〝本式の立回り〟とは何か。逆説的にいえば、これまでの立回りは本式でなかったということだ。事実、黒沢時代劇におけるリアリティある新しい殺陣は、〝殺陣は舞踊のように美しきもの〟を本領とした東映・大映などの京都派を粉砕したのだが、その陰の力となった殺陣師・久世竜氏の存在は大きい。
 久世氏は昭和二年日活京都に入り、カラミ役をやっていたが、七年に月形龍之介の殺陣師となった。だからもともとは京都派なわけだ。しかし、京都派の〝美しき殺陣〟に反発を感じて途中でやめ、戦後の二十七年東宝に移ってから本当の一本立ちになった。その時は四十を越していたから下積みはずいぶん長かった。久世氏の、従来主流であった京都派に対してひと泡吹かせてやろうという意地と、黒沢監督の狙いがピッタリ合致したことも注目していいところだ。
 久世氏は三十三年に黒沢・三船コンビの『隠し砦の三悪人』で、三船と藤田進が山頂で槍を交える殺陣をつけたが、それが好評を得たのが自信となって、やる気が出たといっている。
「黒沢監督は合理的リアリズムというのでしょうか。実感のないウソは絶対許さない人で〝それじゃ死なないよ〟と何度もダメを出されました」
 この久世氏の言葉からも、いかに黒沢監督が〝本式の立回り〟をめざしていたかがうかがわれる。
 騒然たる話題を生んだ〝三十郎剣法〟は、久世氏が若い時分、九州で西南戦争生き残りの野瀬庄五郎という老武術家から教えを受けた居合術を応用したものだそうだ。それは孤刀影裡ことえり流と称して実戦から編み出した日本武道の型にはまらない特異なもの。
 久世氏は『椿三十郎』の殺陣が成功した秘訣を、
「三船さんのからみに、殺陣になれた人を使わず、若くて運動神経の発達した人ばかり集めたことじゃないでしょうか。立回りはしろうとだが、それだけに思い切って体を動かし、三船さんに切りかかったり、逃げようとした。みな二太刀目でとどめにノドを切られているわけですから、神経のにぶい人はあぶないしね。リアルになったのはそのためでしょう」
 と分析している。やはり、あの革命的な殺陣が生まれるには、演出、演技、殺陣と三者三様の苦心があったのである。

久世竜の殺陣と黒沢・稲垣の違い
 久世氏は、
「舞踊は芸術、剣道は武術に属するもので、しょせん殺陣とは別もの。芸術や武術に近づこうとするから、かえって殺陣がリアルでなくなるわけで、わたしは内容的には相反するものと考えました。最も理想とする殺陣は役者の動きにむだと無理がないことですね」
 という考え方。スピードと豪快さが特徴だから三十九年の『侍』など、「スポーツのように激しい動きを――」という岡本喜八監督の注文を、ラグビーを見ながら考えている最中、猛烈なタックルを利用することを思いつき、桜田門外の変の立回りでは〝ラグビー剣法〟を編み出したりしている。これも武道にとらわれないところから生まれる発想で、例の孤刀影裡流をもとに、新しいものを作った。
 たとえば〝風車つばめ目返し〟といって鍔ぜり合いになった瞬間、相手の刀の柄に自分の刀の柄を風車が回るように巻きこみ、力いっぱい引き寄せて胴から胸、首を斬り上げる一種のトリック・プレー。相手の手首に柄の先を引っかけるのがコツだ。
 相手の斬り込んでくる力を逆に利用して、体を三六〇度回転させ、霞のように受け流しながら一瞬のうちに前後の敵を斬る〝逆転霞斬り〟、また〝諸手忍び返し〟という変化自在の回転レシーブ剣法、相手の態勢をくずすために、その足もとへ素早く剣を流す〝浅瀬を渡る川風斬り〟などの〝秘剣〟を披露している。しかし、これらの〝秘剣〟も、
「いいかげんなものはダメなので、ちゃんとした基本のもとに、その型をいかにくずすかに苦労しました」
 と語っているとおり、スポーツを応用した新しい型などは、その辺のところがもっともむずかしい。
 しかも監督なりスターなりによって注文も違えば、受けとめ方も異なる。久世氏は、
「黒沢明、稲垣浩の両監督の下では時間と金をかけて仕事ができたから、久世流が誕生したのでしょう」
 といっていたが、黒沢監督の合理的リアリズムに対して、「稲垣監督は主人公の感情を大切にする方で、そのためには殺陣のウソを許してくれました。だから稲垣作品では殺陣に感情を移入するよう努力しました」と、その違いを語っている。
 〝久世流〟の特徴はスピードと豪快さのほかに、追い打ちをかけない、逃げる敵は斬らないということがある。そして、黒沢監督と組んで〝三十郎剣法〟により、殺陣に革命をもたらしたけれども、黒沢監督同様、首がすっ飛んだり、手足が空に舞ったり、ドクドクと血が流れるような殺陣には批判的だ。
「メッタヤタラと人を斬るんじゃなく、どうしても斬らねばならなかった男の人間的な苦悩を表現して、あとにしみじみ残るような殺陣をやりたい」
 というのが念願。「殺陣に人生を盛りこんだ映画」ともいっている。
 久世氏のもとで殺陣専門に活躍したのが「七曜会」というグループで、殺陣には剣、槍、小太刀、薙刀なぎなた、棒、縄、素手の七つを使うことから命名、時代劇ばかりでなく現代劇のアクションもやれる強みがあった。
 しかし、久世氏の殺陣も、黒沢明という巨匠の、リアルな時代劇を作るという熱意と、三船敏郎というスターとの組み合わせがなければ、開花しなかったかもしれない。
 〝打倒京都派〟の執念が新しく〝久世流〟を生む原動力であったことは想像に難くないが、やはり黒沢・三船の強力コンビであったからこそ、思う存分のこともやれたし、ことごとに話題ともなった。ともあれ、年間数本しか時代劇を製作しない東宝から、新しい殺陣が生まれた――あるいは、あまり時代劇を作らない東宝だから、古い殻を踏襲する必要がなかったともいえるが――ことは特筆すべきだろう。

三船――戦後派スターに失われた魅力
 戦後が生んだ最大のスターといわれる三船敏郎は、復員してすぐの二十二年に東宝入社。『銀嶺の果て』でデビューして『酔いどれ天使』等のギャング・スターで売ったが、二十五年の『羅生門』以来、時代劇でも活躍、その後わが国を代表する〝国際スター〟にノシ上がった。
 離婚騒ぎなどでだいぶミソをつけたが、当代このくらい男くささを発揮するスターはなく、線の太い、スケールの大きい豪快無比なパーソナリティは、戦前・戦後を通じてナンバーワンといっていい。
 戦後、日本人は実に貧相になった。体位は向上した。だがモヤシみたいにヒョロッとした体に目鼻立ちチンマリとまとまった小さな顔がのっかっている。器用だが小ずるそうで、てまえ勝手なことしか考えないようなもの欲しそうな顔ばかりである。
 もちろん、スターの顔だって例外じゃない。明治生まれの戦前派の連中の、なんと堂々とした面構えであることか。肩で風切ってノッシノッシ歩く三船には、戦後派には失われた男としての魅力を見出すことができた。
 彼の立回りはぶこつで流動美とか線の美しさなんてものはない。バーバリズムそのものだ。しかし、テクニックの巧拙を無視させる強さが感じられる。まるで百獣の王ライオンが咆哮ほうこうするようなすさまじいエネルギーが発散する。
 〝三船の眼技〟といわれるくらい、目をカッとむいた演技は圧巻で、鼻息荒く立回りを展開する。それは粗野で荒々しく、決して洗練されたものとはいえない。だが、この型破りのほうが迫真力があるのだ。

三船剣法の〝ムラ〟の秘密
 久世竜氏は三船の殺陣について
「あの人は相手のカラミ役が動作をはずしたりすると、初めのコンテになくとも、さらに一歩突っ込んで、一度倒した相手をもう一度足げにすることぐらい、とっさにやってのける役者です。わたしはストップウォッチを使って、乱闘を計算しているけど、彼ほど狂いの少ない人はおりませんね」
 とほめあげている。
 先の黒沢監督の言葉と思い合わせると、三船は外見に似ず器用な役者だということがわかるが、ちょっと意外な気もする。
 黒沢・三船コンビは世界の映画界を見渡しても比肩ひけんするものがないほどの強力なもので、黒沢は三船というすぐれた素材を得て数々の名作を放ったし、三船は黒沢によって資質を十二分に活かされ、大スターに成長した。よく「三船は黒沢作品以外はさっぱりだ」という声を聞くが、その当否はおくとして、立回りだけをとり上げると、『用心棒』『椿三十郎』のような見事な殺陣をコンスタントに見られないことと関係があるのではないか。
 たとえば『国定忠治』など、斬る前に、いかにも斬るぞっといわんばかりに、肩を怒らせてリキむ。刀の使い方にも無駄がある。要するに力を入れたり抜いたりするポイントをつかんでいないからだろう。
 三船は『宮本武蔵』を二十九年から三十一年にかけて三部作で撮っているが、いかにも荒けずりな武蔵で、強いことは強いが一本調子で、武蔵の内面的成長を剣の上に表現し得なかった。はっきりいえば未熟だった。
 このことは『柳生武芸帳』で三船の霞の多三郎と戸上城太郎の柳生十兵衛が対決するシーンで、戸上が三船を圧倒していたことからも証明できる。
 つまり、チャンバラ・スターとしての三船は〝出来て〟いなかったわけで、『七人の侍』の菊千代のような、剣法も知らず無茶苦茶に暴れまくるのなどがガラに合っていた。三船の場合はやはり『用心棒』ではじめて立回りの真価を見せたといえよう。

先駆としての『決闘鍵屋の辻』
 二十九年の『七人の侍』は、ハリウッドが『荒野の七人』という西部劇を模倣して作ったほどの傑作で、『用心棒』『椿三十郎』のリアルな殺陣はここに根ざしている。そしてさらに源流をたずねれば、二十七年の『決闘鍵屋の辻』にさかのぼる。
 これはご存じ荒木又右衛門の三十六人斬りが、実は二人しか斬っていなかったという説に基づいて描いた作品で、三船の又右衛門もあまり見せ場はないし、渡辺数馬と河合又五郎は子供の喧嘩みたいな斬り合いをえんえんとつづけ、若党は腰が抜けて動けなくなるなど、なんともしまらない立回りで、リアリズムというのは面白くないものだという印象を強くさせられた。しかし戦後、時代劇がようやく復興し、戦前に劣らぬ黄金期を迎えようというとき、従来の立回りを否定してリアルな立回りをやったその試みは評価していい。この作品、黒沢はシナリオのみで、監督は森一生が当たった。だが黒沢監督はこのときすでに、新しい殺陣の創造を志向していたものと思われる。
 そのことは、
「僕は時代劇の本を『戦国無頼』『決闘鍵屋の辻』と書いているけど、いつかは時代劇をプロデュースしたいなと思うな。今の時代劇で一番いけないのはあの〝形式〟です。あれはみな歴史的な事実を無視したカブキからの型なんだ。動作も服装も小道具も、カツラの形までみんなコシラエものなんだ。あれは一度、正確なものを考え直すことが必要だね」
 と語っていることからも十分首肯しゅこうできる。
『七人の侍』は、まず宮口精二の演じる剣客が試合をいどまれ、木剣でやったら相討ちのように見えた。だが宮口は拙者の勝ちだという。怒った相手がしからば真剣でやろうといって、木剣のときと全く同じ形でお互いが刀をふり下ろすのだが、やがてゆっくりと挑戦した浪人が倒れる。いわゆるチャンバラの派手さはなく、ただ一太刀できまる。それがいかにもリアルで凄絶だった。
 また、志村喬が、赤ん坊を人質にして小屋にとじこもっている泥棒に対して、とっさの機転で頭を丸めて坊主に扮装し、ニギリ飯を持って小屋に近づき、泥棒を安心させ、一気に飛びこんで斬りすてる。斬る場面はなくて、泥棒が小屋からよろけて出てきて倒れる。この斬るところがなくて、観客を一瞬ハッとさせる演出の呼吸の見事さといったらなかった。
 この二つのエピソードは、どちらも剣道史話のようなものに出てくるものだが、それを生かした狙いはマトを外れていなかった。
 これに加えて三船のガムシャラな乱闘、千秋実とか稲葉義男ら、全く時代劇の役者の匂いを感じさせない連中の立回りがかえってリアリティを感じさせた。

『七人の侍』の画期的集団シーン
 七人の侍が百姓を指揮して数十の野盗を殲滅せんめつする戦闘シーンは、これまでのスペクタクル時代劇とは異なり、単なるモッブ・シーンでなく、具体的な戦術が描かれていた。それは非常に緻密で、たとえば野盗を柵の中に入れて分断したり、数騎だけ誘いこんで多勢の百姓が竹槍で攻めたり、そうした戦法が克明に描写されているため、ナマナマしく、激烈な死闘となった。
 この手法は画期的といってよく、後年、東映の『十三人の刺客』『大殺陣』『血と砂の決斗』や大映の『座頭市物語』等の集団闘争シーンは、みなこの手法を受けついでいる。
 三船は〝黒沢時代劇〟で並居る剣戟スターを蹴散らしたが、その後『上意討ち』『侍』『新選組』『座頭市と用心棒』『待伏せ』などを見て、何か食い足りない。あまりにも『用心棒』と『椿三十郎』の殺陣がすばらしかったせいだろうか。
 このときの〝三十郎〟そっくりのキャラクターでもどうも面白くないのだ。ことにテレビの『荒野の素浪人』では〝三十郎〟の三倍強いということで峠〝九十郎〟などという名前で登場するが、顔は猿みたいだし、スピードはないし、〝三十郎〟のあの強さと魅力を期待しては幻滅するのみだった。
 久世竜氏が〝八方達磨だるま返し〟と称する、前を斬った太刀を瞬時に左手にもちかえて後をぎ、同時に右手で小刀を抜いて前を斬るといった多殺剣法を三船にやらせたが、もはや時代劇に革命をもたらした〝三十郎剣法〟に接することはできなかった。
勝新の語る〝座頭市剣法〟
 三船の〝三十郎剣法〟に次いでは、勝新太郎の座頭市が、盲目のやくざという人物設定の面白さと逆手剣法で話題を呼び、殺陣に一エポックを画した。
 三十七年初作の『座頭市物語』以来、最新作の『座頭市』まで二十六本。個人のシリーズでは嵐寛の鞍馬天狗、右太衛門の旗本退屈男に次ぐものだ。このシリーズの呼びものはなんといっても、勝の逆手居合斬り。
 仕込み杖から抜くスピードがすばらしく速く、多勢の相手を一瞬のうちに倒してしまう。三十郎的豪快さでもなく、東映流の舞うような殺陣とも違う独創的な立回りは、爽快で見る者の溜飲を下げさせる。
 その立回りの神髄を、「これが座頭市剣法だ」(『日刊スポーツ』三十九年十二月)で勝自身が語っている。
「夏の晩だった。電気を消してゴロンと横になってると、蚊が〝ブーン〟ときやがる。畜生と思ったが真っ暗闇だ。カンだけで小一時間追っかけているうちに、パチンと仕止めた。〝ザマア見やがれ〟――そうだ。めくらの剣士がカンだけで人を切る――オモシロイと考えたのが〝座頭市剣法〟の発想、三年前のことだった。
 シリーズが当たりはじめたころ、新歌舞伎座の舞台で実演したこともあったが、まだまだ当時はうまくいかなかった。くやしいからヒマさえあれば一人でケイコする。あんまり〝白目〟をむきあばれすぎ、頭が痛くなって倒れたこともあった。今では目をつぶったまま〝パッ〟と抜き、前の相手は切りあげ、後ろのヤツは手首を返して払い、横ナグリに横の相手を切って〝パッ〟と一挙動でサヤに収められる。
 この剣法のコツは、もの音(聴覚)とにおい(嗅覚)をたよりに、カンで〝パッ〟とやるわけだから、まず聞き耳を立てるように小首をやや傾けて構える。サヤを払って〝サッ〟と切る――これの〝極意〟は手首の返し。オレの場合、〝踊り〟の素養が最高に生かされていると思う。それに〝間〟のとり方にも秘密がある。ピーンと神経を集中させると、見てるお客さんも〝さあ、やるぞ〟と息をつめる。そして一瞬のうちに〝バッ〟と切る。〝ドサッ〟と音がして、相手が倒れたとわかってから〝スーッ〟と刀を仕込杖に収める。静かな動、また静。剣道でいう〝残心〟だ。手前ミソだが付き人や、殺陣師の宮内さんにいわせると、動きの流れがすごくきれいだそうだ。それでいて映画に写ると迫力がぐんと出るのが特徴だね。
 こうしてオレが苦心の末あみ出した〝剣法〟だが、首がすっとんだり、腕がころがったりするクソ・リアリズムはやらんつもりだ。芝居はあくまで芝居、それに〝市〟をゴハンとすれば、かかってくる相手はオカズだ。オカズにはオシンコからバイキングまであるのだから、ゴハンはいつまでもあきられないし、変えることはできない。シリーズが進んでも〝座頭市剣法〟は変わらないだろう」

器用さプラス工夫〝勝新の殺陣〟
 勝はデビューしたてのころから、新人とは思えぬくらい器用でうまかった。三味線と踊りで叩きこまれたせいか、実にカンがいいし、間のとり方も心得ている。そして殺陣師が感心するくらい覚えが早い。運動神経が発達しているのだ。
 しかし、はじめのころはうまいけれども軽すぎるキライがあった。飛んだり跳ねたり、実によく体が動くし、スピーディだが何か立回りに風格がない。ケレンみが多いから確かに彼のチャンバラは面白かった。『不知火頭巾』などそうだった。しかし、このままじゃお子様向け紙芝居的なスーパーマン剣士で終始するのではないかという懸念さえ生じたものだ。それが『月影兵庫・上段霞斬り』あたりから、めっきり剣に豪快さが加わり、進境いちじるしく、それまでは変り身の早さとかタイミングのよさばかりが目についたが、体で斬るといった力強さが見られるようになった。
 そして『人肌呪文』では刀のつかを逆手に握る逆手剣法をやった。だから逆手斬りは座頭市ではじめてやったわけじゃない。さらにいうなれば、勝の前に近衛十四郎が柳生十兵衛ものなどでこれを得意の技としているのだ。この逆手斬りと盲人の居合術とがミックスしたものが〝座頭市流逆手居合斬り〟ということになる。
 殺陣師林徳三郎氏の記憶では、逆手斬りは、昭和十七、八年ころ坂東好太郎一座が京都南座で興行したとき、飛入りのような形で参加した上田吉二郎が逆手に抜いて暴れた。それをオモロイからととり上げて、新選組の沖田総司に扮した堀正夫にやらせたことがあるという。
 やはり一つの型にしろ、なんらかの積み重ねによって生み出されるものなのだ。新しい工夫がそれに加わって、より完成されたものに近づいていくわけである。
 大映の殺陣師だった宮内昌平氏は、勝の殺陣を、
《テストではトコトンまで立回りの段取りをマスターしてしまわない。だから本番のときは、相手がどう切りこみ、こちらがどう受けて切り返すかお互いに分っていないので、真剣勝負のような迫力が出てくる。ハタ目には危いな、と思っていても、本人がその方がいいというのだからどうにもならない。》(よみうり演芸館「殺陣」)
 といっている。いささかサジを投げた格好だが、いかにも勝の面目躍如としている。あるいはこれがほんとのリアリズム剣法かもしれない。
 勝自身も、「ぼくの立回りの場合、殺陣師の人に予め断っておいて、一応殺陣師のつけた型を頭に入れると、それをぼく流にアレンジさせてもらうことにして、刀を上げた方がいいか、はねた方がいいか、瞬間の判断でやってみるのです。
 ぼくは剣道の方は習ったことはないが、立回りをやっていて原則として考えられるのは、まず相手の懐ろに入った方が勝ちということ。また相手を斬ろうとして行動を起こしたときに隙が出来る。相手の呼吸を見はからって、息を吐き出した中間ごろに斬りかかるのが、その虚をつき易いということなどで、こうしたことを本番で応用すると、たくまずして迫力が出るようです。
 だから、テストの時は、一応型どおりにやっておいて、いざ本番という時は、斬るような顔をして虚勢だけで斬らず、斬る気を見せないで、突如として斬りかかると、相手が驚いて構えが乱れるといった具合で、これに緩急をつけるところに、立回りのアクセントが出てくると思う」と『人肌呪文』のとき語っていた。

ユニークなキャラクターと趣向をこらした殺陣
 彼はアイディアマンとよくいわれるが、非常にヒラメキがいい。自分でも「一を聞いて十のもの真似が出来た」というくらい。だが「それではいけないと最近気づいて来て、近ごろでは一を聞いて五の自分が出るようになりました。器用にやらないで、むしろ下手にやろうとさえ思っているくらいで、こうしたところから、一歩一歩自分のものを築いて行きたいと思います」
 とは、やはり『人肌呪文』でいっていた言葉だ。
 座頭市は子母沢寛の原作では原稿十枚ていどの短篇で描かれているにすぎない。それを大衆のイメージの中に大きくふくれ上がらせたのは勝新太郎の力である。
 そのユニークなキャラクターと水際立った殺陣に大衆はわいた。座頭市の居合斬りがどういうものかは、ロウソクを真っ二つに斬ったり、銭やサイコロを空中に放り投げて一刀両断にしたりしてまず驚かせる。冒頭で飯など食っている市に斬りかかって、アッという間に二、三人が倒されるというように、ちゃんと見せ場を用意してある。
 座頭市はありきたりのスーパーマンのように事件や騒動に好んで介入するのと違い、身にふりかかる火の粉を払うというタイプで彼の剣はいわば守りの剣だ。自分が斬られそうだからやむなく斬るのである。
「だいたい座頭市は仕込杖一本がたよりだ。それを前後左右にふりまわす。その円周の範囲内だけは絶対わが身は安全だ。相手が円周内に踏みこんでこない限りは、善人か悪人かもわからないわけだから、いつもニコニコしている。だが、ひとたび円周内に踏みこんでくるヤツは危険人物と認めて斬らねばならない。いつか合気道の名人と話したとき、そんなところから座頭市剣法をあみ出しなさいとヒントをもらった。だが、それには前方からかかってくるヤツを斬っていては、背後から襲ってくるのに斬られてしまう。まず後ろからくるヤツを逆手で一突き、同時に一回転して前からくるヤツを同じく逆手で仕止め、続いて左右からくるヤツをなぎ倒す。この逆手斬りが座頭市のオリジナルで、それを〝マ〟のとり方で美しくみせるところにくふうがある」
 と勝もいっている。
 このシリーズは毎回趣向を凝らした殺陣を見せているが、『座頭市兇状旅』で北城寿太郎の浪人と対決し刀を折られる。ここぞとばかり飛びこんだ浪人の腹に、仕込み杖の柄に仕込んだ短刀が深々と刺さっていたのは、いかにも盲人の用心深さが出ていて見事だった。

戦後時代劇の白眉『座頭市物語』
 しかし、なんといっても白眉は第一作の『座頭市物語』で、天知茂扮する平手造酒ひらてみきとやった立回り。不思議な友情に結ばれた相手を斬りたくないのに斬らねばならない心理的なジレンマ、苦悩が殺陣の上ににじみ出ていたように思える。「どうせ死ぬならおぬしに斬られたかった」といって市の背にもたれるようにして絶命する造酒、涙をこらえながら静かに刀を仕込みの鞘に収める市。これは戦後時代劇屈指の名場面である。
『座頭市血煙り街道』での近衛十四郎との立回りも、名手同士らしく気魄のこもったものだった。殺陣師による立回りの手順を決めずにやったそうで、文字どおりの真剣勝負、激突はコクがあった。
 かつて近衛が東映で活躍していたとき、「若手で一番立回りのうまいのは誰か」と尋ねたら勝の名をあげた。同じ東映の錦之助とか橋蔵といわないところに、彼の剛直さを感じたものだが、型にとらわれる殺陣に不満を抱いていたこともあって、勝の型破り剣法を買ったのだろう。
 この二人の対決は、戦前派NO・1と戦後派NO・1の対決という意味で別の面白さがあった。「まだまだ若い人たちには負けられない」と豪語していた近衛だけに、若手の代表格である勝との手合わせ、ことに評判の座頭市の相手役はやりがいがある。だから『座頭市と用心棒』における勝と三船敏郎のナレ合い的な対決よりははるかに充実していたのだ。
『座頭市血笑旅』のときは、めくらの弱点は耳だ、耳のカンを狂わせればと、数人が火のついた竹槍を持って市を囲み、ぐるぐる回る。ボーッと燃える火の音と、顔といわず体といわずおそいかかる炎に市は苦戦する。
 また、太鼓をドンドン叩いて市の聴覚を封じたり、桶にとじこめてゴロゴロころがしたりと、打倒座頭市作戦が毎回くりひろげられる。それで今度はどのような奇手妙手が飛び出すか、どんな強敵が現れるかといった興味がわくのだ。『破れ!唐人剣』では中国の剣優・王羽が片腕の剣と空手の達人になって対決する。異国人だから言葉が通じない。片や盲人である。全く意思の疎通を欠くもどかしさが誤解を生み、二人は剣をまじえるのだが、異色な立回りとなった。宙を飛ぶようにして頭上から市を襲う王羽は、剣ばかりでなく、足も手もおそるべき破壊力を秘めた武器なのだ。全く勝手の違う相手の攻撃に市も困惑する。
 このような工夫やアイディアを一作ごとに凝らすということは、非常に努力を要する。しかしその苦労があってこそ〝座頭市シリーズ〟はさんとして輝きつづけるのだ。
「一種の回転レシーブで、これは市の足もとの動きをハイスピードで撮ればよくわかる。だから座頭市の足もとの動きを気をつけて見ていて、それを封じる作戦をとれば、座頭市は切れる。こういうことを一度映画でやってみてもおもしろい。逆の逆をとられると市はどうするのか。市としてはもっとウルトラCの剣法をあみ出さなければいけないことになる」
 と、勝は『笠間の火祭り』のとき『大阪新聞』で語っていた。
『折れた杖』のときは手をつぶされ、仕込み杖を布でゆわえつけて斬りまくるが、これはマカロニ・ウェスタン『続・荒野の用心棒』がヒントかもしれない。
 どうせ結末は市が縦横無尽に悪党どもをなぎ倒すとわかっていても、どこまで市を危機に追いこむか、いくら強いからといっても盲人だから、今度はヒョッとして斬られるかもしれないというスリルとサスペンスが、クライマックスの立回りをより効果的にする。
 ただ、勝が独立プロを作りお山の大将になったせいか、座頭市にまるで親分みたいな貫禄が出てきたのは面白くない現象だ。屈折したデリケートな感覚が失われると、殺陣もつまらなくなる。
 日かげを歩くやくざで目が見えないからと引っこんでいても、面と向かってからかわれると、豹変といっていいほど激怒するが、市があたり前の人間として庶民のペーソスをにじませているところに大衆は親しみを感ずるわけだ。その平凡な風架の上がらぬ流れ者の座頭が、ごろつきや悪党どもを居合斬りで葬り去る――やはり座頭市という特異なヒーローの特異なキャラクターが殺陣の上に投影されなくてはならないのだ。
 ともあれ〝逆手斬り〟は座頭市のトレードマークを超えて、立回りの中で流行となり、忍者ものなどすべて逆手斬りになってしまった。これ特筆すべき現象といえよう。
 勝は四十八年の『笠間の血祭り』のあと、四十九年からテレビで〝座頭市シリーズ〟を撮る。五十一年、五十二年と三度も登場しているから、それなりの人気(視聴率)も得たし、成果はあったわけである。
 だが、お茶の間の制約は殺陣一つをとってみても、座頭市特有の凄惨さドギツさが稀薄でイマイチもの足りなさを感じさせた。
 そのことは六十四年の新作『座頭市』で証明されている。残念なのは、この時、勝の子の奥村雄大が真剣で誤ってからみの一人を刺殺してしまったことである。
 名手といわれるスターでさえ真剣を用いるのはアップの時とか特定の時以外にはない。それを自分の子供だからといって素人同然の者に持たせるとは、「監督」を兼ねた勝のおごりと非難されても仕方がなかった。
 勝新太郎というスターの豪快奔放なキャラクターはすて難いし、立回りはまだイケる。ひと周り年下の連中に伍してヒケをとらないだろう。それだけに貴重な存在である。
 だがあまりにもつまらぬミスやエラーが多すぎて、彼の活動を鈍化させているのが惜しい。時代劇が壊滅に近い状況の中でも座頭市は生き残れる魅力を持っている。この〝財産〟をなくしてはならない。勝が早く立ち直って健在ぶりを見せてほしいと願うチャンバリストは多い。
不遇な剣豪・近衛十四郎寅彦
 一時期、立回りナンバーワンの評価を得ていたのが近衛十四郎である。昭和三十年代から四十二、三年ころまで、東映、大映、松竹など、どの社の殺陣師に聞いても、「一番アブラの乗っているのは近衛だろう」という答えが返ってきたくらいで、私は「剣豪スター番付」を作ると、必ず近衛を横綱に置いた。立回りについてはもっともうるさい評論家の大井広介氏も「近衛十四郎、宍戸錠、佐藤允の映画は必ず見ている」といっていたところを見ると、やはり一番高く買っていたのではないか。
 近衛は不遇なスターだ。『実話特報』(三十四年十二月号)に「不遇のチャンバラ王・近衛十四郎寅彦」(近衛の本名は目黒寅彦)という文を書いたことがある。松竹にまだ在籍中のことで、名もあまり知られていないから大いに不思議がられたが、これは私の先物買いでもなんでもなくて、知る人ぞ知る、だったのだ。
 彼は映画ではついに中堅スターの域を出ずじまいで、四十年にテレビの『素浪人月影兵庫』でようやく一般的な人気を得、多くの人が見ることによって、その立回りの真価も認められた。だが、はっきりいって、テレビに出たときは四十九歳ですでに全盛期は過ぎていた。もっと以前に、たとえば、『三匹の侍』の五社英雄ディレクターとでも組んでいたら、何も月影兵庫のようなコミカルなものでなくとも、大いにお茶の間ファンをわかせたに違いない。
 近衛は右太プロの研究生からスタートした。もちろん「御用、御用」の銀棒組である。それが東亜キネマを経て日活へスカウトされたのだが、役者としてではなく、野球がうまいからということからだったそうだ。彼は映画界きっての名ショートといわれた。
 亜細亜映画というプロダクションではじめて主演作品を撮り、次いで昭和十年から大都映画の主演スターとして活躍する。阿部九州男、杉山昌三九に次ぐクラスで、『疾風蜥蜴鞘しっぷうとかげさや』『渦巻く白雲城』『愛憎乱麻』『決戦般若坂』などが代表作。このころはやせぎすでまだ線の細い二枚目だった。
 十七年一月に大都は日活、新興と合併して大日本映画(大映)が生まれる。そして、阪妻、千恵蔵、右太衛門、寛寿郎のいわゆる〝剣戟四大スター〟が結集した。当然、近衛らの出る幕はないわけで、しかも製作本数は激減し、娯楽ものは作らなくなっていたから、彼もほかの多くのスターと同様、映画界に見切りをつけ、実演に走った。

