もくじ

口絵

【一】巨匠たちとの日々

成瀬巳喜男

今井 正

小津安二郎

溝口健二

黒澤 明

【二】スターへの階段

デビュー

島 耕二

阿部 豊

中川信夫

フリー

結  婚

原 節子

田中絹代

長谷川一夫

三船敏郎

大庭秀雄

渋谷 実

家城巳代治

久松静児

衣笠貞之助

大曾根辰保

清水 宏

豊田四郎

吉村公三郎

川島雄三

山本薩夫

内田吐夢

三隅研次

加藤 泰

堀川弘通

山田洋次

熊井 啓


香川京子(かがわ・きょうこ)

東京都出身。都立第十高女(現・豊島高校)卒業後、新東宝に入社。一九五〇年、島耕二監督の「窓から飛び出せ」で映画界にデビュー後、成瀬巳喜男監督の「おかあさん」、今井正監督の「ひめゆりの塔」、小津安二郎監督の「東京物語」、溝口健二監督の「近松物語」、黒澤明監督の「どん底」、「赤ひげ」、「まあだだよ」、熊井啓監督の「深い河」などに出演。一九九〇年、熊井啓監督の「式部物語」でキネマ旬報助演女優賞、日本映画批評家大賞、一九九三年、「まあだだよ」で日本アカデミー最優秀助演女優賞、田中絹代賞などを受賞した。テレビドラマや舞台の経歴も長く、一九九六年、宮尾登美子原作のNHK連続ドラマ「蔵」、一九九六年から一九九七年、NHK連続テレビ小説「ふたりっ子」に出演したほか、近年の映画作品では「阿弥陀堂だより」、「自由戀愛」、「赤い鯨と白い蛇」、「東南角部屋二階の女」(二〇〇八年秋公開予定)などに出演している。一九九八年秋、紫綬褒章、二〇〇四年秋、旭日小綬章を受章。著書に『ひめゆりたちの祈り』(朝日新聞社)がある。

勝田友巳(かつた・ともみ)編

一九六五年生まれ、茨城県出身。北海道大卒業後、毎日新聞社入社。松本支局、長野支局、東京本社編集制作総センターなどをへて、一九九七年から編集局学芸部で映画を担当している。

香川京子(かがわ・きょうこ)

東京都出身。都立第十高女(現・豊島高校)卒業後、新東宝に入社。一九五〇年、島耕二監督の「窓から飛び出せ」で映画界にデビュー後、成瀬巳喜男監督の「おかあさん」、今井正監督の「ひめゆりの塔」、小津安二郎監督の「東京物語」、溝口健二監督の「近松物語」、黒澤明監督の「どん底」、「赤ひげ」、「まあだだよ」、熊井啓監督の「深い河」などに出演。一九九〇年、熊井啓監督の「式部物語」でキネマ旬報助演女優賞、日本映画批評家大賞、一九九三年、「まあだだよ」で日本アカデミー最優秀助演女優賞、田中絹代賞などを受賞した。テレビドラマや舞台の経歴も長く、一九九六年、宮尾登美子原作のNHK連続ドラマ「蔵」、一九九六年から一九九七年、NHK連続テレビ小説「ふたりっ子」に出演したほか、近年の映画作品では「阿弥陀堂だより」、「自由戀愛」、「赤い鯨と白い蛇」、「東南角部屋二階の女」(二〇〇八年秋公開予定)などに出演している。一九九八年秋、紫綬褒章、二〇〇四年秋、旭日小綬章を受章。著書に『ひめゆりたちの祈り』(朝日新聞社)がある。

勝田友巳(かつた・ともみ)編

一九六五年生まれ、茨城県出身。北海道大卒業後、毎日新聞社入社。松本支局、長野支局、東京本社編集制作総センターなどをへて、一九九七年から編集局学芸部で映画を担当している。

愛すればこそ スクリーンの向こうから

香川京子

第一章

巨匠たちとの日々

成瀬巳喜男
有楽町のバーを見学

 成瀬巳喜男監督が、読売新聞の「新人指名」というコラムで香川さんについて書いている。
「香川君の良さは、素直な素朴な演技と、何か清潔なものを感じさせるというようなところだと思うが、そうしたものが初めの頃からずっと失われずにいる。大方の女優さんたちは二、三役がつくと、たちまち女優くさくなってしまうものだが、香川君にはそれがない。町のそこここでみかける娘さんという感じだ。いつまでも素朴さと清潔さを失わずにいてもらいたい人である」(一九五三年三月一六日付)
 香川さんはデビュー間もない一九五一年、「銀座化粧」で初めて成瀬監督作品に出演した。香川さんの叔父で新東宝の永島一朗プロデューサーが、成瀬監督と親しかったことから、声が掛かったようだ。田中絹代演じるバーのママ雪子の妹分、京子。
 描かれるのは、息子を一人で育てる雪子の日常だ。ユーモアをこめ、温かく雪子を見つめている。香川さんは、地方から出てきて店を手伝い、雪子が思いを寄せた青年と仲良くなって雪子にひそかなため息をつかせるという役どころである。戦後、不振が続いた成瀬監督が、「肌に合う感じ」の世界を手がけて復調のきっかけとなった作品でもある。「素人だけれど、(店を)お手伝いしているという役でしたね。生活がかかっているわけではなかったから、役の上ではそんなに難しいことはなかったです」
 とはいうものの香川さん、この時まだ未成年。「バーっていうものを知らなかったから、見学に行ったんですよ。叔父をはじめ映画の人たちがよく行かれるお店で、有楽町の駅に近い辺りだったかな。あの頃ですから、町の雰囲気も暗いし、ネオンも華やかなのはなかった。ホステスの方たちが夕方お店に来られる頃に行って準備するようすを見たり。もちろん接客はできませんから、そばにいて見学させてもらう。そういう勉強から始めたのを覚えてますね」
 その雰囲気は、映画の中の店そのままだった。「そんなに難しいご注文はなかったように思います。私もまだよく分からなかったから、こういうふうにとか、それはおかしいよとか、言われるままにやってたっていう感じですね」
 香川さんは、この後も四作品の成瀬映画に出演している。この間役柄は、妹や娘役(一九五二年「おかあさん」「稲妻」)から、結婚したばかりの新妻(一九五六年「驟雨しゅうう」)、さらに結婚生活の苦しみを知る人妻(一九五八年「あんずっ子」)へと変わっていった。女の哀歓を描き続けた成瀬監督だが、そのまなざしは「銀座化粧」の励ますような調子から、次第に生活の重みや哀愁を強く打ち出すようになる。香川さんの役も、重くなっていった。
「初めは明るくて元気、でよかったけど、だんだん結婚して苦労するっていうね。女の生き方みたい」

ちょっとした動作で表現

 成瀬監督の撮影現場は、静かなことで有名だった。助監督だった石田勝心かつむねが「お通夜みたいと嫌う人もいた」というぐらい。監督の口数は少なく、スタッフは足音をしのばせるように準備してヒソヒソ声で話した。
「大きい声をお出しにならないのね。とっても静かで、地味な方。でも作品はモダンな感じがして。監督さんが静かだと、周りも静か。フフフフフッて、お笑いになる。では優しいかって言うと、厳しい目をしてて怖かったです」
 予算と期日はきちんと守る。撮影が時に深夜まで及ぶのは今でも当たり前だが、成瀬組は残業もほとんどなし。午前九時から午後五時の定時で終わる。俳優の撮影開始時刻も監督が告げる予定とほとんど狂わない。カメラは多くが固定、アップを嫌い、わざとらしい芝居を徹底して排した。普通は場面の進行に合わせてカメラ位置を変えながら撮影するが、成瀬監督はカメラ位置の同じ映像をまとめて撮る「中抜き」をいとわなかった。場面がどうつながるか分からなかったり、抑えた演技に物足りないと感じた俳優もいたようだが、出来上がった作品を見てみな納得。
「どんな場面を撮る時もペースは変わらず、淡々としてました。何度もテストを繰り返したという記憶もありません。オッケーだけで、良かったとも悪かったとも言われなかったように思います。(演出は)もうちょっと早く立って、とかそういうふうでした。(長回しの)溝口健二監督とは違って、短いカットを重ねていくような感じでしたね。監督さんの中で、リズムみたいなものがあったんでしょうか。私は長くお芝居をする方が好きなんですけれど、目の動きとか座り方とか、顔を少し動かすとか、ちょっとした動作で感情を表す勉強になりました」
 写っている人物の目線の動きだけで、画面の外にいる人物の動きを完ぺきに表現する技術は、余人にはまねの出来ない芸当だった。
 成瀬監督は一九〇五年、東京生まれ。一九二〇年に小道具係として松竹蒲田撮影所に入り、助監督に転じた。後から入社した小津安二郎や五所平之助らが先に監督に昇進していくのを見送りながら、一九二九年にようやく監督昇進。その後もコツコツと撮り続けるが芽が出ず、作風が似る小津監督がいる松竹に見切りをつけ、P・C・L(東宝の前身)に移籍する。「小津は二人いらない」と当時の城戸四郎撮影所長は慰留しなかったという。P・C・Lに移ってからは、一九三五年「妻よ薔薇ばらのやうに」「うわさの娘」など秀作を出すが、戦中戦後は時流と合わず低迷。一九五〇年代になって、夫婦の機微や家族を描いた作品で才能を開花させた。一九五五年の「浮雲」(毎日映画コンクール日本映画賞・作品賞)をはじめ、「夫婦」(一九五三年)、「女が階段を上る時」(一九六〇年)など傑作の数々をふくむ八十七作品を残した。

明るい娘役が合ってるのかな

 成瀬監督との二作目、一九五二年の「おかあさん」は、香川さんにとって大切な作品となった。デビューして二年、新東宝のスター候補として、会社が製作する映画に次々と出演していた。この年だけで十二作が公開された忙しさ。そんな中で、初めて手応えを感じたのが「おかあさん」だった。デビューから二十二作目である。
「楽しかったですね、あの時は。私のキャラクターと役が合っていたし、年齢的にも無理がなくて、のびのびやれました。終わってから感じたことですが、それまで言われるままにやってきただけでしたけど、私には庶民的な明るい娘役が合ってるのかなって。だいぶ遅いんですけどね。女優として意識したという意味で、忘れられない作品です」
 終戦直後、クリーニング屋の一家が物語の舞台となる。結核で療養所にいる長兄の他に二女と、母親の妹の子まで預かる大所帯。田中絹代が演じた母親が、懸命に働いて貧しさを乗り越える姿を描いていく。
 エピソードは悲劇的だ。長男は結核で早世し、父親も過労で死んでしまう。あげくに、次女を養子に出すことになる。しかし悲劇性を強調することなく、むしろユーモアを込めて生活の細部を積み重ねていく。全国の小学生から集めた作文を基に、水木洋子が脚本を書いた。
「脚本も素晴らしかった。暗くなりがちな内容なのに、映画には全然暗さはない。一家は貧乏だけど、負けない。世の中もまだ貧しかった。妹がもらわれていくとこなんか、つらいんですけど、それを乗り越えて。前向きでしょ。日本のおかあさんって強いな、素晴らしいなって、思いました。大好きな作品です」
 日本は貧しかった。「おかあさん」が公開された六月一二日付毎日新聞の「余録」には、ヘルシンキ五輪への日本選手団の旅費九千万円が集まらないことを取り上げているし、「こども補導相談」の欄には「姉妹三人と継母の子三人の八人暮らしで、進学を許してもらえない」と家出まで思いつめる十五歳の少女からの相談も寄せられている。日常の正確な描写に、成瀬監督はこだわった。
 香川さん演じた長女は、洋裁学校に行きたいと願いながら店の手伝いに精を出す。母親と職人(加東大介)の再婚のウワサに心を痛めたり、パン屋の青年(岡田英次)とのほのかな恋にはしゃいだり。逆境にも明るくけなげ、はつらつとしている。
 美容師見習の叔母のために、花嫁衣装を着たところを岡田に見られ、後で顔を合わせて照れてウインク。可憐な香川さんの魅力が輝いた一場面。「あのシーンも、好きでしたね。やってて楽しかった。成瀬監督は地味な庶民生活を描かれたけれど、作品はどこかモダンな感じがありました」
 この作品、フランスでも人気がある。小粋で品の良い笑いは、「ぼくの伯父さん」で知られるジャック・タチにも通じる。ユーモアもまた、成瀬監督の持ち味だった。

ペース変わらぬヤルセナキオ

 香川さんの成瀬監督作品出演は、「おかあさん」と同じ一九五二年に高峰秀子主演の「稲妻」、少し開いて一九五六年、原節子主演の「驟雨」と続く。ともに、湿りがちな作品にカラリとした空気をもたらす役どころだった。
「稲妻」の原作は林芙美子。父親の違う四人の兄妹の、ドロドロとした人間関係を描く。人生のやり切れなさを描いて〝ヤルセナキオ〟と呼ばれた成瀬監督の作品中でも、評価が高い。
 香川さんは、一家の末娘の高峰が家族に愛想を尽かして一人暮らしを始めた下宿の隣人。兄と二人で住み、ピアニストを目指して勉強中という設定だ。「(高峰の家族と)まったく違う兄妹がいて、ちょっとあこがれを感じる家族でしたのね、仲のいい兄妹で」。高峰は新東宝の先輩。成瀬作品常連の大スター。「小さい撮影所ですから、ぱったりお会いしてごあいさつしたりとか。さばさばした方で、優しい、すてきな先輩として尊敬しています」。香川さんも自然に演じている。
 その次の「驟雨」では、香川さんは巧まざるコメディエンヌぶりを発揮した。原節子と佐野周二の、けん怠期を迎えた夫婦に波風が起き、そのうちに何となく元のさやに収まるという小品。香川さんは原のめいで、新婚旅行の途中でケンカしたと、原に向かって夫への不満を吐き出す。こんな具合。文子が原、香川さんはあや子。

あや子 蒲郡って何県?って聞いたら、何県と思うかって聞き返すの。おばさま知ってらっしゃる?
文子  蒲郡?
あや子 知らないわねえ、だからいいかげんに三重県て、ただ言ってみたの。そしたらアハハ笑って。何がおかしいのよ、ねえ。バカにしてんでしょ。それじゃどの辺にあるか、日本の地図描いてマル付けてみろって。あたしそんな中学校の試験みたいのイヤだって言ってやったの。そしたら紙と鉛筆と持ってきて、どうしても描けってきかないの。しまいにゃ日本地図も描けないのかって、そりゃしつこく言うの。だからあんまりしゃくでしょ、日本地図くらい描けますわって、あたし覚えてる通り描いたのよ
文子  描けたの?
あや子 うん、そしたら全部描かないうちに、何だそりゃキュウリかって
文子  エ?
あや子 キュウリかって言ったわよ

(「驟雨」から採録)


 あや子が表情豊かに早口でまくし立てるうち、とうとう泣き出してしまう。文子が同情しつつ、おかしさをこらえきれないという顔で「ずい分乱暴ねぇ」とあいづちを打つ。「おかしいですよね」と香川さんも、楽しそうに思い出す。しかしこんな笑いの場面でも、成瀬監督は「いつも普通。ペースは全然変わらないです」。
 岸田國士の戯曲を水木洋子が脚色。公開日程の都合でラストシーンを変えざるを得なくなるなど、成瀬監督は「あまり成功してません」と振り返っているが、ユーモアと機微にあふれ、見所は多い。香川さんも「大好きな作品」として印象に残っている。

