もくじ

口絵

【一】巨匠たちとの日々

成瀬巳喜男

今井 正

小津安二郎

溝口健二

黒澤 明

【二】スターへの階段

デビュー

島 耕二

阿部 豊

中川信夫

フリー

結  婚

原 節子

田中絹代

長谷川一夫

三船敏郎

【三】忘れ得ぬ人々

大庭秀雄

渋谷 実

家城巳代治

久松静児

衣笠貞之助

大曾根辰保

清水 宏

豊田四郎

吉村公三郎

川島雄三

山本薩夫

内田吐夢

三隅研次

加藤 泰

堀川弘通

山田洋次

熊井 啓


香川京子(かがわ・きょうこ)

東京都出身。都立第十高女(現・豊島高校)卒業後、新東宝に入社。一九五〇年、島耕二監督の「窓から飛び出せ」で映画界にデビュー後、成瀬巳喜男監督の「おかあさん」、今井正監督の「ひめゆりの塔」、小津安二郎監督の「東京物語」、溝口健二監督の「近松物語」、黒澤明監督の「どん底」、「赤ひげ」、「まあだだよ」、熊井啓監督の「深い河」などに出演。一九九〇年、熊井啓監督の「式部物語」でキネマ旬報助演女優賞、日本映画批評家大賞、一九九三年、「まあだだよ」で日本アカデミー最優秀助演女優賞、田中絹代賞などを受賞した。テレビドラマや舞台の経歴も長く、一九九六年、宮尾登美子原作のNHK連続ドラマ「蔵」、一九九六年から一九九七年、NHK連続テレビ小説「ふたりっ子」に出演したほか、近年の映画作品では「阿弥陀堂だより」、「自由戀愛」、「赤い鯨と白い蛇」、「東南角部屋二階の女」(二〇〇八年秋公開予定)などに出演している。一九九八年秋、紫綬褒章、二〇〇四年秋、旭日小綬章を受章。著書に『ひめゆりたちの祈り』(朝日新聞社)がある。

勝田友巳(かつた・ともみ)編

一九六五年生まれ、茨城県出身。北海道大卒業後、毎日新聞社入社。松本支局、長野支局、東京本社編集制作総センターなどをへて、一九九七年から編集局学芸部で映画を担当している。

香川京子(かがわ・きょうこ)

東京都出身。都立第十高女(現・豊島高校)卒業後、新東宝に入社。一九五〇年、島耕二監督の「窓から飛び出せ」で映画界にデビュー後、成瀬巳喜男監督の「おかあさん」、今井正監督の「ひめゆりの塔」、小津安二郎監督の「東京物語」、溝口健二監督の「近松物語」、黒澤明監督の「どん底」、「赤ひげ」、「まあだだよ」、熊井啓監督の「深い河」などに出演。一九九〇年、熊井啓監督の「式部物語」でキネマ旬報助演女優賞、日本映画批評家大賞、一九九三年、「まあだだよ」で日本アカデミー最優秀助演女優賞、田中絹代賞などを受賞した。テレビドラマや舞台の経歴も長く、一九九六年、宮尾登美子原作のNHK連続ドラマ「蔵」、一九九六年から一九九七年、NHK連続テレビ小説「ふたりっ子」に出演したほか、近年の映画作品では「阿弥陀堂だより」、「自由戀愛」、「赤い鯨と白い蛇」、「東南角部屋二階の女」(二〇〇八年秋公開予定)などに出演している。一九九八年秋、紫綬褒章、二〇〇四年秋、旭日小綬章を受章。著書に『ひめゆりたちの祈り』(朝日新聞社)がある。

勝田友巳(かつた・ともみ)編

一九六五年生まれ、茨城県出身。北海道大卒業後、毎日新聞社入社。松本支局、長野支局、東京本社編集制作総センターなどをへて、一九九七年から編集局学芸部で映画を担当している。

愛すればこそ スクリーンの向こうから

香川京子

第一章

巨匠たちとの日々

成瀬巳喜男
有楽町のバーを見学

 成瀬巳喜男監督が、読売新聞の「新人指名」というコラムで香川さんについて書いている。
「香川君の良さは、素直な素朴な演技と、何か清潔なものを感じさせるというようなところだと思うが、そうしたものが初めの頃からずっと失われずにいる。大方の女優さんたちは二、三役がつくと、たちまち女優くさくなってしまうものだが、香川君にはそれがない。町のそこここでみかける娘さんという感じだ。いつまでも素朴さと清潔さを失わずにいてもらいたい人である」(一九五三年三月一六日付)
 香川さんはデビュー間もない一九五一年、「銀座化粧」で初めて成瀬監督作品に出演した。香川さんの叔父で新東宝の永島一朗プロデューサーが、成瀬監督と親しかったことから、声が掛かったようだ。田中絹代演じるバーのママ雪子の妹分、京子。
 描かれるのは、息子を一人で育てる雪子の日常だ。ユーモアをこめ、温かく雪子を見つめている。香川さんは、地方から出てきて店を手伝い、雪子が思いを寄せた青年と仲良くなって雪子にひそかなため息をつかせるという役どころである。戦後、不振が続いた成瀬監督が、「肌に合う感じ」の世界を手がけて復調のきっかけとなった作品でもある。「素人だけれど、(店を)お手伝いしているという役でしたね。生活がかかっているわけではなかったから、役の上ではそんなに難しいことはなかったです」
 とはいうものの香川さん、この時まだ未成年。「バーっていうものを知らなかったから、見学に行ったんですよ。叔父をはじめ映画の人たちがよく行かれるお店で、有楽町の駅に近い辺りだったかな。あの頃ですから、町の雰囲気も暗いし、ネオンも華やかなのはなかった。ホステスの方たちが夕方お店に来られる頃に行って準備するようすを見たり。もちろん接客はできませんから、そばにいて見学させてもらう。そういう勉強から始めたのを覚えてますね」
 その雰囲気は、映画の中の店そのままだった。「そんなに難しいご注文はなかったように思います。私もまだよく分からなかったから、こういうふうにとか、それはおかしいよとか、言われるままにやってたっていう感じですね」
 香川さんは、この後も四作品の成瀬映画に出演している。この間役柄は、妹や娘役(一九五二年「おかあさん」「稲妻」)から、結婚したばかりの新妻(一九五六年「驟雨しゅうう」)、さらに結婚生活の苦しみを知る人妻(一九五八年「あんずっ子」)へと変わっていった。女の哀歓を描き続けた成瀬監督だが、そのまなざしは「銀座化粧」の励ますような調子から、次第に生活の重みや哀愁を強く打ち出すようになる。香川さんの役も、重くなっていった。
「初めは明るくて元気、でよかったけど、だんだん結婚して苦労するっていうね。女の生き方みたい」

ちょっとした動作で表現

 成瀬監督の撮影現場は、静かなことで有名だった。助監督だった石田勝心かつむねが「お通夜みたいと嫌う人もいた」というぐらい。監督の口数は少なく、スタッフは足音をしのばせるように準備してヒソヒソ声で話した。
「大きい声をお出しにならないのね。とっても静かで、地味な方。でも作品はモダンな感じがして。監督さんが静かだと、周りも静か。フフフフフッて、お笑いになる。では優しいかって言うと、厳しい目をしてて怖かったです」
 予算と期日はきちんと守る。撮影が時に深夜まで及ぶのは今でも当たり前だが、成瀬組は残業もほとんどなし。午前九時から午後五時の定時で終わる。俳優の撮影開始時刻も監督が告げる予定とほとんど狂わない。カメラは多くが固定、アップを嫌い、わざとらしい芝居を徹底して排した。普通は場面の進行に合わせてカメラ位置を変えながら撮影するが、成瀬監督はカメラ位置の同じ映像をまとめて撮る「中抜き」をいとわなかった。場面がどうつながるか分からなかったり、抑えた演技に物足りないと感じた俳優もいたようだが、出来上がった作品を見てみな納得。
「どんな場面を撮る時もペースは変わらず、淡々としてました。何度もテストを繰り返したという記憶もありません。オッケーだけで、良かったとも悪かったとも言われなかったように思います。(演出は)もうちょっと早く立って、とかそういうふうでした。(長回しの)溝口健二監督とは違って、短いカットを重ねていくような感じでしたね。監督さんの中で、リズムみたいなものがあったんでしょうか。私は長くお芝居をする方が好きなんですけれど、目の動きとか座り方とか、顔を少し動かすとか、ちょっとした動作で感情を表す勉強になりました」
 写っている人物の目線の動きだけで、画面の外にいる人物の動きを完ぺきに表現する技術は、余人にはまねの出来ない芸当だった。
 成瀬監督は一九〇五年、東京生まれ。一九二〇年に小道具係として松竹蒲田撮影所に入り、助監督に転じた。後から入社した小津安二郎や五所平之助らが先に監督に昇進していくのを見送りながら、一九二九年にようやく監督昇進。その後もコツコツと撮り続けるが芽が出ず、作風が似る小津監督がいる松竹に見切りをつけ、P・C・L(東宝の前身)に移籍する。「小津は二人いらない」と当時の城戸四郎撮影所長は慰留しなかったという。P・C・Lに移ってからは、一九三五年「妻よ薔薇ばらのやうに」「うわさの娘」など秀作を出すが、戦中戦後は時流と合わず低迷。一九五〇年代になって、夫婦の機微や家族を描いた作品で才能を開花させた。一九五五年の「浮雲」(毎日映画コンクール日本映画賞・作品賞)をはじめ、「夫婦」(一九五三年)、「女が階段を上る時」(一九六〇年)など傑作の数々をふくむ八十七作品を残した。

明るい娘役が合ってるのかな

 成瀬監督との二作目、一九五二年の「おかあさん」は、香川さんにとって大切な作品となった。デビューして二年、新東宝のスター候補として、会社が製作する映画に次々と出演していた。この年だけで十二作が公開された忙しさ。そんな中で、初めて手応えを感じたのが「おかあさん」だった。デビューから二十二作目である。
「楽しかったですね、あの時は。私のキャラクターと役が合っていたし、年齢的にも無理がなくて、のびのびやれました。終わってから感じたことですが、それまで言われるままにやってきただけでしたけど、私には庶民的な明るい娘役が合ってるのかなって。だいぶ遅いんですけどね。女優として意識したという意味で、忘れられない作品です」
 終戦直後、クリーニング屋の一家が物語の舞台となる。結核で療養所にいる長兄の他に二女と、母親の妹の子まで預かる大所帯。田中絹代が演じた母親が、懸命に働いて貧しさを乗り越える姿を描いていく。
 エピソードは悲劇的だ。長男は結核で早世し、父親も過労で死んでしまう。あげくに、次女を養子に出すことになる。しかし悲劇性を強調することなく、むしろユーモアを込めて生活の細部を積み重ねていく。全国の小学生から集めた作文を基に、水木洋子が脚本を書いた。
「脚本も素晴らしかった。暗くなりがちな内容なのに、映画には全然暗さはない。一家は貧乏だけど、負けない。世の中もまだ貧しかった。妹がもらわれていくとこなんか、つらいんですけど、それを乗り越えて。前向きでしょ。日本のおかあさんって強いな、素晴らしいなって、思いました。大好きな作品です」
 日本は貧しかった。「おかあさん」が公開された六月一二日付毎日新聞の「余録」には、ヘルシンキ五輪への日本選手団の旅費九千万円が集まらないことを取り上げているし、「こども補導相談」の欄には「姉妹三人と継母の子三人の八人暮らしで、進学を許してもらえない」と家出まで思いつめる十五歳の少女からの相談も寄せられている。日常の正確な描写に、成瀬監督はこだわった。
 香川さん演じた長女は、洋裁学校に行きたいと願いながら店の手伝いに精を出す。母親と職人(加東大介)の再婚のウワサに心を痛めたり、パン屋の青年(岡田英次)とのほのかな恋にはしゃいだり。逆境にも明るくけなげ、はつらつとしている。
 美容師見習の叔母のために、花嫁衣装を着たところを岡田に見られ、後で顔を合わせて照れてウインク。可憐な香川さんの魅力が輝いた一場面。「あのシーンも、好きでしたね。やってて楽しかった。成瀬監督は地味な庶民生活を描かれたけれど、作品はどこかモダンな感じがありました」
 この作品、フランスでも人気がある。小粋で品の良い笑いは、「ぼくの伯父さん」で知られるジャック・タチにも通じる。ユーモアもまた、成瀬監督の持ち味だった。

ペース変わらぬヤルセナキオ

 香川さんの成瀬監督作品出演は、「おかあさん」と同じ一九五二年に高峰秀子主演の「稲妻」、少し開いて一九五六年、原節子主演の「驟雨」と続く。ともに、湿りがちな作品にカラリとした空気をもたらす役どころだった。
「稲妻」の原作は林芙美子。父親の違う四人の兄妹の、ドロドロとした人間関係を描く。人生のやり切れなさを描いて〝ヤルセナキオ〟と呼ばれた成瀬監督の作品中でも、評価が高い。
 香川さんは、一家の末娘の高峰が家族に愛想を尽かして一人暮らしを始めた下宿の隣人。兄と二人で住み、ピアニストを目指して勉強中という設定だ。「(高峰の家族と)まったく違う兄妹がいて、ちょっとあこがれを感じる家族でしたのね、仲のいい兄妹で」。高峰は新東宝の先輩。成瀬作品常連の大スター。「小さい撮影所ですから、ぱったりお会いしてごあいさつしたりとか。さばさばした方で、優しい、すてきな先輩として尊敬しています」。香川さんも自然に演じている。
 その次の「驟雨」では、香川さんは巧まざるコメディエンヌぶりを発揮した。原節子と佐野周二の、けん怠期を迎えた夫婦に波風が起き、そのうちに何となく元のさやに収まるという小品。香川さんは原のめいで、新婚旅行の途中でケンカしたと、原に向かって夫への不満を吐き出す。こんな具合。文子が原、香川さんはあや子。

あや子 蒲郡って何県?って聞いたら、何県と思うかって聞き返すの。おばさま知ってらっしゃる?
文子  蒲郡?
あや子 知らないわねえ、だからいいかげんに三重県て、ただ言ってみたの。そしたらアハハ笑って。何がおかしいのよ、ねえ。バカにしてんでしょ。それじゃどの辺にあるか、日本の地図描いてマル付けてみろって。あたしそんな中学校の試験みたいのイヤだって言ってやったの。そしたら紙と鉛筆と持ってきて、どうしても描けってきかないの。しまいにゃ日本地図も描けないのかって、そりゃしつこく言うの。だからあんまりしゃくでしょ、日本地図くらい描けますわって、あたし覚えてる通り描いたのよ
文子  描けたの?
あや子 うん、そしたら全部描かないうちに、何だそりゃキュウリかって
文子  エ?
あや子 キュウリかって言ったわよ

(「驟雨」から採録)


 あや子が表情豊かに早口でまくし立てるうち、とうとう泣き出してしまう。文子が同情しつつ、おかしさをこらえきれないという顔で「ずい分乱暴ねぇ」とあいづちを打つ。「おかしいですよね」と香川さんも、楽しそうに思い出す。しかしこんな笑いの場面でも、成瀬監督は「いつも普通。ペースは全然変わらないです」。
 岸田國士の戯曲を水木洋子が脚色。公開日程の都合でラストシーンを変えざるを得なくなるなど、成瀬監督は「あまり成功してません」と振り返っているが、ユーモアと機微にあふれ、見所は多い。香川さんも「大好きな作品」として印象に残っている。

悩んで迷った主婦の役

 成瀬監督の映画のヒロインは、生活の重みにやつれた陰りがある。そんな成瀬映画で香川さんは、物語に光をともすような明るい役を演じてきた。ところが一九五八年の「杏っ子」では、成瀬映画でもとりわけ暗いヒロイン、杏子きょうこを演じることになった。室生犀星が自身の娘をモデルにした小説が原作。作家志望の亮吉(木村功)と、有名作家の娘杏子の、救いのない夫婦生活を描く。亮吉は義父に嫉妬と劣等感を抱きつつ、才能のなさも自覚して酒におぼれ、杏子にネチネチと皮肉を投げつける。杏子は亮吉に愛想を尽かし、時に反抗し父親に助けを求めながらも、自分で選んだ結婚だからと、離婚せずに耐え続ける。
「あんまりうまくいかなかった。夫婦間の葛藤かっとうで、内面のお芝居が多かったから、難しかった。室生さんや、(杏子のモデルになった)朝子さんともお会いし、おうちにうかがったりしました。親子やお家の雰囲気を少しでも感じられれば、と思って。監督さんは、いつものとおり。難しい注文はなかったように思います」
 香川さんは残念がるが、難しい内容だった。成瀬はその前の「あらくれ」から「受け身でない女の生き方」に取り組んでいた。香川さんも、役柄の幅を広げようとしていた時期だった。
「自分の中でも、割り切れないものがあったものですからね。二十六、二十七歳ごろは、女性として迷う時期だと思うんですけど、私も女優として変わっていかなければいけない時にきていて。仕事はしてるんだけど、もう一つ吹っ切れない、のびのびやれない、何か中途半端で、悩んでいました」
 助監督に付いた石田勝心は、「感情移入しにくい内容だったが、香川さんのストイックな感じを生かして、初めて大人の役に起用した」と感じていた。
 撮影は一九五八年一月二九日、箱根ロケで始まった。「洗濯物を干す場面があったんですけど、すぐ凍っちゃうんですよ。とっても寒かった。監督さんが『肌が寒そうに写るねえ』っておっしゃったのを覚えてます」
 生活苦に追われる主婦を苦労しながら演じたが、技術トラブルに救われた一幕もあった。
「寒さと緊張で、硬くなってたんですね。(木村は)しょっちゅうお酒飲んでるでしょ。でもお燗なんてしたことなくて、一升瓶からとっくりにお酒移すのが、なかなかうまくいかない。ガチガチで撮って、やっと終わったと思ったの。そしたらフィルムにトラブルが出て、その部分は全部撮り直し。監督さんは怒ってらしたけど、私は嬉しくて。大リハーサルしちゃったわけですから。二度目はもうちょっと力抜いて出来たんですよね。監督さんには言わなかったけど、ありがたかった」
 フィルムに静電気が起きてムラが出る〝スタチック〟と呼ばれる現象だった。
 この作品、暗さゆえかDVD化されていない。しかし、容赦なく傷つけ合う夫婦の心理描写に、成瀬監督の繊細さと鋭さが存分に発揮されている。石田は「功さんと香川さんのぶつかりあいに、心に突き刺さってくる迫力を感じた」と全編通して見た時の衝撃を語る。彼には「成瀬さんを先生にしようと決めた」作品だった。
今井 正
吹きさらしで寒さに耐えて

 一九五二年の秋から暮れにかけて、香川さんは今井正監督の「ひめゆりの塔」の撮影にかかりきりだった。
 第二次世界大戦末期の沖縄で、看護師として徴用された女子学生の悲劇を描く、今井監督の代表作の一つ。返還前の沖縄でのロケは望むべくもなく、東京・大泉の東映撮影所に沖縄を作り出した。オープンセットには舞台となる丘とその周辺、スタジオには傷病兵を収容する防空ごうなど。春から夏の沖縄を冬の東京に再現し、米軍の機銃掃射や艦砲射撃の激しい攻撃、土砂降りの夜の行軍など、ひめゆり学徒の過酷な体験にリアリズムで迫るのが狙いだった。しかし、撮影は困難の連続。まずは寒さとの戦いだった。
「あんな寒かった撮影は、ちょっと思いつかないくらい。当時は撮影所の隣が畑で、オープンセットは吹きさらし。五センチぐらいあるような霜柱が立っていました。夜の撮影が多かったんです。爆弾が破裂したり雨が降る中、凍ってガチガチの地面に伏せたりしました。とにかく半そででいなくちゃならない。そのころ出始めたビニールで、母が下着を作ってくれたんです。それを衣装の下に着てましたので、すごく助かった。風も水も通さないですから。今の薄いレインコートみたいなしゃれたものではなくて、分厚くてゴワゴワしていましたけれど」
 ロケ先でも同様だ。行軍の合間、少女たちは川に入って水浴びをし、つかの間の解放感を満喫する。千葉・佐原での撮影だった。楽しげな笑顔があふれる一場面だが、撮影が終わるやいなや「お借りした農家のお風呂に、急いで飛び込んだ」。吐く息が白くならないように、本番前に口に水を含んだ。「涙ぐましいですね。でも、よく見るとやっぱり、白い息が出てました」
 助監督だった村山新治も、寒かったことをよく覚えている。「夜の撮影で雨をジャンジャン降らせるから、本番の後は地面が凍ってる。一回じゃ済まないから、終わると氷をみんなで割ってね。セットの端に炭が積んであって、それで暖をとりながら。ちょくちょく出演者の母親から『うちの子が熱出して寝てます』と電話がかかってきて、撮影スケジュールを組み直しました」
 それでも香川さんは、風邪もひかずに乗り切った。
「出演者の中で、津島恵子さん、関千恵子さん、私の三人が映画からの出演で、他は新劇関係の方が多かった。寒い外での撮影に慣れていないから、風邪をひく方が続出しました。でも私たち三人だけはひかなかった。若かったし、緊張感のせいでしょうかね。やっぱり(映画俳優は)鍛えられてるわね、なんて笑ってました。控室だって、今のような暖房もなかったし、大変な撮影でしたよ」

粘りに粘る演出に教えられた

「ひめゆりの塔」の撮影は、寒さ以外にも苦労の連続だった。米軍の激しい攻撃を再現するために火薬を使った撮影が多かったが、慣れないスタッフは試行錯誤を繰り返した。今井監督の演出は粘りに粘る。助監督の村山は苦笑交じりに思い出した。
「照明弾の仕掛けを三日ぐらい徹夜して準備したのにうまくいかず、また三日かけてやり直し。群像劇で登場人物が多かったけれど、監督は十人の場面では十回リハーサルをした。いいとも悪いとも言わないから、俳優さんが困っちゃって『先生は何て言ってんですか』って聞きに来る。こうじゃないですか、なんてこっちが言うと、監督から『一切説明しちゃいかん』と叱られる。時間はどうしてもかかるんですね」
 香川さんも思い返す。「溝口健二監督と同じで、こういうふうにやりなさいっていうことはおっしゃらない。『もう一回、もう一回』って、ニコニコしながらおっしゃるだけで。どこが悪いのか、自分で考えなきゃいけない」
 こんな場面があった。香川さん演じる上原文を助けようとした友達が爆撃で負傷してしまう。責任を感じた文は、疲れているのに、交代もせずその友達を乗せた担架を運ぶ。
「セットでの撮影で、雨が降ってました。文は出発と号令がかかると、ふらふらしながら担架を持って立ち上がる。それから動き出して、画面の下手へ切れる。それだけなんですが、なかなかうまくいかない。監督さんに『もう一回、もう一回』って言われて。私は本当に疲れてきて、半分もうろうとしてしまったんです。お友達を乗せた担架は重くて、最後の力を振り絞って持ち上げたら、こんなふうに、あごが上がっちゃった。そしたら『ハイ、本番行きましょ』。疲れた感じが出てなかったんだって、後で反省しました」
夜の場面が多かったこともあって、撮影は連日深夜に及んだ。香川さんが「(撮影終了の)定時は、夜中の二時」というほど。村山は二カ月も家に帰れなかった。撮影予定は大幅に遅れた。「一一月ごろに、プロデューサーのマキノ光雄さんが撮影所に乗り込んできてね。『どうしても正月に間に合わせたい』と宣言した。それで三班態勢で撮りました」。村山の回想だ。当時すでに大監督だった山本薩夫と関川秀雄が駆り出され、それぞれロケ撮影を任された。ところが今井監督は、二人が撮った映像を気に入らない。何度となく撮り直しを命じる。「二週間ほどして、山本監督が『オレ、もう帰る。これ以上出来ない』って出てっちゃった。翌日、関川さんも『オレも帰るからな』」。慌てた村山たち助監督が代わりを務め、編集や音入れの仕上げ作業と同時並行で撮影を進めた。
 監督自身は「十月公開が十一月、更に十二月と延びて、正月が近付き、もうこれ以上延ばせない、という。連日夜中の二時、三時までやって一月二日の夜に撮影がやっと終わりました」(『今井正の映画人生』)と振り返っている。映画はその一週間後、一九五三年一月九日に公開された。

怒鳴らないけどすごい監督

 今井監督は「青い山脈」(一九四九年)、ガラス越しのキスシーンで有名な「また逢う日まで」(一九五〇年)など、ロマンチックな作品で人気監督だった。
「女優さんのあこがれの的だったんですよ。今井監督の映画に出たいっていう女優さんが多かったんです」。という香川さんも、「出演が決まって嬉しかった」と思い返す。「ひめゆりの塔」には、有名女優が何人も、役をほしがって直訴した。だが今井監督はひめゆり学徒に、無名の女優を使いたがった。目を付けたのは、俳優座養成所。二期生、三期生の女優の卵が、多く出演している。その中に、女優の渡辺美佐子がいた。映画どころか演技も初めて。「これが最初の仕事だったのは、幸せだった」と振り返る。
 渡辺が演じた安富は、負傷して動けなくなり、移動する部隊から防空壕に置き去りにされる。信欣三しんきんぞう演じる教師平良が、「万一、敵がここへ来たら覚悟して」と自決用の薬を握らせ、渡辺の表情がアップになる。その一カット。「ラッシュ(撮影が済んだ部分を仮につないだ粗編集)の試写があって、監督が『私の隣にいらっしゃい』と呼んでくれたんです。私は見ているうちに、何か違う、違うと思って、涙がボロボロ出てきた。監督は『何か不満があるのか』と聞いてくれました。分からないけど違うと、ただ泣いて。沖縄についての本を読んでイメージがあったのに、そのとおりでなかったからだと思います。すると監督が『君のデビューだから、一週間あげる。何が違うか考えてもう一回撮りましょう』と言ってくださった」
 家に帰った渡辺は、鏡を見るうちに思いついた。
「食べる物も食べないで戦火の中を逃げた女学生にしては太っている。よし、絶食しようと。しょうゆを飲めば体を壊すと聞いて、そのままではとても飲めませんから、薄めて何杯も飲みました。案の定下痢をして、その後は食事をしなかった。親が心配するから、食事時になると友達の所に行くなんて言って家にいないようにして。おなかがすいて、ガサガサと音がすると、おせんべいの袋かと思うほどでした」
 一週間後、撮影を終えて二人はまた、一緒にラッシュを見た。今井監督に「納得したかい?」と聞かれた渡辺は、「前より良かったと思います」と答えた。「目がくぼんで、クマが出来ていたんでしょうか。飢えている時は、目の色が違うんだと思いました」。絶望と決意の相俟あいまった、鬼気迫る表情が写っている。
 新人女優の一瞬の表情のために撮り直しとは一大事である。撮影がまた延びると助監督たちを陰で嘆息させたが、今井監督は手抜きをしなかった。
「そんなふうに、丁寧に撮る方だった。会社から早く撮れってせっつかれても、ご自身の納得いくまで妥協なさらなかった。怒鳴ったりなさらない静かな方でしたが、すごい監督さんだと思います」
 香川さんもそう回想するのだった。

内面にも求めたリアリズム

 一九五二年、今井監督は「ひめゆりの塔」の撮影にあたって書いている。
「彼女達(ひめゆり学徒)がどの様に考えどの様に振舞い、どの様に死んでいったかを、日本の、また世界の人々に間違いなく伝えなければならないと思っています」(作品解説チラシ)
 その二年前、大映でこの題材を映画化しようとしたが、進駐軍の勧告で中止させられた。その後、籍を置いた東宝を辞め、さらにレッドパージの憂き目に遭っていた時期に、企画が宙に浮いていることを知った東映のマキノ光雄プロデューサーが声を掛けた。
 今井監督の回想によれば、「『僕はレッドパージの身だから無理だ』といったら、『ゴチャゴチャいう奴には、おれは右でも左でもない、大日本映画党だといってやるから』」(『今井正の映画人生』)とハッパをかけられた。当時東映はヒットに恵まれず、風前のともしびで一発逆転を狙った企画でもあった。マキノは大川博・東映社長を粘り強く説得し、製作資金も調達してきた。
 ひめゆりの悲劇が実際に起きたのは、わずか七年前だ。共産党員でもあり、社会の不平等を映画で追及する「真昼の暗黒」(一九五六年)、「橋のない川」(一九六九、一九七〇年)などを撮ることになる今井監督。ここで力が入らないはずがない。脚本の水木洋子も、二年前に書いた脚本を全部捨て、資料を当たって一から書き直した。香川さんも同様だ。
「沖縄でこれだけの犠牲を払ったということを、日本人はまったく教えられてなかったし、私も知りませんでした。(沖縄戦当時)私は女学生で茨城に疎開して、わりとのんびり過ごしてましたから、年の違わない人たちがこれだけの思いで、こんなに亡くなったと知ってショックでした。(今井監督の思いに)そのとおりだ、頑張らなくちゃっていう気持ちで。一つの使命感で出演しました」
 しかし、沖縄に行くことはかなわない。今井監督は話している。
「(スタッフが)これが沖縄の女学校の正門らしいですよ、と名刺の半分ほどの小さな、しかもしわくちゃになった写真を持ってきた。その一枚の写真をたよりに、後はすべて想像で映画を撮っていった」(『今井正「全仕事」スクリーンのある人生』)
 香川さんも「体験された方に会うこともできなかったので、(ひめゆり学徒の最後を書いた)仲宗根政善先生の著書や沖縄戦記とかを一生懸命読んで、参考にさせていただきました」と話す。
 今井監督は、香川さんに作文を書かせた。香川さんが演じた上原文が、なぜ妹とひめゆり部隊に加わることになったのか。「両親が亡くなっておばあちゃんの所へ来て、それで全寮制の学校に妹と一緒に入ることになった。自分なりに考えて書いて出しました。役を考える場合に、そこから始めなきゃいけないと教えられました」
 監督からは返事はなかったそうだが、俳優の内面にもリアリズムを求めたのである。