ドサ回りから奇跡的カムバック
「近衛十四郎一座」を旗上げして地方巡業、つまりドサ回りをつづけること約十年。この当時、時代劇の中堅スターがいっせいに一座を組んで〝映画スターの実演〟を売りものに巡業したのだが、最後まで残ったのが近衛だった。戦後、この人たちがぞくぞく映画界へ復帰するのを尻目に、「そんならおれひとりだけでも頑張ってやろうと思った」とは近衛の話だが、二十四年ごろには、女剣劇に押しまくられてしまって、近衛も「水川八重子一座」と、女房の名前を看板に出さなくてはならない状態となった。その女剣劇もストリップ攻勢の前にあえなく敗退。とうとう一座を解散して、近衛はポスターに名ものらない端役に近いところから映画俳優として再スタートしたのである。
 新東宝で寛寿郎の『右門捕物帖・からくり街道』とか『池田屋騒動』等にカラミで出演、その後松竹京都に移り、高田浩吉の『お役者変化』で認められ、大敵役として急速にクローズアップされた。『白鷺三味線』『素浪人日和』等、主として浩吉の相手役をつとめたが、浩吉の立回りが全くお粗末なのに比べ、近衛のそれが光り、評価が高まるにつれて、松竹でも彼をバイプレーヤーのまま放っておくことができず、主演スターにして、『柳生旅日記・天地夢想剣』とか『江戸群盗伝』『豪快一代男』『浪人街』等の作品を発表した。
 〝一度スターの座を失った者は返り咲くことはできない〟というジンクスを破って奇跡的にスターの座にカムバックしたのが高田浩吉、大友柳太朗、近衛十四郎の三人である。しかし浩吉、大友が準主演級で比較的早くから活躍していたのに比べ、近衛はドサ回りが長く映画界復帰が遅れたうえに、端役からやり直しだったから、ハンディがありすぎた。それを乗り越えて主演スターの地位を得ることができたのは、やはり彼の剣技以外にはない。

東映――テレビで実力発揮
 松竹は昔から時代劇はふるわず、林長二郎作品が興行的に大ヒットしただけ。戦後も高田浩吉が一時稼いだが、東映、大映には太刀打ちできず、四十年には京都撮影所を閉鎖し、時代劇から手を引いてしまった。しょせん、近衛が十分に腕をふるう場ではなかったわけだ。その前に近衛は三十五年に東映に入社した。さすが東映は〝時代劇のメッカ〟だけに、ここでは水を得た魚のように本領を発揮した。
 〝柳生武芸帳シリーズ〟のほか『砂絵呪縛』『雲の剣風の剣』『祇園の暗殺者』『忍者狩り』等の主演作品を出し、またバイプレーヤーとしても注目すべき活躍をしている。ただ遺憾だったのは、この世界の事大主義、封建的な残滓ざんさいのせいか、東映では〝よそもん〟〝外様〟的扱いで、二線級にとどまったことだ。
 〝時代劇は東映〟を看板に時代劇王国を誇っていたのが、『用心棒』『椿三十郎』にKOをくらったけれども、これは東映が近衛とか若山富三郎、黒川弥太郎、戸上城太郎など他社からの〝輸入スター〟をフルに使い切れなかった、あるいは使わなかったことにも一因がある。
 東映時代劇の終焉とともに近衛はテレビに転じ、『柳生武芸帳』『素浪人月影兵庫』『素浪人花山大吉』等でベテランぶりを見せ、もっとも安定感のある時代ものタレントとして人気者になった。しかし糖尿病とか肝臓とかで体力的に衰え、得意の立回りも全く生彩を欠き、その後も『素浪人天下太平』『いただき勘兵衛旅を行く』を作ったが、五十二年五月十四日死去した。

時代劇の衰退と東映の責任
 とくに近衛十四郎について頁を費やしたのは、近衛の立回りが一時代を画するものであることと、これほどの実力ある素材を生かしきれなかった映画界へ〝チャンバリスト〟としての怒りともどかしさをぶつけたかったからである。
 時代劇の衰退は東映に大きな責任がある。ステロタイプ化した作品を作りつづけて、ついにファンから見離され、任俠映画という〝チョンマゲのない時代劇〟にすりかえて、本格的時代劇をあっさり製作中止してしまい、その任俠映画も十年たって飽かれ出したら、実録ものとかポルノに切り換えた。かくて映画は質的に堕ちる一方である。映画は企業だから儲かればいいというのは一つの論理だが、なんら歯止めも考えない場当たり主義的なやり方は、結局自滅への道を突っ走るようなものではないか。
 東映時代劇がもっと工夫し、努力して、力作や面白い作品を出していれば、こうまでひどい状態に陥らなかっただろうと悔やまれる。
 〝三十郎ショック〟後もなお思い切った手を打たず、〝時代劇は東映〟のキャッチフレーズで大衆を引っぱってきた責任もとらずに平然と看板を塗り変えた東映は、大衆への裏切りを犯したのだといえる。
 近衛が松竹から東映に移ってようやくその水になれたころ、東映時代劇が斜陽となる。近衛にとって不運というほかはない。彼の全盛期と東映時代劇の全盛期が一致していたならば、非常に興味ある結果が生まれただろうと思うのだが、それは単なる愚痴であろう。

舞台でおぼえた長刀のさばき方
 近衛のキャラクターは阪妻の豪快さと、大河内のニヒルさ、寛寿郎の鋭さをあわせたものだ。その立回りはダイナミックで迫真力があり、スピードといい、型のキマリぐあいといい抜群だった。
 松竹の殺陣師川原利一氏は、「うますぎる。どういう手でもこなしてくれる。大きな体でよくきれいに動くと感心している」と、近衛の立回りを評していた。川原氏によると、ふつう侍の刀は、腕を真っ直ぐに下げて、その先端が地面につかない長さのものを選んでいる。大体七十五~八十センチになるが、八十五センチもの長い刀を注文して好んで使っているのが近衛で、ふつうの人では使い切れないような長さだが、近衛はその方が使いやすいのだという。
 これは舞台では長い刀のほうが映えるからで、凄みも出る。また彼の剣さばきは上へ斬り上げるものが多いのも舞台映えするためだ。川原氏はまた、
「近衛さんの剣は非常にセッカチというのか、カラミがかかってこないのに自分の方からかかっていく。これも聞いてみると舞台生活の影響だという。カラミが次から次と間合よくかかってくれればいいのだが、地方巡業のレベルではなかなかそうもいかない。現在の松竹のカラミがそれほどヒドいものではないにしても、近衛さんにはまだ不満があるらしく、そういう弱点をカバーするため、自然と主役らしくない殺陣になるのだ。」(よみうり演芸館「殺陣」)ともいっていた。
 近衛は十年間ドサ回りで苦労したが、その間にみっちり腕を磨いた。「私は座員にキビしかったですからね。地方巡業だとたいていどの劇団でも風紀が乱れますがね、私んとこはそういうことありませんでした」と彼はいう。それだけに立回りの練習もよくやったようだ。私は北海道で彼の一座と海江田譲二一座合同公演で『宮本武蔵』を見たが、とにかく熱の入ったキビキビした舞台だったことを覚えている。

抜き打ちタイム、NO・1
 彼は運動神経がいいから変わり身が早い。「一番必要なのはスピードじゃないかな。昔は型の美しさを大切にしていたけど、最近はスピードを重視しています」といっていた。このスピードは斬るアクションにも現れるが、もっともよくわかるのは剣を抜くときだ。抜き打ちの早さでは三十年代では近衛がトップだった。西部劇ではゲーリー・クーパーがピストルを抜く速さが〇・四秒で一位、次が『シェーン』のときのアラン・ラッドで〇・六秒などといわれたが、時代劇のほうも抜き打ちのタイムをとってランキングを作るとよかった。おそらく近衛と寛寿郎、若山富三郎、勝新太郎あたりが紙一重の差でせり合うだろう。松竹のオールスター映画『修羅桜』のとき、殺し屋に扮した近衛が戸上城太郎と決闘する。「おぬし、早いそうだな、おれと立ち合ってもらおう」と、まるで西部劇の早射ちに挑戦するシーンそっくりで、抜き打ちの早さを競ったのだ。戸上が抜こうとする出鼻を近衛が踏みこんでグッと刀の柄を出して牽制し、体が入れ違ったときにはもう斬っていた。いつ抜いたかわからないくらいのスピードで、戸上もうまいスターだし、この決闘場面は迫力があった。

真似られる近衛流剣さばき
 近衛ほど見せるチャンバラに徹したスターもいないが、それは舞踊的な意味とは異なる。たとえば、片手斬りの場合、鞘を左手で握って安定したフォームを見せるのはいいほうで、中には片方の手が遊んでいるようなものをよく見受けるが、近衛はこの片方の手がよく動く。グッと拳を握ってヒジを張ったり、肩を前へ出したりするので、動きが非常に大きく見えるし、力が入っていることもわかる。
 また、斬ったあと、いったん鞘を胸の辺まで引き上げ、刀身をパチンと収めてからグイと腰に戻す、こういった細かい芸も見せる。これはずいぶんほかのタレントたちに用いられている。
 いつも左手にクルミを二個握っているのは、とかく右を使うことが多いので血液の循環のバランスをとるためで、ちゃんと理にかなっているのだ。近衛は、
「スピードのつぎに大切なのは腰の安定です。若い人の欠点はこの腰じゃないかな。私ども若いころは家の中でも刀を差していた。刀といっしょに生活していたわけで、たまに洋服を着ると腰がさびしくなって落ちつかない。長い間キセルをバンドに差していたもんです」
 という。ふだんのこのような修練が格調のある殺陣を生む基礎になっているわけだ。テレビでもよく見かけるが、フェンシングみたいに片手で刀をふり回すタレントがいる。三キロもある刀の重さを全然考えないのだからおそれ入る。
「刀を本物のように見せること、すなわち重さを演技しないとぶちこわしになります。竹光は子供でもふり回せるんですからね」
 という近衛は、リアリティを出すために、時によっては自分ばかりでなくカラミにも本身を使わせた。竹光と違ってちょっとしたミスでも大怪我につながるから緊迫感がただよい、真剣の雰囲気が出る。
 見せるといえば、座頭市以来、大流行の逆手斬り。これの元祖は近衛十四郎だ。松竹の『竜虎活殺剣』で柳生十兵衛に扮した彼は、刀の柄を逆手に握って斬るという前代未聞の刀法を編み出し、しかもその逆手で二刀をふるう立回りをやった。「あのほうがずっと斬りやすかった」と、彼はこともなげにいっていたが、これを勝新太郎が『源太郎船』で試み、座頭市の逆手斬りですっかりトレードマークみたいにしたのである。
 武道研究家の簑内宗一氏によれば、この逆手斬りは、相手と体が接近している場合に用いられる〝秘剣〟だそうで、忍者などの刀法にもあったらしい。
 ただし、映画や芝居の殺陣でやったのは、私の知るかぎりでは近衛が嚆矢こうしである。彼は東映に移ってからも柳生十兵衛もの『夜ざくら秘剣』『無頼の谷』などで、存分にこの逆手二刀流を披露している。

東映崩壊を予見していた近衛の殺陣観
 柳生十兵衛ものは近衛の唯一のシリーズ作品であり、それだけ気が入っているが、刀を背に回して相手の打ち込みを受けたり、肩にかついでチャリンとはじいたりというような殺陣はいささかサービス過剰だった。しかし多彩なチャンバラ・ショーは、いうなれば西部劇スターや日活の宍戸錠がよく見せたガン・スピン(拳銃の曲射ち)にも匹敵するもので、ファンを堪能させたのである。
「私は何人斬っても、これまで怪我させたことはない」と彼はいう。このことは自慢していいだろう。乱闘シーンなど、早く鋭く、烈しいから、カラミはそれこそ必死だろう。抜き打ちが早いことは前に触れたが、大勢の相手をバッタバッタと斬りまくるスピードもすばらしい。
 右太衛門と共演した『きさらぎ無双剣』で右太衛門にからむ三人の剣士を二秒くらいで葬ってしまう。また『主水之介三番勝負』のときは、大川橋蔵を襲った四、五人を、石段を駆けおりざまなぎ倒す。これらは共演したスターの立回りと比較すると、完全にワンテンポ早いことが歴然とわかる。
『砂絵呪縛』で大勢の敵を路地に誘いこんで、スパリスパリと脚を斬り払った合理的な殺陣にも感心した。あの高踏的な『キネマ旬報』さえ、東映時代劇で見られるのは錦之助と近衛の作品だけという意見がのったくらいで、一作ごとに殺陣に工夫があった。
 近衛の殺陣についての考え方はこうだ。
「歌舞伎のような美しさも必要ですが、時代はチャンバラにリアリティを要求していると思います。いくら映画の中でも大根を切るように人間を殺すのは考えものです。これからは一対一の勝負。そしてリアリズム剣法になるんじゃないですか。私は何十人もの人間を殺さなくても、一対一で十分チャンバラの面白さが出てくると思っています。
 時代劇には対決映画が多い。しかし残念ながら武蔵と小次郎のように人間が描かれた対決が少ない。対決がつけたしじゃなく、ドラマのポイントなんです。対決のためにストーリーが展開する。こうなるとチャンバラがもっともっと面白くなるのじゃないですか」
 これは『東京中日新聞』(三十五年十月十二日)に載っていた「チャンバラ人生」の中での発言である。
『用心棒』はこの翌三十六年、『椿三十郎』は三十七年に発表され、東映時代劇を粉砕したが、近衛は東映の中にいて、すでに東映時代劇の遠からず崩壊するのを予見していたわけだ。

会心作『十兵衛暗殺剣』
 その後、三十九年に至ってようやく近衛会心の作品が生まれた。近衛と大友柳太朗共演の『十兵衛暗殺剣』(監督倉田準二)で、これぞ近衛が主張していた一対一の対決ドラマだった。
 将軍家指南役をつとめる柳生新陰流に対して、新陰流正統を名乗る幕屋大休(大友)が、柳生十兵衛(近衛)と天下第一の剣を競う。近衛のシリーズのため、大友をかたき役にしすぎたきらいはあるが、両者の激突は凄絶なまでで、琵琶湖にむ〝湖賊こぞく〟をからませたストーリーと水上水中の乱闘も面白く、戦後時代劇屈指の傑作である。
 図式的にいえば、十兵衛は体制であり、その強さは既成の事実として受けとめられている。そこで反体制の幕屋大休は十兵衛と対等あるいはそれ以上の剣客でなければ、対決としての興趣はわかない。その点で、大友柳太朗を起用した意味は非常に大きい。
 大友は『加賀騒動』で主演スターに復帰して以来、千恵蔵、右太衛門の両オン大に次ぐ〝東映の皇太子〟といわれ、あとにつづく錦之助、橋蔵とのツナギ目として、非常に恵まれた立場にあった。
 日本最初のワイド映画『鳳城の花嫁』に主演し、押しも押されもしない〝大型スター〟として、〝怪傑黒頭巾シリーズ〟から〝丹下左膳〟〝右門捕物帖〟のシリーズなどで活躍していた。もちろん東映内での地位は、社歴を重んずる古めかしいしきたりの東映京撮のことゆえ、後から入った近衛とはかなりの差があるのは当然だ。
 三十六年ごろから『赤い影法師』『十七人の忍者』『血と砂の決斗』など、大友・近衛の共演がふえ、どちらも豪快さを持つ実力派同士の激突で好評だった。
『十兵衛暗殺剣』で大友はスターダム復帰後はじめてかたき役になったが、スター序列では近衛より上の大友を持ってきたことで、幕屋大休という人物が恐るべき相手であると認識させることが出来る。しかも野駆けに出た将軍の面前で、十兵衛は大休に敗北を喫する。その上、挑発に乗った柳生の門弟が、一人の臆病者を残してことごとく大休とその一派に斬殺される。
 大休は小太刀の名手だが、十人ほどの柳生の門弟を片っぱしから手にかけるその強さは圧倒的で、両腕を鶴翼に拡げて威嚇し、斬りかかってくる相手の右腕をおさえて小太刀を突き通すなど、凄絶な立回りを見せた。
 湖賊の襲撃を大勢の門弟たちの死によってやっと切り抜けた十兵衛は大休と対決するが、大休の小太刀の秘技で刀を折られ、命からがら逃げる。大休強し!
 強敵に再度挑戦する十兵衛は、刀のスペアを突っ立てておいて、大休と戦い、またも刀を折られ無手になるや、恐怖をあらわにして大休の攻撃をかわす。実はそれは十兵衛の策略で、タイミングをつかんで隠し持っていた金串のようなもので大休の右腕を刺し、すかさずスペアの刀を突きつける。この頭脳戦でようやく十兵衛は大休を破ったのだが、大休もさる者、敗北を認めた上、新陰流正統の印可状を渡すといって、その中に短刀を忍ばせ、十兵衛の腕を刺す。十兵衛ひるまず刀をふるって大休を拝み打ちに斬り、ようやく勝負のカタがついた。
 十兵衛が大休におくれをとっているだけに対決は一層スリルに満ちたわけで、大友の大休は自信にあふれ、彼が柳生への挑戦者なのに、逆に十兵衛が流派の栄誉を賭して挑戦する形になった。
 大友は恰幅かっぷくがいいし、新国劇出身だから熱がこもっているが、決して器用なタイプではなく、したがってあまり手数が多くない。しかし、体に恵まれ豪放で画面を圧するような迫力があり、いかにも剣豪や豪傑らしいキャラクターだ。ひところ二枚目ぶったキザっぽさが目立ち、豪快さを出そうと、やたらカンラカラカラ高笑いする薄っぺらなところが気になったが、それが消えてからはとくに進境がいちじるしかった。やはり〝年輪〟がものをいうのだろう。
『十兵衛暗殺剣』は中年の円熟した両剣雄が秘術を尽くして死闘するのだが、これは剣豪スター近衛・大友の競演、対決でもあるわけで、文字どおり火の出るような気迫が感じられたのである。
 時代劇は勧善懲悪の倫理が根底にあり、対決も正と邪、善と悪という形にほとんどなってしまう。武蔵と小次郎の対決がすぐれているのは、剣士としての技量と誇りを賭けた闘いだからだ。
『十兵衛暗殺剣』も大休を必要以上に冷酷非情に見せたけれども、同じ新陰流でありながら天下の柳生に比べて埋もれたままのわが流派を、世に出そうとする悲願と怨念がこめられていて、より以上に対決の根を深めた。
 この作品は白黒であり、決して〝大作〟でなかったため、見ごたえのある内容のわりには話題にならなかった。実に残念である。時代劇全般で言えば別だが、対決ドラマとして、あるいは決闘シーンだけに限れば、私はこの近衛・大友の決闘が最高だと思っている。
 近衛は見せ場たっぷりのチャンバラ・ショーもやるが、小川金之助十段について、剣道の練習もし、いわゆるくずれた剣は使わない。また槍をとっても『豪快千両槍』とか『ひばり捕物帖・折鶴駕籠』の丸橋忠弥や『暁の陣太鼓』の俵星玄蕃で見せたように、電光石火のスピードと流れるような美しいフォームは、ほかの追随ついずいを許さないほどだ。
 東映は近衛という逸材を擁しながら、これを活かすことができなかった。たとえば彼と錦之助の共演はなかったし、彼の作品は二線級の監督ばかりだった。その実力をみな認めながらも使えないという硬直化した体質、それが東映チャンバラを崩壊に導いたと断言できる。
形骸化した東映の殺陣
 東映は創立当初、大幅な赤字のため、存続さえ危ぶまれたものだったが、右太衛門、千恵蔵に加えて、錦・千代という新しいスターを生み、さらに大川橋蔵が入って、時代劇で独走。三十五年には大川博社長が「日本映画界の収入の半分は東映がいただく」と豪語し、第二東映を発足させるほどにまで発展した。
 しかし、技術の進歩によって、色彩化、大型化がすすめられ、量産されるにつれて、東映時代劇は没個性的となり、野性味とか、爆発するようなエネルギーがだんだん感じられなくなった。
 それは娯楽性を強調するあまり、時代劇がスターの魅力に依存したチャンバラ・ショーのようなものになって、殺陣が形骸化したことが大きな原因である。やたらとコメディーリリーフが用いられ、時代劇が本来持っている格調をなくしてしまった。
 右太衛門、千恵蔵、大友、錦、千代、橋蔵、それに美空ひばりというローテーションに、オールスター、セミ・オールスター番組をはさみ、右太衛門の旗本退屈男、千恵蔵の遠山金さん、月形の水戸黄門、大友の快傑黒頭巾、丹下左膳、右門捕物帖、錦之助の一心太助、殿さま弥次喜多、千代之介の鞍馬天狗、橋蔵の若さま侍、ひばりのお七捕物帖これらのシリーズが、東映時代劇の全盛期を飾っていたのだ。およその性格がわかるはずだ。
 かくて、いささか安逸をむさぼっていた感のある東映時代劇は、東宝の『椿三十郎』に一刀両断され、王者の自信を喪失するのである。

三十郎ショックと東映城の崩壊
 〝三十郎ショック〟以後の東映時代劇は、殺陣師の足立伶二郎氏が、
「目的のある立回りでなくてはならない。刀を抜けばキズつくという観念がうすかったこともいなめない」
 と述懐していたし、撮影所に古武道の専門家である大阪の中島正義氏(全日本古武道連盟事務局長)を毎日のように招いて〝生きた剣〟を東映時代劇再興のカンフル剤にしようと懸命になったり〝立回りのあり方〟について再考しなければと意識してもいたのだが、ズルズルになってしまった。
「昔は動きを主体にして考えればよかったが、だんだん変わってきて、現在では刀を抜いて闘う人物の性格から考えないと
 と足立氏はいっていたけれども、とうていそのていどではマンネリを直すことはできなかった。
 日本映画の全時代劇の三分の二を製作して、時代劇王国を誇っていた東映は、三十七年に百一本中五十六本、三十八年は百本中五十三本が時代劇だったのが、三十九年には総本数七十三本中わずか二十八本と激減、代わって着流しやくざの任俠映画が登場する。四十年は六十六本中十三本。たった三年ほどで東映時代劇はガタガタになってしまった。
 その理由を東映首脳は「現代劇よりコスト高になり作れば赤字」と説明していたが、自慢の「東映城」までとり壊してはっきりと時代劇から撤退する姿勢を明らかにした。
 この間、時代劇としてのいろいろな試みがあった。中村錦之助と内田吐夢監督がガップリ組んで、五年間、一年一作で完成した『宮本武蔵』のような力作もあった。しかしこれとて歯止めにはならなかった。
 南部僑一郎氏は、当時、
「時代劇は商売にならんというが『椿三十郎』『用心棒』、最近の『怪談』などちゃんとヒットしている。東映の時代劇がよろめき出したのは世の中の流行にウロチョロして、モダン・ジャズ調になったからだ。いまいちど時代劇のおもしろさを再検討すべし」
 と指摘していたが、事実、量産による画一化は、しらずしらずのうちに東映時代劇全体をむしばんでいたのだ。その顕著な例が〝ロカビリー剣法〟などという、およそふざけた立回り。美空ひばりがロック調歌謡曲を唄いながら、大の男を片っぱしからなで斬っていく。ひばりは器用で立回りのスジは悪くないが、ここまでくるとハラも立たない。
 このほか、コミック時代劇を二本立の添えもの用に作り、コミカルな剣法も出現する。お遊びであり、悪ふざけである。流行歌手の人気を当てこんでの股旅ものなどにその例を見出す。
 〝立川文庫の再来〟といわれたころはまだいい。東映時代劇が完全にコスチューム・プレーとなり、その殺陣がショー化したことで、大衆がいずれ離反するのは明々白々だったのだ。
 やたらと〝秘剣〟やなんとかの構えが飛び出したのもこの時期の特徴である。右太衛門の退屈男が〝諸羽流正眼崩し〟、千恵蔵の机龍之助は〝音無しの構え〟、錦之助は源氏九郎で〝秘剣揚羽の蝶〟、千代之介の松平長七郎が「葵真流いかがでござる」とやれば、大友の右門が「シコロ正流を見ろ」と啖呵たんかを切る。橋蔵の若さま侍は〝神道流一文字崩し〟と、百花繚乱のありさまだ。
 ヒーローはいずれも二枚目でスーパーマン。何十人と群がる相手をいとも心地よげにバッタバッタと斬りまくる。月形半平太など、きわめてわずかな例外を除けば、時代劇のヒーローは死なないのがたてまえになっていた。だからどんな強敵が現れても、またどのような危地に陥ろうとも、最後にはヒーローが勝ちを制する。そういう約束ごとを承知の上で、ハラハラしたり快哉を叫んだりする大衆も、あまりにも安易なご都合主義、ことにカタルシスの根源である立回りがショー化して迫力を失った状態に失望し、批判的となり、このていどのものならテレビでも十分と、東映時代劇を見かぎったと察していい。

