もくじ

会津の雨 木賊温泉[福島県]

忠治も来た 鳩ノ湯[群馬県]

小さな町 矢野温泉[広島県]

五七調の旅 鹿沢温泉[群馬県]

ふるさと再訪 塩田温泉[兵庫県]

湯の町エレジー 籠坊温泉[兵庫県]

眠る町 春日温泉[長野県]

なおしてくるぞと 寒の地獄[大分県]

片目の魚 温湯温泉[青森県]

夢を売る 湯涌温泉[石川県]

パンツはつけるな 入之波温泉[奈良県]

風呂で選べ 河内温泉[静岡県]

ジッと見ろ 沢渡温泉[群馬県]

月を仰ぎつ 滑川温泉[山形県]

ステッキ突いて 渋温泉[長野県]

化ける 塩原温泉[栃木県]

先人に学べ 栗野岳温泉・新湯温泉[鹿児島県]

即身成仏 岩室温泉[新潟県]

人には愛を 峩々温泉[宮城県]

庭をながめて 熱塩温泉[福島県]

夜明けにひとり 塔之沢温泉[神奈川県]

一本締め 山代温泉[石川県]

ちんちん千鳥 草津温泉[群馬県]

川端さんの宿 湯ヶ島温泉[静岡県]

月見風呂 不老不死温泉[青森県]

仙人杖 日光沢温泉[栃木県]

天国への階段 伊香保温泉[群馬県]

お告げの湯 佐野温泉[福井県]

人魚を食う 河内温泉[福井県]

白と黒 小天温泉[熊本県]

お湯争い 城崎温泉[兵庫県]

風の町、風の里 越中山田温泉[富山県]

放浪記 東京の温泉[東京都]

銭湯巡り 上野・根津・谷中界隈[東京都]

汽笛一声 熱海駅前温泉[静岡県]ほか

おらあ三太だ 道志温泉[山梨県]

才市の里 温泉津温泉[島根県]

正月・二月・三月 伊賀温泉[三重県]

駅ヨリ五里二十丁 嶽温泉[青森県]

龍はいるか? 龍神温泉[和歌山県]

札所巡り 松葉川温泉[高知県]

饅頭こわい 有馬温泉[兵庫県]

木曾きまぐれ気まま旅 桟温泉[長野県]

ほうとう記 下部温泉[山梨県]

温泉手帖 飯坂温泉[福島県]ほか

親子咄 小野川温泉[福島県]

効能一番 湯の網温泉[茨城県]

さらば、鞍馬天狗 黒湯温泉[秋田県]

ガラメキ温泉探険記[群馬県]

終の栖 田沢温泉[長野県]


池内紀(いけうちおさむ)

1940年 兵庫県に生まれる
日本の独文学者、エッセイスト

池内紀(いけうちおさむ)

1940年 兵庫県に生まれる
日本の独文学者、エッセイスト

温泉旅日記

池内紀
会津の雨 木賊とくさ温泉[福島県]
 会津若松から会津線で一時間半ばかりのところに田島という町がある。むかし、会津西街道の宿場町として栄えたそうだ。そういえば古い家並みがよく残っている。旧郡役所の建物だったというシャレた木造の洋館があって、民俗資料館になっている。土地の総領社である田出宇賀神社は、七月にひらかれる祇園ぎおん祭で有名だ。会津の山里に、どうしてみやびやかな京風の祭礼があるのか。たぶん、落人伝説とかかわりがあるのだろう。田島郷のあちこちに平家落人の里といった言い伝えがある。この奥の秘境檜枝岐ひのえまたは、村ことばに独特のなまりがあり、上方風の素人歌舞伎を伝えている。
 もっとも私が行ったのは五月半ばのことだ。参道の奥の白い鳥居がすっきりと美しい。うしろからうっそうとした老木がかぶさっている。雨が降っていた。人っこひとりいない境内に大つぶの雨が音をたてて落ちていた。れそぼったノラ犬がこころぼそげにすりよってきた。
 町にもどってしんごろうもちというのを食べた。竹のくしにさしてあって炭火で焼く。甘みそをつけて食べる。
 それから一日一便のバスに乗った。バスは山裾やますそを縫うようにして走りつづけた。このまま永久に走りつづけているのではあるまいかと思うほど走って、やっと木賊温泉に着いた。正式には福島県南会津郡舘岩たていわ村大字宮里字湯坂。地図帳でみると、ひときわ茶色が濃いところだ。どうしても、はるばる来たぜ――といった感慨がわく。
 川沿いの古い農家のような宿だった。まだそれほどの時刻でもないのに、みるまに暗くなってきた。また雨が強くなったとみえて、しゃあしゃあ音がする。どちらの方角から聞こえてくるというのでもない。川音と雨の音とがまじりあって、辺り一帯が水につつまれている。そのうち車の音がした。お客がついたらしい。玄関あたりがなんとなくざわついて何人もの人の気配がする。
 傘をさして外に出た。
 宿から少し下った川っぺりに粗末な小屋がけの共同風呂があった。コンクリートで固めた上にトタンの屋根がのっている。その屋根ごしに霧のような水滴がちりかかってきた。目の前を濁った水がしわになって流れていく。黒い太い筋になって、うねうねとすべっていく。
 木賊は「とくさ」と読む。温泉の名前に植物名は珍しいのではなかろうか。どことなく抹香くさいのはどうしてだろう。子どものとき、私たちはたしか「やいと草」といった。茎を折って肌に押しつけると、お灸をすえたような跡がついたからだ。
 内田百閒ひゃっけんの随筆に「とくさの草むら」という絶品がある。愛弟子であった大井征の死を悼んだものだ。百閒先生の家の庭に大井からもらった木賊が一ぱいしげっていた。その草むらをぼんやり眺めながら先生はこう思った。「大井は死んだが、死んだと云ふ事はよく解らない」
 つづいてこんな風に書いている。
「木賊は地上の植物の中で最も古いものの一つださうで、生え始めてから七千萬年ぐらゐ経つてゐると云ふ。木賊と大井と比べてみて、どう考へていいのか、わからない」
 少しぬるめの半露天風呂にあごまで沈んで、私はぼんやりと目の前の川をながめていた。気のせいか、だんだん水かさがましてくる。黒い太い筋が厚みをもって、かなりの速さで流れていく。水面にやみが迫っていた。風がさわいで、雨つぶが降りこんできた。岩でもあるのか、下手の一角で音もなく水が盛り上がり、音もなくすべり落ちる。見ていると引きこまれそうで胸苦しさを覚えてきた。水の筋が黒い大きな蛇のようにゆったりともち上がり、すべるようにいよっておどり上がったかとおもうと、なだれるようにかぶさってきた。あわてて目をそらすと、のどかな宿の灯がみえた。黒い蛇はもういなかった。
 その夜、ふとんの中まで川音がひびいた。宿の人の話によると、近くの峠道に古い六地蔵があるのだそうだ。雨でもなんでも朝早く起きてみてこよう――そんなことを思っているうちに寝てしまった。
 あくる日はぬぐったような快晴だった。宿を出て木賊の集落を歩いていった。裏の川が嘘のように縮んでいる。風がひんやりと快い。村外れで振り向いたら、茅ぶきの曲り家の背後に山が迫っている。つげ義春の絵でみたのと同じだと思った。赤ん坊を背負って、でんでん太鼓をもった女の子はいなかった。
 
 
忠治も来た はとノ湯[群馬県]
 傷ついた鳩が舞い下り、ゆあみしているのを見て里人が温泉に気がついた、といった開湯伝説をもつ鳩ノ湯は全国にいくらもある。埼玉県の秩父にもある。福井県大野市にもある。ここにいうのは上州の鳩ノ湯である。群馬県吾妻郡吾妻町本宿、高崎から直通のバスがあって二時間ほどで行けるそうだが、私は吾妻あがつま線で渋川から中之条へ出て、そこから大戸乗り換えのバスに乗った。
 わざわざ廻り道をしたのは大戸の関所跡を見ていきたかったからである。江戸時代に碓氷うすいの関所の裏固めとして設けられていた所だ。(あとで知ったのだけれど、直通バスもちゃんとそこを通る)。この関所を破った罪により国定忠治は処刑された。いま、関所跡の近くに忠治地蔵が立っている。
 大戸をこえると温川沿いに一路ゆるやかな上り道がつづく。この道がかつて江戸と信州とを結ぶ裏街道であったことは、ひんぴんとあらわれる馬頭観音碑や庚申こうしん塚からもわかろうというものだ。ある四つ辻に石が立っていて「ひだりはとのゆ」と刻まれていた。宿の由来記によると寛政年間に温泉坊宥明という行者が湯小屋を建てたのが始まりだそうである。真偽のほどは 保証のかぎりではないが、ここが古い温泉であることはたしかだろう。
 かなりの傾斜をもった渡り廊下を、誰かに背中をおされるようにして下っていくと脱衣場にとびこむ。入口は別々だが中は混浴である。木の浴槽が一つ、ポッカリと口をあけている。すぐ下に道があり、上手の山の斜面には集落がなくもないのにシンとして物音ひとつしない。浴室全体が何かマジックボックスといった感じで、少しぬるめのお湯につかっていると、からだがつま先からフワフワ消えていくような気がするのだった。
「あのとき、国定忠治もここに立ち寄ったかもしれない」
 少なくとも菊池寛の短篇『入れ札』によると、上州岩鼻の代官を斬り殺して赤城山にこもったあと、八州の捕方を避けて信州へ落ちていく際、忠治は十人あまりの子分とともに近くを通り、この附近でひと休みしたはずなのだ。夜中に利根川をわたったという。渋川から伊香保いかほ街道沿いに名もない裏山から榛名はるな山にとりつき、一日一晩でやっとこえた。大戸の関所にかかったのは夜明け前のことだった。五、六人しかいない役人たちは、忠治たちの勢いに怖れをなして、誰ひとりとして通行をとがめなかった。
 そのあと街道は避けつつ、しかし道は見失わない程度のへだたりを保ちながら山から山へとたどり、大戸の関所から二里ばかりの小高い山の中腹で忠治一行は休憩をとった。上州一円にかいこがかえろうとする春の終りの頃だった。その小高い山から見わたすと街道沿いの村々には、朝もやのなかに青い桑畑がどこまでもつづいていた。
 あくる日、朝風呂に入ったあと、宿の裏手の小高い山の中腹まで登っていった。半ばこわれた神社があった。見上げるような庚申塚の横に五輪塔があって、十基ばかり古い墓が並んでいた。あるものは嘉永かえいの年号をもち、別のものはもっと古いらしかった。目の下に永らく打ちすてられたままの桑畑が広がっていた。冷やっこい風にのって温川から立ちのぼる朝もやが流れてきた。
 時間が停止したような眺めだった。わきあがってくる朝もやをついて、関東じまあわせさめざやの長脇差しをさし、脚絆きゃはんわらじで足ごしらえした国定忠治の一行がヌッとあらわれてもおかしくないような気がした。子分たちの中には片そでのちぎれたやつがいる。白っぽい縞の着物に、ところどころ血をにじませた者もいたようだ。先頭に立って威勢よく歩いていた忠治が足をとめ、菅笠すげがさをとった。小びんのところに傷痕のある浅黒い顔がのぞいた――私もまた、ちょうど菊池寛の小説の中の忠治がしたように、足下に大きな切り株を見つけて、そこにドッカと腰を下ろした。
 
小さな町 矢野温泉[広島県]
 広島県に三次みよしという町がある。福山で福塩線に乗り換えて約三時間、山陽と山陰のほぼまん中にあり、中国山地のヘソのような所である。ごうノ川と西城川と馬洗ばせん川の三つの川が、いびつな三角形をつくりながら合わさったところ、かつては浅野家の分家が城をかまえて五万石、城跡が公園になり、また川沿いに古い家並みが残っている。
 なぜか旅行となると小さな町へ行きたがる。会津の田島、播州ばんしゅう龍野たつの、信州の高遠、栃木の烏山からすやま、富山の城端じょうはな、伊予の大洲おおず、念のためにガイドブックに当たってみると、誰が決めたのか、かなりの町が「小京都」に相当するらしい。別に由緒ありげな町でなくともいいのである。むしろ、なるたけ取柄のない方がいい。小さな町にふさわしく小さな支店なり、支店のそのまた支店とか、出張所とか、支所とか、分室が、小さな軒を並べている。狭い通りを歩いていると、ちょっとした広場がひらけ、「明治天皇御少憩記念」の碑が立っていたりする。
「小人閑居して――」のたぐいである。人間の器というものに関係しているのかもしれない。たえず小さな町にかれるのは、当方の人間的小ささのせいらしい。
 ひとしきり城跡公園でぼんやりしたあと、橋をわたってふらふらと駅前近くまでもどってくる途中だった。小さな三階建てのビルの前で足をとめた。某保険会社三次支店、向かい合った事務机に五人ばかりのワイシャツ姿が見える。衝立ての前にソファーがあって、いかつい顔の中年男が、初老の男を前に立たせ、指さしながら何やら早口でまくしたてている。初老の男は小さくうなずきながら真剣な顔つきで聞いている。やがてためらいがちに何か言いかけたが言葉に詰まった。同僚たちはそしらぬ振りで事務をとっている。電話をしている。そっぽを向いてタバコを吹かしている。初老の男は深々と頭を下げてから、ぎこちない足どりで机にもどった。ロ辺にとまどったような微笑を浮かべたまま身じろぎせず坐っている。低い鼻の左右に皺が走り、禿げあがった額に汗がにじんでいる。
 私はまたノロノロと歩きだした。フランスの作家シャルル=ルイ・フィリップに『小さな町』という短篇集があったのを思い出した。中身はすっかり忘れたが、さりげない日常の中のささやかな事件が丹念に記されていたはずである。家にもどったら読み返してみよう――たしかそんなことを思ったはずだが、未だに読み返したけはいがない。
 その日は矢野温泉で泊った。福塩線の備後矢野駅から送迎バスが出ている。商店一つない山間の駅に、むやみと大きなバスが待機していた。運転手以外に誰もいない。電車を降りた人々は足早に駐車場の方に歩いていく。やがて一斉にエンジンの音がしてピカピカの自家用車やオートバイが次々に走り去る。あとに乗客一人きりのバスが残った。ゆるゆると走って温泉に着いた。
 変哲のない湯治場である。小さな川沿いの平地に眠ったような集落があり、宿が数軒。歩いて十分ばかりの所に寺がある。当地の名刹めいさつということだが、砂利道はタイヤの跡をとどめたまま荒れていた。山門の両側に小学生の写生画が掲げてある。人っこひとりいない風景のなかに、たよりなげな風が吹いていた。
 季節はずれのこととて宿の客は私ひとりだった。夜中に起き出して渡り廊下をわたり、暗い湯舟につかっていると、天井から冷たいしずくが首すじにポタリと落ちた。小人は首をすくめて、あわてて辺りを見まわした。
 
五七調の旅 鹿沢かざわ温泉[群馬県]
 山間やまあいの小さな駅で列車を待っていたときのことだ。

「レヂャーにカメラ
 生活にプロパン」

 一読して何のことかわからなかった。下に「写真部」、「プロパン部」と二分して記されている営業品目によって納得がいった。その写真店はカメラ、8ミリ、出張撮影のかたわら、プロパンの販売・配達もおこなっているのである。少々はげかけた看板にみる苦心のコピーを、私はいそいそと手帖に書きとめた。
 ときおり雑誌のグラビアで「取材旅行中のK氏」といった写真を見かけたりするだろう。ラフないでたちの作家K氏が、古びた建物の前で思案深げにたたずんでいるといった式だが、彼はむろん、意味もなく佇んでいるわけではない。それが証拠に、きまって片手にさりげなく手帖らしきものが握られている。
 かねがね、そんな姿がうらやましくてならなかった。また、気にもなった。いったい作家たちは旅行に際して、どのようなメモをとるのだろう。そこから読者を魅了する傑作が生まれてくるのだ。何の変哲もない一つの町を歩いても、至るところに鋭い目が光り、的確なメモがつづられているにちがいない――。
 羨ましがるだけでなく、おりおりの旅行に私も忘れず手帖を携えていく。そしてせっせとメモをとる。成果の一つが、いま述べた「レヂャーにカメラ・生活にプロパン」である。わざわざ写しとっても生活上なんのたしになるわけではないのに、何か得をしたような気になるから妙な話だ。
 山間のその駅は、たしか吾妻線のことだったと憶えている。渋川で上越線と分れて終点の大前まで五十五・六キロ、途中に伊香保や四万しま、草津などの天下の名湯がある。ほかにも花敷や尻焼、湯のたいら沢渡さわたり、といった個性的な湯治場が散らばっていて、温泉好きには何度通ってもうれしい路線である。ついでに言うと終点の大前は駅舎ひとつないさみしい所だが、駅前に嬬恋つまごい温泉がある。駅のホームと道一つへだてただけ、折り返しの合間にひと風呂あびることもできるのだ。コンクリートの湯舟に少しぬるめのお湯がドボドボと流れこんでいる。すぐ前の吾妻川にかかる橋の上で涼んでいたら、車掌が大声で叫んでいる。私は濡れタオルをなびかせて駆け出した。
 以前は吾妻線とはいわなかった。長野原線であり、川っぺりの長野原が終点。そのため草津まではともかく、上信国境の鹿沢温泉に行くには猛烈に不便だった。大抵は草津経由でバスを使った。あるときは小諸から菱野温泉を経て地蔵峠をこえてたどりついた。私は使ったことはないが、軽井沢から草軽電鉄経由のコースもあったらしい。
 この点、現在はらくなものだ。終点の一つ手前の万座・鹿沢口駅前から直通バスが出ている。バスは吾妻川沿いの国道をはなれたあとは、集落を縫うようにして走っていく。両側の家並みによっても、これが旧道であることがわかる。旧仁礼にれ街道、高崎と善光寺を結ぶ脇道だった。むろん、草津への入湯客が多くここを利用した。大笹の集落に、かつての関所の門扉が復元されている。寛文二年(一六六二)に沼田藩主が設けてより江戸の終りまで厳しく通行人を取り締まった。
 大笹関所あとに近い三叉路さんさろに、誰が立てたものか、シャレた碑がある。一見、変哲のない馬頭観音だが、台座の側面に意味深長な歌が刻まれている。

揚雲雀あげひばり見聞てこゝにやすらふて右を仏の道としるべし」

 郷土史家の本によると、あげひばりに託してそれとなく「仏の道」、つまり通行手形のない旅人用の抜け道を暗示したものだそうだ。
 一応メモはとったが、実をいうと、この種のもっともらしいものには、あまり気持がすすまない。それが証拠に、このときの手帖を取り出してみても、由緒来歴のちゃんとしたのは右の一つだけであって、あとはもう、なぜわざわざ筆記したのか、自分にもとんと合点がいかないものばかりだ。

 「お知らせ!
  専用ゲートボール場完成!
  用具貸出し、練習相手、対戦相手、審判、いつでも相つとめます。
   ゲートボール同好会部長」

 たしか駅前の広報板で見た。つづいてもう一つ、これは土産物屋のガラス戸で見かけた。

 「関西演劇界の花形
   浪花三之介・特別公演
  人情時代劇『流転親恋月』(一幕四場)
  三橋美智也構成・演出『夏姿歌謡絵巻』
   割引チケットあります」

 おつぎのものなど、自分はいったい、どんな必要を思って書きとめたのだろう?

 「挙式から披露宴まで
  ゴージャスでホットな
  サン横山の結婚式
   ご予約受付中」

 「胸なし、ずん胴、タレ尻
   大和撫子なでしこの三大欠点カバー
   水着セレクション
   新着入荷」

 群馬県嬬恋村は高原野菜の栽培で知られている。バスは旧道をはなれて見わたすかぎりのキャベツ畑を突っ切っていくのだが、その間にも片ときもメモの手を休めなかった。というのは村道とまじわる道路ぎわに、五七調の苦心作が次々とあらわれたからである。それは「事故をよぶ酒が疲労がスピードが」といった交通安全スローガンにはじまって、ひろく生活全体の諸事項を網羅していた。
 たとえば朝のひととき、妻が夫に贈ることば。
 「行ってらっしゃい、今日も一日ごくろうさん」
 日常のモラルはどうあるべきか。
 「あいさつは、いつでもどこでも誰とでも」
 「約束を守る家庭に明るい子」
 「思いやり人の心を大切に」
 月々の貯えその他――
 「年金のお受取りは吾信あがしんで」
 火の用心は誰にもできる。
 「防火の大役あなたが主役」
 お腹がすいたときは――
 「暖かい花チャン弁当このさき五分」
 
 鹿沢温泉は湯の丸山の北東にあって、標高一五○○メートル、古風な木造二階建て、気持のいい一軒宿だ。昔は何軒もの宿が並んで湯治場のたたずまいをみせていたらしいのだが、大正七年の大火で全焼、一軒だけが再建されて昔ながらの温泉宿をつづけている。一段下がったところの湯屋は洗い場も湯舟もやわらかい木造り、仕切り壁にレリーフがあって、ほの暗い灯の 下にびた銀色を浮かばせていた。
 まずお風呂、食事はあとのおたのしみ。
 せっせと五七調をメモしてきたせいか、頭がなかなか、五七調から改まらない。
 ひとつかり、すれば心も身もはずむ。
 かくのごとく永年にわたって筆録をつづけてきたのだ。わが手もとには、どっさり手帖がたまっている。もうそろそろ読者を魅了してやまない傑作が生まれてもよい頃ではなかろうか。
 
ふるさと再訪 塩田しおた温泉[兵庫県]
 昭和十年・鉄道省刊行の『温泉案内』には近畿地方の山陽線沿いの温泉として、鳥ヶ谷、増井、塩田の三つがあがっている。先の二つは泉源がとだえて今はない。塩田温泉については次のように記されている。
「所在地、兵庫県飾磨しかま郡置塩村。交通、山陽本線姫路駅から一四キロメートル、自動車三十分、片道五十銭、貸切三円。泉質効能、食塩アルカリ含有炭酸泉、胃腸病、神経衰弱、婦人病等。特色、療養向。旅館、上山、南部。宿泊料一円以上二円。三方は丘陵性の小山に囲まれた閑静な湯治場で、附近でとれるあゆ松茸まつたけ食膳しょくぜんに上る」
 五万分の一の地図だと「姫路北部」と「前之庄」の二枚にあたる。夢前ゆめさき川沿いの県道を北にたどると横関という地名がみえる。川の西方に六角という集落がある。川にそってどんどん北にすすむと前之庄にいきつく。この三カ所を線でむすぶと、たて長の三角形の図形ができる。私には意味深い三角形である。横関から山をへだてた東側に郷里があった。前之庄には父方の親戚しんせきがいた。六角は母方の里だった。そして三角形ののどくびあたりに塩田温泉がある。
 夏休みになると弟とリュックを背おって家を出た。横関までバスでいって、その先は歩いた。私たちは母がケチんぼうだから歩かされるのだと思っていたが、いま考えると、これから先のバス便が極端に少なかったせいだろう。夢前川をはさんで横関のすぐ前に西国札所二十七番円教寺で知られる書写山がある。バスは大抵ここで折り返した。
 川から音をたてて涼しい風が吹きあげてきた。四つ辻の角に、よしずを立てかけた雑貨屋があって、店先に「花火、水中眼鏡、かき氷有ます」と書いたボール紙がぶらさがっていた。私たちはリュックを背おって歩きだした。歩きながら振り返ると、田舎の白い砂利道にボンネット型のバスがとまっていた。帽子をあみだにかぶった運転手が、のんびりと雑貨屋へ入っていった。そんな風にして、ある夏は川むこうの母方の里ですごした。また別の夏は前之庄で遊びくらした。
 古い案内記のいう置塩村は旧名で、現在は夢前町と名をあらためた。塩田温泉の「塩田」はエンデンではなくシオタである。播州の西のはずれ、「丘陵性の小山に囲まれた」湯治場に、どうして塩の字がついているのか。地図にはほかにも塩地峠とか塩山の地名がみえる。塩分を含んだ鉱泉脈があるからにちがいない。だが、それだけでもなさそうだ。『地名の語源』といった本によると、「塩」はしばしば、楔形くさびがたの谷や、川の曲流部や、たわんだ地形に対して用いられているという。そういえば塩田温泉は川のうねりに沿っており、辺りの地形は大きな楔形の谷というべきものだ。
 ある年の七月、郷里で法事をすませたあと、足をのばして塩田温泉へいった。川と山との間のゆっくりとうねった道を、車はこともなげに走っていく。かつて私たちはその道を、四つ辻の雑貨屋で食べたシロップ入りのかき氷について感想を語りあいながら歩いていった。白い砂ぼこりの巻きあがる田舎道にミミズがひからびていて、無数のありがたかっていた。途中、退屈しのぎに弟と代わるがわる黒いセルロイドの下敷きを顔にあてて辺りをながめたりした。顔にかざすと、とたんに世界が暗くなり、燃えるような太陽が、まっ赤な丸いボール玉に変わった。下敷きを顔からはなすと、もとどおり変哲もない世界に立ちもどった。抜けるような青空に白い雲がゆっくりと流れていた。降るようなせみの声がした。
 その夜、寝入る前にもう一度、赤茶みがかった湯につかったあと、しばらく玄関にたたずんでいた。おりおり黒い闇のなかに車のライトがあらわれて、すべるように消えていった。
 川を見下ろす部屋の窓を細目にあけて寝た。低い口笛のような音をたてて川風が吹きこんできた。カナブンが一匹とびこんできて、電気の笠にぶつかり、ポトリと耳もとに落ちてきた。そのあとしばらく、とびたつたびに壁にぶつかった。やがて物音一つしなくなった。明け方、あごまくらにのせてぼんやりしていると、耳をつんざくような川鳥の鳴き声がした。
 
湯の町エレジー 籠坊かごぼう温泉[兵庫県]
 人に会うときまって最近どこかへ行ったかと問われる。なかには意味ありげな微笑を浮かべながら「悪いコトしてんでしょう」などと言う人もいる。残念ながらつやっぽい話は一つもない。たとえあったとしても人に語るべきことではない。
 だいたい、いたっていい加減な温泉好きで、全国をマタにかけ片っぱしから訪ねあるく巡歴型でもなければ、山奥のそのまた奥を踏み分けて秘湯をめざす探険型でもなく、混浴専門に研鑽けんさんにはげむ努力型でもない。要するに湯と安宿とがありさえすればいいのである。何日いても退屈しないだけの修養はつんでいる。
 しいて注文をつけるとすれば、めざす温泉の近くに小さな町があるといい。なろうことなら川の一つも流れていてほしい。では、その町に立ち寄っておまえは何をするのかと問われると少し困る。つまりは何もしないのである。とにかくよく歩く。てくてくと町を歩く。たいていは二、三時間もあれば歩きとおせる。公園なり高台があればそれを登る。おおかた一望の下に町全体が見わたせる。ベンチに腰を下ろしてぼんやりしている。それから立ちあがり、またふらふらと町を歩く。しめくくりに本屋に寄って、地元の人の書いたその土地に関する本を買う。文房具店をかねたたぐいのお粗末な本屋にも、きっとこの手の本があるものだ。帳場の上の手のとどかないあたりに色あせた背表紙をのぞかせている。永年こんな買物をつづけてきたものだから、わが家の書棚の一角は、さながら地方小出版コーナーの観を呈している。
 若葉の頃ともなると毎年のように摂州池田の住人と温泉に出かける。そして旅先で将棋を指す。少なからず仙人めいたわが敬愛する相棒はヘボである。この点、当方も同様でヘボの度合いが伯仲している。だからひとたび指しはじめたら最後、なまなかのことでは詰まらない。形勢によっては、双方が混乱して、いつまでたっても終わらず、玉と王とが角突き合うような異様な形勢に立ちいたったりする。そんな苦難を経たうえの勝利なのだ。念入りにたしかめて王手をかけたとたん、発作のような喜びがこみ上げてくる。押さえても押さえても相好が崩れる。そこで憮然ぶぜんとして黙りこくった相手を尻目に何くわぬ顔で席を立ち、庭先にしゃがみこんで喜びをかみしめることにしている。
 ある年の三月末のことだったが、神戸の若い友人の結婚式に出たあと丹波の籠坊温泉へ行った。一ノ谷の合戦に敗れた平家の落武者が発見して傷をなおしたところなどと言われるが、しごく変哲のない鉱泉である。丹波道から分かれて渓流づたいにさかのぼったどんづまり、狭い谷間に何軒かの宿が思い出したようにあらわれる。温泉はともかく、ここは途中に旧九鬼藩の三田さんだ市があり、また篠山ささやまのお城下にも近いのである。例によってよく歩いた。三田の町では川沿いの古い家並みを抜けると昔の舟着き場兼洗い場に出た。ドンドとよばれるふぞろいな石段の陽だまりに老人が休んでいた。回転焼き屋で本日は休業日とかのその老人から、私は九鬼家離散の顛末てんまつを聞いた。
「なにせボンボン育ちですよってに――」
 老人はそんなことをつぶやきながら、耳にはさんでいた吸いかけのタバコを大事そうに口にくわえた。
 丹波の篠山はデカンショ節でおなじみだろう。もっとも、どなるようにして歌うのが身上のあの唄とはちがって、篠山町はひっそりと落ち着いた町である。「栄賜皇太子殿下献上松茸の丹波屋」の看板の横に大相撲地方巡業のポスターが貼ってあった。私は古い西洋館の前で立ちどまった。「堀江女学院学生募集」とある。「お茶・お花・和裁、初歩より教授資格まで」。私はまた「香月旅館・電話代表三一九番」の軒下で足をとめた。玄関の柱に「靖国やすくに英霊の家」の金文字が光っていた。奥をのぞくと薄暗い土間に古下駄が一足きちんとそろえてあった
 明治中期の木造を移築したという歴史美術館をみたあと、すぐ前の古道具屋に入りこんで店の親父と長ばなしをした。そのとき、棚に並んでいる稚拙な土人形が気になった。隣りの氷上ひがみ郡の稲畑村に代々つたわる風習で、子供が生まれると氏神さまに奉納したものだそうだった。戦後しばらくして人形師が絶え、稲畑人形もすたれたという。
 二十体ばかり並んだなかで、まっ赤な大鯛おおだいを抱いて肩をいからせた武者像の顔がなんともいえずいいのである。ついふらふらと買ってしまった。店の親父は、こわれやすい焼物だからと言いながら何重もの新聞紙でつつみ、持ちいいように十字のたすきをかけてくれた。
 午後おそく、長かった冬の最後の挨拶あいさつのようにミゾレが降りだした。そんな夕方、奇態な荷を背中にしょって温泉についた。まる二日間、何をするでもなくボタンなべで酒を呑んでいる客を、宿の女たちは警戒の目でみつめていた。ことによると、女房に逃げられた中年男がわが子をしめ殺し、死体をかつぎ廻っているとでも思ったのかもしれない。
 
眠る町 春日かすが温泉[長野県]
 旧中山道望月の宿。昔、この辺りは馬を産した。その馬を毎年八月十五日(もちの日)に朝廷へ献上したところから望月の名がついたらしい。そういえば隣り村を御牧みまき村という。地図には近くに御馬寄みまよせや牧布施といった地名がみえる。
 櫺子れんじつきの二階屋や出桁でげた造りの町並みがつづいている。古めかしい旅籠はたごがある。看板代わりだろう、軒下に大きな下駄をぶらさげているのは、いわずとしれた下駄屋にちがいない。向かいの家は屋根がおどるように波打っていて壁が崩れかけている。無人の住居らしかった。
「なんてよく寝る人たちだろう」
 ふらふら歩きながら、そう思った。通りにはカッと照りつける夏の陽ざしがあるばかりで、車が走り抜けるとシンとして物音一つしない。
「まだ午前中だというのに、もう寝ている」
 小諸からのバスの終点の待合室には、風呂敷包みをひざにのせたおばあさんが壁によっかかって眠っていた。すぐ前の小さな本屋をのぞくと、首ふり式の扇風機の下で肥ったおばさんが気持よさそうに眠っていた。果物を買いに入ったスーパーでは、前垂れをつけた大男がレジの前で腕組みをしていびきをかいていた。肩をたたくと、やおら目をあけ、おぼつかない手つきでレジを打った。
 薄暗い軒下にまっ赤な標識がみえた。北佐久消防協会発行「火の用心優良の家」。赤十字正会員の名札と「靖国英霊の家」の金文字が並んでいる。ガラス戸ごしに中をうかがうと、白シャツにステテコの老人が、うちわをもった手を胸にのせ、パックリと大口をあけて眠っていた。お隣りの小屋根にブリキの大看板がのっている。「岡山上敷特約・荒物雑貨・地下足袋・ゴム長靴・濱田屋商店」。その文字が消えかけていた。暗い上がりがまちにスリッパがそろえてあって、人のけはいがないのだった。町外れの高台に城光院というお寺があった。石段を上がり山門の下でひと休みしているとセミしぐれが降ってきた。涼しい風がここちよかった。目の下に古い写真をみるような家並みがある。町全体が眠りこけているようだった。
 午後おそく町営バスに乗って春日温泉へ行った。道が少しずつ上りになるにつれて両側の山がゆっくりと迫ってくる。ふと萩原朔太郎はぎわらさくたろうの短篇小説『猫町』を思い出した。その風変わりな作品の主人公も山に囲まれた温泉へ行ったらしい。温泉と少しはなれた田舎町とを乗合馬車が往復していた。軽便鉄道も走っていたそうだ。ある日、主人公は何げなく途中下車して山道を歩いているうちに道に迷ってしまい、何時間かのち、思いがけず美しい町に出た。通りに人がいるのに物音一つせず、ひっそりと静まり返っていて、町全体が深い眠りのような影をいていたという――。
 信州春日温泉、正式には長野県北佐久郡望月町春日字湯沢。蓼科たてしな山の北麓ほくろくにわく鉱泉である。見晴らしのいい山腹に国民宿舎ができた。何面ものテニスコートをそなえた、おそろしく大きな保健衛生協会経営のホテルもできた。どんづまりのところにポツンと一軒、忘れられたようにして古ぼけた湯治宿が残っている。玄関の張り出しに厚い板が掲げてあって、右から左へ「旅舎十二かん」。上に玉葱たまねぎのような白い電灯が浮いている。
 渡り廊下をわたって風呂へいった。すべすべと肌にまつわるいいお湯だった。一方の仕切りに冷水がためてあって、どういう仕かけによるものか、一定の間隔をおいてドッと水が落ちてくる。 湯気出しのついた天井いちめんに不思議の国の地図のようなシミがちらばっていた。
 たしか『猫町』の主人公は不思議な町を歩いていて奇妙な体験をしたはずだ。黒い小さなネズミのような動物が前を走り抜けたとたん、街路をうずめて猫の大群があらわれたというのだ。「猫、猫、猫、猫、猫」と朔太郎は書いていた。どこを見ても猫ばかりで、家々の窓からひげのはえた猫の顔が額縁の中の絵のようにして、ヌッと大きく浮き出したという。
 私はそっと上眼づかいに窓をながめてから、お湯の中で寝返りを打って目をつぶった。深い穴に落ちこむような急激な眠気が襲ってきた。
 