共感呼んで大ヒット

「ひめゆりの塔」の製作費は、当初予算の二千万円を大幅に上回り、当時としては破格の五千万円以上にのぼった。しかし、公開されるや観客が押しかけ、配収一億八千万円の記録的大ヒットとなって、倒産は時間の問題といわれてきた東映を立て直し、以後の躍進の足場を固めてしまった。助監督だった村山新治は、公開直後に東映本社を訪ねた際、「ドアなんか壊れてもいいから、入れるだけ入れろ!」と電話口で映画館主に怒鳴っていた社員の姿を覚えている。
 出演者は当時のひめゆり学徒隊とほぼ同年輩。撮影中は、深夜まで寒さと戦いながら泥まみれになる過酷な毎日を一緒に過ごした。仲間意識が芽生え、合間には親しく交流した。ひめゆり学徒と一脈通じる体験だった。その心情は映画にも反映されたようだ。香川さんの回想だ。
「撮影は寒いし、つらいけど、実際に爆撃の下にいた人の恐怖とは比べものにならない。そういう気持ちでした。そのおかげでがんばれたと思うんです。共演の方々と集団で行動することが多かったですから。撮影準備を待ってる間に、あの頃はやったロシア民謡をみんなで歌ったり、楽しい時間もありました。先生役の岡田英次さんもいいお声だった」
「ひめゆり学徒隊の人たちは、日本が勝つと信じて、私たちが守らなきゃと純粋でした。私も戦中派だし、(スタッフも俳優も)戦争を肌で感じていた。そういうことが自然に出てたのかもしれません。観客も戦争をくぐり抜けてきて、平和のありがたさを感じていた。だからあれだけ、たくさんの方がご覧になったんだと思います」
 村山も、「無理して撮ったから欠陥もあるんですが、画面に異様な迫力があった」と認めている。「キネマ旬報」は一九五三年二月下旬号で、ヒットの理由を分析し、「ヒューマニズムを前面に押し出し、戦争批判とか、戦争暴露を二義的に押さえたところに、素直な大衆の共感を呼んだ」と書いている。
 米軍の攻撃が厳しくなり、部隊はいよいよ南に敗走することになる。その前夜、女学生は髪をすいて身支度を整え、「故郷」を合唱する。香川さんが「一番つらい」と思い返す場面。あるいは行軍の合間、キャベツをボール代わりにバレーに興じるつかの間の休息。
「ほんとに経験した人はね、反感をもたれる方も多いんですよ。あんなことはなかったっておっしゃる方もいらっしゃる。でもちょっとホッとする、いいシーンですよね。戦争を描いても、今井監督の映画は詩情が感じられる。それが甘いっていう人もいるかもしれないけど、私はだから素晴らしいと思う。他の人にはまねできないと思います」
 今井監督は一九八二年、「ひめゆりの塔」をもう一度手がけた。今度は沖縄で撮影できることになったからだ。しかし戦争当時の風景は失われていた。俳優もスタッフも戦後生まれ。戦争の余熱が完全に消えた時代、映画の迫力は一九五三年版には及ばなかった。

だめですよ、あんな戦争は

「ひめゆりの塔」は香川さんの代表作の一つとなっただけでなく、人生にも大きな影響を与えることになった。この後、一九八〇年のテレビドラマ「相思樹の歌」など、ひめゆり学徒を題材にした作品に何度か出演し、やがて沖縄戦を生き延びた人たちと親交を結ぶようになる。一九九二年には彼女たちの話をまとめた『ひめゆりたちの祈り沖縄のメッセージ』(朝日新聞社。現在は朝日文庫)を出版した。
「それまでは、戦争のことや平和のことを、あんまり考えたことはなかったんです。自覚した最初の作品でした。その後テレビドラマなどで、関連するお仕事がずいぶんありました。ライフワークみたいになって、生き残りの方たちとお会いしたり、本まで書かせていただいた。ほんとに不思議な、ご縁のスタートでした」
 幾度か沖縄に行き、撮影所ではセットだった壕の跡も見た。ひめゆり学徒の生き残りの人たちが作る同窓会に参加して、体験談も詳しく聴く機会を得た。
「観光は一度もしてないんです。そういう気持ちになれなくて。戦後四半世紀たってからでしたが、女学生たちが卒業式を挙げた陸軍の壕のあった所を訪ねました。崩れて中には入れないんですが、寒気がしましたね。壕の前で、この辺りに亡くなった人を埋めたりしたんだなあと思うと。霊が漂ってる感じがして。第三外科の壕で生き残られた宮良ルリさんは、しばらく『ひめゆりの塔』を鑑賞できなかったそうです、つらくて。小学校の先生になられて、子供たちを引率して仕方なく見たそうですが、壕のシーンで、中の人いきれとか、ウミとか汚物とか、画面から、そのにおいを感じたっておっしゃって。経験者でないと分からないことだと思いました。(体験談は)淡々とお話しなさるんだけど、聴く方はすごいショックです。兵隊さんたちの下の世話なんか、どんなにか大変だったでしょうに。十代の女の子たちが、私たちがやらなくちゃって、揚げ句に殺されてね。かわいそうですよ」
『ひめゆりたちの祈り』は、沖縄返還二十年を機に、編集者に勧められた。元読売新聞記者のご主人の協力を得て、コツコツと書き上げた。「映画に出演した時と同じ気持ちで、ひめゆり学徒隊の生き残りの方たちが、どういう気持ちで生きてきたかを知ってもらわなきゃいけない、自分一人の中に置いといちゃいけないっていう、使命感があったんです。同窓会の方たちに相談しましたら、ぜひ書いてほしいとおっしゃって」
 生き残ったひめゆり学徒からの聞き書きが、共感を込めてつづられている。
 反戦の思いは強い。二〇〇六年の「赤い鯨と白い蛇」では戦争の悲しい思い出を抱いた主人公を演じ、憲法九条改訂に反対する「映画人九条の会」にも賛同し、メッセージを寄せた。「『命の尊さ』を言うなら、まず『平和』が大前提でなければならないのですから。だめですよ、あんな戦争しちゃ」。香川さんはそう力を込めて言うのだった。

独立プロが教えてくれた
 
 香川さんは、今井監督の作品にもう一本出演している。一九五五年のオムニバス映画「愛すればこそ」の第二話「とびこんだ花嫁」だ。当時厳しい環境で奮闘していた、独立プロの運動を支援するために作られた。第一話「花売り娘」を吉村公三郎、第三話「愛すればこそ」を山本薩夫が監督している。
 配給は「独立映画社」。設立した伊藤武郎は、「来なかったのは軍艦だけ」といわれた東宝の労働組合争議指導者の一人。争議収束後に東宝を去って独立プロを次々と作り、今井監督の「どっこい生きてる」(一九五一年)、山本監督の「真空地帯」(一九五二年)など、左翼的傾向の名作を送り出した。しかし、独立プロの興行は大手の映画館チェーンに頼らざるをえないため不利な契約に甘んじ、財政基盤も弱い。やっと数本を作っては解散、の繰り返し。独立映画社の経営もすぐに行き詰まり、当時、新藤兼人監督と吉村監督が作った近代映画協会と、「狼」という作品を企画していたが、資金が集まらない。まず独立映画社に勢いをつけて、問題を解決しようと持ち上がったのが、「愛すればこそ」だった。
 伊藤は書いている。
「『独立映画を強化せよ!』新藤さんの声はたちまち『狼』のスタッフを動かし、吉村さんに響き、今井正さん山本薩夫さんと手を組むまでに二、三日とかからなかった。心ある俳優陣裏方連中も待ってましたとばかりに相応じるという次第――やがて〝独立プロの灯を絶やすな〟の合言葉みたいのがひろがっていった」(『シナリオ 愛すればこそ』)
 全スタッフ、キャストは無給、製作費六百万円、撮影はすべて十日間という条件である。三編とも、貧しくても前向きな人々の生活のスケッチ。「とびこんだ花嫁」の香川さんは、口減らしのために地方の農家から、東京で働く工員のもとへ嫁がされる娘の役だ。ぎこちなかった二人が次第に打ち解ける様が、ユーモラスで心温まる筆致でつづられる。
香川さんは、「田舎から出てきたお嫁さん。撮影は短かったけれど楽しかった」と思い出す。製作費はギリギリまで切り詰められていたから、撮影はわずか六日間。川崎などで盗み撮りもしたという。
 香川さんは一九五四年、家城巳代治いえきみよじ監督の独立プロ作品「ともしび」に出演し、その熱気のある製作現場を知っていた。
「フリーでいたおかげで、どこへでも出られましたからね。独立プロはお金がなくて大変な思いして、でもいい作品を作ろうとしてらっしゃいました。私はその雰囲気が好きでした。そういう作品に出ると、世の中が矛盾だらけで、表面は華やかに見えても、裏でつらい思いをしている人がいっぱいいるんだっていうことを教えられます。社会のことに関心を持つようになったのも、独立プロの作品に出たおかげだと思うんです」
 独立映画社もじきに解散することになるが、独立プロの火は細々とだがしぶとく消えずに残る。香川さんは、そこに積極的にかかわったスターの一人である。
小津安二郎
憧れの原節子と初共演

 映画評論家の田中真澄編さんによる『全日記 小津安二郎』の中に、香川さんのことが一行だけ出てくる。一九五三年四月八日「月ヶ瀬で永島と香川京子に会ふ」。「月ヶ瀬」は松竹大船撮影所前にあった、小津監督行きつけの食堂、「永島」は香川さんの叔父でプロデューサーの永島一朗。小津監督は香川さんが出演した「東京物語」の準備中だった。その時の会談を毎日新聞が面白おかしく記事にした。
 記事の中で、小津監督は言う。「香川さんの映画ってのは余り見てないんだがね。香川さんとはよく会うものだから、そこでぼくが見初めたわけなんだ人中に出られる時にね。実に大変洗いたての感じがして、大変まア、ぼくは見染めたわけなんだ」。しかし、「あなたは余り明朗に笑いすぎやしないかナ。香川京子というといつも笑っている顔なんだナうれしいからって笑うわけじゃないしネ。金でも拾えば別だけど」。聞いていた香川さんは「人が変わったようになる。小津をにらみつけて、泣き出しそうな、怒り出しそうな、顔色まであおざめてしまう」と書かれている。
「おおげさよねえ。でも、ニューフェイスだから笑いなさいとばかり言われてたから、一生懸命笑っていた。あんまり笑いすぎない方がいいって言われたのは、覚えてます。小津監督とは初対面ではなかった。監督さんがよくいらした銀座の中華料理店の東興園へ、叔父が連れて行ってくれて、ごあいさつしたことがあったんです」
「東京物語」は香川さんが唯一出演した小津監督作品。世界映画史上に残る名作である。
 小津監督は一九〇三年、東京生まれ。小学校の代用教員を経て松竹蒲田撮影所に入社。撮影助手から助監督になり、一九二七年「懺悔ざんげやいば」で監督デビュー。戦後、ローアングルの端正な構図で、家族の機微を描くスタイルを確立した。「豆腐屋は豆腐しか作らない」とかたくなにその姿勢を貫き、一年に一本のペースで作品を撮り続けた。一九六三年一二月一二日、還暦の誕生日に没した。多くの俳優が出演を望み、同時にその妥協を許さない演出に震え上がった。
 しかし香川さんに、気負いはなかった。
「私は、原節子さんとご一緒できるのが嬉しくて、そっちの方に気をとられてました。監督さんが怖いよとか厳しいよとか、言われたこともなかったし。まだ二十歳ぐらいで、何にも分からない。監督さんがおっしゃるままにやればいいかなって思ってましたので、あんまり緊張もしなかった。監督さんも、まあ子供だからしょうがないとお思いになったのか、難しい注文もなかったですね。ただ厳しく言われたのは(映画の舞台となる)尾道の言葉。言葉尻がちょっと特徴のある方言なので、テープを渡されました」
 香川さんはデビュー前から原の大ファン。デビュー五年目にして初めての共演に、胸を躍らせていた。
「東京物語」の撮影は、一九五三年七月二五日に始まった。

尾道ロケで聞いた名匠の言葉

「東京物語」は、広島・尾道が物語の一方の舞台となる。小津監督は志賀直哉に心酔しており、志賀ゆかりの尾道を選んだという。尾道でのロケ撮影は、一九五三年八月に行われた。香川さんはこのロケから撮影に加わった。
大監督とスターが来るとあって、地元は大騒ぎ。地元紙「山陽日日新聞」は同月一五日付の記事で、笠智衆や香川さんらが尾道入りした様子を伝えている。「約一時間前から駅前を埋めつくしたファンの波でごったがえして、春の港まつりを思い出させる雑踏ぶり。両人の姿を見んものとするファンの混雑のため、あちこちで迷子が続出」。翌日に来た原節子は、あまりの人出に一つ手前の駅で降り、車で尾道に入らねばならぬほどだった。滞在した旅館の周りにまでファンが詰めかけ、前の海からボートでのぞこうとするやからも現れた。撮影現場はやじ馬に囲まれていた。
 もっとも、撮影予定は五カットだけ。「セットでも間に合いそうなものだが、コリ性の小津監督はきかず、一週間のロケとなった」(同二五日付朝日新聞)。撮影は同一五日から始まった。
「監督さんの存在感で、いらっしゃるだけで緊張しました。お背は高くなかったけど、がっちりした体格の方。エネルギッシュでしたが、激しく動くっていうんじゃなく、どっしり構えてらっしゃる感じ。尾道のロケで私が出たのはたったの二カット。ほとんど後ろ姿でした。(滞在した旅館の)原さんのお部屋に遊びに行ったりして。二階に大広間がありまして、そこが支度部屋で、メークをしたり、衣装を着替えたりして。夜になると、スタッフの皆さんとご一緒にお食事も。私は監督さんとか、原さん、笠さんがご一緒のところで、皆さんのお話を聞いているだけでしたけれど。ただただ楽しく過ごさせていただいた」
 印象に残る、小津監督の言葉があった。
「監督さんはお酒がお好きでしたから、いろいろお話ししてくださいました。私は黙って聞いてましたけど。ある時『ぼくは、あんまり社会のことには関心がないんだ』っておっしゃったんです。私はその年『ひめゆりの塔』に出演して、戦争とか平和について考え始めて、女優も社会のことに関心を持たなきゃいけないと自覚したばかりだったものですから、ちょっと不思議に思ったんです。だけど、何十年かたって、監督さんが残された語録に『人間を描けば社会が出てくる』っていうお言葉があったのを知りました。監督さんがおっしゃったのは、そういう意味だったのかな、ずいぶん深いお考えだったんだなと分かりました」
 小津監督は「テーマにも社会性を要求するのは性急すぎるんじゃないか。ぼくのテーマは〝ものの哀れ〟という極めて日本的なもので、日本人を描いているからにはこれでいいと思う」と続けている。
「東京物語」については、「親と子の生長を通じて、日本の家族制度がどう崩壊するかを描いてみたんだ」(「キネマ旬報」一九六〇年一二月増刊号)と語っていた。

年齢に合わせて見方が変わる

 一九五三年八月、「東京物語」の撮影は、松竹大船撮影所のセットで続く。小津映画のカメラは低い位置に固定され動かない。俳優の姿勢や小道具の配置にセンチ単位で気を配り、指示どおりの動きとセリフ回しを要求する。様式は完成され、小津組の撮影現場にくまなく浸透していた。香川さんも、その雰囲気を感じた。
「セットに入ると、もうカメラは据えてありました。私は、あんまり周りを見ないたちで、そういうものと思ってやりました。自分がどう写ってるか気にしない。監督さんがこういう撮り方なさるんだから、ついてくしかない、と」
 演出は、監督の頭の中のイメージに俳優をあてはめることに尽きる。香川さんも、監督の言うがまま。立ったまま靴下をはいてさっと化粧を直し「行ってきます」と出て行く、「今だったらフラフラしちゃうかもしれない」動きも、監督の指示どおり。あるいは伏せている母親の枕元から立ち上がり、列車で到着する兄たちを迎えに行く場面ではこうだった。「ウチワを、五回だったかな、動かしたら手を下ろして腕時計を見るって言われました。あんまり余計な動きをしちゃいけないのかなと、ふっと感じたんです。静かな場面だと、激しく動くと目立ちますよね。しんとした雰囲気なんだと思って」
 さて映画は、小津監督が「家族制度の崩壊を描いてみたい」と言ったとおり、はかない親子関係が描かれている。
 尾道に住む両親(笠智衆、東山千栄子)が、東京に住む子供たちを訪ねるが、長男(山村聰)も長女(杉村春子)も迷惑半分。親身なのは、戦死した二男の未亡人紀子(原節子)だけ。両親はがっかりして東京を後にし、やがて母親が倒れる。危篤と聞くと、子供たちは喪服を持っていくかどうか相談し、葬儀の席で形見分けの話を持ち出して仕事があるからとサッサと引き揚げる。
 香川さん演じる末娘の京子は、そんな兄姉の不人情が許せない。紀子に「他人同士でももっと温かいわ。親子ってそんなもんじゃないと思う」と、涙ながらに訴える。「いやあねえ、世の中って」「そう、イヤなことばっかり」と続く名場面だ。香川さんはここも「自然に演じられた」という。
「私もちょうど紀子の年頃でした。大人の一面をイヤだなと思ったり。あのセリフがよく分かったんです。だからわりとスムーズにいったように思います」
 だが、年を経るにつれて違う見方をするようになった。
「喪服のことも、あの時のお姉さんの言葉が、今は分かります。つらいけど、残された者の心構えって現実的にしなきゃならない。(東山が演じた)お母さんが、よく傘を忘れるでしょ。原さんのアパートに泊まって、翌朝出かける時にも。原さんが戻ってきて、ふっと笑いながら持っていく。私も映画の両親の年代になって、『ああいうことってある』と実感するようになりました。細かいところをよく見てらっしゃるなと。自分の年齢に合わせて見方が変わってくる。だから永遠の映画なんだって思うんです」
溝口健二
女優人生変えた出会い

「色白でがっちりした方でした。大きい声を出さず、口の中でゴチョゴチョ、とお話しになるから一生懸命聞かなきゃいけなくて。セットの中に響くような大声は聞いたことがない、静かな方でした。ふだんも仕事以外のお話をした記憶はありませんけど、(撮影中に)私がりむいたりすると、助監督さんに、薬付けてあげなさいと言ってくださったり。照れ屋でらしたのかしら。でもセットに入ると全然雰囲気は違いました。白い手袋をされて、椅子に座って、『ハイ、やってみてください』って。オーケーが出ると、心から芝居が出来たなと思って、気持ちよかったですね」
 香川さんの、溝口健二監督の回想である。溝口監督との出会いは、女優人生を大きく変えた。
 溝口監督は一八九八年、東京に生まれ、「たきの日糸」「浪華悲歌なにわえれじー」「祇園の姉妹」などで戦前に名声を確立した。女の情念をリアリズムで描いた世界的名匠である。香川さんは、一九五四年、「山椒さんしょう大夫」、「近松物語」の二本に出演している。
「山椒大夫」は、一九五二年に「西鶴一代女」がベネチア国際映画祭で国際賞を受賞、翌年「雨月物語」で同映画祭銀獅子賞と連続で大賞を射止め、「いいかげんなものは作れませんよ」と臨んだ。溝口監督、時に五十六歳。人買いに連れ去られた幼い姉弟が、母を恋い慕うおなじみの物語だが、子供は不得手という溝口監督の意向を受けて、主人公の年齢が引き上げられた。厨子王に花柳章太郎の長男・花柳喜章、安寿が香川さん。母親玉木には溝口組の常連、田中絹代が配された。
 溝口監督は執拗しつようなテストで有名だった。「やってみてください」と言って演技させ、気に入るまで「もう一回」「もう一回」と延々と繰り返させる。どこが悪いとも指摘せず、俳優が聞いても「それを考えるのがあなたの仕事でしょ」と切り返す。それを「血の油をしぼられる」と表現した田中は、「山椒大夫」でのこんな思い出を書き残している。
 玉木が岸壁から「厨子王!」と叫ぶ場面。溝口監督は、哀れな母親の雰囲気を出すために、田中に「カロリーを抜け」と命じていた。食事を減らして減量した田中は、この場面を無事撮り終えて安心し、昼食に我慢していたビフテキをこっそり食べてしまう。夜になってアフレコ(撮影後、映像に合わせて音声を後から録音すること)が始まると、監督が「声にツヤがある」と言い出した。夕食抜きで屋外でやることになったものの、何度やっても気に入らない。真相を知ると「先生の顔がサッと紅潮して、なんともいえぬ表情になりました」(「私の履歴書」)。助監督だった宮嶋八蔵は、溝口監督が深夜まで延々とテストをさせて疲れさせた揚げ句、「もう二度ほどテストをすれば声が枯れるでしょう。その時に(テープを)回しましょう」と言ってのけたと思い出した。
 だが、香川さんは「山椒大夫」では、その洗礼を受けなかった。デビュー四年目である。
「この作品に出演できるのは嬉しかったけれど、監督さんの厳しさについては知らなかったので、緊張もなく始まってしまったんです。安寿は年齢的にも無理はないし、心情もよく理解できました。悩むことは、あんまりなかったですね。難しいことは言われなかったと思うのね。『こういう時、こう言われたらどうしますか』といった、監督の言葉に操られるように演じました。よく言われたのは、『反射してください』『反射してますか』ということでした。つまりリアクションですよね。自分の番が来たからではなく、相手の言葉や行動に反応しなきゃいけないってことだと思います」
 当時溝口組の助監督だった田中徳三監督は「溝口さんが何も言わなかったのは、田中絹代の他には香川さんだけだった」と思い返している。年齢も性格も、安寿は香川さんの地に近かったこともあったのだろう。しかし、続く「近松物語」では勝手が違った。

突然、初めての人妻役

 香川さんは、「山椒大夫」を持って一九五四年のベネチア国際映画祭に出席する。銀獅子賞に選ばれて、溝口監督はベネチアで三年連続受賞の快挙を果たした。九月、トロフィーを手に帰国すると、羽田空港で出迎えた大映の永田雅一社長は「君が、おさんをやることになったよ」と告げた。溝口監督の次回作「近松物語」の主役に抜てきされたのである。
「近松物語」は、井原西鶴の「好色五人女」の一編「おさん茂右衛門」と近松門左衛門の「大経師昔暦だいきょうじむかしごよみ」を基に、溝口と名コンビと言われた依田義賢が脚本を書いた。暦をつかさどる大経師の妻おさんが、番頭の一人茂兵衛と不義密通のあらぬ疑いをかけられる。仕方なく逃げるうち、茂兵衛と本当に恋仲になっていくという物語。ベネチア出発前に聞いていた話では、おさんにはベテランの木暮実千代が予定されていた。香川さんは茂兵衛に思いを寄せる奉公人のお玉のはずで、それまで演じてきた役柄とも合う。茂兵衛は長谷川一夫が演じている。
「まったく話が変わってて。どうして私なのか分からないし。お玉の役と思っていたのに、これは大変だ、と」
 溝口作品の脚本を数多く手掛けた依田義賢は、おさん役について「溝さん(溝口監督)は言下に、香川京子君を推しました。『山椒大夫』での香川君の立居が、溝さんの気に入ったのでしょう」(『溝口健二の人と芸術』)と溝口監督直々の指名だったことを明かしている。依田自身も「わたしは、初々しい年の若い女房のおさんの、清純な姿を念頭に置いている溝さんの意図が読みとれて強い共感をおぼえました。これは映画『近松物語』の成功の大きな力であったと思います」と書いている。
 しかし、香川さんは清純派の若手スター。人妻も初めてなら不義密通も初めて。京都弁も大店おおだなの内儀の衣装も経験がない。しかも溝口監督は、徹底したリアリズムを要求する。宮嶋は、「『山椒大夫』の時には、社会制度や経済、風俗まで文献史料をあさって、分厚い冊子にまとめました」と振り返る。
 香川さんは途方に暮れた。おさんの母親おこうを演じた大ベテランで溝口組の常連、浪花千栄子が、香川さんのコーチ役を任ぜられる。浪花が経営する旅館に、撮影の一カ月前から泊まりこんだ。
「監督さんはお困りになったんではないでしょうか。(浪花に)ちょっと頼むよ、とね。衣装部さんから衣装を借りて、歩く練習から始めました。平らなところは出来るんですよね。でも階段を下りるのに、すそをどう持っていくか分からないんです。京都弁も教えていただいたし、ご自分の撮影がない日もセットに来てくださってました」
「セットに入って最初の撮影は、土間から階段を上がると茂兵衛の部屋があって、その中の場面からだったと思います。部屋に入っても、(大店の内儀なら当然)座る場所が違ったりとか。ぜんぜん分かってなかったんですね」
 香川さんはほぼ出ずっぱり。どの場面も緊迫感に満ちている。「山椒大夫」とは一転、しごかれた。溝口監督の「もう一回」の声が、幾度となく繰り返された。「本当に出来なくててこずらせてしまい、申し訳なかったとおわびしたいです。撮影の後半になって、少しずつのみ込めましたけど」
「茂兵衛と一緒にいたいという気持ち、それだけ考えてました。おさんの苦しみは理解できるけど、どう表現していいか分からなくて。考え込んで目をつむっていたら、『その感じがいい』と言われたりして。ラブシーンが出来なくてね。監督さんが笑っちゃうんです。あまりに下手で」

疲れて倒れて、つかんだ

 撮影中、来る日も来る日も絞られた。セットの中、相手役の長谷川一夫をはじめ数十人のスタッフが、香川さんの演技に監督の「オーケー」が出るのを待っている。溝口組ではおなじみの光景とはいえ、二十二歳の新進女優にとっては途方にくれる体験だったろう。
「ほんとにつらかった。逃げ出したいと思いました。監督さんは何もおっしゃらないし、もうどうしていいか分からなくて
「死にたくなるくらい」のつらい日々。だがやがて、香川さんは溝口演出の神髄をつかむ。映画の中ほど、おさんは一人姿を消した茂兵衛を追って必死で山道を駆け下り、足をもつれさせて転んでしまう。慌てて走りよって助け起こす茂兵衛に抱きつき、「奉公人やない、私の夫や」と叫ぶ。おさんが感情を爆発させる、映画の要となるシーンだ。
「何度もテストを繰り返すうちに私、疲れて、走っていてバッターンと倒れちゃった。わざとでなく。そしたらカーッと気持ちが高揚してきましてね、夢中でぶつかっていったら、監督さんが『はい、本番行きましょ』って。余計なもの全部とって、純粋な気持ちになるのが大事で、監督さんも、それを待ってたんだな、と。今やればもうちょっとうまくできたかもしれませんが、ぶつかっていったことがおさんの一途さと重なって、それを監督さんも望んでらしたんじゃないかしら。頭で考えるのではなく、役の気持ちになって、体ごといかなきゃ、と思いました。それを教えてもらったのが、本当にありがたかった」
 フランスのジャン=リュック・ゴダール監督が古今東西の名画の断片をつないだ「映画史」の中に、この部分が採録されている。世界の映画人に影響を与えた名場面だ。
 役になりきること。溝口組で得た俳優の基礎は、現場の思い出とともに香川さんの体に染み付いた。
「(「近松物語」は)いつ見てもその時の気持ちに戻っちゃうんです。ああ下手だなあ、何やってんだろうって。でもこの間久しぶりに見て、やっと冷静に見られました。何十年もたって。それだけ強烈だったんですね」
 溝口監督は気に入った俳優は繰り返して起用した。香川さんの魅力について、こんなふうに書き残している。
「香川君の魅力は、誰でも認めているところだが『純潔』『清楚』ということに尽きると思う。ぢっとしていて、しかも、人の心を強くひきつけるのは、あの、汚れというものを知らぬ美しさである。特に、笑顔がよい。なかなか頭がよくて、敏感な反応をもっている。生得の魅力に、豊かな才能を恵まれた貴重な存在である」
 香川さんは、溝口監督が準備していた「大阪物語」にも出演が決まっていた。衣装合わせまですんでいたという。しかし溝口監督は白血病を発病。病床でも映画の構想を練り続け、最後まで執念を燃やしたが、撮影は果たせず力尽きた。絶筆に「ファスト・シーンが頭の中でできた」と書き残した。「大阪物語」は一九五七年、香川さんも出演し、吉村公三郎監督の手で作られた。
黒澤 明
夢中で覚えていないほど