悩んで迷った主婦の役

 成瀬監督の映画のヒロインは、生活の重みにやつれた陰りがある。そんな成瀬映画で香川さんは、物語に光をともすような明るい役を演じてきた。ところが一九五八年の「杏っ子」では、成瀬映画でもとりわけ暗いヒロイン、杏子きょうこを演じることになった。室生犀星が自身の娘をモデルにした小説が原作。作家志望の亮吉(木村功)と、有名作家の娘杏子の、救いのない夫婦生活を描く。亮吉は義父に嫉妬と劣等感を抱きつつ、才能のなさも自覚して酒におぼれ、杏子にネチネチと皮肉を投げつける。杏子は亮吉に愛想を尽かし、時に反抗し父親に助けを求めながらも、自分で選んだ結婚だからと、離婚せずに耐え続ける。
「あんまりうまくいかなかった。夫婦間の葛藤かっとうで、内面のお芝居が多かったから、難しかった。室生さんや、(杏子のモデルになった)朝子さんともお会いし、おうちにうかがったりしました。親子やお家の雰囲気を少しでも感じられれば、と思って。監督さんは、いつものとおり。難しい注文はなかったように思います」
 香川さんは残念がるが、難しい内容だった。成瀬はその前の「あらくれ」から「受け身でない女の生き方」に取り組んでいた。香川さんも、役柄の幅を広げようとしていた時期だった。
「自分の中でも、割り切れないものがあったものですからね。二十六、二十七歳ごろは、女性として迷う時期だと思うんですけど、私も女優として変わっていかなければいけない時にきていて。仕事はしてるんだけど、もう一つ吹っ切れない、のびのびやれない、何か中途半端で、悩んでいました」
 助監督に付いた石田勝心は、「感情移入しにくい内容だったが、香川さんのストイックな感じを生かして、初めて大人の役に起用した」と感じていた。
 撮影は一九五八年一月二九日、箱根ロケで始まった。「洗濯物を干す場面があったんですけど、すぐ凍っちゃうんですよ。とっても寒かった。監督さんが『肌が寒そうに写るねえ』っておっしゃったのを覚えてます」
 生活苦に追われる主婦を苦労しながら演じたが、技術トラブルに救われた一幕もあった。
「寒さと緊張で、硬くなってたんですね。(木村は)しょっちゅうお酒飲んでるでしょ。でもお燗なんてしたことなくて、一升瓶からとっくりにお酒移すのが、なかなかうまくいかない。ガチガチで撮って、やっと終わったと思ったの。そしたらフィルムにトラブルが出て、その部分は全部撮り直し。監督さんは怒ってらしたけど、私は嬉しくて。大リハーサルしちゃったわけですから。二度目はもうちょっと力抜いて出来たんですよね。監督さんには言わなかったけど、ありがたかった」
 フィルムに静電気が起きてムラが出る〝スタチック〟と呼ばれる現象だった。
 この作品、暗さゆえかDVD化されていない。しかし、容赦なく傷つけ合う夫婦の心理描写に、成瀬監督の繊細さと鋭さが存分に発揮されている。石田は「功さんと香川さんのぶつかりあいに、心に突き刺さってくる迫力を感じた」と全編通して見た時の衝撃を語る。彼には「成瀬さんを先生にしようと決めた」作品だった。
今井 正
吹きさらしで寒さに耐えて

 一九五二年の秋から暮れにかけて、香川さんは今井正監督の「ひめゆりの塔」の撮影にかかりきりだった。
 第二次世界大戦末期の沖縄で、看護師として徴用された女子学生の悲劇を描く、今井監督の代表作の一つ。返還前の沖縄でのロケは望むべくもなく、東京・大泉の東映撮影所に沖縄を作り出した。オープンセットには舞台となる丘とその周辺、スタジオには傷病兵を収容する防空ごうなど。春から夏の沖縄を冬の東京に再現し、米軍の機銃掃射や艦砲射撃の激しい攻撃、土砂降りの夜の行軍など、ひめゆり学徒の過酷な体験にリアリズムで迫るのが狙いだった。しかし、撮影は困難の連続。まずは寒さとの戦いだった。
「あんな寒かった撮影は、ちょっと思いつかないくらい。当時は撮影所の隣が畑で、オープンセットは吹きさらし。五センチぐらいあるような霜柱が立っていました。夜の撮影が多かったんです。爆弾が破裂したり雨が降る中、凍ってガチガチの地面に伏せたりしました。とにかく半そででいなくちゃならない。そのころ出始めたビニールで、母が下着を作ってくれたんです。それを衣装の下に着てましたので、すごく助かった。風も水も通さないですから。今の薄いレインコートみたいなしゃれたものではなくて、分厚くてゴワゴワしていましたけれど」
 ロケ先でも同様だ。行軍の合間、少女たちは川に入って水浴びをし、つかの間の解放感を満喫する。千葉・佐原での撮影だった。楽しげな笑顔があふれる一場面だが、撮影が終わるやいなや「お借りした農家のお風呂に、急いで飛び込んだ」。吐く息が白くならないように、本番前に口に水を含んだ。「涙ぐましいですね。でも、よく見るとやっぱり、白い息が出てました」
 助監督だった村山新治も、寒かったことをよく覚えている。「夜の撮影で雨をジャンジャン降らせるから、本番の後は地面が凍ってる。一回じゃ済まないから、終わると氷をみんなで割ってね。セットの端に炭が積んであって、それで暖をとりながら。ちょくちょく出演者の母親から『うちの子が熱出して寝てます』と電話がかかってきて、撮影スケジュールを組み直しました」
 それでも香川さんは、風邪もひかずに乗り切った。
「出演者の中で、津島恵子さん、関千恵子さん、私の三人が映画からの出演で、他は新劇関係の方が多かった。寒い外での撮影に慣れていないから、風邪をひく方が続出しました。でも私たち三人だけはひかなかった。若かったし、緊張感のせいでしょうかね。やっぱり(映画俳優は)鍛えられてるわね、なんて笑ってました。控室だって、今のような暖房もなかったし、大変な撮影でしたよ」

粘りに粘る演出に教えられた

「ひめゆりの塔」の撮影は、寒さ以外にも苦労の連続だった。米軍の激しい攻撃を再現するために火薬を使った撮影が多かったが、慣れないスタッフは試行錯誤を繰り返した。今井監督の演出は粘りに粘る。助監督の村山は苦笑交じりに思い出した。
「照明弾の仕掛けを三日ぐらい徹夜して準備したのにうまくいかず、また三日かけてやり直し。群像劇で登場人物が多かったけれど、監督は十人の場面では十回リハーサルをした。いいとも悪いとも言わないから、俳優さんが困っちゃって『先生は何て言ってんですか』って聞きに来る。こうじゃないですか、なんてこっちが言うと、監督から『一切説明しちゃいかん』と叱られる。時間はどうしてもかかるんですね」
 香川さんも思い返す。「溝口健二監督と同じで、こういうふうにやりなさいっていうことはおっしゃらない。『もう一回、もう一回』って、ニコニコしながらおっしゃるだけで。どこが悪いのか、自分で考えなきゃいけない」
 こんな場面があった。香川さん演じる上原文を助けようとした友達が爆撃で負傷してしまう。責任を感じた文は、疲れているのに、交代もせずその友達を乗せた担架を運ぶ。
「セットでの撮影で、雨が降ってました。文は出発と号令がかかると、ふらふらしながら担架を持って立ち上がる。それから動き出して、画面の下手へ切れる。それだけなんですが、なかなかうまくいかない。監督さんに『もう一回、もう一回』って言われて。私は本当に疲れてきて、半分もうろうとしてしまったんです。お友達を乗せた担架は重くて、最後の力を振り絞って持ち上げたら、こんなふうに、あごが上がっちゃった。そしたら『ハイ、本番行きましょ』。疲れた感じが出てなかったんだって、後で反省しました」
夜の場面が多かったこともあって、撮影は連日深夜に及んだ。香川さんが「(撮影終了の)定時は、夜中の二時」というほど。村山は二カ月も家に帰れなかった。撮影予定は大幅に遅れた。「一一月ごろに、プロデューサーのマキノ光雄さんが撮影所に乗り込んできてね。『どうしても正月に間に合わせたい』と宣言した。それで三班態勢で撮りました」。村山の回想だ。当時すでに大監督だった山本薩夫と関川秀雄が駆り出され、それぞれロケ撮影を任された。ところが今井監督は、二人が撮った映像を気に入らない。何度となく撮り直しを命じる。「二週間ほどして、山本監督が『オレ、もう帰る。これ以上出来ない』って出てっちゃった。翌日、関川さんも『オレも帰るからな』」。慌てた村山たち助監督が代わりを務め、編集や音入れの仕上げ作業と同時並行で撮影を進めた。
 監督自身は「十月公開が十一月、更に十二月と延びて、正月が近付き、もうこれ以上延ばせない、という。連日夜中の二時、三時までやって一月二日の夜に撮影がやっと終わりました」(『今井正の映画人生』)と振り返っている。映画はその一週間後、一九五三年一月九日に公開された。

怒鳴らないけどすごい監督

 今井監督は「青い山脈」(一九四九年)、ガラス越しのキスシーンで有名な「また逢う日まで」(一九五〇年)など、ロマンチックな作品で人気監督だった。
「女優さんのあこがれの的だったんですよ。今井監督の映画に出たいっていう女優さんが多かったんです」。という香川さんも、「出演が決まって嬉しかった」と思い返す。「ひめゆりの塔」には、有名女優が何人も、役をほしがって直訴した。だが今井監督はひめゆり学徒に、無名の女優を使いたがった。目を付けたのは、俳優座養成所。二期生、三期生の女優の卵が、多く出演している。その中に、女優の渡辺美佐子がいた。映画どころか演技も初めて。「これが最初の仕事だったのは、幸せだった」と振り返る。
 渡辺が演じた安富は、負傷して動けなくなり、移動する部隊から防空壕に置き去りにされる。信欣三しんきんぞう演じる教師平良が、「万一、敵がここへ来たら覚悟して」と自決用の薬を握らせ、渡辺の表情がアップになる。その一カット。「ラッシュ(撮影が済んだ部分を仮につないだ粗編集)の試写があって、監督が『私の隣にいらっしゃい』と呼んでくれたんです。私は見ているうちに、何か違う、違うと思って、涙がボロボロ出てきた。監督は『何か不満があるのか』と聞いてくれました。分からないけど違うと、ただ泣いて。沖縄についての本を読んでイメージがあったのに、そのとおりでなかったからだと思います。すると監督が『君のデビューだから、一週間あげる。何が違うか考えてもう一回撮りましょう』と言ってくださった」
 家に帰った渡辺は、鏡を見るうちに思いついた。
「食べる物も食べないで戦火の中を逃げた女学生にしては太っている。よし、絶食しようと。しょうゆを飲めば体を壊すと聞いて、そのままではとても飲めませんから、薄めて何杯も飲みました。案の定下痢をして、その後は食事をしなかった。親が心配するから、食事時になると友達の所に行くなんて言って家にいないようにして。おなかがすいて、ガサガサと音がすると、おせんべいの袋かと思うほどでした」
 一週間後、撮影を終えて二人はまた、一緒にラッシュを見た。今井監督に「納得したかい?」と聞かれた渡辺は、「前より良かったと思います」と答えた。「目がくぼんで、クマが出来ていたんでしょうか。飢えている時は、目の色が違うんだと思いました」。絶望と決意の相俟あいまった、鬼気迫る表情が写っている。
 新人女優の一瞬の表情のために撮り直しとは一大事である。撮影がまた延びると助監督たちを陰で嘆息させたが、今井監督は手抜きをしなかった。
「そんなふうに、丁寧に撮る方だった。会社から早く撮れってせっつかれても、ご自身の納得いくまで妥協なさらなかった。怒鳴ったりなさらない静かな方でしたが、すごい監督さんだと思います」
 香川さんもそう回想するのだった。

内面にも求めたリアリズム

 一九五二年、今井監督は「ひめゆりの塔」の撮影にあたって書いている。
「彼女達(ひめゆり学徒)がどの様に考えどの様に振舞い、どの様に死んでいったかを、日本の、また世界の人々に間違いなく伝えなければならないと思っています」(作品解説チラシ)
 その二年前、大映でこの題材を映画化しようとしたが、進駐軍の勧告で中止させられた。その後、籍を置いた東宝を辞め、さらにレッドパージの憂き目に遭っていた時期に、企画が宙に浮いていることを知った東映のマキノ光雄プロデューサーが声を掛けた。
 今井監督の回想によれば、「『僕はレッドパージの身だから無理だ』といったら、『ゴチャゴチャいう奴には、おれは右でも左でもない、大日本映画党だといってやるから』」(『今井正の映画人生』)とハッパをかけられた。当時東映はヒットに恵まれず、風前のともしびで一発逆転を狙った企画でもあった。マキノは大川博・東映社長を粘り強く説得し、製作資金も調達してきた。
 ひめゆりの悲劇が実際に起きたのは、わずか七年前だ。共産党員でもあり、社会の不平等を映画で追及する「真昼の暗黒」(一九五六年)、「橋のない川」(一九六九、一九七〇年)などを撮ることになる今井監督。ここで力が入らないはずがない。脚本の水木洋子も、二年前に書いた脚本を全部捨て、資料を当たって一から書き直した。香川さんも同様だ。
「沖縄でこれだけの犠牲を払ったということを、日本人はまったく教えられてなかったし、私も知りませんでした。(沖縄戦当時)私は女学生で茨城に疎開して、わりとのんびり過ごしてましたから、年の違わない人たちがこれだけの思いで、こんなに亡くなったと知ってショックでした。(今井監督の思いに)そのとおりだ、頑張らなくちゃっていう気持ちで。一つの使命感で出演しました」
 しかし、沖縄に行くことはかなわない。今井監督は話している。
「(スタッフが)これが沖縄の女学校の正門らしいですよ、と名刺の半分ほどの小さな、しかもしわくちゃになった写真を持ってきた。その一枚の写真をたよりに、後はすべて想像で映画を撮っていった」(『今井正「全仕事」スクリーンのある人生』)
 香川さんも「体験された方に会うこともできなかったので、(ひめゆり学徒の最後を書いた)仲宗根政善先生の著書や沖縄戦記とかを一生懸命読んで、参考にさせていただきました」と話す。
 今井監督は、香川さんに作文を書かせた。香川さんが演じた上原文が、なぜ妹とひめゆり部隊に加わることになったのか。「両親が亡くなっておばあちゃんの所へ来て、それで全寮制の学校に妹と一緒に入ることになった。自分なりに考えて書いて出しました。役を考える場合に、そこから始めなきゃいけないと教えられました」
 監督からは返事はなかったそうだが、俳優の内面にもリアリズムを求めたのである。