なおしてくるぞと かんの地獄[大分県]
 ある雑誌の温泉特集には「異色の湯」という項目に入っていた。別の案内書は「個性派向き」といってすすめている。『全国の温泉・効能一覧』というリストによると、皮膚病、性病、脳病、特に精神病に卓効があるという。
 久大線豊後中村駅から車で四十分、大分県玖珠くす九重ここのえ町田野、九重くじゅう連山の登山口に近い。やまなみハイウェイからそれてすぐのところ、コの字型をした木造二階建ての奥まった一画に簡素な造りの湯殿がある。
 湯殿とはいえ、お湯は出ない。「寒の地獄」の名前からもわかるように冷泉浴で知られており、冷たい源泉のまっ只中につかる。古い案内記には「まれに見る寒冷泉」とある。その傍に佇むと盛夏でも「たちまち冷気肌に迫るを覚え」というのだから恐ろしい。
 正面に石の薬師様がまつってある。お燈明が燃えている。横手に貼紙、墨痕ぼっこんあざやかに文字が躍っている。
「堪え忍ぶ力を示せこの地獄」
「寒の地獄は夏極楽よ、暑気も病もどこへやら」
 夏はあるいは極楽かもしれない。それでも五分もつかっていると体がしびれてきて、我慢できずにとび出したあと控え室のストーブであったまるのだそうだ。それでやっと息がつける。ところで私が出向いたのは冬のさなかである。十二月十六日、アルバムにはそんな日付が入っている。むろん、寄り道をして見ていくだけ、目的地はすぐ近くの筋湯だった。そんな予定で豊後中村からタクシーを走らせた。
 つまりが宿のおかみさんにそそのかされたのだ。肥ったおばさんはニコニコと酔狂な冬の客を迎えてくれた。問われるままに私は来る途中の話をした。やまなみハイウェイは冬枯れで、白いススキが一面に地上を覆っていた。もう一段寒さが襲ってくると木の枝一面に霧氷ができる。お陽さまに光って、それはそれは美しい。おばさんからはそんな話を聞いた。今はひとけないが、夏になるとドッと人がやってくる。シーズンは六月から九月まで。でも、外が寒い今の季節は――と、おばさんは訛まじりに声をひそめた。かえって水の中はあったかい。
「入ってしまうとホコホコして、とってもいい気持!」
 ふっくらした綿入れのちゃんちゃんこの袖ロに両手を入れたまま、細い目をなおのこと細め、そんなことを言うのだった。そういえば、たった今、湯から上がったようなまっ赤な顔である。
「冬の方があったまるというお客さんもおりますですよ」
 タクシーの運転手が神妙な顔つきでうなずいた。
 四角い小さなコンクリートのプールといったところ、真中が仕切られていて養魚用の水槽を思わせる。湯の花のこびりついた石が白々と底に沈んでいた。冷水は澄みきっていた。燈明が二つ、これだけがあたたかげに映っている。
 おばさんから借りたバスタオルを体に巻きつけて控え室を出た。
「はだをさすこの霊泉が病をなおす」
 別にいま是非ともなおしたい病があるわけではないのだが。ともかくも貼り紙の下にしゃがんで人差し指をつけてみた。
「希望は忍耐を生じ
 忍耐は困難をのりこえる」
 水面が割れて小さな輪がひろがる。おばさんの言ったとおりだ。たいして冷たくない。むしろあたたかいと言っていいほどである。とにかく感覚が指先に集中しすぎたぐあいで、何がどうなのかさっぱりわからない。
「がんばれ、今ひとときがんばれ
 忍耐、頑張れ」
 ソーと片足を水に下ろした。
 仕切りの上に「冷泉行進曲」が掲げてある。

 なおしてくるぞと勇ましく
 誓って家を出たからは
 根治こんちさせずに帰らりょか
 冷い見る度に
 まぶたに浮かぶ母の顔

 両足をそろえて降り立った。下腿かたい程度の深さである。あとはソロリソロリとつかりこむしかない。話し声がする。タクシーの運転手と宿のおかみさんが何やら土地訛で呑気のんきそうに話している。あとの経過は省くとして、かわりに「冷泉行進曲」の二番を書いておこう。

 石も木片こっぱもみな凍る
 果てなき寒さかみこらえ
 進む日の本の子じゃと
 両のかいなをなでながら
 あとのふるえを誰か知る
 
片目の魚 温湯ぬるゆ温泉[青森県]
 岩木山は変な山だ。弘南鉄道で弘前から黒石まで行くあいだ、右に見えていたかと思うとやにわに左に移っている。ふと目をはなしたすきにきけすように消えていた。あわてて辺りを見回すと、思いもかけない所に端麗な三角すいを空にえがいて、つつましやかにそびえている。
 津軽の黒石市は人口四万あまりの古い町である。旧黒石藩一万石、津軽藩十万石の分家としてみちのくの奥の間といったところで、ご政道はほどほどにして、もっぱら風流をたのしんできたようだ。おいしい酒を産する。こみせといって昔風のアーケードをもった落ち着いた家並みが残っている。町を流れる浅瀬石川づたいに山間やまあいを上っていくと、温湯、落合、板留、青荷といった温泉がある。
 黒石の町からバスで三十分ほどのところに猿賀神社があるのをごぞんじだろうか。この地方では岩木山神社、小栗山神社と並ぶ三大社として信仰が篤いそうだが、いつ行ってもひと気がなかった。玉じゃりの奥に小振りの神殿がひっそりと控えている。拝殿の左手に石造りの鳥居があるのが奇妙である。裏の池を鏡ガ池といって見事なハスが一面にしげっていた。
 柳田国男の『日本の伝説』には、この池がほんのちょっと、次のくだりに顔を出す。
「青森県では南津軽の猿賀神社のお池などにも、今でも片目の魚がいるということで、〈皆みんなめっこだあ〉という盆踊りの歌さえあるそうです。私の知っているのでは、これが一番日本の北の端でありますが
 目が片方だけの魚といった言い伝えがどうして生まれたのか。柳田国男はいろいろな説をあげている。名僧と関係があって、病人の求めに応じて禁断の魚を食べ、食べ残しを池に放したところ一切れずつが生き返ったが、みな片目だったとか、勇猛な武士が池の水で目の傷を洗ったせいだとか。しかし、どれも魚が片目になった理由にはならず納得がいかない。むしろこうではなかろうか――と、柳田は考察している――昔の神様は、目が一つのものがお好きであったのであって、当たり前に二つ目を持ったものよりも片目の者の方が一段と神に親しく仕えることができたのではあるまいか。目が一つしかないということは不思議なもの、また恐るべきもののしるしであったわけで、だからこそ人は恐れもし、とうとみもしたのではなかろうか。
 そういえば子供のころのマンガに一つ目小僧や提灯ちょうちんのお化けがよく出てきた。唐傘のお化けもあった。みんな一つ目だった。こわがりだった私は夜中に暗い便所へいくたびに、闇夜にカッとひらいた一つの目玉を想像して足がすくんだ。
 温湯温泉は後陽成天皇の御世というから十七世紀初め、慶長年間のころらしいが、大納言花山院忠長が黒石に左遷されたとき、たまたま入浴したところ温気を長く保つので温湯と命名したのだそうだ。広場の中央にかなり大きな共同浴場がある。これを守るようにして四方に古い木造の校舎のような客舎が並んでいる。一、二の旅館を除き、客舎にはどこも内湯がない。湯治客はつれだって共同浴場に入りにくる。なるほど温気のもちのいいお湯であって、からだ中がおどるようにホコホコする。手拭てぬぐいをぶら下げて散歩したくもなろうというものだ。だから温湯にいる間、たえずあちこちから、時ならぬときに下駄の音が聞こえてくるのだった。
 枕の下でカタカタと下駄の音がしたような気がして目が覚めた。ふとんの上で片肘かたひじついたままうたた寝をしていたらしく、頭の下の腕がくびれて、首がつったようで動かない。しかたなしにそのまま、なおのこと片目をあけてじっとしていた。その間、自分が平べたくなますにされた片目の魚のような気がして落ち着かなかった。
 
夢を売る 湯涌ゆわく温泉[石川県]
 湯涌温泉に行く前に、さきにちょっと金沢の町をぶらついておきたい。といっても若い女性に人気のある「北陸の古都」の名店や名の知れた界隈かいわいではない。中年向きのしけたところである。
 古都金沢の武蔵が辻から橋場町にいく途中に、ひと昔ならぬ、ふた昔も前の目抜き通りの雰囲気をもった古い家並み。そこに風変わりな古本屋があるのだ。念のために住所を記しておく。
 金沢市尾張町一丁目八番地。
 種村季弘すえひろ著『書国探険記』には「シークレット・ラビリンス」と題して古本と古本屋をめぐる、とっておきの話が披露されているが、その中のあるくだり、金沢でのこと――鏡花の生家を探して崩れかけた土塀のつづく小路をうろついていたところ、突然大通りに出たという。みれば世に聞こえた菓匠森八もりはちの店のかたわらである。お土産は森八ときめていたのでいそいそと入りかけたとき、真向かいに一軒の古本屋があるのに気がついた。先にちょっとのぞいておくつもりで足を運んだのが運のつき、これが「秘密の迷宮」の一つというわけで、結局、やっとこさ外にこぼれ出たとき日はとっぷりと暮れて、森八の店には鎧扉が下りていた。その後も金沢にいくたびに森八をめざしてすすむのだが、そのつどこの古本屋に足をとられて種村家の人々には森八の名菓が口に入らない。種村さんは次のようにしめくくっている。
「あの古本屋はいまでもあるだろうか。古本屋さえ消滅していれば、今度こそ私は晴れて森八に辿たどりつける」
 たぶん、この次も種村さんは森八に辿りつけないだろう。金沢のあの古本屋はいまもある。消滅していないのである。和漢洋古書「南陽堂書店」といって、永らく私はこの店をよく知っている。同じ尾張町の崩れかけた土塀のつづく小路の奥に老人夫婦が住んでいて、因縁あって、毎年夏になると一週間ばかり、そこに寝とまりするからだ。
 もとより何一つすることがない。降るような蟬の声を聞きながらたっぷりと昼寝をしたあと、ふらふらと起き上がって散歩にいく。いまにも三味の音が聞こえそうな旧廓街くるわまち主計町の細い通路を抜けて浅野川の川っぺりを歩いてから、もどりぎわに南陽堂に立ちよる。古風な笠つきの電球がぶら下った薄暗い店の奥に「五十がらみの髪のうすい店主がステテコ姿で」坐っている。ここまではごくおなじみの古本屋のたたずまいである。いや、数歩すすんだ先が、すでにもうおなじみではなさそうだ。
 とにかくむやみやたらの物量と混雑である。よほどの物好きでもなければ手を出しそうもない古本がうずたかく積み上げられて、どの棚も右に左に前に後にかしいでいる。本の山にじりじりと押し上げられて、店の親父が天井高くに坐っていた時期があった。うかつに本を抜きとると一山全部がドッと崩れかねないのだ。私は一度、頭上に気をとられたあまり足元の本につまずいてつんのめり、頭から本棚の中に倒れこんだことがある。
 壁ぞいの裏手がまたものすごい。黒々と口をあけた落盤の前に立ちつくしたぐあいであって、ここはひとつ、種村さんの筆でみておこう。
「戦前の映画雑誌や婦人雑誌が積み上げられ、その山がいつかあるとき崩れたのだが、崩れたときのままの角度でほこりをかぶっている。二十年か三十年来、整理の手をつけていないらしい。いや、本そのものが一冊も動いた形跡がない」
 南陽堂の親父は数年前に死んだ。連れ合いの老女と息子とがおよそ客のきそうにない店に何故か二人して店番をしている。ある年の八月、私は吹き出す汗をこらえながら例によってこの古本屋の狭い通路にたたずんでいた。ステテコ姿の親父がいなくなってこのかた、迷宮の鬼気がうすれたようだ。お義理に二冊ばかり埃をはらって差し出すと、白髪の老女が両手で押しいただくようにして受けとった。丁寧に包装紙にくるみつつ細い声でひとしきり礼を述べた。外に出るとれがけの街に森八の鎧扉が黒々とそびえていた。
 金沢の郊外、南東約十四キロのところの湯涌温泉は、ひと昔前は石川県石川郡湯涌村といった。市中からバスで四十分ばかり、今日このごろは町並みが切れたとおもうと、すぐに新興住宅地や大学があらわれて、一向に温泉気分がわいてこない。ところが終点でバスを降りると、小さな湯治町のまっ只中にいる気持がするのだから不思議である。三方から山がせまった狭い地形に、十軒あまりの旅館が押し合うようにして並んでいる。西の高台には一泊ウン万円で知られるヨーロッパ・スタイルのホテルがあるが、さしあたって私には用がない。
 旅館街の真中に共同湯がある。古ぼけたコンクリートの箱にアルミサッシの戸口を突き出した格好で、中央に入浴券の自動販売機。料金表に「元湯持出」とあるところをみると、リットル単位で買っていく人がいるらしい。たしかにいいお湯である。塩類泉で四十度、胃腸、腎臓、脚気、リューマチに効能があるという。建物は味気ないが、何度通っても飽きがこない。
 共同湯の横手に赤い鳥居が立っていて、石段を上っていくと小さな温泉神社の境内に入る。砂利を敷いた台座の上に、底の平べったいお銚子ちょうし注連縄しめなわをつけたような、ひとかかえほどの石臼いしうすが見える。細まった首から下が青苔あおごけをおびていて、みるからに古そうだ。由来記によると、養老年間というから八世紀の初め、この山里に一羽のさぎが舞い下りて、とび立つ気配がない。里人が不審に思って近よると湯けむりが立ちのぼっている。ためしに掘ったところ、「高温多量の薬湯、枠となしたる石臼をあふれたり」。人々驚喜して里の名を「湯涌」と名づけたという。そのときのゆかりの石臼を当薬師寺に安置したとか。
 由来自体は全国の温泉によくある一つで、さほど珍しくはないが、音に聞く石臼なるものが実在するのは珍しい。湯涌温泉は一時、源泉が枯れたというから、はたして実物かどうか怪しいが、源泉のとばぐちとでもする以外にまるで用途のなさそうな石臼を、わざわざ造る人もいないだろう。たぶん、加賀の人はモノ持ちがいいのである。
 由来記の立札のかたわらに、白っぽい自然石が立っている。品のいい字体で歌が一つきざまれている。上の句は忘れたが、たしか、湯涌なる山ふところの温泉場に来て、この小春日和のある日、といった意味のものだったと思う。下の句はよく憶えている。
「――眼閉じ死なむときみのいふなり」
 上に「夢二」と刻まれていなければ、そしてそれが竹久夢二であることを知らなければ、少々歯の浮くような言い廻しであるにせよ、宣伝用としてずいぶん上手につくられた客引きの歌と思うところだ。
「竹久夢二年譜」によると、夢二は大正六年(一九一七)八月、北陸に来た。まずは粟津あわず温泉に泊った。
「此頃、彦乃と共に石川県粟津温泉法師旅館に在り。母衣ほろ町登喜和にて、竹久夢二山路しの歓迎会あり」
 山路しのとは画学生笠井彦乃に夢二がつけた愛称である。日本橋の紙屋の娘は二十五歳で世を去るまで五年あまり、夢二と生活を共にした。
 翌月、金沢に来た。
「九月、金沢市西町金谷館にて夢二抒情じょじょう小品展覧会を開く」
 湯涌には二週間あまりもいたらしい。歌にいう小春日和のころではないが、「眼閉じ死なむ」と言う女性と一緒なのだもの、さぞかしたのしかったことだろう。
「九月二十五日〜十月十三日 石川県湯涌温泉山下旅館にあり。夢二と彦乃の生涯の思い出の旅なり」
 夢二は旅が好きだった。同じ大正六年前後をみても、前年には信州に出かけた。翌年には神戸から船で九州へ行った。東北の酒田や会津、長崎と、席のあたたまるひまのないほど旅行をした。そのつど行った先で、巧みに土地を詠みこんだ、ほどのいい歌を作った。竹久夢二は若山牧水とならんで、今日のコピーライターのお手本となるような、後世の観光業者がこおどりしてよろこぶような見事な歌詞の作り手だった。
 放浪癖のせいばかりではないだろう。「金沢市西町金谷館にて夢二抒情小品展覧会を開く」が一例であって、作品を陳列して〈商談〉をまとめるための旅でもあった。当時の地元紙によると、「出陳点数、絹本、半切、色紙八十余点」であったというが、それは展覧会というよりもむしろ、現品限りの即売会といったおもむきのものだったのではあるまいか。地方の素封家がつぎつぎと人力車でやってきて、あるいは絹本を、あるいは色紙を何点かずつ買っていった。なかには手付けをうって二曲一双屏風びょうぶといった大物を注文する者もいる。夢二の生涯に数多い「思い出の旅」は、即売兼注文取りの商用もかねていた。
 岡山の片田舎に生まれた酒屋の息子竹久茂次郎は家の都合で、せっかく入った中学を中退しなくてはならなかった。十代の末に上京して、苦労して実業学校を出た。絵は小さいときから好きだったが、どこの誰について学んだというのでもない。見よう見まね、自己流に絵筆をとって、まずはコマ絵で出発した。新聞のさし絵である。絵だけではなく文もつけられる器用な挿絵家――さしあたりはそれだけだった。二十代の半ばまで、その程度の画家だった。金沢で抒情小品展をひらいたのは夢二、三十四歳のときである。たかだか十年ほどの間に、この画家は全国のいたるところにファンのいる、ひっぱりだこの人物になっていた。
 夢二が生み出した美人画が人々の好みに合ったことだろう。なで肩で目の大きな女が日傘をさして立っている。伏し目がちに文を読んでいる。ぼんやりと猫を抱いて坐っている。あるいは白い肩をのぞかせて、横ずわりになってうなだれている。
 その目はどこを見るでもない。あわい愁いとあこがれをもって、どこか遠くを見やっている。花のつぼみもように赤い唇。崩れる寸前のような肢体のかぼそさ。一つの時代が生み出した夢のブロマイドというものだ。第一次大戦中の軍需景気と、大震災後の復興景気のなかで成金が輩出する一方、貧富のひらきがますます拡大していった時代である。土地投機ブームにつづいて恐慌がみまい、米騒動が全国に波及した。不況が深刻化していった。演歌師が街角で、むせび泣くようなヴァイオリンの音色にあわせて「おれは河原の枯れすすき」を歌っていた。その前をアイシャドーやオールバックや断髪のモボ、モガたちが歩いていた。やるせない時代のあだ花のように社交ダンスが大流行した。上野駅と東京駅に切符の自動販売機がお目みえして、ちょっとした話題になった。
 そのような時代のなかで、竹久夢二はまさしく「夢を売る男」だった。愁い顔の美人や、ハイカラな異国趣味。そんな夢の風物がさまざまな回路を通って地方へと流れていることをよく知っていた。都会にたむろしていた学生たちはどうだろう。地方から上ってきて貪欲どんよくに見聞につとめる一方、刻々と最新情報を郷里へと伝えてはいないだろうか。絵ハガキや袋入りの「夢二名作アルバム」がおあつらえの作品だった。大した費用なしに夢の女神たちを、故里の人々に誇示することができるのである。
 今や到来した大量生産時代のアイドルというものだった。小銭で手に入る夢の女神は、好きなときに話しかけ、ロづけして、抱きしめることができる。そういえば、たえず憧れを秘めた夢二におなじみの切ない雰囲気は、地方より上京して下宿生活中の若者の心情と、ぴったり通じあうものがあったにちがいない。そして竹久夢二はみずから名前に標示したとおり「夢を売る」役まわりだったかもしれないが、夢二自身はべつだん夢を見ていたわけではない。むしろ人一倍にめていたといえるのである――。
 ある日、ひとしきり温泉街をぶらついたあと、私は桜並木の急坂を上って高台にそびえるホテルに入り、ロビー奥の喫茶店で珈琲コーヒーを飲んだ。床には豪華な絨毯じゅうたんが敷きつめてある。温泉で磨きあげた素足に沈みこむような絨毯の肌ざわりが心地よい。しばらくして表に出てくると、広大な玄関のたたきの真中に、わが愛用のうす汚れた雪駄が丁寧にそろえてあった。
 
パンツはつけるな 入之波しおのは温泉[奈良県]
 花の吉野に着いたのがお昼すぎ。下千本の桜は七ブ咲き。まずは山麓の隠し湯吉野温泉元湯で赤茶けたお湯にはいった。古めかしい「霊泉」の額をくぐって、地下に下りるような階段をくだる。新旧二つの湯舟を平等に往復したあげく、鴨鍋かもなべでビールをのんだら、とたんに眠くなった。そのまま元湯に泊ろうかと思いかけたが、いや、まてまて。しらしら明けの東京を発って、はるばるとやってきたのは何のためだ。吉野川のどんづまりの秘湯をたずねるためではなかったか。そう簡単にくじけてはいけない。
 上市かみいちに出てバスに乗った。たえず吉野川を横目でにらみながらさかのぼる。途中一度乗りかえて終点の柏木に降りたったのは夕方にちかい。バス停前のタバコ屋に貼り紙がみえた。
「天の魚 秘宝煮アリマス」
 いかにも桃源郷への入口といったおもむきがあるではないか。貼り紙の前に一日二便きりの小型バスが待っていた。
 入之波と書いて「シオノハ」と読む。地名辞典によると、「シオ(塩)」はしばしば、くさび形の谷や川のうねった所につけられた。そういえば、いまはダムにせきとめられて水中に消えたが、もともと入之波の集落は大きなくさび形の谷にあった。背後は近畿の屋根とよばれる大台ケ原。人造湖のほとりの急な斜面に、しがみつくようにして一軒宿がたっている。
 石段を下りきったさきに湯殿があった。吉野杉ならお手のもの、今風にいえばログハウスで、湯小屋も湯舟も丸太づくり。よほど成分が濃いのだろう、湯のあたるところは一面に褐色の文様をえがいてコンクリート状に固まっている。いかにもキキ目がありそうだ。
 ソロリとはいる。昼間に吉野の元湯で洗ってきたので、なんにもすることがない。湖水からひやっこい風が吹きあげてくる。対岸で工事でもしているのか、赤い灯が点滅している。あたたかい湯につつまれていると、からだ全体が宙に浮いた感じだ。安らかなような、不安なような、こそばゆいような、待ち遠しいような――これらを全部あわせたような変てこな感覚がこみあげてくる。温泉好きにとって、こよなき至福の時である。
 湯あがりは、むろん浴衣だが、その際、下着は全部とりさる。それがいかに爽快であるか。ためしにやってみた友人が、以来二度と例のものをつける気にならなくなったと述懐していることからもおわかりだろう。とにかく便利である。これからもさらに食前、食後、寝る前、朝の起きがけと、お風呂につかるわけだ。ハラリと浴衣をぬぎすてて、そのままトットと湯に向かう、あのテンポがよろしい。女性づれのときは何かとさしさわりがありげだが、たいていは案じるほどの事態には至らない。
 食事はイロリばた。アマゴがうまい。西のアマゴが東にいくとヤマメとかわる。西の魚は腹に一本、うす紅色の帯のようなつやっぽいすじがある。
 入之波には谷崎潤一郎が、『吉野葛よしのくず』の取材にきて湯につかった。歌の一つも残してあるかと大広間を見てまわったら、紙がピンでとめてあった。
「焼き鳥の 串に上司を刺して飲み」
 誰がつけたのか二の句にいわく、
「一度でも 言ってみたいな めてやる!!
 その昔、南朝の宮びとが隠れ住んだ吉野の奥も、なかなか桃源郷とばかりはいかないようである。
 
風呂で選べ 河内こうち温泉[静岡県]
 伊豆は「湯づる」から転じたそうだ。なるほど、いたるところに湯がわいている。半島の入口にすでに、熱海や伊東、伊豆長岡、修善寺と世に聞こえる名湯がひかえていて、なかなか奥まで入れない。しかも首都圏からほんの一、二時間。一泊ウン万円の旅もいいが、ちょっと雲隠れして共同湯でひとつかり。熱海の駅裏のおでん屋でイッパイやって、何くわぬ顔で帰ってくるのも、これはこれでけっこうオツなものである。
 穴場をお知らせしておこう。中伊豆の入口、三島の町はずれの竹倉温泉。のんびりとした郊外の住宅地に三軒ばかりの宿がある。
  お湯が出た出た竹倉に
  神の恵みし赤き湯が
  ぢいちゃん ばあちゃん 又おいで
  腰の痛みによくきくよ
 炭坑節のかえ歌が額入りでかかっている。休憩客は大広間。「座布団をまくらに寝ないでください」そんな貼り紙の下で、座布団をまくらにゴロリとひとねむり。お天気がいいと、まっ正面にドッカと富士山が見える。
 熱海まで引き返して伊豆急で南にくだった。終点の一つ手前、蓮台寺の駅前は桜の古木があるだけで温泉街のけはいもない。前を流れるのが稲生沢いのおさわ川、少し上手で唐人お吉が身を投げた。橋をわたって山沿いにすすむと、チラホラ宿があらわれる。千数百年前、僧行基が諸国行脚の途中に見つけたとか。建立したお寺にちなんで蓮台寺温泉。寺のほうはあとかたもないが温泉は健在、静かな保養地で、湯量豊富なことで知られている。
 今夜のお宿は予約が入れてある。どのようにして目星をつけたのか。
 ガイドブックの紹介では、とりわけ入念に湯舟のつくりを吟味する。めざすのは湯宿であって、展望風呂や、むやみやたらと品数の多い料理見本は敬遠する。地にわくお湯が、どうして八階までのぼったりするだろう。料理があまりに多いのは、何かの少ないことをカモフラージュするためではなかろうか。とにかく湯宿であれば湯舟の立派さこそ見識なのだ。それもあまりたいそうがらず、入浴だけの客にもこころよく開放しているところなら、まずもって安心していい。人もよし、料理にも気くばりがされているものである。
 伊豆の河内温泉は、まさしく思いどおりの宿だった。むかし、一銭にぎって近所の人が入りにきたという一銭風呂。こおどりしたいほどぜいたくな千人風呂。広い湯舟が、ひとかかえもある丸太でくぎってあって、微妙に温度が変化する。木づくりの天井は半円形、白い湯気がもつれ合いながらゆっくりと逃げていく。はるか向こうに、まん丸なハゲ頭がひとつ浮いている。お湯にはハゲ頭がよく似合う。
 安政元年、下田沖のアメリカの軍艦に密航をくわだてて吉田松陰は、小山を廻ったところの蓮台寺にきた。幕府方の目をのがれ、当地の医師宅にひそんでいた。ついでに薬師湯という共同風呂につかってカイセンをなおしたそうだ。散歩がてらにその旧宅に行ってみたら、土間の右手がくぎられていて、一畳ほどの木の湯舟がある。お湯がとめどなくあふれている。奥に声をかけたがシンと静まりかえって、ひとけがない。
 エイ、ままよ。上がりがまちに服をぬぎすて、前を押さえて土間を走った。ソロリと片足から入りこむ。
 とたんに入口に足音、若い女性の声。遠慮がちに案内をうている。
 さあ、どうしよう?
 どうすればいい?
 どうしてくれる⁉
 
ジッと見ろ 沢渡さわたり温泉[群馬県]
 ここは上州・沢渡温泉。
 年に一度はやってくる。なぜかきまって青葉の季節。吾妻線の中之条から四万温泉へいく途中で西にわかれる。草津と結ぶ古い道の両側は見わたすかぎり緑一色。県医師会によるリハビリ専門の温泉病院ができたが、旧街道沿いにのびる沢渡の里は、むかしと変わらない。民家にまじって木造二階建ての宿が十軒あまり。かどっこが共同湯とおみやげ屋。里のはずれの草むした墓地の一角に天保十一年の日づけのある碑が立っていた。享保年間に武州浪士の福田某がこの地に移ってきたという。 湯けむりの里に住みついた一族から、やがて和算の大家や国学者がでた。高野長英が友を訪ねてやってきた。
「さわたり」という名前がいい。若山牧水がうたっている。「枯野の旅」というから秋の末にでも訪れたのだろう。「乾きたる/落葉のなかに栗の実を/湿りたる/枯葉くちばがしたにとちの実を」、ひろいながら山を越えてきた。
  上野かみつけの草津の湯より
  沢渡の湯に越ゆる路
  名も寂し暮坂峠
 湯もみして入るほど草津の湯は熱いのだ。肌がただれる。この点、沢渡の湯はやさしい。そこでながらく草津のもどり道の仕上げの湯としてつかわれてきた。
 湯殿はひのきづくり。湯舟も、流しも、壁も、天井も、いちめんのひのき張り。淡い光沢をもった木肌が、やわらかく湯にうつっている。そのお湯がユラリとゆれて白い肌がおどった。
 空が白むのを待ちかねて床をけった。いちばん風呂。温泉好きには、これがまたこたえられない。ひとり悠然とつかっていたら頭上の階段に足音がして、おばさんが二人、トコトコとおりてきた。こともなげに浴衣をとって隣りの湯舟にザブッ。女性用の小さな内湯もあるのだが、やはり大風呂のほうがいい。宿もそれをすすめている。結構な話である。わが温泉道指南書にいう、混浴の心得――。
「女性はジッと見ろ」
 むしろ入り方がむずかしい。ハナ歌をうたいながら入っていくのは、みえすいている。
「さあ、お風呂、お風呂!」
 などと大声を出してとびこんでいくのは、わざとらしい。ここはふだんどおり、黙々と脱衣する。シュクシュクと前をおさえて、「お邪魔します」。
 そのあと、どうするか。
 湯の中からジッと見る。目を輝かして打ちながめる。さもうれしげに見とれる。それが礼儀というものだ。あらぬかたに顔をそむけて目をとじているなどは失礼きわまる。
 こころなしか湯気までも艶をおび、湯のやさしさがひとしお身にしみる。沢渡の朝は、おばさん二人につづいて若い人妻が母親をともなってやってきた。早起きは三文の徳。やはり若い女性がいいと、あらためて納得した。
 この日、中之条の町をうろついていたら、身代り地蔵で有名なお寺にいきついた。山門わきのめだたないところに「おろかものの碑」があった。戦時中、つい時流にながされてしまった自分たちの愚かさを忘れないためにこれを建てたという。駅前にもどってくると、いたるところにポスターがはってある。当地は元首相御両人のお膝元、選挙のたびに上州戦争がおっぱじまる。おりしも前哨戦ぜんしょうせんのまっただなか、スピーカーをつんだ車がせわしなく某先生時局講演会の案内をさけびながら走っていた。
 
月を仰ぎつ 滑川なめがわ温泉[山形県]
 おひる前は上野のアメ横にいた。
 きっかり十二時発の新幹線、福島でのりかえて峠駅におり立ったのが二時半すぎ。迎えの車で十分ほど走ったころ、道路ぎわにヘンなものが立っている。動物図鑑のカモシカそっくり。
「カモシカだね」
 運転のおじさんがこともなげに言った。親子づれ。なるほど、スラリと痩身そうしんの親カモシカにもつれるようにして、ドッジボールのように丸まったカモシカの赤ん坊が急坂をトコトコと下っていく。
 上野の雑踏からカモシカのいる山の湯宿まで三時間たらず。いま聞こえるのは天地にこだまする水音ばかりだ。背後の吾妻山から走りくだった清流が、宿の横手で赤茶けた一枚板の滑石なめいしに何十、何百もの筋をひいて落ちている。
 見あげても山、見まわしても山。ついさきほどまでアメ横見物、いせいのよい売り声のなかにいた中年紳士は、一足とびに種田山頭火たねださんとうかの世界へ迷いこんだ心境で、うろたえたあまり浴衣に着がえながら、わけもなくころんだりしたのである。
 いいお宿だ。頑丈な木組みがうれしい。巨体を横たえた木造の戦艦風に悠然としている。窓ガラスに午後の陽ざしがうつっている。すぐにも露天風呂にいきたいのだが、まて、しばし。これに関してわが温泉道には、きびしい三カ条のおきてがある。