〝集団時代劇〟の登場と終焉
 そうしたことへの反省の中から三十八年〝集団時代劇路線〟が生まれた。『十三人の刺客』『大殺陣』『十七人の忍者』『血と砂の決斗』『二十一の眼』『十七人の忍者・大血戦』『集団奉行所破り』等々。
 これは従来、年に二、三本ずつ作られたオールスターもののような顔見世作品とは性質が全く違う。『任俠東海道』とか『水戸黄門』等のオールスターものは、スターの格づけによってクローズアップのカット数をきめるというようなバカバカしいことにエネルギーがさかれていたが、さすがにそんな大時代がかったことはなくなった。集団時代劇といってもシンになる存在が何人かいるのは当然だが、少なくとも従来のような型にはまった作り方は姿を消した。
『十三人の刺客』に出演した片岡千恵蔵は、
「一人のスターのスーパーマン的活躍では、もうお客は来ない。自分のワクにしがみついたり見えをはったりすることはやめて、複数の魅力を作り出すべきです」
 と語っていたが、東映の重役であり、〝オン大〟である千恵蔵が、自分も含めて、スター中心主義を否定した言葉と受けとれる。しかし気づいたときはもう手遅れだったわけで、退潮をくい止めることはできなかった。〝集団時代劇路線〟は、時代劇王国東映の最後の燃焼というべきだろう。
『十三人の刺客』は、バカ大名の暗殺を老中から命ぜられた十三人と、それを防ぐ家臣五十三人との木曽山中における闘争という設定だが、大名の一行を予定した場所に誘いこむ苦心、多人数を分散させるためのさまざまな仕掛けなど、理詰めで、そのダイナミズムは黒沢作品『七人の侍』を想起させた。
 西村晃が刀のスペアを何本も用意しておいて、二、三人斬ったら別な刀ととり替えたのはリアリティに富んでいたし、またその剣豪も剣を持たぬととたんに恐怖におびえ、デクのように殺される。
『大殺陣』も似たような内容で、大名行列に斬りこんで泥田の中で戦うシーンは、集団対集団の抗争を克明にリアルに描いた点ですぐれている。これまで集団対集団といえば『川中島合戦』とか『源平盛衰記』のような〝ヨロイもの〟、『忠臣蔵』、〝幕末もの〟、『天保水滸伝』や〝清水港もの〟などであったが、『十三人の刺客』や『大殺陣』はその殺陣が構成の緻密さにおいて出色であった。
『大殺陣』で貧乏浪人が決行前後、妻子を自分の手にかけてから現場へ急ぐ。その殺しのシーンは見せず、幻想で子供の声を聞かせるのだが、浪人の悲壮な決意が熱っぽく画面に反映して、〝諸悪の根源〟への憎しみを燃え上がらせるのだ。
 〝集団時代劇路線〟の旗手となった工藤栄一監督は有望な新進監督だったが、〝巨匠〟たちの陰で二線級作品を撮らされていて、登場が遅れたのが惜しまれる。
 集団の闘争といっても、従来のように善悪というような図式化された対立ではなく、組織対組織の抗争だ。パターンの中に自己を見失ってしまった東映時代劇が、特定のヒーローでなく、集団ないしはグループ、組織が主人公だという新しい考え方を打ち出したのである。
 そして、人間をとりまく組織や機構、さらに因習や義理その他もろもろから脱けきれないで、むしろそれにふり回される人間の宿命みたいなものが描かれ、共感を呼ぶ。
 特定のヒーローを主人公にした場合に全く新鮮味を失っているのに、集団の中でとらえると、人間性の赤裸々な発露があり、人間の息吹きのかよった作品が生まれるのだ。
 ところが集団リアリズムによって新しい方向へ進むかに見えた東映は、自らの手でその萌芽をつぶしてしまった。つまり『十三人の刺客』や『大殺陣』で手ごたえを確かめると、早速〝大〟路線を作ることになり、『大喧嘩おおでいり』『大勝負』を製作した。しかし、それはもうリアリティも人間性も感じられない、いつものヘ〝東映調〟に後退した作品だった。
 集団劇というものに対する考えが根底的に誤っているとしかいいようがないもので、人間が大勢出て殺し合えば〝大〟なのである。キャッチフレーズに何百人みな殺しを謳ったところで、これまで十人、二十人殺したものを水増ししたに過ぎない。
 集団が主人公であり、テーマの面白さがスターの魅力に先行するのに、大川橋蔵を主演にしたことで方向はすっかりズレてしまった。『大喧嘩』は三つのやくざ勢力が争って橋蔵ひとりが生き残る。宣伝どおり、町といわず田畑といわず、やくざどもの死屍ルイルイ。その数からだけいえば〝大〟には違いないが、スターシステムの悪弊をそのまま遺していては、なんの意味もなさないのだ。『大勝負』にしても、橋蔵と千恵蔵がやたらと斬りまくるだけで、ニュー時代劇は花咲かなかった。

残酷時代劇の流行
 集団リアリズムとほぼ時期を同じくして〝残酷時代劇〟が流行した。これは東映にかぎらず大映、松竹などの時代劇にも波及した。ヤコペッティの『世界残酷物語』にはじまる残酷ブームが映像の地平をおおいつくし、また『用心棒』『椿三十郎』の〝殺しの美学〟に圧倒された各社の時代劇が競って追い求めたモチーフが〝残酷〟だったわけである。
 松竹の『切腹』では竹光で切腹をするし、『無宿人別帳』ではナタで脳天をカチ割るシーンが飛び出す。大映の『新選組始末記』では、芹沢鴨せりざわかもが胸を槍で貫かれ戸に張りついたままドシャ降りの屋外に転がり落ちる。『第三の影武者』では影武者が主君と同じように目をえぐられ腕まで斬り落とされる。『忍びの者』では捕らわれた忍者が両耳をそぎ落とされる拷問に会う。東映『この首一万石』では突き出した槍が相手の口から首に突き抜け、同じく振った槍は若侍の両ほほを口もろとも真一文字に斬り開く。『武士道残酷物語』では錦之助の主人公が目かくしをされたまま据物すえもの斬りを命ぜられる。その首を斬った相手はわが子夫婦であった。慟哭し主君に理由をただすと、手を刀で縁に縫いつけられる。忠義の名のもとに絶対的服従を強いられていた封建時代の残酷物語である。
 〝三十郎ショック〟後の東映をはじめとする京都時代劇のこれは偏向であり試行錯誤といってよく、一時の過熱したブームは、沈滞を破る活力になるかに見えたが、すぐに醒めてしまった。
 鮮血がどれくらい殺陣に効果をもたらすかを知って、肉を断つ擬音とともに〝残酷調〟は殺陣の上に残ってはいるが、必然性もないのにやたらと残酷・残虐を誇張する手法は嫌悪感を持たれるだけという結論が出た。このことでも試行錯誤の意義はあったろう。テレビに時代劇ファンを吸収された焦りが、テレビにないショッキングな迫力を大型画面いっぱいに叩きつける。その意図は擬似的太平ムードの中で欲求不満に陥っている大衆に、一時的に受け入れられたのだが、しょせん、肉食人種の欧米人とは体質的に違うせいか、残酷性に対する心理視覚両面からの拒否反応が現れたのはやむを得なかった。

忍者ものブーム
 いま一つ、同時期の時代劇に〝忍者もの〟ブームがあった。
 三十七年十二月に大映が市川雷蔵主演で作った『忍びの者』がヒットして以来、従来の〝忍術映画〟とは異なる、〝忍者映画〟が続々と登場した。かつての呪文を唱えると煙とともにドロンドロンパッと消える荒唐無稽なものではなく、科学的な合理性を持つ兵法として、綿密な考証とリアルな表現で描き、忍者の非情な世界と人間性を鋭く追求した。
『忍びの者』は村山知義の原作だが、時代小説の分野で〝忍法〟という新語を生み出した山田風太郎の〝忍法シリーズ〟が爆発的な人気を得て、これが映画に反映した。
 特撮技術を使ってパッと消えさせる見た目の面白さだけでは、もう子供だましにもならない。手裏剣、飛苦内とびくない、ロープ、鉄ビシ、煙り玉、火薬など、小道具を駆使し、木登り、飛びおり、綱渡り、水くぐりと、アクロバットのようなアクションをふんだんに見せる。
 天井などに飛び上がるのは、飛び下りたところを撮影し、フィルムを逆回転させるので、これは昔からやっていたテだが、トランポリンを使って空中に飛び上がったところを、逆回転フィルムの間にはさむと、十メートルくらいは軽々と飛び上がったように見える。このトリックは新しいものだ。
 屋根から屋根へ空中を飛ぶときは、背中に金輪をつけ、スタジオの壁をバックに張られたピアノ線を背中の輪に通し、右から左へスルスル移動する。バックの灰色にとけ込んでピアノ線は見えない。そのシーンの前後に飛び上がったり下りたりしたカットをつけ、さらに、城の天守閣を下からあおいだフィルムをつぎ足して実感を出す。
「水クモ」という木製の丸いウキを足につけてほりを渡る場合は、裏方が木の棒を両岸からかついで歩き、それにぶら下がって、あたかも水面を歩いているように見せるのだ。また、手裏剣が首を貫くように見えるのは、切っ先と根元を別々にこしらえてくっつけ、まずこれを大写しにし、打ちこむところは首の裏側にセロテープでつけた手裏剣をナイロンテグスでひっぱり、フィルムを逆に回す。
 白煙とともに姿を消すトリックは、煙があがったところで一度撮影をやめ、人がカメラの前から離れたところでも一度撮影する。煙を出す玉は砲煙といわれ、忍者がそれを投げるときは、決められた地点へあらかじめ置いて、電気仕掛けで発煙させる。
 火の中を歩く〝火遁かとんの術〟は、体に火傷を防ぐワセリンを塗り、皮の下着を着こむ。しかも黒装束には防火塗料を塗っている。
 一瞬のうちに炎の輪に包まれるのは、家庭用ガス台を大きくしたようなものにプロパンガスを利用して発火させる。
 こうしたトリックとテンポの早いアクション、頭脳的プレイによるスパイ活動、そして変幻自在のカッコよさがうける要素だ。合理的でウソとマコトのギリギリの限界を見せるから、ひょっとしたら自分にでもできるのではというほのかな期待と共感を抱かせるのにも人気の秘密があり、新しい娯楽の再発見があった。
『続霧隠才蔵』を撮った池広一夫監督は、
「スーパーマンに近いバイタリティを持った忍者の行動性が人間の夢を実現させてくれるし、これがストレス解消に役立つ。また忍者のもつ宿命観が現代人の共感を呼ぶんじゃないか」
 と分析していた。
 〝忍びの者シリーズ〟に主演した市川雷蔵も「ほんとらしい空想を好む現代人の感覚にぴったり」といっていたが、このへんが妥当な結論だろう。
 このシリーズの殺陣師楠本栄一氏は、戸隠流忍術の宗家に行き二週間の〝修行〟をしてきたそうだが、そうした努力がリアルさを生むのに役立ったわけだ。
 刀も忍者刀一本。柄が長く鍔が大きいのは塀など上るとき利用するためだ。立回りも〝逆手斬り〟が特色。忍者は剣客ではないのだからいかにもこの剣法のほうがもっともらしい。映画、テレビを通じて、ほとんどの忍者ものはこの〝逆手斬り〟を用いている。

劇画ブームの発火点『子連れ狼』
 四十七年の正月作品『子連れ狼』の大ヒットは邦画界に劇画ブームをまき起こした。
 子連れのハンディキャップを背負いながら、孤剣よく強大な組織と権力に刃向かう元公儀介錯人かいしゃくにん・拝一刀は、これまでの時代劇のヒーローにないファクターを持っている。柳生一門の罠にはめられ地位を奪われ、妻を殺された一刀が、復讐のため冥府魔道に入って刺客となり、柳生をはじめ黒鍬衆くろくわしゅうなど幕府の影の組織と闘うのだが、一刀の水鷗流斬馬刀すいおうりゅうざんばとうの腕のさえもさることながら、頭脳的なプレイ、そして007ばりの秘密兵器を駆使するのが見ものだ。
 時代劇の魅力はまず殺陣にある。この原点をふまえないで、スターの吸引力、一人でもの足りなければ二人、さらに三人、四人と、豪華大顔合せを売りものにし、内容のオリジナリティを喪失したことが、時代劇を衰退させた一因ともなった。
 その点、六作まで作られた〝子連れ狼シリーズ〟は、徹底的に殺陣を工夫し、『用心棒』や『椿三十郎』のときにも似た鮮烈なショックを与えた。
 第一作『子を貸し腕貸しつかまつる』を見てもわかるように、映画は劇画のカット割りがそのままそっくり使われていた。絵づくりのうまい三隅研次監督が意識的に用いたものだが、それほどこの劇画は映像的、視覚的に描かれているともいえる。
 体制からハミ出し冥府魔道を歩むが、しかし武士のこころを失わず、非情に徹しながらももっとも人間らしい孤高な精神を保つ拝一刀の強烈なキャラクターが全篇を貫いている。そして〝ジッとがまんの子〟大五郎の存在があらゆる意味で相乗作用的効果を現し、女性ファンの母性本能をかきたてる。疎外された個人が強大な力に挑む反体制ムード、殺戮さつりくに集約されるラジカルな思想、それらがこのシリーズの魅力であり、ヒットの要因であることは確かだ。

最大のヒット要因〝殺陣〟の工夫
 だが、何にもまして、殺陣の構成と一刀の若山富三郎の好演がものをいっている。すごみをきかせ、無言の中にただよわせる若山の気迫は堂々として、天下を相手に戦う男の風格である。水鷗流波切りの太刀は、水の中の立合いで刀を水中に沈めて間切りを見せぬようにし、斬ってくる相手を水中から斬り上げる。水中にかぎらず、野原のススキの中でも同じだ。これは机龍之助の音なしの構えと同様のトレードマークだ。
 第一作では柳生蔵人くらんどとの決闘で、陽を背にした蔵人に対し、一刀は大五郎の額につけた鏡の反射で目をくらませ、陽に立ち向かった不利な条件を逆転させた。おそるべきアイディアだった。
 第二作『三途の川の乳母車』は女忍者が一刀を狙い、娘巡礼が持った笠がブーメランみたいに飛んできて一刀のまげをわずかに斬る。小川の流れで大根を洗っている百姓娘が、いっせいに大根を投げるとそれが刀。皆、股間から忍び刀を抜き出したが、どこに隠していたか気になった。女たちの腕が飛び首が転がる。胸に乳母車に仕掛けてあった槍がグサリと刺さり、滝のように血が噴き出す。砂丘に穴を掘ってひそんでいた敵をつぎつぎに刺し殺す。ここでもドバッ、ビシュッという擬音と飛び散る血がすごい。かつての残酷時代劇以上に血ノリ過剰だが、さほどあと味が悪くないのはやはり大五郎の存在に救われているからだろうか。
 最後に弁天来べんてんらいという三人の怪人との対決で、彼らは手甲鉤、棍飛こんび、鉄拳とそれぞれ不思議な武器を使う。こういう変わった武器の登場も興趣を増すものだ。
 三歳の子大五郎をのせる乳母車のあちこちから槍や刀が飛び出す仕掛け。大五郎が向かってきた忍者の足を乳母車から刃を出して両断したときは、ちょっと間があいて苦笑させられたが、戦前人気のあった漫画タンク・タンクローの体がこんな構造だったのを思い出す。乳母車の柄がはめこみ式で大長刀になるし、蓋がパッと開くと弓矢、鉄砲から身を守る。さらに連発銃まで仕掛けられているなど、奇抜なアイディアがつぎつぎと出てくる。武器とか小道具にこれほど凝るのは明らかに007の影響だが、これもほどほどにしないと、殺陣本来の醍醐味が減殺されかねない。『子連れ狼』の場合、奇抜だが合理性が働いているから現代人にうけるのだ。
 斬り込んできた敵を一刀がはずして真っ向から両断する。と同時にその背後からもう一人が斬り降りてくる。最初一人と見たのは巧妙に一体となっていた二人だったわけだ。前の股間から刀を抜くのといい、いささかマンガチックな殺陣だが意表をつく面白さがある。
 自分の刀を相手に投げるというテもしばしば用いられる。武士はその魂である刀を棄てたりしないという固定観念があるが、拝一刀は冥府魔道に入ったのだから武士でもないし人間でもないと明言し、そうしたキマリのようなものを突きくずしてしまう。

拝一刀になりきった若山富三郎
 若山富三郎は太りすぎが懸念されたが、それは全くの杞憂だった。東映の〝極道シリーズ〟などで作られた単純で猪突猛進型、そして好色なやくざというイメージは払拭され、押し出しのいい恰幅、何事にも動じない冷静沈着さで拝一刀になりきっていた。
 彼は勝新太郎の実兄だが、映画のデビューは弟より遅く、しかも新東宝が舞台だったため真価を認められるのもおくれた。それはその当時の新東宝は東宝、松竹、東映、大映などと比べて格差があったためだ。しかし立回りは最初からうまかった。柔道は有段者だが何よりもチャンバラが好きで、練習量も一番多かったようだ。豪放で馬力があり、熱がこもっていて、なまじっか技巧とか型にとらわれるよりはずっと爽快だった。乱暴すぎるという批判もあったが、若手はそのくらいでなければ迫力が出ない。
 トンボを切れるのが強みで、主演級では珍しい存在。『子連れ狼』でも弁天来との砂丘の対決で見事にやってのけた。新東宝の殺陣師だった中村幹次郎氏も、トンボを切ってサッと立ち、すぐ刀を使える体勢にもっていけるのは若山一人だといっていた。
 新東宝時代『人形佐七捕物帖』をシリーズでやり、十八番にしたが、佐七は岡っ引きだから刀が持てない。それで棒を使った。講談的表現をすればクルクルクルッと水車のように回して、気持ちよさそうに立回りをやっていた。大きな体に似ず器用で体が柔軟なのだ。東映―大映と移り、城健三朗と改名した時分はあまり売れず、再び東映にもどって任俠映画の悪役をやり『極道』で主演に返り咲いた。この間、四十年にテレビで『風雲児半次郎』をやり、薩摩示現流さつまじげんりゅうの荒っぽい体当たり的な立回りを見せて一部では評判になったけれども、まだ彼を第一線に押し出すにはいたらなかった。
 当たり役を得ることがどれほど役者を大きくするものか、『子連れ狼』の若山のケースでまざまざ実証されたといえる。
 テレビで中村錦之助改め萬屋錦之介が『子連れ狼』をやり、高視聴率を上げたけれども、明らかに若山一刀のほうがすぐれていた。
 勝が立回りは兄ちゃんのほうがうまいというくらいで、若山のスピードと迫力はズバ抜けていた。ことに居合い斬りが得意でそのキマリの鮮やかさは見事。近衛十四郎のあと、立回りではナンバーワンだったが、病を得て彼の立回りもだんだん見られなくなり、ついに平成四年四月二日世を去ったことは、惜しみてもあまりある。『魔界転生』での柳生但馬守の殺陣は若山最後の燃焼だった。

『子連れ狼』の危機、情感の喪失
 〝極悪坊主シリーズ〟では座頭市ばりの逆手居合い斬りと拳法を用いていたし、〝賞金首シリーズ〟ではキセルの隠し武器とかいろいろアイディアを盛りこんで殺陣の面白さを工夫していた。勝といい若山といい、この兄弟には殺陣師顔負けだ。こうした素質プラス前向きに殺陣にとり組んで来た積み重ねが『子連れ狼』で十二分に発揮された。ただ〝子連れ狼シリーズ〟が一作ごとに殺陣の凄惨さがエスカレートし、血ノリ過剰になったのはマイナスだった。若山一刀の立回りが、あまりにものすごい修羅図の中に溶けてしまったからだ。それとスペクタクルに描くことに重点がおかれ、『子連れ狼』のもう一つの魅力である情感が失われたことも指摘できる。
 たとえば第六作『地獄へ行くぞ!大五郎』のラストは雪中でスキーとそりを使った一刀対軍団のチャンバラで、面白いことは面白いがいささか奇をてらいすぎだった。
 復讐は時代劇における主要なテーマの一つだ。仇討ちのパターンはいろいろあったが、私怨私憤から発して権力者――体制そのものに刃向かうという壮大にして破滅的なものは例を見ない。天に代わりて不義を討つ式のごキゲンなヒーローではないと同時に、世に容れられず無頼に生きるスネものや、虚無の世界に沈湎ちんめんする蒼白の剣士とも違う。その特異性をたえず明らかにしておかないと〝007シリーズ〟が巨大なマシーンのために個性を失ってしまったような結果を招くのだ。
 第四作『冥府魔道』は黒田藩のお家騒動にかかわるのだが、〝刺客一刀〟の面が強烈で、〝復讐師リベンジャー〟としての一刀は沈潜してしまっている。復讐の怨念のためにこそ〝冥府魔道〟に生きている親子なのだ。柳生烈堂やぎゅうれつどう一味との闘いがもっと表面に出なければならなかった。

『子連れ狼』以前の劇画の映像化
『子連れ狼』の起爆剤としての役割は〝劇画ブーム〟だけでなく、絶滅に瀕していた時代劇映画を復活させたことにあった。『影狩り』『御用牙』『木枯し紋次郎』『無宿人御子神の丈吉』とぞくぞく時代劇が作られ、一時的ではあったが〝時代劇ブーム〟再来の幻想さえ抱かせた。しかしそれは一時的現象に終わってしまった。
 劇画は映像以上に訴求力を持つ点を高く評価するものだが、ことにアクション・シーンは映像と違って虚構や誇張がはるかに許される。しかも活字より具体性があるから、視覚的にはもっとも満足を得ることができるのだ。

劇画映画化の将来
 劇画は映画的手法を用いてストーリーを展開しつつ、映像では表現できないフィクションを大胆に描いた。映画やテレビはその劇画の中に幾つかの可能性を発見し、〝逆輸入〟したわけだが、ドバッ、ウギャーッと首がすっ飛び、胴が真っ二つになるような場面は、残酷すぎるというよりはいかにも作為的なものを感じさせる。だから劇画の迫力即映像の迫力とはならないケースが間々ある。
 思考が短絡化し、ますます視覚的になっていく人間がふえるとき、リアリスティクな絵としての劇画は今後も支持されるだろうし、そういう意味では劇画の映画化、テレビ化はあとを絶たないだろう。
 殺陣については、『子連れ狼』が若山富三郎の剣技と、三隅研次監督の熟練した演出ぶりで劇画をしのぐ迫力を出しているのみで、総じて劇画のイメージの方が強い。劇画の人気に便乗して安易に作るのでは劇画の奔放な表現に追いつけない。だから劇画を原作として密着しながらも、その殺陣のアイディアをヒントに、もっと映像の効果を高めるために練り直さなければならないだろう。
七剣聖の退場と股旅ものの流行
 三十八年から三十九年にかけて、長谷川一夫(五十九年四月六日死去)、市川右太衛門、片岡千恵蔵(五十八年三月三十一日死去)ら〝オン大〟と呼ばれた大スターがスクリーンからほとんど消えた。すでにバイプレーヤーに転じていた大河内伝次郎は三十七年七月十八日に世を去り、嵐寛寿郎は三十六年に新東宝が潰滅してからは完全にワキに回り、五十五年十月二十一日死去、月形竜之介もそのシブい演技を見かけることは少なくなり四十五年八月三十日死去した。こうして大正末から三十数年間、時代劇界に君臨してきた〝七剣聖〟の時代は幕を閉じたのだが、これは実に象徴的なことだった。
 大スターの退陣は活力を失ってきていた時代劇映画の晩鐘だったが、時代劇の総本山を任じていた東映は、三十八年の『飛車角』をスターティング・ボードに〝任俠路線〟を突っ走り、サムライに代わって着流しやくざがスクリーンを占める。だが、これを〝マゲのない時代劇〟として、従来の時代劇の変型とする見方にはくみしない。
 様式美を重んじ、立回りにウエイトのある点は共通するが、日本全体が明治を境に近代国家に変貌したことからいって、時代劇映画と任俠映画は成立する基盤も内容も本質的に違うのだ。
 時代劇には〝股旅もの〟というジャンルがある。次郎長一家のような集団から、沓掛時次郎や関の弥太っぺのような一匹渡世のやくざまで、庶民のヒーローとして人気を博してきた。座頭市もこのカテゴリーに入る。
 股旅映画は日本が非常時という言葉のもとに、戦争に向かって急坂を転がるように傾斜していった暗い谷間の時代、その重圧の息苦しさからの逃避、夢も希望も満たされない鬱憤のはけ口として大衆に受け入れられた。大衆は気ままな三度笠のやくざに仮託してわずかに自由へのあこがれを求めたのだった。そして、その中に語られる義理人情にひたった。
 戦後の社会状況の変化は、股旅やくざに自由を見る必要はなくなった。だが、管理社会の中でガンジガラメになっている現代人は別の意味で〝脱体制〟という自由を志向する。社会のハミ出し者として孤独な影を引いてさすらう旅がらす、その好例が『木枯し紋次郎』だが、これらをカッコいいと見るのは自由への共感ないしは憧憬だろう。彼らがその自由な生きざまの代償としてアウトローの悲哀をズッシリと背負っていることには目がいかないか、もしくはそれを避けて、ひたすらおのれの倫理、おのれの世界にひきこもうとする。それが大衆のカタルシスだ。
 股旅ものはしょせん、時代劇であり、遠い世界の物語だ。しかし着流しやくざは隣り合わせており、さらに現代やくざは日常生活の現実の出来ごととして見せつけられ、かかわり合ってくる。そこに股旅ものとは全く異なる受けとめ方が生まれるのである。

〝前衛〟としてのやくざへの共感
『飛車角』を起点とした任俠映画は、はじめ明治・大正ものが主流を占めていた。東映でも日活でも、明らかに〝マゲをつけない時代劇〟という考え方をしていたが、大衆はもっと別な形でとらえた。
 時代劇の多くの主人公が、庶民の味方といいながら、結局権力につらなり、体制のカサの中でカッコよくおさまり返っていることへの絶望と反発から、もっと身近な代弁者を選択したともいえる。
 時代劇で人を斬るのもストレス解消にはなる。だが現代人はもっと直接行動的な暴力を期待する。ショー的な立回りではもはやカッタルイのだ。明治・大正の着流しやくざは、時代が接近しているだけに、大衆のウサばらしには最も適していた。
 高度成長下の太平ムードに満足せず、その欲求不満をやくざ映画で満たすということは、大衆がいまの社会を決していい社会だとは思っていないからで、〝生きがい論〟がもてはやされるのもその具象だが、現代は理屈ではいい表せない面白くないことだらけである。
 それは政治にはじまる、〝大悪〟が権力者、体制として重く立ちはだかっていることに対する弱者である大衆の、いいしれぬ反発、いらだち、憎悪だ。しかし、無力で自分たちにはどうにもできない。それを暴力で解決してくれるのがやくざ映画である。
 悪党、ボス、黒幕を叩っ斬る着流しやくざに、気にくわない奴をブッ殺したいという私怨も含めてゲバルトの代弁者として大衆は喝采を送った。彼らがかつての時代劇のヒーローのように権力と全く関係のないやくざだから、そして、自分たちと同じ一般の社会人でないからこそいいのだ。
 無職、遊び人、遊俠の徒、無頼、アウトローだから、彼らやくざが庶民のために体を張って、あこぎな奴らをやっつけてくれる。そして赤い着物を着るか青い着物を着る、それでいいのだ。
 自分たちの仲間や知人、カタギの人が犠牲になるのは気の毒だが、やくざならいい。この大衆のエゴイズムがやくざを前衛に仕立てた。日本はいまもってタテ社会である。階級的思考は根深く残っている。そして上昇志向があると同時に、常に自分たちより下級の存在を作ることによってささやかな自己満足を得ていた。下層社会においてすら、その現象はあった。
 大衆はやくざの気ままな生活、遊び人の生活に憧れはするが決してやくざになろうとはしない。それはやくざを自分たちよりバカな奴ら、クズだと軽蔑しているからだ。市民権を持たないその連中が自分たちに代わって戦うからエライとかよくやったとほめるのだ。
 しかし学生などはやくざの反権力・反体制の無償の行為に心情的に共鳴し、やくざの殴り込みと学生のゲバルトを情念としてダブらせた。任俠映画を学生やインテリが支持したことによって、多様な解釈が生まれたが、「自分はできないけど誰かがやってくれるといい」という大衆のエゴと、やくざを自分より社会的に低い人間だと見てエリート意識を満足させる傲慢さをヌキにして、その本質をとらえることはできまい。