 香川さんは、黒澤明監督の五作品に出演している。女優の中では一、二を争う多さだ。最初は一九五七年、黒澤監督十八作目の「どん底」だった。
 ゴーリキーの原作の舞台を江戸の長屋に移し、「生きている人間の根強さ、雑草のような生命力というものを描いてみたい」(一九五七年五月三一日付毎日新聞)と挑んだ作品だ。配役は「よほどうまい役者を全員そろえて、演出もそれを信頼してやらなければならない」(『世牙の映画作家③黒沢明』)と、泥棒の捨吉に三船敏郎、大家の六兵衛に中村鴈治郎、その妻お杉に山田五十鈴ら、そうそうたる面々。出演者やスタッフに、黒澤組の常連も多かった。その中で香川さんは最年少、お杉の妹、かよ役である。
「(出演が決まって)喜びより緊張でしたね。黒澤組には、なれあいみたいな雰囲気がありませんでした。何度もご一緒してらしても、それぞれがまったく違う役だったりするから、それなりに皆さん緊張してらしたんじゃないかしら。それに出演された先輩の方たちがすごかったでしょう。こりゃ大変だと思って。私は一番若手で、大事な役でしたから」
 黒澤監督は撮影を始めるにあたり、撮影所に当時、落語界の第一人者だった古今亭志ん生を呼んで「粗忽そこつ長屋」の一席を演じさせた。江戸時代の長屋の雰囲気を理解させるためだった。「びっくりしちゃった、これが黒澤組なんだって。志ん生師匠のような方に撮影所まで来ていただいて、粗末な畳の狭い部屋で、手の届きそうなとこで一席語ってくださったんですから」
 この映画に卯之吉役で出演した藤木悠は、志ん生がこの時の様子を「あんな高座初めて。一人も笑わないし、みんなジーッとにらみつけて見てる」と回想したと語っている(「どん底」DVD特典映像)。
 セットはオープンに建てた本建築の長屋と、スタジオに作った建物内部の二ハイだけ。衣装を着けて読み合わせを十五日、セットで動きをつけて十五日、計一カ月もの間入念にリハーサルを重ね、その上で、複数のカメラを据えて一つのシーンを丸ごとワンカットで撮りきる、マルチカメラ方式で一気に撮影した。撮影期間は一カ月と、黒澤組にしては珍しい短期間。黒澤組のマルチカメラ方式は「七人の侍」で初めて試され、黒澤監督は以後すっかり気に入って洗練させていく。望遠レンズを多用し、画面の手前から奥まで全部にピントを合わせたパンフォーカスも好んで使った。「どん底」はその手法を完成させた作品だった。
「リハーサルは一カ月、そんなに長くやったんですね。懐かしいです。毎日、少しずつやりました」。貧乏長屋も、衣装も驚くほど荒れて汚かった。しかし黒澤監督はどれほどセットが汚くても、靴を脱いで上がった。黒澤組の記録係、プロデューサーを長く務めた野上照代は、「当然でした。セットに対する礼儀ですから」と事もなげに言う。
 香川さんも、その徹底した汚れぶりに驚かされた。「衣装もボロボロ。引っ張ると着物が縦に裂けてしまうほどで、よくこんなの探してこられたというくらい。おかよの前掛けをどうしようか、ということになって、こんなものを着ているし、前掛けなんて作ってもらえない、男の人のお古の着物を自分で縫って前掛けにした感じはどうでしょうって提案して、採用されました。衣装もリハーサルを重ねるうちに、だんだん自分に身についてくるのが分かるんです。大事なんだなと思いました」
 黒澤監督の演出は、演技の注文はつけず、何度も繰り返させて俳優の力をギリギリまで引き出す。香川さんも、夢中で役にぶつかった。「長いお芝居が好き。どこから撮られていても、カメラの位置は気にしない」という香川さんには、黒澤組の撮影はやりやすかった。
「カットの途中から長屋の中に入ってお芝居があって、また出て行くまでワンカット。舞台のようでした。演出のされ方は、溝口健二監督と共通点があるように思います。カットが長いことも一つですけど、特に女性に対してはあまり細かくおっしゃらないから、自分で考えなきゃならないという点も。最後におかよが半狂乱になる場面では、カーッとなって自分で何をやったかよく覚えてないんです」
 自分に思いを告げる捨吉をようやく信じる気になったのに、捨吉があやまって六兵衛を殺してしまう。捨吉がお杉とグルになっていたのだと誤解したかよは、「二人でやったんだー、みんな二人でー」と髪を振り乱して絶叫し、ギャーと叫びながら板塀に激しく頭を打ちつける。
「後で、なんだかおでこが痛いなって思ったら、その勢いのまま壁に頭をぶつけてたんですね。おかよは、いつも姉の顔色を見てびくびくして、三船さん(が演じた泥棒の捨吉)に、一緒に逃げようと言われても、まず疑ってしまうような屈折した性格の娘。それまで、ストレートに明るく表現する役が多かったから、おかよの役は好きでした。難しさもあったけど、面白かったです」。人間不信の底に突き落とされたかよの、すさまじいばかりの絶望である。
 黒澤監督はこの撮影について「リハーサルを徹底的にやったから、もうクランクさえ回せばパッと調子が出るというくらい、みんな自分の役柄が手に入っちゃっていたのだね。あまりNGも出さないで非常に快調だったみんな楽しく、和気あいあいとやれた写真だな」(「キネマ旬報」一九六三年四月下旬号)と語っている。
 香川さんも「カメラが遠くにあって、望遠だかなんだか全然分からなくて。自分のお芝居に夢中でした。『どん底』は好きな作品でしたから、苦しんだ思いはあんまりなかった。一人一人が素晴らしい、良く描かれていると思いました」と思い出した。

「女優はもうだめかな?」

 一九六〇年三月三〇日付の毎日新聞に、「香川京子、顔にケガ」という見出しの記事が載っている。
〈二十九日午前十一時五十分ごろ愛知県豊川市海軍工廠こうしょう跡で、黒澤明監督の東宝作品「悪い奴ほどよく眠る」のロケ中、三橋達也さんと香川京子さんの乗ったスポーツカーが急ブレーキをかけたとたん、香川さんはフロントガラスに体をぶつけ、前額部に横二・五センチ、タテ五ミリ(実際はタテ2・5センチ、横5ミリ)の裂傷と左腕に打撲傷を負い四針縫った。〉

「瞬間、女優はもうだめかな、と思いました。顔ですからね、どんな傷か分からないし、血がタラタラ流れてきますし。でも、現地のお医者さんが上手に縫ってくださって痛みもなくて、電車でスタッフの人たちとトランプしながら帰りました。傷跡はちょっと残って、しばらくはテレビで影が出たりしました。今はすっかり分かりませんけれど、眉頭まゆがしらのその部分には毛が生えないんですよ」
「どん底」に続く香川さん出演の黒澤監督作品「悪い奴ほどよく眠る」の撮影中だった。ロケ地は戦争中の爆撃で破壊された瓦礫がれきが残る荒れ地。急ブレーキで止まった車から、香川さんが降りるという場面だった。しかし車は予定の位置で止まらず、瓦礫に衝突してしまう。「最初のテストでした。車が止まったら急いで降りなきゃいけないっていう意識があったから、体が完全に浮いていた。その時コンクリートの壁にぶつかったものですから、ひとたまりもなく前につんのめって」
 ぬかるみでのリハーサルの間に三橋の靴底に泥がつき、足を滑らせてブレーキを踏みそこなったことが原因だったようだ。三橋は「靴が赤土でズブズブになってたものだからぺダルが滑ったんです。本当は、スッと停まるものが何十センチか前に行き過ぎたんです。そしたら車止めに車の頭がトンと当たって、その時は香川京子さんは降りる準備をして立っていたので、反動で前につんのめってフロントガラスの枠で額を切ってしまったんです。私は青くなってしまいまして、生涯この人の面倒をみなければいけないのかなあって」(『黒澤明を語る人々』)と明かしている。
 三橋も黒澤監督もきもを冷やしたが、香川さんは一カ月ほど撮影現場を離れて療養し、回復を待って無事撮り終えた。
「悪い奴ほどよく眠る」は、黒澤監督が起こした黒澤プロダクションの、第一回作品である。黒澤監督の撮影は、製作費も日数も大幅に予定を上回るのが常だった。それでも東宝は、それ以上の収益を上げるために特別扱いしてきたが、一九五八年の前作「隠しとりでの三悪人」の製作費が予算の倍近い一億五千万円まで膨らんだことに業を煮やし、黒澤監督に負担を求めて、共同で黒澤プロを発足させたのだ。もっとも、「隠し砦の三悪人」も、配収三億四千万円を上げているのだが。
 政官界汚職を題材にした社会派サスペンス。「黒沢プロができたら早速、もうけのための写真を作った、などと言われるのもシャクでね。いちばん難しいものに取り組んでやろう」(『世界の映画作家③黒沢明』)、「なにか社会的に意義のある題材を見つけたい」(「キネマ旬報」一九六三年四月増刊号)と取り組んだ作品だった。香川さんは、三船敏郎演じる主人公の妻、佳子。片足が少し短く、松葉づえをついているという設定の佳子を演じるのに、高峰秀子さんのアドバイスをあおいだという。
「(小林正樹監督の「この広い空のどこかに」で)足が不自由な役をやってらしたのを思い出して、お聞きしたんです。ヒザにサポーターを巻くといいわよって、教えていただきました。動かないように、大きくて硬いのをずっと着けていました」
 佳子は純粋だが世間知らずで、事態を悪化させてしまう役どころ。「(汚職事件に)巻き込まれて苦しむ役でしたから、疲れました。やってる時は一生懸命でしたけど、作品を見ると、何て世間知らずなんだ、このお嬢さんのせいでこんなことになっちゃうんだって、イライラしちゃう」。香川さんは笑いながら振り返った。そして「本当に悪い人がのうのうとしている、今も同じですよね。黒澤監督、よくこういう作品お撮りになったと思います」と、改めて感心するのだ。時代を超えてなお、生々しさを失わないのである。

女性をよく分かっていた監督

 香川さん三作目の黒澤作品は、一九六三年の「天国と地獄」だった。誘拐事件に巻き込まれた夫婦の苦悩と捜査陣の活躍を描くサスペンス。エド・マクベインの「キングの身代金」が原作だ。「もし自分の子供が誘拐されたら」と心配していた黒澤監督が、この小説を読み、誘拐事件への憤りとともに取り組んだ。
 香川さんは、三船敏郎演じる製靴会社重役、権藤の妻怜子。犯人は誤って運転手の子供を誘拐するが、権藤に身代金を要求する。後半部分、疾走する特急こだまからの身代金受け渡しの撮影が語り草になっているが、前半も大変だった。犯人からの電話を待つ権藤夫婦と刑事たちのやり取りが、丘の上に建つ権藤宅の応接間を出ずに進む。画面が横に長いシネスコサイズ、マルチカメラ方式の長回し。舞台劇のようだが、カメラの前で人物が重なっては台無しだから、配置と動きは注意深く決められた。記録係だった野上照代は「人間の配置が難しかった。重心がちょっと傾いただけで、構図が変わっちゃう。ダンスのようでしたよ。クイッククイックスロースローって」と思い出す。
 香川さんは権藤のそばに付きっ切り。セリフがなくても気が抜けない。
「ほとんど女の人がいないでしょ、それにいつも画面の中にいて、周囲のことに反応してなくちゃならない。黒澤組の女性っていうのは出すぎても、引っ込みすぎてもいけない。そのころあいがとっても難しかった。緊張したおかげで、やせましたよ。黒澤監督がお亡くなりになってから記事を整理をしてたら、監督さんのコメントが出てきたんです。怜子のイメージは、買い物カゴが似合わない、お嬢さんで重いものを持たない、エリザベス・テーラーみたいな感じとおっしゃってて。重いものなんか、しょっちゅう提げて歩いてたのに、ちょっとヒヤッとしました。私は、素直に幸せに育ってきた人という感じをイメージしていました」。刑事役の仲代達矢はヘンリー・フォンダのイメージと言われ、生え際を後退させるために、毎日額を剃ったという。
 監督以下スタッフ、キャストが全力で臨む黒澤組の撮影現場は、張り詰めた空気に満ちている。監督はうまくいかないと不機嫌になって大声をあげる。「バカヤロウ」とは言わず、「デコ助」が口ぐせだった。香川さんも「怖かった、迫力ありますよ」と思い出す。
 出演者の一人が集中して怒られ役になるのも、黒澤組の常だった。この映画ではボースンこと田口部長刑事役の石山健二郎が、標的となった。石山は舞台出身で、黒澤組は初めて。ずんぐりした体格、ツルツルに剃った頭という特異な風貌で配役されたが、黒澤監督はその演技が気に入らない。緊張でガチガチになり、ますますうまくいかなくなる悪循環。野上は「セリフに頭が行くと動けないし、動くとセリフが言えない。舞台出身で芝居の質が違いましたから。かわいそうでしたよ、口説かれて引っ張り込まれたのに、怒られてばかりで」。しかし完成した映画の中の存在感は抜群で、石山の代表作となった。香川さんも「横で聞いていると、こちらまで叱られているような気になって。でも、出来上がった映画では、感じが出ていて素晴らしかった」と賞賛した。
 香川さんが怒鳴られたのは、一度だけ。権藤の元にかかった脅迫電話の受話器に、伶子が耳を近づける。「私が送話口に耳を持っていってしまって、何度かやっているうちに『香川くん、反対だー』。自分が間違ってたから、しょうがないです」。演技について言われたことはなかった。野上は、黒澤監督が香川さんについて話したことを覚えている。「溝口健二監督を通ってきた人は楽だね、鍛えられてるから。任しといても自然にやってくれる」と。厚い信頼を得ていたのだ。「ダメな人は使わないし、香川さんのことは気に入っていた」と思い返した。
 撮影のぜいたくさも、黒澤組ならでは。この撮影では、同じ応接間のセットを二つ作った。東宝のステージでカーテンを閉めている場面を撮り、横浜の丘の上のオープンでは、外の景色が写りこむ日中部分を撮った。「横浜のセットでは、朝から十一時ごろまで撮影して、日がある程度まで差してくると、じゃ、また明日。翌日、同じ時間に撮るわけ。毎日少しずつ。さすが黒澤組って思いました」。自然光を生かして撮影したので、同じ光線の具合の時間帯だけしか撮影しなかったのだ。あるいは、セットで夜の場面を撮影した際は、横浜の夜景をミニチュアで作り出した。「豆電球を何千個も、一週間かけて作って。でも映画に使ったのは数秒間」と野上は思い出す。妥協のない姿勢が、香川さんを感心させた。
 ところで香川さんは、男性的な作品の多い黒澤監督のイメージについて、疑問がある。「黒澤監督は、女性のことは分からないっておっしゃっていたようですけど、そんなことはないと思います。『天国と地獄』の最後、豪華な柱時計が鳴るシーンで私が着ているのは、自分の洋服だったんです。白地に細い青磁色の縦じまのシンプルなワンピースで、着やすいし大好きで、よく着ていましたが、撮影のない打ち合わせの時も、それを着ていったんです。そしたら監督さんが気に入って、それがいいねって言われて、まだ決まっていなかったあのシーンの衣装がすぐに決まったんです。普通男の人って、なかなかそういうところには目がいかないものでしょう。よく見てらっしゃると思って」
「まあだだよ」の時も、香川さんの着物選びは人任せにせず、監督自ら立ち合ったそうである。

意外な役柄、鬼気迫る演技

 一九六五年の「赤ひげ」は、黒澤監督自身が集大成と言う一作だ。山本周五郎の「赤ひげ診療たん」の映画化。江戸末期の小石川養生所を舞台に、無知と貧困にあえぐ人々を病から救おうとする医師、赤ひげこと新出去定にいできよじよう(三船敏郎)の奮闘と、新米医師、保本やすもと登(加山雄三)の成長を、五つの挿話の中に描いていく。
 折しも日本映画界が斜陽化の一途をたどっていたころ。黒澤監督は、それを救うのは映画人の誠実と情熱だと指摘し、「赤ひげ」では「スタッフ全員の力をギリギリまで絞りだしてもらう。そして映画の可能性をギリギリまで追ってみる」(「黒澤明コレクション」)と宣言した。
 撮影の最初にベートーベンの「歓喜の歌」をかけて「最後にこの音色が出なかったら、この作品はだめなんだぞ」と繰り返し言い聞かせた。小石川養生所の看板の字体を決めるだけで一カ月。巨大なセットは組み上げてから三カ月間風雨にさらし、味が出るのを待って撮影開始。黒澤監督自ら率先して黒光りするようにセットを磨いた。茶碗を全部焼かせ、茶渋を付ける。赤ひげの居室の薬箱は、開かない引き出しにまで薬が詰まっていた――と、これは伝説だったと美術の村木与四郎が証言しているが(『村木与四郎の映画美術「聞き書き」黒澤映画のデザイン』)、そう思わせるほどの手の掛けようだった。演技、撮影などあらゆる部分で妥協を許さず、撮影に一年半。
 香川さんの役は、患者の一人「狂女」。大店の娘だが色情狂で、三人を殺し座敷牢に閉じ込められている。「びっくりしました。私がこの役をやるのかって」と香川さん。これまでの役柄とあまりにも違う。しかし記録に付いた野上は「初めはお嬢様風で、登をだまして引き寄せるという難しい役。香川さんならできると思ったんでしょう」と話す。清楚な見かけと確かな演技力、二つを兼ね備えた女優はそうそういない。役作りに戸惑った香川さん、以前に同様の役を演じた山田五十鈴の紹介で、病院を見学した。「モデルになる人はいなかったのですが、見た目は普通でも普通の人と違うっていう、ちょっとしたヒントは得られました」
 香川さんも「撮影前にセットを見学しましたが、大きな門から奥深くまですごかったです」。映画では、玄関先しか写らない座敷牢る「ずーっと中まで、全部作ってありました」と驚いた。野上は「俳優がセットに入ると、気分が変わってその気になるんです。素晴らしいですよ」と、いくらか誇らしげに認めた。黒澤組では、それが当たり前だったのだ。

リハーサルを何十回も
 
 黒澤と、井手雅人、小国英雄、菊島隆三の四人の共同脚本には、香川さんが演じた狂女は「ぞっとするほど美しい」と書かれている。座敷牢を抜け出して、登の居室に入ってくる。

開け放した板戸の外に女が一人立つ。
ぞっとするほど美しい。
女は登をぴたっと見つめたまま、すーッと部屋へ入ってきて、後ろ手に板戸を閉める。
登、中腰になる。
女、その前に身を投げ出すように坐って、
「お願い! 私を助けて

 ここから幼い時に虐待された身の上話で保本を同情させておいて、

その時、私はこうしたのよ自分が殺されるくらいなら相手を殺してやるこの釵をぐっとやったの、ちょうどここのところよ」
逆手に持った釵を、さっと登の耳の後ろに押しあてる。

(「黒澤明コレクション」収録の脚本)


 と襲い掛かるのだ。
「助けてください」と悲惨な身の上話をするうちに次第に狂気をあらわにし、引き込まれた登を押さえつけて、首筋にかんざしを突き刺そうとする――。画面の両端にいた二人が、だんだん近寄って一体となってもみ合うまでの長いカットだ。自然な動きを決め、カメラや照明を準備するリハーサルには、長い時間をかけた。香川さんは回想する。
「いかにして、加山さんを引き寄せるか、それが難しかった。一生懸命、自分の部屋で練習した覚えがあります。セリフを言いながら、どう動いたらいいのか。監督さんは、難しくはおっしゃらなかった。ただ、事前にあまりリハーサルはせず、セットに入ってから、ずい分しました。カメラの位置が決まるまでも、大変でしたよ」
 非力な女が、登を動けなくする方法が難題だったが、黒澤監督は振袖のたもとを背中に回して締め付けるという案を考え出した。さらに、監督は狂女のかんざしに光を反射させたいと思いつき、そのためにライトを調節し、止める手の位置を細かく決めた。「かんざしを構えた時に、キラッと光らせたいって。何十回やったかしら。なかなかうまくいかなくて」。一点一画もゆるがせにしない、黒澤組である。
 後半は、狂気を強調するため、化粧を変えて撮影した。
「すごいメークでしょう。(こめかみの)生え際の、三カ所ぐらいを細く三つ編みにするんです、それで(かつらの下に着ける)羽二重をギューッと締める。そうすると目がつり上がる。痛いんですよ。白黒でしたけど、青いシャドーもつけて。鏡で自分の顔を見ると、怖くてね」。撮影に六日間をかけて、鬼気迫る名場面となった。
 この作品に精魂傾けた黒澤監督は、撮影中に肺炎で入院、撮影はしばしば中断した。
「作りあげた時は、バテてしまって、入院しても部屋が五階だったんだけど、飛びおりそうになって。これを終えたあと〈このあと、どうするんだ〉と言われましたよ」(『世界の映画作家③黒沢明』)と振り返っている。
 香川さんの女優人生の中でも、一区切りとなった。「結婚して最初の仕事だったんですよ。黒澤さんが、『申し訳なかった、こんな役で』っておっしゃったって、伝え聞きました。試写会の時にはお腹が大きかったです」。この作品公開後に夫の転勤に付いて渡米し、以後しばらく映画界から遠ざかったのだ。

「あそこはラブシーンだ」

黒澤監督は「赤ひげ」の後、「トラ・トラ・トラ!」降板、自殺未遂と苦しい時を過ごす。香川さんも渡米し、二人が再び出会ったのは、一九九三年「まあだだよ」だった。「嬉しかったですね、また黒澤組に出られるなんて。脚本を読ませていただいたら、今までの作品とまったく違うでしょ。むしろ小津安二郎監督のような。これをどういうふうにお撮りになるのかなって」
 内田百閒をモデルにした「先生」と教え子の交流を、温かく描く。黒澤監督は、百閒を長年愛読していたという。「ごく自然に『百閒先生とその教え子たち』を面白いと思って映画にした」(一九九三年三月九日付毎日新聞)と語っている。黒澤スタジオで脚本を見せられた香川さん、先生の「奥さん」役と言われたが、肝心の先生役が知らされていなかった。
「先生がどなたかって、どなたも一切口にしない。聞きたいんだけど、聞いちゃいけないのかなって思って。ああいう夫婦役って、遠慮したり緊張するような方が相手だと、困っちゃうのよね、内心すごく心配だったんです。その後、百閒先生の奥さんの妹さんにお話を聞きに、茅ヶ崎にうかがったんです。その時に扮装をした先生の写真を野上照代さんが見せてくださった。最初は分からなかったんですが、松村(達雄)さんよって。あー、よかったって思いました」。一九六八年から放送されたテレビドラマ「肝っ玉かあさん」で、香川さんは松村の娘役を演じて、気心が知れていたのだ。
 奥さんは夫にぴったり寄り添っている。複数のカメラが望遠レンズで撮影しているから、セリフのない時も気が抜けない。「天国と地獄」と同じである。焼け出された夫婦の三畳の小屋に、教え子たちが訪ねてくる場面。話に花を咲かせる師弟の後ろで、奥さんはまめまめしく給仕する。
「監督さんは『(先生は)子供なんですよ、いつまでたっても、とセリフを言いながら、おかずを出してほしい』ってそれしか言わない。教え子の話を聞いて、それなりに考えたり一緒に笑ったりして、タイミングはお芝居と合わせなくちゃならない。小屋は狭くて、煮炊きは外の台所でしてるんですが、途中でちょっと立ってお鍋を持ってきて、お料理を小皿に分けて、前のお皿を下げて次の料理を出して、そこでセリフを言えばって、逆算しました。その連続。細かい芝居が大変でした」
 黒澤監督はこの時八十三歳。演出スタイルは変わらないが、年輪も重ねていた。
「迫力は少しも変わっておられなくて、ああ、黒澤組の雰囲気は昔と同じだなあって。ただ『赤ひげ』のころは、今日は本番かなって思うとお休みということが、しょっちゅうあったことを考えると、ペースが早くなりました。その日の撮影が終わってから、リハーサルをしてカメラ位置も全部決めて、翌朝現場に行くと、必ず本番がワンカットは回るわけです。監督さんは、セットに来るのが楽しみだけど、あんまり早いとみんながイヤがるから、ギリギリに行くんだっておっしゃってました。お元気で、楽しそうにやっておられる感じでした」。この作品ではプロダクションマネージャーを務めた野上は「黒澤さんの体を心配して、無理させないスケジュールを組んでいたんでしょうけれど。スムーズに行ってましたね」と思い出した。
「時々、ポツッ、ポツッて、ヒントみたいなことおっしゃる。台本をいただいた時は『奥さんは先生を愛してたんだね』って。ああなるほど、それが役の根本だなって思った。三畳の四季の移り変わりのあたりは『あそこはラブシーンだ』。どうしたらいいんだろうって困りましたけど、夫婦愛みたいなものが出ればいいのかなあと。自然にやってくださいっておっしゃってましたので、肩の力を抜いてやるようにしてました」。香川さんも、楽しんで演じられたという。映画は、カンヌ国際映画祭に特別招待作品として出品された。
 黒澤監督は香川さんについて「リアクションがすばらしい。カンヌでも大好評だった」(一九九四年四月一三日付朝日新聞)とたたえている。野上は「監督は『まあだだよ』では、ああいう役は香川さんにしかできない、いい役者さんは同じ役柄で使っちゃいけないと言っていました」と振り返った。その言葉どおり、香川さんは五本の黒澤作品で全部違う役柄を演じている。「いろんな役をやらせていただきました。勉強になりました」と感謝するのだ。
 ところで「まあだだよ」の撮影で、香川さんは懐かしい顔と再会している。演出補佐としてクレジットされている本多猪四郎ほんだいいしろうだ。本多は東宝入社では三年先輩だが、黒澤監督とは共に助監督として走り回った肝胆かんたん相照らす仲だった。一九五四年の「ゴジラ」を大ヒットさせて以来、日本の特撮モノの先駆者として活躍。香川さんは一九六一年、本多監督のヒット作「モスラ」に新聞社のカメラマン役で出演していたのだ。本多監督は、「影武者」から黒澤監督の補佐役を務めていた。香川さんは、「とても穏やかな方で、何十年たってお会いしても少しも変わっておられなかった」と思い出す。
 ところが本多監督は、「まあだだよ」公開を見ることなく急逝してしまう。「黒澤監督はじめ皆さんとご葬儀に出席させていただきました。『モスラ』の思い出話などしたかったのに、残念でした」
 新たな出会いもあった。この作品の助監督、小泉堯史たかし。約十年後の二〇〇二年、香川さんは小泉が監督した「阿弥陀堂だより」に出演することになる。
 小泉は黒澤監督に私淑して映画監督を志し、学生時代から、黒澤監督と木下恵介、小林正樹、市川崑が作った「四騎の会」の事務所に出入りするようになった。黒澤監督の自殺未遂事件以後、他の監督の助監督などを務めていたが、「影武者」の資料集めに呼ばれ黒澤監督の元で働くようになる。以後、黒澤監督に最も近いスタッフとして信頼され、「まあだだよ」ではチーフ助監督として、脚本作りから参加していた。
「私は『赤ひげ』以来でしたから、その間のことは分かりませんでしたが、小泉さんは黒澤監督のことを良く理解しておられて、何を言われても、いつもニコニコしてらした。とても謙虚な方です」
 小泉は黒澤監督の死後、黒澤監督の遺稿となった「雨あがる」で監督デビュー。南木佳士なぎけいしの小説を映画化した「阿弥陀堂だより」は監督第二作だ。香川さんは、田村高廣の妻役である。撮影の上田正治、録音の紅谷怪一ら、黒澤組の常連スタッフが再結集し、長野県飯山市にロケセットを建て、長期にわたって撮影した。香川さんは、二〇〇一年五月、十月、翌年一月と現地を訪れて、撮影に参加した。
「原作にはない役を書いてくださった。時間をかけて丁寧に撮りました。小泉さんは静かだから、現場も静かでしたけれど、じっくり撮るところは黒澤さんと似ていました」
 一九四三年、「姿三四郎」でデビューした黒澤監督は、「まあだだよ」まで三十一作品を残した。初めて出演してから四十年の付き合いとなった香川さん、俳優として映画や演技についてだけでなく、人間としても黒澤監督から多くのことを教わった。
「黒澤監督から教わったのは、いろんなことに工夫するということ。時代劇でも、時代考証はしっかりするわけです。でもそのとおりではなくて、いかに映画として効果的に面白くなるかを考える。扮装も、ちょっと作り直したり。天才的な方だと思いますけれど、思いつきや感覚だけでやってらしたんじゃなくて、工夫があった。『赤ひげ』でたもとを縛ること一つにしても、ものすごく考えてらした。だから、私の日常の家事なんかでも、こう工夫すればいいんだとか、こういうふうに考えればいいんだとか、今でも時々思います」
 撮影現場では、自分の撮りたいイメージを実現するため妥協を許さず、スタッフや俳優にも持てる力のすべてを注ぐよう厳しく求めた。完全主義者、黒澤天皇などと怖れられもしたが、香川さんはその笑顔を、懐かしく思い出す。
「ふだんは本当に明るい、お話の上手な方でした。オープンセットでは、お昼の休みになると、テントを張ってご馳走が出るのよね。それを囲んで皆さんでお話するんですが、それが楽しくて。御殿場のロケの時は、松村さんと一緒に別荘に招待していただきました。怖かったけれど、懐かしい。何とも言えないあのすてきな笑顔がね」