露天は霧と共に
露天は月を仰ぎつ
露天は川音につつまれて

 川音ならふんだんにある。夕方、陽が沈みかけると霧が立ちはじめた。渓流の水しぶきがもつれながら、ゆっくりと風に運ばれてくる。やがて月も出るだろう。
 うす紅に染まった西の空をながめながら少し熱めの露天につかった。体がほてってくると川に下りる。こちらは身をきるような冷っこさ。
 あたためたり、冷したり――お豆腐をつくる要領である。湯の里に美人が多いのは、こんなふうにしてお豆腐のように白くてやわらかい肌ができるからだろう。ただ時は無情で、いつしかそれがオカラになる。
 全部をみたせとまではいわない。しかし、少なくとも二つはパスした上でつかりたいもの。日中の露天風呂とは何であるか。あれは単なるプールにすぎない。小さな温水プールに裸でひしめきあって酒を飲むなど、あさましいかぎりといわなくてはならない。
 長逗留とうりゅう組はお豆腐よりもオカラが大半だった。彼女たちは、おそろしく朝が早い。四時前にもう湯舟にいる。しきりにカジカが鳴いていた。代わってひぐらしが鳴きはじめた。川石をまくらに沈んでいたら、空にダイダイが浮いていた。ボッとうるんで赤らんだお月さまだ。なんともイロっぽい月ではないか。
 おみやげは「ずんだん饅頭まんじゅう」とごまっこ餅。わが露天=お豆腐説を実証するかのように、宿の若奥さまは色白で美しい。玄関で並んで写真をとった。それからさらに奥の姥湯うばゆ温泉へ行って、三方ともに硫黄がむき出しのがけの下で露天につかった。霧なし、月なし、川音なし。渓流が走っていたからには川音はしたのだろうが、なにしろカンカン照りの下で、地獄の釜うでにあっていたようなものである。掟を破ったむくいか、おでこをアブに刺された。
 
ステッキ突いて しぶ温泉[長野県]
 吉井勇はうたったものだ。
「かにかくに祇園ぎおんはこひしるときも枕の下を水のながるる」
 河岸の宿のあだし寝というやつだろう。枕に通う水の音を聴きながら、作者が何を夢みていたか、だいたいのところ察しがつく。
 枕の下を流れるのは水ばかりとはかぎらない。ここ信州・渋温泉では、もっと豪勢なのが流れている。かにかくに渋の湯こひし寝るときも枕の下をお湯がながるる。
 どうやら地下には縦横に湯脈が走っているらしいのだ。それは宿ごとにふき出し、共同湯にあふれ出て、辻ごとに湯けむりをあげて流れている。
 もよりの駅名にすでに「湯」がついている。終点が湯田中駅、近辺に湯田中、穂波、渋、安代あんだい角間かくまといった温泉町がつらなっている。つまりは巨大な湯川の上に町があると思えばいい。渋には一番場の初湯にはじまって、九つの共同湯がある。中心街の大湯が結願けちがん湯、巡礼式に巡浴して、手拭いに記念のスタンプをもらってあるくのがおたのしみ。
 それはともかく、湯の町は歩くにかぎる。町全体がお湯の川の上にあるからには、そぞろ歩きが入浴にひとしい。近年、大ホテルすじが館内にソバ屋もスナックもバーも土産屋も、はてはストリップまでも開いて客をかかえこみ、一歩も外に出さないのが流行だが、もってのほかと言わなくてはならない。
 温泉町をあるく歩き方――これを知らないと、単に疲れるばかり。すなわち、次の二点である。
  湯の町はゲタをはいて。
  湯の町はステッキついて。
 これもまた近年のはやりだが、スリッパを厚手にしたようなゴム製が玄関に並んでいたりする。甲のところに旅館名が入っている。その名前もろとも地面にペタペタはりつくだけの悲しい履き物である。なぜゲタにかぎるのか? カラン、コロンと快適な音がする。歯の分だけ背が高くなる、それだけでどんなに世界が違って見えることだろう。そして中空に浮いたようなあのこころもとなさ、あのくすぐったいような不安定感が温泉町にぴったり。
 なぜステッキがいいのか。
 チャンバラごっこをしたときの昔を思い出していただこう。棒きれを握ったとたん、急に力がわいてこなかっただろうか。全身に勇気がみなぎり、やにわに肩をいからせ、外またで歩きだしたりしたものである。
 ステッキはつえではない。ときには寄っかかりもするが、おおかたは振りまわす。あるいはサッと突き出す。あるいは手のとどかないところをつついてみる。だから細身のものがいい。握りが女性の乳房のように丸いのが、より願わしい。ズドンと太いのは座頭市の仕込杖のようでいけない。
 渋温泉には歩くのにいい道がどっさりある。坂、抜け道、石段、露地、行きどまり、辻ごとに澄んだお湯があふれている。しも手の橋に立つと、飯綱や黒姫、妙高の山なみを見はるかす雄大な展望がひらける。
 浴衣にゲタばき、ステッキの先生は、たのしく歩きつかれて、この夜、あんまさんに来てもらった。もみしだかれて下におりてくると、わが愛用のステッキが、あんまさんの、黒光りする、いかにも使いこんだ威厳のある杖と並んで、仲よく下駄箱によりかかっていた。
 
化ける 塩原しおばら温泉[栃木県]
 宿は化ける。
 ごぞんじだろうか。古い温泉町のお宿は化けるのだ。都会のビジネスホテルが古くなると、ただ汚ならしいだけであるが、温泉町の旅館はそうではない。ここではモノが変じてモノノケとなり、えもいえぬ味わいをおびてくる。
 ここは那須野なすのが原の西にひらけた塩原温泉。昔から名湯として知られている。ほうき川に沿って大網にはじまり、福渡ふくわた、塩釜、塩ノ湯、畑下はたおり、門前とつづいて、古来塩原十湯と称されてきた。青葉若葉の五月もいいが、全山紅葉の秋が絶品。そういえば尾崎紅葉はここで『金色夜叉』を書いた。念のためにひらいてみると、
「そもそも塩原の地形たる――」
 といった調子で、高らかにうたいあげている。
「道あれば水あり、水あれば必ず橋あり、全渓にして三十橋、山あればいわおあり、巌あれば必ず瀑布ばくふあり、全嶺にして七十瀑、地あれば泉あり、泉あれば必ず熱あり、全村にして四十五湯」
 ほかにも十二勝とか、十六名所とか、七不思議とかがあって、何度来ても飽きない、などと述べている。さりげない顔をして塩原温泉の宣伝役をかねているところがおもしろい。蘆花ろかの『不如帰ほととぎす』が上州伊香保を世に知らしめたのと好一対だ。
 その塩原温泉で帝国ホテルと出くわした。塩ノ湯は箒川の支流鹿股かのまた川沿いにある。沢に面した高台に忽然こつぜんと、和洋折衷のモダンな建物がたっている。赤みがかったレンガを配した三階建て。アーチ型の窓もあれば、優雅な曲線をもったガラスばりの張り出しもある。軒蛇腹に女性の下着のフリルのようなレース模様が走っている。帝国ホテルの設計に関係した鈴木愿一郎げんいちろうの手になるもので、明治末年にできたらしい。
 歌人の高崎正風が「静かなること太古のごとく」とほめたたえたところから名前がついたというから、とにかく古い建物だ。
 この種の宿となると、もはやバケモノ、霊気があたりにただよっている。廊下は単なる通路ではない。西洋の詩人が想像した天国への道のように、何層もの階段をもってせりあがり、とみるまに一直線にのびて、目のとどくかなたでフッと消える。
 窓はどうか。
 たて長の方形の窓わくが、さらに小さな長方形に分割されて、整然とした幾何学的美しさで一貫している。目の下の風景が、重厚な窓わくという四角な額ぶちにふちどられて微妙に変化し、風景画を見ているようなここちがしてくる。別の窓は、上に半月形の丸みをもって、これは月がのぞきこむのにうってつけ。
 事実、夜中にくろぐろと月の光がさしこんでいた。
 渓流わきの露天風呂に下る階段となると、これはもう形容を絶している。モノノケそのもの。白っぽく、うねうねといくだって、まるで白骨として掘り出された怪獣の体内を降りていくかのようである。その尾てい骨からこぼれ落ちたところが洞窟どうくつ風の湯舟、澄んだお湯にすっぽりと収まる。
 この夜、塩原版帝国ホテルの一室でうとうとしていると、ひらいた窓から、まん丸いかたまりがフラフラと舞いこんできた。お月さまがいたずらをしている。夜の床をのぞきまわるとはフラチである――そんなことを思っているうちに、ぐっすり寝てしまった。朝、よく見ると、窓側の天井から、ひもでつるした月のようなアール・ヌーボー調の電灯がぶら下がっていた。
 
先人に学べ 栗野岳くりのだけ温泉・新湯しんゆ温泉[鹿児島県]
 九州は薩摩国さつまのくにへとやってきた。温泉道にいわく、「湯めぐりは先人に学べ」。
 はるばる来たぜ、カゴシマァーと言いたいところだが、羽田から一時間と二十分。十時すぎに発ったのが、お昼にはもう霧島岳の山麓、文字どおり翔ぶが如くで、その名もゆかしい天降あもり川沿いにタクシーを走らせていた。
 御当地にはあちこちに、「〈翔ぶが如く〉の舞台。西郷先生曾遊の地」の看板が立っている。かつてのNHK大河ドラマだ。かたわらに、時期はずれのまっ赤な彼岸花。
 南洲なんしゅう公というと私など、大河ドラマよりも蚊とり線香を思い出す。立派な肖像つきの紙箱に入っていたが、なぜか値段がとびぬけて安く、蚊は逃げるが落ちないという評判だった。西郷ドンとそっくりのタクシーの運転手さんにいてみると、そんなものは知らないと言う。不思議だねェ、などと語らいつつ、やって来ました、ここ栗野岳の中腹、栗野岳温泉。
 背後は八幡地獄といって一面にむき出しの岩がゴロゴロ、硫黄くさい煙がもうもうと立ちのぼり、足下には音をたてて熱湯がふき出ている。さながらに地獄だが、お宿は極楽、犬がのんびりと昼寝をしている。蒸し風呂から大乃国のような体型のおばさんが、汗みずくになって這い出てきた。
 上野公園の銅像にみるように、西郷隆盛は浴衣にゾウリというのがおなじみの姿である。あれは維新の英雄というよりも、典型的な温泉客のスタイルだ。汗っかきの上に、司馬遼太郎の小説によると、微妙なところがハレあがっていて、その治療のためもあったらしい。栗野岳へは犬をつれてやって来た。狩りを好んだという。碑のかたわらの井戸にはゴボゴボと熱湯がたぎっている。ここに放りこむと、あっというまにニワトリの丸蒸しができる。夜、しきりにネコが鳴いていた。
 明治の英傑には何よりも広大な風土が気に入ったにちがいない。名湯には絶景がつきもの。霧島の山並みをめぐって、韓国からくに岳に新燃しんもえ岳、神くだりの伝説をいただく高千穂のみね。コニーデ状の山容が告げている、薩摩一円はかつて、いたるところで火を噴いていた。桜島は今日もしきりに噴煙を吐きあげている。
 火の国の熱気が、小西郷ドンの何に火をつけ、何をめざめさせたというのだろう。その夜、私は当地特産のショウチューをいただきながら気炎をあげて、一人であらかた一升ビンを空にした。
 翌日は猛烈な二日酔い。新燃岳直下の新湯に来るまでのあいだも青息吐息、じっとうつむいたまま借りてきたネコのようにおとなしい。新湯の一軒宿には、ふんだんにお湯がある。海のようにひろやかな露天風呂につかっていると、つい天下国家のひとつも論じたくなろうというのに、ため息とともに小西郷の口をついて出ることばといえば、
「アーアー、どうなっちゃったんだろう」
「ひどいことになっちゃったなァ」
 たしかに聞きようによれば西南戦争のみぎり、敗色濃い自軍を前にした大南洲公のセリフと似ていなくもないのだった。
 
即身成仏 岩室いわむろ温泉[新潟県]
 男は六百年あまり生きた。今もなお生きている。
 女は八百歳になっても、みずみずしく美しかった。いつまでも若いのを恥じて、こっそり村を出ていった――。
 ほんの山一つへだてたところの話。その近くの温泉である。これが不老長寿の湯でなくて何だろう。さっそく岩室温泉に電話をした。
 おりしも紅葉のまっ盛り、しかも週末ときている。お宿は満パイ、軒なみ断わられた。ようやくありついた返事によると、離れのまん中の部屋があいている。
「離れのまん中といいますと
 離れにはそもそも、まん中も両はしもないのではあるまいか。解せぬ思いで家を出て、越後へとやってきた。
 よみがえり。漢字では「甦」。あらためて生まれると書く。私見によれば温泉を言ったことばにちがいない。それが証拠に湯あがりにふと私たちはつぶやいたりしないだろうか。
「生き返ったみたいだね」
 よみがえりの里へ行く前に、近くの西生寺に寄り道をした。弘智法印といって高野山の僧だった。六十ちかくで当地に来て、五穀断ち、十穀断ちの修行に入る。水断ちをして即身成仏。
「私は死ぬのではない。三世をつらぬいて永遠に生きる金剛不壊身となるのである。だから目を閉じても、埋めたりしないでもらいたい」
 それが最後のことば。以来、六百年あまり、黙々と御堂にすわりつづけていらっしゃる。
 気迫のかたまりに押し出されるようにして外にでた。眼下は日本海、佐渡が見える。すぐ下手が野積浜。八百比丘尼の生まれたところ。漁師の娘だった。いつまでたっても少しも老いず美しい。夫をかえること三十九回、八百歳のとき髪を落として尼になり、越後を去った。生家が民宿になっている。「旧蹟八百比丘尼の松」の前で、おそろしく大きな老犬がのんびりと昼寝をしていた。
 岩室温泉に向かう途中、タクシーの運転手が、何もないがいいところだと、しきりに強調していた。なるほど、何もない。県道沿いに宿が十軒たらず。裏の松林から冷っこい風が吹いてくる。小さな地蔵堂に千羽鶴がゆれている。手焼きのせんべい屋から香ばしい匂いが流れてきた。「環境庁指定国民保養温泉地」の標識だけがものものしい。どうして役人が国民の保養地を指定したりするのだろう。指定にあたり、なぜか彼らは何もないところがことのほか好きなのだ。
 たしかに「離れ」ではありました。お値段が並みとはグッと離れていた。軒つづきの別館のまん中の部屋という複雑な一室に通された。女中さんの用語によるとエグゼクティブ・ルーム。
 こういうことを気にするようでは、よみがえりはおぼつかない。やわらかなお湯につかってから縁先に出た。庭の池をながめていると、いつしか夢見ごこちになってきた。雑念多き身ではあれ、これはこれで即身成仏といえなくもないのである。
 夕食のあと、もうひと風呂あびに出たら、大広間で、よみがえりに手おくれぎみのおばさんたちが、若やいだ声で騒ぎながらすそを乱してダンスをしていた。
 
人には愛を 峩々がが温泉[宮城県]
 名前がいい。
 数あるわが国の温泉のなかでも一、二を争うものだろう。「峩々」である。大いなる山ふところの峨々たる岩山のそばにあって、吹雪ふきすさぶさなかにも、もうもうと湯煙りをあげている。
 そんな想像にさそわれ、しかも想像どおりなのだからこたえられない。ジンタでなつかしい「天然の美」ではないが、「神の御手のめでたさ」にホトホト感心させられる。
「雪だねェ」
 出迎えの車を運転してきた兄さんが上を仰いで呟いた。こちらにはただ暗いだけの空だが、見る人が見ればふつふつと雪がわいているのだろう。なるほど、蔵王のお山をのぼるにしたがって雪片が散りはじめた。
 お宿は標高八五〇メートル。右には西部劇にみるような岩が柱を並べたようにしてそびえている。左は削いだような崖。ここでは雪は上から下へと降るのではない。音高く吹きつけてくる風にあおられ、下から上へと舞い狂う。
 そんな自然の狂態を川沿いの露天に首までつかって眺めていた。
 お湯については、かねがね私はやわらかい下着説をとなえている。洗いたてのフランネルのシャツ、あるいはつややかな絹のシュミーズ。素肌にフワリとまとうわけだ。その一瞬、からだのシンから快感がこみあげてくる。全身がしびれたぐあいで、暫時コーコツとして声にならない声を発してうめきつづける。ひと迷惑な話だが、ひとしきりうめき終わると、あとはオコリが落ちたようにおとなしい。
 同じ湯上がりでも家のお風呂とちがって温泉の場合、いつまでもホコホコあたたかいのは、目に見えない、世にも妙なる、不思議の下着をまとっているからである。年来、当方が叫んでいる「お湯から出たらパンツをはくな」の主張が、いかに確乎かつことした根拠にもとづいているものか、この点おわかりいただけただろう。
 内湯はうれしいことに、どれも木づくり。湯口の前に客の献じた鉄板が据えてある。
「胃腸なら必ず治る峨々温泉」
 これが名句でなくて何であるか。真情あふれた断言を、ゆめゆめ疑ってはならないだろう。そのとおり、古来ここは胃腸病の名湯として知られており、飲泉の設備もととのっている。ヨーロッパの飲泉場でみるような特製のカップがそなえてある。霊泉をなめつつ天然の下着姿のまま木の枕で寝ていると、ドッとばかりに日が暮れた。
 シャレた食堂の裏手には、夜目にも白々と雪がつもっている。冬の声を聞いたある週日のこと、相客は一人きり。六十がらみか、眉が太くて小柄、老舗しにせの呉服屋の御主人といったところ。一週間の予定でやってきて今日で五日目。湯もタップリつかって、もうなんにもすることがない。
 酒もタバコもやらないというその相客は、せかせかと食べ終わると、今夜は一段と冷えこみそうだといった意味のことを早口で言いのこして、せかせかと席を立った。
 前を流れる川音と吹きつける風とが合わさって、天地がゴーゴーと鳴っている。調理場の兄さんと、いかにも働き者の血色のいい娘さんとが、何やらむつまじくささやきあっている。これはきっとくっつくな。私はムダに温泉巡りをしているのではないのである。かたがた人間観察を怠らない。一人旅は、とりわけ男女間の機微に敏感なのだ。天に星、地に花、人には愛を!
 お酒がまわるにつれて人恋しく、なぜか涙がにじんできた。
 
庭をながめて 熱塩あつしお温泉[福島県]
 蔵の街、会津喜多方。ちかごろはラーメンの町としても知られている。
 なるほど、あちこちに重厚そのものの蔵がある。古ぼけた蔵のあいだに、まっ赤な「らーめん」の旗がひるがえっている。ともに昔からあったものながら、このところ宣伝の妙で脚光をあびている。その喜多方ラーメンを食べ、蔵をながめつつ歩いていると、背中でカタカタ音がした。つい今しがた、まるきり忘れられたような下駄屋で会津きりのみごとな下駄を、ただのような安値で手に入れたばかり。そいつがリュックの中で歯ぎしりするように鳴っている。
 時代の脚光と縁のないのが大好きなすね者は北へ向かった。みるまに雪が深まっていく。会津大仏で有名な願成寺がんじょうじの境内に、細い踏みあとが一本走っていた。凍りついたその道を歩いていて二度ころんだ。しらじらとした雪明りの夕方、大きな宿の広い湯殿にとびこんでひと息ついた。
 会津盆地が尽きて山形との県境の山並みがはじまるところ、かなりの高台に何軒かの宿がある。名前からもわかるとおりの食塩泉、唇にふれるだけで塩からい。鉄分があるのか、色は少し茶色がかっている。
 雪一色の庭をながめては湯をたのしむ。
 世にこれほどの贅沢ぜいたくがあるだろうか。目と鼻のさきは氷地獄だ。ものみな死に絶えたような白皚々はくがいがいの世界である。死者のハナ水のようにつららがたれている。
 いっぽう、ガラス一枚内側は湯天国。もうもうとけむる湯気のなかに、昇天さながらの裸身が赤エビのようにうだっている。窓をあけると、刺すような冷気がドッと流れこむ。うだった腹をほどよくなぶって、なんともいえずここちいい。
 ほんらい、庭がなくては部屋ではないのだ。庭のない部屋は単なる四角い箱である。
 ここは二代にわたって趣味人をもった古い宿。庭が秀抜。ツツジが雪よけの風雅な三角帽子をかぶっている。松にはムシロの腹まき。幹をくねらせたやつは腰まき状にずらしていて結構なまめかしい。風雅な灯籠とうろが白いベレーをかぶっている。
 由緒ある宿を見わける秘訣ひけつであるが、私はもっぱら電話番号を手がかりにする。手軽に売り買いされる都会とちがって、里では電話も屋号のような来歴をもつ。無趣味な四ケタになっても、すぐにわかる。この宿もかつてはこう言っていたはずだ。
「会津熱塩、電話一番」
 洗面所の鏡にいわく、「ヘチマクリーム・ヘチマコロン/純国産品・入浴後の御化粧料/発売元・天野源七」。子どもごころに、どうやってヘチマからクリームがつくれるのか不思議でならなかった。年経ても、いまだによくわからない。
 雪景色に見入っていると、そのうち足元が冷えてくる。そこで湯につかる。湯上がりにたたずんでは、またひとつかり。食事のあと、寝入る前、夜半の目ざめ、そのたびに湯につかる。
 白い雪は天の塩、地にフツフツと塩の湯がわく。入口に味のある達筆で張り紙一つ、「当温泉ハ天然ノママノ薬湯デス」。石けんがきかないことのおことわりだが、心の安らぎには絶妙のききめがある。
 夜明けちかく、一度に軒の雪がすべり落ちたのか、部屋をゆるがす轟音ごうおんをきいた。
 
夜明けにひとり 塔之沢とうのさわ温泉[神奈川県]
 知られるとおり、東京には何だってある。ここではすべてが手に入る。
 いながらにしてウィーン歌劇場が見られ、バイロイト・オペラがたのしめる。通りを一丁ばかり歩くだけで、フランス料理、地中海もの、インド料理とお好みしだい。東にはロンドン仕立ての服があり、西には中国産の珍獣がいる。この街が世界一の情報都市であることは、とっくに世界の常識である。
 応じて東京には、あらゆるストレスが充満している。不平、不満、腹立ち、焦燥、失望、幻滅、失意、憤懣ふんまん西に一山あてそこねた人がいれば、東には昇進のあてが外れた人もいる。なにしろ一千万もの人間がひしめいているのだ。それぞれがみずからをなだめつつ、夫は健康茶を飲み、妻はエアロビクスに通い、辛うじて心のバランスを保っている。
 何でも揃っている東京には、かてて加えて、とびきりの温泉が目と鼻の先にある。夕方六時前に仕事が終る。新幹線で小田原、登山電車に乗りかえて二十分あまり。七時半にはお湯の中にポッカリと浮かんでいる。ひのき風呂の甘い香りが鼻をくすぐる。聞こえるのは川音ばかり。
 温泉のなかんずくの特徴を、ひとことにして言えば、並外れて公平だということだ。お湯は無情なまでにわけへだてをしない。
 湯につかる。温泉はつかる所であって、洗い場ではない。ちなみに、それは銭湯である。
 ひたすらつかる。
 つかりながら、ボンヤリとながめている。このとき、あらためて気がつくだろう、誰もが古づけのナスのようなおチンチンをぶらさげている。ある人は、日頃の気苦労の証しのように、背中にお灸のあとがある。ここでは地位も、権威も、財産も役立たない。ただ出っぱった腹や、ゆがんだ背中や、重たげな尻があるばかり。いやでも目につく。何しろ、ほかに何一つすることがないのだから。窓から流れこむ空気のなんとうまいことだろう。あれは吸うのではない。呑むのである。ういういしい空気を呑む。湯上がりがまたいい。誰が発明したのかユカタというやつ、残酷なまでに平等な着物。これを着ると敏腕家の部長も、ヤリ手の課長も、ただの浴客、一介のユカタのおっさん。
 そんな温泉の効用を存分にこころえたお宿があるのはうれしいことだ。湯の自由さ、とらわれのなさを示すかのようにまんまる型のお風呂。丹念な木組みに、なめらかな赤がねがのせてある。竹の管から流れこむ湯量のほどよさ。流しはすっきりと何もない。大きく切りとった窓の前は山、目の下は川。これは湯けむりの立つマジック・ボックスである。不平、不満、失意、幻滅、ねたみに腹立ち――心の底にオリのようにたまっていたストレスが、魔法の杖で一打ちしたかのように消えていく。
 気のあった仲間と一つ湯舟につかっているのもいい。彼も人の子、あたまに目立って白いものがふえてきた。このところの苦労のほどを知らぬでもないせいか、何やらいとしさがこみあげてきたりする。
 夜中に恋人と一緒に入る。他人の場合なら腹立たしいかぎりだが、わがことならば、べつに異議を申し立てたりはしないだろう。しかし、まあ、これは初心者のころのワザくれ。わが温泉道の極意書にいわく、夜明けにひっそりとひとりで入れ。
 一説によると脊椎せきつい動物は海から陸にあがってきた。以来、何千万年の時がたったが、いまなお海への郷愁たちがたく、陸にあっても子宮という「海」に生まれ、目をとじて羊水という、ほのあたたかい海水の中に浮いている。詩人もいったように、わが国の文字では、海の中に母がいる。
 老いては子にもどる。極意者は赤子にもどる。
 
一本締め 山代やましろ温泉[石川県]
 ここは北陸路、音に聞こえた山代の里。宿につくと、きれいどころがお待ちかね。あわてず、さわがず湯につかってから、やおら御対面とあいなった。
 これまでは、もっぱら、お湯一本槍で通してきた。色気、食い気にすこぶる冷淡で、少々のお酒を扇子がわりに、湯道楽の極意を説いてきた。ところがどうだ、うってかわってのハシャギぶり。
 三味線は喜久やつこ、踊りはあやめ。お姿からもひと目でわかったが、おふた方とも年季がタップリ入っている。喜久奴ネエさんは伊豆の伊東温泉で鳴らした姐御あねご、先年の地震騒ぎで干上がって、三味線一丁背中にしょって北陸へやってきた。三味線がいけて、歌がいけて、話がうまい。少々気弱なあやめさんの頼りがいのある姉貴分。
 実はもうおひとり、若い子がいたのだが、なぜか早々に当方の前から姿が消えた。願ったり叶ったり。べつに負けおしみでいうのではない。芸者、易者、学者、医者と、「しや」のつく職業はシワがふえるほど値打ちが出る。味わいが増す。
 とにかく話が面白い。土地の裏話、芸事のブッちゃけたところ、歌をまじえて二十年、三十年をひとっとび、次から次へ話題がつきない。といって客筋のタナおろしは一切なし。よた話の中にもタシナミが一本、ぴしりと通っている。
 おもえばわが温泉道も二十有余年、苦節何年とやら、永らく冷やかな目で見られてきた。ところが近年の温泉ブーム、酔狂でつづけてきたヒマ人に思いがけずお座敷がかかって、いたらぬところをご披露している。
 いみじくも酔客の鉄火場で鍛えた姐さん方から、わが未熟さを思い知らされた。何の道にも深さがわかってこそホンモノとわが身を慰め、腕組みして天井を仰ぐ。
 加賀天井というのだろう、濃い赤紫色のうるし塗り。壁と床の間がキリリと品よくあい対峙たいじしている。白い障子の向うは庭。格式ある旅館でしか、日本人が日本の住居を体験できないとは奇妙である。しかも年々歳々、磨きあげた木造の宿が消えていく。
 宿の主を責めるなかれ。いいものを客が壊していくのだ。ちゃちなトイレと風呂つきを求め、木の廊下よりも絨毯じゅうたんまがいの敷物を上等とこころえる。芸のできる年寄りよりも、カラオケでうなるのが唯一のとりえのおネエちゃんがごひいき。
 この夜、あっというまに時がたって、めでたく一本締めでおひらき。
 あとに当方ひとりがのこった。
「ウン、たのしかった」
 それがこの夜のことをいうのか、これまでのことなのか自分でもわからぬままに、つと手拭いをつまんで、寝入る前にもうひと風呂。
ちんちん千鳥 草津温泉[群馬県]
 清六じいさんは草津温泉の湯守りをしていた。朝早く千代ノ湯やなぎノ湯といった昔ながらの共同湯をひとまわりして掃除をする。それから住居のある温泉寺にもどってきて庭の草むしりをする。仕事はこれでおしまい。あとは寺の離れの縁側で新聞を読んでいる。
 湯守りになる前は草津で知られた老舗旅館の下足番をしていた。あるとき私が下足札をわたしながら香草温泉跡への道をたずねると、オヤッというような顔をした。それから玄関先の長椅子に腰を下ろして、子供のようなおぼつかない手つきで地図を書いてくれた。その夜、酒をもって礼にいくと、顔をくしゃくしゃにしてよろこんだ。それ以来の仲である。
 小柄で、白髪あたまを五分刈りにして、粋なハッピを着ていた。かつてはねえさん連によくもてた。年とってからも湯治のバアさんたちに人気があった。ワンカップの差し入れがたえなかった。
「香草温泉はどうしてとだえたのですか」
「そうよナ」
 清六じいさんは指先でちょいと唇を拭った。前歯が欠けていて、少し聞きとりにくい。一日二合、おかずは野沢菜にイモの煮っころがし、この手のものは清六ファンからのいただきもの。当人はチーズとかクラッカーが大好きで、私がカニ缶の詰め合わせなどをもっていくと、ひどくよろこんだ。
 草津から渋峠を通り、横手越えをして信州の熊の湯に出るのが旧草津街道で、一名香草路。よしだいらに抜ける途中の香草温泉にちなんでいる。草津から日帰りがきいた。何軒もの旅館があったが、いつのころからか源泉が枯れて廃絶した。
「どうしてもう一度ボーリングしないのかな。あんなにいい場所にあるのに」
「用が終わったからヨ」
 ワンカップが入ると清六じいさんのしわしわ顔は、あずきをうでたようにまっ赤になった。身振り手振り入りで話がうまい。
「ご承知のとおり――そもそも草津の湯は、あまり評判のよろしくない病いに効き目があった」
 ひどくもったいぶって話しだした。学名スピロヘーター・パリーダ、俗にいうカサっかき。しかるべき薬のないころ、草津の強烈な強酸含有泉は、淋しい病いの人々に調法がられた。
 「ちんちん千鳥の
  く夜さは――」
 じいさんのオハコである。歌うだけではない、独得の注釈がついた。これはまさしく、あの種の病気の特徴だそうで、あれをいただくと、ときおり悪寒おかんに襲われる。
「ガラス戸しめても/まだ寒い」のだ。
 清六じいさんの話によると、昔、草津は冬になると戸を閉め、宿の人は山を下りた。だが、例の病いの人々は、なおりたい一心で山を下りようとしない。そのための説得に使われたのが香草である。居残り組は十人、二十人と編成されて雪の香草路を歩いていった。
 「ちんちん千鳥に
  親ないか
  夜風に吹かれて
  川の上」
 歌うとき、清六じいさんは「ちんちん」で妙な手つきをした。おもわせぶりに腰を振った。いつもこの手で湯治のバアさんたちをよろこばせてきた。
 ありがたい薬が出まわるようになったのは、いつのころだろう。草津にくるその道の病客がめっきりへった。かわってスキー客や家族づれがやってきた。草津はごくおだやかな湯町になった。これと歩調を合わせるようにして香草の湯の出が細っていった。最後の湯治客が手を振って立ち去った翌日、源泉はきれいに干上がっていた。
 町の人々は協議して、あらたにボーリングはしないことを申し合わせた。かわりに一つの地蔵尊を建てた。
「赤いよだれかけをつけているあれですか」
 頭がひらべったくて、ひたいが少しデコスケ。風通しのいいところに立っているので、旧道を吹き抜ける風に色のせたよだれかけがヒラヒラしている。
 清六じいさんとそんな話をしたのは冬のことだ。翌年の春先、じいさんは持病のシャクがおきて町立病院に入院した。それから二週間ばかりで、あっけなく死んでしまった。
 あとで知ったのだが、いたって手のかからない病人で、センセイのいうところを神のごとくに聞いていた。ただ一つ、朝おきてもすることがないのをコボしていた。
 「ちんちん千鳥よ
  おらぬか
  夜明けの明星が
  早や白む」
 小声で歌いながら、長い廊下をいきつもどりつしていたそうだ。
 