任俠映画と反体制志向
 任俠映画が定着するに従い、現代と密着した反権力・反体制志向を打ち出す作品も出たが、やくざが腐敗政治家や、悪徳資本家を向こうに回して闘うとかテロリストになるというのは、国士に昇格したようなもので、そのヒロイズムは任俠映画本来のモティーフではない。任俠映画はやくざの生命である縄張りをめぐって抗争するという図式化されたテーマをグイグイ押しまくったほうが単純明快でスッキリする。この図式の中に掟があり、義理人情のしがらみ、男と女の涙がある。しかし、しょせんは病理集団だから、おてんとさまもまともに拝めないはんぱもん、クズでございますというへり下った自意識が見られないやくざからは、大衆の心の琴線にふれるような哀切の情感がニジみ出るはずがない。あまり出すぎると反感を買う。つまりエラくなってはいけないのだ。
 また、やくざが正義の倫理などふり回したのではぶちこわしで、の悪いことは黙って全部しょっていく。一宿一飯の義理に命を張るバカな渡世。それを承知で男一匹、ドスを片手に殴り込むところに〝やくざの美学〟が生まれる。現代人にはほとんど失われている義理と人情、そして俠気。「男になりたい、男で生きたい、男で死にたい」と唱えるやくざにある種のポエムを感じるのは、男らしさへの回帰という心の底からの欲求ではないか。
 任俠映画のやくざは股旅ものの延長と見なすわけにはいかない。〝組〟という組織なしには存在し得ず、仁義と掟に拘禁され、被虐的な生き方の中から怨念をフツフツとたぎらせている近代やくざには、同じアウトローでも股旅やくざのような自由はない。わずかに日活・高橋英樹の〝男の紋章シリーズ〟が、股旅ものに通ずる雰囲気を持っていたのみだ。
 任俠映画は俗に〝ガマン劇〟といわれるくらい耐え忍び、我慢を重ね、そして最後に、「死んでもらいましょう」とやる。屈辱の忍従からラストの〝爆発〟に転ずるという同じパターンがくり返され、十年も続いてきた。
 しかし大衆は常に鋭敏に反応する。四十年代後半、連合赤軍あさま山荘の銃撃や、内ゲバなど、暴力が社会に刺激をもたらしたため、なりふり構わぬむき出しの暴力映画が登場する。
 さらに〝実録路線〟が生まれた。もう近代ではなく現代なのだ。東映の佐藤純弥監督は「これまで東映がやってきて成功した〝任俠映画〟はみがきにみがかれて歌舞伎調の美意識に達したとともに、面白さの方もピークに達したと思います」と、着流しやくざとの訣別を語っている。

任俠映画の殺陣
 任俠映画の殺陣は時代劇のメリハリは持っているが、時代劇よりもずっとリアリティを要求される。ただ、同じやくざとして〝股旅もの〟の殺陣と共通項はあるだろう。
 川原利一氏は、やくざの場合は「剣法を知らない人間として振りつけする」といい、
「一体にやくざの剣は、本式に剣道を修行してのものではないから、形のくずれたものでないとかえってウソになる。たとえば、正眼の構えといっても、あまりピタリと正眼に構えてはいけないので、刀身を少し傾けたり、上体をやや前かがみにしたりする。また、武士ならば切った刀はピタリと止まるが、やくざの刀はブルンとうしろに流れる、といった工合だ」(よみうり演芸館「殺陣」)
 といっている。
 やくざは一本刀で、構えも型もなしの度胸剣術がたてまえ。ガムシャラに斬ったり突いたりふり回したりするが、その代わり地形を利用したり、周りの物を片っぱしから投げたり、受ける道具にしたりという機知と応用が、武士の立回りよりはるかにウエイトを占める。
 足立伶二郎氏は、
「やくざ剣法はブッタ斬ったという感じだ。斬った感じとブッタ斬った感じは違う。ブッタ斬りは型が崩れる」
 という。
 だが、同じやくざでも、次郎長とか国定忠治のような親分になると、ムチャクチャな立回りはできないから、それなりの風格を立回りの中に出さなければならない。
 高田浩吉が楽天的な鼻うたまじりで三度笠スイスイの股旅もののときが一番颯爽としていたのは、軽量級ということのほかに、立回りが下手なため型をくずしたやくざのそれならばなんとか見られたからだ。対照的にオーソドックスな剣豪スターはたいていやくざには向かなかった。
 着流しやくざの場合も型をくずす点では変わらない。ただ、明治時代は御家人くずれなどが結構いたし、また現代やくざでも剣道の心得のある連中がいるわけだから、一概にくずせばいいというものではなく、やはりその人物の性格や設定に合わせるのだ。
 何よりの特徴は、ご一新以後、帯刀禁止令が出て、ふだんは刀を持っていない。その代わりやくざは短刀を懐中へ呑む。これだけで長脇差の股旅やくざの立回りとは違った立回りになる。
 殴り込みなどで刀を使うときは腰に差すことはほとんどない。左手に持って行く。刀を布で包んだままの場合もあって、これは布をハラリと棄てて刀を出すとき、ゲバルトの決意を表現する劇的効果を与える。また、刀を抜くとさやは棄てる。巌流島の決闘で武蔵が小次郎に「勝つつもりならなぜ鞘を棄てた」と指摘して心理的にグラつかせたが、殴り込むやくざははなから死ぬ覚悟なのだ。
 最も多いパターンは、最後にヒーローが単身殴り込む。もしくは助っ人が一人か二人加わるもので、相手は二十人、三十人という大勢の子分がいる。その上に用心棒か殺し屋がいて、黒幕と親分という配置。〝立川文庫の再来〟といわれた東映時代劇で、スーパーマン的主人公が心地よさそうにスパリスパリ斬りまくるのと状態は同じである。
 もちろん、一人や二人でそんなに多くの相手を斬るなど、非現実的で時代が現代に近づけば近づくほど、その虚構がソラゾラしく映ずるのだが、しかも、大衆は虚構を承知の上で、凄絶な斬り込みに興奮し熱狂する。
 すがる女を突き放し、渡世のスジと男の意地を通すため、ひとり死地に向かう男の心意気と悲壮感、堪えに堪えてきた憤怒と怨念を爆発させるアクションにシビレるのである。
 さすがに立回りとなると、時代劇調のカッコよさはセーブされて、主人公も傷つき、あるいは死ぬ。いつもヒーローが無敵では興ざめだが、彼らが死ぬか、ヨセ場に行くという。ことでキチッとオトシマエをつける。それで大衆は納得するわけだ。
 ぶった斬る感じは股旅ものの場合と同じだが、憎悪をこめて、悪玉をドスッ、ドスッと二度も三度も刺す〝殺し〟の残酷さは股旅ものにはなかったし、終わったあと、刀を握りしめていて膠着こうちゃくした指を片方の手で一本一本開くリアルさも出している。

鶴田・高倉の殺陣
 個々のスターでは、鶴田浩二の着流しが一番イタについていた。肩をちょっと落として着物のスソをつまんで歩くだけで雰囲気が出る。長い間二枚目をやってきたその甘さが、うら哀しいやくざの宿命を表現しており、いかにも粋な遊び人であり、渡世にどっぷりつかった〝古いヤツ〟という感じである。彼は長いのはあまり使わず、短刀を逆手に持って相手ののど笛をサッとかき切る。短刀は小回りがきくし、長ドスより疲労度も少ない。しかしテクニシャンでなければできない立回りだ。
 高倉健は最初は長身なので着流しの場合、下半身がどうもサマにならず、むしろ土方のパッチ・スタイルがよく似合った。腰のすわりの悪かったのも改まり、長ドス振るっての阿修羅のような立回りはダイナミックで、最も迫力がある。〝泣かぬ、笑わぬ高倉健〟のストイックな表情は、トレードマークになった「死んでもらうぜ」というセリフの効果を一段と高めるのだ。彼のブッキラボーな個性と同じく、直情径行、目的に向かってまっしぐらに突進する馬力が、何十人叩っ斬って返り血を浴び血だるまのようになろうと、ちっとも不自然と思わせない。
 東映は千恵蔵・右太衛門、錦之助・橋蔵というような陰陽の組み合わせないし対立をスターシステムの中に用いてきた。鶴田・高倉も同じパターンで、この二人の対照的なキャラクターが作品の上にも立回りシーンにもよく反映されている。
 鶴田には中年にふさわしく、挫折も敗退も経験し、控え目に分を守るといった風情があり、殴り込みも、おのれの生命の最後の燃焼だというようなあきらめがある。だから、その前後に女と濃厚なベッドシーンを展開するのも、死を予感させる行為となるのだ。四十三、四年頃からは中年のけだるさがにじみ出て、いっそうカゲの濃い年季の入った渡世人像を作り出した。彼の歌『無情のブルース』の〽はじき出されたハンパな命、棄てても未練があるじゃなしが鶴田の姿だろう。
 高倉の場合はおさえてもおさえても憤りで肉体がふくれ上がるようなはげしさを持ち、〽せなで吠えてる唐獅子牡丹のようなタフさが身上だ。彼は〝日本俠客伝シリーズ〟的な庶民の日常生活とかかわり合っていて、自分を含めた生活共同体やその基盤をおびやかす相手へのゲバルトに真価を見出す。それは生活を持たない鶴田と違って、生きるために対立する相手に〝死んでもらう〟のである。
 スジものにいわせると、鶴田・高倉よりも池部良が本格的だそうだ。燃える男、かけひきなく突き進む高倉に対して、インテリやくざの雰囲気を持つ池部を持ってきた〝昭和残俠伝シリーズ〟は、その静と動のコントラストの見事さにおいて成功した。二人は渡世の義理で対決するが、最後は肩を並べて殴り込む。その同じパターンが何度もくり返されながら、メリハリのきいた様式美が大衆を堪能させた。単身出かける高倉に、ツと傘をさしかける池部、ちらつく雪の中を歩む二人。ドスのきいた高倉の主題歌が流れて、それは完成された〝絵〟となっていた。流血の修羅場の前のこういう描写が、次の立回りシーンを盛り上げるのである。

刺激のエスカレート〝実録路線〟
 暴力が現実社会の中で遠い出来ごとだった時代は、虚構の中で義理人情、掟だ仁義だということが、美意識とともに大衆の嗜好に投じていた。学生のゲバルトに心情的に〝連帯〟できたころの大衆は任俠映画に見る虚構の暴力しか知らなかったわけで、それが赤軍事件やハイジャック、テルアビブの乱射など、現実のものとして日常社会にかかわり合ってくると、様式美に支えられた虚構は、かつての時代劇と同じくカッタルイものになった。
 刺激はエスカレートする。鶴田・高倉に代わって、四十年代後半には菅原文太が暴力の体現者として登場、『人斬り与太』や『まむしの兄弟』などのグレン隊、チンピラやくざに扮して、仁義もスジ目も無視して、自分の情念だけで突っ走った。これは野獣の世界である。カッコつけたりしない。文太の立回りも、ドスを脇に構えて全身でぶつかるというもので、やるかやられるか、斬るのではなくあくまで突き殺すのだ。他人を食わなきゃ生きられぬ八方破れのバイタリティが表現されている。
『仁義なき戦い』の大ヒットは、この〝けものの倫理〟が示すリアリズムが〝暴力〟の恐怖をまざまざと知った大衆に支持されたことにある。
 〝実録路線〟で安藤昇が急上昇したことは、彼が〝ホンモノ〟だったからで、彼のプロらしいすごみはほかの追随ついずいを許さぬものがある。任俠映画で突き刺した長ドスを相手の体に足をかけて引き抜くような動作一つにもそれを感ずる。しかし文太にしろ安藤にしろ、現代やくざはやはりドスよりはハジキとか機関銃が武器としては主にならざるを得ない。これは確かにインパクトが強い。ただし刀をふるう殺陣とは異質のものである。

日活任俠路線のスターたち
 任俠やくざと現代やくざの中間に位置するのが渡哲也の人斬り五郎などだ。鶴田・高倉らが〝組〟に代表されるやくざのしがらみの中で悲壮美を謳い上げるのに対し、彼は一匹狼アウトローであり、義理や組のためでなく〝生かしちゃおけねえ〟から殺すテロリストだった。黒匕首くろドスを使う渡はスポーツマンらしくシャープで、高倉らとは違った〝殺しの美学〟がそこに見られた。三、四人をパパッとハスってダーッと飛び出すスピーディな身のこなしは、中年ないしは中年に近づいた東映やくざにはない魅力だった。
 三十八年から四十二年までつづいた〝男の紋章シリーズ〟をはじめ、一時期日活が東映のあとを追うように任俠映画を盛んに製作したが、任俠映画が様式美を骨格とする以上、時代劇で売ってきた東映に抗すべくもなかった。
 小林旭と宍戸錠の『関東遊俠伝』にしても、あれだけ〝渡り鳥シリーズ〟などで呼吸の合った二人でも立回りとなるとギコチなさが目立ったし、高橋英樹もインテリやくざだから成功したのであって、普通なら貫禄不足というところ。ただ彼は、いささか当世風でない整ったマスクが一種の悲壮感をただよわせ、〝新派調〟の任俠ものにスッと入りこむことができた。

女賭博師と緋牡丹お竜の殺陣
 四十一年大映ではじめた江波杏子の〝女賭博師シリーズ〟を皮切りに、ひところ女やくざがスクリーンに咲き誇った。そしてその中でひときわ大輪の花を咲かせたのが藤純子の〝緋牡丹博徒・お竜シリーズ〟だった。
「弱いはずの女が強いものに向かっていく魅力を狙った」と、藤の父でもある俊藤浩滋プロデューサーが語っていたが、彼女のメリハリのきいた演技と清冽せいれつな色気は大衆を熱狂させた。これまで鶴田・高倉らの陰で古風な女を演じ、日本人にとっての理想の女性と目されて来た彼女が、颯爽と立回りをやる。それは〝戸田流風乱の殺陣〟と名づけられ、横笛に仕込んだ小太刀をふるうのだが、スローモーションの効果がよく現れて、鮮やかな立回りとなった。小太刀を右にピストルを左に持ったり、カンザシを手裏剣に打ったり、合気の型で男を投げ飛ばしたりと、男顔負けのアクションだが、無理がなく、線がきれいで、牡丹の花を随所にあしらった効果とともに耽美性が強調されていた。
 その藤純子も引退し、女俠ものはやくざ映画のアダ花と終わってしまった。だが、殺伐な血の饗宴を結末とする任俠映画の中にあってそれは一つの華やかなイロを添えたものであった。

マカロニ・ウエスタン自滅の教訓を生かせ
 やくざの立回りが様式美を重んずる時代劇風のものからゲバルトへ、テロへ、そしてけものの殺し合いへと転化してきたことは、一つには時代背景の変化があるが、それだけ刺激がエスカレートしていることは見逃せない。ポルノと並んで暴力の描写はますます迫真的になり狂気の様相を帯びてくるだろう。それはもはや革命のエネルギーとして転生できる可能性をとうに失っている。マカロニ・ウエスタンと呼ばれるイタリア製西部劇が大量殺戮と残虐性を強調した結果、自滅した例を見るとき、どのていど止揚するかは、映画作家の思想にある。破滅型アナーキーを志向すればこのまま狂気のボルテージを上げるしかない。しかし立回りというより殺しの場もドラマの必然性によって構築されるのだ。大衆がストレス解消のための刺激を求めているからといって迎合することはない。虚構をいかに真実らしく見せるかが映像の持つ本来の魔術性ならば、自ずと方向も定まるはずである。
 しかし今日のような社会的矛盾、世の中の非条理が一片の反省もなく、大衆の犠牲の上に成立していることは、必然的に政治体制、世の中の仕組みを破壊したい、あるいはしなければという願望なり意識を醸成する。その大衆の感情を背負って、一層強烈なバイオレンスを謳った作品が出てくるだろう。
東映時代劇の命運
 東映は任俠路線に方向転換しながらも、錦之助の『宮本武蔵』五部作を完成させ、集団抗争時代劇を発表し、『股旅・三人やくざ』や『沓掛時次郎・遊俠一匹』等の股旅ものを作ったり、『牙狼之介』で新スター夏八木勲を売り出したり、錦之助に丹下左膳をやらせたりと、それなりに手は尽くしたが、「時代劇はもう儲からない、やくざものの方がずっと効率がいい」という現実論の前に、みるみる時代劇を戦線縮小していった。
 すでに三十九年、市川右太衛門が『忍び大名』を最後にスクリーンを去り、片岡千恵蔵も主演作はなくワキに回るようになった。この両オン大の退場で道筋はついており、四十一年の錦之助の退社によって、東映時代劇は終焉したと見ていい。
 その後も細々と製作されたものの、『くノ一忍法』や一連の〝大奥もの〟、『ワタリ』『怪竜大決戦』等の〝特撮もの〟では、勝の座頭市、雷蔵の眠狂四郎で勢いに乗る大映の〝カツ・ライス〟路線には敵すべくもない。
 ことに『大奥㊙物語』からはじまった〝大奥もの〟は、四十一年の『四畳半物語・娼婦しの』『女犯破戒』『骨までしゃぶる』などの、〝東映好色路線〟を受け、四十二年の『徳川女系図』『徳川女刑罰史』『大奥絵巻』とつづいて、〝東映刺激路線〟あるいは〝異常性愛路線〟へと突き進んでいく。
 ここにはもはや〝時代劇の東映〟〝チャンバラの総本山〟の面影は全くなく、三十六年に崩壊した新東宝を見る思いさえしたのだった。
 かくて四十五、四十六年は東映時代劇はゼロ。四十七年の『子連れ狼』を起爆剤とする劇画映画化ブームの時にもわずかに若山富三郎の『一瞬八人斬り』と菅原文太『木枯し紋次郎』二本、計三本を出したのみ。(『徳川セックス禁止令・色情大名』や『エロ将軍と二十一人の愛妾』などは対象外である)。
 四十八年は、ポルノ時代劇」と銘打った『忘八武士道』一本、四十九年も『忘八武士道・さ無頼』一本というありさま。
 四十四年の雷蔵の死がきっかけのように大映時代劇も失速し、ついに四十六年末倒産の憂き目を見る。時代劇の本流の一つが消え、もう一つの東映がこの状態では、せっかくの劇画ブームで起こった時代劇復活の火も三年と保たなかった。東映が全く時代劇をかえりみず、任俠路線から実録路線とやくざものばかり追いかけたことで、あたらチャンスを潰してしまったともいえる。

深作時代劇の誕生
 五十三年になってようやく東映が本格時代劇『柳生一族の陰謀』を製作する。主演は中村錦之助改め萬屋錦之介だ。実に錦之介は十二年ぶりの復活であり、東映自体、四十二年の『十一人の侍』を本格ものの最後とすれば十一年間の空白を経たわけである。
『柳生一族の陰謀』は渇望久しかっただけに大ヒットとなり、光明を見出したかに見えた。しかし続く『赤穂城断絶』はいいとしても、その次の『真田幸村の謀略』とか『徳川一族の崩壊』ときては、またまた悪しきパターンに陥ったというべきか。あたら萬屋錦之介という時代劇の切り札を復活させながら、この〝大作〟路線も尻つぼみになってしまった。
 ただ、五十五年の『影の軍団・服部半蔵』『忍者武芸帖・百地三太夫』、五十六年の『魔界転生』などが、忍者+集団抗争のダイナミズムと凄絶さで注目された。
『柳生一族の陰謀』の深作欣二監督は、『仁義なき戦い』五部作で、任俠路線の美学を破壊し、暴力をエスカレートさせた〝実録路線〟で東映を引っぱってきたが、その手法をそっくり時代劇に用いた。
 深作監督が時代劇をはじめて撮っただけにフレッシュな感覚にあふれていたし、彼自身、「アナーキーな生き方という意味では、いままでの時代劇を踏襲していないし、また、そういういままでの映画を、後押ししても仕方ないし」(『ムービー・マガジン』No.15)といっている。
 当然立回りについても独自の考えがあるわけで、彼はこういう。
「リアルに乗っかった殺陣。それと、矛盾するけど、五味康祐的の立ち廻り――ロマネスクあるね。そういうのも拾ってみたい。限定はしたくない。(中略)立ち廻りは必ずしもリアリズムばかりでは成り立ちませんからね、そこらへんは、いろんな方法を、アナーキーでなく、欲ばって使っていきたい。チャンバラ映画の魅力としてね」(前掲誌)
 これだけでは深作時代劇の全容はつかめないが、スピードとケレンみたっぷりのチャンバラ、単に剣だけでなく、体術とか幻術――めくらましを応用し、現代アクションの要素をとり入れた立回りは刺激的でさえあった。
 あくまでオーソドックスで重厚な錦之介が芯になっているからこそ、軽くならずにすんだし、いろいろな試みが成功もしたのだ。

模索する時代劇
『影の軍団・服部半蔵』では工藤栄一監督がチャンバラをアメ・フトにしてしまった。忍者たちがヘルメットをかぶり、肩もりもりのアメ・フトスタイルで駆け、激突する。それは壮烈な忍者の肉弾戦だ。カッコいい立回りを否定する工藤監督の新しい手法だった。
『忍者武芸帖・百地三太夫』では千葉真一が〝アクション監督〟として、自分の率いるジャパン・アクション・クラブの面々とともにアクロバティックな殺陣を開発して見せた。
 これらの〝ネオ・チャンバラ〟が『魔界転生』に凝集し、無類の面白さとなった。奇想天外なスペクタクル・ストーリーの中に、魔界衆となった剣豪たちと柳生十兵衛の対決がつぎつぎと展開される。
 このような時代劇でなければ描き得ない虚構の面白さ、そしてテレビでは決して得られないエクスタシーにも似た満足感を与える作品を作ればと思う。事実これはヒットし、〝ニュー時代劇〟ラインができたのである。
『魔界転生』のあとを受けて翌五十七年、角川事務所と提携して『伊賀忍法帖』が作られる。忍法vs魔界衆の妖術を特撮を用いて描いた。しかしアクションよりも真田広之と渡辺典子の〝恋と冒険〟というメロドラマ的要素が強く、破天荒なムードに欠けた。
 この時の殺陣師菅原俊夫氏は、時代劇から任俠映画へと、続いてきたという殺陣の流れを大きく変えたといわれている。
「これまでの立廻りは、実際には斬らないで斬ったように見せるトリックだった。私のは逆に、斬ったように見せて斬らない」
 のだという。つまり、それだけスピードが要求される。格好つけた殺陣でなく、ハードでリアルな殺陣ということで、迫力を盛り上げたのだ。だが、その一方で、
「といっても、根本から変えたわけじゃないですよ。殺陣には、これ以上はくずせないって部分がありますから、そのくずしが許されるなかで、今の若い人にアピールするものは何かということを探っている。その接点というのは、役者によってかわってきますけどね。だから、役者の限界とか、許容量を、いち早く見ぬくことが必要です」(『キネマ旬報』五十七年十二月下旬号)
 と語っている。模索する時代劇を陰から支える現場の人の苦心がうかがわれる。
 翌五十八年角川事務所製作の『里見八犬伝』は時代ものの古典をとり上げながら〝インディ・ジョーンズ・シリーズ〟や〝スター・ウォーズ・シリーズ〟を思わせるような全くのSFX映画と化していた。
 忍法ものの怪奇さとか意外性、そして忍法だから映像に表現できるスペクタクル、それらがエスカレートしたと解すればいいのだが、ここまでくるとシラける。
 東映はこの作品を配給しただけで、またしばらく時代劇から遠のく。『大奥十八景』と『吉原炎上』のチャンバラと無縁の二作品があるのみで、休火山状態をつづけ、六十四年に六年ぶりで『将軍家光の乱心・激突』を発表した。
 本格的な派手なチャンバラが日本映画から消えてストレスがたまってしまったところだったが、この快作でスカッとさせられた。これは『魔界転生』をしのぐ大チャンバラだ。アクションに次ぐアクション。馬と火薬をふんだんに使って見せ場をこしらえている。西部劇感覚のスペクタクルで、つり橋爆破、山牢爆破、人馬火だるま、温泉場での仕掛け、騎馬シーンなど息をもつがせない。
 刺客団と若君守護の浪人隊、プロとプロとの戦闘は熾烈をきわめ、中国武術を用いる胡という異色のスターもいて、立回りは実に多彩で見事。〝アクション監督〟千葉真一の手腕が存分に発揮された。
 その千葉と緒方拳の一騎打ちは、戦前の活動写真的な匂いを放つ大立回りで、屋根を突き抜け、組み打ちで転がりと、熱闘につぐ熱闘で観客を堪能させた。これだけのものを作れるなら何でもっと、というのが偽らざる感慨である。
 さらに三年近く経て、六十六年末、『江戸城大乱』が出た。東映が少しでも時代劇を作ろうという意欲を示しているのは喜ばしい。スターだけでなく、時代劇を構成するすべての伝統的要素がこのままでは消滅しかねない。やはり〝総本山〟東映の大奮起こそチャンバラファン、チャンバリストたちの願いなのだ。

千葉真一の活躍
『柳生一族の陰謀』で柳生十兵衛に扮し、萬屋錦之介の但馬守の手首を斬り落とした千葉真一は、『魔界転生』でも十兵衛になり、若山富三郎の但馬守や緒方拳の宮本武蔵、沢田研二の天草四郎らと対決する。テレビでも『柳生一族の陰謀』、次いで『柳生十兵衛あばれ旅』等ですっかり十兵衛を当たり役にした。
『戦国自衛隊』でアクション監督を兼ね、その後も『百地三太夫』『魔界転生』『伊賀忍法帖』『里見八犬伝』を経て、『激突』ではアクション監督を兼ねて活躍した。
 千葉は日体大出のスポーツマンで、アクションスターとして東映現代劇の一翼を担ってきた。とくにブルース・リーにはじまった1970年代には十数本のカラテ活劇に主演、海外にまでその名を知られたが、『柳生一族の陰謀』以来、すっかりチャンバラづいて、バネのきいた動きのいい立回りを見せ、まさに〝ニュー時代劇〟を代表するスターとなった。
 萬屋錦之介が脇に回ったりで、人を斬らなくなったし、若山もフケ役をやるようになってはもう看板とはいえない。そんな谷間を埋めるべく登場したのが千葉だったのだ。
 もっとも彼の立回りについて、佐藤京一がこう評している。
「アクションはうまいけど、侍の殺陣は、もっと勉強しなきゃいかんな。腰がなってない。ヤクザの殺陣は、ただ振り回せばいいんだけど、動きだけでは絵にならない」
 殺陣師の中にも千葉のはチャンバラでなくスポーツだと否定する人がいる。
 しかし千葉のスピードはすばらしい。テレビで『影の軍団』を三、四回やったが、アクロバティックなアクションはいかにも忍者にふさわしく、彼の主宰するジャパン・アクション・クラブ(J・A・C)のメンバーたちとイキの合ったチャンバラ場面を構成した。
『激突』は〝アクション監督〟千葉の活躍もさることながら、千葉自身の立回りの集大成ともいうべきものだった。
 新国劇出身でアブラの乗っている緒方拳がガップリ組んだので、あれだけ迫力ある対決シーンが生まれた。まさしくタイトル通りの激突だった。
 テレビ東京の『徳川無頼帳』で彼は持ち役だった柳生十兵衛を西条秀樹に譲り、自分は廓幻之介=松平忠輝を演じた。千葉も年齢的に自分が第一線ではないとし、真田広之はじめ後輩を育成する立場に回ったのだろうが、西条は明らかにミス・キャスト。千葉十兵衛で行くべきだった。それにしても幻之介に扮した千葉の殺陣は、やたら刀をこねくり回すのが気になった。その早さは抜群なのだが、妙な構えにこだわらない方がいい。あれだけの動きができるのだからもっとバリバリやって、若手を引っ張っていくべきだ。