共感呼んで大ヒット

「ひめゆりの塔」の製作費は、当初予算の二千万円を大幅に上回り、当時としては破格の五千万円以上にのぼった。しかし、公開されるや観客が押しかけ、配収一億八千万円の記録的大ヒットとなって、倒産は時間の問題といわれてきた東映を立て直し、以後の躍進の足場を固めてしまった。助監督だった村山新治は、公開直後に東映本社を訪ねた際、「ドアなんか壊れてもいいから、入れるだけ入れろ!」と電話口で映画館主に怒鳴っていた社員の姿を覚えている。
 出演者は当時のひめゆり学徒隊とほぼ同年輩。撮影中は、深夜まで寒さと戦いながら泥まみれになる過酷な毎日を一緒に過ごした。仲間意識が芽生え、合間には親しく交流した。ひめゆり学徒と一脈通じる体験だった。その心情は映画にも反映されたようだ。香川さんの回想だ。
「撮影は寒いし、つらいけど、実際に爆撃の下にいた人の恐怖とは比べものにならない。そういう気持ちでした。そのおかげでがんばれたと思うんです。共演の方々と集団で行動することが多かったですから。撮影準備を待ってる間に、あの頃はやったロシア民謡をみんなで歌ったり、楽しい時間もありました。先生役の岡田英次さんもいいお声だった」
「ひめゆり学徒隊の人たちは、日本が勝つと信じて、私たちが守らなきゃと純粋でした。私も戦中派だし、(スタッフも俳優も)戦争を肌で感じていた。そういうことが自然に出てたのかもしれません。観客も戦争をくぐり抜けてきて、平和のありがたさを感じていた。だからあれだけ、たくさんの方がご覧になったんだと思います」
 村山も、「無理して撮ったから欠陥もあるんですが、画面に異様な迫力があった」と認めている。「キネマ旬報」は一九五三年二月下旬号で、ヒットの理由を分析し、「ヒューマニズムを前面に押し出し、戦争批判とか、戦争暴露を二義的に押さえたところに、素直な大衆の共感を呼んだ」と書いている。
 米軍の攻撃が厳しくなり、部隊はいよいよ南に敗走することになる。その前夜、女学生は髪をすいて身支度を整え、「故郷」を合唱する。香川さんが「一番つらい」と思い返す場面。あるいは行軍の合間、キャベツをボール代わりにバレーに興じるつかの間の休息。
「ほんとに経験した人はね、反感をもたれる方も多いんですよ。あんなことはなかったっておっしゃる方もいらっしゃる。でもちょっとホッとする、いいシーンですよね。戦争を描いても、今井監督の映画は詩情が感じられる。それが甘いっていう人もいるかもしれないけど、私はだから素晴らしいと思う。他の人にはまねできないと思います」
 今井監督は一九八二年、「ひめゆりの塔」をもう一度手がけた。今度は沖縄で撮影できることになったからだ。しかし戦争当時の風景は失われていた。俳優もスタッフも戦後生まれ。戦争の余熱が完全に消えた時代、映画の迫力は一九五三年版には及ばなかった。

だめですよ、あんな戦争は

「ひめゆりの塔」は香川さんの代表作の一つとなっただけでなく、人生にも大きな影響を与えることになった。この後、一九八〇年のテレビドラマ「相思樹の歌」など、ひめゆり学徒を題材にした作品に何度か出演し、やがて沖縄戦を生き延びた人たちと親交を結ぶようになる。一九九二年には彼女たちの話をまとめた『ひめゆりたちの祈り沖縄のメッセージ』(朝日新聞社。現在は朝日文庫)を出版した。
「それまでは、戦争のことや平和のことを、あんまり考えたことはなかったんです。自覚した最初の作品でした。その後テレビドラマなどで、関連するお仕事がずいぶんありました。ライフワークみたいになって、生き残りの方たちとお会いしたり、本まで書かせていただいた。ほんとに不思議な、ご縁のスタートでした」
 幾度か沖縄に行き、撮影所ではセットだった壕の跡も見た。ひめゆり学徒の生き残りの人たちが作る同窓会に参加して、体験談も詳しく聴く機会を得た。
「観光は一度もしてないんです。そういう気持ちになれなくて。戦後四半世紀たってからでしたが、女学生たちが卒業式を挙げた陸軍の壕のあった所を訪ねました。崩れて中には入れないんですが、寒気がしましたね。壕の前で、この辺りに亡くなった人を埋めたりしたんだなあと思うと。霊が漂ってる感じがして。第三外科の壕で生き残られた宮良ルリさんは、しばらく『ひめゆりの塔』を鑑賞できなかったそうです、つらくて。小学校の先生になられて、子供たちを引率して仕方なく見たそうですが、壕のシーンで、中の人いきれとか、ウミとか汚物とか、画面から、そのにおいを感じたっておっしゃって。経験者でないと分からないことだと思いました。(体験談は)淡々とお話しなさるんだけど、聴く方はすごいショックです。兵隊さんたちの下の世話なんか、どんなにか大変だったでしょうに。十代の女の子たちが、私たちがやらなくちゃって、揚げ句に殺されてね。かわいそうですよ」
『ひめゆりたちの祈り』は、沖縄返還二十年を機に、編集者に勧められた。元読売新聞記者のご主人の協力を得て、コツコツと書き上げた。「映画に出演した時と同じ気持ちで、ひめゆり学徒隊の生き残りの方たちが、どういう気持ちで生きてきたかを知ってもらわなきゃいけない、自分一人の中に置いといちゃいけないっていう、使命感があったんです。同窓会の方たちに相談しましたら、ぜひ書いてほしいとおっしゃって」
 生き残ったひめゆり学徒からの聞き書きが、共感を込めてつづられている。
 反戦の思いは強い。二〇〇六年の「赤い鯨と白い蛇」では戦争の悲しい思い出を抱いた主人公を演じ、憲法九条改訂に反対する「映画人九条の会」にも賛同し、メッセージを寄せた。「『命の尊さ』を言うなら、まず『平和』が大前提でなければならないのですから。だめですよ、あんな戦争しちゃ」。香川さんはそう力を込めて言うのだった。

独立プロが教えてくれた
 
 香川さんは、今井監督の作品にもう一本出演している。一九五五年のオムニバス映画「愛すればこそ」の第二話「とびこんだ花嫁」だ。当時厳しい環境で奮闘していた、独立プロの運動を支援するために作られた。第一話「花売り娘」を吉村公三郎、第三話「愛すればこそ」を山本薩夫が監督している。
 配給は「独立映画社」。設立した伊藤武郎は、「来なかったのは軍艦だけ」といわれた東宝の労働組合争議指導者の一人。争議収束後に東宝を去って独立プロを次々と作り、今井監督の「どっこい生きてる」(一九五一年)、山本監督の「真空地帯」(一九五二年)など、左翼的傾向の名作を送り出した。しかし、独立プロの興行は大手の映画館チェーンに頼らざるをえないため不利な契約に甘んじ、財政基盤も弱い。やっと数本を作っては解散、の繰り返し。独立映画社の経営もすぐに行き詰まり、当時、新藤兼人監督と吉村監督が作った近代映画協会と、「狼」という作品を企画していたが、資金が集まらない。まず独立映画社に勢いをつけて、問題を解決しようと持ち上がったのが、「愛すればこそ」だった。
 伊藤は書いている。
「『独立映画を強化せよ!』新藤さんの声はたちまち『狼』のスタッフを動かし、吉村さんに響き、今井正さん山本薩夫さんと手を組むまでに二、三日とかからなかった。心ある俳優陣裏方連中も待ってましたとばかりに相応じるという次第――やがて〝独立プロの灯を絶やすな〟の合言葉みたいのがひろがっていった」(『シナリオ 愛すればこそ』)
 全スタッフ、キャストは無給、製作費六百万円、撮影はすべて十日間という条件である。三編とも、貧しくても前向きな人々の生活のスケッチ。「とびこんだ花嫁」の香川さんは、口減らしのために地方の農家から、東京で働く工員のもとへ嫁がされる娘の役だ。ぎこちなかった二人が次第に打ち解ける様が、ユーモラスで心温まる筆致でつづられる。
香川さんは、「田舎から出てきたお嫁さん。撮影は短かったけれど楽しかった」と思い出す。製作費はギリギリまで切り詰められていたから、撮影はわずか六日間。川崎などで盗み撮りもしたという。
 香川さんは一九五四年、家城巳代治いえきみよじ監督の独立プロ作品「ともしび」に出演し、その熱気のある製作現場を知っていた。
「フリーでいたおかげで、どこへでも出られましたからね。独立プロはお金がなくて大変な思いして、でもいい作品を作ろうとしてらっしゃいました。私はその雰囲気が好きでした。そういう作品に出ると、世の中が矛盾だらけで、表面は華やかに見えても、裏でつらい思いをしている人がいっぱいいるんだっていうことを教えられます。社会のことに関心を持つようになったのも、独立プロの作品に出たおかげだと思うんです」
 独立映画社もじきに解散することになるが、独立プロの火は細々とだがしぶとく消えずに残る。香川さんは、そこに積極的にかかわったスターの一人である。
小津安二郎
憧れの原節子と初共演

 映画評論家の田中真澄編さんによる『全日記 小津安二郎』の中に、香川さんのことが一行だけ出てくる。一九五三年四月八日「月ヶ瀬で永島と香川京子に会ふ」。「月ヶ瀬」は松竹大船撮影所前にあった、小津監督行きつけの食堂、「永島」は香川さんの叔父でプロデューサーの永島一朗。小津監督は香川さんが出演した「東京物語」の準備中だった。その時の会談を毎日新聞が面白おかしく記事にした。
 記事の中で、小津監督は言う。「香川さんの映画ってのは余り見てないんだがね。香川さんとはよく会うものだから、そこでぼくが見初めたわけなんだ人中に出られる時にね。実に大変洗いたての感じがして、大変まア、ぼくは見染めたわけなんだ」。しかし、「あなたは余り明朗に笑いすぎやしないかナ。香川京子というといつも笑っている顔なんだナうれしいからって笑うわけじゃないしネ。金でも拾えば別だけど」。聞いていた香川さんは「人が変わったようになる。小津をにらみつけて、泣き出しそうな、怒り出しそうな、顔色まであおざめてしまう」と書かれている。
「おおげさよねえ。でも、ニューフェイスだから笑いなさいとばかり言われてたから、一生懸命笑っていた。あんまり笑いすぎない方がいいって言われたのは、覚えてます。小津監督とは初対面ではなかった。監督さんがよくいらした銀座の中華料理店の東興園へ、叔父が連れて行ってくれて、ごあいさつしたことがあったんです」
「東京物語」は香川さんが唯一出演した小津監督作品。世界映画史上に残る名作である。
 小津監督は一九八三年、東京生まれ。小学校の代用教員を経て松竹蒲田撮影所に入社。撮影助手から助監督になり、一九二七年「懺悔ざんげやいば」で監督デビュー。戦後、ローアングルの端正な構図で、家族の機微を描くスタイルを確立した。「豆腐屋は豆腐しか作らない」とかたくなにその姿勢を貫き、一年に一本のペースで作品を撮り続けた。一九六三年一二月一二日、還暦の誕生日に没した。多くの俳優が出演を望み、同時にその妥協を許さない演出に震え上がった。
 しかし香川さんに、気負いはなかった。
「私は、原節子さんとご一緒できるのが嬉しくて、そっちの方に気をとられてました。監督さんが怖いよとか厳しいよとか、言われたこともなかったし。まだ二十歳ぐらいで、何にも分からない。監督さんがおっしゃるままにやればいいかなって思ってましたので、あんまり緊張もしなかった。監督さんも、まあ子供だからしょうがないとお思いになったのか、難しい注文もなかったですね。ただ厳しく言われたのは(映画の舞台となる)尾道の言葉。言葉尻がちょっと特徴のある方言なので、テープを渡されました」
 香川さんはデビュー前から原の大ファン。デビュー五年目にして初めての共演に、胸を躍らせていた。
「東京物語」の撮影は、一九五三年七月二五日に始まった。

尾道ロケで聞いた名匠の言葉

「東京物語」は、広島・尾道が物語の一方の舞台となる。小津監督は志賀直哉に心酔しており、志賀ゆかりの尾道を選んだという。尾道でのロケ撮影は、一九五三年八月に行われた。香川さんはこのロケから撮影に加わった。
大監督とスターが来るとあって、地元は大騒ぎ。地元紙「山陽日日新聞」は同月一五日付の記事で、笠智衆や香川さんらが尾道入りした様子を伝えている。「約一時間前から駅前を埋めつくしたファンの波でごったがえして、春の港まつりを思い出させる雑踏ぶり。両人の姿を見んものとするファンの混雑のため、あちこちで迷子が続出」。翌日に来た原節子は、あまりの人出に一つ手前の駅で降り、車で尾道に入らねばならぬほどだった。滞在した旅館の周りにまでファンが詰めかけ、前の海からボートでのぞこうとするやからも現れた。撮影現場はやじ馬に囲まれていた。
 もっとも、撮影予定は五カットだけ。「セットでも間に合いそうなものだが、コリ性の小津監督はきかず、一週間のロケとなった」(同二五日付朝日新聞)。撮影は同一五日から始まった。
「監督さんの存在感で、いらっしゃるだけで緊張しました。お背は高くなかったけど、がっちりした体格の方。エネルギッシュでしたが、激しく動くっていうんじゃなく、どっしり構えてらっしゃる感じ。尾道のロケで私が出たのはたったの二カット。ほとんど後ろ姿でした。(滞在した旅館の)原さんのお部屋に遊びに行ったりして。二階に大広間がありまして、そこが支度部屋で、メークをしたり、衣装を着替えたりして。夜になると、スタッフの皆さんとご一緒にお食事も。私は監督さんとか、原さん、笠さんがご一緒のところで、皆さんのお話を聞いているだけでしたけれど。ただただ楽しく過ごさせていただいた」
 印象に残る、小津監督の言葉があった。
「監督さんはお酒がお好きでしたから、いろいろお話ししてくださいました。私は黙って聞いてましたけど。ある時『ぼくは、あんまり社会のことには関心がないんだ』っておっしゃったんです。私はその年『ひめゆりの塔』に出演して、戦争とか平和について考え始めて、女優も社会のことに関心を持たなきゃいけないと自覚したばかりだったものですから、ちょっと不思議に思ったんです。だけど、何十年かたって、監督さんが残された語録に『人間を描けば社会が出てくる』っていうお言葉があったのを知りました。監督さんがおっしゃったのは、そういう意味だったのかな、ずいぶん深いお考えだったんだなと分かりました」
 小津監督は「テーマにも社会性を要求するのは性急すぎるんじゃないか。ぼくのテーマは〝ものの哀れ〟という極めて日本的なもので、日本人を描いているからにはこれでいいと思う」と続けている。
「東京物語」については、「親と子の生長を通じて、日本の家族制度がどう崩壊するかを描いてみたんだ」(「キネマ旬報」一九六〇年一二月増刊号)と語っていた。

年齢に合わせて見方が変わる

 一九五三年八月、「東京物語」の撮影は、松竹大船撮影所のセットで続く。小津映画のカメラは低い位置に固定され動かない。俳優の姿勢や小道具の配置にセンチ単位で気を配り、指示どおりの動きとセリフ回しを要求する。様式は完成され、小津組の撮影現場にくまなく浸透していた。香川さんも、その雰囲気を感じた。
「セットに入ると、もうカメラは据えてありました。私は、あんまり周りを見ないたちで、そういうものと思ってやりました。自分がどう写ってるか気にしない。監督さんがこういう撮り方なさるんだから、ついてくしかない、と」
 演出は、監督の頭の中のイメージに俳優をあてはめることに尽きる。香川さんも、監督の言うがまま。立ったまま靴下をはいてさっと化粧を直し「行ってきます」と出て行く、「今だったらフラフラしちゃうかもしれない」動きも、監督の指示どおり。あるいは伏せている母親の枕元から立ち上がり、列車で到着する兄たちを迎えに行く場面ではこうだった。「ウチワを、五回だったかな、動かしたら手を下ろして腕時計を見るって言われました。あんまり余計な動きをしちゃいけないのかなと、ふっと感じたんです。静かな場面だと、激しく動くと目立ちますよね。しんとした雰囲気なんだと思って」
 さて映画は、小津監督が「家族制度の崩壊を描いてみたい」と言ったとおり、はかない親子関係が描かれている。
 尾道に住む両親(笠智衆、東山千栄子)が、東京に住む子供たちを訪ねるが、長男(山村聰)も長女(杉村春子)も迷惑半分。親身なのは、戦死した二男の未亡人紀子(原節子)だけ。両親はがっかりして東京を後にし、やがて母親が倒れる。危篤と聞くと、子供たちは喪服を持っていくかどうか相談し、葬儀の席で形見分けの話を持ち出して仕事があるからとサッサと引き揚げる。
 香川さん演じる末娘の京子は、そんな兄姉の不人情が許せない。紀子に「他人同士でももっと温かいわ。親子ってそんなもんじゃないと思う」と、涙ながらに訴える。「いやあねえ、世の中って」「そう、イヤなことばっかり」と続く名場面だ。香川さんはここも「自然に演じられた」という。
「私もちょうど紀子の年頃でした。大人の一面をイヤだなと思ったり。あのセリフがよく分かったんです。だからわりとスムーズにいったように思います」
 だが、年を経るにつれて違う見方をするようになった。
「喪服のことも、あの時のお姉さんの言葉が、今は分かります。つらいけど、残された者の心構えって現実的にしなきゃならない。(東山が演じた)お母さんが、よく傘を忘れるでしょ。原さんのアパートに泊まって、翌朝出かける時にも。原さんが戻ってきて、ふっと笑いながら持っていく。私も映画の両親の年代になって、『ああいうことってある』と実感するようになりました。細かいところをよく見てらっしゃるなと。自分の年齢に合わせて見方が変わってくる。だから永遠の映画なんだって思うんです」
溝口健二
女優人生変えた出会い