川端さんの宿 湯ヶ島温泉[静岡県]
 湯ヶ島温泉は、ごくめだたない位置にある。下田街道からそれて、かなりの坂道を下ったところ。本谷川ほんたにがわ猫越川ねつこがわとが合わさって三角洲をつくる辺り。チラホラと民家があって、あいまに竹やぶと柿の木畑。修善寺からのバスの中でおばあさんからおそわったのだが、昔は家のそばにも、きっと柿の木を植えたのだそうだ。
「井戸のわきに一本、それから納屋の裏に、もう一本――」
 甘いのと渋いのを植える。甘柿は子供が木にのぼって食べた。渋いのは皮をむいて干し柿にした。甘い柿が枝からなくなり、軒の干し柿が白い粉をふくころ、その年はじめての霜がおりる。
 道は三角洲をかすめ、急カーブを描いて下っていく。川端康成は、いつもその辺りで湯の香をかいだようだ。
谷に下りる路に一歩踏み出すと、瀬の音に乗って湯の匂いが漂って来る。私は懐かしさが一ぱいで駆け出す」
 よほどその匂いが好きだったのだろう、宿のどてらに着替えると、袖に鼻をこすりつけて綿にしみこんでいる匂いを吸った。湯船にからだを沈め、胸いっぱいに湯の匂いを吸いこんだ。長逗留すると、孤独の思いがつのってくる。そんなとき、「眼をつぶって、どてらの袖を噛む。と、湯の匂いがする。私は温泉の匂いが好きだ」
 道がゆるやかになって西平にしびら橋をわたる。川の名が変わって、ここからは狩野かの川だ。橋のたもとに「犬猫温泉入口」の標識がある。川原にむかって小さな段階を下る途中が入口で、小さな風呂がしつらえてある。そのすぐ左手が人間用の「河鹿の湯」。土地の人は湯道ゆみちといったらしい。明治の末、湯本館の安藤藤右衛門がひらいたとか。小山をこえ、山裾をまわって、川原のこの共同湯に通じていた。道みちワラビをとったり栗をひろいながら人々がやってくる。井上靖の『しろばんば』の子供たちも、そんなふうにして湯に通った。
 その湯本館だが、うっかりすると見すごしかねない。通りを左に折れ、生垣にそって、ゆるやかな坂を下りきったところに小さな看板がある。ただそれだけ。玄関がさらに奥まったしも手にあって、宿全体が川ぞいの木々にひっそりと隠れたぐあいだ。
「二階に上ると渓流に向って八畳間が二つ、廊下の左側に六畳間が二つ、その外は木の扉で洋間まがいの一部屋
 洋間と背中合わせに四畳半の小部屋があった。当時、湯本館の二階は、この六室きりだった。四畳半の五号室は廊下をへだてて離れている。川端康成は長逗留の予定だったので、その小部屋に落ち着いた。
 はじめて湯ヶ島の湯本館を訪れたのは大正七年(一九一八)の秋である。一高の学生で、数えで二十はたち。このとき旅芸人の一行と出くわした。それから昭和二年(一九二七)までの十年間、彼は毎年、湯本館へやってきた。ときには滞在が半年、さらには一年に及んだ。「冬の外套、冬の着物、セルなどがみだれ籠の中ですっかりかびていた。昨日宿の者に干してもらった、冬の帽子にもかびが生えている」。
 冬の装いで来たからだ。その冬を越し、春がすぎた。初夏には帰るつもりで、質屋からわざわざセルを送らせたが、一度も着ずじまいで夏をすごした。どこへ行くにも宿の浴衣のままだった。
「今また東京に初秋の単衣を頼んでやった。これを着て帰りたいと思っている」
 顎が鋭く尖っていた。目に何か、非情の光とでもいった烈しいものがあった。小柄で、やや猫背。そんな青年だった。日陰にいると老人のように見えた。
 ある年の夏、大本教二代目教祖の出口澄子とその娘が湯本館にやって来た。二十代の青年は教祖が湯に入るのを観察している。
「不恰好にだぶだぶ太ったからだだ。貧しい髪をちょこんと結び、下品な顔をして、田舎の駄菓子屋の婆さんのようだ」
 湯から上がると縁側に太い足を投げ出して、キセルで煙草を吸っている。これが、とにかく一宗の教祖だというのが不思議でならない。
 河鹿が鳴くころ、狩野川に鮎が上ってくる。ある夜、フライの魚が出た。宿の女にたずねると、料理番の書きつけをもってきた。
「差し上げました魚は鮎でございます。秘密でございます」
 解禁前のが、こっそりと食膳にのぼったらしい。
 湯ヶ島には天城俱楽部というトタン張りの芝居小屋があって、入れかわり立ちかわり旅芸人がやってくる。法界節、旅役者、香具師、艶歌師川端康成は軽業が好きだった。軽業師たちは一つまちがうと首の骨を折りかねない芸当をする。そんなとき、どんな女、子供もすこぶる真剣な顔をした。川端康成はそんな顔のみせる意外な美しさに見惚れていた。
 あるとき、女歌舞伎がかかった。赤い着物を着た子役が小水を漏らしたので、「舞台が赤く染まった」という。その芝居小屋では――もしかすると、わざとそうしてあったのかもしれないが――見物席から楽屋風呂が見えた。
「女優達は舞台では普通の男以上にあばれていたが、舞台裏へ引っ込むと貧しい乳房の下に薄黒い肋骨が数えられた」
 玄関からとっかかりの階段をあがると、左手の柱に矢印つきで「川端さん」の小板が打ちつけてある。かたわらに山口百恵主演第一作「伊豆の踊子」のポスター。人ひとりがやっとの細い廊下をまわると、五号室の前にくる。ま四角な四畳半に、小さな床の間。天井が小亭風に葺かれている以外は、とりたてて特徴はない。小振りのテーブル、右にガラス戸つきの書棚。『雪国』『抒情歌』『少年』『掌の小説』『名人』。小部屋の住人の形見のように、ひっそりと並んでいる。『川のある下町の話』『海の火祭』『みづうみ』『美しい日本の私』
 たえまなく川音がひびいてくる。伊豆の山村は秋が早い。まだ青みどりをのこした木々のなかに、血のように赤い葉が一ひら、二ひらまじっていた。その葉うらをながめていると、空のいろも、何もかもが冴えざえとしてくる。
 そんな山の宿で見たことを、川端康成は一冊の本にあまるほど書きつづった。ある夜の三時頃に共同湯へ下りていくと、美しい小娘の女中が湯船の縁に頬をくっつけて眠っていた。
「葉漏れの月が差し込んで、硝子戸の中の湯気は霧の夜の瓦斯燈じみたほの明るさだ。河鹿の声が月の光に浮んでいる。桃割れのびんが溢れる湯に濡れている」
 ゆり起こすと、二本の指で瞼をむりに開いてみせながら、明るく笑った。またいつもの乾物屋が来たのだそうだ。沼津から掛け取りにくる商人で、必ず酒に酔い、必ず女中部屋に入りこむ。女たちは手をかえ品をかえ寝床を守ってきた。戸の錠ぐらいはちぎり取る。つっかえ棒をすると、物干し台をよじのぼって裏窓づたいに上ってくる。甲羅をへた女はともかく、神経のこまやかな小娘は湯殿に逃げてきて眠らなくてはならない。
 その胸には、湯のために「赤い輪」がはまっていた。それを笑いながら、娘は身の上話をした――。
 思いつめた駆落ち者が隠れていたこともある。女は部屋を一歩も出たがらず、夜中の湯船で抱き合って泣いていた。
 長逗留中にみたのだろう、十六の村娘だった。宿の内湯へ忍んできた。張りのあるからだの線が美しい。次の年、彼女は沼津の牛肉屋の女中になっていた。村に帰ったとき湯船で会うと、からだの線がいたいたしくくずれている。
「好色的な通俗医学書そのままの変化を娘の体に見ることは、湯の悲しさの一つだ。それから女の体に幻滅することも」
 小さな部屋にもどってくる。
 机の上はきちんと片づいている。読みさしの本が置いてある。冬にはインクの壺が凍りかけた。そんななかでこの孤独な「老青年」は、いつも思っていたのではあるまいか。夜も昼も、こんこんと眠りたい。深い眠りにつきたいばかりに、昼間、彼は峠までてくてくと歩いていった。わざわざ山道をよじ登ってみたりした。鉢窪山といって下田街道に出るとよく見える。鉢を伏せたような草ばかりの山で、下から見るとやさしく見える枯草は、登ってみると胸までうめるススキだった。
「その辺を散歩していると、人の姿がなく、家が一軒も見えないばかりか、宿屋の泊り客が私一人のことがある」
 猫が一匹いた。ある村に一匹の猫、一匹の犬しかいないことがあり得るかしらと、若い男は考えた。とすると、その猫や犬は、ほかの猫や犬を一生一度も見ないで死んでしまうことになるではないか。そんな思いが彼を眠らせない。疲れはてて帰ってきて、しずかに眠ろうとする。とたんに、早々と啼きはじめる小鳥の声に目がさめる。次の日、今日こそこんこんと眠ろうとして、またもやハッと目がさめた。理由は書いてないが、もしかすると読みさしの本の、こんな一行だったかもしれないのだ。
 ――われは わが ながきねむりをば はじたり。
 いま、その部屋の窓は閉めきったままだ。水の底にいるように空気がひんやりしている。遠い昔に何かが終わってしまった、そんなふうにひっそりかんとしている。押し入れの上に赤茶けた写真があった。晩年の顔だ。白い髪に和服。目は若いころと同じように大きく見ひらかれている。
 ある日、そっと彼はこの部屋を出ていった。むしろ、やにわに消えたぐあいだ。その人を思い出させるものは何もない。飛び立つ鳥のように、あとに毛羽一つのこさなかった。にもかかわらず、この部屋は、この人にしか似合わない。ほかの誰があとに入って、茶を飲んだり本を読んだりできるものではない。ポックリとこの部屋だけが、その人のために空いている。
 
月見風呂 不老不死ふろうふし温泉[青森県]
 本州の北端、津軽半島の左肩に指をすべらしていくと、深浦港のすぐ下がダンゴ鼻のように出っぱっていて、先っぽに燈台のマークがついている。振り仮名がなければ読めない地名だ。艫作と書いて「へなし」と読む。つまり、燈台のあるところが艫作崎。
 ただしこれはちゃんとした地図帳の場合である。旅行案内についている安直なやつだと、こんなこむずかしい地名ではない。どういう因縁によるのか、おそろしく景気のいい名前で、これを称して黄金こがね崎という。燈台の真下にあるのが不老不死温泉。
 深浦の港町をうろついていたときは、霧のような雨が降っていた。駅にもどって夕方の五能線を待っているあいだに雨が上がって、雲間に青空がのぞいた。無人駅の艫作駅から歩いて十五分あまり。燈台のすぐ前は削ぎ落としたような崖であり、急坂をころげるように駆け下ると、一面の岩の台場に黒ずんだ建物がある。
 まず陸がれた。海面は夕焼けの余光を残して、いつまでも明るい。たいした波でもないのに来る波はどれも大波の様相を呈して、盛りあがり、ふくれあがり、飽きもせず岩に当たって崩れている。二階の窓から眺めていると、目の焦点がうるんできた。そのうち四方から闇が押しよせて、まっ暗になった。
 お湯はかなり鉄分がまじっているらしく、浴室全体ががしたように赤茶けている。赤茶けたコンクリートの流しに、禿げ頭のじいさんがあぐらを組んでいた。毎年、秋になると十日ばかり湯治にくる。下手につづく海岸は岩崎といって釣り場にいい。イッパイ機嫌のじいさんは禿げ頭を手拭いでこすりながら、こんな話をした。
 この夏、仙台からの釣り客が波にさらわれた。ボートでさがしにいったら、大きな岩の下に浮いていた。水圧のかげんで垂直に立っている。「オーイ」と声をかけたら返事するようにコックリ一つうなずいた。竹のさおでつついたらイヤイヤをした。じいさんは両手をだらりと差し上げたまま、首をゆっくり振ってみせた。それから肩をふるわせて、うれしそうにホッホッと笑った。
 盛り沢山な魚を前に長々と膳にすわって、たっぷり酒をいただいた。夜半すぎに細い月が出た。まだ十月初めというのに秋の終りの気配がした。
 明け方、肌寒さに目がさめた。水の底にいるように体が虚空に漂っている。どこやらから「オーイ」と呼ぶ声がする。窓ぎわにいよってカーテンの隙間すきまから外をのぞいた。赤い小さな灯が二つ、音もなくすべっていく。フラッシュのように燈台の光が点滅している。その上の 思いがけない方角に、村芝居の書き割りのような細い月が浮いていた。
 
仙人杖 日光沢温泉[栃木県]
 愛用の杖がある。
 すらりとした竹で、上にまん丸い握りがついている。ほどのいい形と軽さ。旅行には、たいてい持っていく。とくに温泉に行くときは不可欠だ。
 奥鬼怒の日光沢温泉で見つけた。薄暗い廊下の天井のところに、何本かが束にして吊ってあった。
 飾りっけのない一本がとりわけ気に入った。おばさんが梯子はしごをかけて下ろしてくれた。宿の主人の手製だという。抱くようにして部屋へ持ちかえり、床の間の掛け軸の横に立てかけた。
 午後おそく内湯につかっていると、小肥りの老人がにこやかに入ってきた。
「お邪魔します」
 丁寧に湯をかけてから、わきにそっと沈みこむ。

 イガグリ状の白い頭に弱い陽が差しおちている。
 年代物のガラス窓に湯気がもつれあって、そのうちスッと消えていく。
 御当主とお見受けしたが、あえてたずねなかった。
「今年は冬が早そうですね」
「来月には家の者は山を下ります。ひとり山ごもりでございますよ」
 威厳のある老顔がニッコリ笑った。いつもくやしい思いがするのだが、お湯にはなんといっても老人がよく似合う。
しもの加仁湯は、この節は年中やっているようですね」
 簡素な湯小屋だったところにエレベーターつきの豪壮なホテルができていた。そういえば八丁ノ湯にも、今風のログハウスが並んでいた。
 自分たちには才覚がございませんで、と老人は小声で言った。みじんも卑下したふうではなく、あいかわらずニコニコしている。
 十月末だった。
 早朝の浅草を発ってやってきた。二泊三日の予定。女夫淵から歩きだした。八丁ノ湯の露天で汗を流した。加仁湯の変わりように目を丸くした。手白沢に立ち寄って、あらためて露天につかる。日光沢の宿に着いた。夜はおいしいお酒を、いつまでもぐずぐず座りこんで飲んでいた。
 一夜明けての次の日、持参の本を読むでもなく読まないでもなく、冷えてくると湯につかる。それから廊下や庭先をうろうろする。この手の取りとめのない時間が絶妙なのだ。もっとも、お湯があっての話、町のホテルでこれをやるとコソ泥とまちがえられる。
 玄関の軒に鐘がつる下げてあった。奥鬼怒は霧が深い。客への合図にこれを鳴らす。来る途中にも一時霧が立って、五メートル先の人の姿が消えた。十一月に宿を閉じると、翌年五月まで長い冬がつづく。お山は雪に埋もれる。
 部屋にもどって寝ころんでいると隣室で声がした。山の宿は壁がうすい。「疲れた?」と男がきいた。「そうでもない」と女が答えた。私は咳払いをして立ち上がり、ふところ手して散歩に出た。べつに気をきかしたわけではない。ちょうど散歩に行きたかったからである。そのもどりに廊下の天井に吊るされた杖を見つけたわけだ。シンプルな形といい、手ざわりといい、申し分なし。全体がすっきりと美しく、いくら見ても見飽きない。
 夕食は大広間。お湯につかってひと息ついてからお膳に向かう。ストーブが勢いよく燃えている。ひとかかえもあるヤカンから湯気がさかんに立ち昇っている。ある詩人がタベの時を「限りなくやさしいひととき」とうたっていたが、それは詩人がいたピアノつきの洋間以上に、山の湯の大広間にぴったりではあるまいか。
 男女一組がやって来た。隣の膳につく。
「彼女、美形だなウン、なかなかのものだ」
 横目で見やった。中年には詩的ないっときが、即座に限りなくいやしいひとときに変貌へんぼうした。
「御夫婦かなさあ、どうだろう」
 一人で大仰に腕組みしたりしている。
 実はちゃんと知っている。抜かりなく聞きとったのだ。運ばれてきたお銚子をとって、男につぎながら彼女は言ったものだ。
「おうちでもいつもこうですか?」
 いや、まあ、べつに、などと男はテレぎみに答えていた。
 いつも思うのだが、隠れ遊びにはやはり、しかるべきお宿がよろしいのではなかろうか。山の湯はいかにも仙人ぞろいながら、久米くめの仙人の昔から、雲上の人は下界のことに関し、いたって好奇心が強いのである。
 翌日、早起きの私は、しらしら明けを待ちかねて露天に行った。
 霧が巻くようにしてわいてくる。向いの山に、なぜか一本だけ紅葉を残したモミジがあって、霧の合間に血のような紅が見えがくれする。鳥も里に下ったのか、き声一つしない。
 晴れて杖のつかいはじめ。
 ドテラ姿で駐車場わきにたたずんでいると、早朝登山の一番隊がやってきた。
 吐く息が白い。いずれも中高年組がおもいおもいのいで立ちで、次々と霧の中からあらわれる。私は挨拶をかわしながら、掌につつんだ丸い握りをいとおしげに握りしめた。
 
天国への階段 伊香保いかほ温泉[群馬県]
 伊香保は石段の町だ。
 横に歩いているときは水平なのに、本通りにくると垂直になる。うっかりすると浴衣に下駄といったいでたちで天に昇る。
 榛名はるな山の東の山腹一面に温泉宿だけの町ができた。石段下の共同湯から石段を上りつめた伊香保神社まで、とにかく変てこな空間である。上では神さびた境内に古色蒼然こしょくそうぜんとしたやしろがヌッとたっている。いっぽう下では湯けむりのなかに白い乳房や毛むくじゃらのお尻が浮き沈みしている。その中間は、つみあがり、かさなりあった宿とホテル。夜ともなると明るくともった灯が上へ上へとつらなって、ときならぬ蜃気楼しんきろうが立ったぐあいだ。いや、ニューヨークの摩天楼が上州の山腹に引っ越してきた。ただし、ここでは書類のかわりに酒杯がやりとりされ、テレックスのかわりに三味線の糸が音をたてる。出入りするは、湯につかってボンヤリしているのが仕事のノラクラ者。彼らはのベつゴロリと横になって、もやにつつまれた下界を打ちながめながら、おりおりあごが外れるほどの大あくびをする。
 昔は上越線の渋川からおもちゃのような電車が走っていたらしい。その前はもっぱら馬車だった。さらに以前の明治の初め、温泉好きのドイツ人が来たころは馬だった。伊香保温泉は草津温泉とともに、エルヴィン・ベルツ先生の推奨によってひろく世に知られた。海抜七○○メートルの高地にあって空気が澄んでいる。徳富蘆花とくとみろかは『不如帰ほととぎす』の肺を病んだ女主人公に伊香保で保養させた。大ベストセラー小説がファッションを生み出すしだいは、今も昔もかわらない。以来、伊香保には胸を病んだ浪子と武男だけでなく、五体すこぶる健康な男と女がワンサとやってくる。宿は山の腹にちらばって、眺望の点では一流も三流もない。いたって平等に上州の山々がながめられる。下手に流れるのが吾妻あがつま川、子持こもち山や小野子山は指呼の間だ。雄大な裾野をひくのが、ごぞんじ、名月赤城山。ここにくると「千年も万年も生きたい」とまでは思わないまでも、十日か二十日ばかりのんびりしてみたいとはよく思う。
 とにかく、あきれるほど近いのだ。上野から新幹線を併用すると二時間たらず。午後の予定が急にあいたりした日など、私はカバン一つでやってくる。雑誌をひろい読みしているあいだに、ついさきほどまでのアメ横の雑踏がうそのような湯の町にいる。
 伊香保も変わった。温泉街の入口にベルツ先生にちなむ、美しいドイツの民家を模したクアハウス(温泉館)ができた。千円札一枚でたっぷり、さまざまなお湯がたのしめる。そのあとドイツ風レストランで、上州風女性たちを見やりながらビールをいただく。昭和十二年に伊香保を訪れた寺田寅彦とらひこは、窓からの景色をながめていて、ローマに近いアルバノ地方、『即興詩人』にうたわれたゲンツァノ湖畔の眺望を思い出したという。なるほど、上越国境には妙な形の岩山がいくつもあって、なにやら異国を思わせなくもない。
 一泊できれば、それにこしたことはないにせよ、時間とふところがさびしいときは、ただ界隈をひとまわり。春の新緑、秋の紅葉もいいが、冬のさなかの雪のころが格別である。見あげると白一色の石の段がはてしなくつづいている。ダンテの『神曲』に語られている天国への階段にそっくり。大きな宿の若奥さまか、パリ土産風のコートをひるがえした女性が、なれた足どりで雪の石段をのぼっていく。こころなしかそれが白い翼をひらいた大天使と見えなくもない。先年、私は冬のある日、そんな女性を見あげていて目まいをおぼえ、やにわに虚空に舞いあがったような気がした。そこまでは覚えている。気がつくと尺余の雪にころげこんでいた。つまりが女性の白いふくらはぎを見て雪から落ちた久米仙人である。
 現代の仙人はそそくさと雪を払い、ネクタイをしめなおすと、その日のうちに何くわぬ顔で東京にもどってきた。
 
お告げの湯 佐野温泉[福井県]
 南フランスにルルドという町がある。ピレネー山脈のふもと、ポー川の河畔の小さな町だ。今からおよそ百二十年あまり前のことだが、このルルドの町で奇妙な事件があった。ベルナデットという十四歳の少女が聖母さまと出会ったというのだ。町外れの洞窟どうくつから泉がく、その泉水を飲めばどんな病いもきっと治る、と聖母さまがおっしゃったという。四日後、人々が洞窟に出かけてみると、こんこんと水が湧いていた。こころみに病人に飲ませてみると、医者がサジを投げた病気が治った。
 洞窟の前に美しい聖母教会が建てられた。ルルドの町は今日、カトリックの巡礼地の一つであって、毎年、多くの信者たちがやってくる。瓶詰めになった「ルルドの霊水」を買っていく。ベルナデットは三十五歳で死んだ。死後、聖女に列せられた。
 べつに珍しい話ではない。わが国では聖母マリアさまではなく観音さまのお告げである。この点、私の知るかぎり、福井県の佐野温泉がもっとも新しい。夢見に観音さまが現われた。ここを掘れという。福井平野の北西部、なんの変哲もない田んぼのまん中である。半年間、掘りつづけた。地底一五○○メートルにまで掘りすすんだとき、念願のお湯が噴き出た。湯量の豊富なことは、室内プールのように大きな新館のお風呂によってもあきらかだろう。私は裸になって階段を降りていくあいだ、これから競泳をする選手のような錯覚がして、おもわず準備体操をはじめるところだった。
 親孝行な若い衆がおばあちゃんを車にのっけて次々にやってくる。近くの山へシイタケの原木を寝かせにきたというじいさんは、同じ一泊しても近くの芦原温泉なら三倍はとられると力説した。たしかに田んぼの真中にポツンとあり、すぐ前をトラックが走ったりして風情はない。しかし、シイタケ山のじいさんの言うように「中に入ってしまえばおんなじ」なのだ。千円札一枚あればウドンの一杯もたべ、好きなだけ何度もお湯につかり、一日のんびりしていられる。
 大風呂と隣りあわせに野天の砂利風呂がある。正面に観音さまがまつってあって、間仕切りの向うの女風呂から念仏を唱える声がした。観音さまのお告げといい、まっ昼間の念仏といい、真宗王国北陸ならではのことにちがいない。だが、掘っても掘っても湯が出てこなかった半年間、人々がお告げをそのまま信じていたかどうかはあやしいだろう。もしかすると少々――あるいは大いに、変人扱いしていたのではあるまいか。玄関わきのトイレのそばに工事中の写真と、掘り下げていく過程でいき当たった土質のサンプルが瓶詰にして並べてあるが、まるでこの間の一喜一憂を示すかのように、土の色が明暗さまざまに変化していた。
 本当にお告げがあったのかどうか。むろん、あったにちがいない。現にそこから、これまで思ってもみなかった有難いものが湧いて出たのである。「ルルドの霊水」が数多くの不治の病いを癒したことも事実なのだ。科学好きはせせら笑うかもしれないが、説明のつかない不思議はほかにもどっさりある。温泉巡りのたのしみの一つは、各地でこの種の不思議と出くわすことである。
 お告げの湯といえば同じ北陸では、金沢市郊外森本の観音荘が先輩だろう。浴室入口に「観音荘開湯の由来」が掲げてある。昭和二十八年十月十八日の真夜中、聖観音菩薩ぼさつが現われて、「此に霊泉あり。開湯して諸人に湯治を与うべし」と告げたという。お湯はこの奥の深谷温泉と同様に醤油で煮しめたような濃い茶褐色をしている。源泉がどこかでつながっているのだろうか。
 それにしても「醤油で煮しめたような」とは、野暮ったい比喩ひゆである。英語好きの経営者の方がずっと洒落しゃれている。つまり当「バス・ハウス」は「ワインレッドの温泉」だそうだ。もっとも開湯由来記のすぐ下に、従業員がチップを請求したり、「不届きな行為及言語を発する」ことあらば、直ちに事務所に届けられたい、という漢文調の厳めしい貼紙がしてあった。必ずしも英語好きというのでもないのかもしれない。
 
人魚を食う 河内こうち温泉[福井県]
 人魚をさがしに福井県の小浜へ行った。
「人魚は、南の方の海にばかりすんでいるのではありません。北の海にもすんでいたのです」と、小川未明は『赤い蝋燭ろうそくと人魚』のはじめに書いている。その人魚をさがしに行ったのだ。
 あるとき、女の人魚が岩の上で辺りの景色を眺めていたそうだ。雲間かられる月の光が、寂しく波の上を照らしていた。そんな夜のことである。どちらをみても限りのないものすごい波が、うねうねと動いていた。
 なるほど、ここにいう「北の海」が若狭わかさの海とはかぎらない。しかし私の独断によれば、それは小浜近辺に決っているのだ。
「海岸に、小さな町がありました」と小川未明は書いている。このほかヒントらしいものといえば、海岸にはまた小高い山があって山の上にお宮があり、明りがちらちら波間に見えていた、といったことぐらいである。この手の町なら日本国中、どこにでもあるだろう。しかしながら、やはり若狭わかさにちがいないのだ。それが証拠に、大昔、人魚の肉を食べた女がいる。女は八百年生きて諸国を遍歴したのち故里にもどり、とある岩穴にこもって死んだ。小浜の中心街から少し外れたところ、小高い山のふもとにある空印寺の「八百比丘尼入寂の洞穴」がそれである。
 人魚の肉は古くから不老長寿の霊物として珍重されてきた。事実、ひそかにやり取りされたらしい。つまりは人魚がいたからである。おりおり北の海でみつかった。『赤い蠟燭と人魚』の場合にも、さっそく香具師やしが聞きつけて買いにきたというではないか。獅子ししや虎などと一緒に見世物に出すためだった。
 私はべつだん、とりわけて長生きしたいわけではない。また下半身が人魚の形をした女性よりも、ごく人並みの形の方が好きなたちである。だが、青い海に果てしもなく月の光が照っていて、海岸に小さな町があるとしたら、それは若狭の小浜にちがいないと考えていた。この町には、いろいろ古い店がある。お宮のある山の下に、貧しげな蠟燭屋があったとしても不思議はない。それに「越山若水」などと言うように若狭の国は水と縁が深いのだ。若狭一宮の別当寺である神宮寺には、お水送りの行事がある。三月二日の夜、寺の上流のノ瀬のふちで水をむ。奈良東大寺のお水取りに使う水である。鵜ノ瀬の淵が入口というわけだろう。伝わるところによれば地中深く水脈が走っており、その出口が東大寺の若狭井。地の下にひそかに水の国がひろがっている。人魚がすむのにうってつけの場所である。
 そういえばこの国はずいぶんと古い。若狭街道沿いに上中町を中心として古墳時代の遺跡がいくつもある。小浜の港に荷揚げされた北の魚が、この道を通って京に運ばれた。そのなかには年寄り貴族の所望した人魚の肉が、こっそりまじっていたのではなかろうか。古来珍重されてきた人魚の肉とは、一体どのような味のするものなのか。賞味するのも悪くないが、なろうことならひと目、人魚に会いたいと思った。鏑木清方かぶらぎきよかたが描いたようなポッテリと肉づきのいい、まあるい乳房をもった人魚である。彼女はまっ白い肩に黒髪をたらして、人待ち顔に横たわっている
 旧街道に沿って遠敷おにゆう川が走っている。人魚の上った水の道をたどるようにして熊川の宿にやって来た。軒の低いベンガラ格子の家並みがある。軒下にきれいな用水が流れている。
 川づたいに山道へかかった。歩いているあいだ中、右手に渓流が音をたてていた。歩行者の幻覚というものだろう。単調な歩行のリズムが次々と、とりとめのないイメージを生みだしてくる。世界がそっくり陥没して、自分はいま水中の冥界めいかいを歩いている。水底みなぞこに閉じこめられている。はるか頭上に高い波がうねっている。月が雲間から洩れて、波のおもてを照らしている。
 冷やっこい風が吹き上げてきてやぶの茂みがざわざわと鳴った。やがてちらちら赤い灯が見えてきた。近づくにしたがって、だんだん上へのぼっていく。こんな風にして夕方おそく河内温泉に着いた。田舎風の一軒宿にとびこんだ。この夜、人魚の肉にありついたかどうか、それはまた別の話。
 
白と黒 小天おあま温泉[熊本県]
「赤と黒」といえばスタンダールの小説である。では「白と黒」といえば何だろう?一般にはカラーが登場する前の昔ながらの白黒フィルムのこと。まあ、そんなところだろう。もっとも、ちまたにはシロクロと称するひそかな演技者がいて、温泉町の某所などで観賞できるそうだが、こちらはその方面にはとんと朴念仁である。くわしくは専門家におたずねになるといい。
「白と黒」、たしかディドロにそんな題の小説がある。スタンダールを拝借したようなタイトルだが、むろんディドロの方が古いのだ。ことによるとスタンダールは百科全書派のディドロ先生の作品にヒントをえて、あの名作をこしらえたのかもしれない
 といったようなことをタクシーの中で考えていた。夜十時半をすぎていた。車は熊本の市街を出て、まっしぐらに西へ向かって走っていく。その夜、ある女性と熊本の繁華街で楽しくお酒を飲んだ。その人と別れて車をひろった。行先は島原湾に面した小天温泉。
 左手に無粋なコンクリートの堤防がつづいている。白川である。阿蘇谷を出たころは黒川だった。その黒川が赤水をすぎたところで白川になる。
 酔っぱらいのたわごとではないのである。熊本県の地図をひらいていただきたい。黒川こと白川の南には平行して緑川が流れている。詩情に乏しいと思われるむきもあるかもしれないが、実にもう男らしく、豪快な命名ではあるまいか。
 肥後ひごは火の国だと思っていた。事実、雄大な火の山があり、たえず火を噴いている。よく晴れた日には噴火口の上に、まっ白な雲の塊が巨大なソフトクリームのように浮かんでいる。だが、ここはまた水の国でもあるだろう。黒川と白川と緑川の周辺を、指でたどるようにしてごらんいただきたい。先ほどの赤水をはじめとして、白水、平川、杉水、原水、泗水しすいといった地名がひしめいている。白川が有明海にそそぐ河口が河内の町だ。隣りあって天水てんすい町、そこに一軒宿の小天温泉があるわけだ。
 この温泉のことは漱石そうせきの『草枕』でごぞんじかもしれない。「智に働けば角が立つ。情にさおさせば流される」という出だしが有名なあの小説である。主人公の画工は山道を登りながら考えた。意地を通せば窮屈だし、とかく人の世というやつは住みにくい。そこで旅に出た。
 小天峠の途中にある峠の茶屋に行きついたくだりだが、茶屋の婆さんとこんなやりとりをした。
「ここから那古井までは一里足らずだったね」
「はい、二十八丁と申します。旦那は湯治におこしで
「込み合わなければ、少し逗留とうりゅうしようかと思うが、まあ気が向けばさ」
 婆さんの話によると、那古井の宿は村の持ち物で、湯治場だか隠居所だかわからない。案の定、変てこな宿だった。廻廊のような所をしきりに引きまわされて、しまいに六畳ほどの小さな座敷へ入れられた。曲りくねった廊下とも階段ともつかぬ所を何度も下りて湯壺ゆつぼへ行く。
 漱石が泊ったのは、正確には今の一軒宿ではないらしいが、しかしそんなことはどうでもいい。私自身、漱石のあとを慕って来たのではない。お湯につかって、おいしい魚が食べたいので来た。そして、とてもいい温泉だった。古風な浴場にお湯があふれていた。夜おそく着いたというのに、とりたてのように生きのいい魚にありついた。
 寝入る前、一つの情景を思い出していた。白川沿いに走っていたタクシーが右に折れ、海沿いに移ってしばらくしてのことだ、にわかに尿意たえがたい。にぎやかに肥後弁でおしゃべりしていた運転手は、すぐにとめてくれない。「もっといい所」があるという。うねうねとした道を高度を上げながらのぼっていく。突然、広々と視界がひらけた。黒い夜空の中天に白い半月がかかっていた。烟波えんば数十里の西方に雲仙岳を仰ぎ、南には天草の諸島をば青螺せいらの如く望む――なぜか漢文口調の思いにふけりながら白と黒の別天地に佇んで、身ぶるいするほどの快感を覚えつつ海に向かって放水した。
 
お湯争い 城崎きのさき温泉[兵庫県]
 温泉と裁判はなじまない。せいぜいのところ裁判沙汰ざたで苦労した人が一件落着のみぎり、裁判にまつわるゴタゴタを、きれいさっぱり洗いながすため温泉へ出かけるぐらいのものである。のんびりお湯につかっている間は、せめても裁判のことなど忘れていたいというものだ。
 しかし、温泉町全体が裁判をやっていたとしたらどうだろう? 町をあげて訴訟を起こして、どの宿の主人も六法全書をひもといた。昨日始まって今日終るような安っぽい裁判ではなかった。最初の訴えがあって以来、えんえんと二十三年つづいたのである。しかもそれは不動産屋が暗躍するような新興の温泉町の話ではない。天下の名湯城崎温泉でのことである。
 あらためて言うまでもない。世に知られた温泉だ。まず情緒がいい。川沿いに柳の並木があって石造りの橋がかかっている。日本海に近いので魚がうまい。それに城崎温泉には凝った造りの外湯がいくつもあって、それを順にまわるのがまた楽しい。さとの湯、地蔵湯、柳湯、一の湯、御所湯、曼陀羅まんだら湯、こうの湯の七つだったと思う。戦前は外湯ばかりで、どの旅館にも内湯がなかった――すなわちこれが二十三年間に及ぶ裁判沙汰の原因だった。
 ことのおこりは昭和二年、温泉町のある旅館経営者が内湯設置のための認可を申請して、県の許可を得たことに始まる。一方、町民はこれまでの慣習と源泉保護を理由に反対し、許可取消しを求めて訴訟を起こした。民事訴訟、行政訴訟の双方において「ある旅館経営者」が勝訴した。裁判所は城崎の外湯・共同湯主義の慣行を法的に拘束力のあるものとは認めず、個人に源泉利用の自由を許したわけだ。町民は控訴した。裁判は遅々としてすすまず、戦争をはさんで戦後にもちこされ、ようやく昭和二十五年に調停が成立して町をあげての裁判に決着がついた。
 その結果がまたユニークである。勝訴側が敗訴側にあっさりと無条件降伏をして和解した。つまり、裁判に勝った方が現実には完敗した。最終的には町の人々がえいえいと築いてきた源泉共同管理の慣行が勝利を収めた。
 以上のことを私は、川島武宜監修・北條浩編『城崎温泉史料集』(昭和四十三年・城崎町湯島財産区刊)という四百ページあまりの本で知った。温泉につかったあと北但の海岸から但馬一の宮を廻っていて、出石いずし町の小さな本屋でみつけた。文房具屋兼雑貨屋兼タバコ屋兼用の本屋である。そのような店には、きまって片隅に申しわけ程度に新本が並んでいて、その本棚の中にときおり二十年も前の新刊がまじっていたりする。ホコリを払って差し出すと、いぜんとして新刊本で、おそろしく安い「定価」で手に入ったりするのである。
 温泉に行くと、お土産に土地の名産を買って帰るのが人情というものだが、私にはそのような人情が欠けている。いや、なくもない。同じように「土地の名産」を買うには買うが、温泉まんじゅうのように誰にもよろこばれる品ではなく、その地特産の本である。在の人が書いて、「○○地方史研究会」などの名前で刊行したケースが多い。私家本に類した本である。文房具屋兼雑貨屋兼タバコ屋兼本屋の、なぜか大抵、帳場の上の棚に色あせた背中を並べている。声をかけると、おばさんが「よっこらしょ」と踏み台をもってきて下ろしてくれたりする。
 そんな風にして温泉に行くたびに何冊か買いこんでくる。帰宅して、うやうやしく旅行かばんからとり出しても、家族のだれもよろこばない。つい先だっては『思い出のアルバム』と題して、某温泉町の三代にわたる歴史を写真でつづった三巻本をかついで帰った。重いわりに意味のない買物だった。町の関係者なら思い出の人を見つけたりして楽しいかもしれないが、こちらには、ただ見知らない顔がずらりと並んでいるだけのことなのだ。買うときはたしかヒラメキがあって買ったはずだのに、家に帰りついたとたん、それが一体いかなるヒラメキであったのやら、かいもく思い出せないのである。
 