第二章

スターへの階段

デビュー
難関くぐって新東宝へ

 一九四九年二月一七日付の東京新聞の一面に、「映画スターへの登竜門を開く ニューフェイス・ノミネーション」と社告が出ている。同紙が映画会社と協賛した新人発掘の企画だった。戦後、軍国主義の制約から解放され、息を吹き返した映画会社は次々と映画を製作し始め、娯楽に飢えていた国民は映画館に押しかけた。映画界は量産体制に突入するが、人材不足。新人育成は映画界の急務だった。スターの卵を、鵜の目鷹の目で探していたのだ。各社とも試験を行って新人をこぞって採用したほかに、「ニューフェイス・ノミネーション」のような才能発掘イベントも企画されたのだ。
 資格は満十八歳以上の男女。記事には「時代が要求する新人俳優の出現を全映画界は心から待っており、この合格者は協賛各映画会社に採用されます」とある。審査員には、小津安二郎、木下恵介、渡辺邦男、大河内傳次郎、田中絹代ら、一流映画人がズラリと並んでいる。女学校卒業間近だった香川さん、「普通のお勤めではなく、何か自分の仕事、といえるような仕事をしたい」と考えて、この記事を目にして応募する。
「隣の叔父(新東宝で宣伝課長をしていた永島一朗)の家には、作家の方や映画関係の方が出入りして、『めいを女優にしたら』なんてからかわれていましたが、私は絶対なるものかと思っていたんです。嫌いではありませんでしたが、学芸会で舞台に出たいとか、一切なかった。見る方が好きで。どうして急にそういう気持ちになったのか、今でも不思議で仕方ないんです」
 芸能界は厳しいところだ、という永島の反対を押し切って応募したものの、ノミネーションの人気は絶大だった。同紙によれば「全国から申込殺到五千四百名」「写真と履歴書で千四百名を選抜、銀座松坂屋地階で四月十一、十二日に分け、面会テストで約百名とし、更に十三日の三次審査で各社別に候補者を決定」(同年六月一二日付)。松竹、東宝、新東宝の三社が三人ずつを採用し、香川さんは永島のいた新東宝に選ばれた。
 香川さんはノミネーションの結果を待つ間に、銀座の服部時計店の就職試験を並行して受けていた。両方の最終試験が重なったが女優の道に挑み、見事合格。「映画界に就職したような感じでした。最初に月給をもらった時は嬉しくてね。たしか三千円だったと思います。そんなに悪い方じゃなかったんでしょうね」
「新東宝は東宝の労働争議に嫌気がさした長谷川一夫、山田五十鈴ら俳優や監督が独立して一九四七年に発足した新しい会社だった。ちなみに人事院によれば、一九五〇年の高卒職員の初任給は三千百八十四円。
「新東宝って、すごく楽しい会社だったんです。皆さん優しくって。私は学校に行ってた時と同じお下げ髪のまま、化粧もしない真っ黒な顔で、撮影所に通ってました。女優さんといえば最初から、大人っぽくてきちんとお化粧してましたから、珍しかったんでしょうね。初めて口紅つけた時なんか、みんな面白がってからかうんですよ」
 新人養成といっても、同期は三人。基本は現場に慣れること。斎藤寅二郎や渡辺邦男らスター監督の撮影を何時間も見学した。そしてエキストラ。一九四九年十一月公開の「帰国(ダモイ)」で初めてセリフが付き、一二月の「影を慕いて」では山根壽子ひさこの妹役だった。
「(『帰国』の)主役は池辺良さんと山口淑子さんで、私は受付で帽子をお預かりして、『ありがとうございます』。一言だけど、ずい分練習しました。うれしさと緊張でいっぱいでした。(『影を慕いて』では)女学生で英語の文章を読みました。学校でついこの間まで習っていた所だったんですが、担任の先生がご覧になって『私のクセが全部出てて、恥ずかしかったわ』って言われてしまった」
 やがて大きなチャンスが回ってくる。

代役で急きょデビュー

 一九五〇年一月。新東宝に入社して半年、撮影現場を見学したり、演技のレッスンを受けたりと夢中で過ごしていた香川さん。ある日、東京都町田市にある俳優の大日方傳おびなたでんの自宅に行くように、と指示された。大日方邸では、島耕二監督の「窓から飛び出せ」の撮影中だった。この時のことを、香川さんは覚えている。
「玄関わきのお部屋で待ってたんですが、一月で日が暮れるのが早いから、暗くなって心細くなってね。撮影が一段落してから大日方さんと監督さんにお会いして、別に何でもなくそのまま帰ってきました。面接だっていうこともよく分からなかったんですが、それがデビュー作になったんです」
 翌日から、主要キャストの一人として、現場に通うことになった。
 東京郊外の隣同士の二軒の家族の間に起こる出来事を、コミカルに明るく描く。
 大日方は戦前から活躍したスターだったが、学生時代に専攻した園芸に熱を入れ、自宅周辺に農場を持ち家畜も飼っていた。映画は大日方の発案で企画され、原作、プロデューサー、出演も兼ねた。島監督は、大日方の長年の友人。「愛情と合理的生活のなかに、真の幸福がある」という大日方の信条が、そのままテーマになっている。撮影も合理主義。セットを使わず、大日方の自宅とその周辺で行われ、四人の子供たちやブタ、ヤギ、アンゴラウサギなど家畜まで総動員という異色作である。
 カメラマンの萩原泉は、この映画で撮影の安本淳の助手に付いていた。技術者らしく回想する。
「玉川学園の駅の南側にあった立派な家で、勝手から居間から、全部使って。庭や周りの畑も、撮影一色。カメラを引く時は、窓ガラスを割らないように外したり。家の中と外と光の具合が違うので大変でしたが、安本さんのテクニックで明るいいい作品になりました」
 香川さんは新興宗教に熱を上げる母親を気遣いながら、合理主義を信奉する隣の家族とも親しく行き来する、茉利子。小林桂樹を相手役に、子供たちの野球の試合に飛び入りしてピッチャーになって球を投げたりと元気いっぱいだ。初めてとは思えないほど、伸び伸びと自然に演じている。
「全然わけが分からないまま現場に行って、どういう映画だと説明を受ける間もなく、バタバタと撮影は始まりました。でも、あがって真っ白になっちゃうっていうたちではないんです。言われるままにやってればよかった。ただ、初めてラッシュを見た時に、あんな変な歩き方してたのかしらって、すごく恥ずかしくて。自分では全然分からなかったんですけれど」
 実はこの役、久我美子が演じるはずだった。それが今井正監督の「また逢う日まで」の撮影が延びて、降板。
「急きょ決めなきゃならないっていう段階だったんじゃないですか。私は久我さんのおかげでデビューしたと、何十年もたってから知ったんです。そういうのも運みたいなものですね。半年でデビューできたんだから、早い方だと思います」
 香川さんの長い女優人生は、こんなふうに始まった。
島 耕二
早すぎた都会的な作風

 香川さんは、「窓から飛び出せ」から島耕二監督の作品に立て続けに出演した。同じ年に「君と行くアメリカ航路」「東京のヒロイン」と続き、一九五一年「孔雀くじゃくの園」、一九五二年「上海がえりのリル」、少し間を置いて一九五六年「新・平家物語 静と義経」と計六本。
「島監督はとっても私を可愛がってくださってね。監督さんが、私のことを語ってくださった記事を読みますと、ちょっと暗い面があるから明るい役がいいんじゃないかっておっしゃってる。私もそういう役が好きでしたから、楽しかったです。怖いもの知らずでしたしね」
 島監督は戦前の日活でスター俳優として活躍したが、一念発起して監督に転向。千葉泰樹監督の助監督を務めた後、一九三九年「雲雀ひばり」で監督デビューを飾った。「風の又三郎」「次郎物語」と、戦前の叙情的な名品が代表作。戦後は文芸物や軽喜劇、SF「宇宙人東京に現る」まで手掛ける職人肌の才人としてならした。一九五九年「いつか来た道」ではモスクワ映画祭で審査員特別賞を受賞。香港の映画会社、ショウ・ブラザーズでも作品を残している。
 社会派作品が重んじられた時代に、島監督の軽妙で都会的な作風は評価されにくかった。「『窓から飛び出せ』も、あの時代には早すぎて、ヒットしなかったんですって。いいお話でしたよ」と香川さん。
 だが、ユーモアのセンスや無声映画の技法を生かした軽やかな語り口など、今見ても新鮮だ。子供と自然の撮り方がうまく、アイデアも豊富。小道具の使い方は、今でもお手本になりそうだ。無類の猫好きとしても知られ、作品中にもしばしば登場した。
 人品穏やか、めったに怒鳴らない。撮影中はいつもニコニコ。評判はすこぶるいい。「風の又三郎」「君と行くアメリカ航路」などに出演した風見章子は「いい男でしたね、苦みばしった。チャーミングな人でしたよ。ポケットにこう、手を突っ込んでね」と思い返す。撮影助手として参加した萩原泉も「きちっとスーツを着て、物腰がやわらかで当たりがいい。おっとりと芝居をつけながら、淡々と撮影してました。(注文が少なかったので)撮影部としては、いい監督でした」と笑う。香川さんも「おしゃれな、温厚な方でした」と懐かしんだ。
 人柄から、新人育成を任されることも多かった。田宮二郎や若尾文子も薫陶を受けた。香川さんも、それで預けられたのだろう。
「君と行くアメリカ航路」も「すごく好き」と香川さん。風見の妹で、駆け出しのデザイナー役だ。上役にアイデアを横取りされてばかりだったが斎藤達雄演じる米国帰りの大画家の助けで大逆転。「都会的なしゃれたコメディーは、演じていても楽しかった。女学生そのままっていう感じでした」
 徹夜の撮影もあったが、若かったし夢中だった香川さん、少しも苦にならなかった。

念願のバレリーナ役

 島監督との仕事の中でも、一九五〇年の「東京のヒロイン」は、香川さんにとって忘れられない作品だ。
 女性のペンネームで女性の地位向上の原稿を書く森雅之と、雑誌記者でその作家の原稿を取ろうと必死のとどろき夕起子が繰り広げるしゃれた喜劇。今風に言えばラブコメである。香川さんは轟の妹で、バレエを練習中の女学生。おちゃめで元気がよく、二人の仲を取り持つ役どころを、伸び伸び演じている。
「雑誌に出ていた長谷川公之さんのシナリオを読んで、『この役やりたい』って思ったんです、生意気にも。一時はバレリーナを目指していましたし。そんなふうに思ったのは初めてでした。そうしたら、島監督がお撮りになると決まって、私が妹の役をいただいた。望みがかなってうれしくて、今でも好きな作品の一つに入ります。大ファンだった森さんとご一緒出来るのも夢のようで。まだ女学生気分ですね、そのころは」
 映画界に入る前、バレリーナになりたかった香川さん。幼いころから始めないと難しかったため、現実にはかなわなかったが、この映画で実現した。「白鳥の湖」の踊り子の一人だった。
「小牧バレエ団の方たちが出てくださった。衣装を着られるだけでもうれしくて。子供の時から戦時下で、きれいなものが全然なかったでしょ。戦後間もなく、帝劇で谷桃子さんの『白鳥の湖』を見て、バレエにすっかりあこがれてしまったんです、どうしてもやりたいって。その後、ボリショイバレエ団の公演とか、随分通いました」
 職人肌の島監督、手掛けたジャンルは実に幅広い。一九五二年の「上海歸りのリル」は、流行歌を題材にした歌謡曲映画。戦争中に上海のクラブ歌手リルに憧れた水島道太郎演じる主人公が、戦後その面影を探すというメロドラマだ。香川さんはリルと、リルにそっくりな女の二役。「チャイナドレスを着て。二役っていうのも面白かった」。歌と相俟あいまってヒットし、続編「風のうわさのリル」も作られたが、こちらは香川さんは出演していない。
 ずっと後になって、香川さんがカラオケで「上海帰りのリル」を歌おうとしたら、画面にこの映画の場面が流れてきた。自分の姿を見てびっくり、座は大いに盛り上がったとか。
 島監督との最後の仕事は、一九五六年の時代劇「新・平家物語 静と義経」。吉川英治の小説を、大映が映画化した。溝口健二(「新・平家物語」)、衣笠貞之助(「同 義仲をめぐる三人の女」)とあわせて三部作。島監督は、三巨匠の一人に名前が挙がる大家だったのだ。香川さんの出番は少なく、「撮影は一日ぐらいだった」と言うが、「島監督と久しぶりにお会いしたんですが、全然変わってらっしゃらなかった」。
 島監督は轟夕起子と結婚、島監督の息子、片山明彦も俳優だ。香川さんは片山と「おかあさん」などで共演しており、島一家とは縁が深かった。
阿部 豊
優しくてキザなジャッキー

 新人時代の映画出演歴を見て、香川さんが「これ、ダメだったの」と指さした。阿部豊監督の「のぞかれた足」である。各種の資料には出演者に名前を連ねているが、実際には出られなかった。
「バレリーナの役だったのに、ダメだったの。(宣伝用の)スチールまで撮ったんですけどね。付けまつげをつけるのに今みたいなノリがなかったころで、ニスのような物を使ったら、目の周りがかぶれちゃったんです。それが顔中に広がってしまいましてね、とうとう役を降りました。やりたかったんですが。それから病院通いをしまして、一カ月以上かかったかな。大変な目に遭いました」
 香川さん、苦笑交じりに思い出した。当時は撮影から公開まで一カ月程度しか間がなかったから、撮影開始直前の出演者交代を宣伝素材に反映することができず、香川さんの名前が残ってしまったようだ。代役は澄川恵子が務めた。
 このころ阿部監督は、新東宝の大黒柱の一人として活躍していた。一九一二年、中学を中退し渡米。早川雪洲の知遇を得て、ハリウッドで俳優として活躍した。一九二五年に帰国、日活に入社して監督となる。「足にさはった女」「彼をめぐる五人の女」など、アメリカ仕込みの洗練された作風で人気を得た。戦中は「燃ゆる大空」などいわゆる戦意高揚映画も撮った。香川さんは、デビュー直後の一九五〇年の「細雪ささめゆき」、一九五二年「大空の誓い」、撮影途中で体調を崩した佐分利信を、阿部監督が引き継いだ一九五四年の「叛乱はんらん」 と顔を出している。
 別名阿部ジャッキー。撮影現場ではおしゃれで、ちょっとキザ。戦前は岡田嘉子、山根寿子らを厳しくしごき、日本を代表する巨匠の一人となる。「(日本風にヨーイ、ハイ、カットと言う代わりに)オーライッ、キャメラ、カッ、って。ああ、こんな言い方をなさる監督さんもいるのかって。でも優しい監督さんでした」と香川さん。
「細雪」は、四姉妹を花井蘭子、轟夕起子、山根壽子、高峰秀子が演じる豪華キャストの大作だ。香川さんは、高峰と恋仲になる写真館主人、田崎潤の妹で、出番は数カットしかない。それでもデビュー直後とあって、印象は強烈だ。「写真館や病院のセットの感じとか、覚えてますね。田崎さんが(病気で)入院して、イタイイタイって大暴れするのを見舞いに行く場面とか、高峰さんが、家を訪ねてきてお話するところとか」
 あでやかな女性の演出は流麗で、後に映画を見直した香川さんは「女優さんたちが、ほんとにきれいでした。皆さんがお召しになっている衣装も、モノクロなのに生地の重みと色まで感じさせて素晴らしかった」と、改めて感激した。
 二・二六事件を描いた「叛乱」では香川さんは、細川俊夫が演じた叛乱将校の一人、安藤大尉が出会う娼婦しょうふの役。「細雪」同様、出番はほんの少しだが、この間四年たって香川さんの人気は上がり、目立つ役どころ。
 阿部監督は後に、古巣の日活に転じるが、時流はアクション路線へと変わっていく。次第に映画を作ることができなくなり、一九七七年にひっそりと生涯を終えた。
中川信夫
重い日本髪で初の時代劇

 時代劇は、日本映画揺籃期から長い間人気ジャンルだった。戦後GHQが剣劇を禁止して一時期消沈したものの、香川さんがデビューした一九五〇年代初頭にはその統制が緩和されて、みるみるうちに息を吹き返した。香川さんが所属した新東宝など大手と、多数の小プロダクションが、量産を再開する。
 映画の主役は講談や歌舞伎、剣劇小説などでおなじみの剣の達人。時代劇専門のスターが演じ、派手なチャンバラを見せ場に快刀乱麻の大活躍を繰り広げて、観客の喝采を浴びた。女優なら主役スターの相手役を務めることが、登竜門となった。香川さんの初めての時代劇は、一九五〇年、中川信夫監督の「若様侍捕物帖 謎の能面屋敷」だった。
 時代劇は、衣装から立ち居振る舞いまで独特の決まりごとがある。カメラ映えするには、型を身につけなくてはならない。撮影所は、そんなことを教える学校でもあった。
「撮影所の衣装部や結髪部の方が厳しくて。当時は全部自分の髪の毛で結いましたから、髪を切れないんですよ。短くすると叱られるんです。朝六時半に撮影所に行って、髪の毛をコテで伸ばしてビン付け油をつけて。準備できるころには疲れちゃう。そのまま一日ですから、重いし痛くて。今は良いカツラが出来て、ウソみたいに軽いですね。着物を着る時は、(着付けに必要な)ひも三本と伊達締めを二本、持って来るように教わりました。今でも、それだけは忘れません。厳しさは意地悪ではないんです。決まりだから、新人には教えなくちゃと。付けまつげも男性のカツラ係の男の方たちの手作りで、柔らかく自然な仕上がりに感動しました。皆さんプロの職人芸で、素晴らしいものでした」
 万事軽量化、簡略化が進んだ現代とは大違い。しかしここで体にたたき込まれた所作が、付け焼き刃の現代の俳優では出せない美しさを醸し出す。
「若さま侍捕物手帖」は城昌幸の時代小説シリーズで、後に東映で大川橋蔵の当たり役の一つとなるが、これが初の映画化。遊び人に身をやつした若様侍が、怪事件を名推理と剣の腕で解決、という筋立てだ。主演は戦前からの時代劇スター、黒川彌太郎。香川さんは、若様が居座る料亭喜仙の看板娘だ。
 香川さんは「不慣れだったから、うまくいかなかったかもしれません」と振り返ったが、第一作は好評で、翌年には第二作「呪いの人形師」が公開されている。もちろん香川さんも、同じ役で出演。黒川のひょうひょうとした若様ぶりが板に付き、香川さんも初々しく黒川と掛け合っている。
 中川監督の自作評は「まァまァね」だった(『映画監督 中川信夫』)。照れ屋の中川監督、自分の作品について多くを語らず、これでもかなり好意的な言葉。若き香川さんを評して「名優と思ったね」という一言を残している。
 中川監督は一九〇五年生まれ。文学青年から映画に転じ一九二九年に映画界に入る。マキノ、市川右太衛門プロ、マキノ・トーキー、東宝、中華電影などを渡り歩き、テレビも数多く手掛けた。職人芸で重宝されるが、撮りたいものはなかなか撮れず「裏街道ばかり歩んできた」と回想している。あてがいの企画でも芸術家気質を忘れず、個性を刻印しようと試行錯誤を重ねた。後に撮った「東海道四谷怪談」(一九五九年)、「地獄」(一九六〇年)などの恐怖映画が、近年傑作と見直されカルト的大監督と再評価されるが、一九五〇年代には新東宝に籍を置く職人監督として、時代劇やメロドラマ、青春モノなどを撮りまくっていた。一九八二年のATG「怪異談 生きてゐる小平次」が最後の作品となった。

校長先生みたいな感じ

 中川監督は一九四七年から、一九六一年に新東宝が倒産するまでに五十本近い作品を撮った。香川さんは、「若様侍捕物帖」シリーズの二作のほか、一九五一年「高原の驛よさようなら」、一九五五年「青ヶ島の子供たち 女教師の記録」と四本に出演した。
「学校の先生みたいな感じでした、校長先生というか。地味で服装とか髪の毛とか構わない方で。お人柄も穏やかでユーモアがあって、優しかったです」
 香川さんは「むしろそれが不思議です」と回想するが、後年は個性的なエピソードをたくさん残した。
 撮影スタイルは素足にチビたゲタ履き、腰手ぬぐい。スタッフや友人に、思いついた言葉や撮影の指示を、大きな字で書いたハガキを出しまくる。酒豪として知られ、つまみは豆腐。だから、命日に開かれる友人やファンの集まりは「酒豆忌」。
 中川監督に信頼されたカメラマンの萩原泉は、「豪快な人でした」と振り返る。「後年テレビ番組の撮影をやっていた時でしたが、夕方の四時ごろになると台本を渡されて、『お前やっといてくれ』って。カット割りもなくて『好きなようにやれ』。自分は飲みに行っちゃうんです。毎日ハガキで〝ラブレター〟が来る。殴り書きなんですが、『ここは幻想的に撮れ』とか一言だけ。発想が面白いんだ。撮影所の移動撮影用のレールを全部使ってものすごく長い距離の移動撮影をしたり、四十五分ほどのテレビドラマで千カットも撮ったり。奇想天外なことをしてました」
 メロドラマ「高原の驛よさようなら」では、香川さんはヒロインを演じた。小畑実のヒット曲の映画化である。主役は二枚目スターの水島道太郎。高原の療養所を訪ねてきた植物学者の水島が、看護師の香川さんと恋に落ちる。しかし植物学者は婚約者がいて、二人が苦悩する――という粗筋。香川さんには珍しい、キスシーンもある。
「メロドラマは、ちょっと恥ずかしかった。とにかく純情な看護師さんで。水島さんは紳士でいらして、ちょっと照れ屋さんという感じ。相手役としては年齢が離れていたし新人だし、やりにくかったんじゃないかしら。監督さんは、丁寧に撮ってらっしゃいました」
 全体を通して甘口だが、中川監督らしさも刻印されている。ピクニックに出かけた二人、広場で画面手前から「ヨーイ、ドン」と駆け出して、画面奥の木を一回りして戻ってくる。何気ない情景描写だが、低い位置にカメラを据えてワンカットで撮りきっている。萩原が「奇想天外」という中川監督の、片りんがうかがえるショットだ。
 香川さんには、思い出も多い。この映画のロケ地の信濃追分を気に入って、後年家まで建てた。水島の婚約者役の新人、南条秋子との親交もこの撮影がきっかけで始まった。
「南条さんとはロケ先の宿で同じお部屋で。とても話が合って〝恋敵〟とすっかり仲良くなっちゃった。二世の方と結婚して渡米しましたが、東京でお会いしたり、アメリカのお宅を訪ねたり」。交流は数年前に、南条が亡くなるまで続いた。
フリー
人から決められるのはイヤ

 香川さんは、当時としては珍しく、早くからフリーの立場を貫いた。今と違って、俳優の多くは映画会社と専属契約を結んでいた時代。映画会社はスターを囲い込み、俳優たちはその会社の作品だけにしか出演できなかった。観客は、お気に入りのスターを見られるのは映画に限られていたから、その名前で作品を選び、映画館に足を運ぶ。どの会社も、自前のスター育成に熱心に取り組んだ。
 香川さんも、入社した新東宝でスター教育を受けた。エキストラから徐々にセリフを増やし、役どころを大きくしていく。次々と出演作を用意して、演技を磨くと同時に露出度を高める。本格デビュー作「窓から飛び出せ」の公開が一九五〇年三月で、この年に公開された出演作は七本。一九五一年に「銀座化粧」など七本。
「あのころは会社が、新人を売り出そうって企画を立てて、宣伝もしてくれて、すごくありがたい時代でした。最初は妹役専門で。山根壽子さん、木暮實千代さん、上原謙さん、田崎潤さんと、いろんな方の妹で勉強させていただいた。でもそのうちに、あんまりやりたくないなっていう作品もあって、それが不満になってくるんです」
 転機となったのは、一九五二年の成瀬巳喜男監督の「おかあさん」。田中絹代が演じた母親を支える明るくけなげな長女の役だった。「その時初めて、私はこういう役に向いてるのかなと、女優として意識した。そのころからだんだん、自分が出る作品は自分で選びたいっていう気持ちになってきました。ずいぶん生意気だったんですね。どれだけできるか分からないのに」
 会社から離れてフリーになれば、好きな作品だけ選べるようになる。その代わり、依頼が来なければ消えていくだけという厳しさもある。新東宝の宣伝課長から製作に転じた、叔父の永島一朗が後ろ盾となってくれた。
「叔父に、フリーになりたいっていう話をしたんです。特に反対はされませんでした。映画界に顔が広かったから、陰でいろいろやってくれたんだと思うんですけれど。ありがたかったです。そういう意味でも幸運だったと思います。よく、フリーになって不安はなかったかと聞かれるんですけれど、怖いもの知らずで。ただただ、自由になりたいというそれだけでした。人から決められるのはイヤ、自分のことは自分で決めたい。そういう性格なんですね。結局わがままなんです」
 最初は、会社と決めた本数だけ出れば、あとは自由という本数契約。「おかあさん」の後は、大映東京の「大学の小天狗てんぐ」「稲妻」、大映京都の「勘太郎月夜唄」などが続く。一九五二年の後半になると完全なフリーとなって、この年は十二本も出演作が公開された。人気もうなぎのぼり。一九五三年七月二〇日付の毎日新聞の「映画スターの人気調べ」という記事では、ブロマイドの売れ行きが女優の中で六位。今井正監督の「ひめゆりの塔」、小津安二郎監督の「東京物語」と、香川さんにとっても代表作となる作品に恵まれ、女優として充実していく。
 しかしこのころから、映画界は専属制をめぐって揺れ始めた。