「色白でがっちりした方でした。大きい声を出さず、口の中でゴチョゴチョ、とお話しになるから一生懸命聞かなきゃいけなくて。セットの中に響くような大声は聞いたことがない、静かな方でした。ふだんも仕事以外のお話をした記憶はありませんけど、(撮影中に)私がりむいたりすると、助監督さんに、薬付けてあげなさいと言ってくださったり。照れ屋でらしたのかしら。でもセットに入ると全然雰囲気は違いました。白い手袋をされて、椅子に座って、『ハイ、やってみてください』って。オーケーが出ると、心から芝居が出来たなと思って、気持ちよかったですね」
 香川さんの、溝口健二監督の回想である。溝口監督との出会いは、女優人生を大きく変えた。
 溝口監督は一八九八年、東京に生まれ、「たきの日糸」「浪華悲歌なにわえれじー」「祇園の姉妹」などで戦前に名声を確立した。女の情念をリアリズムで描いた世界的名匠である。香川さんは、一九五四年、「山椒さんしょう大夫」、「近松物語」の二本に出演している。
「山椒大夫」は、一九五二年に「西鶴一代女」がベネチア国際映画祭で国際賞を受賞、翌年「雨月物語」で同映画祭銀獅子賞と連続で大賞を射止め、「いいかげんなものは作れませんよ」と臨んだ。溝口監督、時に五十六歳。人買いに連れ去られた幼い姉弟が、母を恋い慕うおなじみの物語だが、子供は不得手という溝口監督の意向を受けて、主人公の年齢が引き上げられた。厨子王に花柳章太郎の長男・花柳喜章、安寿が香川さん。母親玉木には溝口組の常連、田中絹代が配された。
 溝口監督は執拗しつようなテストで有名だった。「やってみてください」と言って演技させ、気に入るまで「もう一回」「もう一回」と延々と繰り返させる。どこが悪いとも指摘せず、俳優が聞いても「それを考えるのがあなたの仕事でしょ」と切り返す。それを「血の油をしぼられる」と表現した田中は、「山椒大夫」でのこんな思い出を書き残している。
 玉木が岸壁から「厨子王!」と叫ぶ場面。溝口監督は、哀れな母親の雰囲気を出すために、田中に「カロリーを抜け」と命じていた。食事を減らして減量した田中は、この場面を無事撮り終えて安心し、昼食に我慢していたビフテキをこっそり食べてしまう。夜になってアフレコ(撮影後、映像に合わせて音声を後から録音すること)が始まると、監督が「声にツヤがある」と言い出した。夕食抜きで屋外でやることになったものの、何度やっても気に入らない。真相を知ると「先生の顔がサッと紅潮して、なんともいえぬ表情になりました」(「私の履歴書」)。助監督だった宮嶋八蔵は、溝口監督が深夜まで延々とテストをさせて疲れさせた揚げ句、「もう二度ほどテストをすれば声が枯れるでしょう。その時に(テープを)回しましょう」と言ってのけたと思い出した。
 だが、香川さんは「山椒大夫」では、その洗礼を受けなかった。デビュー四年目である。
「この作品に出演できるのは嬉しかったけれど、監督さんの厳しさについては知らなかったので、緊張もなく始まってしまったんです。安寿は年齢的にも無理はないし、心情もよく理解できました。悩むことは、あんまりなかったですね。難しいことは言われなかったと思うのね。『こういう時、こう言われたらどうしますか』といった、監督の言葉に操られるように演じました。よく言われたのは、『反射してください』『反射してますか』ということでした。つまりリアクションですよね。自分の番が来たからではなく、相手の言葉や行動に反応しなきゃいけないってことだと思います」
 当時溝口組の助監督だった田中徳三監督は「溝口さんが何も言わなかったのは、田中絹代の他には香川さんだけだった」と思い返している。年齢も性格も、安寿は香川さんの地に近かったこともあったのだろう。しかし、続く「近松物語」では勝手が違った。

突然、初めての人妻役

 香川さんは、「山椒大夫」を持って一九五四年のベネチア国際映画祭に出席する。銀獅子賞に選ばれて、溝口監督はベネチアで三年連続受賞の快挙を果たした。九月、トロフィーを手に帰国すると、羽田空港で出迎えた大映の永田雅一社長は「君が、おさんをやることになったよ」と告げた。溝口監督の次回作「近松物語」の主役に抜てきされたのである。
「近松物語」は、井原西鶴の「好色五人女」の一編「おさん茂右衛門」と近松門左衛門の「大経師昔暦だいきょうじむかしごよみ」を基に、溝口と名コンビと言われた依田義賢が脚本を書いた。暦をつかさどる大経師の妻おさんが、番頭の一人茂兵衛と不義密通のあらぬ疑いをかけられる。仕方なく逃げるうち、茂兵衛と本当に恋仲になっていくという物語。ベネチア出発前に聞いていた話では、おさんにはベテランの木暮実千代が予定されていた。香川さんは茂兵衛に思いを寄せる奉公人のお玉のはずで、それまで演じてきた役柄とも合う。茂兵衛は長谷川一夫が演じている。
「まったく話が変わってて。どうして私なのか分からないし。お玉の役と思っていたのに、これは大変だ、と」
 溝口作品の脚本を数多く手掛けた依田義賢は、おさん役について「溝さん(溝口監督)は言下に、香川京子君を推しました。『山椒大夫』での香川君の立居が、溝さんの気に入ったのでしょう」(『溝口健二の人と芸術』)と溝口監督直々の指名だったことを明かしている。依田自身も「わたしは、初々しい年の若い女房のおさんの、清純な姿を念頭に置いている溝さんの意図が読みとれて強い共感をおぼえました。これは映画『近松物語』の成功の大きな力であったと思います」と書いている。
 しかし、香川さんは清純派の若手スター。人妻も初めてなら不義密通も初めて。京都弁も大店おおだなの内儀の衣装も経験がない。しかも溝口監督は、徹底したリアリズムを要求する。宮嶋は、「『山椒大夫』の時には、社会制度や経済、風俗まで文献史料をあさって、分厚い冊子にまとめました」と振り返る。
 香川さんは途方に暮れた。おさんの母親おこうを演じた大ベテランで溝口組の常連、浪花千栄子が、香川さんのコーチ役を任ぜられる。浪花が経営する旅館に、撮影の一カ月前から泊まりこんだ。
「監督さんはお困りになったんではないでしょうか。(浪花に)ちょっと頼むよ、とね。衣装部さんから衣装を借りて、歩く練習から始めました。平らなところは出来るんですよね。でも階段を下りるのに、すそをどう持っていくか分からないんです。京都弁も教えていただいたし、ご自分の撮影がない日もセットに来てくださってました」
「セットに入って最初の撮影は、土間から階段を上がると茂兵衛の部屋があって、その中の場面からだったと思います。部屋に入っても、(大店の内儀なら当然)座る場所が違ったりとか。ぜんぜん分かってなかったんですね」
 香川さんはほぼ出ずっぱり。どの場面も緊迫感に満ちている。「山椒大夫」とは一転、しごかれた。溝口監督の「もう一回」の声が、幾度となく繰り返された。「本当に出来なくててこずらせてしまい、申し訳なかったとおわびしたいです。撮影の後半になって、少しずつのみ込めましたけど」
「茂兵衛と一緒にいたいという気持ち、それだけ考えてました。おさんの苦しみは理解できるけど、どう表現していいか分からなくて。考え込んで目をつむっていたら、『その感じがいい』と言われたりして。ラブシーンが出来なくてね。監督さんが笑っちゃうんです。あまりに下手で」

疲れて倒れて、つかんだ

 撮影中、来る日も来る日も絞られた。セットの中、相手役の長谷川一夫をはじめ数十人のスタッフが、香川さんの演技に監督の「オーケー」が出るのを待っている。溝口組ではおなじみの光景とはいえ、二十二歳の新進女優にとっては途方にくれる体験だったろう。
「ほんとにつらかった。逃げ出したいと思いました。監督さんは何もおっしゃらないし、もうどうしていいか分からなくて
「死にたくなるくらい」のつらい日々。だがやがて、香川さんは溝口演出の神髄をつかむ。映画の中ほど、おさんは一人姿を消した茂兵衛を追って必死で山道を駆け下り、足をもつれさせて転んでしまう。慌てて走りよって助け起こす茂兵衛に抱きつき、「奉公人やない、私の夫や」と叫ぶ。おさんが感情を爆発させる、映画の要となるシーンだ。
「何度もテストを繰り返すうちに私、疲れて、走っていてバッターンと倒れちゃった。わざとでなく。そしたらカーッと気持ちが高揚してきましてね、夢中でぶつかっていったら、監督さんが『はい、本番行きましょ』って。余計なもの全部とって、純粋な気持ちになるのが大事で、監督さんも、それを待ってたんだな、と。今やればもうちょっとうまくできたかもしれませんが、ぶつかっていったことがおさんの一途さと重なって、それを監督さんも望んでらしたんじゃないかしら。頭で考えるのではなく、役の気持ちになって、体ごといかなきゃ、と思いました。それを教えてもらったのが、本当にありがたかった」
 フランスのジャン=リュック・ゴダール監督が古今東西の名画の断片をつないだ「映画史」の中に、この部分が採録されている。世界の映画人に影響を与えた名場面だ。
 役になりきること。溝口組で得た俳優の基礎は、現場の思い出とともに香川さんの体に染み付いた。
「(「近松物語」は)いつ見てもその時の気持ちに戻っちゃうんです。ああ下手だなあ、何やってんだろうって。でもこの間久しぶりに見て、やっと冷静に見られました。何十年もたって。それだけ強烈だったんですね」
 溝口監督は気に入った俳優は繰り返して起用した。香川さんの魅力について、こんなふうに書き残している。
「香川君の魅力は、誰でも認めているところだが『純潔』『清楚』ということに尽きると思う。ぢっとしていて、しかも、人の心を強くひきつけるのは、あの、汚れというものを知らぬ美しさである。特に、笑顔がよい。なかなか頭がよくて、敏感な反応をもっている。生得の魅力に、豊かな才能を恵まれた貴重な存在である」
 香川さんは、溝口監督が準備していた「大阪物語」にも出演が決まっていた。衣装合わせまですんでいたという。しかし溝口監督は白血病を発病。病床でも映画の構想を練り続け、最後まで執念を燃やしたが、撮影は果たせず力尽きた。絶筆に「ファスト・シーンが頭の中でできた」と書き残した。「大阪物語」は一九五七年、香川さんも出演し、吉村公三郎監督の手で作られた。
黒澤 明
夢中で覚えていないほど

 香川さんは、黒澤明監督の五作品に出演している。女優の中では一、二を争う多さだ。最初は一九五七年、黒澤監督十八作目の「どん底」だった。
 ゴーリキーの原作の舞台を江戸の長屋に移し、「生きている人間の根強さ、雑草のような生命力というものを描いてみたい」(一九五七年五月三一日付毎日新聞)と挑んだ作品だ。配役は「よほどうまい役者を全員そろえて、演出もそれを信頼してやらなければならない」(『世牙の映画作家③黒沢明』)と、泥棒の捨吉に三船敏郎、大家の六兵衛に中村鴈治郎、その妻お杉に山田五十鈴ら、そうそうたる面々。出演者やスタッフに、黒澤組の常連も多かった。その中で香川さんは最年少、お杉の妹、かよ役である。
「(出演が決まって)喜びより緊張でしたね。黒澤組には、なれあいみたいな雰囲気がありませんでした。何度もご一緒してらしても、それぞれがまったく違う役だったりするから、それなりに皆さん緊張してらしたんじゃないかしら。それに出演された先輩の方たちがすごかったでしょう。こりゃ大変だと思って。私は一番若手で、大事な役でしたから」
 黒澤監督は撮影を始めるにあたり、撮影所に当時、落語界の第一人者だった古今亭志ん生を呼んで「粗忽そこつ長屋」の一席を演じさせた。江戸時代の長屋の雰囲気を理解させるためだった。「びっくりしちゃった、これが黒澤組なんだって。志ん生師匠のような方に撮影所まで来ていただいて、粗末な畳の狭い部屋で、手の届きそうなとこで一席語ってくださったんですから」
 この映画に卯之吉役で出演した藤木悠は、志ん生がこの時の様子を「あんな高座初めて。一人も笑わないし、みんなジーッとにらみつけて見てる」と回想したと語っている(「どん底」DVD特典映像)。
 セットはオープンに建てた本建築の長屋と、スタジオに作った建物内部の二ハイだけ。衣装を着けて読み合わせを十五日、セットで動きをつけて十五日、計一カ月もの間入念にリハーサルを重ね、その上で、複数のカメラを据えて一つのシーンを丸ごとワンカットで撮りきる、マルチカメラ方式で一気に撮影した。撮影期間は一カ月と、黒澤組にしては珍しい短期間。黒澤組のマルチカメラ方式は「七人の侍」で初めて試され、黒澤監督は以後すっかり気に入って洗練させていく。望遠レンズを多用し、画面の手前から奥まで全部にピントを合わせたパンフォーカスも好んで使った。「どん底」はその手法を完成させた作品だった。
「リハーサルは一カ月、そんなに長くやったんですね。懐かしいです。毎日、少しずつやりました」。貧乏長屋も、衣装も驚くほど荒れて汚かった。しかし黒澤監督はどれほどセットが汚くても、靴を脱いで上がった。黒澤組の記録係、プロデューサーを長く務めた野上照代は、「当然でした。セットに対する礼儀ですから」と事もなげに言う。
 香川さんも、その徹底した汚れぶりに驚かされた。「衣装もボロボロ。引っ張ると着物が縦に裂けてしまうほどで、よくこんなの探してこられたというくらい。おかよの前掛けをどうしようか、ということになって、こんなものを着ているし、前掛けなんて作ってもらえない、男の人のお古の着物を自分で縫って前掛けにした感じはどうでしょうって提案して、採用されました。衣装もリハーサルを重ねるうちに、だんだん自分に身についてくるのが分かるんです。大事なんだなと思いました」
 黒澤監督の演出は、演技の注文はつけず、何度も繰り返させて俳優の力をギリギリまで引き出す。香川さんも、夢中で役にぶつかった。「長いお芝居が好き。どこから撮られていても、カメラの位置は気にしない」という香川さんには、黒澤組の撮影はやりやすかった。
「カットの途中から長屋の中に入ってお芝居があって、また出て行くまでワンカット。舞台のようでした。演出のされ方は、溝口健二監督と共通点があるように思います。カットが長いことも一つですけど、特に女性に対してはあまり細かくおっしゃらないから、自分で考えなきゃならないという点も。最後におかよが半狂乱になる場面では、カーッとなって自分で何をやったかよく覚えてないんです」
 自分に思いを告げる捨吉をようやく信じる気になったのに、捨吉があやまって六兵衛を殺してしまう。捨吉がお杉とグルになっていたのだと誤解したかよは、「二人でやったんだー、みんな二人でー」と髪を振り乱して絶叫し、ギャーと叫びながら板塀に激しく頭を打ちつける。
「後で、なんだかおでこが痛いなって思ったら、その勢いのまま壁に頭をぶつけてたんですね。おかよは、いつも姉の顔色を見てびくびくして、三船さん(が演じた泥棒の捨吉)に、一緒に逃げようと言われても、まず疑ってしまうような屈折した性格の娘。それまで、ストレートに明るく表現する役が多かったから、おかよの役は好きでした。難しさもあったけど、面白かったです」。人間不信の底に突き落とされたかよの、すさまじいばかりの絶望である。
 黒澤監督はこの撮影について「リハーサルを徹底的にやったから、もうクランクさえ回せばパッと調子が出るというくらい、みんな自分の役柄が手に入っちゃっていたのだね。あまりNGも出さないで非常に快調だったみんな楽しく、和気あいあいとやれた写真だな」(「キネマ旬報」一九六三年四月下旬号)と語っている。
 香川さんも「カメラが遠くにあって、望遠だかなんだか全然分からなくて。自分のお芝居に夢中でした。『どん底』は好きな作品でしたから、苦しんだ思いはあんまりなかった。一人一人が素晴らしい、良く描かれていると思いました」と思い出した。