〝非京都時代劇〟の系譜
 東映・大映を〝京都時代劇〟としてくくることができるが、東宝こそはその成立過程からして〝非京都時代劇〟の牙城であった。
 日活から大河内伝次郎を迎え、松竹とトラブって長谷川一夫を引き抜いた。このトラブルが原因で長谷川が暴漢に襲われ顔を切られるという事件を生み、映画界の暗部をのぞかせ、社会を震憾させたものである。
 この二大スターのほかにも多くの時代劇スターを集め、前進座と提携するなどして『戦国群盗伝』『阿部一族』『忠臣蔵』『新篇丹下左膳』『蛇姫様』『川中島合戦』『阿片戦争』『折鶴七変化』『孫悟空』『水滸伝』等々の大作を発表している。
スケールの大きさ、豪華なキャスティングは、日活・松竹・新興等の〝京都時代劇〟を圧倒する勢いだった。しかし大味というか、時代劇特有の〝色〟とか〝におい〟に欠けていた。これは近代的な東宝カラーのせいかもしれない。
 この傾向は戦後も続いている。長谷川、山田五十鈴の『小判鮫』で大ヒットを放ったり、阪妻・大河内顔合わせの『紫頭巾』を配給もした。時代劇復活のキッカケとなった『佐々木小次郎』を作ったのも、〝次郎長三国志シリーズ〟で集団形式を生み出したのも東宝である。
 そして二十九年には黒沢明監督の傑作『七人の侍』、三十年~三十一年『宮本武蔵』、三十二年『柳生武芸帳』、『蜘蛛巣城』、三十三年『隠し砦の三悪人』といった大作を出している。三十六年の『用心棒』、三十七年の『椿三十郎』によって〝京都時代劇〟を粉砕する素地は十分あったわけだ。
 その後も『忠臣蔵』『赤ひげ』『大菩薩峠』『上意討ち』『佐々木小次郎』『斬る』『風林火山』『御用金』『新選組』『蝦夷館の決闘』『幕末』『真剣勝負』等を製作ないし配給している。
 四十五年の『待ち伏せ』は三船プロの製作だが、三船のほかに石原裕次郎、勝新太郎、中村錦之助と、独立プロの〝盟主〟が四人も結集した〝大作〟で、いわば〝非京都時代劇〟を象徴するものだった。
 大映瓦解後、勝の〝座頭市シリーズ〟〝御用牙シリーズ〟、若山の〝子連れ狼シリーズ〟、裕次郎の『影狩り』も配給するなど、東映が低迷、四十五、六年はゼロ。大映が四十六年末崩壊という〝京都時代劇〟メロメロの時期大いに気を吐いたのだった。
 本来〝京都派〟である勝、若山、錦之介らをほぼ傘下に収めながら、東宝の〝非京都時代劇〟は四十九年に終息してしまう。これは多分に劇画ブームの終焉と軌を一にしている。
 安易な劇画映画化がマイナス面となったことは確かで、若山富三郎が時代劇復活について問われ、
「あるかねぇわからない。俺は『子連れ狼』で復活すると思った。ところが『影狩り』というのを裕次郎がやっちゃった。これがひどい。俺のがあって、錦之助、三船、勝があって、そういうふうにならなかった」
といっている。(『ムービー・マガジン』No.14
 裕次郎はすばらしいスターだが、彼の現代的なマスクとムードは時代劇には向かない。とくにチャンバラは長身の彼が腰高のままバサリバサリと横ぎに斬るだけの単調さで、太りすぎのせいか日活の救世主といわれた頃のようなスポーティなアクションが見られず、全く興をそいだ。裕次郎は立回りをナメているようにさえ感じられたものだ。
 もともと東宝は東映のように時代劇の比重が大きい会社じゃない。しかしこれまでの数々の〝大作〟を発表してきた実績と、三船敏郎という現代ものも時代ものもこなせる男性派ナンバーワンがいる上に萬屋錦之介、若山・勝兄弟、仲代達矢ら、ビッグスターを抱えていながら無策に過ぎた。
 〝京都時代劇〟が空白に等しかった時期、ファンが渇望してやまなかった時に、なぜもっと積極的に本格的時代劇を作って〝非京都時代劇〟を確立しなかったのだろうか。
 大顔合わせの『待ち伏せ』や『幕末』が予期したほど成果を上げられなかったことが、東宝に腰を引かせる一因と考えられる。だがこれらは独立プロ製作で、東宝自体実損を蒙ったわけじゃないだろう。
 東宝が時代劇で主導権を握るチャンスだった。この時期こそ、ハリウッド的なハイリスク・ハイリターン方式で、大胆に時代劇に取り組むべきだったと思う。
 若山がいう。これはとくに東宝に対していったものではないが、
「やっぱり映画会社に心棒がない。青春映画なら入るったって、青春映画だってコケてんのいっぱいあんだろ。なぜ新しい分野としての時代劇を考えないんだろうね」
 と。(前掲誌)
 東映にしろ東宝にしろ、安全パイをふることを考えて、一種の縮小再生産状態になった。映画人口が激減して市場が狭くなったからといって、ひたすら事業のスケールを小さくしているのでは自滅を待つばかりだ。
 以後、黒沢プロの『影武者』『乱』、大映=電通製作の『敦煌』、勅使河原プロの『千利休』などの話題作を配給しているが、これらの作品はチャンバラ時代劇とはほとんど無縁といっていい。
 それよりも五十四年に東宝が配給した角川事務所作品『戦国自衛隊』に一つの可能性を見出した。本来〝ヨロイもの〟と称される戦国合戦映画は、大作ではあるけれどもチャンバラとは別のところに位置する。しかしこの作品は、日本ではじめてタイム・スリップを用いたSF時代劇であり、その奇想天外な構想は、忍法ものなどとは異なった魅力を持っている。
 一つの鉱脈とか突破口を見つけると、すぐ同工異曲の作品がつづき、食い荒らすような形になってしまうのが日本映画の弊だ。劇画がそのいい例である。
 SF時代劇を連発されてはたちまちファンから見放されてしまうが、こういう行き方も時代劇サバイバルには必要だろう。
 同じ角川作品『里見八犬伝』や六十五年のエクゼ=東京放送作品『ZIPANG ジパング』が超時空SF時代劇として登場するが、成功作とはいい難い。
 アメリカでのオリエント・ブームから来たジャパン・ブーム。ZEN、サムライ、刀、カブト、ニンジャといった要素を踏まえてショー小杉らの〝ニンジャ映画〟が超人気である。オカルト、ゾンビ、ヴァンパイア、スーパーマンこれら超常現象の線上にニンジャがあるのだ。
 忍術・忍法・忍者の〝本家〟として日本映画がどうしてSF忍法ものを製作しようとしないのか不思議でならない。サイエンス・フィクションというよりファンタジーだ。誇りをもって欧米人には神秘的に映ずるオリエントの、ジャパンの、ミステリアスでロマンチックでもある驚異の忍法&チャンバラを、SFX(スペシャル・エフェクツ)を駆使して映像化すれば、案外世界市場に通用するのではないか。
 たくましく世界市場に進出している香港映画を見習ってほしいものだ。とくに平成元年ソニーがコロムビア映画を買収、次いで翌年松下電器がユニヴァーサル映画を傘下に持つMCAを買収して、アメリカ映画産業に食いこんだことで、グローバルな視野での映画製作が想定される。
 ハリウッドの機構を使った雄大なスケールの時代劇が生まれる可能性は大いにあるのだ。日本映画にしかない剣の世界、殺陣、チャンバラの魅力を世界中にまき散らしてもらいたい。

〝五社チャンバラ〟
 東宝とは別に「非京都時代劇、でユニークな場を占めるの五社英雄作品だ。テレビの『三匹の侍』で名を上げた五社監督は、まず松竹で『三匹の侍』を映画化し、『獣の剣』を撮り、次いで東映『丹下左膳・飛燕居合斬り』『牙狼之介』、フジテレビ=東京映画の『御用金』、フジ=勝プロの『人斬り』、松竹の『雲霧仁左衛門』『闇の狩人』『十手舞』等の時代劇を発表している。
 その活動大写真的なケレンみたっぷりの娯楽作品は定評あるところだが、何よりも立回りがスゴい。四十四年の『人斬り』は〝五社チャンバラ〟の代表作として記憶される。
『人斬り』は開巻劈頭へきとう、辰巳柳太郎の首から血しぶきが上がるショッキングな演出だった。辰巳は暗殺者の剣を肩のところで受け止めているのだが、相手はかまわず刀に両手をかけ、力でゴリ押しする。その力がまさってじょじょに辰巳の首に刀が食いこみ、雨にけぶりながら赤いものが噴出する。凄絶としか表現のしようがなかった。
 石部宿での乱刃乱闘もすさまじい迫力があった。話題の三島由起夫が田中新兵衛に扮して大上段から気魄のこもった打ち込みを見せ、勝新太郎の岡田以蔵は我流のガムシャラな剣法で、野性的なエネルギッシュな立回りだった。受けた刀の上からゴリゴリと押し切ってしまう殺陣は、この作品ではじめて見た。〝殺しの美学〟をこれほど堪能できたのは『椿三十郎』以来といっていい。
 このときは湯浅謙太郎氏と京都の宮内昌平氏の二人が殺陣をつけたのだが、「いい意味で二人が競争意識を燃やしたので、すばらしい立回りシーンが生まれた」と勝新太郎がいっていた。
『人斬り』は衝撃的な迫力を殺陣に盛りこんだだけでなく、テロリズムの狂気を殺陣の上に具現して見せた。殺陣は型である。これまで正義であるとか憎悪、怨念であるとか対決であるとかが立回りの上に表されてきた。しかし『人斬り』は型を無視した。岡田以蔵の野獣のような剣は、人を殺すためにのみある。型も理屈もない。百姓剣法で問答無用で斬る。合目的的に斬るだけだ。要するに暴力である。殺陣という約束ごと、型を無視したナマの暴力がはげしく襲いかかってきた。それは左右を問わずテロルへの期待が醸成されていた今日的状況の産物だったし、戦中派・五社英雄監督の一種の予見ともいえた。そのテロリズムの奔流が型を超越して絵画的美しさとさえなったのである。
五社氏はいう。
「あれはアメリカン・ヴァイオレンスですよ。いまでいう実録的な壮絶さですね、あの殺陣はね。人と人とが殺し合うときに流儀とか剣法とかなんてないと思いますよ。野獣のように、それこそ相手ののど笛くらいついても勝つという動物的本能だけだと思う。そのすさまじさを出したかった」
 対決を描いて、首がゴロリと落とされたり、腕が飛んだり、血がドバッと噴出すると、残酷調だという。だが、戦争を描いた場合はどうか。もっともっと大量の人間が吹き飛ばされ大量の血が流れても残酷とはいわない。『人斬り』もそれに似て、闘争の極限をデフォルメした感じがあり、残酷なと目をおおうよりも、熱気と興奮にひきずりこまれるようだった。
 五十三年の『雲霧仁左衛門』で、追いつめた賊を大きな天水桶ごと叩っ斬ると、中の水がドバーッと噴き出したり、駕籠と中の人間の首が飛んだりという見せ場たっぷりのサービスぶり。バイプレイヤー佐藤京一に何度も居合抜きをやらせてみせるあたり、五社監督ならではのことだろう。
 この作品でも『闇の狩人』でもそうだが、威勢のいい女賊の立回り、女賊同士の組んずほぐれつの戦いなども、五社監督の「極彩色の毒」というやつで、よくも悪くもそのエンターテインメントに徹した〝活動写真〟づくりは見事である。
『十手舞』では新体操のリボンをとり入れた立回りを石原真理子にやらせて、目先の変化を図った。トレンディで話題を集中させる才能は抜群。「女性を描くことが下手」という評に反発してか、ヒロインものが続いているが、時代劇を作るに当たってのキメ玉の一人であったのに、平成四年八月三十日病死した。痛恨の極みだ。

近年の時代劇診断
 あと、テレビの『必殺仕事人』を持ってきた〝必殺シリーズ〟が五十九年から五本作られているが、映画的にスケールアップしただけで、テレビを超えるものではない。
 また、往年の名作『浪人街』のリメークは黒木和雄監督の殺陣に対する解釈が違っているように思う。せっかく勝新太郎を赤牛弥五右衛門にキャスティングしながら、「表返った」赤牛の獅子奮迅の大乱闘がなければ意味がないのだ。
『ZIPANG ジパング』は大冒険チャンバラの意気ごみは買うとしても、マンガチックで、とくに売りものの五十人斬りはもっと工夫がほしかった。
 その点『座頭市』は長年蓄積されたものがあるだけに、存分にチャンバラの醍醐味を満喫させた。やはりさすがというべきで、勝=座頭市はこれからも有効な大ゴマといえよう。
 角川映画の『天と地と』はまさに超大作だが、ヨロイものは別扱いとする。
 それにしても時代劇の大作の影響が一過性であることが、時代劇の地盤沈下を一層深めているのではないだろうか。
 その時その時興行的に成功を収めても、後につながらない。〝千利休もの〟を競作したところで、これは時代劇の復興とか、新しい展望には全く無関係なのだ。
 ヨロイものでも、SF時代劇でも、必殺でも、各社がつぎつぎと話題作を発表して、常にファンの関心を時代劇に集め、この次はいったいどんなものが飛び出すかと期待させるくらいでなくてはダメなのだが、それはないものねだりか。とにかく現在のように間歇的かんけつてきにポツリポツリの状態では、時代劇が陽を浴びることはできない。
 やはり大胆な世界市場を見据えた転換こそが、時代劇再生・転生・新発展のキーとなるだろう。

仲代達矢の役割
 大映がなくなって京都時代劇イコール東映時代劇というわけで、東映以外の作品をすべて〝非京都時代劇〟といったのだが、これを代表するスターは四十年前半までが三船敏郎、それ以後は仲代達矢である。
 彼は新劇出身、『人間の条件』でスター俳優となり、『用心棒』『椿三十郎』で三船と共演、『切腹』の主役で大型時代劇スターとして認められた。その後『股旅・三人やくざ』『大菩薩峠』『佐々木小次郎』『上意討ち』『斬る』『御用金』『人斬り』『無頼漢』『座頭市あばれ火祭り』『いのちぼうにふろう』等に出て、『雲霧仁左衛門』『闇の狩人』に主演、さらに『影武者』『乱』にも主演、文句なしのスーパー・スターとなった。陰影の濃い演技で屈折ある人物を演ずる仲代は、〝非京都時代劇〟のエースと呼ぶにふさわしい。同じ新劇畑でも加藤剛のような気取りがなく、重量感のあるところが小林正樹、五社、黒沢監督らからつぎつぎ起用されるという恵まれた立場をかち得たのだろう。
 仲代は『切腹』の印象が強烈で、時代劇スターとしてのキャリアはほとんどないのに剣豪スターと認知された形だ。事実、力強い立回りだった。そして風格がある。
 佐藤京一が仲代の立回りについて、
「うまさでは、若山さんや萬屋さんにかなわないけど、間の取り方はいいし、アップにも耐える人だね」
 と評している。
 フジテレビの『丹下左膳・百万両の壺』は五社演出だが、仲代左膳はよくやっていた。大河内伝次郎の左膳を見た目には誰がやっても不満が残るけれども、仲代は難しい左腕の殺陣もこなして水準以上の線を行っていた。
 新劇の大先輩千田是也が「ガラスの目玉」といったそうだが、その〝眼技〟がチャンバラではモノをいう。
 彼は正義のヒーローばかりでなく悪役もやり、それも色悪をやれる。これは他のスターにはない要素である。勝新太郎も『不知火検校』などの悪役をやって脱皮し、それが『座頭市』を生むことになった。しかし仲代の悪はもっと知的な匂いがする。現代ものなどではとくにそれを感じるのだが、その知的なかげりが、『切腹』の堂々たる主役を演じさせ、〝世界のミフネ〟と対等にわたり合えるほどの大型スターたらしめたといえる。
『忠臣蔵』の大石とか『荒木又右衛門』とかテレビ時代劇で座頭役ざがらしやくづいてきたが、これも年齢的なものだろう。大型スターとしての顔と格がまだまだ生かされそうである。
草創期のテレビ時代劇
 映画の衰退の原因がテレビの驚異的普及にあることはいまさらいうまでもない。映画人はテレビを〝電気紙芝居〟と馬鹿にし、その影響を軽視して、気がついたときには映像産業における主導権をテレビに奪われてしまっていた。そして後にはテレビ局の下請けとして映画各社がテレビ映画を製作するようになったのだ。
 日本でテレビ放送が開始されたのは昭和二十八年。三十年ころからテレビ時代劇が登場するがチャチなもので、タレントにしてからが、スターの座から脱落したオールドタイマーとか、セミ・スター級が主演していた。映画ではすっかりワキに回っていた坂東好太郎が、〝好太郎アワー〟とか〝遠山の金さん〟もので、テレビ時代劇ではもっとも活躍していたのがいい例である。そのようなケースがずいぶん見られたため、〝テレビは映画スターのうばすて山〟といわれたほどだった。
 草創期のころはビデオ撮りという技術がまだなく、スタジオ製作の生番組だったため、非常に制約を受け、どうしても劇場用映画にくらべると見劣りのするものしか出来なかった。それが三十八年NHKが『花の生涯』によって大型時代劇を打ち出し、翌三十九年『赤穂浪士』に引き継がれて、テレビ時代劇は爆発的なブームを迎える。
 ちょうどこの時点で、あれほど全盛を誇った東映時代劇が凋落して着流しやくざの任俠映画にとって代わられるわけだ。
 最初〝テレビでは時代劇は育たない〟というジンクスがあった。時代劇はテレビにとって鬼門ともいわれた。その理由は、制作費が高いこと、制作日時がかかること、しかも視聴率が上がらないことの三点にあった。しかし、大型時代劇路線がうけて、ことに婦人層を時代劇になじませたことはブームの大きな支えとなった。さらに劇場用映画のスタッフが、映画斜陽のあおりを食って場を失い、テレビへなだれこんだため、質的にも充実する結果となった。

テレビの殺陣とその制約
 テレビの殺陣は制約があって、やはり劇場用映画のようなわけにはいかない。劇場のワイドスクリーンと二十四インチ(現在は百インチ級も出ているが)のブラウン管の画面とでは迫力が全く違う。その上にいろいろネックがあるのだから、そこにおのずと映画とは異なるものが生まれてくるのは当然だろう。
 TBSテレビの専属で、三十二年からテレビの殺陣をやっていた桜井美智夫氏は、その苦心をこう語っていた。
「スタジオが狭いとタテがマンネリ化し、動きが制約されるし、カメラがアップで迫ってくるのも私たちの難題です。普通、映画ですとカメラをロングに引いてもらって、そのシーンをじっくり見せるのですが、テレビはそうもいきません。はじめに困ったのはスタジオの床がリノリウムだったことです。タテのほんとうの味は刃がチャリンと当たることでなしに、ズズッというすり足の音や、そでのふれ合う音なんですね。テレビでも生ドラマは通しで芝居をするので、タテも実感が出るんですが、テレビ映画につきもののアフ・レコというのが難物です。本気になってわたり合う時の音は効果音ではだめなんです」
 菊地剣友会を主催する菊地竜志氏は、
「テレビ初期の頃は、ビデオテープなんてないから全部生放送。時代劇だと三十分番組で大体二回ぐらい立回り場面がある。ナマだから緊張するし体もかたくなるし、トンボ返りが頭から落ちて、カツラは飛ぶ、血が出る。流れる血を止めるひまもない。衣装は血だらけ。大変な迫力だと思うんだけど、見てる人たちには全然面白くなかったといわれてがっかりした」
 といっている。これなどフレームが小さいために、せっかくの奮闘も効果が出なかった例だ。
 とにかくスタジオが狭いというのが最大の欠陥で、久世竜氏も「八畳ぐらいのところに五人も六人も入って、二尺以上ある刀を抜いて暴れるんですから、どうしようもないようなもんですね」と、テレビの殺陣のむずかしさを認めているし、桜井氏も「テレビでは立回りを見せ場にするドラマも少ないし、隣のセットがカメラに入らないように殺陣をつけたりしているんです」と苦笑する。
『007は二度死ぬ』で日本側の殺陣を担当した加賀麟太郎氏は、実際の演技でも、セットが狭いため、カメラと人間がぶつかりそうな中で、いかにケガをさせないように安全に撮るかといった心配があるといい、
「おまけに製作費の関係で、からみの人数や撮影時間も制約されるでしょ。からみの出演料は高くても映画の十分の一。映画のように一流のからみを使えないんです。それでいて、「ハデに面白くという注文ですからね」  と苦心談を述べている。
 テレビのこの〝制約〟はつまり最初から現在にいたるまでまったく改善されないままのようだ。これでは、映画の殺陣よりもテレビのほうがずっとむずかしいという声があるのも無理からぬところといえる。
 〝三十郎剣法〟で映画界を席捲した東宝の久世竜氏は、その後『鬼平犯科帳』とか『旗本退屈男』等、テレビでも活躍したが、まだ映画界に身を置いていたころ『日刊スポーツ』(三十八年七月十八日号)紙上で「テレビの殺陣を見て」と、次のように論じていた。
《商売柄、テレビの時代劇はよく見ている。総体的にいって、まだまだ研究の余地があるのではないか。ただ人を切るのでなく、なにか必然性のあるものでなくてはと感じるし、切る瞬間、そこにもう少し何かがあるんじゃないか。はっきりいって、新国劇の一番悪いところだけをとっているっていう感じが強い。もちろん、狭いセット、短い時間など、時間的、空間的制約はある。
 しかし、それはもう理由にならないのではないか。このへんでテレビ的な殺陣というものも出てきていいはずだ。映画と同じ殺陣をやり、映画的迫力を追っても、しょせんテレビは映画の敵ではない。テレビは新しい舞台だし、もっともっと発展するものであるはず。
 早い話が、テレビならテレビ向きの武器があってもいい。早急に制約と考えられているものを逆に生かすように切り開いていかなくてはならないだろう。》
 この言葉は今日でもそっくり通用するのではないか。

五社英雄の殺陣論
 テレビでもっとも話題になった殺陣はフジテレビが三十七年に放映した『三匹の侍』だ。これは五社英雄ディレクターのいう「見せるチャンバラでなく、切るチャンバラ」に徹したことが成功した。その体と体がぶつかり合う肉弾戦のような豪快な殺陣は「テレビドラマの殺陣の新開拓」と高く評価され、殺陣師の湯浅謙太郎氏も一躍クローズアップされた。
 普通、監督は殺陣の場面は殺陣師にまかせるものだが、〝チャンバリスト〟である五社氏は湯浅氏と一緒になって新しいテを考える。湯浅氏がどんなに苦心してつけた殺陣にもなかなかOKを出さず、殺陣には常識がありポイントもあると考えていた湯浅氏には、想像もつかない殺陣の構想をめぐらしていた。しかしその後は一心同体になって、五社氏の意図するところを湯浅氏が体現した。
 五社氏は「アクションの主役はからみにある」という考えの持ち主。
「五社さんの注文はきびしかった。〝攻める人(切られ役)の気持ちになって殺陣をつけろ〟という。主役を切る気迫を切られ役の殺陣にもりこめというわけだ」
 湯浅氏はこう述懐する。
「見せ場を考えた段どりより、たとえぶざまでも、実際そうなるという事実の迫力が大切です」
 このリアリズムで湯浅氏は古い型をふっ切ったそうだ。
 五社氏は「顔で斬れ」と要求する。クローズアップされた顔が、ほんとうに人を斬ったという凄愴感せいそうかんがみなぎってなければ、その殺陣は形ばかりのものになってしまう。
「僕は徹底的にシゴくので、五社ヒデェヨオといわれているんです。チャンバラは理論から入らず、情感から入る。体でつかむしかない。僕の場合、カットごとに撮らず、一本を通じて撮るテレビで学んだだけに、殺陣から殺陣への〝つなぎの演技〟がいらない。殺陣の手数をつとめて少なくしている。いいところを見せようとして手数をふやすと迫力がなくなります」
 五社氏の型にこだわらぬ殺陣、それは様式主義の打破ということであり、リアルな殺陣である。『用心棒』『椿三十郎』は京都時代劇が確立した様式化への反逆であり、新しい殺陣の出発点として評価される。だが、湯浅氏は、五社=湯浅コンビによって『用心棒』と同じような殺陣はとっくに開拓していたと主張する。
「テレビの『宮本武蔵』でやったんです。公開時期が遅れたため亜流の印象があったが、実はこちらが先なんですよ」
 丹波哲郎の武蔵は、荒けずりだが迫真力があった。からみがケガを恐れるほど彼の立回りは烈しい。剣道・空手の有段者なので、「本気になってかかってこい」という。それが『宮本武蔵』で殺陣に新機軸を見せた。

丹波・平・長門の殺陣
『三匹の侍』の殺陣はこのような下敷きがあって生まれた。丹波は持ち味を生かした豪快な剣、平幹二朗は見ばえのいい長身を考えてイキな剣、長門勇はドロくさい剣といった性格づけの面白さがあり、とくに平の場合は長身なので刀の柄自体も長くし、逆に長門には五尺たらずの短い槍を使わせて体とのバランスをとらせた。演技者の体型、個性に合わせてオリジナルな剣法を編み出す、そして小さなフレームに合わせるのがテレビ剣法のコツといえよう。
 しかし『三匹の侍』は従来の、スケールの小さいテレビ剣法のワクをぶち破った点にまず意義があった。その熱気あふれるはげしい立回りと、バシッと肉を斬り骨を断つ擬音、ビュンとうなる刃の音が、微温的なテレビ剣法になれていた茶の間のファンを驚倒させた。これを〝音響効果斬り〟といった人もいるが、以後、やたらとバシッとかビュンとかいう音がどの作品でも使われるようになった。
 丹波の抜き打ち、動きの大きい豪快な剣法は申し分なかったが、とくに長門勇が短い槍をよくこなしているのがよかった。湯浅氏はこれについて「剣はいろいろ型があり、形がとりやすい。槍は突くの一手。長門がうまずたゆまずおのずから工夫をこらし、突くだけの槍に、振り回したり、投げつけたりの変化を持たせて自分のものにした」と評する。
 西部劇の短銃を指先でクルクル回すことにヒントを得て、槍を手首の返しでクルクル回す。また片手で振り上げてブンブン回転させたりもする。これがなかなか〝絵〟になっているのだ。もちろん敵に脅威を与えるという効果を計算しているわけだが。前の敵を突き刺したまま、槍を放して横から来た敵を居合いで斬り、また槍をひっこ抜いて向かっていく立回りなど変化があって面白かった。
 長門は〝三匹〟の人気を買われ、松竹で〝いも侍シリーズ〟を三本撮った。カニのはさみのように二刀を使い、左右からかかってきた敵の刀を左右二刀で受け、クルクルッと巻きこんではね上げてしまう。竹刀試合でよくやる巻き落としの応用だ。いささか見世物的だが、長門の飄逸な個性に救われて、さほど奇矯には感じられなかった。ユニークな剣法には違いない。
 平も抜いた鞘で相手の剣を払って斬ったり、キマったときは背丈があるだけにカッコよかったが、刀を背負っていてそれがいかにも竹光でございみたいに刀を軽々しく扱う欠点が目についた。
 丹波が抜けたあと加藤剛が加わったが、こんなに体が固く感じられるタレントもほかにいないのではないか。かけひきなしに真正面からいくというにしては丹波ほどのパワーはないし、生硬でいつまでたっても一向にうまくならない。この人の立回りが一番興趣をそいだ。