普通の娘さんという役

 映画会社と専属契約を結んだ俳優は、原則的には他社の作品には出演できない。その代わり、会社は専属俳優の出演作品を次々と公開して積極的に売り出し、顔となるスターに育て上げる。しかし、観客を呼べる人気者は各社垂涎すいぜんの的。戦後、映画の製作本数が増えるにつれて、映画会社間で人気スターの引き抜き合戦が始まった。戦争で雌伏を余儀なくされた日活の堀久作社長が、一九五三年九月一日、翌年の製作再開を発表、スター争奪戦に本格参戦して激化する。危機感を募らせていた先行五社、大映、松竹、東宝、新東宝、東映は、その直後の九月十日、専属制を強化して引き抜きを阻止するため、「五社協定」を締結した。他社作品への出演を禁じ、違反したら仕事をさせない、つまり干すというのだ。日活はもちろん、反発する監督や俳優は少なくなく、ことあるごとに議論の種となった。
 早くにフリーになった香川さんは、そうした喧騒けんそうから距離を置くことができたが、それでも火の粉は飛んでくる。
「ある時、大映の永田雅一社長から、専属にならないかというお話がありました。叔父の永島(一朗)と一緒に、帝国ホテルでご馳走ちそうになって。とてもありがたいことで、よく考えたんですけど、やっぱりフリーがいいと、申し訳ないけどお断りしました」
 一九五三年六月の日刊スポーツには、松竹作品への出演が相次ぎ、専属契約がうわさされているという記事が出た。香川さんはその中で「あくまで一作品ごとの契約で、専属になる意志は今のところありません」と語っている。「(新東宝の)外に出てからいろんな先輩とご一緒させていただいて、すごく新鮮で楽しかった。フリーだから、新しいのが来たからって、そういう目では見られなかったし、いじめられたこともなかった。監督さんたちも優しくしてくださって」
 マネジャー代わりの永島がプロデューサーを務めた作品も多かったが、むしろ監督たちがこぞって起用したがった。
「叔父のところにお話が来て、どうするか相談しました。でも自分からこの作品に出たいと言ったことはなかった。受け身でね、新人だし、自信がないから。だから次々いいお話があったのが、不思議でたまらないんです。実力なんて全然なかったと思うのに。お話がきた時、勘みたいなものに頼って、これは自分に合ってるんじゃないか、難しくても、自分の中の新しい面を出せるチャンスかもしれない、と考えてやってきました。もちろん、決まったら勘というわけにはいかない。一番若くても、やってくれるだろうと期待されて選ばれるわけだから、大事な作品を壊したら大変だという責任感、それだけです。後はもう監督さんにお任せして。それぞれご指導の仕方が違いますから、ついていくように一生懸命やっただけです」
 渋谷実監督の助監督として香川さんと接した井上和男は「普通の娘さんというキャラクターを確立したと思います。成瀬巳喜男監督は女優らしくない女優と言いましたが、これは大変なこと。それで巨匠が次々と狙ったんじゃないでしょうか」と、女優としての魅力を語る。
 結局、香川さんはフリーを貫いた。五社協定は、一九五七年に日活も加えて六社協定となり(一九六一年の新東宝倒産で、再び五社協定)、火種はくすぶり続ける。津島恵子は、香川さんも出演した東映の「ひめゆりの塔」に松竹を説得して出演し、契約を解除された。大映と争った山本富士子は映画界から身を引くことになった。しかし映画が斜陽化する一九六〇年代以降、協定や専属制はなし崩しに消滅していった。
結婚
社会部記者は世界が広い

〈香川京子が婚約
 人気スター香川京子(本名・池辺香子さん(三一))が今秋読売新聞社会部の牧野拓司記者(三四)と結婚式をあげる。
 二人が親しくなったのは、昨年読売新聞の社会面に連載された「わたしとあなた」に写真のモデルをつとめた香川と社会部の取材グループの交際からで、牧野記者が八月はじめ読売新聞移動特派員団の一員としてアメリカへ出発する直前に、二人の間では婚約がかわされていた。〉(一九六三年九月一九日付読売新聞から抜粋)
 この記事から二カ月後の一一月一五日、二人は東京都内の教会で結婚式を挙げた。
 十代でデビューし、たちまちスターとなった香川さん、日本映画黄金期とも重なった二十代は映画撮影に追われ、多忙な日々を無我夢中で過ごしていた。デビュー間もない一九五二年には出演作が十二本も公開された。一九五三年元日の毎日新聞には「記録的出演をしてしまった疲れを治すことが急務で、大みそかから元日はひたすら寝ることに専心しています」と語る記事が出ている。二十代半ばのインタビューで結婚について何度も聞かれ、「いい人がいれば」「まだもったいない」などとかわしているが、それどころではなかったようだ。
 読売新聞の「わたしとあなた」は、一九六二年元日から二十四回にわたって連載された。同社が主婦を対象に行った世論調査をもとに、日本の平均的家庭像を抽出している。香川さんはその記事に付ける、写真のモデルになったのだ。
「サラリーマンの奥さんとして登場してほしいって言われて、家事をやってるところや旅行してるところ、子供とデパートでお茶を飲んでるところなど、モデルになりました。最初にお話を持ってこられた記者の方がとても紳士的で、社会部にはこういう人もいるんだとびっくりしちゃった」。取材したのは社会部遊軍の記者たち。連載が終わってからも付き合いは続いた。「誰かが海外から帰って来たから皆で食事をしようとか、誘ってくださるわけ。お話が本当に面白くて楽しくて。すっかり仲良くなった。女性は私一人でした」
 牧野はこの取材班には入っていなかったが、何度目かの会合に顔を出した。実は香川さん、忘れていたが初対面ではなかった。一九六二年、豊田四郎監督の「明日ある限り」の撮影準備の段階で、牧野は取材に訪れていたのだ。「盲学校のお子さんたちが、飯能に遠足に行くので私も一緒に行って、川べりで遊んだりしたんです。それを主人が取材に来ていた。後で聞いたら、その時ひどく不機嫌だったんですって。泊まり明けだし暑いし、なんでこんな仕事しなきゃならないんだって。飯能の駅前で写真撮ったりしたことは覚えてるんですけど、それっきり忘れてました」
「一年前に取材で」「ああ、そういえば」と、会話が始まった。「記者の中で独身は主人だけで、それがきっかけ。皆さんに時々家に遊びに来ていただいて。私は芸能界にいて人を見る目に自信がなかったし、他の方とどういうふうにお付き合いしているかを見たら、人柄って分かるでしょう。だから最初はグループ交際でした。私は、そういったら主人が怒るかもしれませんけど、いわゆる二枚目ではなく、それから、芸能界の人でなく別の世界の人と、と思っていました。自分に足りないものを持っていて、尊敬できる人がいいなと。その点、いろんな面を知っていて、世界が広いし、仕事は続けたいという希望も認めてくれました」
 一年ほど交際。周囲のごく一部には相談していたが、芸能記者らに漏れることはなかった。「社会部の先輩の方にお願いして。お仲間の皆さんも知らなかったんです。よく黙っててくださった。もっとも芸能マスコミも、今とは大分違いました。テレビがそんなに盛んではなかったし、あんなにたくさんマスコミの人たちが集まることもなかったです」

女優休業、異国で子育て

 新婚時代は慌しく過ごした。「お互いに若い時の結婚でもなかったから、新婚気分でもありませんでした」と香川さん。結婚式から間もない一九六三年の年末から、「赤ひげ」の撮影が始まる。映画が完成したのは一九六五年。完成披露の試写の時はお腹が大きく、六月に長女を出産。さらにニューヨークに特派員として赴任する牧野に付いて渡米する。
「皆さん、よく行ったわねっておっしゃいますけど、二、三年休んだってどうってことないでしょ。違う生活もしてみたかったし、子供がいましたから。別々に暮らすことは考えられなかった」。翌一九六六年、ニューヨークで長男を出産。一時帰国後再び渡米し、二児を抱えて同市に計三年ほど滞在した。この間米国では、ベトナム戦争が泥沼化する一方で反戦運動が盛り上がり、黒人解放運動は過激化して暴動が相次いだ。一九六八年にはキング牧師とロバート・ケネディ議員が相次いで暗殺された。
 騒々しさを増す異国の地で、香川さんは子育てに追われた。
「読売新聞はニューヨークに一人だけでしたから、主人は仕事でほとんど朝から夜までいませんでした。でも、寂しいとか思う暇もなくて。近くに同じ年ごろのお子さんをお持ちの日本の方がたくさんいらして、お訪ねしては私は主婦の勉強、子供たちは遊んでいただいて。二年目頃から、近所のアメリカ人の奥さんなどに誘われて、五番街やブロードウェイの劇場、リンカーン・センターの演奏会、美術館などによく出かけました。ニューヨークの三年間は、私にとって一種の留学期間でしたね」
 一時帰国した際にテレビドラマに出演もしたが、ニューヨーク滞在中は芸能活動は休業。しかし、映画の力の大きさを実感する体験もした。
「ニューヨークで暮らして間もなく、ニューヨーク・タイムズの取材を受けました。記者の方が『赤ひげ』など黒澤監督の作品を見てらして、スタジオで写真も撮って。『黒澤組に出た女優がハウスワイフになってる』っていう記事が出ました。私たちの郊外の家まで、サイン帳持った若い方が何人か、サインが欲しいってみえたこともありました。きっと記事をお読みになったんでしょう。映画の力ってすごいですね」
 結婚、出産、異国での二人の子育てと主婦生活。それまでとはまったく違った経験を重ね、一九六八年末に帰国した。三年の空白期間でも人気は衰えず、その後すぐ、TBSのドラマ「ママ日曜でありがとう」で芸能界に復帰した。独身の映画女優だった香川さんを取り巻く環境は、すっかり変わっていた。
「独身だったらイヤだと思うことでも、子供のためだったら否応なしでしょ。わがままを抑えるというか、我慢することが一つの喜びでもあって、そういうこと一つでも変わりました。眠くてもやらなきゃとか、早く起きなきゃとか、子供は待ったなしですから。ただ、家に帰れば家事をして、現場に行けば女優でなければならない。所帯くさい匂いがしてはいけないと、最初のころは心配で、いつも意識していました。だんだんうまく使い分けられるようになりましたけれど」
 香川さんは家族を優先しながら女優を続けることになるが、映画界も様変わりしていた。斜陽化に歯止めはかからず、大手映画会社は映画製作本数を減らし始める。香川さんの活躍の場は、テレビが中心となる。ようやくスクリーンに復帰したのは、一九七四年「華麗なる一族」だった。一九六五年に三億七千二百万人だった観客動員数は、一億八千五百万人にまで減っていた。撮影所の熱気は失われつつあった。
原 節子
初対面は狛江のお宅で

 原節子は、香川さんが映画界に入る前から憧れの女優だった。
 日本人離れしたくっきりとした目鼻立ち、気品があって神秘的な雰囲気すら漂うたたずまい。一九三五年、十五歳でデビューするや、一九三七年の「新しき土」(アーノルド・ファンク監督)などで注目され、絶世の美貌スターとしてたちまち人気者となった。一九四六年「わが青春に悔なし」(黒澤明監督)、翌年の「安城家の舞踏会」(吉村公三郎監督)、一九四九年「青い山脈」(今井正監督)などの作品では、終戦直後の日本人に復興への力を与え、同年の「晩春」からは、小津安二郎監督作品の常連となる。一九四九年、一九五一年と毎日映画コンクール女優演技賞を受賞。名実ともに国民的大スターとなった。
 香川さんは、アルカイック・スマイルと称された笑顔をスクリーンから振りまく原に、魅了されていた。
「原さんに憧れて、映画界に入ったようなところもあるんです。母もファンで。叔父(永島一朗)はいましたけれど、映画界がどういうところか、全然分からないでしょう。でも、原さんのような方が女優さんをしているのなら大丈夫だろうと、母の一つの安心感になったようです。ただ、入ってみたら、そんなに怖くはなかった。自由な雰囲気が合ったんですね」
 初めて直接会ったのは、写真家の秋山庄太郎の案内だった。映画雑誌のカメラマンだった秋山は、女優の写真を数多く手掛けている。同い年だったこともあって、原と親しく接していた。
「秋山さんに、原さんに憧れているとお話ししたら、じゃあ連れてってあげると、狛江のお宅をお訪ねしました。大きな犬を飼ってらして。笑顔が輝くようで、きれいな方だなあと、見とれていました。とても気さくで明るい方で。お庭の草を抜いたりとかもなさるというお話でした。手だって荒れるだろうと思うんですが、そういうことにはあまり頓着ないご様子で、とても親しみを感じました」
 初めての本格的な共演は、デビューして三年、一九五三年の小津監督の「東京物語」だった。「小津監督作品に出演する緊張や喜びより、原さんとご一緒できるのがうれしかった」と香川さん。尾道ロケで、旅館の部屋に遊びに行って四方山話に興じたりと、ファン心を大いに満足させた。
「華やかな笑顔でね。映画で受ける神秘的な感じより、普段は屈託のない方。マージャンがお好きだったようですし、ビールもお飲みになった。私は両方ダメで、お仕事のお付き合いしかなかったのですが」
 画面では清純、上品な役柄が多かったが、素顔は飾り気がなく、スター然としたところのない女性だった。読書家としても知られていた。原自身も「好きなもの」というエッセーで「活字を見てれば気持が落着くんです好きなものを順にいえば、まず読書、次が泣くこと、その次がビール、それから怠けること」(一九五七年一一月七日付朝日新聞)と書いた。悲しい映画を見て泣くと、気持ちがすっきりするのだという。
 香川さんはその後も、成瀬巳喜男監督の「驟雨」、久松静児監督の「女囚と共に」(一九五六年)、川島雄三監督の「女であること」(一九五八年)などで共演した。
「一作一作、違う役柄をされてますよね。どの役にも、大きさみたいなものを感じます。存在感があって、画面に入りきらないんじゃないかと思うくらい。笑ってらっしゃっても、独特の表情をなさいますね。なかなか、ああいうふうにはできないと思う。『東京物語』でも、何と言ったらいいか、あまり表情は動かないけれど、感情を本当に的確に表現してらっしゃる。素晴らしいと思って拝見していました。役作りとか、そういうお話はうかがったことはないけれども、ご一緒して、教えられることがたくさんありました」
 原は一九六二年、「忠臣蔵 花の巻 雪の巻」を最後に、四十二歳で引退してしまう。その後一切、スクリーンにもマスコミの前にも姿を現さず、神秘のベールの向こうに消えた。
「引退されたころには、あまりお目にかからなかったです。(香川さんの著書)『ひめゆりたちの祈り』をお送りしようとして、仲を介してくださった方にお話ししたら、今は原節子の名前を使っていませんから、本名でお願いしますと。返事はもらえないかもしれないと言われましたが、読んでいただくだけでいいとお送りしました。その後、喜んでいたと教えていただいた。それだけでも、お届けしてよかった」
復帰の誘いも多かったが、芸能界には一切未練を残さず、関心も示さなかった。
田中絹代
芝居への情熱に感心

 香川さんがデビューするきっかけとなった、東京新聞主催の新人発掘事業、ニューフェイス・ノミネーションの審査員の一人が、田中絹代だった。この時は夢にも思わなかったが、その二年後の一九五一年、成瀬巳喜男監督の「銀座化粧」を皮切りに何度も共演し、女優として大きな影響を受けることになる。
 田中は一九二四年、松竹下加茂撮影所に入社し、十四歳のこの年、「村の花嫁」でデビューした。生き別れの兄が名乗り出るかもしれないと、本名をそのまま芸名にしたという。
 一九三一年、日本初のトーキー映画「マダムと女房」、一九三三年「伊豆の踊子」などに出演。一九三八年の「愛染かつら」が空前の大ヒット。溝口健二、小津安二郎監督らの作品の常連として名演技を見せる。一九四七年に溝口監督の「女優須磨子の恋」、一九四八年は小津監督の「風の中の牝鶏」に出演し、毎日映画コンクール女優演技賞を連続受賞。女優として頂点を極めた。一九四九年一〇月から翌年一月にかけて、毎日新聞の招待で、戦後の女優として初めてハリウッドを訪れ、演技やメークについて多くを学んだ。しかし、帰国した際のアメリカ仕込みの派手な仕草がマスコミから批判の対象となってしまう。さらに、帰国第一作をめぐって映画会社の争いに巻き込まれた上に、作品も不評。失意の底に沈んだ。
「銀座化粧」は、やはり不調だった成瀬監督から声が掛かり「苦境の中でとっていただくには、いちばんいい先生だと直感し全面的に飛び込んで行った」(「私の履歴書」)という作品だった。地方から上京した香川さんが勤めるバーのママである。デビュー間もない香川さんだったが、国民的大女優との共演にもさほどの気負いはなかった。
「田中さんは日本の国民的スターでした。私はまだ駆け出しで、何にも分からなかったんですが、とても丁寧に接してくれました。ちっとも先輩ぶらないで。良い方でした。大先輩だし、大スターだけれど、緊張感はなかった、気を使う方だったんですね。ただ、お芝居に対しての情熱は別。カメラの前に立つと、すごいなあとながめていました」
 映画は幸い好評で、田中も成瀬も復調のきっかけをつかむことになった。

涙ためて背中の演技

 次に共演したのも成瀬監督の作品で、翌年の「おかあさん」。この作品で、香川さんは女優としての田中に感銘を受ける。田中はクリーニング屋を切り盛りして子供たちを育てる母親。香川さんはしっかり者の長女である。懸命に働くが家は貧しく、親戚に請われて末の娘を養女に出すことになる。新しい両親に付き添われた娘を見送る場面だった。
「私がふっと、妹を見送る田中さんのお顔を見ると、涙が頬を流れていたんです。カメラには背中を向けて立っていたのに。おかあさんの悲しみが、体中から感じられました。田中さんは、普段は丁寧だし、いろいろお話もしてくださるんだけど、カメラの前に立つと声を掛けるのもはばかられるくらい、その役になりきってらっしゃった。すごいんだなあと思ったのを、今でも忘れない。いつかこういう風になれるかなって」
「おかあさん」の田中は、それまでの娘役という看板を捨てて、生活に疲れやつれた中年の母親に挑んでいる。この年、四十二歳。香川さんの叔父、永島一朗がプロデューサーだった。永島は「健康管理」を理由に何度も断られたうえでの承諾だったと回想している。
 また脚本の水木洋子は「その頃の絹代さんはこの役が転換期になる踏ん切りはまだつかなかった」と書いている(「キネマ旬報」一九七七年五月下旬号)。香川さんも同じことを感じていた。
「叔父は溝口監督たちから、『何で田中にあんな汚れ役をやらせるんだ』って叱られたと言っていました。でも、田中さんにとっては、とても大きな転換の時だったんじゃないでしょうか。田中さんは何もおっしゃらなかったけれど、私もそのくらいの年齢になった時、役柄を変えなければいけないと感じたものですから。見事に乗り越えて、素晴らしいおかあさんでした」
 田中は「おかあさん」の翌年、一九五三年に「恋文」で監督としてもデビューする。プロデューサーは永島が務め、香川さんも出演した。当時は、国会議員など女性の社会進出が目立ち始め、その姿に触発されたという。しかし、日本映画界では一九三六年、坂根さかね田鶴子たずこが一本だけ監督した以外に、女性監督の前例はなかった。
「女流監督の仕事を、私がやってみる気になったのも、そういう同性たちの活躍を共感をもってながめていたからです。また、米国を訪問したとき、スターだった女優が、長い引退生活から映画界に監督としてカムバックするという記事の出ていたことも、一つの刺激になりました」。四十代にさしかかり娘役ができなくなって、女優としての「定年」を意識したことも理由だった。「中年の役では、なかなか主役はとれないものだし、やりがいのあるワキ役は年にいくつもないそれなら、自分が監督になって、自分のできない若い役を、新しいスターに精いっぱい演じてもらえたら」と考えたという(「私の履歴書」)。
 溝口健二は反対したものの、小津安二郎、成瀬巳喜男ら大監督が後ろ盾となり、木下恵介が脚本を提供。大女優の監督転進は、映画界の大きな話題となった。とはいえ、女優の余技という片手間ではない。成瀬監督の「あにいもうと」の撮影現場で助監督を志願し、手弁当で現場を体験している。この作品の後も、一九六二年の「お吟さま」まで六作品を手掛けた。香川さんは、一九六一年「女ばかりの夜」にも顔を出している。監督としては、役者の演技に厳しく注文をつけたようだ。
「田中さんとはご縁があってね。鎌倉の御殿にうかがったこともありました」と思い出す香川さん。一九九三年、毎日映画コンクールで田中絹代賞を受賞した。田中の業績を受け継ぐ女優を顕彰しようと設立された賞である。「いただいた時はうれしかった。受賞のあいさつで、『やっと田中さんに、ほめていただけるような女優になれたかしらと思うと、とても嬉しいです』とスピーチしました」
 二百五十本を超す出演作と六本の監督作品は、日本映画界の金字塔だ。香川さんも「偉いですよね」と、改めて感嘆せずにいられないのである。
長谷川一夫
足元の土を削って

 一九五二年に新東宝を離れフリーになった香川さんは、映画会社の枠を超えて多くの監督や俳優との出会いを経験することになった。その中の忘れられない一人が、不世出の大スター、長谷川一夫である。初顔合わせは、一九五二年「勘太郎月夜唄」(田坂勝彦監督)だった。香川さんはフリーになって間もなく、まだ二十歳。対する長谷川は四十四歳の男盛り。主役を張って二十五年、すでに出演作は二百本を超えていた。「それはそれは、大スターでしたよ。でも、あんまりそういう顔なさらなかったです。周りはすごく気を使うのでしょうが、腫れ物に触るようなとか、そういう感じはなかった。偉そうになさらないんです」
 長谷川演じるやくざ者の勘太郎が、改心して伊那に里帰りするが、昔の因果で争いに巻き込まれるという娯楽時代活劇。香川さんは、勘太郎を教え導く住職の娘。勘太郎にほのかな思いを寄せている。
 長谷川は男性としては大柄な方ではない。画面では偉丈夫に見えるが、これは撮影の妙。一方、身長一六〇センチの香川さんは、当時としては長身だ。「勘太郎月夜唄」の撮影で香川さん、映画のトリックを知ることになる。
「私がかつらをかぶると、余計に背が高くなるんです。伊那のロケで、お寺の境内で長谷川さんと向かい合ったお芝居があったんですけど、ちょっとヒザを曲げて低く見せるとか、そういうことを全然知らなくて、ピンと突っ立ってるからなおさら大きくなっちゃうんですよ。長谷川さんの方が高く見えるようにしなきゃいけないんだけど、台に乗ってもらっては申し訳ないというんで、私の足元の土を削りましてね。私がそのくぼみに入って撮影したんです。びっくりしちゃった、映画ってこういうものなんだって」
 長谷川の撮影では、さほど珍しくない出来事だったそうである。なるほど、カメラは下から見上げる位置にあったり、全身が映る場面では二人は座っていたりと、さり気ない工夫がされている。もっとも、長谷川の大きく流麗な動きは、体が小さいことなどみじんも感じさせないのだが。
 香川さんが共演したのは、一九五四年「鉄火奉行」「近松物語」、一九五五年「七つの顔の銀次」、一九五六年「鼠小僧忍び込み控」、一九五八年「銭形平次捕物控 鬼火燈籠とうろう」「銭形平次捕物控 雪女の足跡」、一九五九年「かげろう笠」、一九六〇年「きず千両」。「七つの顔の銀次」以外はすべて時代劇である。
 長谷川の主演作は、生涯で約三百本。共演した女優は優に百人を超す。映画から舞台まで共にした山田五十鈴は合わせて四十作近くにもなるが、香川さんも決して少ない方ではない。
「私は不器用だし、長谷川さんは大先輩でしたから、おっしゃることをよく聞いて、ご迷惑かからないようにっていうのが多かったです。その関係は、ずっと変わらなかったと思いますが、随分たくさんのことを教えていただいて、ありがたかったです」

溝口監督とにらみ合い

 長谷川は、自分を美しく見せるための努力と研究を怠らなかった。
 香川さんも、「きれいだったぁ」と嘆息交じりに思い出す。一九五四年、溝口健二監督の「近松物語」の撮影の時のことだ。長谷川の茂兵衛、香川さんのおさんである。
「セットの隅に座っていらした時でしたが、ほんとにきれいだって見とれた瞬間がありました。華やかな衣装をお召しになった、かっこいい役が多かったでしょ。それが茂兵衛は木綿の地味で粗末な衣装だったんですが、かえって美しさが際立つような。さすがだなあと」
 この映画、大映の永田雅一社長の声がかりで、長谷川と溝口監督を組ませたいと企画された。しかし型の美しさを重んじる二枚目とリアリズムの巨匠、水と油である。相当の確執もあったようだ。溝口監督にしごかれていた香川さん、それどころではなかったが、雰囲気は感じていた。「長谷川さんは監督さんのおっしゃることをフンフンって聞いてらしたけど、あんまりなさらなかったんじゃないかしら
 助監督だった宮嶋八蔵によると、溝口監督は写楽の浮世絵を参考にしろと見せたという。長谷川は「役者の悪いとこばっかり誇張して描いた人やろ」と頭を抱えた。宮嶋は「溝口監督は長谷川さんを屈服させた」と振り返る。
 一方、録音を担当した大谷巌は思い出す。
「ある場面で、長谷川さんがどうしても絹の羽織を着て登場すると言って聞かない。丁稚でっち上がりの茂兵衛に、溝口監督がそんなもの着せっこない。衣装部が困ってね」。衣装部は、羽織を置いて逃げ出したそうだ。「長谷川さんは和事では自分が上やと思って、一番良いところを見せようとする。溝口監督はそれでは困ると。にらみ合ってるみたいやった」
 美しく見える所作を知り尽くしていた。そして共演の女優にも、秘訣ひけつを伝授する。自分だけ際立っては、映画は台無し。香川さんも、間近に見た。
「あのライトがちょっと弱いとか、照明のことまで指摘されて、あれには驚きました。私なんかボーッとして、どこをどう照らされてるか分からなかったのに。すごいと思った。知り尽くしてらしたんですね。立ち姿だけでもきれいでした。立ち回りの動きも全部計算してらした。子役時代から鍛錬した、踊りが基本なのね。私は色気のない方なので手取り足取り教えてくださった。もうちょっとこうしたら女らしく見えるとか。私がハイ、ハイって一生懸命ついていこうとするので喜んでくださって」
 五歳で舞台に立ち、歌舞伎から映画へ。松竹で大スターとなるが、東宝に移籍した一九三七年一一月、暴漢に左ほほをカミソリで切られた。この時ですら「これで俳優としての生命は終わりと思いましたが、ともかく傷はどの程度かと、とっさに鏡を見たくなり『鏡を、鏡を』と叫びました」(『舞台・銀幕六十年』)。
 残った傷跡は、みずから化粧をして完ぺきに隠した。

心優しい「永遠の二枚目」

 カメラの前では自分を美しく見せることに心を砕いた長谷川だったが、素顔は飾らない人だったようだ。画面では雪のような肌も、化粧を落とすとドーラン焼けで浅黒く、荒れていた。京都・伏見の造り酒屋の息子として生まれたが酒は飲めず、もっぱら甘党だった。「普段は、身なりなどもあまりかまわない方のようでした。お酒を召し上がらないから、撮影の合間に時々、おまんじゅうをつまんでいらした」と自分もお酒を飲まない香川さん。
 撮影現場でも大スターぶることはなく、スタッフや共演の女優にも気を配った。
 香川さんが共演した一九五八年の「銭形平次捕物控 鬼火燈籠」(加戸敏監督)の一場面。長谷川の平次は、浅草のヤクザの縄張りに捜査のため潜入する。香川さんはシマの元めの娘で、威勢がいい。平次に酒を振る舞うふりをして、近付いたところで顔にひっかけようとする。平次はそれをヒラリとかわす、はずだった――。
「緊張して何べんやっても長谷川さんにかかっちゃう。何でそっちに行っちゃうんだろ、というくらい。でもそんな時でも、何やってんだ、とか下手とは言わず、黙っていらっしゃる。怒りも笑いもせず、しょうがないな、という感じで。結局、監督さんがカットを変えてくださって、救われました。そんな時、中には怖い方もいらっしゃいましたが、長谷川さんには全然そういうところはなかった。小さなことにこだわらず、教えてくださる時もやわらかく、冗談を交えておっしゃるから、怖い感じじゃなかった」
 最後の共演作となった一九六〇年の「疵千両」(田中徳三監督)では、撮影の途中で香川さんが角膜炎を患って入院し、撮影が一カ月ほど中断してしまった。長谷川は撮影終了後にハワイでの舞台公演を控えていた。
「長谷川さんがハワイに行かれることになっていて、早く撮らなければいけなかったんですけど、中断しちゃってね。その間にハワイにいらして、私が治ってからまた撮ってくださった。長谷川さんの泊まってらした旅館にうかがって、ほんとに申し訳ありませんでしたっておわび申し上げて。でもその時も、何にもおっしゃいませんでした」
 作品は評判も良く、田中監督は日本映画監督協会新人賞を受賞した。しかし、香川さんには「申し訳なかった」という思いが強い。役者にとって顔に傷を付けることがいかに重大なことか。撮影を止めてしまうことがいかに心重いことか。長谷川の優しさは、そんな心理を知っていればこそだったのだ。
 長谷川は一九六三年、若い役ができなくなったと映画からは引退する。しかし「東宝歌舞伎」を中心とした舞台やテレビで活躍。一九八四年に七十六歳で亡くなるまで、「永遠の二枚目」を演じ続けた。
三船敏郎
野性児の素顔は気配りの人