「女優はもうだめかな?」

 一九六〇年三月三〇日付の毎日新聞に、「香川京子、顔にケガ」という見出しの記事が載っている。
〈二十九日午前十一時五十分ごろ愛知県豊川市海軍工廠こうしょう跡で、黒澤明監督の東宝作品「悪い奴ほどよく眠る」のロケ中、三橋達也さんと香川京子さんの乗ったスポーツカーが急ブレーキをかけたとたん、香川さんはフロントガラスに体をぶつけ、前額部に横二・五センチ、タテ五ミリ(実際はタテ2・5センチ、横5ミリ)の裂傷と左腕に打撲傷を負い四針縫った。〉

「瞬間、女優はもうだめかな、と思いました。顔ですからね、どんな傷か分からないし、血がタラタラ流れてきますし。でも、現地のお医者さんが上手に縫ってくださって痛みもなくて、電車でスタッフの人たちとトランプしながら帰りました。傷跡はちょっと残って、しばらくはテレビで影が出たりしました。今はすっかり分かりませんけれど、眉頭まゆがしらのその部分には毛が生えないんですよ」
「どん底」に続く香川さん出演の黒澤監督作品「悪い奴ほどよく眠る」の撮影中だった。ロケ地は戦争中の爆撃で破壊された瓦礫がれきが残る荒れ地。急ブレーキで止まった車から、香川さんが降りるという場面だった。しかし車は予定の位置で止まらず、瓦礫に衝突してしまう。「最初のテストでした。車が止まったら急いで降りなきゃいけないっていう意識があったから、体が完全に浮いていた。その時コンクリートの壁にぶつかったものですから、ひとたまりもなく前につんのめって」
 ぬかるみでのリハーサルの間に三橋の靴底に泥がつき、足を滑らせてブレーキを踏みそこなったことが原因だったようだ。三橋は「靴が赤土でズブズブになってたものだからぺダルが滑ったんです。本当は、スッと停まるものが何十センチか前に行き過ぎたんです。そしたら車止めに車の頭がトンと当たって、その時は香川京子さんは降りる準備をして立っていたので、反動で前につんのめってフロントガラスの枠で額を切ってしまったんです。私は青くなってしまいまして、生涯この人の面倒をみなければいけないのかなあって」(『黒澤明を語る人々』)と明かしている。
 三橋も黒澤監督もきもを冷やしたが、香川さんは一カ月ほど撮影現場を離れて療養し、回復を待って無事撮り終えた。
「悪い奴ほどよく眠る」は、黒澤監督が起こした黒澤プロダクションの、第一回作品である。黒澤監督の撮影は、製作費も日数も大幅に予定を上回るのが常だった。それでも東宝は、それ以上の収益を上げるために特別扱いしてきたが、一九五八年の前作「隠しとりでの三悪人」の製作費が予算の倍近い一億五千万円まで膨らんだことに業を煮やし、黒澤監督に負担を求めて、共同で黒澤プロを発足させたのだ。もっとも、「隠し砦の三悪人」も、配収三億四千万円を上げているのだが。
 政官界汚職を題材にした社会派サスペンス。「黒沢プロができたら早速、もうけのための写真を作った、などと言われるのもシャクでね。いちばん難しいものに取り組んでやろう」(『世界の映画作家③黒沢明』)、「なにか社会的に意義のある題材を見つけたい」(「キネマ旬報」一九六三年四月増刊号)と取り組んだ作品だった。香川さんは、三船敏郎演じる主人公の妻、佳子。片足が少し短く、松葉づえをついているという設定の佳子を演じるのに、高峰秀子さんのアドバイスをあおいだという。
「(小林正樹監督の「この広い空のどこかに」で)足が不自由な役をやってらしたのを思い出して、お聞きしたんです。ヒザにサポーターを巻くといいわよって、教えていただきました。動かないように、大きくて硬いのをずっと着けていました」
 佳子は純粋だが世間知らずで、事態を悪化させてしまう役どころ。「(汚職事件に)巻き込まれて苦しむ役でしたから、疲れました。やってる時は一生懸命でしたけど、作品を見ると、何て世間知らずなんだ、このお嬢さんのせいでこんなことになっちゃうんだって、イライラしちゃう」。香川さんは笑いながら振り返った。そして「本当に悪い人がのうのうとしている、今も同じですよね。黒澤監督、よくこういう作品お撮りになったと思います」と、改めて感心するのだ。時代を超えてなお、生々しさを失わないのである。

女性をよく分かっていた監督

 香川さん三作目の黒澤作品は、一九六三年の「天国と地獄」だった。誘拐事件に巻き込まれた夫婦の苦悩と捜査陣の活躍を描くサスペンス。エド・マクベインの「キングの身代金」が原作だ。「もし自分の子供が誘拐されたら」と心配していた黒澤監督が、この小説を読み、誘拐事件への憤りとともに取り組んだ。
 香川さんは、三船敏郎演じる製靴会社重役、権藤の妻怜子。犯人は誤って運転手の子供を誘拐するが、権藤に身代金を要求する。後半部分、疾走する特急こだまからの身代金受け渡しの撮影が語り草になっているが、前半も大変だった。犯人からの電話を待つ権藤夫婦と刑事たちのやり取りが、丘の上に建つ権藤宅の応接間を出ずに進む。画面が横に長いシネスコサイズ、マルチカメラ方式の長回し。舞台劇のようだが、カメラの前で人物が重なっては台無しだから、配置と動きは注意深く決められた。記録係だった野上照代は「人間の配置が難しかった。重心がちょっと傾いただけで、構図が変わっちゃう。ダンスのようでしたよ。クイッククイックスロースローって」と思い出す。
 香川さんは権藤のそばに付きっ切り。セリフがなくても気が抜けない。
「ほとんど女の人がいないでしょ、それにいつも画面の中にいて、周囲のことに反応してなくちゃならない。黒澤組の女性っていうのは出すぎても、引っ込みすぎてもいけない。そのころあいがとっても難しかった。緊張したおかげで、やせましたよ。黒澤監督がお亡くなりになってから記事を整理をしてたら、監督さんのコメントが出てきたんです。怜子のイメージは、買い物カゴが似合わない、お嬢さんで重いものを持たない、エリザベス・テーラーみたいな感じとおっしゃってて。重いものなんか、しょっちゅう提げて歩いてたのに、ちょっとヒヤッとしました。私は、素直に幸せに育ってきた人という感じをイメージしていました」。刑事役の仲代達矢はヘンリー・フォンダのイメージと言われ、生え際を後退させるために、毎日額を剃ったという。
 監督以下スタッフ、キャストが全力で臨む黒澤組の撮影現場は、張り詰めた空気に満ちている。監督はうまくいかないと不機嫌になって大声をあげる。「バカヤロウ」とは言わず、「デコ助」が口ぐせだった。香川さんも「怖かった、迫力ありますよ」と思い出す。
 出演者の一人が集中して怒られ役になるのも、黒澤組の常だった。この映画ではボースンこと田口部長刑事役の石山健二郎が、標的となった。石山は舞台出身で、黒澤組は初めて。ずんぐりした体格、ツルツルに剃った頭という特異な風貌で配役されたが、黒澤監督はその演技が気に入らない。緊張でガチガチになり、ますますうまくいかなくなる悪循環。野上は「セリフに頭が行くと動けないし、動くとセリフが言えない。舞台出身で芝居の質が違いましたから。かわいそうでしたよ、口説かれて引っ張り込まれたのに、怒られてばかりで」。しかし完成した映画の中の存在感は抜群で、石山の代表作となった。香川さんも「横で聞いていると、こちらまで叱られているような気になって。でも、出来上がった映画では、感じが出ていて素晴らしかった」と賞賛した。
 香川さんが怒鳴られたのは、一度だけ。権藤の元にかかった脅迫電話の受話器に、伶子が耳を近づける。「私が送話口に耳を持っていってしまって、何度かやっているうちに『香川くん、反対だー』。自分が間違ってたから、しょうがないです」。演技について言われたことはなかった。野上は、黒澤監督が香川さんについて話したことを覚えている。「溝口健二監督を通ってきた人は楽だね、鍛えられてるから。任しといても自然にやってくれる」と。厚い信頼を得ていたのだ。「ダメな人は使わないし、香川さんのことは気に入っていた」と思い返した。
 撮影のぜいたくさも、黒澤組ならでは。この撮影では、同じ応接間のセットを二つ作った。東宝のステージでカーテンを閉めている場面を撮り、横浜の丘の上のオープンでは、外の景色が写りこむ日中部分を撮った。「横浜のセットでは、朝から十一時ごろまで撮影して、日がある程度まで差してくると、じゃ、また明日。翌日、同じ時間に撮るわけ。毎日少しずつ。さすが黒澤組って思いました」。自然光を生かして撮影したので、同じ光線の具合の時間帯だけしか撮影しなかったのだ。あるいは、セットで夜の場面を撮影した際は、横浜の夜景をミニチュアで作り出した。「豆電球を何千個も、一週間かけて作って。でも映画に使ったのは数秒間」と野上は思い出す。妥協のない姿勢が、香川さんを感心させた。
 ところで香川さんは、男性的な作品の多い黒澤監督のイメージについて、疑問がある。「黒澤監督は、女性のことは分からないっておっしゃっていたようですけど、そんなことはないと思います。『天国と地獄』の最後、豪華な柱時計が鳴るシーンで私が着ているのは、自分の洋服だったんです。白地に細い青磁色の縦じまのシンプルなワンピースで、着やすいし大好きで、よく着ていましたが、撮影のない打ち合わせの時も、それを着ていったんです。そしたら監督さんが気に入って、それがいいねって言われて、まだ決まっていなかったあのシーンの衣装がすぐに決まったんです。普通男の人って、なかなかそういうところには目がいかないものでしょう。よく見てらっしゃると思って」
「まあだだよ」の時も、香川さんの着物選びは人任せにせず、監督自ら立ち合ったそうである。

意外な役柄、鬼気迫る演技

 一九六五年の「赤ひげ」は、黒澤監督自身が集大成と言う一作だ。山本周五郎の「赤ひげ診療たん」の映画化。江戸末期の小石川養生所を舞台に、無知と貧困にあえぐ人々を病から救おうとする医師、赤ひげこと新出去定にいできよじよう(三船敏郎)の奮闘と、新米医師、保本やすもと登(加山雄三)の成長を、五つの挿話の中に描いていく。
 折しも日本映画界が斜陽化の一途をたどっていたころ。黒澤監督は、それを救うのは映画人の誠実と情熱だと指摘し、「赤ひげ」では「スタッフ全員の力をギリギリまで絞りだしてもらう。そして映画の可能性をギリギリまで追ってみる」(「黒澤明コレクション」)と宣言した。
 撮影の最初にベートーベンの「歓喜の歌」をかけて「最後にこの音色が出なかったら、この作品はだめなんだぞ」と繰り返し言い聞かせた。小石川養生所の看板の字体を決めるだけで一カ月。巨大なセットは組み上げてから三カ月間風雨にさらし、味が出るのを待って撮影開始。黒澤監督自ら率先して黒光りするようにセットを磨いた。茶碗を全部焼かせ、茶渋を付ける。赤ひげの居室の薬箱は、開かない引き出しにまで薬が詰まっていた――と、これは伝説だったと美術の村木与四郎が証言しているが(『村木与四郎の映画美術「聞き書き」黒澤映画のデザイン』)、そう思わせるほどの手の掛けようだった。演技、撮影などあらゆる部分で妥協を許さず、撮影に一年半。
 香川さんの役は、患者の一人「狂女」。大店の娘だが色情狂で、三人を殺し座敷牢に閉じ込められている。「びっくりしました。私がこの役をやるのかって」と香川さん。これまでの役柄とあまりにも違う。しかし記録に付いた野上は「初めはお嬢様風で、登をだまして引き寄せるという難しい役。香川さんならできると思ったんでしょう」と話す。清楚な見かけと確かな演技力、二つを兼ね備えた女優はそうそういない。役作りに戸惑った香川さん、以前に同様の役を演じた山田五十鈴の紹介で、病院を見学した。「モデルになる人はいなかったのですが、見た目は普通でも普通の人と違うっていう、ちょっとしたヒントは得られました」
 香川さんも「撮影前にセットを見学しましたが、大きな門から奥深くまですごかったです」。映画では、玄関先しか写らない座敷牢る「ずーっと中まで、全部作ってありました」と驚いた。野上は「俳優がセットに入ると、気分が変わってその気になるんです。素晴らしいですよ」と、いくらか誇らしげに認めた。黒澤組では、それが当たり前だったのだ。

リハーサルを何十回も
 
 黒澤と、井手雅人、小国英雄、菊島隆三の四人の共同脚本には、香川さんが演じた狂女は「ぞっとするほど美しい」と書かれている。座敷牢を抜け出して、登の居室に入ってくる。

開け放した板戸の外に女が一人立つ。
ぞっとするほど美しい。
女は登をぴたっと見つめたまま、すーッと部屋へ入ってきて、後ろ手に板戸を閉める。
登、中腰になる。
女、その前に身を投げ出すように坐って、
「お願い! 私を助けて

 ここから幼い時に虐待された身の上話で保本を同情させておいて、

その時、私はこうしたのよ自分が殺されるくらいなら相手を殺してやるこの釵をぐっとやったの、ちょうどここのところよ」
逆手に持った釵を、さっと登の耳の後ろに押しあてる。

(「黒澤明コレクション」収録の脚本)