『隠密剣士』『風雲児半次郎』『月影兵庫』
『三匹の侍』以外には、三十七年から放映された『隠密剣士』が忍者集団相手のスピーディーな立回りで評判を呼んだ。これも予算と製作日数に追われるので、手数のかかる移動撮影をほとんどやらず、ズームでお茶をにごしていたが、殺陣師松宮武久氏は、当時、
「このやり方も狭いスタジオと同じ制約でして、オープンにからみをくりひろげるとハシがきれるし、どうしても小じんまりしたものになります」
 と苦心を語っていた。
 クローズ・アップでないとブラウン管には向かないのだ。十四インチから二十四インチと映像画面が大きくなって、幾分かこうした点は楽になったようだが、家庭に置けるテレビの大きさにはかぎりがあるのだから、とてもスクリーンと比較するわけにはいかない。
『隠密剣士』は空中を飛んだりするアクロバッティングな忍者の動き、手裏剣が連続してパパパッと飛んでくるといった派手な立回りが喜ばれた。
 主役秋草新太郎に扮した大瀬康一は、時代劇ははじめてで、最初は刀がうまく使えなかったが、それでも血まめを手に作りながらの稽古で「高段者の太刀さばきだと言われる」までになったそうだ。
 霧の道兵衛の牧冬吉は、元体操選手だったので、スタントマンを使わずに忍者の荒技に挑み、人気を得た。
 この番組によって子供たちの間に〝忍者ごっこ〟が流行し、『仮面の忍者赤影』とか『忍者部隊月光』『忍者ハットリくん』といった〝忍者もの〟を派生することになる。
 シリアスな忍者もの、品川隆二主演の『忍びの者』でも、多分に『隠密剣士』の影響を受けたと思われるアクションがずいぶん見られ、劇場映画となんら遜色ないと好評だった。
 あと『風雲児半次郎』の若山富三郎、『素浪人月影兵庫』の近衛十四郎が、さすがにありきたりのテレビタレントとは段違いのうまさを印象づけたくらいのもので、特筆するに足る立回りのすぐれた描写をテレビで見出すことはなかった。
『テレビ時代劇読本』(四十八年一月発行)の中で、佐藤忠男氏が、
テレビでは、劇場用映画の時代劇のような派手な立廻りはほとんどやらないし、カメラワークやカッティングに凝るということもない。ブラウン管の小さい画面では大げさな立廻りは効果がない、と思われているのか、あるいはカメラワークに凝っていられるほど撮影の時間的余裕がないのか、おそらく両方の理由だろう。もっとも、一時期、『三匹の侍』が当った頃には派手な立廻りもあったが、これはただ、役者たちが凄み、効果音や音楽で迫力らしいものを盛りあげたというにとどまるので、カメラワークやカッティングでうならせるというものではなかった。どうせテレビは視覚的な効果では貧弱でもかまわないという考え方があり、それをセリフやナレーションで補えばいいという考え方があるようである。その結果、さてあとはどうなるか、という、ストーリー的な興味だけに頼る時代劇がテレビ時代劇の中心になり、描写の面白味がなくなった。》
 と述べているのは鋭い分析である。
『木枯し紋次郎』と『必殺仕掛人』の殺陣
 笹沢左保の人気小説をテレビ化した『木枯し紋次郎』は、ヒーローのキザなニヒリズムと、ヒューと鳴らす長い楊子がうけた。殺陣も新鮮で好評だったが、三度笠をかぶり合羽をまとったままの立回りにはどうしても無理がある。おまけに楊子をくわえたままだ。三度笠をポーンと空へ放り投げ、じゃまな合羽を脱ぎすてて、身軽になって戦うのが普通なのに、その逆をやるのだから、意外だし、珍しいし、絵にもなる。合羽をうまく利用した立回りに工夫が見られるが、一対一ならばともかく、多数相手にこの紋次郎スタイルで戦ったのでは体力の消耗が著しいし、動きが鈍るしで、いくら作りごとといってもおかしい。
 好んで水の中で戦うのも納得できない。それでなくとも身の自由を奪われているのに、なお水で体を重くする必然性がないからだ。眠狂四郎の〝円月殺法〟と同じく、これは活字で表現された剣戟シーン、殺しの美学を超えることはできなかった。
 むしろ『木枯し紋次郎』に対抗して登場した『必殺仕掛人』のほうが、異様なムードをともなって興味をひいた。ことに、はりで首のツボを刺す梅安の殺しは、立回りでなく〝殺し〟そのもののスゴみがあった。
 それは映画より小味なテレビの機能にピッタリで、しかも映画より効果的な殺しの場面を構成して見せた。素材の選定のし方によっては映画をしのぐことのできるこれは絶好のサンプルといえよう。
 仕掛人は暗殺者だ。「はらせぬうらみをはらし、許せぬ人でなしを消す」プロの殺し屋である。対決とか乱闘とは違う〝必殺〟の高度なテクニックが用いられる。これは明らかに犯罪行為なのに、大衆から受け入れられ、高視聴率を獲得したということは、世相を反映しているからだ。法で裁くことのできない大きな悪がわがもの顔で罷り通っている現代、金も力もない庶民はテロによって大きな悪を断つという最も直截的な解決に快哉を送る。代弁者としてのヒーローの活躍は、常にそのような庶民の声なき声に支えられてきた。だが、現代のように複雑な多元的な社会悪に対しては単純な勧善懲悪の図式ではもの足りず、毒をもって毒を制すやり方がカタルシスを深める。
 映画『人斬り』のテロリズムはイデオローグがあった。それは庶民とは直接かかわりのない政治の狂気がもたらしたものだった。しかし『必殺仕掛人』の場合はもっと身近なうっぷんばらしである。しかも陰惨で狡智で残虐だ。公序良俗を重んずる放送局並びに体制側が悪影響を及ぼすことをおそれたと見るのはヒガ目か、〝仕掛人〟がひっこんで『必殺仕置人』が代って登場したが、かなり生ぬるくなっていた。

〝必殺シリーズ〟人気の秘密
 四十七年から登場した〝必殺シリーズ〟は『助け人走る』とか『暗闇仕留人』『必殺からくり人』などとタイトルを変え、『必殺仕事人』で定着、計三十作放送された。
 この核となった中村主水の藤田まことが、平成四年春の『必殺仕事人・激突!』を最後にやめた。そのため〝必殺シリーズ〟が終了するかどうかは不明だが、このシリーズの果たした役割は大きい。何といってもスタートの緒方拳・萬屋錦之介・田宮二郎の藤枝梅安の〝殺し〟のテクニックが強烈なインパクトを与え、後には梅安だけが独立して映画になり、テレビでも小林桂樹や渡辺謙が演じている。
 それ以後、表は「昼行灯ひるあんどん」とバカにされる奉行所の同心、家では「ムコどの」とやっつけられてばかりいるダメ男だが、裏では凄腕の仕事人という中村主水を中心に、いろいろな殺し屋が登場、工夫を凝らした必殺テクニックを見せる。
『水戸黄門』にしろ『遠山の金さん』にしろ結末は分かっている。分かっていながらそのマンネリズムの中にどっぷりひたってファンは楽しんでいる。むずかしい理屈はいらない、肩の凝らない娯楽、ストレス解消にはこれが一番というわけだ。
 〝必殺シリーズ〟も同じく、結末はだいたい分かっている。ただそれが特異な個性の集団だけに、多彩な技とか仕掛けがあって、特定のヒーローが大勢をぶった斬ったり、啖呵たんかを切ったりするのとは違う何倍かの面白さがある。
『必殺仕置人』で山崎努の念仏の鉄がやる必殺骨はずし。レントゲン写真を使い、武器を持たず二本の指で人を殺す恐怖感を見事に表出した。これが『暗闇仕留人』ではいっそうエスカレートし、近藤洋介が敵の心臓をもみつぶすサマを、オシロスコープで心電図まで披露した。これはエキサイティングだった。
『助け人走る』の中谷一郎は愛用のキセルの中に鋭い錐を仕込み、襖の後ろから煙草の煙が拡がって中谷が迫るという殺しの場面は凄みがあった。これが『必殺仕事人・激突!』では中村橋之助のキセルを使った火鉄砲となる。
 さらに中条きよしが三味線の絃で絞め殺し、相手を宙吊りにして息絶えたところで絃をピンと弾く芸の細かいところを見せる。京本政樹はそれに代わって組紐を使った。だがテコを応用するでもなく、大の男を吊り上げるのはちょっと無理に思えたが
 森田健作の花火殺し、中村嘉葎雄の竹筒ピストル、芦屋雁之助の油を飲んで口から火を噴く人間火炎放射器、ジュディ・オングの芯が錐になったコマ、三田村邦彦の鋭いノミとかんざし、村上弘明の折った枝、山田五十鈴の三味線のバチなど、毎回趣向を変えた華麗でしかも奇抜なアイデアの殺しのテクニックがつぎつぎと登場した。
 それが、逆光・反逆光を利用し、光と影のコントラストを強めたカットや俯瞰、赤と黒の原色を鮮やかに使った効果、極端なアップやセットの道具立てを極大・極小に撮る大胆な構図、前景のピントから中景・遠景へのピントの移動による奥行きの深い絵造りといった映像のトリックによって巧みに様式化され、ドラマをふくらませたのだった。

『忠臣蔵』などと違うそれぞれのキャラクターを明確にした集団ものは〝次郎長三国志シリーズ〟などもあるにはあったが、何といっても『七人の侍』の印象が強烈だった。しかしこの場合も『十三人の刺客』等、一連の集団時代劇と呼ばれるものにもリーダーがいた。
 だが〝必殺シリーズ〟は元締めという存在はあっても、実行部隊は〝集団合議制〟である。殺しの請負料も全員公平に分配される。このあたりに目新しさがあり、管理・支配されたり命令されるのを嫌うヤング層にも受けた一因だろう。
 一見ダメ男・中村主水の表と裏の変貌も、会社と家庭でシゴかれている男性の共感を呼ぶものだった。主水の日常性と仕事人としての非日常性、これは現代人の〝変身願望〟をかなえてもいる。
 そして仕事人たちは正義感とか任侠映画のような自己犠牲を表に出さず、クールに仕事料をもらってきわめてビジネスライクに殺しをやる。失敗したり身もとが割れたりしては、ソク、死があるだけだから、主水はじめみな適当にセコく保身を考える。
 このような現代人に通じる感性が、毒をもって毒を制する時代劇の虚構とともに幅広く受け入れられたといえよう。
〝必殺シリーズ〟大当たりで、『影同心』『長崎犯科帳』『同心部屋御用帳』『江戸捜査指令』等、〝必殺〟のヴァリエーションがぞくぞく生まれた。
『水戸黄門』『大岡越前』『遠山の金さん』や多くの捕物帳が正義の名において悪を裁くというパターンは現在も続いてはいるが、〝必殺〟以後、「権力の中にいて権力を裁くのではなくぶった斬る」という傾向が増えた。
『お命頂戴!』『斬り捨てご免!』『お耳役秘帳』などもそうだが、類似性はあっても〝必殺〟の特色である現代性には遠い。
 むしろ『鬼平犯科帳』の正攻法なハードさが、格調ある時代劇という印象が強い。
 人気タレントの顔ぶれだけ揃えた内容が空疎なものよりも、小品でも見ごたえのあるものに固い支持が集まるという好例である。

テレビ時代劇考
 時代劇のことを俗に〝マゲもの〟と呼ぶ。いうまでもなくチョンマゲをつけていることで現代劇と区別しているのだ。(ストーリーの流れによって明治初期の〝ザンギリもの〟を時代劇の中に組み込むこともあるが
 そしてそれはテーマとか表現形態、背景となる時代、あるいは主人公の性質などでさまざまに分類される。
□古代もの 王朝もの 源平もの 武将もの 戦国もの(源平ものと共に合戦もの、ヨロイものともいう) 江戸もの 幕末もの 明治もの(ザンギリもの)
□剣豪・剣客もの 英雄豪傑もの 三尺もの(俠客もの、股旅もの) 白浪もの 探偵もの(捕物帖) 町人もの 大奥もの 毒婦もの 隠密もの 忍法・忍術もの 覆面・怪人もの
□お家騒動もの 仇討復讐もの 世話もの(人情もの) 芸道もの 説教もの(美談もの) 怪談もの
□乱闘もの 残酷もの 怪奇もの 妖怪変化もの 好色もの 異国もの 集団もの 道中もの アチャラカもの お涙頂戴もの SFもの
 アトランダムにとり上げただけでもザッとこのくらいはある。
 たいていの作品はこの中の、二、三のファクターを組み合わせて構成されているわけだ。
 たとえば『水戸黄門』は典型的〝道中もの〟だが、これにお家騒動とか美談、お涙頂戴といったものがプラス・アルファとなって人気を得、長寿番組となっている。
 水戸黄門は〝天下の副将軍〟である。エライ人である。だからどんなに悪党どもが強力だろうと、三ツ葉葵の印籠の前にはひれ伏さざるを得ない。
『松平長七郎』や『松平右近』も三ツ葉葵のご威光を背にしているし、『旗本退屈男』も「上様のご名代」だ。
『大岡越前』や『遠山の金さん』はレッキとした権力者である。もっとすごいのは『暴れん坊将軍』であり『将軍家光あばれ旅』で「上様」みずからの出馬だ。庶民的な『銭形平次』だって〝お上〟のご威光を背負っている。
 一般的に勧善懲悪の正義のヒーローは、いかに反権力的姿勢をとっても、将軍のご落胤だったり、大名の異母兄弟だったり、天下の直参だったり、将軍あるいは幕閣の密命を帯びていたり、あるいは十手者だったりと、最後にはなんらかの形で権力につながっている。いわば〝体制内革新〟的限界があるのだ。
 その〝限界〟を承知の上で、マンネリといわれながらも毎回似たようなことをくり返している。
 かなり古いがこういう記事がある。
《日本テレビ調査部は、時代劇を大きく二つのタイプに分けた。一つは『水戸黄門』『銭形平次』など昔からあるタイプ。義理、人情、庶民性が描かれ、一定のパターンで安心して見ていられる。
 もう一つは『新・座頭市』『必殺シリーズ』『子連れ狼』のように、個性の強い孤独な主人公をニヒルに現代ふうに描く。人情や温かさより、冷酷さや体制に対する抵抗が主題になる。
 前者は中・高年層に好かれ、若年になるほど後者を好む傾向だ。》(『東京新聞』五十三年四月四日)
 この現象は基本的にはいまも変わっていない。
 勧善懲悪の正義のヒーローがきまりきった活躍をする、その微温的な快さが〝長寿〟の秘訣だといわれてもいる。安定した視聴率を求めるためにはやむを得ないにしても、『木枯し紋次郎』の中村敦夫の、
「現在のような日常的繰り返しのなかに安住しているならば、おそらく二十一世紀にはテレビの世界から時代劇はなくなるに違いない」
 という言葉には切実感がある。
 ハリウッドで西部劇が絶滅し、邦画で時代劇がほとんど作られなくなったのは同じようなことなのだろうか。
 テレビ時代劇のファン層は圧倒的に熟年以上の世代である。かつて東映や大映のチャンバラを見たことのある人たちだ。だから時代劇全盛の頃のパターン化したものでも違和感なくとけこめる。
 だが、テレビだけしか知らない若い世代にはバカバカしくてついていけない面が多々ある。時代劇はしょせん虚構には違いないが、生活を感じさせないものやテンポの合わないものなどは見向きもされなくなる。
 そこで、前記『東京新聞』でいう個性の強い孤独な主人公が出てくる。彼らはたいてい虚無の影濃いアウトローである。権力からドロップアウトした者であり、庶民社会からもはみ出している者が多い。管理社会で息苦しく生きている現代人はこのアウトローの一匹狼に共感を覚える。おのれの生きざまにやるせなさや不満を抱くとき、孤独と非情の世界をさすらい、自分の腕と剣のみを信ずるヒーローに何かを仮託するのだ。
 しかしそうはいっても、高齢化社会が進むにつれて、熟年・老年層が厚くなるのだから安定した時代劇は案外いまのままの姿で生きのびるのかもしれない。ただそのためにはもっと庶民生活に密着し、現代人のセンス、スピーディでカッコよさを盛り込む必要がある。
 ヤング世代にもレトロ志向のようなものがあって、けっこう古いものに興味を示す傾向も見られる。またアイドル・タレントの起用によって若ものをひきつけることもできるだろう。
 だからテーマの選び方、大衆のハートをつかむ作り方、キャスティングの問題、テクニックの駆使など、アイディアと工夫によっては時代劇のサバイバルは可能なのだ。
 一時的なブームで粗製乱造して、ファンにソッポを向かれることが一番こわい。時代劇ファンをなめてはダメだ。時代劇ファンは細かい点にまで目がきくから、隅々まで手抜きをせずしっかりした作り方をしなければならない。これがもっとも重要なことなのだ。

テレビ時代劇のゆくえ
 毎年、年末年始にテレビ各局が長時間の大型時代劇を放送する。テレビ東京などは実に十二時間の超ワイド。いささか行き過ぎの感がないでもないが、これのとりえは吉川英治の『宮本武蔵』のような作品をいっぺんにまとめることができることだ。
 映画でもせいぜい前・中・後三編でしかできないものが、もっと完全に映像化できる。たとえば、『大菩薩峠』『富士に立つ影』『柳生武芸帳』等の大作をまとめるのは時代劇ファンにとって非常に魅力である。それはNHKが一年間にわたって放送する〝大河ドラマ〟とは異なり、凝縮されたものとなるからだ。
 制作費の問題もあって常時作るわけにはいかないだろうが、年に二、三回六時間とか八時間のものを出すことは、テレビ時代劇を活性化する。この場合、中身を薄めて時間を引き延ばしたような作品ではなく、しっかりした原作に拠ることが絶対条件だ。
 テレビ時代劇にはフレームが小さい、撮影時間が少ない、予算面でいいカラミを使えない等々のネックはあるにしても、それらをふまえた上で、テレビ独自の殺陣を創造する努力がつづけられなければなるまい。
 五社英雄監督は、
「私はテレビの殺陣で〝三匹〟のようなものを作ることには絶望しています。ついてくる役者がいませんよ。あのころの連中のようなパッションとかエネルギーなんてないでしょう。なんといっても役者が肉体的に具現するものですからね。ナマの躍動が必要なんです。そのエネルギーがない。みんなケガでもしちゃバカくさいというようなところで、ナァナァでやっているように見えるんです。
 〝三匹〟のころは作る方も演技する方もギリギリというか、次の新しい曠野があるような希望があってやってましたからね。フロンティア精神がありました。いまはテレビの限界というより、限界そのものに挑戦する内部構造が崩壊している」
 といっていた。
 視聴率第一主義はどうしても人気タレント偏重にならざるを得ない。その結果、かけもちで多忙なため、ろくすっぽリハーサルもできないままビデオ撮りをする。まして殺陣をみっちり練習するなどという余裕は出っこない。新劇タレントをはじめ、最近の若いタレントには、立回りの理屈をつけたり、チャンバラは昔から好きでしたからと、いとも無雑作に竹光をふり回したりする手合いが多いという。体で覚え、そして何かをクリエートする情熱がなければ、五社監督のいう通りテレビ時代劇の殺陣は〝絶望〟であろう。
 若山富三郎も、
「テレビでやっている子の時代劇。あれは時代劇じゃない。ほんとにやるんだったら立廻りを自分で勉強して、ガン張って、どうにかやれるようになってからクランクインするようにね。いい立廻りは、きちんと見せる。スピードが必要。芸にならなくてはいけない。本物の刀で斬るなら、刀は波打っちゃいけない、呼吸もある——そういうものが芸になってなければいけない」」(『ムービー・タイムス』No.14号)といっている。
 といっているが、テレビ制作サイドも安易に人気タレントを起用するのではなく、千葉真一のJ・A・Cのようなところとか、各殺陣師たちの剣友会とか道場などから、ヒーローは無理でもサブ・ヒーロー級をどんどん抜擢するようにしたらどうか。
 道が拓ければ気運が盛り上がって、殺陣に打ち込む若ものも増えるに違いない。それが本当の時代劇タレントの底辺を広げることになる。
 東映の大部屋俳優で斬られ役一筋に三十三年という福本清三のファンクラブができ、TV『徹子の部屋』に紹介されたりして話題となったが、こういう下積みの人たちが脚光を浴びることは大いにはげみになる。殺陣師、斬られ役、スタントマンをもっと厚遇し、後継者を育てなければ、チャンバラは全滅してしまう。

現代の時代劇俳優たち
 いま、時代劇で活躍しているタレントは四十代後半が主流を占めている。北大路欣也、松方弘樹、高橋英樹、中村吉右衛門、田村正和、杉良太郎、伊吹吾朗、千葉真一、原田芳雄らがそうだ。里見浩太朗、緒方拳、加藤剛らは五十代、仲代達矢、萬屋錦之介、勝新太郎、藤田まことらはもう六十だ。
 若いといっても松平健、三田村邦彦、三浦友和らも四十。あとに続く真田広之、渡辺謙、村上弘明、橋爪淳、役所広司、堤大二郎といったところが三十代である。
 こうして見るといかに時代劇スターが育っていないかが歴然とする。この点からだけでも時代劇の前途が危ぶまれるのだ。
 かつてのスーパースターたちは十八から二十二、三歳でスクリーンを席捲し、黄金時代を築いた。また、戦後時代劇全盛を生んだのは二十代前半の新星たちだった。
『ZIPANG ジパング』の高嶋政広や、勝新太郎の長男で『座頭市』に出た奥村雄大、松方が引き立てた東山紀之あたりしか本当の若手はいない。後継者を早く育てることがベテランたちの急務である。
 それは映画会社、テレビ局、プロダクションなどにとっても絶対必要なことなのだ。
 〝京都時代劇〟全盛期の白塗り美剣士の伝統を継いでいるのが里見浩太朗である。甘いマスクと唄で東映で活躍。時代劇退潮で一時期不振だったが、テレビ『大江戸捜査網』『水戸黄門』等で人気復活、『長七郎江戸日記』や『松平右近』等で不動の地位を占める。彼が『忠臣蔵』の大石や近藤勇といった座頭ざがしら役をやるようになるとは、東映での線の細い二枚目ぶりを知っている者には想像もつかないことだった。
 里見は東映で鍛えただけあって立回りは巧者である。優美といっていい。二刀をふるってなで斬っていくが豪快さには乏しい。白ずくめの衣装がよく似合うように気品ある貴公子的所作がいいのだ。二刀流はむずかしいものだが里見の場合、左の使い方が弱いという指摘がある。

 北大路欣也は萬屋錦之介以来の正統派チャンバラ・スターという雰囲気を持っている。東映を離れて舞台で活躍したり現代劇に出たりしたことが、芸の幅をひろげた。市川右太衛門二世というスジのよさがはじめから見られたが、『宮本武蔵』をやって力強さと風格が一段と加わった。武蔵の剣と人間としての成長がイコール、スターの成長になることは過去の例で立証されている。
 オヤジ譲りの『旗本退屈男』を気持ちよさそうに演じているが、彼の場合もっとシリアスなものの方が合う。身のこなしがキビキビしていて気魄がこもっていて、けっこう派手な立回りも見せるが、オヤジほどのスケールと迫力にはまだ及ばない。だが、もっと年輪を加えるとシブさが出て、オヤジとは正反対によごれ役でもなんでも挑み、単なる時代劇スターを超えた演技者になりそうだ。

 松方弘樹は器用な役者で歌も唄えばなんでもこなす。ただ、やくざものをやりすぎて、そのイメージが強いため、まっとうな武士の品格不足の感がある。その点『遠山の金さん』などはうってつけだ。
 松方は体の動きもいいし立回りはうまいと思っていたが、『柳生武芸帳・十兵衛五十人斬り』では落胆させられた。これはオヤジの近衛十四郎の十八番だった。一世を風靡した剣豪スター近衛と松方を比較するのは酷かもしれないが、問題外である。五十人斬りというからにはさぞかし千変万化、多彩のテクニックが見られるかと思いきや、最初の抜き胴はいいとして、やたら横なぎの太刀さばきばかりで、突きもなければ飛び切りもない。膝をつき身を屈したり、下段から斬り上げたり、足を払ったり、近衛なら縦横無尽に動いてこれがチャンバラだと、うならせる見事な殺陣を展開しただろう。
 近衛を真似た〝ホームラン斬り〟もあまり効果がなかった。スピード不足のせいである。後半になるとスタミナ切れで下半身がガクガク、肩でゼイゼイ息をして、スーパーヒーロー柳生十兵衛のイメージダウンも甚だしい。ヘンなところでリアルにしたって意味はないのだ。しょせん五十人斬りなんて作りごとなのだから、ヒーローはヒーローらしく最後まで斬って斬って斬りまくり、チャンバラの壮烈さと爽快さを持たすべきだった。
 これでは『鞍馬天狗』をやった弟の目黒祐樹の立回りの方がずっと見られる。松方は〝華〟のあるスターなだけに、それを立回りにも生かし、派手に華麗に剣の舞いを演ずるべきだ。サウスポーを生かすのもいい。
 高橋英樹は日活唯一の〝任俠スター〟だった。現代アクションより時代劇に転換するのは容易だった。同じやくざでも現代やくざではなく端正なマスクと折り目正しい所作で古風なやくざを演じてきただけに〝マゲもの〟にピタリとはまった。
 そして『旗本退屈男』をやって以来、大時代がかったハデハデな演出がついて回るようになった。実際、退屈男は北大路よりも彼の方がニンに合う。大柄だし明朗闊達、勧善懲悪のヒーローとしては陰影のない高橋の個性が適している。
『桃太郎侍』の例の「ひとーつ、人の世の生き血をすすり」調のセリフと立回りは、ほかのタレントがやったら噴飯ものだが、あの場合は誇張された様式美としてとらえればいい。彼の剣はあくまで豪快、小技をろうしないで馬力で押しまくるところに本領がある。斬ったあと刀をビュンビュン回してから鞘に収めるのはご愛嬌だ。
『三匹が斬る!』などのようにトリオとかカルテットの組み合わせよりも、彼一人でチャンバラの空間を大きく使って暴れさせた方が高橋自身が生きる。剣にもっと伸びが出るといっそう殺陣が映えるだろう。

 杉良太郎は殺陣の研究に非常に熱心で、自分で塾を設けたほどだ。舞台などではキザだと評判がよくないが、テレビではむしろストイックなほどカタい。『同心暁蘭之介』などその最たるものだ。『新五捕物帳』でもそうだが合気道をとり入れたりしてリアルな立回りをやっているのはいい。
『浪人八景・雪太郎風流剣』はかなり手のこんだ立回りで見ごたえがあったが、ラストの乱闘シーンで、途中をおくのが納得できない。まるでひと休みしているみたいで気が抜ける。ここは寛寿郎とか近衛、若山らだったら最後まで斬りまくるところだ。ミエを切る必要もないし、追いつめられて血路を探すというわけでもない。つまり必然性のない中休みということになる。阿修羅のような獅子奮迅ししふんじんの立回りでグイグイ見る者を引きずりこむべきだ。『喧嘩屋右近』はいささかおふざけが目立つ。しかしスピードのある立回りがいい。