「長谷川さんと並んで、共演は一番多かったんじゃないかしら」と香川さんが言うのが、三船敏郎である。顔見せ程度で同じ画面での芝居がない作品もあるが、数えると十本にも及ぶ。一九五六年の「黒帯三国志」(谷口千吉監督)、一九五七年「どん底」、一九六〇年「悪い奴ほどよく眠る」(黒澤明監督)、一九六一年「大坂城物語」(稲垣浩監督)、一九六三年「天国と地獄」、一九六五年「赤ひげ」(黒澤監督)といった作品で、恋人や夫婦など相手役となった。香川さんは、強面こわもてとは裏腹のその人柄を、しみじみと思い出した。
「優しくて、すてきな方でした。ヘアメークの方とか衣装部さんとか、スタッフの女性がみんな三船ファンになってしまう。ロケに行く時なんて、行李をひょいと持って運んであげたりとか。あんなにしてらしたら、疲れちゃうんじゃないかと思うくらい、大変気配りされる方で。なかなかああいう方は、いらっしゃらないと思います」
 三船は一九四六年、軍隊で身に着けた写真技術を生かそうと、東宝にカメラマンの助手として応募した。しかし送った履歴書が、手違いで第一期ニューフェイスに紛れ込み、面接に呼び出される。俳優になる気もないので、ふてぶてしい態度を取ったところ、山本嘉次郎監督の目に留まり補欠で採用された。翌年、谷口千吉監督の「銀嶺の果て」でデビューして、たちまち注目を集めた。そして一九四九年、デビュー三作目の「酔いどれ天使」で肺を病んだヤクザを真に迫って演じ、主役の志村喬を食う好演。以後「赤ひげ」まで、黒澤映画に欠かせぬ主演俳優となった。
 一九七一年「レッド・サン」(テレンス・ヤング監督)、一九七六年「ミッドウェイ」(ジャック・スマイト監督)などハリウッド大作にも出演、「用心棒」の演技でベネチア国際映画祭男優賞を受賞するなど、日本を代表する世界的スターとなる。恵まれた体格、優れた運動神経を備えたうえ、剣道や居合い、乗馬の鍛錬を怠らなかった。野性味にあふれ、豪快な役柄が多かったが、実は照れ屋で真面目、繊細な性格だった。
 香川さんは、敬意とともに思い出す。
「スターぶったところなんか、全然なかった。いつも一人で、付いてる人もなくご自分で車を運転して、撮影所に来てらした。セリフは全部入ってらして、撮影現場で三船さんが台本を持っている姿、見たことなかった。大変な努力家で、撮影に入る前にご自分の役について、ああやってこうやってって、ずい分考えてらしたのだと思います。だけど、そんなことは一切おっしゃらない。立派ですよ。黒澤さんも、三船さんを信頼してらしたのが、よく分かりました」
「悪い奴ほどよく眠る」の撮影中に、香川さんがケガをして病院に運ばれた時のことだ。
「病院に、取材の人が来たみたいなのね。ロケ地にいらしてたんでしょうか。そしたら三船さんが、病室のドアの前にがんばって、帰ってもらうようにしてくださったんです。ご自分がスターだっていう意識なんかまったくなく、誰にでも優しい、親切な方でした」
 三船は一九九七年、香川さんも出演した熊井啓監督の「深い河」を最後に、七十七歳で世を去った。葬儀で香川さんは、こう弔辞を述べた。
「『赤ひげ』の姿がそのまま重なり合います。いつかは枯れた夫婦役を、と思っていましたが、枯れたという言葉は似合わない。強く優しく、ユーモラスな愛すべきヒーローとして、世界中の人の心の中に、さっそうと生きてゆかれるでしょう」
 葬儀には、映画関係者やファンが千八百人も参列し、別れを惜しんだ。

第三章

忘れ得ぬ人々

大庭秀雄
ダンディーなジェントルマン

 新東宝から離れてフリーになり、香川さんは各映画会社の撮影所を飛び回ることになる。当時全盛期だった松竹大船撮影所での初めての作品は、一九五三年、大庭秀雄監督「愛慾の裁き」だった。「初めてのことには、すごく緊張する」という香川さん。不安を胸に撮影所の門をくぐったが、「心配は全く不要なものであったことが、スチール撮影のために訪れた第一日目でわかりました」(一九五三年四月一四日付スポーツニッポン)。共演者やスタッフに温かく迎えられた。「共演の東山千栄子さんとは控室もご一緒させていただいて、旅行のことなんかを優しく話してくださった。緊張してましたから、うれしかったですね」と思い出す。毎朝六時過ぎに世田谷の家を出て、大船まで二時間かけて通う毎日だった。
「愛慾の裁き」は、吉屋信子の小説「新しき日」が原作。キリスト教の姦淫かんいんの罪を描く。映画のタイトルをめぐって、ちょっとした曲折があった。当初のタイトルは「汝、姦淫するなかれ」。聖書から採った文言だが、松竹の営業部門から「どぎつい」と横槍が入った。そこで一般の人たちにアンケートを行ってこのタイトルについて反応をうかがうと、女性のほとんどが「興味なし」。女性観客に見放されてはヒットはおぼつかないと、改題されたといういきさつ。
 大庭監督はこのころ、一九五〇年「帰郷」などのヒットで頭角を現しつつあったが、その後は不調続き。「愛慾の裁き」は起死回生を狙った意欲作だった。東京・霊南坂教会を訪ねて牧師にも意見を聞いて、熱心に研究した。「現代の日本の人達が道徳とか良心とか、人間の生き方についてもう少し唯心的な面に神経をもちいてもいゝ」「香川さんがふんする清純なキリスト教徒の美しさに、若い方達が多少とも共感を覚えていただければ倖せです」(一九五三年五月五日付報知新聞)と語っている。
 さて香川さんが演じたのは、敬虔けいけんな信徒のもと子。脚本の田中澄江が、香川さんをイメージしながら書いたという清純可憐かれんな女性である。婚約者との結婚に乗り気になれず、少年の更生施設で出会った既婚の牧師、槙(若原雅夫)を敬愛するようになる。しかし槙は自分が姦淫の罪を犯していたことに気付く。
「(もと子は)非常に信仰心のあつい、まじめな女性だったと思います。題名はすごいけれど生々しい内容ではなくて、内面の問題を扱っていました。激しい動きはなかったですが、私には難しかったです。初めて大庭監督と脚本の田中さんとお会いした時に、私が男の子っぽくて、色気みたいなものがなかったから、田中さんが『あなたね、ルナールの〈にんじん〉やるといいわよ』っておっしゃったの。あの時代は『映画』と『舞台』は全く別だったから、ちょっとびっくりしましたけど。そういう印象だったのね」
 大庭監督は慶應大を卒業後、松竹蒲田撮影所に入社。蒲田、大船に連綿と伝わるメロドラマを得意とし、自身も「甘さ一本ヤリでやってきた」(一九六二年四月二日付中部日本新聞)と自負していた。人柄は謙虚で、撮影中も大声を張り上げることもなかった。「『君は優等生だね』って言われたのを覚えてます。厳しかったっていう記憶もないですね。そんなに細かく何回も何回もテストして大変だったという思いはあんまりない、穏やかな方でした」と香川さん。
「ダンディーで、ジェントルマンでいらした」という印象だったが、一方で、痛烈な皮肉で周囲を震え上がらせた。山奥の風景を撮影したカメラマンに「いいねえ、あのパン(脚を固定したカメラを動かすこと)。きれいだったねえ」と言った後で、「空と雲ばかりで、何も写ってなかったよ」。せっかく登ったのに山がちっとも写っていないと、撮影所幹部の面前で皮肉ったという(「キネマ旬報」一九六五年五月下旬号)。
 大庭監督は「愛慾の裁き」の直後、一九五三年から一九五四年にかけて公開した「君の名は」三部作が空前の大ヒット。一躍松竹の看板監督となり、撮影所では「大庭法王」と称された。
渋谷 実
「断片の王者」の細かい演出

 一九五〇年代、全盛期の松竹で小津安二郎、木下恵介と並んで御三家とされたのが、渋谷実監督だった。一九五〇年の「てんやわんや」以来、「本日休診」「現代人」など、鋭い社会風刺喜劇を連発。批評でも興行でも大黒柱となっていた。
 香川さんは、一九五四年「勲章」、一九五五年「青銅の基督」の二本に出演している。「面白い方でした。怒られても、あんまり怖くない。冗談もおっしゃるし、ユーモラスなあったかい感じで、私は好きでした。わりと細かく演出されたから、現場で表現の仕方を教えていただいた。『ヨーイ、ハイ』の掛け声が、大きな声で」
 香川さんは、ほほ笑みまじりに思い出す。しかし、長く助監督につき後に監督として活躍した井上和男によれば、あだ名は「意地悪じいさん」。「顔つきといい、声といい、当時人気の米国の漫画そっくり」。人見知りで初対面の人とは口を利かない。取材嫌い、毒舌。
「朝、余白にメモがいっぱい書いてある台本を渡される。断片的なんです、『シューマイ』とかね。小道具として用意しろってことなんですが、『崎陽軒ですか、博雅ですか』って聞くと『どっち食うやつか、台本読めば分かるだろ』」。悪筆で、その解読から、仕事が始まった。
「青銅の基督」などに出演した石濱朗いしはまあきらは「思ったとおりに演技するまで、何度でもやり直させる。役者に芝居を作らせておいて『何で最初にそれが分からないんだ』」。木下監督とは犬猿の仲。木下監督の「少年期」でデビューした石濱は、両方の組を行き来した数少ない一人だ。「(語学が得意で)木下監督には分からない外国語を使ってみたりね。渋谷組に行く時、木下監督には『いやなことがあったら、すぐ帰ってらっしゃい』と送り出された」
 井上は、渋谷監督を「断片の王者」と称した。「ワンカットごとの瞬発力はすごかったけど、時に全体のつじつまが合わない。撮影中に、関心の内容がどんどん変わっていっちゃうんだ。前の晩の思いつきを突然言ってみたり、人騒がせな監督でした」と笑う。石濱も同じ意見。「自分で思った方向にばかり、映画を持っていく。カットカットはいいのに、編集でつなぐとちっとも良くなかったり」。この性癖のおかげで、時に映画は空中分解寸前。しかしツボにはまれば、重層的で複雑な、一筋縄ではいかない魅力となり、「気違い部落」(一九五七年)、「もず」(一九六一年)など、数々の傑作として結実する。
 さて「勲章」は、劇団の俳優座が、製作費を全額自前で用意し、初めて自主製作した作品だった。当時、民芸や文学座など新劇の劇団が、活躍の場を求めつつ利益も期待して、映画製作にこぞって乗り出していた。俳優座は新劇場の建設費捻出をもくろんだのだ。製作費は潤沢とは言えず、ロケ撮影を控え俳優の出演料も後払いにする倹約ぶり。一方の渋谷監督にとっても、松竹以外でメガホンを取るのは初めて。「素材にひかれて引受けボクの作品を乗越えた新しいものが出来る自信を深めた」と語っている。
 朝鮮戦争をきっかけに再軍備の気運が起こり始めた世相を反映した、風刺喜劇。小沢栄(後に栄太郎)が演じた戦争中の誇らしさが忘れられない元陸軍中将が、再軍備促進運動に担ぎ出される。元中将はすっかりその気になり、家族を巻き込んで騒動が持ち上がるが結局は破滅する。元中将が自慢する勲章は、過去の遺物の空しい象徴だ。
 香川さんは元中将の娘、ちか子。実年齢よりも上で、香川さんより年上の佐田啓二が弟役である。「これまで私は、素の自分とかけ離れた役はっていないのに、ちか子は大部勝手が違う」(プレスシートから)という役柄だった。
 次から次と映画に出演していた香川さん、大映京都での溝口健二監督「山椒大夫」を終えてから参加するはずだったが、撮影が延び、終わらないうちに「勲章」が始まった。溝口監督は大急ぎで香川さんの出演場面を終えて、京都から送り出したという一幕も。
「忘れられないのは、浜松の砂丘でのロケ。(婚約者役の)岡田英次さんとラブシーンの撮影でした。風の名所で、その日もすごい風だった。砂が飛んできて鼻の穴から口の中まで、ザラザラ。ラブシーンどころじゃなくて、もうどうでもいいやっていう気になって。あれはくたびれました」
 ちか子は父親から、再軍備運動の中心人物の元部下と結婚させられそうになって動揺し、婚約者を追いかけていって愛を確認しあう。勇ましい映画の中で、唯一ロマンチックな場面なのだが。元中将の哀れな末路に皮肉もきいていて、隠れた秀作である。

踏み絵で描いた転向

 翌一九五五年、香川さんは渋谷監督の次回作「青銅の基督」に出演した。俳優座製作の「勲章」とは違い、こちらは松竹本体が製作した大作だ。
 元々は、「勲章」よりもこちらを先に撮影する予定だった。長与善郎の小説を原作に、戦前から渋谷監督とコンビを組む斎藤良輔が、一九五二年から脚色に取り掛かった。しかしその脚本が、一年以上過ぎても上がらない。待っている間に、渋谷監督は先に「勲章」を完成させてしまったというわけだ。
 この間、松竹の渋谷組のスタッフは仕事がない。井上は「会社に、飯の食い上げ、金貸してと泣き付いた。会社も困った困ったって言って、前借りさせてくれました」と思い出す。斎藤のスランプは、「渋谷監督の関心が、転向問題にあったからじゃないか」と推測した。
 映画は、江戸時代の長崎で迫害を受けた隠れキリシタンの受難を描く。原作では香川さんが演じたヒロインのモニカと、モニカを愛しながら信徒迫害のための踏み絵を作る鋳型師(岡田英次)の悲恋に力点が置かれていたが、渋谷監督は、信仰を捨てて迫害に回り、遊女(山田五十鈴)に心を奪われた宣教師(滝沢修)の心理にとりつかれたというのだ。折しも、共産主義者の転向問題が話題となっていたころだった。
 香川さんは一九五四年六月、渋谷監督と、茅ヶ崎の旅館にこもる斎藤を激励に訪れている。
「この時、九月のベネチア国際映画祭に行くことが決まっていまして、それならローマの近くのチビタベッキアの教会で、写真を撮ってきてくださいと頼まれました。画家の長谷川路可さんが長崎の聖人の壁画を描いてらしたんです。これは大役だと思ってね、長谷川さんをお訪ねしてお話をうかがい、スライドで撮ってきてお渡ししました」
 撮影は翌年夏、ようやく始まった。渋谷監督、俳優には厳しかった。気に入る演技ができるまで、何度もやり直し。「渋谷監督の演出は独特で、難しかった」と香川さん。「鋳型師が訪ねてくる場面で、すぐに会いたいけれど、モニカはその気持ちを抑えつける。これがなかなかできなかった」。とはいえ、井上によると「香川さんは、いじめられてはいなかったのでは」。
 モニカの弟、吉三郎役で出演した石濱朗は、それまで親しんだ、木下恵介監督の演出とは、随分勝手が違ったと回想した。地下の秘密礼拝所で祈とうの最中、何者かが雨戸をたたくシーン。役人ではないかと驚いた吉三郎が、飛び出していく。
「『誰だ』と飛び出していく芝居を、何十回やったか分からない。監督は『ぬるい、一挙動で行け』と言ってね。思ったとおりにならないと何回でもやらされた。芝居は、何かアクションがないと気がすまない。コップを持ち上げる動作でも、途中でちょっと止めさせてみたり。『ふくらまして、ふくらまして』と注文をつけられた。渋谷さんは型にはめて芝居を作るやり方で、こういうのもあるんだ、と思いました」
 映画のクライマックスは、隠れキリシタンが、はりつけ火あぶりになる場面である。愛知県瀬戸市にあった、石切り場での大がかりなロケだった。切り立った白い壁のような岩場に十字架が並び、白装束の隠れキリシタンがはりつけにされている。やがて火が放たれると、人々の顔が熱さでゆがみ、黒い煙がモクモクと立ち込める。「真っ白な石の壁に囲まれて、私も含めた信者の人たちの真っ白な衣装を見ていると、まぶしくて目が変になりそうでした。まるで西部劇みたいな感じの現場で。大変な撮影でしたよ」と香川さん。
 現場を走り回ったのが井上だった。
「ロケ地を借りる保証金が大変だから予定どおりに終えるために、渋谷さんと二人で、京都・貴船の旅館に一週間ほどこもって、厳密にコンテを描いた。見物客を無料でエキストラにしましたよ。一番前の列だけは、衣装を着せたりしてね。煙はタイヤを燃やして。全景を写すにはカメラを遠くに置いた大ロング。メガホンに向かって、声が枯れるほどの大声で、指示を出した。大変な撮影でした」。渋谷監督は胃かいようの持病があったが、この撮影中に悪化。このころから、大声の「ヨーイ、ハイ」は、井上が代行するようになる。渋谷監督は撮影直後に手術を受けた。
「青銅の基督」は、一九五六年のカンヌ国際映画祭に、黒澤明監督の「生きものの記録」とともに出品された。渋谷監督の洗練されたセンスや、社会風刺を込めつつ笑わせる喜劇の手腕は、家城巳代治、川島雄三、篠田正浩らの監督に多大な影響を与えた。
家城巳代治
貧しさと熱気の独立プロ

  家城巳代治いえきみよじ監督の一九五四年の「ともしび」は、撮影所育ちの香川さんにとって、初めての独立プロ作品だった。苦労しながら奮闘する映画作りに撮影所とは違った熱気を感じ、香川さんは「しんどかったけれど、楽しい現場でした」と振り返る。
 戦後、戦時中の軍部協力姿勢への反省と、自由と民主主義の機運の高まりとともに、企業の束縛を離れて良心的な映画を作ろうとする機運が起きてくる。一九四八年、「来なかったのは軍艦だけ」と言われた東宝争議の後、争議を指導した山本薩夫、亀井文夫らは東宝を退社し、自ら起こしたプロダクションで映画製作を始めた。戦後の独立プロ運動の始まりだ。
 家城監督は東京帝大美学を卒業後、松竹に入社。終戦後、「戦時中の自分のあやまちを自己反省し、自分がもし立ち直れるとしたら組合運動の中で立ち上れるだろうと考え」(「キネマ旬報」一九六三年一月上旬号)、松竹の組合設立にかかわり、活動に没頭した。理想を追求し会社と格闘する一方で、「会社企画の線でやろうと思えばやれる腕はもっていることを見せる必要を感じ」(同)、美空ひばりを大スターに押し上げた「悲しき口笛」をヒットさせるなど、商業作品にも手腕を発揮した。しかし結局、一九五一年にレッドパージで松竹を追われてしまう。独立プロを設立したものの、「毎日家を出るのがユーウツだった位苦しかった時代」をへて、一九五三年、特攻隊の悲劇を描いた「雲ながるる果てに」が高く評価され、興行的にも成功を収める。「ともしび」はこれに続く作品だ。
 貧しい農村の教師が、進歩的な教育方針ゆえに村を追われるが、子供たちがその教えを引き継いでいく。元になったのは、秋田県の中学生の体験談。学生映画のための公募シナリオが、映画化されずに眠っていたのに家城監督が目をつけたのだ。
 香川さんは主人公の一人、仙太の姉、きみ。教科書を買う金もなく、昼は野良仕事、夜は内職のかさ作りと休むヒマなく働いている。初めての農家の娘役、セリフも「おれ」「だども」といった具合の東北方言。「クワの使い方ができなくってね、ずいぶん練習しました」。全編で土にまみれている役柄だった。撮影は栃木県部屋村(現・藤岡町)でのオールロケだった。スタッフ、キャストが約二カ月間、村内に分宿して撮影した。
「農家に泊まりこみましてね。独立プロって、こういうお仕事の仕方をするのかと思いました。それまで大きい会社ばっかりでしたから。俳優さんたちも、できることを手伝って。撮影は大変でした。きみが働きすぎて、過労で倒れて寝ているシーンがあったんですが、撮影で徹夜明けで、ほんとに寝ちゃいそうになりました。なるべく切り詰めて、短い時間で撮るということだったのでしょう」
 製作資金に乏しい独立プロの現場は、フィルムも人件費も節約第一。家城監督は製造業の「計画生産方式」を導入して、細かくプランを立てて、無駄を省いて撮影したという。
 この撮影現場に、現在「アスミック・エースエンタテインメント」相談役の原正人がいた。大学を中退して映画上映サークルの活動をしていたが、この作品で製作宣伝として初めてプロの映画撮影現場に付いたのだ。
 撮影現場に現れた香川さん本人を見て、「泥田の中に鶴が舞い降りた感じだった」と思い出した。「タイトルに名前を出すからと呼ばれてね。飯と泊まるところだけはあったけれど、ギャラはもらえず、もうかったら分けるからと。オンボロのロケバスで、ジャーナリストを撮影現場に連れてったりした。志は山ほどあったけど、お金には苦労してましたね」
「ともしび」の経験で、「お金がなくても、いい作品を作ろうと、こんなに苦労してらっしゃるのかと教えられた」という香川さん。数十年たって偶然、この現場で製作部だった、という鍼灸しんきゅう師とめぐり合った。「その方が、『撮影隊の支払いのお金が足りなくなって、ぼくが人質として村に残されたんですよ』って。そんなことがあったんですかって、大笑いしました」

色白で静かなヒューマニスト

 家城監督は、庶民の生活を下からの視線で誠実に描き続けた。素顔も温厚なヒューマニスト。人格者であることは、誰もが認めるところだった。香川さんも「すてきな方でした」と思い返す。「活動家という感じではなく、色白で静かな方でした。厳しく言われたことはなかったです。きっと、内に秘めてらっしゃる情熱が大きい方だったんですね」
 その人柄は皆から慕われて独立プロの困難な現場をまとめ、出演者とスタッフが一体となって、「いい作品を」と取り組んだのだ。「みんなが一緒になって映画を作る、気持ちのよさがありました」。香川さんが思い出すのも、撮影のつらさよりも現場の熱気の方だった。
「ともしび」に出演した中学生たちも家城監督を慕い、撮影終了後十五人ほどが「ともしび会」なる集まりを作った。年に数回集まって近況報告をしたり、家城監督を訪ねたりと交流を続けた。中心の一人が、後に毎日新聞記者となった大橋弘(現・中部大教授)だった。撮影当時十五歳、映画でも主役の一人、勝を演じた。感慨と共に語る。
「撮影は楽しかった。スタッフの、いい映画を作ろうと夢中になっていた情熱が忘れられない。移動はオート三輪の荷台に乗ってね。徹夜の撮影ではブタ汁が楽しみでね。春の初めごろだったけど寒さも感じなかった。家城さんは懐の深い、実にいい人だったね。子供でも粗末にしないし、家を訪ねても、親身に話を聞いてくれて。知識をいっぱい詰め込んでいたはずなのに、一切ひけらかさない。ユーモアも十分」
 大橋らはガリ版刷りの会報も発行。大橋の手元に残っている会報には、映画の撮影現場だった部屋村の子供たちの近況報告などが掲載されている。家城監督も、「『ともしび』はすぐ『炎』にならなくてもよいから消えぬようにして下さい」と寄稿している。
 家城監督は、「ともしび」の演出にあたって書いている。
「子供達の喜びや悲しみを子供達の側に立って描いていきたい農村の問題と、子供達の伸びょうとする芽生えを伸ばし育てて行く教育の重要さをテーマに、積極的で肯定的な新しい人間としての子供達を描いて、明るく健康的な、劇としても面白い映画を作りたい」(「ともしび シナリオ」)
 教育の大切さを訴える作品を作ろうというスタッフ、キャストの心意気を日教組が後援し、部屋村も全村を挙げて協力した。「熱意があり、周りに結束して応援してくれる人たちがいた。ある意味で、いい時代でした。個人的なDNAとして、今でも独立プロの志がありますよ」。原は振り返った。
 香川さんも同感だ。「観客は戦後体験を背負ってきた人たちで、地味でもいい映画を見ようという空気があった。そういう時代に、すてきな監督と仕事ができた、充足感がありますね」
 時代もまた、家城監督のような映画を作る雰囲気をたたえていたのだ。
 家城監督は独立プロでの活動が行き詰まって、東映などと組むようになってからも志の高さは捨てず、「裸の太陽」(一九五八年)などで人間愛を描き続けた。

久松静児
気持ちよかった小豆島ロケ

 久松静児監督は、「警察日記」(一九五五年)や「駅前団地」(一九六一年)など、庶民的な味わいの叙情性豊かな作品で人気監督だった。数多くの監督と仕事をした香川さんだが、久松監督の作品には六本も出演した。順番に並べると、一九五四年「女の暦」「母の初恋」、一九五六年「女囚と共に」、一九五八年「つづり方兄妹」、一九五九年「愛の鐘」、一九六二年「早乙女家の娘たち」となる。
 久松監督は一九一二年生まれ。十七歳で映画界に入り、一九三四年「暁の合唱」でデビューした。メロドラマや喜劇、スリラーなどあてがい企画を数多くそつなくこなし、長い下積み時代を過ごす。一九五四年、「長男は高校三年にもなり、ツマラないものをつくっていると子供に批判される、これじゃいけないと思ったから」(一九五五年七月一八日付東京新聞)、長年籍を置いた大映を離れてフリーとなり、一念発起。ここから躍進が始まった。
「女の暦」は、久松監督が再注目されるきっかけとなった一作だ。壺井栄の小説を、五人姉妹の物語に脚色。田中絹代、花井蘭子、轟夕起子、杉葉子と香川さんが姉妹を演じた。五人を通して、さまざまな女の幸せを描き出す。
 一九五四年春、舞台となった小豆島でロケ撮影した。香川さんは、この年三月、「ともしび」の撮影で栃木県の農村に泊まりこみ、土にまみれる貧農の娘を演じたばかり。
「『ともしび』のロケ地に、久松監督が来られたんですよ。特に細かいお話はしなかったと思いますけど、私の感じを見にいらしたんじゃないかと思います。小豆島はちょうど気候がよい時期で、気持ちがよかった。撮影中は、杉さんと同じお部屋で、すっかり仲良くなりました。役柄そのままの、サバサバした楽しい方」
 豪華キャストだが、香川さんとは新東宝時代からおなじみの顔ぶれ。「先輩の皆さんとは、共演が初めてではなかったですから、楽しかったです。ほんとの姉妹みたいで」と緊張することもなかった。香川さんは、杉が演じた姉と二人で故郷の家に住んでいる末の妹。恋人がいることを、なかなか姉たちに言い出せなかったが、思い切って打ち明けるとその懸命さを笑われてしまう。若々しく、可愛い役どころだった。「若くて明るい、無理のない役でしたし、気持ちのいいお話でした」。小豆島の明るい光が画面にあふれ、さわやかな佳品である。
 小豆島では同じ時期に、やはり壺井原作で、高峰秀子主演、木下恵介監督の「二十四の瞳」が撮影されていた。「高峰さんがお仕事の合間に、私たちのロケ先の休憩室に遊びに来てくださった」と香川さん。大スターが勢ぞろいし、島は大騒ぎだった。しかし久松監督は「これは映画になると思うところはたいてい木下さんが撮られた」(一九五四年四月二九日付読売新聞)とこぼし、やりにくかったようだ。
 ところでこの一九五四年、香川さんの出演作が十本も公開された。「そんなに出てたんですかね、あきれちゃう」という忙しさ。京都と東京の各社の撮影所のほか、ロケ地を飛び回った。
「一カ月のうち、家にいたのは二、三日じゃないかしら。『女の暦』もロケに行きっぱなしですから。京都だって、今みたいに日帰りできませんし。よく体が続いたと思います」
 しかし粒ぞろい。映画誌「キネマ旬報」ベストテンに「近松物語」(五位)、「勲章」(八位)、「山椒大夫」(九位)と出演作三本が選ばれた。「女の暦」は一七位。「叛乱」「ともしび」も二二、二四位。この年公開された日本映画は約四百本。香川さんは「充実したというより夢中で」、映画黄金期を過ごしていた。