風の町、風の里 越中山田えっちゅうやまだ温泉[富山県]
 富山から高山線に乗り換えて約二十分で越中八尾やつおに着く。駅前一帯は新しい商店街で、古い町並みはそこから歩いて十五分ばかりのところ、ラクダの背のような変てこな台地の上にある。地理学的には飛騨ひだ山地の片われだそうだが、三方を神通川に注ぐ井田川とその支流に囲まれていて、船のへさきのような一方の端に聞名寺もんみょうじいらかがそびえている。美濃から飛騨、ついで現在地に移されたのが戦国時代の十六世紀半ばという。すぐ西の井波平野にそびえる瑞泉寺ずいせんじと並んで、真宗王国北陸の本拠地の一つである。豪壮な本堂の左右、裏手は切り立ったがけなのだ。天然の要害じみたこんな地形を選ぶなんて、いかにも戦国時代の着眼らしい。
 聞名寺を起点として帯状につづく家並みは門前町として発達したようにみえるが、実はそうではないという。井田川の渓谷沿いにあった八尾村は、たびたびの洪水に苦しんだ。そこで富山藩に願い出て台地の上に引っ越してきた。まず米屋や油屋が移り、ついで大工や塗師、木地師などの職人が上ってきた。長さ一キロほどの細長い地形に、びっしりと家並みが密集している。縦の通りを折れて細い小路に入ると、当然のことながら、すぐさま急勾配こうばいの坂になり、その先は川だ。はるか下手にのんびりとした田園風景がひろがっている。
 こんな地形のせいで、町はたえず風を受けてきた。強風に悩まされてきた。町の周辺に三カ所、不吹堂ふかぬどうなどというお堂がある。風の神を祀るものだろう。越中八尾は九月一日に始まるおわら節で有名である。別名「風の盆」、二百十日前後に烈しい音をたてて吹きつけてくる秋風にちなんでいる。八尾の人々は夏が秋にかわる三日三晩を踊りあかす。明け方ちかくまで台地の町に三味線や胡弓こきゅうの音に合わせて、つやっぽいおわらの唄声が高く低く流れる。
 もっとも、こちらが越中八尾駅に降り立ったのは風の盆のひと月前、閑散とした駅前広場に夏の日射しが照りつけているころだった。
 バスは駅付近の家並みを抜けて、しばらくは井田川沿いに走る。川を挟んだ左手、台地上の景観が見ものである。うずくまったラクダの背中に古ぼけた厚手の毛布をのせた工合だ。端の出っぱりが聞名寺――とみるまにバスが右に折れて町が消えた。
 山に入って何度も急カーブを切りながら走ること三十分、越中山田温泉は大宝年間(七〇一〜七〇四)の発見と伝わる。猿の字をもつ旅館名からもわかるとおり、群猿がバッコしていたような幽邃ゆうすいな土地である。宿の手前で逆S字形をえがき神通川の支流の山田川が流れている――というよりも、川の上に宿がある。そんなにも川面を見下ろして建っている。
 新館は立派な六階建ての建物だった。旧館はもう使われていないらしい。がっしりとした年代物の木造二階建て、軒端の木彫りが見事である。一階に大きな仏壇が祀られていて、おばさんが二人、数珠をもみながら伏しおがんでいた。やがて顔を上げて、しかし上体は伏せたまま何やらヒソヒソとささやきあっている。
 大きな湯舟のかたわらであぐらを組んで休んでいたら、禿げ頭のじいさんが話しかけてきた。目がトロンと曇りガラスのように濁っている。今は富山の町中の楽隠居だが、若いころは売薬行商人で全国を廻ったという。はじめはずっと飛騨街道を通って美濃へ行った。齢とってからは上州が受け持ちで毎年、何度も往復した。皇太子の結婚式の年に行商をやめて富山に落ち着いた。
「ヤッツォー」
 とじいさんは言った。
「八尾の××屋を知ってるか」
 息子の嫁は八尾の××屋の娘で、いま富山の町で小学校の先生をしている。今日も六時になると車で迎えに来てくれる。
 ひとしきり嫁自慢をしたあと、じいさんはヨロヨロと立ちあがってドブンとお湯にとびこんだ。
「アーア、極楽極楽――」
 禿げ頭を掌でピシャピシャたたきながら何度も呟いていたが、そのうち目を閉じたきり死んだように動かない。
 夜ふけ、強い風音で目がさめた。川風が音をたてて吹き上げてくる。渓谷をはさんで急斜面に黒々と茂る樹木が、いっせいにお辞儀をするように揺れている――そんな光景が目にみえるようだった。風はひとしきり吹き荒れてからピタリとやんだ。うそのような静けさの中で空調の設備だけが間の抜けた音をたてていた。
 
放浪記 東京の温泉[東京都]
 新宿で人と会うとなると、一時間余り早く行く。西口を出てまっしぐら、きらびやかな高層ビルには目もくれず中央公園を突っ切って北側、今は西新宿四丁目などと不粋な地名だが、ひと昔前まではたしか淀橋十二社じゅうにそうといった。すぐ近くに熊野神社があって十二神をまつる。通称十二社権現、同じ新宿ながら色こく土地の匂いがたちこめている。地方都市の駅前などに見かける商店街があり、腹巻きにステテコのおじさんが自転車をとめて立ち話をしている。
 ここに温泉があるのだ。新宿十二社温泉。以前は小さな池をもった結婚式場の別館だったが、周りがビル化するにつれて姿を変えて、只今は赤っぽいレンガ造りのマンションの地下、その名も「ラ・フォンテーヌ」と洒落しゃれている。とはいえ、つまりはサウナ付き天然温泉というやつだ。食堂では玉子丼やメンチカツ・コロッケ定食がいただける。
 黒湯というのだろう。暖かいのと冷たいのとコーヒー色をした浴槽が二つ。どういう仕掛けになっているのか、うっすらと外光が射し落ちていて変てこな明るさがある。場所柄のせいで夕刻に行くとよくクリカラ紋々のお兄さんと出くわすようだ。やはり浮き世の苦労は免れないのか、極彩色の肩を落として大きな溜め息をついていたりする。
 つい先日は、畳敷きの食堂で浴衣姿のバアさんたちが盆踊りの練習をしていた。そのそばで夫婦ものらしい二人づれがボンヤリと枝豆をつまみながらビールを飲んでいた。とにかく何時間いてもかまわない。ホコホコした身体を横にしてテレビの大相撲を眺めているなどいいものである。
 あわただしい新宿駅からほんのひと足のところに、こんな別天地がある。ついでのときに一度お出でになってはいかがだろう。地上に出てきたときが、またいいのだ。熊野神社を抜けて石段を上ると公園の高台で、足下には大都市特有の騒音が湧くようにしてひしめいている。目の前にさまざまな形の高層ビルがポッカリと浮かんでいる。それは近づいても近づいても行きつけない蜃気楼しんきろうじみていて、まばたき一つする間にきれいさっぱり消え失せかねない。そんなたわいない幻景のごとくである。
 だが、幻ではないだろう。それが証拠に近づくにつれて、総ガラスの壁面が意地悪く、少し腹部の出かかった中年男を映し出す。ただ先ほどとくらべて、その男には心なしか生気がみなぎり足どりも軽いようだ。
 つづいて約束の場所に赴くと、こちらのテラテラ顔にギョッとされること必定だし、とりわけ相手が女性の場合、妙なコンタンありげに誤解されたりもするのだが、そんなことはかまわない。大きな田舎町の東京暮らしは寄り道にかぎる。極意をこころえてさえいれば、これはこれで、まんざら捨てた所でもないのである。
 
 東京にも温泉がある。しかもどっさりある。都の調査による「東京の温泉一覧表」には四十四の温泉が記されているが、私が知っているだけでも二カ所が洩れている。池袋にも新宿にも浅草にもある。新橋には、つい先年まで健在だった。江東区にもあれば大田区にもある。大使館の立ちならぶ麻布にもある。昔ながらの「鶴の湯」もあれば「祖師ヶ谷温泉21」などと称したシャレたのもある。新宿の十二社温泉と同じように、どこも濃い茶褐色をしていて、いかにもきき目がありそうだ。惜しむらくはいずれも鉱泉であることである。地上が熱気にあふれているせいか首都の地下はひんやりと冷たい。
 獅子文六の小説『東京温泉』は、ひんやりと冷たいはずの東京の地下から湯が湧いたばかりにもちあがった騒動をめぐっている。場所は中目黒、しけた中年男の家の庭から、ある日突然、白い蒸気が立ちのぼりはじめた。手を入れると熱カンの酒のような湯がにじみ出ている。中年男はこおどりした。さっそく人をやとい、やぐらを組んでボーリングを始めた。新聞がぎつけ、社会面のトップにこんな記事が出た。
「中目黒に温泉湧出ゆうしゆつ!」
 それからというもの首都はもっぱら温泉の噂でもちきりだった。全国温泉組合理事長という男が訪ねてきた。東京で温泉が湧かれては不便な地方の商売が立ちいかないから、権利を買って湧出口を埋めてしまうというのである。主人公は烈火のごとくに怒って、理事長を追い返した――。事件の顚末てんまつはあっけない。要するに近くの道路工事のため重いトラックが出入りした結果、地下に埋まっていた硝石が震動して熱をおこしただけだった。工事が終わると白い蒸気も幻のように消えてしまった。
「東京に温泉が湧くなんて奇蹟だからな。奇蹟というものは、そうやすやすとあらわれるもんじゃない」
 ところが、ある資本家がやってきた。土地をまるごと買いたいという。冷水ながら成分は立派なものだ。ボイラーで加熱すれば差しつかえない。彼は計画をうちあけた。東京に類例のない大規模な民衆的大浴場をつくるのだという。「浴場のほかに東京一の綜合的大料理店、大娯楽場を設備します。つまり温泉の魅力を中心にして大楽園を出現させるのです。そしてその名を《東京温泉》と呼ぶのです」
 獅子文六の小説が出たのは昭和二十一年(一九四六)である。この小説と都区内温泉第一号といわれる「六郷温泉」と関係があるのかどうか私は知らない。昭和二十七年、大田区仲六郷に食べて、飲んで、歌って、踊って、湯につかれる温泉が誕生した。いま、この種の楽園はあちこちにある。馬込にもある。平和島にもある。浅草の「観音温泉」もそうだ。週日の昼間でも首都のカマドは結構にぎわっているのである。
 台東区池之端いけのはたの「六龍温泉」。名前は温泉だが、都の分類は「銭湯」なので、おネダンも銭湯分しかとらない。上野の繁華街まで歩いて十分、湯上がりに安い飲み屋がいくらもある。さしずめエコノミー・コースである。浅草の観音温泉はしまい湯が六時と早い。だから早々と昼すぎに出向いていく。お参りもできれば六区巡りもたのしめる。すなわち一日たっぷりのフルコース。錦糸町の「東京楽天地」はデラックス・コースとこころえている。なにしろ背中を流してもらった上、サウナ、スチーム、按摩あんまなど、いろいろとそろっている。その上、九階からの展望がすばらしい。あったまった体を広いホールの安楽椅子いすに横たえて、総ガラスの壁画をまっ赤に染めた夕焼けを眺めるなど、まさしく「楽天地」というものである。
 そんなわけで、わがカバンの中には商売用の辞書やノートなどの野暮ったい代物と並んで、ビニールの袋が収まっている。中にはタオルや石鹸せっけんくしはもとより、シャンプー、つめ切り、都内地図帳、バス回数券。東京温泉放浪者の七つ道具というものである。最近これに小型カメラが加わった。古代ギリシアの英雄オデュッセウスは地中海をさまよっていたとき、長い髪と白い肌の人魚の歌声に聴きほれて、危く遭難しかけたそうだが、こちらの湯けむりの放浪者は人も知る堅ぶつである。人魚の歌声など、ものともしない。
 
銭湯巡り 上野・根津・谷中やなか界隈[東京都]
 カバンにいつもタオルと石鹸、櫛と歯ブラシを忍ばせている。これと定めた銭湯があるわけではない。その日の気分しだいで方角が変わる。ただそれなりに好みがあって、おのずと方角が限られてくる。上野、池之端、根津、谷中界隈かいわい。行きつけとまでは言わないまでも、いつしか、それなりの銭湯巡行のコースができた。
 上野松阪屋の東隣り、朝湯で知られるつばめ湯。裏通りの角を曲った卸問屋街の一角にポツンと唐破風の軒があって、塀ごしに松の木、白地に紺のノレンがひるがえっている。この辺りまで来ると、からだがひとりでに前のめりになる。何やらモヨオしている犬が電柱めざして走るように、鼻息荒く駆けつける。
「いらっしゃい」
 上から降ってくるあの声がよろしい。
 背広をぬぐ。ネクタイをとる。腕時計を外す。財布と手帖をカバンに収める。バンドをゆるめる。ワイシャツ、シャツ、ズボン、パンツ、靴下。人間はなんといろんなものを身につけていることだろう。一つ一つ、からだから取り去るときのあの快感!
 少しヘンタイの気があるのかしら?
 いや、いまや生まれたままの姿にもどるのである。解放、自由、自然に帰れ。ジャン・ジャック・ルソーなどの名前が頭に浮かび「自由・平等・博愛」の合言葉を呟いたりする。高々と張った格天井ごうてんじょうの下に立つと、からだのシンから湧くような解放感を覚えるものだ。銭湯という別天地の効用の第一である。そこで勇躍、前をおさえて、いそいそとガラス戸をあける。
 某月某日――男女各一名を引率して銭湯を廻れとの大命が下った。男は自称温泉会会長。ただし会長ひとりきりで会員はゼロ。女性は絶世の美女。引率の先生は前夜からコーフンしていた。明日にそなえて早目に寝た。
 昼日中からやっているところというので、まずは燕湯で一風呂あびた。浴衣にドテラ、下駄に風呂おけという古典的なスタイルで、テラテラ顔の三人が松阪屋前の大通りをわたる。
「お風呂はいいねェ」
「ウン、お風呂はいい」
 一時間あまりも銭湯にいたというのに、男二人が交わした言葉といえば、実質的にはこれだけだった。
 あんまり話したくないのである。幸せをかみしめていたいのである。男はそういうものだ。それにつけても女湯のニギヤカさ。人かわれ声かわれ間断なく湯にくぐもった話し声が、高い天井にこだまして降るように落ちてくる。合間に桶の音、水音、笑い声。
 一方、男湯は粛然としている。クリカラ紋々のお兄さんがうつむいて黙々と前のモノを洗っている。「寅さん」映画の御前様のようなおじいさんが、目をつむったきり、湯舟のなかで微動だにしない。禿げ頭のおやじさんがあごが外れるほど大きなあくびをした。
 見上げると一面の青い海。白い砂浜と松林があって、うしろにスッキリと美しい山がそびえている。
 世界に冠たるペンキ絵。
 いったい誰が考案したものだろう? この道の専門家にも発生のルーツはわからないらしい。よほど人類の幸福というものを考えつづけていた人にちがいない。ある日、彼はポンとひざを打った。
「よし、これでいこう!」
 一夜にして湯けむりの向こうに富士山がそびえ立った。ヨーロッパ風、古城とアルプスというのもある。あるいはのどかな南国、ヤシの茂るハワイ風景。ここでは山々はいつもまっ白な雪をいただき、海や湖水はあくまでも水清らかで、沖にはきっと、カモメが飛んでいる。その純粋無垢むくなところ、いかにもこの世の別天地の銭湯にふさわしい。
 上がり湯をかぶって、わが相棒は女湯に声をかけた。
「××さん、あがるよ」
 ひと呼吸おいて、
「ハァーイ」
 これがいいのである。しかし最近、聞かないですね。ひところは仕切り壁の向こうから、
「とうちゃん!」
 なんて野太い声が聞こえた。
「オー」
「グズグズしてないで早いとこあがっといで」
「アア」
「半てん、忘れないでね」
「アア」
 おじさんは悠揚せまらず、タオルの先っぽをねじり直しては耳掃除をしている。
 私たちは先に打ち合わせをしていたのである。あがる前に声をかけるからね――しかし、ひと前でなかなか声は出ないものだ。先ほどのわが相棒にしても、心なしかふるえ声ではなかったか。それに反して仕切りごしに返ってきたやさしい声は、なんと自然であったことよ。
 まっ昼間からのドテラ組は幸せにつつまれて根津へと向かった。裏通りの真島まじま湯。むかし、近辺に「真島の殿さま」という人が住んでいて、それにちなむ名前だそうな。ここには昔ながらの竹で編んだ脱衣かごがある。がんこそうな長寿まゆのおじさんが番台にいる。
 先ほど念入りに洗ったので、なんにもすることがない。
「ぢにホトホトお困りの方――」
 近所の薬局が相談にのってくれるそうだ。
 この「ホトホト」の使い方は絶妙だな。そんなことを思いながら、腰掛けにお尻をのせたままボンヤリしていた。

 男といふものは
 みなさん ぶらんこ・ぶらんこをお下げになり

室生犀星むろうさいせいの詩の出だし。

 えらいひとも
 えらくないひとも
 やはりお下げになつてゐらつしやる
 
 題はたしか「夜までは」といったと思う。そう、夜まではこれはたしかにぶらんこ・ぶらんこしているものだ。ぶらんこさんは包まれて、包まれた上にもまた丁寧に包まれて、平気で、何くわぬ顔でボンヤリしている。夜になると、それでもちっとは変化する。
 谷中の「よみせ通り」。おそろしくクネクネしていて、おあつらえの散歩道である。湯あがりに日暮れどきの風がこころよい。銭湯のたのしみは、お湯の中だけとはかぎらないのだ。湯あがりがまたいい。からだのシンまでじっくりとあったまった、そんな銭湯ならではのぬくもりを、冷やっこい風が首すじや足元からなぶりにくる。なぶるの漢字は「嬲」と書くが、私たち三人はちょうどその嬲の字になって、よみせ通りを歩いていった。無一文をさとられて宿から追い立てをくった芸人一行といったなりである。川口松太郎調で小説にすると、さしずめこんなぐあいか――
 染太は思案顔で足をとめた。
「草津へでも行こうか」
 染之助にポツリと言った。
「わてもつれてっておくれやす」
 染子が泣くように言う。細い肩がかなしい。
 
 おめあての世界湯は定休日。
 あれはなさけないですね。いきおいこんでやってきて、心はもうパンツ一枚という状態の鼻先で、ピタリと玄関が閉まっている。ドッと疲れが出て、ヘナヘナと腰から崩れそうになるものである。未練げに戸を押したり、隙間すきまからのぞいてみたり、誰もがすることをひと通りして、やっとあきらめて次へ行く。
 銭湯がつぎつぎと姿を消していくなかで、根津・谷中界隈はまだまだめぐまれているところである。すぐ近くにもう一つ、二つなくもないが、少し歩いて本日の打ち上げは縁起よく鶴の湯としよう。もの好きな人が調べたところによると、都内の銭湯の名前のうち、動物の部門でもっとも多いのが鶴の湯。ついで亀の湯、そのあとは竜、熊、はとの順だという。ついでながら植物の方では松の湯がダントツ。あとは梅の湯、竹の湯、桜湯、藤の湯とつづく。
 かなり歩いて鶴の湯までいきついたが、いつのまにか改装されてビルの中に入っていた。これも時勢ですね。湯あがりに番台のおじさんと並んで写真をとった。おじさんはあわてて手につばをつけ、髪をなでつけた。
 そのあとそろって記念撮影。
 銭湯での記念写真というのも珍しいらしく、手をつないだ子どもが三人、しきりに質問をあびせてきた。
 
汽笛一声 熱海駅前温泉[静岡県]ほか
  汽笛一声新橋を
    はや我汽車は離れたり

 その新橋に温泉があったことは東京温泉のくだりで触れた。「海水湯」といって新橋駅のホームからちゃんと細目の煙突が見えた。
 西口広場を突っ切って道路を一つわたる。パチンコ屋の横手の狭い通路の奥、靴をぬいで木造の教室入口のような靴箱に収めてから引き戸を入ると、正面の壁一面に青い海がひろがり白帆が二つ三つ。これはこれで、

  窓より近く品川の
    台場も見えて波白く

 といった風情がないでもない。三つの湯舟のはしっこがお目当ての黒湯、まぎれもない温泉で、頭上に東京都立衛生研究所の「鑿泉水さくせんすいの試験結果」が掲げてあった。まっぱだかでは筆記ができない。何度か通って暗記してきた。

  過マンガン酸カリ消費量(㎎/ℓ)一一〇・六 総硬度(㎎/ℓ)二四○・○ 鉄(㎎/ℓ)六二○(但し、飲料には適しません)色及び清濁 淡黄褐色沈澱ちんでんを認む 反応(PH)微アルカリ性 アンモニア性窒素 微量 塩素(㎎/ℓ)五七一四(塩分が多いのでよく温まります)

 夕方になると、粋な新橋芸者が出勤前の艶出しにやってきた。冬はよくあたたまる。夏はアセモにきくというのが、もっぱらの評判だった。日暮れどき、ひと風呂あびてから、「愛宕あたごの山に入りのこる 月を旅路の友として」並びの飲食街で冷たいビールを飲むときの心地よさ。
 大和田建樹作詞、多梅稚おおうめわか作曲の『鉄道唱歌』第一集「東海道篇」が売り出されたのは明治三十三年(一九○○)、三十二ページ、定価六銭の小冊子は飛ぶように売れた。初版だけで数十万部。大正初頭までに二千万部。ついで第二集「山陽・九州篇」、第三集「奥州・磐城いわき篇」が出た。さらに「北陸篇」、「関西・参宮・南海篇」がひきつづいた。松山巌氏の『世紀末の一年』によると、発売元の三木佐助は宣伝のために、二十名編成の楽隊を仕立てて全国の鉄道を廻らせたそうである。

  国府津こうずおるれば馬車ありて
    酒匂さかわ小田原とおからず
  箱根八里の山道も
   あれ見よ雲の間より

 丹那たんなトンネルはまだなかった。当時、東海道線は御殿場経由で三島へ出る。

  ここぞ御殿場夏ならば
    われも登山をこころみん
  高さは一万数千尺
    十三州もただ一目

 うれしいことに現在のコースは熱海を通る。いわずと知れた、わが国を代表する大温泉地。その温泉町の玄関口、駅から目と鼻のさきにタバコ代程度で満喫できる温泉があるのをごぞんじだろうか。通称駅前温泉、正式には熱海駅前振興事業協同組合管理田原浴場というそうで、コンクリートの建物の一階、タイル張りの大きなお風呂で、とうとうと熱めの湯があふれている。奥には休憩室もあって、ひと眠りしてから、やおらもう一度湯につかる。これで結構、豪遊の気分になれるのだから、人も言えば自分でも思うとおり、幸せな人間というほかない。
 いわば鉄道八景だ。あの駅この駅――そういえば駅頭に降り立ったとき、いつも一人だったわけではなく、それなりに劇的なものがなくもなかった。やるせなく、断腸の思いで待合室に坐りつづけていたこともあれば、名もない地方駅のしらしら明け、まるで人けない駅前に二人してぼんやりたたずんでいたこともある。艫作へなし(五能線)の朝露、羽咋はくい(七尾線)の落日、酒田(羽越線)ので卵石版画風の詩情こそ欠くにせよ、数だけならどっさりある。八景をこえても、まだまだどんどん指を折って数えることができる。

  駿州一すんしゅういちの大都会
    静岡いでて安倍あべ川を
  わたればここぞ宇津うつ
    山きりぬきしほらの道

 静岡駅からバスで安倍川沿いに北に上がると、コンヤ温泉。どんづまりが梅ヶ島温泉。少々ツヤっぽい思い出がある。

  いつしか又もやみとなる
    世界は夜かトンネルか
  小夜さよの中山夜泣石よなきいし
    問えども知らぬよその空

 お隣の焼津に湯が湧いたのは、いつのころだったか。「やいづ黒潮温泉」といった勇壮な名がついた。

  春さく花の藤枝ふじえだ
    すぎて島田の大井川
  むかしは人を肩にのせ
    わたりし話も夢のあと

 藤枝市郊外の志太しだ温泉は、ちょっとしたかくれ湯だろう。なにしろ、トンと世に知られていない。古風な別荘のつくりで、渡り廊下でお湯にいく。昼でも周りの赤松がサワサワと音をたてる。
 やがて一面の人家の並び。テレビ塔がそびえている。「大名古屋ビルジング」に迎えられる。

  名だかき金のしゃちほこ
    名古屋の城の光なり

 名古屋駅の銭湯。命名に味わいがないのが残念だが、わが八景にぜひとも入れておきたい一つである。だだっぴろいのが取柄の、およそつまらない駅の中に何度行っても飽きない一角があるのだ。広いコンコースの一点で西に折れていただこう。急に通路が狭まって、両側に薬局や雑貨屋といった場違いな一角がある。女店員同士が通路ごしに大声で話している。つき当たりが食堂、お昼どきだというのに店の主が老眼鏡をかけて新聞を読んでいたりする。そこを右にまがる。天井には何の用向きか太い管が無数に走っている。通路が一段と細くなって、どんづまりにクリーニング屋、靴をぬいで、よそさまの家に上がりこむようにして進むと、お風呂に入りこむ。大きな湯舟にたっぷりお湯があふれている。
 つい今しがたまでの雑踏がウソのようなのどかさである。よくきこんで黒光りした脱衣場に鉢植えのシュロがあって、真ん中に古風な長椅子。年代物の扇風機がけだるそうに廻っている。ガラス戸の奥のぼんやりとした明りの下に不格好な裸が二つ、三つ。せっぽちの青年がせっせと頭を洗っている。肥った中年男が、まん丸な腹を抱くようにして湯舟に浮いている。頭上は名にし負う大東海道線、ひっきりなしに列車が往き来して、遠い雷鳴のような響きが伝わってくる。その下で赤らんだ裸が足の爪を切っている。テラテラ顔が大鏡をにらんだまま、しさいありげにあごでている。クリーニング屋のおばさんが定連客と娘の進学について話している。
 先だってもトンボ返りのあわただしさで京都まで行ったついでに、わが八景の一つを訪れてきた。ひと息ついてから元通り背広にネクタイ、昼のように明るい新幹線のホームに出たとたん、立てつづけにクシャミが出た。
 
おらあ三太だ 道志どうし温泉[山梨県]
 中央線の大月で富士急に乗りかえ都留つる市で降りた。それからバスに乗った。一時間あまりだと聞いていたが、ずいぶん乗りでがある。バスはやがて、つづら折りのような急坂を忙しくカーブを切りながら駆け上がり、トンネルにとびこんだ。長いトンネルを抜けると道志村だった。
 車だと簡単なのだ。中央高速の河口湖インターから藤野経由でたいしてかからない。気軽なひとっ走りといったものらしい。だが、こちらのような昔ながらの電車・バス・徒歩組には、道志温泉ははるかな遠方である。東京を発って、あちこちの待ち時間もいれて五時間。新幹線だと広島に着いている。飛行機だと――いや、まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく地図の上では首都と背中合わせの近さだのに、ちっとやそっとでは一軒宿にたどりつけない。
 道志七里。昔からそう言われてきた。箱根八里や九十九里浜と同じように、実際の距離ではなく心理的な遠さをいうための表現にちがいない。そして歩いた人は思いあたる。これはもう実に、長い七里である。千メートル級の山並みの間、底をえぐるようにして道志川が流れており、白い水しぶきをあげる渓流に沿って、うねうねと一本道がつづいている。川はところどころで深いふちになる。身をのり出さないと水面が見えない。おりおり村役場や郵便局や小さな集落があるほかは何もない。実にもう、きれいさっぱり何もない。長い道と渓流があるだけ。今なお私は記憶のヒダに寄りそうようにしてうねっている、水音に包まれた一本道を、まざまざと覚えている。
 往還の山側、石を積んだ上に、温泉宿がある。石段の右手に剥製はくせいのイノシシがのんびりと立っている。看板がなければとても宿屋とは思えない。そんな山家風。階下にいろり、何もかもが黒ずんでいる。お湯にいくとき暗い階段を踏みそこねて私は尻から落下した。
 手造りの岩風呂につかっているとチャイムの音が流れてきた。川向こうの小山の上に学校があるらしい。合図の音楽をひびかせながら村営バスが走っている。
 昭和二十年代の末、「おらあ三太だ」というNHKのラジオ番組があった。夕方になると私たちは、古いラジオを改造した五球スーパーの前で耳をすまして聴いていた。山村の少年三太とハナオギ先生と仲間たち。裏山のかきを盗みにいって学校の用務員に見つかった。用務員はわざと知らんぷりをしてくれた。夕陽が沈むころ、炭焼きの煙が山肌をうようになびいている――。
 あの「おらあ三太だ」のモデルになったのが山梨県南都留郡道志村ではなかったか。東京に遠くない、往還七里の細長い山村、たしかにそんな風にナレーションで紹介された。西国のハナたらしには番組のはじめの歯切れのいい「おらあ三太だ!」のひと声がくすぐったかった。気転がきいて行動的な三太がまぶしかった。さぞかし彼はいずれ地元の高校を優等で卒業して農協に就職する。そのうち組合長に推され、村長に選ばれる
 どこかの編集プロダクションが制作したのだろう、村役場発行のパンフレットには「君は軟派? それとも硬派? なあにテニスのことだよ」とか、「ポニーの耳に向かって話してみたら」とか、歯の浮くようなセリフでテニスコートや観光農園へのおさそいがある。あいにく私はテニスにも乗馬にも関心がない。湯につかって、お酒を飲んで、ぐっすり寝た翌朝、宿の名物のおにぎりにありついた。朴葉ほおばで包んで火にあぶり、ミソをつけて食べる。それからてくてく歩き出した。頼朝公ゆかりの「的場」とか、的模様の水紋がみえるという淵に行きついて目をこらしたが、ごく変哲のない水の渦があるばかりだった。
 大人になった三太はどうしたのだろう? 青年団で男をあげて選挙に打って出ただろうか。道志村ではたしか、村の選挙に札束が舞って議員の大方が警察にあげられたことがあったが、幼い私たちのヒーローだった三太も、その中にまじっていたのだろうか。
 
才市さいちの里 温泉津ゆのつ温泉[島根県]
 山陰本線温泉津ゆのつ駅の北、一方は入江に面し、三方から山が迫った狭い地形に細長く温泉街がのびている。千年以上も前より知られた古い湯治湯で、江戸のころは石見いわみ銀山の開発とともににぎわった。
 駅前通りを西へ行くと海に出る。山の鼻を廻ったところに大正モダニズム風の洋館が建っていた。いまにも竹久夢二調の美人が窓ごしにのぞいていそうな気配だが、入口の看板を見ると温泉津警察署。いかり肩の刑事がお昼の天丼を食っていたりするのである。
 警察署の前を右手に折れ、重厚ななまこ壁に沿って行くと温泉街の入口にくる。左手に竜の御前神社というのがあった。急な石段をのぼれば小さな拝殿に入って、本尊は竜が寝そべったような岩。狭い境内だが、見晴らしがいい。黒々とした石州瓦せきしゅうがわらの並びの向こうに波一つない入江があって、黒い蛇のような突堤がのびている。造船所でもあるのか、クレーンが突っ立った辺りから、かすかに金属をたたくような音がする。音がとだえると吹き上げてくる風が拝殿わきの松をゆするばかり。
 温泉津へ行ったのは、むろん温泉に入りたいからだが、それだけではなかった。もう一つ目的があった。つまり浅原才市の家を見てこよう。駅前通りを西に行く途中の温泉津町小浜こはまだという。下駄職人才市はきりほおを削りながら、その合間に詩を書いた。いや、詩というのはふさわしくないかもしれない。それは本来、祈りだった。讃仏歌、わが国に珍しい宗教詩である。才市が死んだとき、小学生の使うような粗末な学習帖が百冊あまり残された。あて字だらけでつづられた祈りの歌が約一万。のちに宗教学者が驚きの目をみはった。鈴木大拙は「日本的霊性」の代表的な一例として、この無学な老人を熱っぽく語っている。妙好人浅原才市、あの奇妙な詩的宗教人のゆかりの家を見てこよう――。
 温泉津は読んで字のごとく温泉の湧く津(港)であって、江戸時代は石見銀山からの銀の積み出し港として栄え、温泉津千軒とうたわれたというが、今は少しわびしさのある温泉町だ。
 宿に着くなり、湯札をもらって共同湯へ行った。ここには共同湯が二つある。手前にある新しい方の藤ノ湯は、明治五年の浜田地震のときに湧き出てきたそうだ。だから震湯ともいって大方の旅館の源泉にもなっている。新しいといっても、こんなにも古い。とうぜん古い方は、はるか大昔にさかのぼる。千三百年以上も前、たぬきゆあみしているのがきっかけで見つかった。鶴や鹿や熊は開湯伝説に多いが、狸というのは珍しい。旅館街の奥にある元湯には、狸の浮き彫りのある額が掲げられている。いかにもきき目のありそうな赤錆あかさび色の湯である。元湯には、いろいろな注意書が四方の壁に貼りめぐらしてあった。うるさいといえばうるさいが、湯から首だけだして順に見ていくとついつい時を忘れる。おのずと注意書にあるとおり、じっくりお湯につかれる。
 そのあと、宿の主におおよその見当を聞いて、才市の家を探しに行った。