 田村正和はエロキューションにくせがあって、ちょっといやみな時があるが、形の優美さという点では群を抜く。『眠狂四郎』しかり『乾いて候』しかり。所作しょさのキマリがいいのでひきたつのだ。彼の哀愁を帯びたマスクは戦前のチャンバラスター雲井龍之介に似ている。薄幸の境涯にある主人公という設定によくはまり、女性ファンの同情をひくのである。しかしひとたび起てば凜然りんぜんとして非情の剣をふるう。
 毎週じゃ鼻もちならないが、単発で登場すると、スーッとした爽快感を与える。父親阪東妻三郎の鮮やかな立回りには及びもないが、時々チラと阪妻の身をよじるような形が見られる。
『必殺仕事人・激突!』で山田朝右衛門になった滝田栄は、最近のTV時代劇では出色の存在である。彼は居合四段ということだが、これくらい大きく刀をふるえる人は近ごろ見たことがない。
 地味なキャラクターだが近藤勇でもらせたら適役だろう。この人の殺陣はチャンチャンと斬り結ぶのではなく、ズバーッと斬るといった感じで、力強く、しかも腰がすわっているから鮮やかにキマる。後も見ずに襲撃者をビュンと一太刀で斬るといった〝芸〟も見せる。かつてのチャンバラ・スターは、このような〝芸〟を持っていた。だからチャンバラシーンがより楽しかったのだ。
 滝田の〝芸〟〝技〟はチャンバラのグレードを高めるだろう。

『鬼平犯科帳』の中村吉右衛門は原作者の池波正太郎が絶賛していたほどの適役で、凶賊たちを斬り伏せる立回りも、腰がすわって型が見事にきまっている。『斬り捨て御免!』の時も気合十分で迫力があった。どの場合も剣をくずさず、まっとうな太刀筋を使っているのは、浪人とか忍びなどと違う役人、あるいは旗本という正統派の武士を体現しようという意気込みが感じられる。

 真田広之はJ・A・C育ちのアクション・スターだ。その上日舞の名取りでもある。『伊賀忍法帖』や『忍者武芸帖・百地三太夫』等のときの勢いはどこへ行ったのだろう。師匠の千葉真一との息の合ったアクションは、これまでのチャンバラを突き抜けたものがあった。もっとスゴいものが生まれる可能性を抱かせた。〝和製ジャッキー・チェン〟といった形で世界にノシてゆく、そんな期待すらあった。それからもう十年経っている。
 真田を生かす企画がなかったのだろうか。『太平記』などでおさまっていては体がナマる。演技づくりより体が動くうちは、存分にその体技を生かし、徹底したチャンバラ・アクションを作るべきだ。何しろ彼ほど切れのいいアクションのできるスターはほかにいないのだ。
 松平健は舞台向きのようだ。『暴れん坊将軍』で人気はあるが、何かしまらない。立回りはわりとスピードはあるのだが、時代劇特有の緊張感が伝わってこないのだ。『密命』の時もそうだった。妙に色気を出そうとしているせいかもしれない。
 近藤正臣にも違和感を覚える。『江戸・中町奉行所』とか『斬りぬける』とか、なぜ彼を時代劇に起用するのか疑問だ。何か甘いマスクとかソフトムードなどは空しい。
 売れなくなった歌手タレントを時代劇に使うケースがよくあるが、『徳川無頼帳』の西条秀樹はひどい。貧相でサムライ面をしていない。遊び人か何かががらだろう。
 郷ひろみの『流れ者佐吉』はその点、役にはまっていたように思う。
 意外だったのは『あばれ八州御用旅』の西郷輝彦で、立回りのセンスがある。丸顔なので時代劇向きではないが、横なぎばかり多い連中に比べ、突きも唐竹割りもあるし、見せ場も作っている。
 時任三郎の『柳生十兵衛』にはまいった。むさ苦しくヒョロリと背ばかり高いこんな十兵衛など見たくもない。
『水戸黄門』の格さんで活躍している伊吹吾朗はもっと使われていい。多岐川裕美の〝くノ一シリーズ〟にも出ているが、その役が柳生〝十一兵衛〟とは何だ? ダジャレにもならないおフザケで、せっかく伊吹がいい立回りをしても安っぽくなる。伊吹は『無用ノ介』でデビュー以来、東映のプログラム・ピクチュアなどにも主演したことがあるが、マスクもいいし、立回りもしっかりしている。くたびれた新劇タレントや歌手などよりはるかに使える。
 役所広司はガラがあるし、野性的な個性を買う。『三匹が斬る!』のほか『燃えよ剣』で主役の土方歳三ひじかたとしぞうをやったが、はまり役なのに印象はそれほど強烈でなかった。
 渡辺謙は、『小次郎と武蔵』でも好演したし、『仕掛人梅安』はなかなかスゴみがあった。本格的立回りがどのていどのものか未知数だが、大型スターの資質がある。
 村上弘明は〝必殺シリーズ〟以来『月影兵庫』『源氏九郎颯爽記』『影狩り』『腕におぼえあり』等、大いに売り出している。彼の場合、甘さとかしめぽっさが邪魔になる。二枚目を意識しない方がいいのじゃないか。『源氏九郎』など気合に欠け、かつての中村(萬屋)錦之助を見た目には落差が大きすぎる。堂々たる体軀を生かして豪快な殺陣を演出すべきだ。スピード不足。
 橋爪淳は大川橋蔵に似ているというので抜擢されたが、『大江戸捜査網』のように彼がシンになるにはまだ力量不足。しかしこういうクセのないタイプの二枚目は必要なのだから、それなりに有望株である。
 総じていえるのはTVタレントの立回りには、情念をふつふつとたぎらせるようなものが見られない。それが致命的欠陷である。
1 殺陣の流れ

戦前の殺陣
 旧劇の殺陣は最初、歌舞伎の舞台の引き写しだった。したがってカメラは据えっ放しで撮影した。林徳三郎氏によれば、カメラの位置を変えることも知らなかったし、第一、カメラを動かすと画面がズレるから、立回りなら立回りがすんでから、そのときのアップを撮って編集するのである。
 当時、フィルムは二百フィートだったが、撮影の中途でフィルムが終わると大変だった。そのままの姿勢でフィルムの入れ替えを待たなければならない。静止状態ならばかまわないが、斬り込みのときなど、腕は振り上げ、足も片方上がったままの形を保つため、大道具が木や竹を腕、足などのそえ木に使ってツッパリにする。そのためカラミはロケのとき、あらかじめ手ごろな木を拾っておいて、大道具にそれを頼んだものだそうだ。
 そのような原始的な手法が用いられてはいたが、じょじょに舞台とは異なる、型にとらわれない独自の殺陣が構成されるようになってくる。
 〝脱歌舞伎調〟の功労者はマキノ省三とスター第一号の尾上松之助だが、新国劇の〝剣劇〟やハリウッド製活劇の影響を受けて、いち早く旧劇の立回りを排したマキノは、旧劇を葬り去り、時代劇を確立する。
 スターは大正末から昭和二年にかけてデビューしたいわゆる〝七剣聖〟が、王座を占めつづけてきたし、殺陣師も松之助当時からの林徳三郎氏はじめ、足立伶二郎、宮内昌平、川原利一、中村幹二郎、大内竜生、久世竜氏ら古いキャリアの人たちが各社の専属として活躍してきたから、殺陣の基本的な流れは、マキノ時代から変わっていない。
 マキノ映画でマキノ久夫を名乗り、後に嵐寛寿郎プロダクションで殺陣師となった菊本久夫氏によると、
《タテを付ける時は、符牒を言ひながら、つけます。符牒には山形、柳、つばぜり、ヤハズ、斬返し、天地人、横面、居所、キマリ、付け廻し、体当り、ぜん飛び、とんぼ、突込み、等々いろいろあります。まだありますが、現在使用してゐるのはこんなもので其他に使ってゐる符牒の如きもの。チョンチョン、飛び下がって、突いて、はねる、ギリッと廻って、ざぶっ、なんて立廻りそのままを言葉にしたやうなものです。
 立廻りをつけるにも舞台と違って映画はアラが見えやすいので余程の注意が必要です。キャメラの位置も考へてつけなければなりません。据位置の場合と立移動、横移動、俯瞰、ロング、クローズアップ等その様につけてゆきます。種類も沢山あります。一騎打、無手、乱立、追廻し、追駈け、二刀流、暗討(ママ)、仇討、其外、槍、薙刀なぎなた、十手、六尺棒、竹槍、懐剣、といったものを使用しての立廻りが大変多くなった様に思はれます。》(『キネマ旬報』昭和十年六月十一日号「剣戟のタテについて」)
 となるが、戦前の殺陣の状態をほぼいいつくしているようだ。

戦前と戦後の殺陣の違い
 戦前と戦後の殺陣の変化について足立伶二郎氏は、「戦前の立回りはチャンチャンバラバラの通り、突いたりハネたりしたものだが、戦後は主人公の性格が主になり、動きは従」に変わってきたことに特徴を見出す。さらに、
「戦前のはどちらかといえば型ものとして踊りの様な感じでしたが、戦後はその逆に踊らずに写実的となり、真実に近くなって来ました。それから、これは戦前からいくらかあったことなんですが、近写アップの時昔は大部分が竹光を使っていたのが、最近は真剣を使うことが多くなりましたな。それと言うのも、その方が迫力が出ますので。まァ、それだけ、今は実際に近い感じのものが喜ばれる様になったんでしょうな。それだけにこちらもえろう苦心しますわ」
 と語っていた。また『時代映画』(三十五年三月号)の「殺陣に生きる」という座談会で、
僕らが立ち廻りのかかり手をやっていた昭和の初めごろは、斬ったり斬られたり走ったりということが主で、主人公の性格が立ち廻りをきめるということはなかったんです。戦後は、主人公の性格ということがやかましく言われて、立ち廻りのようなはげしい動きの中でも主人公の性格が出せれば、それがいいんじゃないかと考えてやるんですが、早い動きの中に主人公の性格を出すのはなかなかむつかしいんです」
また、
戦前は、とにかく派手で、変った斬り方を考えることの方が主体で、主人公の性格は忘れられていた。僕なんか、若い頃のことを反省してみると、主人公の性格をどうだすかという勉強をしてなくて、なんとか形よく斬ろう、きれいな動きをつけよう、そんなことばかりが頭にありましたね。現在は動きにはこだわっていませんよ」
 といい、同じ座談会で、宮内昌平氏は、
隙をめがけて斬っていくのをうまくさけて相手を倒していくように考えるんです。昔は、山形というのがありましてね、これは今でも歌舞伎などはそうなんですが、主演者の体めがけては斬っていかないんです。いない所を斬っているんです」
 と語っている。足立氏もそれを受けて、
「今は、体をめがけて斬っていかせます。それだけやはり前進したんですね、山形で斬ってくるのは、じっとしていても斬られないが、今は動かないと斬られますからね。そのへんが、昔と今との立ち廻りの変った点でしょうね」
 といっている。また、たとえば、
《捕物だと、カラミのかかりようも違ってくるもので、シンが前進するとカラミが左右から交互に——これを〝千鳥〟という——かかる、シンのまわりをぐるぐるまわる、それもシンが右回りならカラミは左回りに、といった調子で万事が絵ヅラ本位。今ではもうこんな立回りは舞台でしか見られなくなったが、逆にいえばそれだけ映画の立回りが進歩したわけ》(よみうり演芸館「殺陣」中村幹二郎)だ。
 シネマスコープの発達で画面がワイド化して、殺陣に変化があったかというと、足立氏は、
《まず『鳳城の花嫁』だが、なにぶん、初めてのワイドだけに全然勝手がわからない。画面が広いのだからあまりカメラをふる(パンする)のもいけないし、かといってすえっぱなしでも困る。西部劇も見学してみたが、どうも普通どおりやってるようだ。ヨコの空間も割合平気であけている。
 ただ、間合がゆっくりとれるので、いままで一足か二足で行けたところは四足か五足かかる。それともう一つは、刀はもう本当に体に当てるようにし、その点はカラミにも因果をふくめておいた。それ以後ワイド作品はたくさん撮ったが、この刀を当てることだけは必ず励行している。スクリーンにうつったとき刀と身体が一尺もあいていてはどうにもお話にならないからだ。》(よみうり演芸館「殺陣」)と述べているが、「常識的に考えても、大型画面は、横幅が広く上下が狭いので、上下の動きが制約される。しかし横が広いから活劇ものには最適だ」(足立氏)というのが大方の意見のようだ。

コマ落とし
殺陣師のする苦労は、ウソとわかっていることを如何に本当らしく見せるかということですね。今日のように写実ということがやかまましく言われている時に、ウソを真実らしく見せるということは大変です。シナリオさえしっかりしていれば何とかやれますが、こういったもので要求されるのは動きのスピード一つです。お客さんに考える間を与えないで画面のスピード感でつないでいくやり方はもう進みようがありません。
 人を斬りすぎるのです。いくらリアルな立廻りをと考えても、二十人もが二、三人にかかればこれはどうしてもウソになります。一番シナリオで考えて欲しいことは、主人公と敵役との力関係です。この主人公の技量と、それにかかる敵方は三人で均衡した闘争になるといった計算です。私の考えでは、せいぜい一人対五人が精一ぱいというところです。これですと、主役と一人々々の力量が同じ位の時でも、五人が一ぺんに打ってかかることは出来ないのですから、主役は地形の利を考えながら一人ずつ斬って行くことが出来るからです。これですと殺陣師も張り切れるわけです。(中略)
 刀を抜いての立廻りが、どこまでリアルにやれるかという点では、私たちにも疑問なきにしもあらずでというところです。スポーティな立廻りとリアルな迫真力ある立廻りはしばらくは同居することでしょうし、そのどちらかが消えてなくなってしまう、ということも簡単には言えないことです。私にわかっていることは、立廻りだけが面白いというような映画は今後もあり得ないということです。シナリオが面白ければ映画も、その中の殺陣も面白いものになるということだけです。》(『時代映画』三十三年六月号「殺陣」足立伶二郎)
 足立氏も、三十郎剣法にやられる前に、それを予知していたのかもしれない。
 稲垣浩監督は、その著『ひげとちょんまげ』に、
《最近の時代劇のチャンバラを見ると、昔のスタアとちがって動きも早いし、チャンバラも上手である。昔は撮影の回転を十二コマとか十コマに落としたものだが、今の人は正規の二十四コマで、相当迫力のあるチャンバラをしこなしているのに敬服する。しいて私に不満をいわせれば、剣の心得のある者とない者との、使いわけがなされていない。侍のたても、股旅者のたてもおなじようであるのは残念だ。》
 と書いている。
「かつての乱闘場面には、斬った者も斬られる者もフルサイズで一緒に画面に写って迫力があった。近来のものはクローズアップやカメラワークなどの撮影技術でヘタなスターの演出をカバーするようになってきた」
 と嘆く〝チャンバリスト〟の声がある。(『カツキチ』十七号松井竜三)
 稲垣監督は二十四コマでやっているとほめていたが、いまでもテレビなどはコマ落としをやっているのだ。
 高速度撮影やコマ落としを利用するのは、間違ってケガなどしないようにテンボを落としてアクションをはじめるのだ。それをコマ落としで写すと、目にも止まらぬ素早い立回りとなって見えるわけである。
「昔のスターには、殺陣に個性があったが、若いスターにはない」ということがよくいわれるが、それもこうしたところに一つの理由がある。

事大主義が立回りをダメにする!
 映画評論家滝沢一氏は、
《立回りのシーンの動きの美しさ、生命感の躍動は殺陣師の工夫だけでは成就出来ない立回りの迫力には多分に主演者の若さと個性が大きく影響する。(中略)
 原則的に言って、からみを動かせる立回りは『大菩薩峠』の机竜之介(ママ)など、特殊な場合をのぞいておもしろくない。やはり主演スターが自ら動く、能動的なちゃんばらの方に躍動感がある。近ごろの時代劇はスターの若さを活かさず、スターの身体をいたわりすぎている。立回りにまで事大主義がのさばっては困るのだ。スターをもっと酷使すべきであると思う。
 また今の立回りは平面的になりすぎている傾きがありはしないか。これは近ごろの時代劇にロケーションがすくなくなったこととも関連がある。立回りシーンはセットへ持ち込む方が能率的である。事情は判らないでもないが、平板なセットを組んで、前後左右の動きだけで処理するタテの型が多い。ロケだと同じ前後左右の動きでもバックの山なみや木立などがちゃんばらの動きを複雑にする。また道路の曲線的なカーブや起伏が、ありきたりの移動なんかでゴマ化しきれない複雑さを要求する。
 同じセットに立回りシーンを持ち込んでも、昔はもっと勾配を考えたり、町家のシーンでも屋根の上と下、或いは露地の出入りに立体的なポジションが工夫され、平面的な動きを排する仕組みが考えられていた。カット割りもこまかかったし、移動やパンを使ってもバックの大道具、小道具の動きが立回りの型のなかに立体的に組み込まれるような計算がなされていた。
 今の立回りは画面を流すだけの立回りが多い。動くものと動かないもの、動くショットと動かないショットの手のこんだ組み合わせの工夫が余り見られないようだ。》
 と『東映ニュース』(三十五年二月二十日)に書いているが、この中の、スターをもっと酷使すべきであるという意見は正鵠を射ている。火の出るようなはげしい立回りにこそ生命の燃焼する美しさが見出せるのだが、スターもサラリーマン化したというのか、体を大切にして立回りにもあまり熱が入らない現状だ。五社監督の嘆きも、滝沢氏の指摘も全く同じところに触れているわけである。

2 殺陣と舞踊・剣道

殺陣と舞踊
 かつての時代劇スターは歌舞伎から来た連中が多いから日本舞踊の心得があった。〝剣の舞い〟という通り、舞うような美しさ、流動美が重んじられた。踊りと殺陣との関係については、戦後リアルな殺陣が主張されるようになって、これを否定する傾向が強まった。その代表的なものが〝黒沢時代劇〟で、久世竜氏は『潮』(四十二年八月号)の座談会「剣の世界」でこういっている。
「殺陣と舞踊がどうしてくっつくのか、僕らの時代ではちょっとわからないんですけれども、現在の殺陣師でも、昔からの殺陣師でも、踊りを知っている殺陣師というのは一人もいないわけですよ。殺陣を教えてもらってやる人は、踊りの名取りの人もいるし、人を殺すのに、なぜ踊りをやってるのか、歌舞伎の場合にはわかりますよ。だけど、映画の場合はおかしいという気がして
 あるいは、
あくまでも殺陣の基本は日本舞踊だというふうに、きれいごとで、ただ線だけで人を斬って、死ぬほうも踊りみたいな死に方をして、それでもいい時代もありましたけれどもね、これがずっと続くとなるとおかしなものじゃないかと思うんです」
 しかし、若手でも踊りを認めるものもいて、菊地剣友会の菊地竜志氏は、
「殺陣というものの根本は、やはり一種のおどりだと思うんですがね。日本舞踊が上手でもそこから抜けきれない人はダメです。やはり殺陣としての基礎訓練をちゃんとしないといけない」
 といっている。
 また、NHKの『あばれ頭巾』に主演したテレビ時代劇の草分けの一人、河原崎権十郎も歌舞伎俳優らしく、
「テレビの殺陣師には、カブキ調はかえって邪魔になるという人がいるけれども、ぼくは反対。いくらリアルにといっても、結局〝見るための美〟でなければならないでしょう」
 という。〝カブキ調〟ということと踊りとは同一ではないが、ニュアンスはこの場合同じだろう。
 この中間をいくのが市川右太衛門で、
「殺陣は踊りだけでもいけない、剣法一点ばりではなおいけない。クソ・リアリズムになりますからナここらあたりのかね合いがむずかしいんです。どっちかというと、舞踊の型を役の性格の上に現す、といった方向のほうがいいんじゃないか」
 といっているが、足立氏や宮内氏ら〝京都派〟はだいたいこれに近い立場とみなしていい。
 踊りを知っている殺陣師には林徳三郎氏がいた。女形だったから当然踊りを知らなくてはならない。だが林氏は立回りが好きで、女形をやっていながら道場に通い、剣道は五段、薙刀三段、空手二段だったそうだ。「殺陣師やるからには剣道でもやっていなくちゃ殺陣などつけられまへん」という。踊りもやるし剣道もやるから、臨機応変、大河内伝次郎の立回りもつけたし、林長二郎のもデケたというのが林氏の自慢だった。
 足立氏も一つ一つに熟練しなくちゃいかんということじゃないが、殺陣師の看板を上げる以上、映画の殺陣に使う武器は一応はコナさなくちゃいけないといっていた。

殺陣と剣道
 踊りに次いで、剣道と殺陣の問題が出てきたが、これについても意見は分かれる。
 久世氏は前の座談会で、次のように断言している。
「殺陣と剣道とは全然反対ですからね」
「役に立ちません、全然。剣道が何段だから殺陣がうまいだろうなんてとんでもない話です」
 テレビ『子連れ狼』の殺陣をつけた尾型伸之介氏も、「いまの剣道はスポーツ化していて、あまり殺陣の参考にはならない」という意見。尾型氏の場合、「殺陣師にとって一番大切なのは、殺陣はチャンバラごっこではないという認識です」といい、「殺陣の場面はそのドラマの中でもっとも崇高な場面でなければならない。なぜなら、そこで対決する人間は、おのれの一剣にすべてを賭け、その一太刀に全生命を燃焼するはずだからだ。いわば古武道の精神ですね」と、精神面を強調する。
 林氏は、
「剣道には足斬るのはないが、相手の戦闘力をなくすのが第一眼目だから、殺陣では足を斬らせます。そういう実戦的な面でも剣道とは違います」
 という。
 全日本剣道連盟の渡辺敏雄七段は、
「映画には映画の行きかたがあるし、剣道の型をそのまま真似るというわけにはいきますまい。しかし、われわれの世界でいう〝剣の理合い〟——つまり剣の理にかなった立回りをすれば、もっともっと立回りにスゴ味が出て、冴えた作品も生まれるはずです。
 作品によっては、それこそ荒唐無稽なスーパーマン的剣法も、ロカビリー剣法とやらも、ユーモラスな立回りも必要でしょう。そのことは映画ファンの一人として、よくよく分かっています。しかし、最後の真剣勝負の勝敗を決するのは、やはり修練をつんだ剣道の理合いであること。これは申すまでもありますまい。剣戟スターや殺陣師の人たちに、そうした基本的な〝剣の理合い〟を望んでおきたいと思います」
と語っていた。渡辺氏は別のところでこうもいっている。「まあ映画はショー的なものだし、剣道は地味な自分を守るためのものであるから、おのずからそこに違った型が現れていいと思う。しかし斬り方の問題として、斬る瞬間とあるいは斬った瞬間の型が剣道の理にあっていれば充分にすごみがでると思う。そういう点で現在の殺陣師は勉強が不足なんじゃないかな。
 剣道には明治年間には二百七十数種類の型があった。いまはそれを統一しているけれども、一刀流が底に流れているような気もするな。
 ともかく殺陣師もスターもこの二百何十種類かの型をもとにいろいろ工夫してやればもっと面白いものができると思う。それと剣道は間合と刀筋(斬ってからの刀の返りなど)によって凄味もでる。刀筋をいい加減に扱っていては興味半減だな」
 事実、剣道を映画にとり入れ、成功した例もかなりあるのだ。
 東宝の『柳生武芸帳』では、天真正伝香取神道流の杉野嘉男氏が殺陣指導に当たり、
 冠り入身=刃の先と柄を両手で持って万歳の型でさし上げる構え、脇鳥居=冠り入身の構えを胸に平行におろした構え、山月の位=刃の先を斜め後下にさげる構え、心の構え胸のところに刃を当て、相手が斬ってくればそのまま突き刺すといったような変わった殺陣をつけた。
 また東映でも『新吾十番勝負』などで、京都の古武道家中島将弼氏が月形竜之介に、切っ先を下にしてみねを左手で支え、まっすぐ目の前に立てる〝乱将の型〟をつけるなど、従来の殺陣には見られなかったものを加味していた。
 このような剣道と殺陣との結びつきは、戦前の『大菩薩峠』が最初で、やはり格調ある殺陣を生んだ。

歌舞伎の殺陣と剣劇の殺陣
 戦前の『大菩薩峠』の殺陣を指導し、また戦後も橋蔵の〝若さま侍〟に〝一文字崩し〟の型をつけた一刀流中西派宗家・高野弘正氏は『歴史読本』の「殺陣の話」で次のように述べている。
《嘗て日本で、演劇、映画の部門にリアリズムが登場し、歌舞伎の立廻りも批判の対照(ママ)となり、永年呼びなれた立廻りと言う言葉も、何時しか、何となく意味あり気な、リアリスティックな殺陣と言う名に圧倒されてしまった。言うなれば彼等リアリストを自認するやからは、舞踊化された歌舞伎ののろ間な立廻りはリアルでない、つまりウソであって、電光石火の剣劇の殺陣こそリアルそのものでホント——真実——であるというわけなのであり、今でも、何となくそれが映画でも演劇でも罷り通っているようである。併し、ホンモノは法に叶い、ウソモノは法に叶わぬものとすれば、また真実がリアルで、虚偽が非リアルであるとすれば、立廻りが非リアルか、殺陣が本当にリアルか、何れは芝居としても、どちらに軍配をあげてよいかそこに自ら問題があろうと言うものである。と言うのは、歌舞伎の立廻りの出来た時代の背景を考えてみるとそこには実際に切ったはったに役立つ、実戦剣法が厳存し、現代よりは余程立廻り構成に参考になる、豊富な資料に恵まれていて、その点現代の竹刀剣道だけしか無い時代とは、およそ較べものにならなかった筈である。また、殺陣構成者の多くは、全然——実戦剣法——を参考にせず、唯早いのがリアルだとばかり思いこんで、彼等だけの常識で、こんな場合はこんな風ではないか、あんな(ママ)はあんな風にと、でっちあげてゆくように思われるが、極端にいえば指一本、足一本の位置の違いで、ウソが本当になることに気を使っていないようだ。
 こうして歌舞伎の立廻りと、剣劇から出た殺陣とをどちらがリアルなのか比較検討して見ると、日本の仕来りや作法が、歌舞伎の演技の中に保存されているように、剣法の構えや手法も立廻りの方により多く残存しているのを散見するので、殺陣必ずしもリアルではなく立廻り必ずしも非リアルではなく、唯歌舞伎畑の人が習い性となって、立廻りに無関心なだけで、私はむしろ立廻りの方が、リアルの筈であるべきだと結論したいのである。》
 専門家の意見だけに核心を衝いている。
 踊りにしろ、剣道にしろ、殺陣師なり演技者なりの受けとめ方にあるわけで、頭から否定するよりは、それらのエキスをとって、いかに殺陣の上に活かすかということがポイントとなる。