手術直後に刑務所で撮影

 久松監督とは「あんまりお話もしなかった」というが、やはり気に入られていたのだろう。幅広い題材を扱った久松監督の中でも、社会派作や叙情的な作品で、清新な役柄を任されていた。
 久松監督との三作目、一九五六年の「女囚と共に」は、和歌山女子刑務所の女性所長の随筆を基にしている。女囚のエピソードを重ね、犯罪を引き起こす社会の矛盾や、再犯防止のための理解を訴える群像劇。難しい題材だけに、脚本の田中澄江は何度も刑務所を訪ねたという。実際に和歌山女子刑務所で撮影し、撮影所にセットを建てた大作だった。
「女の暦」同様、スター女優の豪華共演。所長に田中絹代、保安課長に原節子、女囚には久我美子、岡田茉莉子、浪花千栄子、淡路恵子、木暮實千代、杉葉子。「すごいでしょ、オールスターで。よくあんなに芸達者な方たちがそろった」と香川さんも改めて驚くほど。当時多かった掛け持ち出演を極力少なくするなど、調整も大変だったようだ。
 香川さんは、服役中に見合いをして結婚が決まり、花嫁衣装で刑務所から出て行く模範囚。撮影は六月に始まったが、体調は万全とはいかなかった。
「この年、盲腸の手術をしたんです。手術は無事終わったんですけれど、まだ完全に仕事できるかどうか分からなくて。それでも、和歌山の刑務所までロケに行かなくてはならないので、大阪からベッドが付いた車で横になって、運ばれていった。撮影が始まって最初は、心もとなかったですよ、体が。そんなことがあって、忘れられません」
 幸い若かった香川さん、すぐに調子を取り戻した。ただ、刑務所での撮影は例がないとあって、入所者を刺激しないようスタッフに厳しい規制が言い渡された。マッチ、刃物類は休憩所以外の場所に持ち出さない、ひもや針金などの員数を確かめる、走らない、大声を出さない、半そでシャツ以上に肌を出さない。おかげで予定以上の日数がかかってしまった。「(気を遣っていたので)静かな撮影でした」と香川さんは思い出す。
 香川さんは準備の時間もなかったが、現場での観察を参考にした。
「退院してそのまま、いきなりロケから始まりました。女囚の方たちの日常を見ながら、イメージをつかみました。食事をするシーンでは、皆さんと同じ物を食べたり。女の人だなあと思ったのは、もんぺのひもに二つ結び目を作っておしゃれを工夫している人がいたこと。おしゃれなんかできない所でも、もんぺのひもの結び方一つを工夫してると感心して、目に残ってるんです」
 その次、一九五八年の「つづり方兄妹」は、実話の映画化だ。懸賞作文に次々と入選する、貧乏で子だくさんの一家の三兄妹を描く。次男の病死や世間の冷たい目など、問題提起も込められる。香川さんは、その一人の担任教師だ。一九五九年の「愛の鐘」も、非行防止には大人たちの理解が不可欠だ、と訴える社会派作品。叔父の永島一朗製作という縁で出演し、不良少女を取材するラジオ記者。いずれも、時代を映した社会性のある作品だ。「選んだわけではないんですが」と香川さん。
 一方、一九六二年の「早乙女家の娘たち」は、五人姉弟の次女役。これも壺井栄の小説が原作だ。両親がない五人のささやかな騒動を描き、映画の趣は「女の暦」に通じる庶民的作品。香川さんは、恋人はいるものの家族の世話に追われ、結婚に踏み切れずにいる役どころで、こちらも共通している。しかし年を経たここでは、しっかり者のお姉さん。久松監督は、イメージを大切にして香川さんを起用したようだ。

せっかちだけど怒らない

 久松監督は、「女の暦」に続く一九五五年の「警察日記」で、一気に人気監督となった。森繁久彌演じる田舎の派出所の巡査を主人公に、人間味あふれた村人たちの姿を、情緒豊かに描いた。その後一九六〇年代初めにかけて、日活や東宝傘下の東京映画で「渡り鳥いつ帰る」「神阪四郎の犯罪」、駅前シリーズなどを撮りまくる。「年間三本ぐらいが理想」と言いながら、多い時は年五本。文芸作品から社会派ドラマ、ラブストーリーに喜劇と幅広く、あてがい企画も自身の意欲作も水準以上の作品に仕上げている。下積み時代に培った技術を存分に生かして才能を開花させ、第一線で活躍した。
「あんまりお話しなさらない方でした」と香川さん。「大柄で体格のいいわりに声が小さくて、口の中でボソボソボソっておっしゃるから、みんな『監督さん何おっしゃってるか分からない』って言い合ったり。方言があったから、余計に分かりにくかったのかもしれません」。ふるさとの茨城なまりが抜けなかった。
 助監督についた木下亮は、「よく聞き間違えた」と笑う。「監督の一言をみなまで聞かずに走り出すのが助監督だったけど、ちっちゃくて優しい声だったし、なまりもあったから。サングラスかけると目の表情も分からない。『イタ』と言うから板を持ってきたら、監督が欲しかったのは『枝』だったり」
 優しい人だった。「強行撮影が続いたりすると、『疲れただろう』と声を掛けてくれる。下の者に気を使う優しさが、久松監督ほどの人はいなかった。愛すべき好人物で、その人柄に人が集まった」と懐かしそうだ。「雨情」(一九五七)の地方ロケ撮影中に、早朝のシーンを収めたフィルムの入った缶を、酔ったスタッフの一人が開けてしまい、苦労が水の泡になった。当然撮り直し。「それでも誰を責めるでもなく、一言も小言がない。監督のみんなをかばう気持ちで、その場が収まった」
 無口だが照れ屋で寂しがり屋。ロケ先での一夜、チーフ助監督だった木下が、監督に打ち合わせをしようと部屋に呼ばれた。
「といっても要点だけ話したら、あとは話すことがない。監督はあの体で酒を飲まない。水ようかんを切って勧めてくれる。話し相手が欲しいんだな。それが分かるから『どうも』なんつってお相伴にあずかるけど、こっちは本当は後輩と飲みに行きたい。話題を探しても続かないし、困っちゃった。ラブシーンが照れ臭いのか、自分で演出したがらない。主役のいない場面なんか『オマエ、やっとけ』って、助監督に代役させる。でも、それが勉強になったな」
 それでいて、せっかち。木下は「監督の小声の指示に慣れなくて、ウロウロしてる俳優がいると、自分で『こっち』って、ソデを引っ張ってったりね」と思い出した。「それがイヤだっていう人もいましたよ」と香川さんは笑う。
 その演出を、香川さんは「細かいことはおっしゃらない方だった。怒ったりもなさらない。怖くはなかったです」と語る。監督自身は、「俳優は下手でもその人でなくてはできないというものを自然に引き出すことが大切」(一九五五年七月一八日付東京新聞)と語っている。しかし、木下によれば「理屈で演技する俳優はダメ。怒ると、カミナリを落とすのではなく、だんだん真っ赤になっていく」。
「女の暦」「女囚と共に」など、オールスター出演の大作を委ねられたのは、信頼の厚さを物語る。「巨匠という感じではなかったけれど、俳優さんもスタッフも、久松監督の人柄にひかれて集まったんじゃないかな」
 成瀬巳喜男監督に心酔して、「稲妻」のセットに椅子を持ち込み、片隅で何日も見学したこともあった。人柄も作風も地味だが、その真摯しんしな姿勢は、作品にも表れている。

衣笠貞之助
大御所連に座り方も教わる

 一九五四年、香川さんは娯楽時代劇「鉄火奉行」に出演している。監督の衣笠貞之助は、日本映画草創期から戦後まで長く一線で活躍した巨匠だ。経歴は多才にして多彩。
 サイレント期に女形としてスターになるが、女優が台頭して監督に転進。娯楽活劇で名を馳せたものの、それに飽き足らず川端康成ら新感覚派の作家とともに芸術性を追求した「純粋映画」を志し、前衛映画「狂った一頁」(一九二六年)や、「十字路」(一九二八年)を完成させる。
 松竹から長谷川一夫(当時林長二郎)を預けられ、一九二七年の「お嬢吉三」を皮切りに次々とはまり役を連発してスターに押し上げた。一九五三年、大映初のカラー映画を任されたのも衣笠監督。脚本から公開まで約二カ月と大慌てで作った「地獄門」で、カンヌ国際映画祭グランプリ。一九六六年、七十歳で日ソ合作「小さい逃亡者」を撮り、モスクワ映画祭児童映画部門金賞を受賞した。
「鉄火奉行」は、カンヌグランプリ翌年の作品である。「狂った一頁」のような表現主義的な感覚はなく、娯楽に徹したプログラムピクチャー。常連の長谷川に加え、無声映画から活躍した時代劇の大スター、大河内傳次郎も出演という豪華な布陣だ。主人公が親のぬれぎぬを晴らすべく大活躍、という肩の凝らない物語。香川さんは、長谷川に思いを寄せる与力の娘という役。
「監督さんは、京都風のやわらかい話し方をされる方で、マメに動かれる方でしたね。女性の動きをよくご存じだから、とても親切に教えてくださって、全然怖く感じなかった。映画の内容も娯楽的で、雰囲気もよくて楽しかったです」
 女形出身の衣笠監督、時には自ら演じてみせた。時代劇はまだ不慣れだった香川さん。大御所連が、手取り足取りで教えてくれた。
「随分と勉強になりました。長谷川さんも教えてくださいましたし。ちょっとした手の置き方とか、座り方とか。立ち方も、慣れないとただ突っ立っちゃうでしょう。ヒザをちょっとこう、曲げるとか、コツがあるんですね。形の美しさ。汚れれば汚れるだけいいみたいな衣装と、汚しちゃいけない着物を着た時と、気持ちも変わってきます。帯があるから寄りかかれないとか、衣装を大切にすることも教えられました」
 大映京都で衣笠監督と組んだ録音の大谷巌は「女優さんにはうるさかった。後れ毛を自分でこしらえたりして、細かかったな。歌舞伎の伝統的なお芝居を、基本にしていた」と話す。
 ところで大河内は、三十代から始めた京都・小倉山での庭園造りに熱中し、出演料のほとんどをつぎ込み、死の間際まで手を入れ続けた。香川さんは、撮影中にここを訪れた。「雑誌の取材でした。大河内さんが案内してくださったんです。まだ造ってらっしゃる途中で、見せていただいて。あまりお話はしなかったけれど、包容力のある優しい方でした」
 広大な庭園は現在「大河内山荘」として開放され、観光名所になっている。

大曾根辰保
穏やかな松竹京都の大黒柱

 大曾根辰保監督(一九五五年に、辰夫から辰保に改名)は一九三五年、松竹下加茂撮影所で監督となり、娯楽時代劇の腕を磨いた。一九五〇年代には、松竹京都の大黒柱として活躍。東の大船で御三家と称された小津安二郎、木下恵介、渋谷実の現代劇と並び、西の京都で時代劇を量産して松竹を支えていた。
 香川さんは、一九五五年の「獄門帳」に出演。香川さんにとって、初めて松竹京都を訪れた作品でもあった。「監督さんは、とても穏やかな方でした。正統派というんでしょうか。どっしりとして、堂々とした大きいものを持っていらっしゃる、そういう感じを受けました」
 香川さんが感じたとおり、当時は別格の巨匠。後に松竹大船で監督となった森崎東は、京都大在学中から、大曾根監督が中心の一人として発行していた雑誌「時代映画」の編集を手伝って大曾根監督と接し、松竹に入社してからは助監督に付いた。「目ん玉がギョロっとして、色黒。太くて低いガラガラ声の『静かに』という一言で、現場がシーンと静まり返る。現場では腹をボーンとたたくのが十八番でね、気持ちを入れてやれ、というのを口に出さず伝えたかったんでしょう。みんなで楽しくというのと全く違ってました」
 森崎は、「人格者だった」と続けた。松竹大船には、痛烈な皮肉で助監督を痛めつける監督が多かった。「それは教育だったが意地悪でもあった。監督という立場なら許されたことだったけれど、大曾根監督はそんな気ぶりもない。大曾根組では、嫌なことを一言も聞かないですむんだ、と思いました」と振り返る。
 大作を任されることが多かったが、「獄門帳」は大曾根作品の中でも異色作。歌舞伎でも上演された沙羅双樹の時代小説が原作だ。主君(岡田英次)を殺した若侍(鶴田浩二)が死罪を言い渡された事件の真相が、無実を信じるろう奉行(笠智衆)の調べで次第に明らかになっていく。香川さんは主君の妻。虐待されて耐え切れずに夫を殺害、若侍はそれをかばって牢につながれたのだ。回想で経緯を明らかにしていくサスペンス風の構成で、娯楽一辺倒とは一味違う。大曾根監督は「人と人との信義、真心の美しさを浮彫にして、人間肯定の快さをしみじみと湧き起こさせるように描きたい」と語っている。
 香川さんは「内容も優れているし、好きな作品の一つです」と思い返したが、初共演の鶴田には戸惑った。
「初めは無愛想で怖かった。私も若いころから人とコミュニケーションをとるのが苦手で、どうしようかと思いました。でも、ちょっとしたきっかけで親しくなったら、ほんとに親切ないい方で。お芝居に関しても熱心でした。後で鶴田さんの娘さん(女優の鶴田さやか)に、『あなたのお父さん怖かったわよ』って言ったら、『皆さんそうおっしゃいます』って」
 大曾根監督は才能発掘にも力を発揮し、坂東好太郎や高田浩吉を育て上げた。鶴田も一九四八年、監督の口利きで松竹に入社、人気スターとなってからも、大曾根監督を「育ての親」と慕っていた。

三味線と踊りを猛特訓

 一九五一年、松竹が日本初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」を成功させたものの、その後は画面の大型化が先行し、日本映画界のカラー化の歩みは遅かった。香川さんにとって初めてのカラー作品は、一九五六年、松竹京都で大曾根監督が手掛けた「流転」だった。大曾根監督も主演の高田浩吉も、カラーは初挑戦。
 芸の意地から歌舞伎の花形役者と争い、江戸を追われて流浪の身となった三味線の名手(高田)と、香川さん演じる天才的な踊り子、お秋との数奇な運命を描く。井上靖の小説が原作だ。
 当時のカラーフィルムは感度が低く、白黒フィルムの三倍の強さの照明が必要とされた。ライトの熱はすさまじかった。松竹京都の助監督だった梅津明治郎は、「クーラーがあったステージは一つだけ」と思い返すが、まさに灼熱しゃくねつ地獄だ。白黒とは違うメークが必要となり、化粧品会社の技術者がセットに常駐して細かく手ほどき。メーク直しのために、撮影がよく中断したという。当時のクレジットにも名前が残っている。「女優さんは、昼食にうどん禁止。湯気でメークがムラになるから」と梅津は笑いながら思い出した。
 高田は美しさを保つため、「美ぼうタイム」と称して夜八時以降の撮影はしないのが慣例だった。「さすが大スター」と香川さんを驚かせたが、「流転」は公開日が決まっていて撮影日数が二十四日しかなかった。白黒よりも手間がかかるから、高田は時に「美ぼうタイム」返上で夜間も撮影。おかげで目が充血し、後に「天然色の大写しとなるとの赤さがありありとスクリーンに現われ、ファンの方々からも数多くの御注意の御手紙をいただきました」(一九五七年四月三〇日付読売新聞)と振り返っている。
 しかし、香川さんはカラーの大変さを「あまり覚えてない」という。別のことで手いっぱいだったのだ。お秋は踊りの天才。三味線も弾きこなす。ところが香川さん、どちらも未経験。「手が全部見えてごまかしがきかない」という三味線で、「勧進帳」でも一番難しいくだりを弾かねばならない。
「母が長唄をやっていて、子供のころから床の間にいつも、お三味線が置いてあったんです。でも私は洋楽の方が好きで、弾くのはピアノ。踊りはバレエ。ああ、やっておけばよかったと思いました、その時」
 しかし後の祭り。準備は一週間。猛特訓である。
「当時の京都ホテルの日本間で、お師匠さんについてお三味線のけいこ。踊りは撮影所で、楳茂都うめもと梅治さんに指導していただいた。何時間も座って三味線、立って踊り。もう下半身が痛くて、ホテルの階段を手すりにつかまって上がりました。必死でした」
 苦労もあったが、「この映画はとっても好きだった」と香川さん。「それまで受け身の役が多かったんですが、お秋はとても積極的でお師匠さんのために尽くす、そのキャラクターがよかった」。師匠のライバルの歌舞伎役者に小気味よくタンカを切る場面など、生きのいい香川さんを見ることができる。
 松竹京都の大作を一手に引き受けた大曾根監督。厳しい条件のこの作品を任されたのも、信頼の厚さゆえ。カラーフィルムの特徴を研究しながら、白黒映画以上のスピードで撮影を進めたという。この後も松竹京都で撮り続けるが、日本映画界は徐々にかげりが見え始め、一九六〇年代になると松竹も不振にあえぐようになる。森崎は大曾根監督が「何をやれば当たるのか、誰も分からない。みんな右顧左眄うこさべんしている」とつぶやいたのを覚えている。森崎は「会社の存続をかけた大作を背負う重みをヒシヒシと感じていたに違いない。監督の重圧を理解した」と思い返した。京都撮影所は一九六五年に閉鎖された。大曾根監督はその最後を見ることなく、一九六三年に生涯を終えた。

清水 宏
実は子供は得意じゃなかった

 香川さんといえば、清楚せいそな先生役を思い浮かべる人も多いのでは? その代表作の一つが「しいのみ学園」だろう。清水宏監督の一九五五年の作品だ。
 清水監督は松竹に入り、一九二四年、二十一歳で監督デビュー。「風の中の子供」「みかへりの塔」など、子供映画の名手として名を馳せた。戦後松竹を辞めると、戦災孤児たちを引き取って、伊豆で共同生活を送るようになる。その子供たちを起用した一九四八年の「蜂の巣の子供達」も、高い評価を受けた。「こどもたちの演技が、私がへいぜい考えている映画の演技というものに、非常にちかいものをもち、映画製作の意欲を満足させてくれる」「大人の演技にはうそがある。しかし、子供にはそれがない。自然である」(『映畫読本 清水宏』)と清水監督が書いている。
「しいのみ学園」は香川さんの叔父、永島一朗がプロデューサーとなり、新東宝で製作した。山本(後に昇地と改名)三郎が、一九五四年に私財を投じて福岡市に作った、小児まひの子供たちの学校がモデル。
 長男次男とも小児まひと診断された、大学教授の山本(宇野重吉)と妻(花井蘭子)は、同じ病気の子供たちのために「しいのみ学園」を設立する。香川さんは、小児まひの妹を学園に預け、教壇にも立つ渥美かよ子を演じた。小児まひへのむごい偏見と、山本たちの献身が描かれ、障害児教育の理解を訴えている。親に見捨てられ学園に預けられた子供が父親を慕いながら死んでいく場面など、胸に迫る。「つらい映画です。見ると泣きっぱなし。子供たちがほんとによくやってね。さすが清水監督、ご指導が素晴らしいなあと思って拝見しました」と香川さん。
 山本の長男、有道を演じたのは、前進座劇団の河原崎長十郎の三男、河原崎建三だった。当時十一歳。配役が決まって一カ月ほど、世田谷にあった療養所を観察し、リハーサル。伊豆長岡にセットで学園を建て、合宿状態で撮影した。
「有道の気持ちはよく分かった」と話す。「ぼくも(前進座がレッドパージに遭い)共産党の子、と学校でいじめられたことがあったから。でも、監督はリハーサルには来ないし、現場ではかなり離れた所に座って、何も言わなかったなあ」と思い出す。清水監督、演出には大らかだったようで、助監督だった石井輝男はこんなふうに回想している。「自分でアクションもつけないし、自分で『ヨーイ、スタート』も言わない。ダビングも編集もしないんです」(『映畫読本 清水宏』)。香川さんも「特別なことはなかったようですけど」と振り返った。
 ただ助監督だった深町幸男は、こんな光景を覚えている。偏見のために、学校で泥棒だと言いがかりをつけられた有道が、帰宅してすねる場面。
「監督は『ぼうず、そこの壁に〝の〟の字を書け』と言うんだ。その時は何のことかと思ったけど、後でラッシュを見ると、全身を写したそのカットは本当に悲しそうだった」。窓辺にもたれ、悔しさと寂しさで行き場のない気持ちが伝わってくる。巧みに子供の純粋さを引き出した清水監督だった。
「あんまり子供は得意じゃなかった」というのは、実は香川さんの方だった。「先生役は多かったのですが、子供たちと仲良くなることが、私にはとても大きな課題でした。嫌いじゃないんですが、どう接していいか分からなかった。ヘタにお世辞使ったって見抜かれてしまう。なるべく触れ合う機会を多くして、仲良くなるようにしました。時には食べ物でつってみたり。子供好きの人が一緒になって遊んでいるのを見て、ああいうふうにできたらいいなあって。自分に子供ができてからは、楽になりましたけれど」
 当時の記事には、和気あいあいとした撮影現場の様子が伝えられているが、これも努力のたまものだったのだ。

意外に寒かった丸亀ロケ

 香川さんは、一九五五年の「しいのみ学園」と、一九五六年「何故彼女等はそうなったか」と二本の清水監督の作品に出演したが、両方とも、撮影は撮影所を離れたロケが中心だった。作為を嫌った清水監督は、子供を愛したのと同様に、ロケが大好きだった。
「しいのみ学園」は、伊豆長岡に、学園のセットを建てて撮影した。深町は、撮影が終わると子役を連れて、主題歌を歌いながら伊豆長岡の温泉街を歩いて宿に帰ったのどかな風景を思い出す。「監督は、『スタジオには空気がない。人間が生活している空気がない。ロケは作り物でない自然がある』と言っていました」
 一方、「何故彼女等はそうなったか」は、四国・丸亀での撮影。一九五五年暮れから翌年一月にかけて行われた。
「随分と長い間、撮影しました。四国だから暖かいと思って行ったのに、すごく寒いのでびっくりしたことを覚えています」と香川さんは思い出す。なるほど、吐く息が白く映っている。地方の城下町にある非行少女の収容施設に集まった少女たちの群像劇。香川さんは、ここでも先生役だった。「『しいのみ学園』は子供たち相手、『何故彼女等は』は女の子たちで、大勢とのお芝居で。勉強になりました」
 清水監督、ワンマンぶりでも有名だった。「おっかない監督でねえ。あんな監督はホントにいないね人間ってあんなにエバれるもんかなあと思うくらいだった」(『人は大切なことも忘れてしまうから 松竹大船撮影所物語』)。「君の名は」の大監督、大庭秀雄が新人時代に助監督に付いた時のことを、こう語っている。
 あるいは、助監督だった石井輝男の回想。「何故彼女等は」の撮影中、新人女優ががけから飛び降りる際に、裾を気にしているのを注意した。女優に気を遣って無理だという清水監督に、石井は「役者ならやるべきだ」と言い返した。すると清水監督、「途端に怒り出して、腹をボコボコに殴られた」(『映畫読本 清水宏』)。
 現場ではそんな様子は見せないから、香川さんは「監督さんに殴られたら大変ね、体格がいい方で、力がありそうでしたから」と驚いた。俳優には「怒ったりはなさらなかった。やりにくいことはなかったです」と振り返る。
 しかし一方で人情家の一面も持ち合わせ、「清水オヤジ」と慕われた。
 深町は新東宝倒産後の一九六三年、NHKに入局し、「ドブネズミ色の街」など、たて続けに秀作ドラマを撮った。ある日、風呂に入っていると電話が鳴った。同僚だと思って出ると、「深町くんか」と言ったのは清水監督だった。直立不動で受話器を握る深町に、清水監督は「見たよ、良かったよ」と、作品をほめてくれた。「ほとんど話したこともなかったのに、気にかけて電話までしてくれた」と、今でも感激を忘れない。
「しいのみ学園」で主演した河原崎は、「今になると、ぼくを起用したのは清水監督からおやじ(前進座の河原崎長十郎)への応援の意味もあったと思う」と推察した。「出演料が破格でした。清水監督はおやじと小学校の同級生で、当時、前進座はレッドパージのあおりで仕事がなかったから。こっちは何も知らないで、オレも売れたもんだなんて思ってましたけど」。子役の出演料で、少しでも劇団を助けようとしたのではないかというのだ。作品には、この優しさと情があふれている。
 清水監督は一九六〇年代に入って映画界が斜陽化し、映画が撮りにくくなると隠棲、悠々自適な生活を送った。ダンディーな小津安二郎とは対極にあったが、生涯親友だった。
豊田四郎
取っ組み合いの大ゲンカ

 長い女優生活の中で、香川さんが「あんまりうまくいかなかった」と苦い顔で思い出す作品が、いくつかある。一九五六年の豊田四郎監督の「猫と庄造と二人のをんな」は、その一本だ。それまでの清純派のイメージを覆す体当たり演技で話題となったが、香川さん自身は「皆さん面白いって言ってくださいますけど、自分では成功とはいえません。あんまり見たくない」と、今でも残念そう。
 豊田監督は、一九二九年、二十三歳で監督デビュー。女の機微を描いた文芸映画に、数々の傑作を残した。織田作之助の小説を、森繁久彌と淡島千景主演で映画化した一九五五年の「夫婦善哉」は代表作。これに続く「猫と庄造と二人のをんな」も、「たいへん大好きな、思い出多い作品」(「キネマ旬報」一九六〇年一二月増刊号)と振り返っている。谷崎潤一郎の小説が原作だが「夫婦善哉」の成功で自信を得て、「原作からウンととび出して、オリジナルなものを出してやろう時代も現代に移し、原作にとらわれず、大阪人の人間性を今日の地点で出して見ようと思った」(同)と張り切った。
 猫ばかり可愛がって甲斐かい性のない庄造(森繁)をめぐる、香川さん演じる妻の福子と先妻の品子(山田五十鈴)との強烈なさや当ての中に、人間の愛欲をあぶりだす喜劇。福子は自由奔放で、過去に二度も駆け落ちしたことがあるつわものだ。香川さんはびっくりした。
「お話を頂いた時、なぜ私がこの役をって、豊田監督に聞きに行ったんです。そうしたら、ぴったりの人がやったら面白くない、あなたがやるから面白い、やりなさいっておっしゃった。それじゃあ挑戦してみますってお引き受けしたんですが。福子は自分の気持ちのままに生きてる人、男の人を手玉にとって。どうやっていいか分からなかった。たばこを吸う練習をして、当時流行のマンボを覚えたりしました」
 言葉遣いも乱暴で、あられもないかっこうではしゃぎ回る。時にエロチック。庄造と海水浴に行く場面では、水着になり浜辺で足にキスされたり。
「撮影は、海岸のロケから始まったと思います。真夏のカンカン照りで、海水浴のお客さんが一番多い日曜日。目がクラクラしてボーッとしちゃって。白黒で分からないですが、真っ赤な水着を選んで着ていったんです。でも、無理してるのが分かる。恥ずかしくて、半分やけくそ。本人は面白がる余裕はまったくなくて、結局、撮影の最後まで精いっぱいで終わってしまいました」
 圧巻は、福子と品子の取っ組み合いの大ゲンカだ。あまり段取りを決めずに、本番に臨んだ。山田はカサで殴りかかる福子の攻撃に備えて、肩などに綿を入れていた。ところが――。
「私、それを知らなくて、めったやたらにたたいたら、綿を入れてない所に当たってしまった。山田さんが本当に腹が立っちゃったって、私の髪の毛を引っ張ってね。本気でやりました」。幸い、一回でOK。「監督さん、ニコニコして楽しそうに見てらした。ああいうふうな相手に対する憎しみは、あんまり持ったことがなくて、奮い立たせるのが大変でした。悩んでる暇もなかった、その日その日夢中で。溝口健二監督とは違った意味で。唯一うれしかったのは、原作者の谷崎さんが、私の関西弁をほめてくださったこと」
 苦笑いする香川さんだが、当時は「会心の当たり役」と評判になった。

一度結婚した方がいい

 豊田監督の厳しい演技指導は有名だった。香川さんも「猫と庄造と二人のをんな」と一九六二年「明日ある限り」で、しぼられた。香川さんは「できないんだから当たり前」と言うが、「監督さんの中では、一番怖かったんじゃないかしら。あれだけの名作を作られた巨匠ですから、厳しさを感じました」と思い出す。
 東宝に入社したばかりの木下亮が、最初に助監督に付いたのが「猫と庄造と二人のをんな」だった。
「監督は椅子に座って芝居を見ながら、役者に合わせて百面相してるんだ。監督の顔見てる方が面白かった。それほど入り込んでるんだね。演出はネチッこい、関西弁だしね。心の陰をうまく引き出して味が出る、独特だった。特に、女性の芝居にはうるさかった。香川さんも、随分しごかれたと思う。撮影の後も言われたんじゃないかな、〝課外授業〟が多かったから。香川さんの役が生きるかどうかで、映画が違ってくる。それらしい女優さんはいくらでもいるけど、それじゃあ意味ないってことだろうね。成功したと思います」
「明日ある限り」では、香川さんは初めて老け役を演じた。「その年の夏、ベルリン国際映画祭に参加して、帰りに旅行している時に呼び戻されたんです。これからスペインに行こうかっていう時。それきりスペインには行ってないんですが。帰国して軽井沢で少しの間休ませてもらって、仕事にかかりました」
 壺井栄の小説を映画化。戦中から戦後にかけて、目が不自由な子供を育てる、なつ子の一代記である。香川さんは、二十代から五十代までを演じ分けねばならなかった。夫に佐野周二、成人した子供たちに、池内淳子、山崎努、星由里子が配された。「(年齢が大して違わない)この方たちのお母さんになるのかと、驚きました。母がちょうど五十代だったから、参考にして」
 しかし、戦地に取られた夫を待ちわび、三人の子供を苦労しながら育てる女の情感が、なかなか出せない。「夫がやっと帰ってきた場面でした。ラブシーンっていうほどではなかったんですが、久しぶりに会った夫を迎える感じが出ないって、ずいぶんテストしました。私は色気がないし、監督さんは、もっとこういうふうにしてとか細かくおっしゃったんですが、うまくいかなくて」
 ただ、その時の豊田監督の言葉には、後々感銘を受けた。
「あなたはね、一度結婚して、家庭生活とかいろいろなことを体験するといいってお話しされたんです。私はその時三十歳に近くて、みんなになぜ結婚しないのかって言われて、したいと思う人がいないんじゃないのって反発してた時期でした。でも、間もなく結婚して、仕事を休んで米国に行って子育てをして、まったく新しい体験をしたんです。仕事を離れて、違う世界に触れたことで、視野が広がるのを感じました。三年後に復帰した時、監督さんがおっしゃったとおりだったって気付いたんです。急に亡くなられてお礼もできませんでしたが」
「明日ある限り」では、運命的な出会いも果たした。役作りのため、香川さんは盲学校の遠足について飯能まで見学に出かけた。この時取材に来ていた読売新聞の記者が、後の夫となる。もちろん、この時は思いも寄らなかった。豊田監督は一九七七年一一月、男優の結婚披露宴の席上倒れ、息を引きとった。
吉村公三郎
いつもご機嫌なハムさん