 万延元年(一八六〇)、井伊直弼なおすけが桜田門で斬られた。この年に石見在の大家おおや要四郎という者が、理由ははっきりしないが、妻スギを離縁した。スギは十一になる才市をつれて実家の温泉津町小浜に帰った。それから間もなく他家へ嫁いだ。
 父母に捨てられた格好の少年は大工のもとに奉公に出る。二十歳のとき、隣り町の江津ごうづに移って船大工になった。五年後、妻せつをともなって温泉津にもどってきた。
 若いころの浅原才市は酒やバクチで警察の厄介になったこともあるらしい。そんな荒らくれ者の船大工が、どのようにして「みほとけ」に目ざめたのか。浅原才市翁顕彰会というところが発行した小冊子によると、父は離縁のあと髪を下ろして小浜の安楽寺の一隅に草庵そうあんをむすび、名を西教とあらためた。破れ衣を着て、野の花を売りあるく毎日で、子どもたちから、
「西教さん、ロほど手足が立つならば――」
 などと、わらべ歌で呼びかけられると、
「ほかに不足はごんせんわい」
 と唱和していたという。越後の良寛のような、ともいえる。この上なく孤独な魂と見えなくもない。いずれにしても才市がこの父から強烈な影響を受けたことはたしかである。
 明治二十七年(一八九四)、父西教が八十二歳で死去。このとき才市は四十五歳。日本全体が日清戦争の興奮にわき返っているさなか、妻とともに京の本山へ参って法名をもらった。ある決意の表明、求道のはじまり。才市のことばを借りれば「親の遺言、南無阿弥陀仏」のはじまりである。それが一向に悟りすましたものでなかったことは、次のような詩からもみてとれる。

  わたしや あさまし、どろ暗闇くらやみ
  とりゑなし。
  天地のやみで、ぶらぶらと
  ちること知らずにくらす、ぶらぶらと、
  世をすごす、このあさましが。

     *

  わがこころ 見えもせず、臨終に鬼になる。
  こころが鬼となる、あさまし あさまし。
  あさましいのも おそ(うそ)よの、おその皮よの。
  皮、皮、おその皮。
  おその皮、おその皮、おその皮。
  あさまし あさまし、
  あさましいのも、おその皮。

 六十をこえて船大工から下駄屋になった。浅原才市がたぐいまれな詩を書きだしたのは、六十四歳のときからとされている。小浜の本通り、かんなくずの散らばる仕事場は同時に、独創的な数々の作品が生まれた場所だった。ことばが思いうかぶと、手近な木片に書きとめる。夕食後、粗末なノートに清書した。いわゆる「口あい」、そんな風にして、あて字だらけの文字による、世に二つとない讃詩ができた。

  「才市よい。うれしいか、ありがたいか。」
  「ありがたい時や、ありがたい。
  なつともない時や、なつともない。」
  「才市。なつともない時や、どがあすりや。」
  「どがあも仕ようがないよ。
  なむあみだぶと、どんぐり、ヘんぐりしているよ。」
  今日も、来る日も、やーい。やーい。

     *

  なんともない、
  うれしうもない、
  ありがともない。
  ありがとないのを、
  くやむじやない。

     *

  わたしや罪でも 六字の懺愧ざんぎ
  わたしや罪でも 六字の歓喜かんぎ
  なむは 懺愧ざんぎで、
  あみだは 歓喜かんぎ
  ざんぎ、くわんぎのなむあみだぶつ。

 才市の生きていた時代には、門徒はまだ親鸞しんらんの『歎異鈔たんにしよう』を自由に読むことはできなかった。たとえ普及本があったとしても、石見の無学な下駄職人が、ひもといたとは思えない。「神通方便じんつうほうべんをもって、まず有縁うえんを度すべきなり」などといわれても、何のことだかわからなかっただろう。「今生こんじょうにて、いかにいとおし、不憫ふびんと思うとも、この慈悲終始なし」と親鸞は書いた。才市はもっと平易にうたっている。いかにも平明であり、深さに劣るとは思えない。

  「才市よい。われが心をせんかい。」
  「へ、借せましよう。
  衆生済度しゅうじょうさいどをするときは、
  もどしてくれたら借しましよう。」

 才市の家は、あっけないほど簡単に見つかった。小浜の本通りの海に向かって左手、屋根の低いしもた屋の並びの一つ。軒下の古ぼけた案内板がなければ、永遠に見分けがつかないようなありふれた平家である。

  こんな子が
  出んな ちうのに
  また出たよ。
  出場でばがないから、口に出た。
  また出るよ。
  なむあみだぶと言うて出た。

 昭和七年(一九三二)、上海事変が起こった。関東軍がハルピンを占領し、満州国がつくられた。そんなあわただしい時代の雲行きとは無縁のところで、ひとりの老人が死んだ。さしあたっては妙好人の死でも何でもなかった。念仏が好きだった老下駄職人が、ひっそりと往生しただけのこと。才市作をもう一つ。これまでが編纂へんさん者が漢字を当てて書き直したものだったが、ここは当人の筆記のままに引いておく。

  かぜをひけばせきがでる
  さいちがごほうぎのかぜをひいた
  ねんぶつのせきがでるでる

     *

 温泉街にもどって、もう一度、元湯に入った。
「流しで寝ないこと」
 そんな注意板の下で老人が寝ていた。骸骨がいこつのような腰骨のあたりがゆっくり上下していて、それでようやく死体でないことがわかる。こちらが湯舟につかると、老人のしなびた陰茎が目の前にあった。白い陰毛がはりついている。
 
正月・二月・三月 伊賀温泉[三重県]
 奈良東大寺に二月堂と三月堂がある。正式には観音堂、法華堂といって、それぞれのお堂で二月に始まる修二会しゅにえ、三月に取りおこなわれる修三会から通称が生まれた。修二会は「お水取り」の名で有名であって、三月中旬、儀式の終わりまぢかに華麗な見ものが披露される。お面をかぶり、大きな火の玉を突き上げておどるダッタンの踊り。二月堂の前庭に赤々と火花が散って、はじめて関西一円に春がくる。
 ここまでは大方の人がごぞんじだろう。私もまた知っていた。と同時に、つねづね、二月堂と三月堂があって一月堂がないのは片手落ちではあるまいか、といった気がしないでもなかった。あらたまの年の始めを、冬眠中の虫のように手もなくやりすごしていいものだろうか。はなばなしい祝典にはきっと前夜祭があるように、二月に始まる壮麗な儀式には、それに先だってひそかな祈念の式が営まれているのではあるまいか。つまりが一月堂である。あるいは正月堂というべきものが、ひっそりとどこかにあるにちがいない。
 先日、用事で奈良へ行ったついでに正月堂を訪ねてきた。それをご報告しておこう。
 奈良発亀山行き、関西線の普通列車で約一時間、島ヶ原という駅で降りた。駅から少し歩いた所が旧大和街道の宿場町で、木津川をはさみ、二つの集落がある。三重県阿山あやま郡島ヶ原村。たしかに三重県の村ではあるが、それは伊賀の国を三重に割りふった行政区分の結果にすぎず、土地や家のたたずまいはあきらかに奈良のつづきである。大和平野の飛び地といっていい。事実、伊賀国はかつて大半が東大寺の寺領であった。山沿いの道、また荷舟の上下する川によって平城の都と太い糸で結ばれていた。
 ゆるやかな傾斜の一本道を北へ歩いて二十分あまり、前方は小さな池、うしろは小山、石段の右手の古雅な石に「正月堂」と刻んである。石段を上るとすぐに楼門、正面に金堂、左手に白砂利を敷いた小さな庭、ただそれだけ。水盤を背負った青銅の亀の顔にツララが垂れて、ハナをたらしているように見える。吹き上げてくる風を受けて裏山の松がサワサワと鳴っていた。
 縁起によると、正しくは観菩提寺といって聖武天皇の御世に実忠じっちゅう和尚が創建した。最盛期には大門、中門、三金堂をはじめとして三十有余の堂塔伽藍がらんが立ちならんでいたという。多くが織田信長の伊賀攻めの際に焼け落ちた。現在は楼門と金堂の二つを残すだけ。本尊は十一面観世音で、実忠和尚が笠置かさぎ山中の洞穴にこもって感得したところを刻んだというが、三十三年に一度の御開帳でないと拝めない。写真で見るかぎり、すこぶる異様の面相をしている。
 実忠和尚は東大寺開山良弁ろうべん僧都の片腕として大寺経営に腕を振るった人物である。宗学はもとより儀軌ぎき、財政、建築、土木に通じていた。お水取りの行事も、この奇略縦横の和尚があみだしたものであって、五十年あまりにわたり工夫して現在のような型に仕上げた。それほどの人物ながら、どこの生まれともわからない。『東大寺要録』には「生国不明」とある。天竺てんじくから来た帰化人で、バラモン僧ともいわれている。晩年、政争に巻きこまれ、九十歳にして奈良を去り、若狭方面を目指したまま行方を絶った。
 この夜、私はタクシーで伊賀上野市へ出て、町外れの伊賀温泉で一泊した。元はヘルスセンターだったという大きな建物に泊り客は一人だけ。たっぷり地酒を飲んだあと、寝る前にもう一度、湯殿へ下りた。旧暦一月に行われる正月堂の修正会しゅしようえとはどんなものなのか。そこにはやはりダッタンの踊りがあって、火の玉をかかげて踊るらしい。この次、ぜひとも見物に来たいものだ――ぼんやりとそんなことを思いながら暗い大きな湯舟のなかで、死んだ魚のように浮かんでいた。
 
駅ヨリ五里二十丁 だけ温泉[青森県]
 青森のねぶた祭りは東北の大祭の一つである。八月初めのまる一週間、町は何十万もの見物客でにぎわう。いや、このところは総計すると百万単位の人出かもしれない。木と竹で組み立てたおなじみの武者絵が途方もなく大きくなっていったのと並行して、祭りもまた肥大した。それはもはや町のお祭りとはいえないだろう。観光や宣伝や交通やマスメディアなど、つまりは「現代」が生み出した化け物じみたイベントというべきものではなかろうか。
 私が憶えているねぶた祭りはそうではなかった。昭和三十二年(一九五七)、高校二年の夏、周遊券をポケットにリュックをかついで郷里の姫路を出た。山陰から北陸、また東北を日本海沿いに北上して十日目に青森にたどりついた。
 かなりの人出だった。夜店が出ていた。盆踊りでもあるのかしらん、と私は思った。そのうちかねと太鼓の音が聞こえてきて、金魚型をしたのや扇型をしたのや人形をなぞったのや、造りものが次々とやってきた。太い眉をした武者絵の背中が、あでやかな美人像なのが奇妙だった。大きなものでもリヤカーにのる程度がせいぜいで、子供がかついでいくような小さなのが多かった。明りが消えたまましずしずと進んで行くものもあった。武者絵の前と後で、そろいの浴衣の人々が黙々と踊っていた。
 その夜、駅近くの公園で寝袋に入って夜をすごした。しらじら明けに通りを歩いて港まで行った。駅前通りには昨夜の人出がうそのように人っこひとりいなかった。
 それから十年ばかりたって、こんどは弘前のねぶたを見た。こちらはねぶたではなく「ねぷた」と言うようだが、まだ暮れやらぬ夕方、城跡公園近くの広場に武者絵のハリボテで勢揃せいぞろいして、小さい順に大通りへと出ていった。どれもただしずしずと進んでいったような記憶が強い。
 大通りの人出から外れて低い家並みの一画を抜けると、ちょっとした高台にポツンと一つ五重塔が立っていた。私は塔の下の草地に坐って、赤い灯の列がゆっくりと動いていくのをながめていた。鉦と太鼓の音がたえだえに聞こえてきた。列がとぎれたのをしおにして立ち上がり、神社前にくると夕焼け雲の上の思いもかけないところに岩木山の山頂がのぞいていた。そのあと駅前からのバスを待って、嶽温泉へ行った。
 同じ名前でも、このところ福島県の嶽温泉は「岳温泉」と書くようだが、こちらは昔ながらに「嶽」である。字づらに何やらおどろおどろしい雰囲気がなくもない。
 昔の温泉案内風にいえば、奥羽本線弘前駅ヨリ五里二十丁、奥の日光のたたえある岩木山神社を右に見てさらに登ること二十分。今ではバスで一時間あまりの行程である。かなりの勾配こうばいをもった広場を囲んでコの字型に旅館が六軒あまり、コの字型のまん中がバスの終点だ。
 古い案内書には旅館名のかわりに、
西澤謙作
中畑勇太郎
秋田藤五郎

 などといった無骨な名前が並んでいる。そのころはきっと自炊客を主とする貸間のようなものだったのだろう。とにかく湯量の豊富なところで、少し熱めの白濁した硫黄泉が勢いよく流れこむ。うっかりすると体がプカプカ浮いてきて流されかねない。そんな中で湯舟につかまり、われとわが身を湯に沈みこませるようにして一生懸命つかるしかないのである。
 岩木山は、古くは岩城山とも書いたようだ。山麓百沢ももさわの岩木山神社は有名だが、かつてはほかに岩城権現という小社があったという。『東遊雑記』といった古い本によると、説経節で知られる「安寿と厨子王」の伝説は、そもそもがここ津軽の産だという。永保の頃というから十一世紀のことらしいが、当地の代官に岩城判官正氏まさうじという者がいた。京に上っている間に讒言ざんげんする者がいて西国へ流された。正氏には二人の子どもがいて、姉が安寿姫、弟が津志王ずしおう丸、二人は母をともない、父を求めて西国へ下るすがら、越後の国で人買いにかどわかされた——おなじみの話である。すべてが一件落着して丹後の国由良の山荘さんしよう太夫や人買いが誅罰ちゆうばつされたあと、いつの頃か、津志王姉弟をまつる岩城権現が建立されたという。
 故事来歴を美化するためのデタラメかもしれないが、しかし古来、丹後の人が津軽の地に入ると災いがあるといった言い伝えがあるという。まんざら根も葉もない話でもないのかもしれない。
 なお、その権現には岩城百沢寺という別当があって、八朔はつさくより重陽ちようようにいたるまでの七月の間に潔斎して山に登る行事があるが、女人禁制の山というのがばかばかしい、と『東遊雑記』の作者は怒っている。
「思うに安寿姫を祭りし山なるに、何とて女人を禁ずるやいぶかし」
 女を嫌う神もいないだろうに、諸国に同じような山があるのは嘆かわしいかぎりだと慨嘆している。なかなかひらけた人物ではないか。

 それからまた十年あまりたって再び嶽温泉を訪れた。広場に面した宿の一つが作業中であるのと、コの字型のはずれに一つホテルができていた以外、ほとんど変化していない。白濁したお湯はあい変わらずトウトウと流れこんでくる。常盤野と呼ばれるだだっぴろい平原に初夏の風が吹いていた。
 山麓は霧が深い。夕方四時過ぎ、早くも辺りは霧につつまれ、みるまに視界が閉ざされた。
 ひと浴びしたあと、脇道づたいに奥の湯段ゆだん温泉まで歩いて行った。二キロばかりのへだたりである。小さなブナ林を背にして三軒ばかりの湯治宿がある。こちらのお湯は赤茶けていた。やはり音をたてて流れこむ。湯殿から出てくると、暗い湯治宿の廊下に化け猫のように大きいやつが二つの眼を光らせてすわっていた。玄関を出たとたん、大地を包みこむようにして濃い夕霧が押し寄せてきた。
 
龍はいるか? 龍神りゆうじん温泉[和歌山県]
 戦争中のたつ年生まれ。クラスには龍一もいれば辰雄もいた。辰五郎などと威勢のいいのもいた。だいぶ前に引退した相撲の播竜山ばんりゆうやま郷土くにの名前とエトをとったシコ名で、たしか同郷同年生まれだったと思う。不器用な力士で、おっつけ一本槍、ひと場所だけ小結までいったが、こんがなくなるとアッというまに幕下まで転落した。
 名前だけではない。ごく身近なところに多くの龍がいた。水みは子供の日課の一つだったが、ポンプの柄のところにうっすらとした絵模様をとって細長い龍がひそんでいた。「水を吐く」の意味をこめてだろうが、ちょっと油断するとすぐに水切れして悲鳴のような音をたてるばかり。毎朝、仏壇に御飯を供えにいくと、はすうてなの横手から金箔きんぱくづくめの龍がにらんでいた。
 神社の境内で三角ベースの野球をしているとき、ホームラン性の当りが拝殿の軒端に突き出た龍の頭にぶつかってファールになり、味方をくやしがらせた。その神社の祭礼ともなると、取っておきの引き幕がもち出されたが、金糸銀糸もあざやかな龍があらわれ、ガラス製の目玉をきょろつかせていた。

 どうしてこんなにもどっさり龍がいるのだろう? ひとつ、温泉にでもつかりながらとくと考えてみたい。この点、ありがたいことに、わが国には龍にちなむ温泉がいくらもある。たとえば山形県の竜王温泉。四国にあるのは字体が違うだけの龍王温泉、紀伊の国の山里に龍神温泉といったぐあいだ。手はじめはまず東北。奥羽本線のかみノ山駅からバスでしばらく行った所にある一軒宿。バス停が金瓶かなびんとは豪勢ながら、なんの変哲もない地方町の眺めである。宿もまたごくありふれた二階建て、土地の会合などに何かと使われて重宝な温泉にちがいない。お湯は単純泉で少し加熱しているらしい。階下の広間で地元婦人会の慰労会がひらかれていた。夕方までにぎやかだったが、一同がゾロゾロとひきあげたあと、忘れられたように静まり返った。東に蔵王ざおう連峰を望む位置にあり、温泉の名前が蔵王権現竜王にちなむことはあきらかだ。
 龍は一般には想像上の動物であって、体は蛇に似ている。水中とか地中にみ、翼で飛行して雲をよび、雨を起こし、稲妻を走らせる。要するに、大水や大風、火山の噴火など、狂暴な自然現象をイメージ化したもので、恐ろしい自然の破壊力をあらわすものとされてきた。
 たぶん、そのせいだろうが、世界の各地に龍がいて、龍と戦った巨人とか勇士の話が伝わっている。旧約聖書では大天使ミカエルが龍を倒した。ギリシア神話では、頭が星にとどき、手をのばすと東西の地の涯にとどくという百頭の龍が出てくる。一説によると火山の噴火をあらわすらしい。別の説によると南方から吹いてくる熱風シロツコを獣の形で示したものだという。いずれにせよ手に負えない自然現象をあらわすものであって、人間はこのような怪獣としての大自然と戦って脅威を克服してきた——。
 いかにももっともな話ながら、私にはなんとなくに落ちない。たとえそうだとしても、では、そのような自然の脅威をあらわすのに、地球上の人間は、なぜそろいもそろって龍のイメージをかりてきたのだろう? 蛇と蝙蝠こうもりとをつきまぜたような怪獣は西方にもいれば東方にもいる。スカンディナヴィアの北方伝説でも語られているし、ジャワの神話にも登場する。中国の寺院にいれば、わが国の神社の軒端にもいる。どうして龍は何千年にもわたりこの地上で、そろいもそろって同じような姿をとってきたのだろうか。
 海をわたって四国へとんでいただく。愛媛県喜多郡五十崎町古田、伊予大洲おおずの東のはずれ、こちらの龍王温泉は鉱泉つきの町立集会所といったところで、私は松山まで行ったついでに伊予大洲に廻り、酔狂にも車をとばして訪ねてきた。近くの丘を龍王の丘といい、臥竜淵と称する峡谷もあるそうだ。同じ湯舟に浮かんでいたじいさんから聞いただけだが、いずれ龍にまつわる伝えばなしにあやかるものとみていいだろう。
 同じような龍の図柄が世界中にあるのは、人間がかつて恐龍と戦ったことがあって、その恐怖が人類の記憶にしみついているからだ、という説がある。しかし、これは人類生成史からみて矛盾する。人間が地球上にあらわれたころ、マンモスもいれば全身が毛でおおわれたさいのようなものもいたが、恐龍などの爬虫類はちゆうるいはすでに姿を消していた。
 漢語辞典によると、「龍」という字は、頭に飾りがあり、大きな口をあけ、体をくねらせた蛇をかたどったもの(「竜」はその略字)だそうだ。英語のドラゴンの語源にあたるラテン語の「ドラコ」も、ローマ人のあいだでは大蛇を意味していた。ヨーロッパで最初の動物学の本を書いたプリニウスは、大蛇をドラコと呼んでいる。
 とすると龍はやはり蛇であって、悪とか自然力とかの恐怖を具体的に示すために、文字どおり蛇に「尾ひれ」をつけて作りあげたのだろうか。
 いぜんとしてどことなく呑みこめない。人間の想像力は風土や時代によって多種多様に変化するものだ。にもかかわらず龍にかぎり判でしたように決っている。変てこな共通性をもっている。おおよそ蛇の格好で、小さな翼をもつ。みるからに大きな胴体であって、とても飛ベそうにない翼だが、自由自在に飛行して口から火を吐く。前足のつめで襲いかかる。
 中国の神話には雲龍、つまり雨をよぶ雲の龍がいる。恵み深い生きものであり、知恵と力をあらわすものだ。道教の重要なシンボルとして「その奥義にひそむあらゆるものの縮図」、雲の中や山の頂きなど奥深いところに姿を隠している「究極の謎」、ひいては道教のどうを象徴するものであるという。
 話が妙におごそかなところに駆けのぼったが、熱い湯を我慢するかねあいでもう少しおつき合いいただこう。そもそも龍が蛇から出発して、空を飛ぶ怪物になったのはどうしてか。先ほど触れた古代ローマの博物学者プリニウスによると、大蛇が木からとんで人間に巻きつき絞め殺すことからの連想らしい。だが同じヨーロッパの龍の伝説では、木の上にいたりはしないではないか。たいていは地下にいる。洞穴から這い出してきて旅人を襲う。
 ある古生物学者の本によると、オーストリアのある修道院にまつわって、こんな縁起があるという。かつてその地に純金の実がみのるリンゴの木があって、龍がこれを守っていた。その龍を巨人が退治して、金のリンゴを元手にして僧院を建てた。その町は近くには温泉があって各種の病気にきくことで知られているが、それは龍の血の結果だという。巨人は龍を退治したとき、龍の舌を切りとったが、その龍の舌がインスブルックの博物館に保存されている。よく調べてみると、地中海あたりでとれたかじきまぐろのくちばしであることがわかったそうだ。
 話が温泉に近づいた。龍にちなむとっておきの所を訪ねておこう。
 和歌山県の龍神温泉。ただし私が行ったのは、ずいぶん昔のこと、紀勢本線が開通したのが昭和三十四年(一九五九)、それからまなしのことである。こちらは大学に入りたて、周遊券をポケットに紀州をウロついていた。紀伊田辺からバスに乗った。日高川の源流に向かって走ること約三時間、足と腰が突っぱらかるころにようやく終点の龍神村に着いた。和歌山県日高郡龍神村、人口五千あまり、山間やまあいを縫うようにして何十もの集落が点在している。
 案内記によると、龍神一族は高野山から護摩ノ壇山を越えてこの地にやってきた。紀伊の殿さま徳川頼宣公が供ぞろえを従えて湯あみにやってきたことがあり、それで上御殿、下御殿といった大層な名前の宿ができた、となっているが、実のところ、やってくる予定が何かの事情で沙汰さたやみとなり、本当は殿さま来湯と関係がないのだそうだ。
 バス停のすぐ上に温泉寺があった。荒れはてていて建物全体がお辞儀をするように前方にかしいでいた。温泉寺のすぐ脇の道を登っていくと、中里介山の『大菩薩峠』でおなじみの机竜之助が目を洗ったという曼陀羅まんだら滝に行きつく。
 龍神温泉の由来は古い。えんの行者の発見とか。弘法大師が廻国の際、難陀龍王のお告げによって湯を見つけたので龍神の名がついたともいう。役の行者と弘法大師は何百とある開湯伝説の東西の横綱といったところだが、その両横綱がかかわっているのは珍しい。『名所図会』には次のように書かれている。
「かたへの山もとに湯のわき出づる口ありて大なる桶を懸わたして浴室に通はして五区の湯口よりみなぎり落つるがいと潔らかにして熱からず寒からず、ただ温にして臭気なく、湯槽の底まで透通りて見ゆ。此湯いずれの病にも験あれども、わきて楊梅瘡にて年久しくなやめるには奇しき効験あれば
 上御殿で一泊した。いまにして思えば貧乏学生の身分でシャレたことをしたものだ。もっとも、その当時の龍神温泉は有吉佐和子の小説『日高川』で脚光をあびたりするずっと前のことであって、南紀州のおそろしくへんぴな山の湯にすぎず、上御殿も下御殿も古いだけの宿だった。川っぷちの露天風呂までパンツ一枚、肩に手拭いをひっかけて歩いていったのを覚えている。夕食のとき、おひつに半分もあった御飯をすっかりたいらげて宿のおばさんを驚かせた。
「若いもんねェ」
 といった意味のことを方言まじりに言いながら、おばさんは空のおひつをまじまじとのぞきこんだ。
 翌日、紀勢線を乗り継いで那智まで行った。駅ごとに「祝開通」のアーチや飾りが残っていた。那智駅のすぐ裏手の補陀落山寺ふだらくせんじに立ち寄った。ひとけのない境内の桜の古木にせみが元気一杯鳴いていた。目の下に熊野なだが見えた。補陀落浄土の伝説を秘めた南の海は、恐いほど青々と澄み返っていた。

 龍についてはどうなったのか? もしかすると龍は一般にいわれているような「想像上の動物」などではないのではなかろうか。私の独断をまじえていえば、龍は実在した。たしかに地上にいたのである。いや、現に地上にいるだろう。水中や洞窟に棲んで、ときには空をとび、雲をよび雨をはしらせ、火山に火柱を走らせる。それはいずれ発見されるかもしれない。吉田健一が『未知の世界——私の古生物誌』のなかで楽しそうに書いているとおり、コモド島の龍はようやく二十世紀になって発見された。アフリカ中部の密林の奥にはまだ何が住んでいるかわからず、現にえたいの知れない大きな動物の出現が報告されている。
 大水や大風、火山の噴火のことごとくが龍のせいだとは言わないまでも、龍は今なお健在なのではあるまいか。そうでなくては、私たちがこんなにも生きいきと龍のイメージを抱けるはずがない。それは人を呑み、大地を呑み、お返しに熱い湯を恵んでくれる。言い忘れていたが、こちらが折りおり立ちよる東京の温泉は「辰巳天然温泉」と称している。ひいきの銭湯は辰の湯。
 
札所巡り 松葉川温泉[高知県]
 井伏鱒二いぶせますじの短篇「へんろう宿」は、こんな風な書き出しをもっている。
「いま私は所用あって土佐に来ているが、大体において用件も上首尾に運び、まず何よりだと思っている」
 安心したせいかバスのなかで居眠りをしてしまい、安芸町あきまちというところで降りるのを遍路へんろう岬というところまで乗りすごした。引き返そうとすると、もう終バスが出てしまったあとだという。用件も上首尾のことだし、急いで引き返す必要もないので、遍路岬の集落で宿をとることにした。宿屋は何軒あるかときくと、へんろう宿が一軒あるだけ。
「この土地では遍路のことを、へんろうという。遍路岬も、へんろう岬といっている。街道のかたわらにある石の道しるべにも〈へんろう道〉と刻んである」
 宿屋の入口に「へんろう宿、波濤はとう館」と書いた看板が下がっていた。客間が三部屋しかない貧弱な宿だのに、意外にも女性従業員が五人いる。そのくせ、おやじもおかみさんも息子もいない。つまり「従業員がいるだけで、宿屋の経営者に該当する人がいない」という変てこな宿である。
 四国の地図をひらくと、土佐湾に面して安芸という町はあるが遍路岬などはない。町から六キロほどの岬というと土山岬である。この辺りをモデルにして井伏流の変形がほどこしてあるのだろう。
 そのへんろう宿の土間に入って泊めてもらいたいというと、まず五十ぐらいの女が現われた。居間には八十ぐらいのしわくちゃのおばあさんと、六十ぐらいのおばあさんが火鉢を囲んですわっていた。さらに十二ぐらいの女の子と十五ぐらいの女の子が、向かいあって書き取りの勉強をしていた。五人が五人とも捨て子だという。嬰児あかごのときにこの宿に捨てられた。宿に泊った客が捨てて行った。
 三つの客間はふすまで仕切っただけで、天井の黒いはりがまる見えで、そこに千社札のようなものが何枚もはりつけてある。壁の定価表には「御一泊一人前、三十銭。御食事はお好みによります」と、わりあいに達筆な字で書いてあった。だれか宿泊人が書いてやったものらしい。部屋の隅に脚のない将棋盤が置いてある。それが部屋で唯一の装飾品で、かえって物悲しい気持をそそるのである。
 あらためて集印帖をひらいてみると、四国二十四番最御崎ほつみさき寺(東寺)から始まっている。名号と朱印に加えて、寺ごとに違ったデザインで「四国霊場御開創千百五十年記念」のスタンプが捺してある。昭和三十九年(一九六四)夏のことだ。夜の船便で神戸を発った。夜明け前に高知と徳島の県境にある甲浦かんのうらという港に着いた。朝一番のバスで室戸岬まで行って、そこから寝袋とリュックをかついで歩きだした。二十九番四天王護国寺、三十番安楽寺、三十一番竹林寺、三十二番禅師峰寺、三十三番雪蹊寺。べつに室戸から足摺あしずりまで歩き通そうなどと決めていたわけではない。当時、大学を出たあと大学院に籍を置いて、もっぱらアルバイトに精出していた。要するに若さをもてあましていた男が呑気のんきな旅に出ただけである。急ぐ理由はどこにもなかった。懐の所持金の心細いことだけが気がかり。途中、おおかた寝袋に入って野宿した。ときおり宿に泊った。
 遍路宿、もしかするとそんな宿だったのかもしれない。とにかくおそろしくオンボロだった。壁も天井もふすまも黒々とすすけており、割れた曇りガラスに古い障子紙の目張りがしてあった。天井からぶら下がっている明りに手をのばした拍子に電燈の笠からほこりが降ってきた。庭の風呂場の電球が切れているとかで、まっ暗な五右衛門風呂にしゃがんでいた。外に出ると、上半身裸のおばあさんが縁台で涼んでいた。
 井伏鱒二の「へんろう宿」の主人公は、頭の上にハンカチをのせ、その上に「ぞうきんを大きくしたようなふとん」をかけて寝たそうだ。疲れていたのか、すぐに寝入った。やがて隣りの部屋の話し声で目をさました。三番目の五十ぐらいのおばさんが、隣りの客と酒の相手をしながら話し込んでいるらしかった。

きっと、この遍路岬へんろうみさきに道中して来る途中、嬰児を持てあましているうちに、だれぞにこの宿屋の風習を習いましつろう。たいがい十年ごっといに、この家には嬰児がったくられて来ましたきに。」
「でも、みんな女の赤んぼちゅうのは不思議やないか。」
「男の子は太うなってしくじりますきに、親を追いかけてて、返します。もしも親の行くえが知れんと、役所へとどけてしまいます。」
「戸籍面はなんとするのやね。女の子でも戸籍だけは届けるやろう。嫁にも行かんならんやろう。」
「いんや、この家で育ててもろうた恩がえしに、初めから後家のつもりで嫁に行きません。また浮気うわきのようなことは、どうしてもしません。」
「はてなあ。よくそれで我慢が続いて来たものや。」

 高知市近辺の札所を巡りおえて、土讃線沿いに南下した。窪川くぼかわまで下って、三十七番岩本寺へ行くために北へ上った。高岡郡窪川町日野地というところの松葉川温泉で一泊した。川沿いにある療養所のような建物だった。自炊客用らしく大きな炊事場のある古い木造の離れがあった。久しぶりにお湯につかり、白いシーツの上で寝たせいか、興奮していつまでも寝つけなかった。
 それから二日がかりで三十八番の足摺山金剛福寺に行きついた。南国特有の黒々とした樹林の向こうに白い燈台が見えたとき、身体のシンから突きあげてくる感動を覚えた。
 真宗の寺の縁すじの生まれなので、ひととおりお経も読める。本堂に参って手を合わせる。といって格別の信心があるわけではない。由緒深い建物や本尊にもさして心を動かされない。むしろ私はどちらかといえば、古寺の荘厳さをそこなうたぐいのゴタゴタしたものが好きなのだ。壁や柱や天井にところ狭しと貼りめぐらされたお札や、昔ながらの起請文や、たわいのない奉納品や、たどたどしい手で綴られた願立ての文である。そういったものにかれてならない。
 境内のあちこちに結願記念の碑が立っていたりする。ある人は五輪の塔型に刻んだ板碑を背負って札所全部にくばり歩いた。別の人は写経千巻を奉じて八十八ヶ所を八十八度まわったという。こうなると信心というよりもモノ狂いといった方が正しいかもしれないだろう。いったい、どのような情熱あって、このようなばかばかしいことができるのか。いや、それはもはやばかばかしさをとおりこして感動的ですらあるのだった。
 四十番の観自在寺まで来て所持金が尽きた。宇和島でうどんを食べたきり。今治いまばり港から瀬戸内海を渡り、夜行で東京に帰りつくまで、ひたすら空腹をかかえていた。
 