 と襲い掛かるのだ。
「助けてください」と悲惨な身の上話をするうちに次第に狂気をあらわにし、引き込まれた登を押さえつけて、首筋にかんざしを突き刺そうとする――。画面の両端にいた二人が、だんだん近寄って一体となってもみ合うまでの長いカットだ。自然な動きを決め、カメラや照明を準備するリハーサルには、長い時間をかけた。香川さんは回想する。
「いかにして、加山さんを引き寄せるか、それが難しかった。一生懸命、自分の部屋で練習した覚えがあります。セリフを言いながら、どう動いたらいいのか。監督さんは、難しくはおっしゃらなかった。ただ、事前にあまりリハーサルはせず、セットに入ってから、ずい分しました。カメラの位置が決まるまでも、大変でしたよ」
 非力な女が、登を動けなくする方法が難題だったが、黒澤監督は振袖のたもとを背中に回して締め付けるという案を考え出した。さらに、監督は狂女のかんざしに光を反射させたいと思いつき、そのためにライトを調節し、止める手の位置を細かく決めた。「かんざしを構えた時に、キラッと光らせたいって。何十回やったかしら。なかなかうまくいかなくて」。一点一画もゆるがせにしない、黒澤組である。
 後半は、狂気を強調するため、化粧を変えて撮影した。
「すごいメークでしょう。(こめかみの)生え際の、三カ所ぐらいを細く三つ編みにするんです、それで(かつらの下に着ける)羽二重をギューッと締める。そうすると目がつり上がる。痛いんですよ。白黒でしたけど、青いシャドーもつけて。鏡で自分の顔を見ると、怖くてね」。撮影に六日間をかけて、鬼気迫る名場面となった。
 この作品に精魂傾けた黒澤監督は、撮影中に肺炎で入院、撮影はしばしば中断した。
「作りあげた時は、バテてしまって、入院しても部屋が五階だったんだけど、飛びおりそうになって。これを終えたあと〈このあと、どうするんだ〉と言われましたよ」(『世界の映画作家③黒沢明』)と振り返っている。
 香川さんの女優人生の中でも、一区切りとなった。「結婚して最初の仕事だったんですよ。黒澤さんが、『申し訳なかった、こんな役で』っておっしゃったって、伝え聞きました。試写会の時にはお腹が大きかったです」。この作品公開後に夫の転勤に付いて渡米し、以後しばらく映画界から遠ざかったのだ。

「あそこはラブシーンだ」

黒澤監督は「赤ひげ」の後、「トラ・トラ・トラ!」降板、自殺未遂と苦しい時を過ごす。香川さんも渡米し、二人が再び出会ったのは、一九九三年「まあだだよ」だった。「嬉しかったですね、また黒澤組に出られるなんて。脚本を読ませていただいたら、今までの作品とまったく違うでしょ。むしろ小津安二郎監督のような。これをどういうふうにお撮りになるのかなって」
 内田百閒をモデルにした「先生」と教え子の交流を、温かく描く。黒澤監督は、百閒を長年愛読していたという。「ごく自然に『百閒先生とその教え子たち』を面白いと思って映画にした」(一九九三年三月九日付毎日新聞)と語っている。黒澤スタジオで脚本を見せられた香川さん、先生の「奥さん」役と言われたが、肝心の先生役が知らされていなかった。
「先生がどなたかって、どなたも一切口にしない。聞きたいんだけど、聞いちゃいけないのかなって思って。ああいう夫婦役って、遠慮したり緊張するような方が相手だと、困っちゃうのよね、内心すごく心配だったんです。その後、百閒先生の奥さんの妹さんにお話を聞きに、茅ヶ崎にうかがったんです。その時に扮装をした先生の写真を野上照代さんが見せてくださった。最初は分からなかったんですが、松村(達雄)さんよって。あー、よかったって思いました」。一九六八年から放送されたテレビドラマ「肝っ玉かあさん」で、香川さんは松村の娘役を演じて、気心が知れていたのだ。
 奥さんは夫にぴったり寄り添っている。複数のカメラが望遠レンズで撮影しているから、セリフのない時も気が抜けない。「天国と地獄」と同じである。焼け出された夫婦の三畳の小屋に、教え子たちが訪ねてくる場面。話に花を咲かせる師弟の後ろで、奥さんはまめまめしく給仕する。
「監督さんは『(先生は)子供なんですよ、いつまでたっても、とセリフを言いながら、おかずを出してほしい』ってそれしか言わない。教え子の話を聞いて、それなりに考えたり一緒に笑ったりして、タイミングはお芝居と合わせなくちゃならない。小屋は狭くて、煮炊きは外の台所でしてるんですが、途中でちょっと立ってお鍋を持ってきて、お料理を小皿に分けて、前のお皿を下げて次の料理を出して、そこでセリフを言えばって、逆算しました。その連続。細かい芝居が大変でした」
 黒澤監督はこの時八十三歳。演出スタイルは変わらないが、年輪も重ねていた。
「迫力は少しも変わっておられなくて、ああ、黒澤組の雰囲気は昔と同じだなあって。ただ『赤ひげ』のころは、今日は本番かなって思うとお休みということが、しょっちゅうあったことを考えると、ペースが早くなりました。その日の撮影が終わってから、リハーサルをしてカメラ位置も全部決めて、翌朝現場に行くと、必ず本番がワンカットは回るわけです。監督さんは、セットに来るのが楽しみだけど、あんまり早いとみんながイヤがるから、ギリギリに行くんだっておっしゃってました。お元気で、楽しそうにやっておられる感じでした」。この作品ではプロダクションマネージャーを務めた野上は「黒澤さんの体を心配して、無理させないスケジュールを組んでいたんでしょうけれど。スムーズに行ってましたね」と思い出した。
「時々、ポツッ、ポツッて、ヒントみたいなことおっしゃる。台本をいただいた時は『奥さんは先生を愛してたんだね』って。ああなるほど、それが役の根本だなって思った。三畳の四季の移り変わりのあたりは『あそこはラブシーンだ』。どうしたらいいんだろうって困りましたけど、夫婦愛みたいなものが出ればいいのかなあと。自然にやってくださいっておっしゃってましたので、肩の力を抜いてやるようにしてました」。香川さんも、楽しんで演じられたという。映画は、カンヌ国際映画祭に特別招待作品として出品された。
 黒澤監督は香川さんについて「リアクションがすばらしい。カンヌでも大好評だった」(一九九四年四月一三日付朝日新聞)とたたえている。野上は「監督は『まあだだよ』では、ああいう役は香川さんにしかできない、いい役者さんは同じ役柄で使っちゃいけないと言っていました」と振り返った。その言葉どおり、香川さんは五本の黒澤作品で全部違う役柄を演じている。「いろんな役をやらせていただきました。勉強になりました」と感謝するのだ。
 ところで「まあだだよ」の撮影で、香川さんは懐かしい顔と再会している。演出補佐としてクレジットされている本多猪四郎ほんだいいしろうだ。本多は東宝入社では三年先輩だが、黒澤監督とは共に助監督として走り回った肝胆かんたん相照らす仲だった。一九五四年の「ゴジラ」を大ヒットさせて以来、日本の特撮モノの先駆者として活躍。香川さんは一九六一年、本多監督のヒット作「モスラ」に新聞社のカメラマン役で出演していたのだ。本多監督は、「影武者」から黒澤監督の補佐役を務めていた。香川さんは、「とても穏やかな方で、何十年たってお会いしても少しも変わっておられなかった」と思い出す。
 ところが本多監督は、「まあだだよ」公開を見ることなく急逝してしまう。「黒澤監督はじめ皆さんとご葬儀に出席させていただきました。『モスラ』の思い出話などしたかったのに、残念でした」
 新たな出会いもあった。この作品の助監督、小泉堯史たかし。約十年後の二〇〇二年、香川さんは小泉が監督した「阿弥陀堂だより」に出演することになる。
 小泉は黒澤監督に私淑して映画監督を志し、学生時代から、黒澤監督と木下恵介、小林正樹、市川崑が作った「四騎の会」の事務所に出入りするようになった。黒澤監督の自殺未遂事件以後、他の監督の助監督などを務めていたが、「影武者」の資料集めに呼ばれ黒澤監督の元で働くようになる。以後、黒澤監督に最も近いスタッフとして信頼され、「まあだだよ」ではチーフ助監督として、脚本作りから参加していた。
「私は『赤ひげ』以来でしたから、その間のことは分かりませんでしたが、小泉さんは黒澤監督のことを良く理解しておられて、何を言われても、いつもニコニコしてらした。とても謙虚な方です」
 小泉は黒澤監督の死後、黒澤監督の遺稿となった「雨あがる」で監督デビュー。南木佳士なぎけいしの小説を映画化した「阿弥陀堂だより」は監督第二作だ。香川さんは、田村高廣の妻役である。撮影の上田正治、録音の紅谷怪一ら、黒澤組の常連スタッフが再結集し、長野県飯山市にロケセットを建て、長期にわたって撮影した。香川さんは、二〇〇一年五月、十月、翌年一月と現地を訪れて、撮影に参加した。
「原作にはない役を書いてくださった。時間をかけて丁寧に撮りました。小泉さんは静かだから、現場も静かでしたけれど、じっくり撮るところは黒澤さんと似ていました」
 一九四三年、「姿三四郎」でデビューした黒澤監督は、「まあだだよ」まで三十一作品を残した。初めて出演してから四十年の付き合いとなった香川さん、俳優として映画や演技についてだけでなく、人間としても黒澤監督から多くのことを教わった。
「黒澤監督から教わったのは、いろんなことに工夫するということ。時代劇でも、時代考証はしっかりするわけです。でもそのとおりではなくて、いかに映画として効果的に面白くなるかを考える。扮装も、ちょっと作り直したり。天才的な方だと思いますけれど、思いつきや感覚だけでやってらしたんじゃなくて、工夫があった。『赤ひげ』でたもとを縛ること一つにしても、ものすごく考えてらした。だから、私の日常の家事なんかでも、こう工夫すればいいんだとか、こういうふうに考えればいいんだとか、今でも時々思います」
 撮影現場では、自分の撮りたいイメージを実現するため妥協を許さず、スタッフや俳優にも持てる力のすべてを注ぐよう厳しく求めた。完全主義者、黒澤天皇などと怖れられもしたが、香川さんはその笑顔を、懐かしく思い出す。
「ふだんは本当に明るい、お話の上手な方でした。オープンセットでは、お昼の休みになると、テントを張ってご馳走が出るのよね。それを囲んで皆さんでお話するんですが、それが楽しくて。御殿場のロケの時は、松村さんと一緒に別荘に招待していただきました。怖かったけれど、懐かしい。何とも言えないあのすてきな笑顔がね」

第二章

スターへの階段

デビュー
難関くぐって新東宝へ

 一九四九年二月一七日付の東京新聞の一面に、「映画スターへの登竜門を開く ニューフェイス・ノミネーション」と社告が出ている。同紙が映画会社と協賛した新人発掘の企画だった。戦後、軍国主義の制約から解放され、息を吹き返した映画会社は次々と映画を製作し始め、娯楽に飢えていた国民は映画館に押しかけた。映画界は量産体制に突入するが、人材不足。新人育成は映画界の急務だった。スターの卵を、鵜の目鷹の目で探していたのだ。各社とも試験を行って新人をこぞって採用したほかに、「ニューフェイス・ノミネーション」のような才能発掘イベントも企画されたのだ。
 資格は満十八歳以上の男女。記事には「時代が要求する新人俳優の出現を全映画界は心から待っており、この合格者は協賛各映画会社に採用されます」とある。審査員には、小津安二郎、木下恵介、渡辺邦男、大河内傳次郎、田中絹代ら、一流映画人がズラリと並んでいる。女学校卒業間近だった香川さん、「普通のお勤めではなく、何か自分の仕事、といえるような仕事をしたい」と考えて、この記事を目にして応募する。
「隣の叔父(新東宝で宣伝課長をしていた永島一朗)の家には、作家の方や映画関係の方が出入りして、『めいを女優にしたら』なんてからかわれていましたが、私は絶対なるものかと思っていたんです。嫌いではありませんでしたが、学芸会で舞台に出たいとか、一切なかった。見る方が好きで。どうして急にそういう気持ちになったのか、今でも不思議で仕方ないんです」
 芸能界は厳しいところだ、という永島の反対を押し切って応募したものの、ノミネーションの人気は絶大だった。同紙によれば「全国から申込殺到五千四百名」「写真と履歴書で千四百名を選抜、銀座松坂屋地階で四月十一、十二日に分け、面会テストで約百名とし、更に十三日の三次審査で各社別に候補者を決定」(同年六月一二日付)。松竹、東宝、新東宝の三社が三人ずつを採用し、香川さんは永島のいた新東宝に選ばれた。
 香川さんはノミネーションの結果を待つ間に、銀座の服部時計店の就職試験を並行して受けていた。両方の最終試験が重なったが女優の道に挑み、見事合格。「映画界に就職したような感じでした。最初に月給をもらった時は嬉しくてね。たしか三千円だったと思います。そんなに悪い方じゃなかったんでしょうね」
「新東宝は東宝の労働争議に嫌気がさした長谷川一夫、山田五十鈴ら俳優や監督が独立して一九四七年に発足した新しい会社だった。ちなみに人事院によれば、一九五〇年の高卒職員の初任給は三千百八十四円。
「新東宝って、すごく楽しい会社だったんです。皆さん優しくって。私は学校に行ってた時と同じお下げ髪のまま、化粧もしない真っ黒な顔で、撮影所に通ってました。女優さんといえば最初から、大人っぽくてきちんとお化粧してましたから、珍しかったんでしょうね。初めて口紅つけた時なんか、みんな面白がってからかうんですよ」
 新人養成といっても、同期は三人。基本は現場に慣れること。斎藤寅二郎や渡辺邦男らスター監督の撮影を何時間も見学した。そしてエキストラ。一九四九年十一月公開の「帰国(ダモイ)」で初めてセリフが付き、一二月の「影を慕いて」では山根壽子ひさこの妹役だった。
「(『帰国』の)主役は池辺良さんと山口淑子さんで、私は受付で帽子をお預かりして、『ありがとうございます』。一言だけど、ずい分練習しました。うれしさと緊張でいっぱいでした。(『影を慕いて』では)女学生で英語の文章を読みました。学校でついこの間まで習っていた所だったんですが、担任の先生がご覧になって『私のクセが全部出てて、恥ずかしかったわ』って言われてしまった」
 やがて大きなチャンスが回ってくる。