 溝口健二監督が最後まで執着していた「大阪物語」を撮ったのは、吉村公三郎監督だった。亡くなる十日ほど前に、病床の溝口監督から「君これ、やってくれないか」と、出来上がったばかりの脚本を渡された。「私は溝口監督には何かとかわいがっていただいた」と、吉村監督は自著『わが映画 黄金時代』に書いている。
 吉村監督は一九一一年、滋賀県生まれ。松竹に入社し、ホームドラマの数々を手がけて松竹大船調の後継者と目される。一九三九年の「暖流」で一線に躍り出た。戦後は脚本の新藤兼人と組んで「安城家の舞踏会」、「わが生涯のかがやける日」など秀作を次々と発表する。
 一九五〇年、会社の束縛を逃れて自由に撮りたいと、新藤と松竹を飛び出して独立プロ「近代映画協会」を設立。「夜明け前」「足摺岬あしずりみさき」など意欲的な作品を公開するが経営は厳しく、大手映画会社と提携しながら製作を続けていた。吉村監督は一九五六年に大映と専属契約を結び、一九五七年は三作を公開。「大阪物語」はそんな時期の一本である。
 中村鴈治郎演じる、極貧から金貸しに成り上がったドケチ男と一家の悲喜劇。井原西鶴の「日本永代蔵」などを基に、溝口監督と依田義賢が脚色。香川さんは、番頭の市川雷蔵と恋仲になる、鴈治郎の娘役である。溝口監督で映画化されると聞き、出演も決まっていた。「溝口監督と準備には入ってたんですよ。衣装合わせまでいったかしらね。でも、ご病気になられて。吉村監督は溝口監督とは全然違ってました」
 溝口も吉村も、女性を描く名手。しかし、役者を追い込む溝口演出とは対極的な吉村監督。多弁で陽気、広島市長も務めた父親の影響か、読書家にして博識。「ハムさん」の愛称で親しまれ、撮影中は四方山話よもやまばなしをしながら楽しく撮影を進めていたようである。
「溝口監督はあんまりお話ししないけど、吉村監督はいろんな雑談を入れながらお仕事なさるから、雰囲気はすごく和やかな感じ。とてもお元気で、まめに動き回って楽しそうにお仕事なさる方でした。いろんなことよく知ってらっしゃるんですね。いつもご機嫌がいい。芝居がうまくいくと、『うまいね』とほめてくださるんですよ。うれしかったですね」
 出来上がった作品も、溝口作品の重厚感とは違い、むしろ軽快でユーモラスな味わいが強い。香川さんも「溝口監督が撮られたら、随分違っていたでしょうね」と想像する。
 吉村監督は「西鶴物は前から一度撮ってみたいと思っていた」(一九五六年一二月二〇日付東京新聞)と意気込んだが、「西鶴と体質的な違いを持っている」といった批評も受けた。それでも「(西鶴作品に)忠実な映画を撮ろうとすれば、自然に喜劇風になるのである。もっと重々しいものだと思われているフシがあって、私の撮ったものには違和感があったようだ」(『わが映画 黄金時代』)と反論している。

シナをつくって芸者のお手本

 香川さんは一九五七年、「大阪物語」の他にもう一本、吉村公三郎監督作品に出演した。島田清次郎の大正時代のベストセラー小説を、新藤兼人が脚色した「地上」である。「暖流」や「夜の河」などで女性描写に定評のあった吉村監督だが、社会の矛盾や不平等を批判する社会派の一面もあった。「大阪物語」や「地上」もその系譜だろう。
 大正時代の金沢を舞台にした、貧乏学生と裕福な工場主の娘の悲劇的メロドラマである。「くちづけ」で注目された、川口浩と野添ひとみが主演。吉村監督は、中学時代の恋の思い出を、映画に投影した。野添に黄色いへこ帯を締めさせたり、川口が去っていく汽車の音を線路に耳をあてて聞いているのも、自身の実体験。「一番好んでいる」(『わが映画 黄金時代』)と述懐している。
 さて香川さんは、困窮した農家から金沢の芸者屋に売られ、川口にひそかな思いを寄せる娘、冬子を演じた。田舎娘が芸者として仕込まれ、やがて企業家に囲われていく、女の三態を演じ分けた。「あまりやったことがない役で、芸者らしくなくて。でも、(冬子は)仕方なくああなっていく。根っからの芸者とは違う。だから私が選ばれたのかなとも思いますけど」
 香川さんとは反対に、吉村監督には十八番。「吉村監督がセット撮影を前に、衣装合わせにスタジオにやってきた香川をつかまえて、芸者考現学を二時間にわたって特別講義したうえで『実地にやってみなさい』と、芸者衣装を自宅に持ち帰らせた」と、一九五七年九月三〇日付の毎日新聞の記事にある。現場でも手取り足取り教えてくれた。
 映画の中ほどに、こんな場面がある。佐分利信演じる金持ちの企業家が、冬子を部屋に呼ぶ。冬子は「こんばんは」と声を掛け、ふすまを開けて入ってくる。何気ない一場面で、香川さんも自然に演じているが、実は細やかな〝演技指導〟のたまものだった。「監督さんが、ご自分でやってくださるんです。こうふすまを開けてね、こうお辞儀してこんばんはって、その言い方まで。そのとおりやってればよかったから、すごく楽だった。溝口健二監督が、それぐらい知ってなきゃいけないというのと正反対」
 健啖けんたん家で丸々とした体つきの吉村監督が、シナをつくって芸者の見本を見せたのだ。香川さんは楽しそうに思い返した。香川さんの好演に吉村監督は「『やはり先生がいいからな』とご自慢の体だった」(同日付毎日新聞)。
 理論家だった吉村監督、女優や演技についても数多くの言葉を残した。いわく「個性を最も魅力的に表現するときに必然的に生まれるのが演技」「美女は表情が乏しい。演技力がありながらそれを認めてもらえない」
「美人女優と言われてる人は、笑い顔と泣き顔が変わらないと。つまりお人形みたいじゃだめだという意味だと思うんです」
 香川さんを「美女型ですが、理解力がすばらしい」とたたえている(一九五一年八月一○日付東京新聞)。
川島雄三
すごく頭の切れる方

「幕末太陽伝」(一九五七年)、「しとやかな獣」(一九六二年)などで鬼才の名をほしいままにしながら、四十五歳で早世した川島雄三監督の作品にも、香川さんは一本だけ出演している。一九五八年の「女であること」。
 弁護士佐山の妻市子、佐山の家に寄宿する、佐山が担当する受刑者の娘妙子と、市子の親友の娘さかえの、三人の女たちが織りなす人間模様を描く。原作は川端康成の小説だ。妙子が香川さん。父親の身を案じ、恋人がいるものの引け目を感じて素直になれない、內向的な女性だ。久我美子が演じた、奔放なさかえと対照的な役柄だった。香川さんの叔父で東宝のプロデューサーだった永島一朗が川島監督と親しく、その縁で役が回ってきたようだ。
「あれは暗い暗い役でね」と香川さん。明るく清楚な役が多かっただけに、いつもとは少し勝手が違ったようだ。しかし、弁護士夫婦役は森雅之と原節子。「それがうれしくって」。二人の大ファンの香川さん、何度目かの共演を喜んだ。
 川島監督は一九三八年から、戦争をはさんで松竹に在籍したが、一九五四年、製作を再開した日活に移籍。傑作「幕末太陽伝」を撮った翌年の一九五七年、東宝傘下の東京映画に引き抜かれた。この新天地での第一作が「女であること」だった。「ダイジェストで終った感じの作品で、申しわけないものです」(『サヨナラだけが人生だ 映画監督川島雄三の一生』)と、川島監督の自己評価は高くない。しかし、才気はうかがえる。
 映画の冒頭、自転車に乗った女性の後ろ姿をテンポ良くつなぐ導入部。原と森が口論する場面では、二人の居場所がカットごとに変わるのに、セリフは途切れずつながっていく。この映画で初めて川島監督の助監督についた秦幸三郎が「さすが」と感嘆した編集の妙。なぜか必ずトイレの場面を挿入したが、この作品でも昔の恋人に再会した市子が、動揺を抑えようと駆け込んでいく。
 知性とユーモアがあり才能豊か。思いやりもあり、スタッフを大切にした。酒豪で撮影が終わると、スタッフを必ず飲みに誘う。川島組は、人気があった。香川さんは「よく叔父の所にいらして、飲んでらした。すごく頭の切れる方でした。私は知らないことばかりだから、ただただ、感心して」と思い出す。
 秦は「最初は怖い監督だと思ってましたが、打ち解けると一緒にいるのが楽しい日々でした。小声でよけいなことはしゃべらず、両手を使って静かに指導されて。優しさを感じました。冗談を交えた、明るく楽しい撮影現場でした。その日の撮影が終わると、私の顔を見てニッコリなさる。銀座、渋谷、六本木、時には新宿。よく飲みに行きました」と回想する。
 後に助監督に付いた木下亮も「天才肌で、失敗作でも何かしら痕跡を残した。カメラを次にどこに置くのか分からない。トンでもないアングルから『こちらからまいります』と言ってきたり。毎日が勉強になった。飲むほどに言葉が丁寧になってね。『召し上がってくださいませ』なんて。賛美歌を歌いながら、並んで立小便したこともあったな。酔いつぶれた監督を、かついで送り届けたもんです」。
 一方で、下北半島出身を隠し、手足のまひが進行する病におびえてもいた。寂しがり屋で屈折も抱えていた。もてたのも無理はない。「女性には優しく、女優さんには優しくね、とよく言われました」(秦)、「女性はほっとけない。何かしてあげたい、と思わせるんだろうね」(木下)。香川さんも「おしゃれで、魅力的な方でした。すてきでしたよ」とほほ笑んだ。川島監督を語るとき、誰もが懐かしそうな顔をした。
 川島監督は一九六三年、酔って帰った自宅で、読みかけの雑誌を手にしたまま亡くなった。心臓衰弱だった。川島夫人から最初に連絡を受けたのが永島だったというのも、香川さんとの縁かもしれない。
山本薩夫
武芸万能の奥方役

 一九五〇年代、大手映画会社の制約を嫌った映画人が集まった独立プロが、社会派の力作を次々に発表していた。俳優にも賛同者はいたものの、映画会社と専属契約を結んでいると、他社の作品に出演するのは一大事。香川さんはフリーだったから、独立プロの作品にも積極的にかかわることができた。
 山本薩夫監督は、独立プロ運動の先駆者の一人。香川さんは、三作品に出演した。最初は、一九五八年の「赤い陣羽織」。山本監督とは叔父のプロデューサー、永島一朗を通じて面識があった。
「そんなにしょっちゅうお会いしたわけではありませんでしたが、優しい方で。そういったら失礼なんですけれど、親類のおじさんみたいな感じでお話ししていました。ですから初めての出演でも、あんまり緊張しませんでした」
 人当たりは柔らかでも、映画作りの姿勢は激しかった。東宝争議を指導して会社を追われると、日本映画演劇労働組合の協力で一九五〇年に「暴力の街」を撮る。その後、新星映画社を起こして一九五二年「箱根風雲録」「真空地帯」、一九五四年「太陽のない街」など反戦平和を訴え、社会矛盾を告発する作品を次々と発表する。同社が経営破綻はたんして解散すると、一九五五年、山本プロを旗揚げ。資金は常に乏しく、配給にも苦労する逆境と戦い、映画を撮り続けた。
「赤い陣羽織」は、そんな時期に、松竹の大谷竹次郎社長から、「(歌舞伎俳優の)中村勘三郎を使って何かやってくれないか」と持ちかけられた。大手映画会社は、契約俳優の貸し出しを渋ったりしたものの、自社作品だけでは供給が追いつかず、独立プロに製作を依頼することもあったのだ。木下順二の戯曲が原作だ。赤い陣羽織を着た代官が、水車番の妻に横恋慕し、しっかり者の奥方に諭される風刺喜劇。山本監督は「赤い陣羽織に権力を象徴させ、その陣羽織に対する庶民の抵抗を笑いと色気の中で表現したいと思った」(「キネマ旬報」一九六〇年一二月増刊号)と語っている。
 奥方役が香川さん。武芸百般に通じ、代官は頭が上がらない。「楽しかったです、あの役。お茶や弓まで練習して。(映画のために習ったことを)全部覚えていたら、何でもできそうですけどね。試験と同じで一夜づけだから、すぐ忘れてしまうんですが」と笑う香川さんだが、この映画では堂々と弓を引いている。
 撮影は夏の盛り、東京・調布にあった小さなスタジオだった。カラー作品で強力な照明が必要だったが、スタジオには冷房がなく気温は三〇度を優に超えた。時代劇だから厚手の衣装を着込み、カツラも着けねばならない。
「あんまり暑いので、午後三時ごろになると一休みして、スタジオのドアを全部開けて空気を入れ替えました。あんなこと初めて。周りが畑で、少しは風が入りました。勘三郎さんは汗をだらだら流して。私はあんまり顔に汗をかかないので、勘三郎さんが不思議がっていました」
 映画が初めての勘三郎は、演技の仕方に戸惑ったり、乗れない馬に乗ったりと苦労もしたが、作品には満足したようだ。山本監督も「仕事そのものは、非常に楽しくできた映画であった」(『私の映画人生』)と振り返っている。

子持ちの教師役と格闘

 香川さんの二作目の山本監督作品は、一九五九年の「人間の壁」だった。今度は山本監督のプロダクション、山本プロが製作。困難の連続だった。
 地方の小学校を舞台に、結婚していることを理由に退職勧告される女教師、尾崎ふみ子が、組合活動に目覚めるまでを描く。石川達三の小説の映画化だ。当時真っ盛りの、教師の勤務評定に日教組が猛反対した「勤評闘争」を背景に、教育の理想と現実の困難さに迫る。山本監督は「政治的な圧力が、どんなに教育をゆがめているかというふうに描きたい」(一九五九年七月五日付東京新聞)と意気込んだが、資金が集まらない。
 資金集めに駆け回ったのは、山本プロのプロデューサー、宮古とく子だった。山本プロは、農村の女性のカンパを募って「荷車の歌」を成功させたことから、日教組に話を持ち込む。しかし日教組は一九五三年、「ひろしま」(関川秀雄監督)を自主製作して赤字を出し、出資に慎重だった。宮古は「日教組は当時、機関紙では主張が伝わらないと悩んでいて、それなら映画を作ればと持ちかけたのだと思います。渋っているのを、私と伊藤武郎プロデューサーが通って説得しました」と振り返った。結局、日教組が二千万円を出資し、映画製作にめどがつく。
 ふみ子を香川さんが演じることは早々に決まったものの、配役も難航した。内容や、俳優を拘束する五社協定が妨げになった。香川さんの夫役が南原伸二(のち宏治)に落ち着くまで、撮影直前まで二転三転。しかし、香川さんは熱心に取り組んだ。ふみ子の夫も教師だが、組合で上昇志向を満足させようと暴走し、やがて離婚。自分や同僚を取り巻く理不尽な環境に目覚め、組合活動に取り組む決意をする。教師役は「しいのみ学園」「つづり方兄妹」などでも経験していたが、香川さんが、「同じ先生でもその都度違う」という通り、今度は多忙な日常や、女性の立場の弱さなど、これまでにない人間としての教師像を求められた。撮影前に東京都江戸川区の小学校を訪ねて役作りの参考にし、石川にも会った。
「ご自宅をお訪ねして、お話をうかがいました。優しい方で『大分勉強されているのですね』と励まされました。とにかく難しい役ですからね。小学校では、職員室でお話ししたり、一緒に給食を食べたり。女の先生が家庭を持って仕事を続けるのは大変だと、よく分かりました。それなのに、父母からの批判で抑え付けられ、ちょっとしたきっかけで転任させられそうになる。先生の立場は難しいと思いました」
 撮影は、茨城県高萩市の小学校を借りて行われた。予算はギリギリ。ロケ先の学校の教師や児童も総動員だ。「学校の夏休みに撮ったんです。職員室もロケでしたし、先生方や子供たち、土地の方がずいぶん協力してくださった」。セットを組むだけの余裕がなく、不自由ながら学校内で撮影したのである。
 その熱気にあてられたわけでもないだろうが、ハプニングがあった。組合委員長選挙に出ようとする尾崎は、工作資金として貯金を全額引き出そうとする。抵抗するふみ子と争いになり、はずみでほほをぶつ。
「南原さんにほっぺたをぶたれる場面で、本気で殴られたんです。すごく痛くてね、はれて赤くなっちゃった」。この場面、宮古も覚えていて、「手の跡がついて、かわいそうでした。監督の指示ではないと思うし、リハーサルの時はそうでもなかったのに。南原さん夢中になる人だったから」と同情しきり。
 映画は「児童生徒の観覧に好ましくない」と教育委員会から横ヤリが入るなど話題となり、興行成績もまずまず。山本監督が望んだ続編は実現しなかったが、山本監督の代表作の一つ。しかし香川さんは満足していないという。「年齢的にも精神的にも、何か中途半端な時で、自分自身がもどかしくて、もう一つやったなって感じになれないんです」
 二十代後半、女優として幅を広げようと格闘していた。

気迫が生んだ大ヒット

 山本監督は、女優に優しいとの定評があった。香川さんは「男っぽい感じの方でしたね。いつも帽子かぶってらして。でも、かっかして怒ったり、怒鳴ったりとかはなかった」と思い出す。
 しかし内ヅラと外ヅラが違う、というのもおなじみの人物評。山本監督の長男で、カメラマンの駿が回想する。「身内には厳しくて、スタッフから『オニの薩夫』なんて言われてました。要領の悪い助監督は怒られっぱなし。せっかちでしたし。家族にもうるさいオヤジだった」
 山本監督は松竹から東宝の前身、P・C・Lに移籍。戦前はメロドラマを撮ったが、戦後は自身の戦争体験に基づいた反戦平和が作品の背骨となった。独立プロで経済的困難を抱えつつ、映画作りを模索した。「赤い陣羽織」では松竹と組み、「人間の壁」のように各種団体とも提携。レッドパージされた監督が、次第に大手映画会社に迎えられるようになってからも、山本監督は孤高を保ち続けた。プロデューサーだった宮古は、その苦境を振り返る。「独立プロは一作ごとにスポンサーを探さないと、仕事ができないんです。楽だったことなんか、ありませんでした。給料は出ないし、ホテル代もないので出演女優を私の部屋に泊めたり、セットで寝泊まりするスタッフもいましたよ。ギャラも随分安くしてもらって、『値切りの宮古』と言われました」
 家族も大変だ。「子供三人の五人家族で、借家暮らし。毎日麦飯の弁当がいやでね。お袋が質屋通いをして、着物を出しちゃ、入れしてた。毎晩、量り売りの焼酎を買いに行かされました」と駿は苦笑した。そして左翼的傾向の、物議を醸す作品を作り続けたから、攻撃も受けた。「小学校時代は『赤の子』といじめられたし、家に短刀が送り付けられたり、車のフロントガラスが割られたこともあった」と駿は言う。しかし、ひるむことはなかった。「映画のことしか考えてませんでした」と宮古は思い出す。
 一息ついたのは、一九六二年、大映の永田雅一社長の声がかりで撮った、市川雷蔵主演の「忍びの者」を大ヒットさせてから。企業内で撮っても自らの信念を曲げることはなく、日活と組んだ反戦大作「戦争と人間」三部作などを手掛けるようになる。
 香川さんが出演した一九七四年の「華麗なる一族」は、東宝の関連会社、芸苑社の製作だった。山崎豊子の小説が原作で、銀行合併の内幕を暴く。
 山本監督はこの時、会社を追われて以来二十五年ぶりに東宝撮影所の門をくぐった。大映で「白い巨塔」(一九六六年)、日活で「戦争と人間」三部作(一九七〇〜一九七三年)などをヒットさせ、社会派の大監督としての評価を確立しての凱旋である。「『よく帰って来てくれました』と、お世辞を言われた。〈おれの首を切っておいて何を言うか〉と思ったが、もちろんそんなことは口に出して言えない。撮影所の内部は、記憶に焼きついている情景とほとんど変わらず、過ぎ去った二五年という歳月が、私にはまるでうそのように短く感じられた」(『私の映画人生』)とこの時の感慨を記している。
 香川さんにとっても、ほぼ十年ぶりの映画出演だった。一九六五年「赤ひげ」出演後、新聞記者だった夫の転勤に伴って渡米し、帰国してからの仕事はテレビドラマが多く、映画出演の機会に恵まれなかったのだ。銀行家の佐分利信、その妻に月丘夢路、愛人に京マチ子。香川さんは銀行家の長女で、田宮二郎演じる大蔵省のエリート官僚と結婚する一子役だ。他にも、小沢栄太郎、仲代達矢ら、クセのある俳優が勢ぞろいしている。「すごい方たちばかり出演されてるでしょう。かなり緊張しました」と香川さん。大病院の権力闘争を描いた「白い巨塔」など権威の内幕を赤裸々に描いた山本監督である。銀行の暗部を暴く「華麗なる一族」でも、銀行の協力を得られず苦労した。しかし映画は大ヒット。
 二〇〇七年、現代の人気俳優をそろえてテレビドラマ化されたが、迫力不足は否めなかった。俳優陣の貫禄もさることながら、「日本社会が、目に暗い絶望の色を浮かべ、途方にくれていたかつての時代に、もう一度戻るようなことがあっては絶対ならない」(同)という、山本監督の気迫の差だろう。
 山本監督は森村誠一の「悪魔の飽食」、野上弥生子の「迷路」の映画化を切望しながら果たせないまま亡くなった。
内田吐夢
求められた「たくましさ」

 内田吐夢とむ監督の一九五八年の「森と湖のまつり」も、香川さんが「うまくいかなかった」と残念がる作品の一つだ。
 内田監督は、戦前に俳優として映画界に入り、放浪生活をへて「土」(一九三九年)などを監督。第二次世界大戦末期には満州映画協会に合流し、一九五四年まで中国に残留した。流転の人生で鋭い人間洞察を培い、帰国後、映画界に復帰して「血槍富士」(一九五五年)、「大菩薩峠」(一九五七年)など、スケールが大きく社会的で骨太な作品を次々と発表し、巨匠としての評価を確立していた。
「森と湖のまつり」は、時代劇のヒットで全盛時代の東映で、あえて難しい題材に取り組んだ異色作だった。武田泰淳たいじゅんの小説が原作。香川さんが演じた、北海道を訪れた女性画家・雪子と、民族問題に取り組むアイヌ青年・一太郎との激しい愛と葛藤を描く。一太郎役は、デビュー三年目でまだ駆け出しの高倉健である。
 雪子役が香川さんに決まったのは、撮影開始直前だった。一九五八年九月、香川さんは準備の間もなく、ロケ地の北海道に向かった。
「監督さんと事前にお会いしてお話しすべきだったのに、時間がありませんでした。私はスタートでスッと入れないと、最後までだめなたちなんです。監督さんが考えてらっしゃるのと違うんじゃないかっていう意識があって、思い切ってできなかった。雪子にたくましさみたいなものを要求されていたと思うんです。ところが私は、歩き方からしてそれがない、と言われて。か細かったんですね」
 内田監督の映画のヒロインは、左幸子や有馬稲子ら、たくましさを感じさせる女優が多く、香川さんの持ち味とは少し違っていた。「監督さん、がっかりされたんじゃないかな、ミスキャストだったって」。後にこの話を聞いた山田洋次監督から「それは香川さんのせいじゃありませんよ」と慰められたというが、香川さんの表情は晴れないのである。
 内田監督は、徹底したリアリズムを求めた。高倉が、その演出の厳しさを回想している。大詰めの、一太郎が怒りを爆発させる場面にOKが出ず、いたずらに日が過ぎた。
「『どうせできないだろうが、もう一度、やってみろ』監督は意地悪い顔をして横を向いた。その挙句、『お前、その手は何だ。お前の手は、アイヌ民族の悲哀を背負って、荒野を駆ける若者の手じゃない』と言われた。さすがに新人の僕でも頭にきて、カーッとなり殴ってやろうかと思った。思わず握り拳をつくったとき、カメラが回った。監督は僕が本気で怒るのを待ち続けてくれていたのだ」(『想SOU 俳優生活五〇年』)
 高倉は演技開眼、この後、「宮本武蔵」(一九六一〜一九六五年)、「飢餓海峡」(一九六五年)など、内田監督作品の常連となった。
「私もできなくて、随分言われました。監督さんには申し訳なかったと今でも思っています」。香川さんはそう残念がるが、映画の最後で、雪子は力強く大地を踏みしめて歩き出している。
 ただ、ロケは楽しかったと香川さん。
「撮影の途中に台風で湖が増水して、水が引くのを待つ間、みんなで摩周湖に行ったり。四十五日ぐらい滞在しました。ジャガイモやカボチャがおいしくて。高倉さんは、江利チエミさんと婚約なさったばかりで、毎日お帳場で電話してらした」。内田監督も同様に「撮影中おやつに出されたじゃが芋、かぼちゃ、とうもろしこの美味かったこと」(『映画監督五十年』)と記している。
 自然の幸を堪能し、香川さん、すっかり太って東京に帰ってきた。
三隅研次
目の不自由なお師匠さん

 三隅研次監督は、香川さんが出演した衣笠貞之助監督の「鉄火奉行」(一九五四年)に助監督としてついていた。この直後に監督デビューし、一九六〇年代に勝新太郎の「座頭市」シリーズ、市川雷蔵の「眠狂四郎」シリーズなど、ヒット時代劇で一時代を築く大監督となる。リアリズムを意識した殺陣、アップを効果的に使ったカメラワークなど、すごみのある映像が持ち味だ。現場では次々とアイデアを出し、こだわり粘る監督として「京都で一番うるさい」とまで評された。
 香川さんは一九五五年「七つの顔の銀次」、一九五九年の「かげろう笠」と、二本の三隅作品に出演している。三隅監督は、まだスタイルを模索していた時期。「優しい方でしたよ」と香川さんは思い返す。
「かげろう笠」は、香川さんお気に入りの一本だ。リアリズムとは無縁の娯楽時代劇。それでも、不意に挿入される香川さんの表情のアップなど、才気を感じさせる。信州の盲目のお姫様、菊姫がお家騒動に巻き込まれそうになって江戸へ逃げる。偶然すれ違った、長谷川一夫演じる渡世人、関戸の弥太郎が、持ち前の義侠ぎきょう心から菊姫を江戸にエスコート。菊姫は弥太郎を侍と思い込むが、弥太郎は姫が手術を受けて目が治ると、似つかわしくないと姿を消してしまった。「(浮浪者が少女の目を治してあげる)チャップリンの『街の灯』、ちょうどあんなふう。なかなかロマンチックなお話でした」
 菊姫の空想の中で、弥太郎と菊姫が仲むつまじく踊る。セットを替え衣装を替えて、華やかでぜいたくなサービス場面。「いろんな扮装ふんそうをして、楽しかったですよ。長谷川さんもきれいな衣装でした」
 香川さんには初めての盲人役に加え、菊姫は琴の名手という設定だ。
「お琴で苦労したのを覚えてます。まず、盲学校をお訪ねして。おかっぱの十五、六歳の、ほんとにかわいい人でしたけど、見えない目で、お琴を弾いてくださった。感動しちゃってね。京都の先斗ぼんと町だったか、やっぱり目の不自由なお師匠さんがいらっしゃいましてね。私の手を取って、教えてくださった。一週間ぐらいだったかしら、とにかく短い時間で覚えなきゃならなくて。その時、手元を見ないで弾く練習をしたものですから、手元を見ると弾けないんですよ、逆に。人間って不思議なものだと思いました」
 長谷川と香川さんが仕立屋を演じた「七つの顔の銀次」でも、撮影中に仕立ての名人を招き、コツを教わったという記事が出ている(一九五五年一月一三日付読売新聞)。こんなところにきちんと手間をかける努力が、映画黄金期を支えていたのである。

戻る