饅頭まんじゅうこわい 有馬温泉[兵庫県]
 有馬へ行こう。
 ――などと、あらためて言うのは気がひけるほど有馬温泉は近い。大阪梅田駅や神戸三宮駅前から、のべつバスが出ている。六甲山麓さんろくのトンネルを突っ切って、ほんのうたた寝の間に清流と緑の別天地へ走りこむ。
 神戸市北区有馬町。関西の奥座敷は渡り廊下でほんのひと足、あっけないほどの隔りなのだ。
 もっとも戦前の案内記では、もう少し手間どっている。

(一)東海道本線神崎駅から岐れる福知山線三田さんだ駅を経て有馬線有馬駅から半粁キロメートル 、徒歩十五分、自動車貸切一円。
(二)神戸駅下車、市内湊川みなとがわから神戸有馬電鉄で四十四分を要し、五十銭。

 当時は兵庫県有馬郡有馬町、「盛夏といえども二十四度に上ることはまれ」で、阪神の名士連が競って別荘を建てた。その便利さから隠れ遊びにうってつけなのは、「お医者さんでも有馬の湯でも」の唄にうかがえるとおりである。
 二十代の半ばから六年あまり、私は神戸に住んでいた。港の見える高台の学校でドイツ語をおしえていた。懐はさみしかったが丈夫な足と、ありあまるほどのヒマがあった。もっぱら(二)の方のコースで有馬へ行った。むろん、けっこうな隠れ遊びや避暑のためではない。共同湯につかって、ひとしきり坂道をうろつく。それからとんぼ返りでもどってくる。ただそれだけ。
 神戸駅から湊川神社の境内をななめに横切って新開地へくるといつもパチンコ屋の軍艦マーチとストリップの呼びこみという難敵が待っていた。誘惑を振り切って私鉄駅への薄暗い階段を下りていく。あの頃はもう神戸電鉄新開地駅といったと思う。三田線と有馬線、二つに別れてさらにトコトコと走ると物々しく古ぼけた温泉駅に着く。
 共同湯の右手の坂を上れば温泉寺、そのまた裏手に長い石段がつづいている。大己貴命おおなむちのみこと少彦名命すくなひこなのみことの二神を祀る温泉神社、神代の昔にさかのぼる有馬開湯の生き証人というものだ。建久年間というから十二世紀末に、大和吉野より仁西にんせいというお上人が熊野権現のお告げを背負ってやってきて、薬師如来の十二神将にならう十二の坊舎を建てたという。今にのこる「坊」のつく旅館名の由来である。天正年間に大火事にあったのを豊臣秀吉が修復したのは有名だ。信玄公の隠し湯とちがって、お湯好きの豊太閤ほうたいこうは大っぴらに戦傷者の療養用に使ったらしい。
 火事はその後も何度かあった。たしか昭和三十年代だったと思うが、池之坊満月城が焼け落ちて多くの死者が出た。
 共同湯の左手は細い石畳につづいていて、古い酒屋や竹細工屋や饅頭屋が並んでいた。なかでも私は饅頭屋のくりまんを愛用した。並みの栗まんではない。直径十センチにあまる、両手でおしいただくほど大きなやつ。テカテカと色あざやかな栗色をしていて上にゴマがまぶしてある。パクリと二つに割ると、まん中に本物の栗がおさまっている。
 そんな栗まんのお化けのようなのを食べながら川沿いの道を上っていくと、どんづまりにちょっとした滝があった。お不動さんの手水で最後の食べのこしをのどの奥に流しこむ。気がつくと西の空がれかけており、すり鉢の底のような温泉町が気味悪いほど赤々と燃えていた。

 先ごろ野暮用で神戸へ行ったついでに有馬に寄った。きっかり二十年ぶり。立派なビルにあらたまった温泉会館でひと休みしたあと、何の気なしに坂道を上っていると、思いがけず目と鼻のさき、饅頭屋の軒下に出た。――なんと、なんと、昔ながらのお化け栗まんが満面に笑みをたたえて並んでいるではないか。
 一つ三百円。懐旧の情もだしがたく、泉源横の空地まできて、さっそく紙袋からとり出した。さすがに半分も食べられない。それでもネクタイをゆるめて、意地ぎたなく口に押しこんでいると、のどが詰まって死ぬような思いがした。通る人に怪しまれながら、目を白黒させてたたずんでいた。
 有馬にちなんで、一つ珍しい詩をお目にかけよう。題して「日本英雄伝抄」より「豊臣秀吉と淀君」。タイトルからして変わっている。中身はもっとおかしい。

 「――あたし
  有馬のお湯へ行きたいわ
  だつて眼が悪いのですもの、ねえあなたいゝでせう
  淀君は秀吉の膝によりかゝつてあまえた口調で言つた
  ――ウン、行きたければ行くがいゝぢやナイカ
  淀君の髪をもてあそびながら秀吉はヤニ下つて言つた
  ――おふくろも連れて行きなよ
  ――えゝ
  そして彼女は腕をあげて秀吉の顔を引き寄せた

 詩人野村吉哉よしやの作である。たぶん、ごぞんじあるまい。明治三十六年(一九〇三)、京都市の生まれ。二十歳のとき上京、貧しい文学青年の無頼と放浪はおさだまりのところ。その間、一時、林芙美子ふみこと同棲していた。二冊の詩集と童話集が一冊、生前の野村吉哉が地上に残したすべてである。昭和十五年(一九四〇)、三十七歳で死去。
 
木曾きまぐれ気まま旅 かけはし温泉[長野県]
 油屋のセガレが、あぶらやに泊った。
 木曾の奈良井とくれば宿は越後屋が知られている。軒に古びた看板が下がっていて、その下の灯に黒々と「ゑちごや」の文字。よく磨きこんだガラス戸ごしに上がりがまちの行燈あんどんが見える。つづいてスッキリとした畳と障子。土間に並んだ靴のようすでは泊り客は二組といったところ、小さな宿ながら、あきらかにもう一人ぐらいはいけそうだった。だのにどうして北のはずれに近い「あぶらや」に泊ったのか。
 要するにこちらが油屋のせがれであるからだ。播州ばんしゆうの片田舎の寺の片ワレが、何のわけあってか還俗げんぞくして始めたのが油売り。どうやらお燈明につながる縁によったらしいが、二代続いて三代目がつぶした。幼いころは、もっぱら「油屋の子」でとおっていた。法事の日などに家宝と称して、まっ黒な油用の木升が持ち出されてきたものである。
 家を捨てた不義理の埋めあわせ。旅先で油屋の屋号と往きあうたびに、私はうんもなくその宿に泊ることにしている。 信州一円にかぎっても、たとえば信濃追分の油屋、上諏訪かみすわ温泉の油屋。木曾谷の「あぶらや」は四部屋ばかりの小さな宿で、しっかり者のおばあさんがやっている。お嫁にきたときは、もう油売りではなかったそうな。
「あぶらでは立ちゆきませんでね」
 おばあさんはまめまめしく給仕をしながら、そんなことを言った。
「時節が変わっておりましたですからねェ」
 不肖の息子は盃を飲みほすと、腕組みして重々しくうなずいた。
 灯ともし頃に奈良井に着いた。中仙道のうちの木曾十一宿。塩尻から入ると贄川にえかわにつぐ二つ目。間宿あいのしゆくが桜沢と平沢。奈良井の次が藪原やぶはら。さらに宮ノ越、木曾福島、上松あげまつ、須原。二泊三日の予定だけが決っていて、どこまで行くかあてがない。一つ所で腰を据えてもかまわない。今年は雪がずいぶん少なかったそうだが、早春三月とは名ばかりで、北の山肌はまだ白々と凍っている。寒風にもまれながらの街道歩きは、ひとことでいえば酔狂である。
 ともかくも桜沢の「是より南、木曾路」の碑を振り出しにした。木曾民謡にいう「笠に木の葉のふりかかる」どころではない。すぐ前の国道十九号線を、ひっきりなしに長距離トラックがけたたましく疾駆していく。贄川の復元された関所を越したのが昼すぎ、一目散に南下して、漆器で知られる平沢の町並みでひと息ついた。
 きまぐれ気まま旅というものだが、ひそかなお手本がなくもない。幸田露伴の紀行文『酔興記』がそれであって、明治二十二年(一八八九)というから今からちょうど九十九年前、露伴は冬の木曾路を歩いた。「本山、桜沢、贄川にて一々丼酒いちいちどぶろくを飲み」と書いている。豪気なものだ。それともよほど寒かったのだろうか。奈良井に入って徳利屋に泊ったとある。
 その徳利屋は今も健在で、少々かしいだまま悠然と建っている。間口の大きな昔の旅籠はたごそのままの造り。だが宿屋稼業はやめたらしい。「あま酒あります」の字にひかれて障子の破れ目からのぞいてみたが、森閑と静まり返っていて、ひとけがなかった。露伴は親切な徳利屋の老女のこと、合い宿をした「我が親ほどの齢の人」のことを印象深く書いている。その人は落魄らくはくしてか、好きこのんでかはわからないが、重い荷を背負って「基督キリスト教の書」を売りあるいていたらしい。そんなことを思い出しながら往還をうろついているあいだに日が落ちて、谷あいの村はドッと暮れた。
 奈良井は海抜九三五メートル。ちょっとした山の頂上にいるようなもので、足元から寒気がい上ってくる。こうなれば露伴も何もあったものではない。せめて油売りの御先祖さまに義理立てをして、あぶらやにとびこんだというわけである。
 とにかく風が強い。寝入る前、家をゆるがす風音を聞いた。火事があったらひとたまりもないな、と思うハナから眠りこむ。
 朝七時、サイレンが鳴った。ふつう、あわてふためいてとび起きるところだろう。私は一向に動じない。あたたかい布団のなかで悠々と聞きながした。人間が出来ているせいというよりも、昨夜、格子に貼られたハリ紙を見ていたからだ。「引継式/場所・詰所前/サイレン吹鳴/雨天決行/楢川ならかわ村第一分団」。詰所とおぼしい建物に雄大な額がかかげてあった。いわく「自動車喞筒置場」。いま漢語辞典を繰ってみると「そく」は「水をそそぐ」という意味らしい。喞筒そくとう、つまりポンプである。由緒ぶかい名前が同時に、当地における消防の歴史と、その重要さをものがたっているのではあるまいか。
 たしかにそのようだ。翌朝、上問屋史料館に立ち寄ったときに手に入れた『楢川村近世史料集』によると、木曾谷の過去は火事との戦いの歴史でもあった。寛延四年の「火之用心申渡」や文化年間の「奈良井宿火消組織」といった多くの史料がそれを示している。大火のため難儀しているにつき、お救い金三両を頂戴ちょうだいした。ついては友仙、佐次兵衛、庄七各一分、綱次後家、清八女房各二朱、仙太郎母、捨松各六百文といったぐあいに分配した、という庄屋の書状などもみえる。
 昨夜の強風がウソのような、ありがたいポカポカ陽気だ。奈良井宿は南から上町、中町、下町にわかれ、上町と中町の境が「かぎの手」、下町のはずれに八幡神社、南のはしの鳥居峠の入口にしずめ神社がまつられている。二時間もあれば、ひととおり見てまわれる。要所に立派なひのき作りの水場があって、のどにしみるような沢水がいただける。古い家並みをプラプラ見てまわって、鎮神社まで来た。
 境内にある村営の歴史民俗資料館入口で、中年のおばさんがニコニコ顔で手招きしている。熱いお茶をいれるから飲んでいけと言う。彼女は自分でもおそろしく大きな茶碗でフーフーいってすすりながら、とっておきの秘密を打ち明けてくれた。
「宮さまがお忍びでおこしなんよ」
 昨夜、アヤノミヤさまが馬籠まごめで一泊、今夕、奈良井着で村営のならい荘に入られる予定だという。お忍び旅行だから誰も知らない、とおばさんは得意そうに二度くり返した。
「でも、おつきの人やなんかで六十人が泊るんですって。宮さまもタイヘンねェ」
「アヤノミヤって、どう書くんでした?」
 とたんにおばさんはあやふやな顔つきをした。
「さァ、どうでしたっけ
 宮さまの名前は、お相撲さんと同じように、いろんな字があてられるものだから、と言いわけするように言ってから、
「背の高い人ですってね
 村営のよしみで同僚からいろいろと情報が入っているらしい。おばさんは再び元気になった。宮さまが来られるのは明治のはじめに天皇が来られて以来だという。そういえば旧庄屋方の奥の間が、そっくり保存されていた。明治十三年六月、明治天皇は巡幸の途中、奈良井で昼食。村では岩魚いわなと若鶏とサヤエンドウを献上。岩魚は塩焼、若鶏は笹身にしてサヤエンドウと一緒にお吸物にして出したところ、岩魚の片側だけお食べになった。御飯の残りを下げおかれたので御符として近隣へ配る、といった説明がついていた。
 まだまだ話したりなさそうな受付のおばさんと別れて、中仙道一の難所と聞こえた鳥居峠。登るにつれて、眼下に細長い平地がひらけていく。家並みと鉄道と川と国道が四すじになってひしめいている。
 露伴の『酔興記』では、彼は大吹雪のなかを宿の者がとめるのもきかず、わらじの先に唐辛子を入れて鳥居峠を登って行った。
「路は急なり地は凍れり、風は甚だ猛烈にして時には我を吹き倒さんとし、呼吸をさえ遏むることあり、寒さはいよいよ凌鞘りようしようなり」
 大いに難渋したもようである。「酔狂の旅をいさむる吹雪かな」と自嘲じちようぎみに一句詠んでいる。それでもその日のうちに木曾福島へ往きついたのだから、健脚ぶりたるや恐れ入るほかはない。
 おまえはどうだったと言われると面目しだいもないのである。杉木立へ入る直前に息が切れた。コソコソと坂を下った。途中に村営ならい荘がある。警官が数人、不審げに目を光らせている。線路づたいに奈良井駅へ出て、次の鈍行で藪原着、車中の所要時間六分。自賛して言えば、気まぐれ旅の効率のよさは、こういった見切りのよさにあるといえよう。
 峠をはさんで村が変わると眺めも変わる。 川の流れまでが変化する。さきほど北に流れていた奈良井川が、こちらでは木曾川に代わって南へ下る。藪原宿はお六櫛ろくぐしで有名だ。馬籠宿のお六という若死した美女にちなむというが、むろん、どこまで本当だかわからない。いずれ商才ある誰かが創作したお伽噺とぎばなしというものだろうが、馬籠村に伝わっていた櫛作りの秘密を、虚無僧に身をやつして盗みにいったというのも、たのしい話である。高台の極楽寺にお六のびようがあるというので見にいった。建物は粗末なものだが、献じられた歌が美しい。
「雨たまるとまやの道にうすらなる
  灯をなげかけて櫛売れるかな」
 島木赤彦の作。こんなふうにして伝説は彩りを深めていくのだろう。
 高台づたいに歩いていたら、眺望抜群の一角で尾張藩御鷹匠おたかじよう役所跡というところにとび出した。通称御鷹城、享保年間に設置され、毎年五月になると、尾張藩の鷹匠たちがやってきて、鷹のひなの訓練をしたという。岡本綺堂きどうの『半七捕物帳』の一篇「鷹のゆくへ」を思い出した。元来、鷹匠というものは決して高い身分ではないのに、殿さまの鷹を預っているのをかさにきて、むやみにいばっていたという。小紋の手甲脚絆てつこうきやはんにわらじばきで、菅笠すげかさをかぶり、片手に鷹をのせて歩く。うっかりすれちがったりすると、大切な鷹をおどろかしたといって食ってかかる。本人はともかく、そのこぶしにのせているのが殿の鷹であるから、どうすることもできない。大地に手をついて謝らなければならない。万事がこんな風で、彼らは手に捧げている鷹よりも鋭い眼を光らせて世間を押し歩いていたらしい。
 いかにも御用の地といった絶景の一角だった。正面に千数百メートルの三沢山、目の下に木曾川の清流と藪原の家並みが一望の下にある。ゆっくりと雲が動いて隠れていた太陽が現われた。地上をめるようにして黄色い光が広がっていく。
「木曾の祖なりの意を以って木祖村という」
 誇らかな村当局の立て札の下手に、古ぼけた看板が見えた。
「高級シャツ特約店・一着で春夏秋冬着れる新しいハワイ・モーニング!」
 急坂を下って街道に出た。ポツリポツリと古い家が残っている。旅籠こめ屋与左衛門。何の神さまやら、津島大神の碑があちこちにある。御当地にあって木曾代官帯刀医として知られた宮川家の蔵を見せてもらった。冷々とした蔵いっぱいに諸道具や刀、蕪村ぶそんをはじめとする書画、漢詩、仏書などがおびただしく詰まっている。木曾山中にあって六代にわたり医師取締役をつとめた家の圧倒的な力のほどがうかがえた。
 これでも随分、戦時中に供出したという。エプロン姿の小柄で上品なおばあさんは、両手をきちんと前で結び、ちょっとばかしイタズラッぽく言ったものだ。
「感謝状は二枚ばかりいただきましたけれど――」
 それから私は玄関の上がりがまちで、おいしいお茶と漬物をいただいた。なぜか酔狂な旅人は、やたらとおばあさんにモテるのである。
 このあと木曾義仲の縁起でおなじみの宮ノ越は素通りして木曾福島に出た。木曾川をはさんで赤い屋根がせり上がった小さな町である。川っぺりの名代のそば屋にあがりこみ、ビールを飲んだ。それから地酒を飲んだ。すじ向かいの席に二つのエンドウ豆のようにそっくりな、禿げ頭の中年男が二人、どんなつながりにあたるのか、十七、八の娘を前にして所在なげに坐っている。若い娘は終始無言で、そのうちプイとトイレに立ったきり、いつまでたっても戻ってこない。うつ向いてハシ袋などをしげしげと眺めている二つの大きな頭と、ポツンと残されたセイロそばとが、何の意味もないというのに今なおまざまざと私の記憶のなかに残っている。
 これぞ気まま旅のダイゴ味というものだろう。あるいはそれとも土地のお酒が疲れたからだに効き目を発揮しだしただけなのだろうか。熱燗あつかんのお代わりをするころ、もうすっかり歩くのがイヤになった。見れば表は急に暗くなって、あまつさえポツリポツリと雨つぶが落ちはじめているではないか。
 旧関所町の散策は明日におあずけ。ともかく今日は少しでも上松方面に向かうとしよう。南に数キロで中仙道難所の一つ、木曾のかけはし。危いことの代名詞になり歌枕にもなったところ。岨橋そきようをわたるとき、旅人はついおもわず念仏を唱えたという。
 川向こうに桟温泉という一軒宿があるらしい。部屋からの眺めが芭蕉ばしよう折り紙つきの「桟道朝霞」。いや、町中を駆けめぐるこのトラックの列であれば、何の霞かしれたものではないが、ともあれ熱い湯につかれば、別のありがたいお念仏が口をついて出ようというもの。こうと決まれば腰はいたって軽いのである。店の自慢の二重セイロを大急ぎでたいらげて立ちあがった。すじ向かいの席の小娘は、いぜんとしてトイレから戻ってこない。前を通りすぎようとしたとき、ハゲ頭の二人がそろって頭をあげた。赤い肉のかたまりのような丸顔が二つ。
 
ほうとう記 下部しもべ温泉[山梨県]
 昔は「おはうたう」と書いたようだ。現在は、ほうとう。甲州の煮込みうどんである。信玄公由来の戦闘食ともいうが、これはどうだかわからない。野趣あふれた食べものであるところは戦闘食に打ってつけ。そのせいかテレビの連続ドラマにあやかって信玄ブームが起こっても、こちらの方は一向にパッとしなかった。
 甲州下部温泉。
 昼すぎに用事が終わったりした日など、新宿駅に特急が入ってくるのを見るとヒョイと跳びのりたくなる。中央線をまっすぐ西に走る間、みるまに景色が変化する。山また山、勝沼に出て一面のぶとう畑。身延線に乗り換えて、のんびりと南に下る。やがて下部駅。駅前からバスが出ているが、歩いてもたいしてかからない。川をはさんで山あいの狭いところに古びた温泉宿が肩を寄せあうようにして並んでいる。
 なかでも源泉館のお風呂はおすすめだろう。上にはあたたかい沸かし湯、階段を下った地下に、ほのかなぬくみをもった源泉がひろがっている。ポツリポツリと言葉をかわしながら目をつむっているのは定連客にちがいない。うす絹につつまれたようにしてボンヤリと一、二時間。いや、そもそもここには時間などないのである。時計はとっくの昔から止まったまま。
 ぬくもったのか、冷えたのか、われながらあやふやな心もちで表に出る。甲州の冬の風は刺すように冷たい。目にとびこんでくるのが「ほうとう」の看板。エプロン姿のおばさんが老眼鏡を鼻のあたまにずらしぎみにして新聞を読んでいる、そんな食堂兼飲み屋が、この食べものにはふさわしい。
 大根、ニンジン、里いも、ねぎ。要するに何でもよろしい。何を使って悪いというわけのものでもなく、あり合わせの野菜を適宜に用いればいいのだろう。お汁はこれまた、いたって手軽な普通のミソ汁。煮立ったところにでてない打ったままのうどんを入れる。ほうとうの要点は、この一点、うどんを茹でないで煮込むこと。生のまま入れると、ついている小麦粉のせいで、おつゆがトロッと特有のねばりをおびる。調理場のおばさんの手つきを見ていると、太いうどんを一本ずつ落とし込むように入れていく。でないとくっついてしまうからである。
 煮え立つ小なべを抱くようにしてすすりこむ。合間にこぜわしく熱カンで一杯、とたんに汗がふき出してくる。ハナ水がたれてくる。なぜか涙までにじんでくる。顔中おしるだらけにして至福感にひたっている。
 ふと目をやると窓の外は湯川、冬枯れの川面に次々と赤茶けた木の葉が舞い落ちている。汗とハナ水と涙のセンセイは俗のかたまりながら、これはこれで俳諧はいかい風情ふぜいがなくもないのである。
 とっぷりと昏れた下部駅にふやけぎみの体を運びこむ。待つことしばし、暖房のきいた電車がやってくる。あとはうたた寝の戻り旅。ほうとう記、あるいは、わが放蕩ほうとう記。見る人がみれば、しみったれた遠出にすぎないだろうが、当人は大満足なのだ。座席にゆったりと腰を沈め、あごに手をあて、みちたりた顔で窓外の夜景をながめている。こころなしか、その顔が福々しい。
 いま気がついたが、もう何度となく、このようなブラリ甲州ほうとうと温泉日帰り旅をやってきた。その間、一度として女性がほうとうをすすっているのを見たことがない。女性方が汁かけごはんを犬の食べものとして嫌悪なさるのは、よく知られている。ほうとうも同類というのだろうか。主食と副食とおつゆが一遍にいただけるなど、この上ない恵みというものだが、まさにその安直さがお気に召さぬのか。
 いずれにせよ――ともあれ、わが放蕩三昧ざんまいは今後とも、女っけなしに終始するしかなさそうだ。
 
温泉手帖 飯坂温泉[福島県]ほか
 某月三日
 新村出しんむらいずるの「風呂雑考」によると、中国の古いことわざに「蜀人生時一浴死時一浴」というのがある。四川省あたりの人は生まれたとき一度と死んだとき一度湯あみする。ウブ湯と湯カンのことではなく、生まれたときに一度と死んだときに一度のほか湯あみをしないということらしい。もとより俚諺りげんであって、それほど入浴を好まないといった意味だろう。
 そもそも中国語にはユ(湯)という言葉がないそうだ。湯はタウと読んで、これはふつう「汁」あるいは「あつもの」をあらわす。お湯にあたるのは「開水(カイシュイ)」といって、沸かした水と言わなくてはならない。英語のホット・ウォーター、ドイツ語のハイセス・ヴァサーと同じ。その点、わが国は太古このかたユ(湯)を使ってきた。音のやわらかさが、モヤモヤと湯気の立つお湯のやさしさを、ものの見事に伝えている。いかに温泉にめぐまれ、いかに湯を愛してきたかの例証だろう。そういえば私たちは「湯に行く」という。古人は銭湯を称してユウ屋と言った。

 某月十日
 仙台へ仕事で行った帰りに福島でおりて、飯坂温泉へ来た。鳴子、秋保あきうとともに奥州三湯とうたわれた名湯ながらなんとなく活気がない。川沿いにホテル式の宿が並んでいて、夜はそれなりに風情があるのだろうが、昼間みるとドンヨリとした川水が動くともなくよどんだきり、町全体が静まり返っている。ホテルの一つには白いカーテンが引きまわしてあって、玄関に裁判所の差し押え令状がペタリと貼ってあった。
 スーパーで入湯券を買って鯖湖さばこ湯へ行く。飯坂には町中に十カ所ほどの共同湯があるが、鯖湖湯がもっとも古い。日本武尊も入ったというから、その古さが知れるだろう。家並みが切れた一角、ちょっとした広場にあって湯小屋風の造り、屋根に唐様の湯気出しがのっている。
 黒ずんだ脱衣棚と風格のある石造りの湯舟がうれしい。まだ昼下がりながら先客がいる。ツルのように痩せた老人が目をつむって浮かんでいる。お湯は透きとおっていて少々熱め。こちらも目をつむった。極楽往生のスタイル。とたんに虚空に浮いて、からだ全体に安らかなような、不安なような、こそばゆいようなみち足りたような、待ち遠しいような全部を一つに合わしたような不思議な感覚がこみあげてくる。お湯好きにとってこよなき至福の一瞬である。
 湯上がりに川沿いの駐車場で涼んでいると、向かいは夜ごとの豪華ショウで知られた大ホテルの奥の間、和服の女性が五人ばかり、三味線のお稽古中。お師匠さんらしい人から声がとんで、何度となく弾きなおし。見れば駐車場のわきの平家に、同ホテル従業員託児所の札がかかっていて赤ん坊の泣き声がする。いながらにして山本周五郎の小説を読んでいるようなものである。そういえば、つい先だって、白石の奥の鎌先かまさき温泉に泊ったときのことを思い出した。宿のロビーで男の子が二人、段ボールをひっぱりっこしていつまでも遊んでいる。齢は五つと三つ。
「お母さんは?」
「いま、お仕事してる」
「お父さんは?」
「いない。でもこれからは番頭ばんとさんがお父さんだって」
「番頭さんはやさしいかい?」
「いたずらするとグリグリするよ」
 兄の方がゲンコをつくって、自分の頭でお仕置きをしてみせた。奥の廊下を白い割烹着の人が山のような膳をかかえて通っていく。
「あ、お母さんだ」
 幼い兄弟は口々に何やら叫びながら走っていった。
 ソバ屋でビール一本とお銚子を少し。西に傾きはじめた弱い陽差しのなかを駅にもどりかけたら「没来はこ湯」という看板が目にとまったので入ってきた。階段を下った先の木造平家建て。小さな浴舎にお湯があふれていて、だァれもいない。

 某月十三日
『今昔物語』には、天狗がケガをして京都北山のの原という湯屋で湯治をした話が見える。『宇治拾遺』では、鳥羽僧正がいたずら者のおいの手にかかり湯殿で気絶した。
『太平記』によると、高師直こうのもろなおが塩谷高貞の妻に懸想して、湯上がり姿を盗み見したらしい。湯にそまって、「紅梅の色」あでやかな体に小袖こそでがフワッとかかった。長いぬれ髪が腰まで垂れている。えもいえぬ匂いが流れてきて、
「心たどたどしくなりぬれば」――
 遠いむかしの物語の作者たちも、なかなかスミにおけない。あるいは『平家物語』にいう平重衡しげひら入浴のくだり。重衡沐浴もくよくのことは『吾妻鏡』にも出ており、レッキとした史実であって文学的作為ではないという。旧暦三月の晦日みそかというから、ポカポカあたたかい四月も末のことだろうか、やおら湯殿の戸があいて、千手の前という二十ばかりの色白の女が、鹿の子しぼりのかたびらに染つけの湯巻きというなりで入ってきたという。俳諧師いわく、
「お垢にと参れば入れぬ風呂のうち」
 いつか古今の温泉文学といったものを編んでみたいものである。できたら虚実さまざまな湯場を一つ一つまわってみたい。
 
 某月二十一日
 いずれ劣らぬ温泉好きと「温泉会」なるものをいとなんでいる。のべつ人に「また温泉かい?」と問われるのにちなんだ命名で、揃いの手拭いと木桶を持参する。めいめいが出かけるのは勝手ながら、月例一回、これは何をおいても駆けつけるという鉄のルールがある。本日、今月の月番として案内を発送。茨城県の湯ノあみ温泉。これは拙著の読者の方から御教示いただいた。常磐じょうばん線の大津港駅からバスで二十分のところにあるひなびたお湯らしい。
 むくつけき男だけではつまらない。あわせて準会員たる女性二人に案内送付。この前のように、そろって断わられたりしないといいのだが。
 
親子ばなし 小野川温泉[福島県]
「子を見る事親にしかず」というのは大まちがい。たいていの場合、子を見ること親ほど下手なるはないのであって、まずは愛情におぼれて甘やかす。当然、正札つきのバカができあがる。他人は適当にとりなすもので、親もその気になっているうちに身代のあらかたを食いつぶされ、急にあわてて勘当だの追出すだのといってみても、もう手遅れ。「進退きハまり家業にも家にも離るゝもの多し」。もしほんとうに子を見る事親にしかずというのであれば、さっさと養子に出すなりむこにやるなりして手を打っていたはずではないか――。
 奥州米沢の商人で屋号が大和屋、その隠居が書きのこした雑録集『親子咄』の一つ。文化七年(一八一〇)のもので、曾祖父そうそふのことから同じ城下の商人のこと、日常の見聞、はては火の用心の教訓まで、こまごまと記されている。『米沢市史編集資料』第二十一号に収録。先日、米沢の町はずれの小野川温泉へ行ったついでに町の本屋で買った。門外漢にもわかるように校訂され、注や解釈がほどこされているのがうれしい。すっきりとした装丁がこころよい。
「近年極貧のものに上より御恵を被レ点下、有徳のものより合力つかハす事多し。実の極貧ハ十人に壱人なるべし。大かたハ酒のミか、勝負好か、働き嫌かなどの類なり」
 大和屋は一介の古手屋からはじめて、やがて苗字帯刀を許されるまでになった。代々、聡明で働き者の当主がつづいたのだろう。六代目のとき藩の御用商人として活躍、米沢織りの大問屋となった。その六代目が『親子咄』の著者である。冷徹な商人にとって形ばかりの福祉や慈善ごとは、苦々しいかぎりであったにちがいない。
 つづいては「法泉寺の小僧、釣鐘に唇凍つきたること」。ある冬のことだが寺の小僧の姿が見えない。和尚が心配してさがしていると、鐘楼でうめく声がする。釣鐘に唇が凍りついて、身動きがならない。思案のあげく、ぬる湯をかけてようやく離した。この小僧、毎日鐘楼にのぼって「徒に釣がねのいぼを吸たりしとぞ」。
 小僧さんの齢ほどはわからない。いったい、いくつぐらいの少年だったのだろう。「徒(いたずら)に」とだけ書かれているが、はたしてそうなのだろうか。大店で何人もの手代を育ててきた隠居は、若いときにおなじみの性的兆候をちゃんと見抜いていたのではなかろうか。
 もう一つ、親の代まで繁昌はんじようしていた足袋たび屋で、酒で身をもち崩した男のこと。妻にも去られ、幼い男の子二人とわび住いをしている。しぐれ模様のある夜、酒買いを言いつけたが子がきかない。力ずくでやるつもりのところ、子はいつのまにか大きくなっていて、苦もなく親父を破れむしろにドウと投げ、大手をひろげて、さァ、どうだ、と勇み立った――。
 よくできた短篇小説を読むようなおもしろさがある。
 小野川温泉は米沢の市中からバスで三十分ばかり、のんびりとした田園地帯が山に入る手前に十数軒の宿がある。小野小町の開湯伝説で有名であって、行方不明の父をたずねて京から旅してきた小野小町が、病みつかれて倒れていたところ、薬師如来のおつげがあって湯をさがしあてた。たちどころに病いは全快、父とも無事めぐりあったとか。真偽のほどは保証のかぎりではないが、とにかく古い温泉にちがいない。尼湯、滝湯と共同風呂が二つある。まっ昼間のことで、だァれもいない。湯花をうかべた熱めのお湯が音をたてて流れている。双方にまんべんなくつかったあと、テラテラ顔で歩いていたら川っぺりに出た。ひゃっこい風が吹きあげてくる。川音のほか音ひとつしない。あたりはまるで死んだような静けさ。
 それからバスに乗って駅にもどった。電車待ちのあいだに見つけたのが『親子咄』。資料集はほかに三篇を収めている。『城下町の異人さん』というのも買った。明治初年に米沢にやってきて英語を教えたイギリス人についての本。
 特急と新幹線を乗りついで約三時間。カンビールを飲みながら読みふけった。他人からみれば、とんだ酔狂というしかないことながら、これはこれで私には、こよなく充実した日常である。
 