3 殺陣の技術について

殺陣についての二つの立場
 殺陣師が脚本を受け取って第一に考えることは、感情を主にするか、動きの美しさで見せるかの二通りだと、足立氏はいう。
 殺陣師がこういう立回りでいこうと思っても監督が首をタテに振らなかったら、また考え直すが、監督との意見の食い違いはほとんどないそうだ。
「殺陣師はその場面の立回りしか考えないから、監督の意見を聞かないと一本の映画になったとき、そのシーンだけ浮いてしまう」(川原氏)
 という場面も出てくるが、そんなことは滅多にあるものではない。しかし殺陣場面の稽古となると、その場になってからすることが多い。「シナリオを読んで荒骨だけを考えて、肉をつけるのは現場でやるわけです」(足立氏)。「ということは、現場へ行かないと、地形がきまらないんです。ロケーションでもセットでも、こっちの考え通りと違う場合の方が多くなりますからね」(宮内氏)
 これは映画でもテレビでも共通している。『三匹の侍』の湯浅謙太郎氏は、「見せ場を考えた段どりより、たとえぶざまでも、実際そうなるという事実の迫力が大切です」という。
『週刊TVガイド』(二四二号)「テレビの殺陣師銘々伝」には、《一口に殺陣といっても人それぞれ、あみ出す方法はさまざま》として、各氏のそれを紹介している。
 湯浅謙太郎氏は、「頭で考えるより、稽古をつけながら作った方がリアルなものができます。第一稽古をしないと腕もカンも鈍りますから一石二鳥ですよ」といい、「互いに切りいいところで切るだけです。アドリブが常識だ。からみの人にも十教えず八だけにしてあとは当人の工夫に任せる」という。大内竜生氏は、「思いがけないときにアイディアが浮かぶ」と、偶然性を強調する。だが、稽古を軽視しているわけではなく、弟子に本気で打ち込ませ、こっちも真剣に逃げる。そうした稽古をくり返しながら工夫するのだという。そして「相手のクセや特徴を見抜いて、それに合わせた殺陣をつける」のだそうだ。
 桜井美智夫氏は〝技〟を重視する正統派だ。実際に高野弘正氏の道場で手ほどきを受けたりして、本格的な剣技の応用で殺陣をつける。また、神経質なほど、カメラマンやディレクターとのチームワークを強調する。それで、「私は仕上四分で本番にのぞみます。六分はスタジオで考えることにしています」という。これに反して加賀麟太郎氏は、
「技を軽く見るわけではありませんが、リアルな殺陣というのは、とどのつまり、力対力の対決ですね。叩っ斬る、これですよ、イギリスで中世に使われたヨロイ、カブトを見ておどろいたんですが、胴体や頭の上がペシャンとつぶれている。あれはブ厚い剣でたたいて、そのショックで相手に脳震とうをおこさせた証拠ですよ」
 と〝力〟に重点をおく。そして、「殺陣の秘訣は間合いと呼吸、それと緩急のテンポにある」というのだ。
 林邦史朗氏は大道具、小道具を巧みにとり入れる主義。
「結局、十通りぐらいの型を作ってしまうとあとはそのくり返しになる。ですから、迫力を盛るために型にこだわらず格子、障子、らんま、ふすまといった道具類をフルに使います」
 菊池竜志氏は、「斬られ方に型なし、です。これは個性に応じて、それぞれがつくり出すべきものですね」というし、大野幸太郎氏は、「昔の殺陣といまのとの違いはスピードだ。それと、一つの型にはまらない、その人にふさわしい、その人に出来るものを最大に生かしてやること」がコツだと説明する。
 また新国劇の伊吹聡太朗氏は、
「新国劇の立ちまわりには基礎の型が十手あります。それを連続させたりくずしたりして工夫していくわけです。映画もテレビも同じだと思いますが、殺陣のいい悪いはカラミ次第でしょうね。ぼくの殺陣師としての願いは、迫力の中にも舞台をふちどる額ぶちの中での絵のような美しさを出したいということです」(『東京新聞夕刊』四十五年十二月十二日「人間ひろば」)
 と語っている。
 このように、殺陣師個々によって殺陣に対する考え方が異なるのは当然といえよう。
 若山富三郎が、
「いま、殺陣は一発斬りだろ。剣道見てみろ、一発ないだろ、連続技だろ、山がた斬って、下で合わして、また受けて—これはリアルなの。カウンターってのもあるよ。ボクシングでもあるけど、そりゃマレだろ。一発斬りはカウンターだからね。だけど十何手教えても出来ない、やれないんだ」
 といっていたが、「日本一のチャンバラ・スター」を号した彼にとって、現在の殺陣がかなり不満だったようだ。
 それといまもって主役にカラミがカラんでいく立回りばかり目につく。主人公はほとんど同じ場所から動かず体を回転させるだけ。これは歌舞伎の様式を踏襲したままの古い型で、何人かの集団の場合でも、それぞれが同じ所でクルクル体を回しながら、かかってくるカラミを斬っているというような立回りを見せられると、レビューかショーの感じでおかしい。
 斬ってくるのを待つのじゃなく、主役が先に斬り込んでいく殺陣がなくてはならない。大勢にとり囲まれていちいち名乗りを上げているなど、あまりにも非現実的だ。
 やはり斬り合い殺し合いの雰囲気が醸成じょうせいされなければ、チャンバラの爽快感を味わうことができないのだ。
 加藤泰監督はカラミの役者に「斬られてくれるなよ」という気構えを要求するといっていた。殺陣は約束ごとだから、カラミは斬られるのだが、いかにも斬られます、斬ってもらいますみたいな馴れ合いでなく、迫真力ある立回りを見せろということだ。
 主役は横綱相撲みたいに、かかってこい受けてやるといったカッコいいポーズばかりキメるのはやめること。状況に応じて最初から攻める殺陣もつける。一カ所に立っているのじゃなく、周りのものとか地形とかを利用して動き、観る者の納得する太刀さばきを見せてもらいたい。
 その上、抜き胴、横なぎがやたら多い。だいたい胴斬りなんぞそんな簡単にできないものだ。しかも逆胴でもなんでも斬るのじゃなく、薙ぐような全く力の入っていない太刀さばきだ。やはり真っ向唐竹割り、けさがけ、突き、籠手落としなどと併用して、胴斬りの技も映えるのであって、やたら胴を払ってばかりでは興をそぐ。

殺陣のパターン
 立回りの形について宮内昌平氏は、①動きの少ないもの、②ミーハー族のチャンバラ、③やくざの体当たり、④歌舞伎のように見得を切るもの、⑤舞踊型、⑥マンボ調などに分けていた。昭和三十年代、京都時代劇全盛のころのものである。
『用心棒』『椿三十郎』の衝撃の殺陣はこのあとに現れた。さしずめ宮内氏の分類に従えば、⑦残酷のリアリズム型とでもなるだろうか。
 殺陣をつけるスターについては、どうしても上手、下手があるし、一を習っただけで十やる人もいれば、十教えて一もできない人もいる。前記菊本久夫氏はこんなふうに表現している。
《今日迄いろいろな人のタテを付けさしてもらいましたが、十人十色、それぞれ癖が有りまして、刀を斬下す度に、下の板の間なり、土の上を叩く人も有るかと思ふと、どうしても左へ廻れない人が有ったりします。勿論立廻りをしてゐない時は廻れますが、一寸テンポを早めて立廻りをすると、左へ廻る所を右へ廻って仕舞ふんです。そんな時は、側で左へ廻れと言ってやるんですが、近頃はトーキーってものが現われたんで、側で声を掛ける事も出来なくなって仕舞ひました。サイレントの時代(と言ってもつい此の間ですが)には立廻りの符牒を言ひ乍らやってた連中もありました。所が今では一言も言へないので困ってゐるんです。少し覚えの悪い人なんかにはトーキーは難物、それにエキストラを沢山使ふ時なんか、また困ります。それを追ひかけろ、とか逃げろ、とか言って追ひ廻しますが声が出せなくなってからは、まるで(中略)体操です。》(前出『キネマ旬報』)
 殺陣師の側からいえば、戦後、歌舞伎畑から時代劇スターに転向した者が多いが、「歌舞伎の人は間延びする」(宮内氏)し、「時代劇を知らないなら知らない方がいい。中途半端が一番困る」(足立氏)そうだ。そして、立回りは結局は本人の運動神経の問題ということになる。また、「元気のない人はダメだ。まずければまずいで、カラミがカバーしてくれる。頭からダメだと思っていたら満足な立回りはできない」(宮内氏)という。
 しかし、いずれにしろスターが立回りに情熱を傾けなければいい殺陣の場面が生まれるはずがない。そういう点だけでも将来の時代劇に対しては悲観的になってしまう。
 新劇系のタレントなど、刀の差し方も知らないようなお粗末なのがブラウン管に出てきたりする。せめて基本くらいはふだんから訓練すべきだろう。

腰の重要性
 川原利一氏は殺陣の基本は「腰を据えることが第一」という。
「この〝腰〟が坐らんことには、剣が伸びません。剣が伸びないと言うとどうにも画にならんのです。人を斬っても、本当に斬れていない。つまり、嘘になってしまうわけです。立廻りには、斬る、突く、払うと言うように、幾つかの基本型があって、それを色々と変えてゆく。ところが、〝腰〟が坐っていないと、そういう応用が全く利きません。身動きとれぬようになってしまうのです。ですから若い人にはいつも〝腰を据える〟と言うことを、うるさいくらいに言うんです。
 それから〝身を軽くすること〟。これも大切な心得ですね。打ち込むとき、或は敵の剣を誘うと言うようなとき、身体がコチコチになっていては駄目です。力を籠めるのは、剣と剣とが、ガギッと結び合うときなんでして、始めっから身体を固くしていると、立回りがギコチなく醜いものとなってしまいます。〝腰を据える〟半面に〝身を軽く〟する。これはなかなか難しい仕事ですが、どうしても会得しなければならぬ問題なのです。このほか、時代劇のスターは歩き方ひとつにも工夫を凝らさねばなりません。常に腰に大小を挿しているような気分で、ドッシリ歩く癖をつけていないと、イザと言うときに〝腰〟が浮いて始末に終えんものです」
 菊地竜志氏も、
「訓練にはやはり腰が中心です。やってると足の裏の皮がペロンとむける。一皮むけなきゃ駄目です。それから肩の力をぬく、両脇をしめる。殺陣は刀をとめるべきところでピタッととめなきゃいけない。刀をにぎる両手をタオルをしぼるようにしぼりながら、肩の力をぬいて、かつピタッと止めるようにすれば、必然的に脇がしまるし、しまらないと止められない。スポーツと共通する点も多いですね」
 という。

4 カラミの重要性

カラミ六分にシン四分
 立回りの武器は、刀、槍、薙刀、短刀、鎖鎌、鉄棒、手裏剣しゅりけんなど。捕物では、十手、六尺棒、捕り縄、刺叉さすまた袖搦そでからみ、梯子などがあるが、主役はなんといっても刀と槍だ。
 刀を構える基本の型は、上段、中段、下段、八双、脇構えの五つで、薙刀なぎなたの場合も同じと、足立伶二郎氏はいっている。
 そして、殺陣の基本は、打つ、受ける、突く、振るの四態に尽きる。川原利一氏によれば、殺す型に十五種、殺される型にも四十八種類あるそうだ。これが臨機応変に組み合わされ、無数の型になっていくのだ。それを殺陣師は、
《監督のイキ、主役のイキと性格、からみの上手下手、地形、地物(ママ)の配置、それにカメラの位置等を考えて、頭の中で組み立てる。》(『時代映画』足立伶二郎「殺陣」)
 わけである。
 殺陣を構成する上でもっとも重要な存在がカラミである。このことは舞台も映画も同様だ。カラミの手数は、動きの多い立回りになると、二十手、三十手というのはザラだが、
「僕らの頭の中には立ち廻りシーンのテンポがあるんですよ。このカットでは二十手の立ち廻りをやった、次も二十手の立ち廻りでは、同じテンポでしょう。ですから、二十手、十五手、五手、十手、二手といったふうに、デコボコにせんならんのですよ。そこに変化をもたせるんですね」
 と足立氏はいう。
 殺陣師の間では、立回りはカラ三六分にシン四分といわれている。どんなに立回り巧者なスターでも、カラミの上手な連中にかかってもらわなければ、強くも見えないしうまくも見えない。
「カラミが悪いとチャンバラの魅力がなくなります。エイ、ヤーのかけ声で殺し殺されなければ、カラミがもたつくと主役の力がにぶりスピードがなくなりますし大変つまらなくなりますよ。チャンバラシーンをみていて迫力とスピードがなかったらまずカラミが悪いと思っていいでしょう」(川原氏)
 だからスターたちは縁の下の力持ち的なカラミを非常に大切に扱った。

カラミの技術と訓練
 足立氏は、
《切られるためにかかっていくのが〝カラミ〟の役目だが、主人公が一番切りやすい姿勢を保持しているときに切っていく、その呼吸と間をのみこむのがたいへんだ。主人公がひとり切り倒して、思わずその体勢をくずす、そのスキをねらってつぎの〝カラミ〟がかかる。しかし、だからといって一番スキのある瞬間はいけない。それより何分の一秒か遅れたとき、つまり主人公がスッと体勢をたて直したあとでなければならない。しかも、それぞれの主演者によって殺陣のうまいへたがあるのだから、その個人差といったものも知っていないと一人前とはいえない。
 そのためにはふだんの訓練が必要だ。主人公の剣をひきたてるために、切られ方の工夫や研究をする。美しく、またリアルに切られるようになるためには相当の年季を要する。》(『赤旗』四十四年九月「殺陣師四十年」)
 といい、具体的な訓練は、
《ケサに切られたときにはできるだけ体をうしろにそらさなければシンの剣は引立たない。ふだん、エビのように体をそらせる練習をつんでおく必要が生じる。サバ飛びというのもある。バタッと腹ばいに倒れることだ。高いところから落ちてもケガをしないようになるにも、相当の年期がいる。》(よみうり演芸館「殺陣」)
 と解説している。
 川原氏は、「カラミは、トンボ返り(飛び上がって空中で一回転してすっと立つ)、突っこみ(相手の頭を飛び越す)、にせちゅう(トンボ返りの変型)の三つが基本動作だ」といい、氏自身もかつては加茂川べりで毎朝二時間ばかり練習したものだそうだ。その練習というのは、帯の後ろに手拭いをはさんで、それを双方から一人ずつ先輩に持ってもらい、「ハッ」というかけ声でトンボを切ったりするのだ。
 林徳三郎氏は、「いまのカラミは、手を間違えないようにするだけでいっぱいだ。これではいい立回りは出来っこありませんよ」と指摘する。カラミはカラミでわが身かわいいになってしまったからだろう。
 しかし中には湯浅氏の弟子の波戸崎徹氏のように、
「立ち廻りとは、切られるのではなく切りにいく、その結果殺されるものだ。殺されることを予期しない。〝切られ役〟という様式的なことはきらいですね。だれだって、相手を殺し、自分は生きたいですよ」(『東京新聞』夕刊四十年十月連載「アクション時代」)
 というカラミもいて、そのような主体性を持つことは頼もしい。
 川原氏の、
「昔はすべて徒弟制でした。いまの人はメシたき、洗濯が人生の出発といっても信用しません。ウソをいうなと笑い出します。考えてみますとチャンバラは徒弟制が育て上げたといえますよ」
 という言葉は、現在では不可能だが、一つの理想的なものを表現している。きわめて封建的な徒弟制の中にスキンシップがあり、手に手をとって教え、教えられるという関係が生じるわけだ。
 林氏は、「殺陣を免許制にしなかったのが惜しかった。そうしておれば、立回りもこう無茶苦茶にならなかったやろう」と慨嘆していたが、たしかにそうすれば、舞踊の家元などと同じく系列化するに違いない。川原氏のいう徒弟制とも通じることになる。
 しかし、そうなっていたらいわゆる〝型破り〟がむずかしくなり、パターン化した画一的な殺陣ばかりはびこるおそれがある。むしろ思い思いに可能性を試みて、それぞれの殺陣師がその技量を競い合ったほうが、殺陣のレベルを向上させることにもなる。それを選択し、批判するのも受け入れるのも、映画なりテレビを観る大衆なのだから。

5 技術継承のために

これからの殺陣
 滝沢一氏は、
《今後は立回りにも特撮技術の導入が必要である。ロケとオープンとセットの組み合わせ、また変わったロケ地の選定に特撮技術を組み込んで、多彩な動きを考えるべきである。一度簡便な合成技術やスクリーン・プロセスの利用が活発になされるだけでも立回りはもっと多様な興趣を加えるであろう。焦点深度の深いカメラによって前景、中景、後景と、三段の立回りを一シーンにおさめるような立体化されたちゃんばらシーンなども是非みたいものである。》(前出『東映ニュース』)
 といっている。
〝黒沢時代劇〟以来、ズームが多用されて立回りに迫力が加わったし、超大望遠レンズによる巨視的なとらえ方もできるようになった。こういう撮影技術の進歩は歓迎するとしても、その反面、カラミも含めて演技者の力が低下しつつあることは憂慮すべきことだ。
 林徳三郎氏は、
「いまの立回りには殺陣師のイロが出ていない。パッと見ただけで、誰のつけた殺陣かいうことがわからなあきまへん」と批判していた。
「斬るだけが能であって技術がない。自分の持ち味、イロを考えてほしい。殺陣師の力でもう一段よくなったといわれるのが技術です。主役が自分を生かしたと感心するような立回りをつけるようにすれば、役者が殺陣師のいうことを聞かないなんてことは起こらんはずや」
 イロを出すということ、つまり個性的な殺陣が生まれれば、バラエティに富むし、競合という中から観る者の眼も肥えてこよう。
 林氏は殺陣師の地位が低下したという。昔からこれだけ重要な役割を占めながら、タイトルに一枚で出ないのは、まだまだ殺陣師の地位が認められていないからだという人もある。本来ならば〝特技監督〟としてもいいはずだが、殺陣を単なる〝職人〟とみなす芸能界の古い体質がそれをはばんでいるわけだ。
 殺陣をよくするためには、先立つものは金だろう。殺陣師もカラミもギャラを大幅にアップしなければならない。とくにカラミには保険はじめ社会保障を完璧なものにする必要がある。

ユニオンの可能性
 殺陣師がそれぞれ鼎立しているのはやむを得ないにしても、拘束性のゆるやかな統一機関を持ち、機関誌を発行し、研究発表とか情報交換の場にする。その統一機関によって、ギャラや身分保障問題の解決をはかる、等のことが考えられる。特技を持っているのだから、ユニオンを作ることは一般演技者より比較的容易なはずだ。
 平成元年十月十一日に発足した日本俳優連合の中の「殺陣対策委員会」林邦史朗委員長が、
「われわれは娯楽と文化を担ってきたという自信があります。しかし、このままでは培ってきた技術の継承が危ぶまれる。その技術が失われるということは良質の時代劇や活劇がなくなることだとわかってほしい」
 と訴えかけている。
「ミュージカルにダンスのできない俳優を使いますか? そんなことはありません。殺陣の場合だってそれは同じはず。なのに、実態はアマチュアのエキストラと同じで、日雇いの日給制の上にケガをしてもロクに補償制度もない。〝ケガと弁当は自前〟と言われているのがわれわれの世界なんです。これでは、継承者を育てたくても育てられません」
 この「殺陣対策委員会」には全国十六団体二百人の殺陣師が結集され、「(殺陣技術の)ライセンス制度の確立」「出演のための最低安全対策」などをテレビ局などに申し入れたという。(『日刊ゲンダイ』平成元年十一月一日)
 こういうことはもっと早くからやるべきだったが、『座頭市』撮影中に殺陣師大貫幸雄氏が、勝新太郎の息子奥村雄大に真剣で殺される事故があり、世論が沸いたのが一つのキッカケとなった。
 テレビ局ににらまれて仕事がこなくなるおそれがあるので消極的になったというのが現状のようだが、時代劇にとってもっとも重要でありしかももっとも危険な部分を担当しているのだから、もっと自覚を持って団結し、待遇改善を要求するべきである。
 そういう意味で、千葉真一が『戦国自衛隊』『百地三太夫』『激突!』などで〝アクション監督〟として活躍しているのが注目される。
 千葉は殺陣師ではない。しかし殺陣師の仕事を包括したアクションすべてを仕切るわけで、いわばSFX映画の特撮技術監督に該当するところに位置づけをしている。
 千葉はジャパン・アクション・クラブ(J・A・C)を主宰し早くからアクション俳優を養成してきた。その中から真田広之や志穂美悦子のようなスターも出した。千葉自身が現役の実力スターであり、そういう実績が認められているだけに、監督と同格の立場を確保できたのだろう。
 従っていまただちに殺陣師を千葉と同じ〝アクション監督〟的なものに格上げすることは無理かもしれない。しかしそれに近づけるという目的意識のもとに殺陣師全員が努力することだ。
「アクション・コーディネーター」といういい方を用いる人も出ている。殺陣をTATEと呼ぶ人もいる。
 歌舞伎界以来の伝統で、立師——殺陣師がいつまでも下積みのままでいるのがおかしいのだ。映像にしろ舞台にしろ総合芸術には違いないから、部分部分すべてが大切である。しかしチャンバラ時代劇における殺陣は最重要といっていい。
 このことは『用心棒』や『椿三十郎』での殺陣師久世竜氏の用いられ方を見れば容易に納得できるだろう。
 とくに最近は刀の差し方も知らないズブの素人みたいなタレントが時代劇を撮っている。だから殺陣師の役割は彼らに立回りの手順を教えるなどという生やさしいものだけではすまないはずだ。こういう点からも殺陣師の存在はますます重くなってきているといえる。
 それと、かつては製作会社がカラミの役者を抱えていた。殺陣師が専属でカラミを鍛えた。しかしいまは映画でもTVでもその度に日雇いでカラミを集めている。殺陣師がその剣友会とか道場単位で契約するケースがほとんどのようだが、TV時代劇など、下請け——孫請けの形で制作会社とプロダクションが入って、末端のカラミ役など満足なギャラも もらえないというのが現状だ。
 たとえ給料が安くても会社が面倒をみてくれたカツドウ屋時代と異なるいま、生活費にも事欠き別な仕事をやったりしているのでは、練習も不十分だろうし、技術の向上もおぼつかない。やはり全体を底上げしてカラミに専念できる体制を作る必要がある。
 殺陣の構成はカラミのうまい下手によって成功もすれば失敗もする。このままではカラミ志望者がいなくなり、チャンバラができなくなるような危機感さえ覚えるのだ。
 映画会社はほとんど時代劇を作らないから、この場合TV局などが早急に問題解決に乗り出してほしい。安定した視聴率を期待できる時代劇を存続させるためにも

失われた〝野性〟の復活
 そういうこととは別に、殺陣そのものは、やはりリアルなものが主体となるだろう。もちろん、立回りの華やかさは必要であっても、合理性がそこになければ受け入れられない。殺陣をバレエの美にたとえた外人もいるそうだが、しかし剣戟をショーとして官能的、感覚的にだけ見るという形はすたれてくると思う。
 世界的に大ヒットしたブルース・リーの功夫(空手)映画『燃えよドラゴン』は、画面にたたきつけるようなエネルギーを感じさせた。それは、カーやガンなどのメカニズムを駆使するアクションを圧倒する原始的衝撃といってよかった。アクション映画の〝原点返り〟と評する人もいたが、時代劇において、旧劇の立回りを打ち破った新国劇やマキノの殺陣、あるいは東映時代劇をほふり去った〝三十郎剣法〟が、その若く荒々しい野性的エネルギーで、形骸化した既成の立回りに革命をもたらしたことと軌を一にしている。
 しょせん虚構に過ぎないとはいえ、立回りは人と人が斬り合い殺し合うその迫力、ダイナミズムが見る者をひきずりこむのだ。だからマンネリ化を阻止するために、常に新鮮なショックを与えねばならない。失われた〝野性〟の復活こそが殺陣に新たな生命を吹きこむことになるだろう。
 殺陣にはベテランの円熟したテクニックも必要なら、ヤングパワーもまた欠くことのできないファクターである。なぜならば、野性、爆発するようなエネルギーはほとんど若さの所産だからだ。
 だが、そのヤングパワーたる新しいスター、若いカラミについて、殺陣師の人たちも、あるいは二、三の監督も一様に悲観的だ。その人たちの意見に共通するものは、近ごろの若い人たちは損得ぬきで物事を考えるヤツがいないということだった。
 現代を貫くもの、それは〝即物史観〟である。唯物論ではなくタダモノ論がすべてといっていい。その風潮の中で金がすべてと割り切る若ものがふえるのは当然のことだろう。そして金で割り切るのもプロのあり方ではある。だが、「金をとれるようになるまでの修業に堪える人が少なくなった」(大内竜生氏)というのも事実なのだ。つまり、ろくに基礎的訓練も積まないうちから報酬を得ようとする傾向が強まっているわけだ。
 たとえば若い殺陣師が一週間に何本ものテレビ時代劇の殺陣を引き受けているが、これでは十分納得のいく立回りが生まれるはずがない。稼げるだけ稼ごうということが悪いとはいわないまでも、やはり立回りをつまらなくし、大衆を離反させる原因になるのである。
 いまさら精神的なものを強調するつもりはないが、ドラマの中に立回りがとけ込み、その突出部分というか盛り上がりの一つとして立回りがある以上、殺陣を技術として切り売りするような乾いたものでは、情感にフィットしないのは当然だ。
 なぜ、戦前の時代劇が面白いといわれるのか。それは年輩者の回顧趣味では決してない。無声映画などを見た若い映画ファンの誰もが驚嘆するのである。若き日の阪妻が、大河内が、嵐寛が躍動するそれらの作品からは熱気が噴出し、はげしく見る者の心をゆさぶる。それは主演スターだけが獅子奮迅のアクションを見せるからではない。スタッフも演技者も一体となって見事なハーモニーを生み出したからだ。
 現在とは比較にならないような悪条件の下におかれていた映画労働者が、一作一作にその情熱を傾けたその成果を見る思いがするのである。やはり理屈ではない何かを持ち出さざるを得ない。
 立回りの拙劣さを「演技力でカバーする」などというタレントがいる。これくらいナメた話はない。これは立回りを単なる技術としてしか見てないからだが、立回りこそ最高の演技だ。肉体的演技はもちろんのこと、内面的昂揚を立回りの上に表現するのは中途半端な〝演技力〟では無理というもの。立回り軽視の悪しき風潮は絶対に改めるべきだ。
 このようないろんな意味でのマイナス要因が時代劇全盛期に比べて多すぎるから、往時のようなすぐれた殺陣は出来ないという意見が大勢を占める。それを超克するには鍛練と同時に、関係者の殺陣にかける情熱以外にはないだろう。
 ブルース・リーのようなスーパー・スターが登場して爆発的なブームでも起これば、事情はおのずと変わってくるだろうが、現状ではひたすら自覚的向上を期待するのみだ。
 ところで立回りの必然性とは〝対決〟にある。やたら大根でも斬るようにスパスパ斬るといった剣の舞い、それはラストに立回りを見せなければという迎合的な意図できわめて安易に作られていた。個人、集団を問わず、対決を主軸としてドラマは構成されなければならない。
 かつては勧善懲悪がテーマだったが、価値観の変革した現代、正邪善悪という平面的なとらえ方では盛り上がりはない。当然、心理的要素や社会的背景を重視し、その中から対立の要件を浮き彫りにすべきだ。マキノ時代劇のようなニヒリズムや、傾向映画のように階級闘争を図式的に描くことも陳腐で、いまさらああいうパターンは生まれっこない。
 松之助以来のヒロイズム、スーパーマンの活躍はいまもテレビ時代劇に連綿と受けつがれているが、金はどこから出るのかと現代人なら不思議がるような生活のない人間は否定されなければならない。時代劇がたとえ虚構であるにしても、生きた人間でなければ、その怒りも憎しみも、立回りの上に反映せず、絵ソラごとになってしまう。
 立回りを、見て面白い、スカッとするというウサばらしとしてしか受けとめないのでは、逃避にすぎない。何ものかを創る積極的な姿勢がこれからの殺陣には盛り込まれるべきだろう。テレビ時代劇の〝必殺シリーズ〟など、悪が悪を制する趣向も悪くはない。だがウサばらしのほかに何ができるのかという問いかけがなされれば、おのずとドラマと密着した上での立回りの工夫も生じてくるはずである。
 いまは脱組織人間や反体制人間がクローズアップされている。映像の主人公のキャラクターは時代・世相を投影して変化するものだが、ポーズや行動が変わっても、人間の情念から発するものは変わらない。生きた人間を描くという立脚点さえ踏まえていれば、確信を持った殺陣が生まれるはずである。
 それといま一つは、殺陣の様式美を全く否定するわけにはいかないということだ。リアリズムを百パーセント貫くとすれば、およそ興趣のない退屈なものとなるだろう。リアリティのある合理的なものに構成するのが〝映像の魔術師〟たちの力というわけだ。
 時代劇は映画が往年のような盛況をとりもどすことはできないとしても、テレビなどで消ゆることのない人気を持続している。それは日本人にとって没却できないロマンを時代劇に求め得るからだ。そして殺陣には、虚構を承知の上でのカタルシスがある。
 今後、大衆の生活なり思考の変革が、どのように時代劇に投影して、そして立回りとかかわりあうのか、それを見守りたい。

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