代役で急きょデビュー

 一九五〇年一月。新東宝に入社して半年、撮影現場を見学したり、演技のレッスンを受けたりと夢中で過ごしていた香川さん。ある日、東京都町田市にある俳優の大日方傳おびなたでんの自宅に行くように、と指示された。大日方邸では、島耕二監督の「窓から飛び出せ」の撮影中だった。この時のことを、香川さんは覚えている。
「玄関わきのお部屋で待ってたんですが、一月で日が暮れるのが早いから、暗くなって心細くなってね。撮影が一段落してから大日方さんと監督さんにお会いして、別に何でもなくそのまま帰ってきました。面接だっていうこともよく分からなかったんですが、それがデビュー作になったんです」
 翌日から、主要キャストの一人として、現場に通うことになった。
 東京郊外の隣同士の二軒の家族の間に起こる出来事を、コミカルに明るく描く。
 大日方は戦前から活躍したスターだったが、学生時代に専攻した園芸に熱を入れ、自宅周辺に農場を持ち家畜も飼っていた。映画は大日方の発案で企画され、原作、プロデューサー、出演も兼ねた。島監督は、大日方の長年の友人。「愛情と合理的生活のなかに、真の幸福がある」という大日方の信条が、そのままテーマになっている。撮影も合理主義。セットを使わず、大日方の自宅とその周辺で行われ、四人の子供たちやブタ、ヤギ、アンゴラウサギなど家畜まで総動員という異色作である。
 カメラマンの萩原泉は、この映画で撮影の安本淳の助手に付いていた。技術者らしく回想する。
「玉川学園の駅の南側にあった立派な家で、勝手から居間から、全部使って。庭や周りの畑も、撮影一色。カメラを引く時は、窓ガラスを割らないように外したり。家の中と外と光の具合が違うので大変でしたが、安本さんのテクニックで明るいいい作品になりました」
 香川さんは新興宗教に熱を上げる母親を気遣いながら、合理主義を信奉する隣の家族とも親しく行き来する、茉利子。小林桂樹を相手役に、子供たちの野球の試合に飛び入りしてピッチャーになって球を投げたりと元気いっぱいだ。初めてとは思えないほど、伸び伸びと自然に演じている。
「全然わけが分からないまま現場に行って、どういう映画だと説明を受ける間もなく、バタバタと撮影は始まりました。でも、あがって真っ白になっちゃうっていうたちではないんです。言われるままにやってればよかった。ただ、初めてラッシュを見た時に、あんな変な歩き方してたのかしらって、すごく恥ずかしくて。自分では全然分からなかったんですけれど」
 実はこの役、久我美子が演じるはずだった。それが今井正監督の「また逢う日まで」の撮影が延びて、降板。
「急きょ決めなきゃならないっていう段階だったんじゃないですか。私は久我さんのおかげでデビューしたと、何十年もたってから知ったんです。そういうのも運みたいなものですね。半年でデビューできたんだから、早い方だと思います」
 香川さんの長い女優人生は、こんなふうに始まった。
島 耕二
早すぎた都会的な作風

 香川さんは、「窓から飛び出せ」から島耕二監督の作品に立て続けに出演した。同じ年に「君と行くアメリカ航路」「東京のヒロイン」と続き、一九五一年「孔雀くじゃくの園」、一九五二年「上海がえりのリル」、少し間を置いて一九五六年「新・平家物語 静と義経」と計六本。
「島監督はとっても私を可愛がってくださってね。監督さんが、私のことを語ってくださった記事を読みますと、ちょっと暗い面があるから明るい役がいいんじゃないかっておっしゃってる。私もそういう役が好きでしたから、楽しかったです。怖いもの知らずでしたしね」
 島監督は戦前の日活でスター俳優として活躍したが、一念発起して監督に転向。千葉泰樹監督の助監督を務めた後、一九三九年「雲雀ひばり」で監督デビューを飾った。「風の又三郎」「次郎物語」と、戦前の叙情的な名品が代表作。戦後は文芸物や軽喜劇、SF「宇宙人東京に現る」まで手掛ける職人肌の才人としてならした。一九五九年「いつか来た道」ではモスクワ映画祭で審査員特別賞を受賞。香港の映画会社、ショウ・ブラザーズでも作品を残している。
 社会派作品が重んじられた時代に、島監督の軽妙で都会的な作風は評価されにくかった。「『窓から飛び出せ』も、あの時代には早すぎて、ヒットしなかったんですって。いいお話でしたよ」と香川さん。
 だが、ユーモアのセンスや無声映画の技法を生かした軽やかな語り口など、今見ても新鮮だ。子供と自然の撮り方がうまく、アイデアも豊富。小道具の使い方は、今でもお手本になりそうだ。無類の猫好きとしても知られ、作品中にもしばしば登場した。
 人品穏やか、めったに怒鳴らない。撮影中はいつもニコニコ。評判はすこぶるいい。「風の又三郎」「君と行くアメリカ航路」などに出演した風見章子は「いい男でしたね、苦みばしった。チャーミングな人でしたよ。ポケットにこう、手を突っ込んでね」と思い返す。撮影助手として参加した萩原泉も「きちっとスーツを着て、物腰がやわらかで当たりがいい。おっとりと芝居をつけながら、淡々と撮影してました。(注文が少なかったので)撮影部としては、いい監督でした」と笑う。香川さんも「おしゃれな、温厚な方でした」と懐かしんだ。
 人柄から、新人育成を任されることも多かった。田宮二郎や若尾文子も薫陶を受けた。香川さんも、それで預けられたのだろう。
「君と行くアメリカ航路」も「すごく好き」と香川さん。風見の妹で、駆け出しのデザイナー役だ。上役にアイデアを横取りされてばかりだったが斎藤達雄演じる米国帰りの大画家の助けで大逆転。「都会的なしゃれたコメディーは、演じていても楽しかった。女学生そのままっていう感じでした」
 徹夜の撮影もあったが、若かったし夢中だった香川さん、少しも苦にならなかった。

念願のバレリーナ役

 島監督との仕事の中でも、一九五〇年の「東京のヒロイン」は、香川さんにとって忘れられない作品だ。
 女性のペンネームで女性の地位向上の原稿を書く森雅之と、雑誌記者でその作家の原稿を取ろうと必死のとどろき夕起子が繰り広げるしゃれた喜劇。今風に言えばラブコメである。香川さんは轟の妹で、バレエを練習中の女学生。おちゃめで元気がよく、二人の仲を取り持つ役どころを、伸び伸び演じている。
「雑誌に出ていた長谷川公之さんのシナリオを読んで、『この役やりたい』って思ったんです、生意気にも。一時はバレリーナを目指していましたし。そんなふうに思ったのは初めてでした。そうしたら、島監督がお撮りになると決まって、私が妹の役をいただいた。望みがかなってうれしくて、今でも好きな作品の一つに入ります。大ファンだった森さんとご一緒出来るのも夢のようで。まだ女学生気分ですね、そのころは」
 映画界に入る前、バレリーナになりたかった香川さん。幼いころから始めないと難しかったため、現実にはかなわなかったが、この映画で実現した。「白鳥の湖」の踊り子の一人だった。
「小牧バレエ団の方たちが出てくださった。衣装を着られるだけでもうれしくて。子供の時から戦時下で、きれいなものが全然なかったでしょ。戦後間もなく、帝劇で谷桃子さんの『白鳥の湖』を見て、バレエにすっかりあこがれてしまったんです、どうしてもやりたいって。その後、ボリショイバレエ団の公演とか、随分通いました」
 職人肌の島監督、手掛けたジャンルは実に幅広い。一九五二年の「上海歸りのリル」は、流行歌を題材にした歌謡曲映画。戦争中に上海のクラブ歌手リルに憧れた水島道太郎演じる主人公が、戦後その面影を探すというメロドラマだ。香川さんはリルと、リルにそっくりな女の二役。「チャイナドレスを着て。二役っていうのも面白かった」。歌と相俟あいまってヒットし、続編「風のうわさのリル」も作られたが、こちらは香川さんは出演していない。
 ずっと後になって、香川さんがカラオケで「上海帰りのリル」を歌おうとしたら、画面にこの映画の場面が流れてきた。自分の姿を見てびっくり、座は大いに盛り上がったとか。
 島監督との最後の仕事は、一九五六年の時代劇「新・平家物語 静と義経」。吉川英治の小説を、大映が映画化した。溝口健二(「新・平家物語」)、衣笠貞之助(「同 義仲をめぐる三人の女」)とあわせて三部作。島監督は、三巨匠の一人に名前が挙がる大家だったのだ。香川さんの出番は少なく、「撮影は一日ぐらいだった」と言うが、「島監督と久しぶりにお会いしたんですが、全然変わってらっしゃらなかった」。
 島監督は轟夕起子と結婚、島監督の息子、片山明彦も俳優だ。香川さんは片山と「おかあさん」などで共演しており、島一家とは縁が深かった。
阿部 豊
優しくてキザなジャッキー

 新人時代の映画出演歴を見て、香川さんが「これ、ダメだったの」と指さした。阿部豊監督の「のぞかれた足」である。各種の資料には出演者に名前を連ねているが、実際には出られなかった。
「バレリーナの役だったのに、ダメだったの。(宣伝用の)スチールまで撮ったんですけどね。付けまつげをつけるのに今みたいなノリがなかったころで、ニスのような物を使ったら、目の周りがかぶれちゃったんです。それが顔中に広がってしまいましてね、とうとう役を降りました。やりたかったんですが。それから病院通いをしまして、一カ月以上かかったかな。大変な目に遭いました」
 香川さん、苦笑交じりに思い出した。当時は撮影から公開まで一カ月程度しか間がなかったから、撮影開始直前の出演者交代を宣伝素材に反映することができず、香川さんの名前が残ってしまったようだ。代役は澄川恵子が務めた。
 このころ阿部監督は、新東宝の大黒柱の一人として活躍していた。一九一二年、中学を中退し渡米。早川雪洲の知遇を得て、ハリウッドで俳優として活躍した。一九二五年に帰国、日活に入社して監督となる。「足にさはった女」「彼をめぐる五人の女」など、アメリカ仕込みの洗練された作風で人気を得た。戦中は「燃ゆる大空」などいわゆる戦意高揚映画も撮った。香川さんは、デビュー直後の一九五〇年の「細雪ささめゆき」、一九五二年「大空の誓い」、撮影途中で体調を崩した佐分利信を、阿部監督が引き継いだ一九五四年の「叛乱はんらん」 と顔を出している。
 別名阿部ジャッキー。撮影現場ではおしゃれで、ちょっとキザ。戦前は岡田嘉子、山根寿子らを厳しくしごき、日本を代表する巨匠の一人となる。「(日本風にヨーイ、ハイ、カットと言う代わりに)オーライッ、キャメラ、カッ、って。ああ、こんな言い方をなさる監督さんもいるのかって。でも優しい監督さんでした」と香川さん。
「細雪」は、四姉妹を花井蘭子、轟夕起子、山根壽子、高峰秀子が演じる豪華キャストの大作だ。香川さんは、高峰と恋仲になる写真館主人、田崎潤の妹で、出番は数カットしかない。それでもデビュー直後とあって、印象は強烈だ。「写真館や病院のセットの感じとか、覚えてますね。田崎さんが(病気で)入院して、イタイイタイって大暴れするのを見舞いに行く場面とか、高峰さんが、家を訪ねてきてお話するところとか」
 あでやかな女性の演出は流麗で、後に映画を見直した香川さんは「女優さんたちが、ほんとにきれいでした。皆さんがお召しになっている衣装も、モノクロなのに生地の重みと色まで感じさせて素晴らしかった」と、改めて感激した。
 二・二六事件を描いた「叛乱」では香川さんは、細川俊夫が演じた叛乱将校の一人、安藤大尉が出会う娼婦しょうふの役。「細雪」同様、出番はほんの少しだが、この間四年たって香川さんの人気は上がり、目立つ役どころ。
 阿部監督は後に、古巣の日活に転じるが、時流はアクション路線へと変わっていく。次第に映画を作ることができなくなり、一九七七年にひっそりと生涯を終えた。
中川信夫
重い日本髪で初の時代劇

 時代劇は、日本映画揺籃期から長い間人気ジャンルだった。戦後GHQが剣劇を禁止して一時期消沈したものの、香川さんがデビューした一九五〇年代初頭にはその統制が緩和されて、みるみるうちに息を吹き返した。香川さんが所属した新東宝など大手と、多数の小プロダクションが、量産を再開する。
 映画の主役は講談や歌舞伎、剣劇小説などでおなじみの剣の達人。時代劇専門のスターが演じ、派手なチャンバラを見せ場に快刀乱麻の大活躍を繰り広げて、観客の喝采を浴びた。女優なら主役スターの相手役を務めることが、登竜門となった。香川さんの初めての時代劇は、一九五〇年、中川信夫監督の「若様侍捕物帖 謎の能面屋敷」だった。
 時代劇は、衣装から立ち居振る舞いまで独特の決まりごとがある。カメラ映えするには、型を身につけなくてはならない。撮影所は、そんなことを教える学校でもあった。
「撮影所の衣装部や結髪部の方が厳しくて。当時は全部自分の髪の毛で結いましたから、髪を切れないんですよ。短くすると叱られるんです。朝六時半に撮影所に行って、髪の毛をコテで伸ばしてビン付け油をつけて。準備できるころには疲れちゃう。そのまま一日ですから、重いし痛くて。今は良いカツラが出来て、ウソみたいに軽いですね。着物を着る時は、(着付けに必要な)ひも三本と伊達締めを二本、持って来るように教わりました。今でも、それだけは忘れません。厳しさは意地悪ではないんです。決まりだから、新人には教えなくちゃと。付けまつげも男性のカツラ係の男の方たちの手作りで、柔らかく自然な仕上がりに感動しました。皆さんプロの職人芸で、素晴らしいものでした」
 万事軽量化、簡略化が進んだ現代とは大違い。しかしここで体にたたき込まれた所作が、付け焼き刃の現代の俳優では出せない美しさを醸し出す。
「若さま侍捕物手帖」は城昌幸の時代小説シリーズで、後に東映で大川橋蔵の当たり役の一つとなるが、これが初の映画化。遊び人に身をやつした若様侍が、怪事件を名推理と剣の腕で解決、という筋立てだ。主演は戦前からの時代劇スター、黒川彌太郎。香川さんは、若様が居座る料亭喜仙の看板娘だ。
 香川さんは「不慣れだったから、うまくいかなかったかもしれません」と振り返ったが、第一作は好評で、翌年には第二作「呪いの人形師」が公開されている。もちろん香川さんも、同じ役で出演。黒川のひょうひょうとした若様ぶりが板に付き、香川さんも初々しく黒川と掛け合っている。
 中川監督の自作評は「まァまァね」だった(『映画監督 中川信夫』)。照れ屋の中川監督、自分の作品について多くを語らず、これでもかなり好意的な言葉。若き香川さんを評して「名優と思ったね」という一言を残している。
 中川監督は一九〇五年生まれ。文学青年から映画に転じ一九二九年に映画界に入る。マキノ、市川右太衛門プロ、マキノ・トーキー、東宝、中華電影などを渡り歩き、テレビも数多く手掛けた。職人芸で重宝されるが、撮りたいものはなかなか撮れず「裏街道ばかり歩んできた」と回想している。あてがいの企画でも芸術家気質を忘れず、個性を刻印しようと試行錯誤を重ねた。後に撮った「東海道四谷怪談」(一九五九年)、「地獄」(一九六〇年)などの恐怖映画が、近年傑作と見直されカルト的大監督と再評価されるが、一九五〇年代には新東宝に籍を置く職人監督として、時代劇やメロドラマ、青春モノなどを撮りまくっていた。一九八二年のATG「怪異談 生きてゐる小平次」が最後の作品となった。

校長先生みたいな感じ

 中川監督は一九四七年から、一九六一年に新東宝が倒産するまでに五十本近い作品を撮った。香川さんは、「若様侍捕物帖」シリーズの二作のほか、一九五一年「高原の驛よさようなら」、一九五五年「青ヶ島の子供たち 女教師の記録」と四本に出演した。
「学校の先生みたいな感じでした、校長先生というか。地味で服装とか髪の毛とか構わない方で。お人柄も穏やかでユーモアがあって、優しかったです」
 香川さんは「むしろそれが不思議です」と回想するが、後年は個性的なエピソードをたくさん残した。
 撮影スタイルは素足にチビたゲタ履き、腰手ぬぐい。スタッフや友人に、思いついた言葉や撮影の指示を、大きな字で書いたハガキを出しまくる。酒豪として知られ、つまみは豆腐。だから、命日に開かれる友人やファンの集まりは「酒豆忌」。
 中川監督に信頼されたカメラマンの萩原泉は、「豪快な人でした」と振り返る。「後年テレビ番組の撮影をやっていた時でしたが、夕方の四時ごろになると台本を渡されて、『お前やっといてくれ』って。カット割りもなくて『好きなようにやれ』。自分は飲みに行っちゃうんです。毎日ハガキで〝ラブレター〟が来る。殴り書きなんですが、『ここは幻想的に撮れ』とか一言だけ。発想が面白いんだ。撮影所の移動撮影用のレールを全部使ってものすごく長い距離の移動撮影をしたり、四十五分ほどのテレビドラマで千カットも撮ったり。奇想天外なことをしてました」
 メロドラマ「高原の驛よさようなら」では、香川さんはヒロインを演じた。小畑実のヒット曲の映画化である。主役は二枚目スターの水島道太郎。高原の療養所を訪ねてきた植物学者の水島が、看護師の香川さんと恋に落ちる。しかし植物学者は婚約者がいて、二人が苦悩する――という粗筋。香川さんには珍しい、キスシーンもある。
「メロドラマは、ちょっと恥ずかしかった。とにかく純情な看護師さんで。水島さんは紳士でいらして、ちょっと照れ屋さんという感じ。相手役としては年齢が離れていたし新人だし、やりにくかったんじゃないかしら。監督さんは、丁寧に撮ってらっしゃいました」
 全体を通して甘口だが、中川監督らしさも刻印されている。ピクニックに出かけた二人、広場で画面手前から「ヨーイ、ドン」と駆け出して、画面奥の木を一回りして戻ってくる。何気ない情景描写だが、低い位置にカメラを据えてワンカットで撮りきっている。萩原が「奇想天外」という中川監督の、片りんがうかがえるショットだ。
 香川さんには、思い出も多い。この映画のロケ地の信濃追分を気に入って、後年家まで建てた。水島の婚約者役の新人、南条秋子との親交もこの撮影がきっかけで始まった。
「南条さんとはロケ先の宿で同じお部屋で。とても話が合って〝恋敵〟とすっかり仲良くなっちゃった。二世の方と結婚して渡米しましたが、東京でお会いしたり、アメリカのお宅を訪ねたり」。交流は数年前に、南条が亡くなるまで続いた。
フリー
人から決められるのはイヤ

 香川さんは、当時としては珍しく、早くからフリーの立場を貫いた。今と違って、俳優の多くは映画会社と専属契約を結んでいた時代。映画会社はスターを囲い込み、俳優たちはその会社の作品だけにしか出演できなかった。観客は、お気に入りのスターを見られるのは映画に限られていたから、その名前で作品を選び、映画館に足を運ぶ。どの会社も、自前のスター育成に熱心に取り組んだ。
 香川さんも、入社した新東宝でスター教育を受けた。エキストラから徐々にセリフを増やし、役どころを大きくしていく。次々と出演作を用意して、演技を磨くと同時に露出度を高める。本格デビュー作「窓から飛び出せ」の公開が一九五〇年三月で、この年に公開された出演作は七本。一九五一年に「銀座化粧」など七本。
「あのころは会社が、新人を売り出そうって企画を立てて、宣伝もしてくれて、すごくありがたい時代でした。最初は妹役専門で。山根壽子さん、木暮實千代さん、上原謙さん、田崎潤さんと、いろんな方の妹で勉強させていただいた。でもそのうちに、あんまりやりたくないなっていう作品もあって、それが不満になってくるんです」
 転機となったのは、一九五二年の成瀬巳喜男監督の「おかあさん」。田中絹代が演じた母親を支える明るくけなげな長女の役だった。「その時初めて、私はこういう役に向いてるのかなと、女優として意識した。そのころからだんだん、自分が出る作品は自分で選びたいっていう気持ちになってきました。ずいぶん生意気だったんですね。どれだけできるか分からないのに」
 会社から離れてフリーになれば、好きな作品だけ選べるようになる。その代わり、依頼が来なければ消えていくだけという厳しさもある。新東宝の宣伝課長から製作に転じた、叔父の永島一朗が後ろ盾となってくれた。
「叔父に、フリーになりたいっていう話をしたんです。特に反対はされませんでした。映画界に顔が広かったから、陰でいろいろやってくれたんだと思うんですけれど。ありがたかったです。そういう意味でも幸運だったと思います。よく、フリーになって不安はなかったかと聞かれるんですけれど、怖いもの知らずで。ただただ、自由になりたいというそれだけでした。人から決められるのはイヤ、自分のことは自分で決めたい。そういう性格なんですね。結局わがままなんです」
 最初は、会社と決めた本数だけ出れば、あとは自由という本数契約。「おかあさん」の後は、大映東京の「大学の小天狗てんぐ」「稲妻」、大映京都の「勘太郎月夜唄」などが続く。一九五二年の後半になると完全なフリーとなって、この年は十二本も出演作が公開された。人気もうなぎのぼり。一九五三年七月二〇日付の毎日新聞の「映画スターの人気調べ」という記事では、ブロマイドの売れ行きが女優の中で六位。今井正監督の「ひめゆりの塔」、小津安二郎監督の「東京物語」と、香川さんにとっても代表作となる作品に恵まれ、女優として充実していく。
 しかしこのころから、映画界は専属制をめぐって揺れ始めた。

普通の娘さんという役

 映画会社と専属契約を結んだ俳優は、原則的には他社の作品には出演できない。その代わり、会社は専属俳優の出演作品を次々と公開して積極的に売り出し、顔となるスターに育て上げる。しかし、観客を呼べる人気者は各社垂涎すいぜんの的。戦後、映画の製作本数が増えるにつれて、映画会社間で人気スターの引き抜き合戦が始まった。戦争で雌伏を余儀なくされた日活の堀久作社長が、一九五三年九月一日、翌年の製作再開を発表、スター争奪戦に本格参戦して激化する。危機感を募らせていた先行五社、大映、松竹、東宝、新東宝、東映は、その直後の九月十日、専属制を強化して引き抜きを阻止するため、「五社協定」を締結した。他社作品への出演を禁じ、違反したら仕事をさせない、つまり干すというのだ。日活はもちろん、反発する監督や俳優は少なくなく、ことあるごとに議論の種となった。
 早くにフリーになった香川さんは、そうした喧騒けんそうから距離を置くことができたが、それでも火の粉は飛んでくる。
「ある時、大映の永田雅一社長から、専属にならないかというお話がありました。叔父の永島(一朗)と一緒に、帝国ホテルでご馳走ちそうになって。とてもありがたいことで、よく考えたんですけど、やっぱりフリーがいいと、申し訳ないけどお断りしました」
 一九五三年六月の日刊スポーツには、松竹作品への出演が相次ぎ、専属契約がうわさされているという記事が出た。香川さんはその中で「あくまで一作品ごとの契約で、専属になる意志は今のところありません」と語っている。「(新東宝の)外に出てからいろんな先輩とご一緒させていただいて、すごく新鮮で楽しかった。フリーだから、新しいのが来たからって、そういう目では見られなかったし、いじめられたこともなかった。監督さんたちも優しくしてくださって」
 マネジャー代わりの永島がプロデューサーを務めた作品も多かったが、むしろ監督たちがこぞって起用したがった。
「叔父のところにお話が来て、どうするか相談しました。でも自分からこの作品に出たいと言ったことはなかった。受け身でね、新人だし、自信がないから。だから次々いいお話があったのが、不思議でたまらないんです。実力なんて全然なかったと思うのに。お話がきた時、勘みたいなものに頼って、これは自分に合ってるんじゃないか、難しくても、自分の中の新しい面を出せるチャンスかもしれない、と考えてやってきました。もちろん、決まったら勘というわけにはいかない。一番若くても、やってくれるだろうと期待されて選ばれるわけだから、大事な作品を壊したら大変だという責任感、それだけです。後はもう監督さんにお任せして。それぞれご指導の仕方が違いますから、ついていくように一生懸命やっただけです」
 渋谷実監督の助監督として香川さんと接した井上和男は「普通の娘さんというキャラクターを確立したと思います。成瀬巳喜男監督は女優らしくない女優と言いましたが、これは大変なこと。それで巨匠が次々と狙ったんじゃないでしょうか」と、女優としての魅力を語る。
 結局、香川さんはフリーを貫いた。五社協定は、一九五七年に日活も加えて六社協定となり(一九六一年の新東宝倒産で、再び五社協定)、火種はくすぶり続ける。津島恵子は、香川さんも出演した東映の「ひめゆりの塔」に松竹を説得して出演し、契約を解除された。大映と争った山本富士子は映画界から身を引くことになった。しかし映画が斜陽化する一九六〇年代以降、協定や専属制はなし崩しに消滅していった。
結婚
社会部記者は世界が広い

〈香川京子が婚約
 人気スター香川京子(本名・池辺香子さん(三一))が今秋読売新聞社会部の牧野拓司記者(三四)と結婚式をあげる。
 二人が親しくなったのは、昨年読売新聞の社会面に連載された「わたしとあなた」に写真のモデルをつとめた香川と社会部の取材グループの交際からで、牧野記者が八月はじめ読売新聞移動特派員団の一員としてアメリカへ出発する直前に、二人の間では婚約がかわされていた。〉(一九六三年九月一九日付読売新聞から抜粋)
 この記事から二カ月後の一一月一五日、二人は東京都内の教会で結婚式を挙げた。
 十代でデビューし、たちまちスターとなった香川さん、日本映画黄金期とも重なった二十代は映画撮影に追われ、多忙な日々を無我夢中で過ごしていた。デビュー間もない一九五二年には出演作が十二本も公開された。一九五三年元日の毎日新聞には「記録的出演をしてしまった疲れを治すことが急務で、大みそかから元日はひたすら寝ることに専心しています」と語る記事が出ている。二十代半ばのインタビューで結婚について何度も聞かれ、「いい人がいれば」「まだもったいない」などとかわしているが、それどころではなかったようだ。
 読売新聞の「わたしとあなた」は、一九六二年元日から二十四回にわたって連載された。同社が主婦を対象に行った世論調査をもとに、日本の平均的家庭像を抽出している。香川さんはその記事に付ける、写真のモデルになったのだ。
「サラリーマンの奥さんとして登場してほしいって言われて、家事をやってるところや旅行してるところ、子供とデパートでお茶を飲んでるところなど、モデルになりました。最初にお話を持ってこられた記者の方がとても紳士的で、社会部にはこういう人もいるんだとびっくりしちゃった」。取材したのは社会部遊軍の記者たち。連載が終わってからも付き合いは続いた。「誰かが海外から帰って来たから皆で食事をしようとか、誘ってくださるわけ。お話が本当に面白くて楽しくて。すっかり仲良くなった。女性は私一人でした」
 牧野はこの取材班には入っていなかったが、何度目かの会合に顔を出した。実は香川さん、忘れていたが初対面ではなかった。一九六二年、豊田四郎監督の「明日ある限り」の撮影準備の段階で、牧野は取材に訪れていたのだ。「盲学校のお子さんたちが、飯能に遠足に行くので私も一緒に行って、川べりで遊んだりしたんです。それを主人が取材に来ていた。後で聞いたら、その時ひどく不機嫌だったんですって。泊まり明けだし暑いし、なんでこんな仕事しなきゃならないんだって。飯能の駅前で写真撮ったりしたことは覚えてるんですけど、それっきり忘れてました」
「一年前に取材で」「ああ、そういえば」と、会話が始まった。「記者の中で独身は主人だけで、それがきっかけ。皆さんに時々家に遊びに来ていただいて。私は芸能界にいて人を見る目に自信がなかったし、他の方とどういうふうにお付き合いしているかを見たら、人柄って分かるでしょう。だから最初はグループ交際でした。私は、そういったら主人が怒るかもしれませんけど、いわゆる二枚目ではなく、それから、芸能界の人でなく別の世界の人と、と思っていました。自分に足りないものを持っていて、尊敬できる人がいいなと。その点、いろんな面を知っていて、世界が広いし、仕事は続けたいという希望も認めてくれました」
 一年ほど交際。周囲のごく一部には相談していたが、芸能記者らに漏れることはなかった。「社会部の先輩の方にお願いして。お仲間の皆さんも知らなかったんです。よく黙っててくださった。もっとも芸能マスコミも、今とは大分違いました。テレビがそんなに盛んではなかったし、あんなにたくさんマスコミの人たちが集まることもなかったです」

女優休業、異国で子育て

 新婚時代は慌しく過ごした。「お互いに若い時の結婚でもなかったから、新婚気分でもありませんでした」と香川さん。結婚式から間もない一九六三年の年末から、「赤ひげ」の撮影が始まる。映画が完成したのは一九六五年。完成披露の試写の時はお腹が大きく、六月に長女を出産。さらにニューヨークに特派員として赴任する牧野に付いて渡米する。
「皆さん、よく行ったわねっておっしゃいますけど、二、三年休んだってどうってことないでしょ。違う生活もしてみたかったし、子供がいましたから。別々に暮らすことは考えられなかった」。翌一九六六年、ニューヨークで長男を出産。一時帰国後再び渡米し、二児を抱えて同市に計三年ほど滞在した。この間米国では、ベトナム戦争が泥沼化する一方で反戦運動が盛り上がり、黒人解放運動は過激化して暴動が相次いだ。一九六八年にはキング牧師とロバート・ケネディ議員が相次いで暗殺された。
 騒々しさを増す異国の地で、香川さんは子育てに追われた。
「読売新聞はニューヨークに一人だけでしたから、主人は仕事でほとんど朝から夜までいませんでした。でも、寂しいとか思う暇もなくて。近くに同じ年ごろのお子さんをお持ちの日本の方がたくさんいらして、お訪ねしては私は主婦の勉強、子供たちは遊んでいただいて。二年目頃から、近所のアメリカ人の奥さんなどに誘われて、五番街やブロードウェイの劇場、リンカーン・センターの演奏会、美術館などによく出かけました。ニューヨークの三年間は、私にとって一種の留学期間でしたね」
 一時帰国した際にテレビドラマに出演もしたが、ニューヨーク滞在中は芸能活動は休業。しかし、映画の力の大きさを実感する体験もした。
「ニューヨークで暮らして間もなく、ニューヨーク・タイムズの取材を受けました。記者の方が『赤ひげ』など黒澤監督の作品を見てらして、スタジオで写真も撮って。『黒澤組に出た女優がハウスワイフになってる』っていう記事が出ました。私たちの郊外の家まで、サイン帳持った若い方が何人か、サインが欲しいってみえたこともありました。きっと記事をお読みになったんでしょう。映画の力ってすごいですね」
 結婚、出産、異国での二人の子育てと主婦生活。それまでとはまったく違った経験を重ね、一九六八年末に帰国した。三年の空白期間でも人気は衰えず、その後すぐ、TBSのドラマ「ママ日曜でありがとう」で芸能界に復帰した。独身の映画女優だった香川さんを取り巻く環境は、すっかり変わっていた。
「独身だったらイヤだと思うことでも、子供のためだったら否応なしでしょ。わがままを抑えるというか、我慢することが一つの喜びでもあって、そういうこと一つでも変わりました。眠くてもやらなきゃとか、早く起きなきゃとか、子供は待ったなしですから。ただ、家に帰れば家事をして、現場に行けば女優でなければならない。所帯くさい匂いがしてはいけないと、最初のころは心配で、いつも意識していました。だんだんうまく使い分けられるようになりましたけれど」
 香川さんは家族を優先しながら女優を続けることになるが、映画界も様変わりしていた。斜陽化に歯止めはかからず、大手映画会社は映画製作本数を減らし始める。香川さんの活躍の場は、テレビが中心となる。ようやくスクリーンに復帰したのは、一九七四年「華麗なる一族」だった。一九六五年に三億七千二百万人だった観客動員数は、一億八千五百万人にまで減っていた。撮影所の熱気は失われつつあった。

戻る