効能一番 あみ温泉[茨城県]
 日曜のお昼に上野駅を発った。一段と冷えこんだ冬のさなかのこと。往くほどに筑波下ろしがドッと吹きつけてきて列車の窓が轟々ごうごうと音をたてた。
 それでも水戸をすぎると辺りのたたずまいがにわかに温暖のけはいをおびだした。常磐線は明治のころは海岸線といったそうだが磯原いそはらの手前で太平洋が見えはじめ、あとはつかず離れず海岸を走って大津港から勿来なこそ、ともかくも旧関所見物ときめて勿来駅に降り立った。
 駅前の食堂で〈勿来の関ラーメン〉なるものをいただいた。シナチクのとなりに薄紅をした桜の花の塩づけが寄りそっている。いわずとしれた源義家公御歌「吹く風を勿来の関と思えども道もせに散る山桜かな」にちなんでおり、塩づけのおかげでお汁がしょっぱくても文句をいうスジではないのである。
 駅から西に約二キロ、関所跡は山道を上りつめた高台にある。みちのくに通じる浜街道を何重もの山で遮って、〈来ル勿レ〉とは絶妙な命名にちがいない。見事な歌碑もあれば眺めもすばらしいが、なにぶん山桜ならぬ雪片がチラチラ降りかかる真冬である。松の古木をゆるがして寒風が吹き上げてくる。ハナ水をたらしてタクシーにとびこんだ。
 湯の網へは以前はバス便もあったようだが、路線が廃止されて久しいのだろう、分れ道に色あせたバス停の標識が立っていた。湯宿までは、さらに山間を入っていく。いかにこれが知られざる湯治場であるか、隣り町のタクシーだったせいもあるが、運転手は分れ道で急停車して、しきりに首をひねっている。さァて、右だったか左だったか。十年ばかり前、夜に一度来たことがあるだけ。農業改良普及所の事務所までバックして、右をまっすぐと聞きおよんだ。
 かなり走って、さらに現われた分れ道に小さな標識が立っていた。正確には北茨城市関南町湯ノ網といって、宿が二軒、それぞれが上の湯、鹿の湯という。源泉が別らしい。がっしりとした農家風の二階家の白い障子がまぶしいのだ。
 手入れのいい裏庭づたいに古色蒼然とした渡り廊下があって、それぞれの棟と結んでいる。おばさんが火鉢の炭火を運んできた。石油ストーブもあるにはあるが、庭とへだてるのは引きまわしの障子戸で部屋は一向にあたたまらない。コタツを抱くようにしてひと息ついた。
 炭火の火鉢に、鉱泉はまきでわかす。といって別段、古式を気どっているのではないことは、宿の夫婦をひと目みればわかる。裏山で薪がとれ、これは石油とちがい自家産出で無尽蔵。話好きのおばさんは言った。
「みなさん、大変だろう、大変だろうとおっしゃいますが、でもこれがいちばんラクなんですよ」
 古風なタイルをはめこんだ浴室の天井は高い。お湯は鉄分のせいで赤味をおびている。冷えた体に刺すような快感が走って、全身に気が遠くなるほどの恍惚こうこつ感がこみあげてくる。わが温泉行の至福の時である。湯気出しの天窓に見える空が昏れかけていた。
 旅のたのしみは、もう一つ、土地土地の食べものということになるのだろうが、こちらはあいにくと、その方にさっぱり関心がない。何であれ、おいしくいただくだけの修業をつんでいる。事実、何であれうまいのだ。焼き魚に水戸納豆、サト芋の煮っころがしに山菜の盛り合わせ。たっぷりお酒を飲んでトイレからのもどりに庭をながめていたら、ガラリと浴室の戸があいた。ハゲ頭でいかり肩のじいさんが、丸めた浴衣を手に下げて、長い廊下をまっ裸でやってくる。肩の手拭いが白い湯気を立てている。
 身に覚えがあるが、ほてった体を冷気がチクチクとなぶりにきて、このスタイルはなんとも心地いいものである。古漬けのナスのようなじいさんの一物が、こころもち赤らんでいる。悠々と前を通りすぎ、ゆっくりと渡り廊下をわたっていく。そのうしろ姿を、ひとしきり私は羨望せんぼうをこめて見送っていた。
 翌朝、一番風呂をあびたついでに温泉鑑定書きをながめていたら、効能一番に「脳」とあった。
 
さらば、鞍馬天狗 黒湯くろゆ温泉[秋田県]
「寄らば切るぞ」
「何をこしゃくな」
 ロ三味線でチャンチャンチャン、チャチャチャンチャーン。二人してふとんの上で走りまわっているのだろう、ひとしきりドタバタ鈍い音がしていた。
「いざ、さらば」
 小さな足音が踊るように縁側を走っていく。階段のところで「アカンベー」をしてから、何やら叫びながらドドドドッと走り下る。
 とたんに辺りが静かになった。
「ファーイ」
 あくびが聞こえてきた。ふとんの上に横になったのだろう、ドタリと倒れる音がして、さらにたてつづけにあくびが三つ。
 木の引き戸で隔てただけの部屋である。咳払せきばらいから歯ぎしりまで、まる聞こえ。孫をつれた老夫婦と若い嫁。話のようすでは三日前に来たらしい。おばあさんと嫁と四つばかりの女の子が、つい先ほど、ぜんまいを摘むとかいって出ていった。
 下で男の子の声がする。しきりに名前を呼んでいる。どこからかカン高い女の子の声が答えた。ズック靴が一目散に走っていく。
「ファーイ」
 またしても隣りからあくびが聞こえた。
 秋の初め、ここは秋田の黒湯温泉。
 岩手県と秋田県との県境に乳頭山といって一五○○メートルに近い山がある。なだらかな稜線りようせんをもち形が乳房に似ているところから、この名前がついたという。その乳頭山の西側、先達川の上流に沿っていくつもの温泉がある。ひっくるめて乳頭温泉郷。孫六や鶴ノ湯、蟹湯など、いずれも一軒宿の温泉が点在していて、もっとも奥にあるのが黒湯。
 渓流沿いの窪地くぼちかやぶき屋根の棟が並んでいる。名物の「打たせ」は雑誌のグラビアによく使われるところで、こぶのある丸太を四隅に立てて簡素な屋根をのせただけ、足元に厚い板がわたしてある。木のといからとうとうとお湯が落ちてきて、うっかりすると弾きとばされそうな勢いだ。昨夜、寝る前の按摩あんまがわりにあびていると、かたわらで腹の突きでたおやじさんがおチンチンを両手で持ち上げるようにして打たせていた。「きき目があるかもしれない」ということだった。
 素朴なあずま屋風の屋根をもった露天風呂もある。とにかく湯量がものすごい。どこからどのように湧いて出るのか。
 チャンチャチャチャン、チャチャチャンチャーンつぶやくような声で口三味線、あいまにひときわ大きなあくびがまじる。ごま塩の頭を三分刈にしたじいさんとは、夕方の露天風呂で一緒だった。朝風呂でも出くわした。顔はしわくちゃだが、身体はいたって壮健で、お湯から出るときには背中がピンとのび、陰毛が黒々としげっていた。
 嵐寛寿郎の鞍馬天狗、大河内伝次郎の丹下左膳――ふとんに寝そべった同士で引き戸ごしに話しかけたいようなものだった。ああ、懐かしいチャンバラ映画!
 鞍馬天狗は黒覆面をしていた。単なる覆面ではない。頭のところに特徴があった。黒覆面のてっぺんがイカの頭のようにとんがっている。今にして思えば、針金か何かで添え木のようなものを作り、それを頭にのっけた上から黒い帯を巻きつけていたのだろうが、子どもにはそんなことはわからない。入念に風呂敷を折って頭にのせても、すぐにグンニャリと横に崩れて、大黒様のシャッポのようになってしまった。
 丹下左膳は片目片腕である。片腕については問題はない。片手をそでから抜くと脇をすぼめてぴったり腹に押しつける。その上から友達に上着のボタンをとめてもらう。中身のない片袖がたよりなげに揺れている。急に身体のバランスが狂った工合で、むずがゆいような快感がこみあげてきた。
 片眼の方はやっかいだった。片方の眼の上下に、はすっかいに炭で棒線を入れる。目をつぶれば線が合わさって黒い刀傷になるはずだったが、肝心の目をつぶるのがむずかしい。顔をしかめて片眼を閉じていても、そのうちまぶた痙攣けいれんをはじめて、ついついひらいてしまう。仲間のうちの物知りの話によると、大河内伝次郎はニカワで瞼をくっつけているということだった。
「ニカワかあ」
 セメダインではどうか、という者もいたが、言下に否定された。セメダインには毒が入っていて、めると死ぬ。目に入ると目がつぶれる。何の根拠があったわけでもないのだが、私たちはそう信じていた。
 苦心がいったが、それでも丹下左膳は鞍馬天狗についで人気があった。第三位は荒木又右衛門。又右衛門だと手裏剣が使えるからだ。おでこに手拭いで鉢巻きをして、そこに竹トンボの羽根をずらりと差しておく。何人かに囲まれて進退きわまったとき、目にもとまらぬ早業で手裏剣を引き抜く。
「エイッ」
「ヤッ!」
 指先で軽くつまんで掛け声と同時に引き抜き、ヒューと投げる。練習のかいあって、けっこう正確に命中させることができた。
 めったになかったが机竜之助を買って出る者がいた。これはたいして人気がなかった。名前の「机」というのが学校を思い出させて落ち着かない。それに盲目の剣士ときている。秘剣「音無しの構え」とはどのような構えをいうのか、いくら頭をしぼっても見当がつかない。めったやたらに棒切れを振りまわしているうちに息が切れてヨロヨロとふらついた。

 隣りの部屋が静かになった。かすかに寝息が聞こえてくる。サヤサヤと障子をふるわして冷やっこい風が吹きこんできた。古風な手すりごしに、よく晴れた秋空がのぞいている。
 今はこんなにひとけがないが、野良仕事にひと区切りがつく七月や紅葉のころには、いくつもの湯治棟が一杯になる。
 冬場は雪に埋もれる。人々は宿を閉じて里に下る。
 それもこれも隣りから聞こえてくる孫と祖父母の会話で知ったところである。
「雪でおうちがこわれたら?」
 女の子がたずねた。
「こわれっぱなしで新しいのを横に作る。その方が早い」
「まわりに木がどっさりあるもんね」
 と、これは男の子。乳頭山一帯はブナやナラの森林で知られている。
 老夫婦のいうとおりなのかもしれない。かなりの広さをもった窪地に湯治棟や湯小屋が、てんで勝手な向きをとって散らばっている。なかには廃屋のようなものもある。どの建物も毎年、位置が変わるのを見こしたように、丸い石を並べた上に乗っており、ドンと押すとゴロゴロすベっていきかねない。
 風にのって硫黄の臭いが流れてきた。湯小屋との間に湯畑といった風のものがある。さいの河原のように石がむき出しで、湯けむりをたてながらフツフツと熱湯がたぎっている。かたわらに雄大な金精様こんせいさまがニョキニョキと立っている。
「ヘンなにおい」
 と女の子。するとおばあさんが言ったものだ。
「ひと息吸うと一生長生き」
「百息吸うと百年長生き」
 若い母親がつづけた。
「ヘエー、百年も」
 と、女の子。
「ほんとうかなあ」
 母親が急に思い出したように、
「お父さんも来るとよかったのにね」
 昨夜来の話では、父親は青森へ車のセールスに出かけているらしかった。
 そのあと、パジャマ姿の孫たちは手すりに寄っかかって、たがいに数をかぞえながら深呼吸をしていた。
 建物全体が忘れられたように静まり返っている。ひと浴びしてから出かけるとしよう。そう思うことは思うのだが、なかなか立ち上がる気にならないのだ。そんな自分への言いわけのように、しかつめらしくあれやこれやを考えたがる。
 そのうち、うとうとしたのだろう。隣室のにぎやかな声で目が覚めた。縁側に新聞紙をひろげて、摘んできた草や花をよりわけているらしい。
 昼近くにボストン・バッグをぶら下げて部屋を出たとき、若い母親と顔が合った。彼女はぜんまいのようなものを手にもったまま、「子どもがうるさくしまして」といった意味のことをなまりまじりのことばで言って、滑稽こつけいなほど深々とお辞儀をした。
「バイバイ」
 暗い戸口を出たとたん、元気のいい女の子の声が降ってきた。
「いざ、さらば」
 石を埋めた急な坂道を上っていく間、手すりに身をのり出して叫んでいる子どもたちの声が聞こえていた。私は二、三度、足をとめて手を振った。杉作少年と別れる鞍馬天狗のように、と言いたいところだが、実際は湯疲れしたところに急坂で、息が切れたせいである。
 
ガラメキ温泉探険記[群馬県]
 台風が近づいていた。
 八丈島は暴風雨圏に入ったという。そのせいか、ここ上州の空も雲行きがあやしい。青空がのぞいたかと思うと、たちまち黒雲が走って大つぶの雨が落ちてくる。何やら前途を暗示するようなお天気である。
 上州は榛名山麓はるなさんろく。正確には群馬県北群馬郡榛東しんとう村山子田。前日の夕方、民宿「しおざわ」で落ち合った。明日は幻の湯をもとめて榛名山の前山にあたる相馬ガ岳に登る。心なしか全員に緊張の表情が見うけられた。いでたちからして異様である。リュックに登山帽に運動靴。なかにはヤッケやポンチョ持参の重装備の人もいる。とても温泉につかりにきたといった雰囲気ではない。私は念のために愛用のステッキをたずさえてきた。
「しおざわ」のご主人塩沢利雄さんが、さしあたってのたよりである。ご親切にも榛東村の特大地図を用意くださった。夕食のとき、おいしい地酒をいただきながら地図をまわしあって作戦会議をひらいた。そのうち酔っぱらって、ウンもくもなく寝てしまった。
 朝五時。早起きの私は床をけった。すぐ近くに村のおやしろがあると聞いている。武運長久、かつはこのたびの探険の無事を祈ってこようというのである。庭に出ると、前方に赤城山が見える。雄大な裾野すそのがカミソリで裂いたように朝の空をよぎっている。お天気ぐあいが、いま述べたようなぐあいである。あわただしく雲が走って、とたんに赤城山が消え失せた。
 村社は常将つねまさ神社といって、さる武将をまつるものだという。入念におまいりをして境内から出てくると、角の雑貨屋の店先に、いかにも人の好さそうなおばさんがホウキの手をやすめ、もの言いたげに立っている。民宿にきたのか、民宿に眼鏡にヒゲづらの男が泊っていないか、と言う。あきらかに私の相棒T氏のことだ。このたびの探険の隊長をつとめる人。どうやら昨日、ここで道に迷い、雑貨屋でたずねたらしい。
「どこから来たのか」
 おばさんの質問は警察の尋問調になってきた。
「何しに来たのか」
「温泉に入りにいえ、まあ、温泉があればの話ですが
 つい口ごもった。おどおどした答え方がますます不審をかったようだ。
「伊香保じゃないの?」
「伊香保じゃないんです。ガラメキ――ガラメキ温泉――」
「ガラメキ温泉?」
 おばさんはいっそう、けげんそうな顔をした。目がキラッと光る。私は蚊とり線香を一箱買い求め、逃げるようにして民宿にもどった。
 ふつう片カナでガラメキと書くが、平ガナのときは「がらき」などもてたらしい。漢字では「我楽目嬉」。
 明治のころ、ちゃんとした湯宿があった。明治三十五年発行の『伊香保温泉場名所案内』では、漢文調で「往古人皇十四代仲哀天皇の御宇発見し遠近の老幼入浴し効験の著しき事を知れり」などと、もっともらしい口上のあとに、「鉱泉旅舎は阿蘇山館、富士見館、扇屋等にして夏季に至れば都鄙とひの浴客最も多し」と記されている。
 大正七年の『伊香保案内』によると、「相馬ヶ岳の東南の麓にガラメキ鉱泉といふのがある。村の人は唯ガラと呼んでゐる。『ガラに行つて来ャす』などと言って出かけていくのが例になつてゐる」。
 阿蘇山館、富士見館などの旅館があり、富士がよく見えるとか、池に鯉やはやをたくわえていて、それを食膳しよくぜんに出すとか、山の中で感じが変わっていて面白いところだから一晩とまりぐらいで出かけるとよろしかろう、といったことが書いてある。これも大正年間のものらしいが、「上州相馬山がらめき鉱泉場真景」という一枚刷りがあって突兀とつこつとした峰の下に棟を並べて立派な宿があり、〈中村〉と染めぬいた旗がヘンポンとひるがえっているのである。
 しかし、もはや跡かたもない。「いま、どのような『全国温泉案内』をひらいてもガラメキ温泉は出てこない。一体どうしたというのだろう? 五万分の一に記されているところをみると源泉がとだえたわけでもないらしい。だが、〈都鄙の浴客〉はもとより、軒を並べていた旅館がすべて煙のように消え失せた。はたして何があったのか?」
 
 朝十時。くもり、のち霧雨。
 塩沢さんの車で出発。相馬ガ原を横切るようにして北西に進む。榛名山の広大なすそ野で、標高は三三〇メートル。地質学的にいうと火山性の泥流が固まったもので農耕に適さない。江戸のころは、もっぱら馬のまぐさ場。この一帯に馬のつく地名が多いのはそのせいだろう。黒々と点在するのが杉やヒノキ、ミズナラなどの雑木林。
 やがて県道箕郷みさと—榛名線に入って北上、運転しながら温厚な塩沢さんがとつとつと話してくださる。この高原に陸軍の演習場がおかれたのが明治四十三年、高崎の第十五連隊が使用した。戦後、アメリカ軍が接収し、山林を含めて一帯を演習場にした。この間に起きたのがジラード事件。いま中年あるいは中年以上の人は覚えがあるのではあるまいか。昭和三十二年(一九五七)のこと、ジラードというアメリカ兵が日本人農婦を射殺した。朝鮮戦争のあとの第二次特需景気、いわゆるかねヘン景気のさなか、薬莢やつきようをひろっていたおばさんを、若いアメリカ兵が遊び半分にズドン。
 裁判権をめぐって日本中がいきり立った。よく覚えている。ともに「中年あるいは中年以上の人」である温泉会メンバーは、塩沢さんの話に粛々と聞き入り、くやし涙にくれた少年時代のことを思い出していた。
 十時二十分。霧深まる。
「キャンプ場入口」の標識のところで県道をすてて林道に入る。数日来の雨で道が荒れており、沢が川のように流れている。まもなく通行止。危険につきの立札と並んで踏切りのような遮断機が下りている。塩沢さんと別れて、われわれだけが進むことになった。私は考えていた、もし事故でもあれば――女房は泣くだろう、同僚は怒るだろう、世間は笑うだろう。温泉道楽のために民宿のご主人まで巻ぞえにはできないのである。
 横なぐりの雨になった。めいめいが身ごしらえをして歩きだす。しばらくはゆるやかな坂道。高度をあげるたびに林と道の荒れぐあいがひどくなる。道のまん中に大きな石がゴロリと転がっている。足跡はまるでない。
 暗い杉林の入口に立札があった。この奥に龍神がまつってある。大正十三年、上州一円が大旱魃かんぱつにみまわれたとき、ここで水乞いをしたという。
 十時四十分。雨少し弱まる。おそわってきたとおり、沢がもう一つあった。これまた川のようにひろがって流れている。やがて林道にきた。つづいてまたもや道が分かれている。これは聞いていなかったことで、そのつど協議して前進する。
 十一時。急坂にかかった。風があるのはいいのだが、霧雨が巻くようにして顔に降りかかってくる。傘をかざすと前が見えない。雨と汗でぬれそぼりながら這うようにして登りつづける。
 先頭を歩いていた隊長が力強く言った。
「温泉の匂いがする」
「する、する」
 副隊長が同意した。なるほど、言われてみれば、辺りの空気が微妙に変化したけはいがしないでもない。なにやらすがすがしいのだ。期待で胸がふくらむ。疲れがウソのように消えて元気百倍、背丈ほどもある夏草を分けて登っていった。それにしても昔の浴客はゲタやわらじで、こんな急坂を歩いてあがったのだろうか? 「あっ、行き止まりだ!」
 悲痛な声がした。目の前が削りとったように落ちこんでいて、下に堰堤えんていがあるばかり。道は蛇の尻尾しつぽのように細くなって堰堤の手前で尽きる。
「さっきの分岐点で右に行くべきだったんだなァ」
 力強く〈温泉の匂い〉を断言した人がなさけなさそうに呟いた。一同、雨と汗にまみれた顔を見合わせた。それから登ってきた道をトボトボと下っていった。
 それから二度ばかり分かれ道にきた。こんどは入念に見定めてから決断した。視界がしだいに閉ざされてきて、あたりが暗くなってきた。風で木がゆれるたびに音をたてて雨つぶが落ちてくる。一同だんだん口数が少なくなってきた。
 三叉路に来た。そっくり同じような道が三方に走っている。どれも、これといった決め手がない。途方にくれた顔を見合わせながら、慎重に協議した。三人がそれぞれ一つを受けもって、見きわめがついたら、必ず分岐点にもどってくること。
 ヒゲの隊長は下手にくだった。ギョロ目の副隊長はまん中の道。ヒラのこちらは上手かみてにとりつく。
 一人になったとたん、急に心細くなった。道に迷い、さまよったあげく、全員山中にはてた探険隊の悲劇。むかし読んだ冒険小説が頭をかすめた。
 かなりの坂をのぼりつめると平坦へいたん地に出た。左に古びた石垣がある。右にも石組みのあとがある。あきらかに人家の跡だ。胸が早鐘を打ちはじめた。声が出かかったが、はやる心を押しとどめ、石垣に上がった。さらに上にも石垣、その上にも、もう一つ。かつての道のあとらしいくぼみがつづいていて、落葉がつもっている。そこを進むと小さな沢に出た。辺りはれがたのようにうす暗い。うす暗がりの中に石柱が一つ。その下にまん丸いコンクリートの穴があって、鉄のふたがのっている。駆けよって蓋の把っ手に両手をかけて横にずらし、すきまから手を差し入れた。あたたかい!
「オーイ」
 おもわず声が出た。
「あったぞォー! ガラメキ温泉を見つけたぞォー!」
 小学校の運動会以来、たえてなかった大声で呼びつづけた。

 榛東村の村役場にある「温泉源泉台帳」によると、正式の所在地は北群馬郡榛東村大字広馬場字ガラメキ。所有者は大蔵省、つまり国有林の一角にあるわけだ。昭和四十九年の群馬県衛生研究所の検査報告によれば、泉温三〇・五度、無色透明、クロールソーダー、硫酸、塩水などを含む。明治三十一年、田中孫三郎、中村平作など五名が相馬温泉組合を設立、一口十五円の証券を発行。当時、御料地だったところを借地して開発したとあるが、源泉のすぐ下に大黒天の碑があって、そこには「明治二十一年・湯元・松本福次郎」とある。さらに石垣の上方に小さなほこらがまつられていて、そこにも明治二十一年の年号とともに「ガラメキ温泉」とはっきり刻まれている。温泉自体は、その前から使われていたのだろうか。伊香保近辺にあって山深いおもしろさから、それなりの発展をみたことは『伊香保案内』からもわかるとおり。
 では、なぜそれが「幻の湯」になったのか。石垣の上に軒を並べていた湯宿が、どうして煙りのように消え失せたのか?
 昭和の歴史のとばっちりをくったわけだ。昭和二十一年四月、アメリカ軍の進駐にともない、相馬ガ原全域が演習場に指定された。俗にいう「赤線」によって線を引かれ、いやも応もない、ガラメキ温泉は短期間のうちに強制立退きを命じられた。朝鮮動乱のさなか、かつて浴客がのんびりと歩いていた林野に演習用のミサイルがとびかった。ジラード事件が起こったのは、こんな状況下のことである。
 やがてアメリカ軍が撤収して赤線は解除されたが、ガラメキには石垣がのこったばかり。そのうち旧組合員が復活陳情を行ったが成功せず、いつしか温泉は忘れられた。いわば「昭和史のなかの温泉」と言っていい。歌ばかりでなく温泉もまた世につれて思ってもみなかった運命をたどるようだ。
 そんなことに思いをせたのは、ずっとあとになってからのことである。夢にまでみた幻の湯が目の前にある。いざ、お湯に入って感激にひたろう! さっそく、めいめいが木の桶をとり出した。温泉会の名前入りで、何はおいてもこれは持っていく。
 いぜんとして雨が降っている。すぐ横が沢。そんなところで、どのように脱衣したのか、われながらわけがわからない。全然おぼえていないのだ。よほどコーフンしていたのだろう。発見者の特権ということで、かたじけなくもまずはヒラが入る。コンクリートの端に両手をかけて、そのままズボンと入った。足の下に岩があって、胸のあたりまであるなまぬるいお湯で、むき出しの肩に雨つぶがあたる。
 記念写真をとった。
 いい忘れていたが、このたびの探険には、記録係の女性が一人、影のようにつきそっていた。カメラマン兼記録係兼現場証人である。そんな女性の前で、あられもなく全裸になったわけだ。心やさしい彼女は目を覆いつつ、にこやかにシャッターをおしてくれた。
 お尻にそっとさわるものがある。ビクッとした。また一つ、そっとさわる。ヘビ!? ハッとして、こわごわ目をやったが何も見えない。ひとり身もだえているとも知らず、あとの二人は、「どう? 湯かげんは」などと呑気なことを言っている。もう一度目をやるとプカリと泡が一つ。なんだ、そうか。長らく人の入らなかった湯壺が、人のけはいで泡立っているのだ。
 つづいて隊長、副隊長が順に入った。入っているぶんには人肌程度にあたたかいが、外に出ると冷っこい。そこで狭いところに三人でひしめきあった。
「みつかりましたか」
 声がして、塩沢さんのニコニコ顔がのぞいた。一度、帰ったが、やはり道のことが気になって、あとを追ってきたという。
「よかったですね」
 タバコをすいながらひとしきり、隊員の喜びぶりをながめてから帰っていかれた。安心して――それにたぶん、あきれてだろう。

 十三時出発。なごりをのこしつつガラメキ温泉をあとにした。来るときは気づかなかったが、途中の道を少し入ったところに「牛祖奇神 馬頭祭尊」と刻んだ碑が立っている。そのあたりに旧道があったのかもしれない。
 足どり軽く林道を下って、通行止の遮断機のところに出た。おりしも雨があがり、雲間から抜けるような青空がのぞいている。吹く風がこころよい。そのときの昼食は民宿でつくってもらったふつうのおにぎりだったが、そのうまかったこと、いっきに食べおわってひと息ついた。
 この日、祝賀と慰労の会をかねて四万温泉に泊ることになっていた。午後おそく、車が吾妻線沿いの道を走っていたときのこと、
「あっ、にじ!」
 記録係の女性が叫びをあげた。
 そう、虹だった。まちがいなく虹だった。雨あがりの空に、クッキリと七色の虹がかかっていた。何かひとこと言いたかったが、誰もが気はずかしく思ったのか、「ああ虹だねェ」、「ウン、虹だ」などと、たあいない呟きをもらしながら雨の空をながめていた。
 
ついすみか 田沢たざわ温泉[長野県]
 信越線の上田から青木行のバスに乗る。終点で村営バスに乗り換える。接続がなければ歩いても大してかからない。ゆるやかな坂道を上っていく。三方は山、途中に神社がある。延喜式にも出ている古いおやしろだ。少し荒廃ぎみなのがいい。さらに上っていくと道が狭まって、両側にがっしりした木組の古めかしい宿が数軒。数も名前も昭和初年発行の『温泉案内』にみるのとまったく同じである。以来、まるで変わっていないのだろう。共同湯を通りこすと家並みが切れる。その先のちょっとした高台に小ぢんまりした薬師堂が立っている。
 長野県小県ちいさがた郡青木村田沢。遠からずわが「終の栖」となるはずのところである。
「なるはず」というのは、ほかにもいくつか意中の温泉があって、もしかすると気が変わるかもしれないからだ。しかし十中八九、変わらないだろう。それというのもこの田沢温泉は、自分がひそかに「終の栖」用に考えている条件を、ぴったり満たしている。欲深いと笑われるおそれもなさそうなので書いておこう。

 一、共同湯があって、いつでも入れる。
 一、湯量が豊富でドンドン湯舟にあふれている。
 一、近くに渓流があって、たえず水音がひびいている。
 一、山を背にしていて東にひらけている。
 一、バスの便で町へ出られる適当の遠さ。

 以上である。食べものは問わない。おいしいものは、たまに食べてこそうまいのだ。
 ただこれだけの条件であって、この点、別に田沢温泉にかぎらないだろう。だが少なくとも信州のこの小さな湯治場は、条件の満たし具合がすこぶるいい。共同湯には「有乳うちの湯」の名前がある。昔、山姥やまうばがお湯につかって坂田金時を身ごもったという伝説があり、別名子宝の湯。乳の出ない母親に霊験あらたかだそうだ。当方にはかかわりのないことながら、効能著しいのはお乳の出具合だけではあるまい。現に土地の男性だが、「日頃の感謝をこめて」脱衣所に手製の脱衣箱をかつぎこんだ。
 その立派な脱衣箱の前で裸になる。窓から朝陽が斜めに差しこんでいる。澄んだお湯が湧くようにして流れこむ。誰もいない。遠くで笑い声がする。いや、水音だ。川の音がもつれあって、にぎやかなさんざめきの声のようにひびいている。宿のすぐそばを下手の田沢川にそそぐ渓流が走っている。一晩中、水音を聞いていた。夢うつつのなかで雨かと思った。雨戸をあけたとたん、痛いような陽光がとびこんできた。視覚の反応に意識がとり残されて、まっ白い紙のような空白の一瞬がある。あの一瞬がまたいいのだ。とみるまにクルリと世界が転換して位置が定まる。
 目の下に塩田平しおたたいらがひろがっている。北へ行くと修那羅しよなら峠、奥まった山肌に稚拙なつくりの数百の石仏がひっそりと並んでいる。さらに行くと旧善光寺道の宿場町麻績おみの里。南に向いて山道をこえると沓掛くつかけ温泉、さらに行くと別所温泉。「信州の鎌倉」といった名称はともかく、風格のある寺々がいくらもある。バスに乗って上田へ出れば映画館がある。本も買える。おいしい珈琲コーヒーものめる。城址じょうし公園のベンチで昼寝ができる。――といったわけで、つい先だっても田沢温泉へ行ってきた。下見のつもりがなくもない。青木村は長らく、無投票多選日本一の村長で有名だった。その村長サマがせっせと村づくりに励んだせいか、なるほど、福祉や厚生施設の立派なこと、東京などの比ではない。
 春のさなかの日曜日だった。村で総出の勤労奉仕の日でもあるのか、麦わら帽をかぶり、腰に縄を巻きつけ、鎌をもった人がつれだってのんびりと歩いていく。そういえば中学生のころ、病気で寝たきりの父のかわりに何度かそんな作業に出た。中間テストのことを気にしながら、仏頂づらで鎌をもって家を出た――。お堂のそばにしゃがんで、ボンヤリとそんなことを考えていた。撫でるような風が吹いてくる。新緑がまぶしい。話し声がゆっくりと遠ざかる。とたんに再び、はじけるような川音がもどってきた。


文庫版のためのあとがき

諸病無病


 ときおり、からだがへんなぐあいになる。頭痛がして、のどがかわいて、胸苦しく、下腹が痛んで、腰が重く、足がだるい。気分はむろん、うっとうしい。医者はどういうか知らないが、私はこれを「湯ぎれ」と称している。お湯がキレた。ガソリンぎれの車と同じく、ものの役に立たない。すぐさま万障くりあわせて温泉へ行く。お湯につかるとウソのように万病がなおる。
 こんなへんな病気は自分だけかと思っていたら、ほかにもいた。嵐山光三郎という役者みたいな名前の人で、鼻の下に風格のあるヒゲをはやしている。笑うと目が糸のように細くなって、赤子とそっくり。ふだんは空トボケたなかに精悍の気を蔵している。それもこれも、ひとえに温泉のお加護によるらしい。
 ときおり顔を合わせて、ひそひそとことばをかわす。最近見つけた、とびきりの温泉のこと。いい湯には、素朴さのなかに品格めいたものがあるものだ。
「仲居がコーシャクをするのはダメね」
「ジロリとお客の品定めをするようなところはいけません」
 光三郎先生によると、温泉というのは地球の生命力そのものであり、そういうお湯につかって生きる力をいただくのだそうだ。
 とりわけ秋から冬にかけてがいい。旅の途中でフラリと立ち寄る。湯殿いっぱいに湯水の音や桶の音がひびいている。
「アー、極楽、極楽――」
 声には出さねど、かたわらのじいさんと同じ呟き。人はこのように地上に極楽を見つけ、疲れを癒やしてきた。からだを使いつくしてボロボロにしてはならない。湯につけてやわらかくする。やがてお湯とヒフとがぴったり一つになる瞬間がくる。陶然とした酔いごこち。あれは畳のウラ返しと同じで、からだもまたそんなふうにして新しくなる。

 二十代は、もっぱら山に登っていた。三十半ばで温泉に開眼かいげんした。温泉をめぐるエッセーを書きはじめたのは四十になってからである。JTBに安藤典子という可憐な人がいて、わざわざスペースを用意してくれた。彼女は、これまでなかった紀行記だといってほめてくれた。河出書房に福島紀幸という豪胆な人がいて、本にまとめるといいだした。そんなふうにして『温泉旅日記』ができた。書きたしの最後の原稿は、まとめ役にちなんで福島の温泉に出かけ、装丁方の田淵裕一立ち会いのもとに手渡された。それから夜っぴいてお祝いをした。
『ガラメキ温泉探険記』に出てくるメンバーは、それ以来の面々である。ひところは「温泉会」などとハンコを捺した木桶を背中にしょって、日本国中を右往左往した。
 あれからずいぶんになるが、いまにいたるまで温泉に飽きることがない。むしろますますたのしさが深まっていく。蒼茫と日が暮れるころ露天風呂につかっていると、しみじみと感じたりする、地から湯が湧いてくることの奇妙さ。フシギの力があってのことにちがいない。それはしばしば魔性をおびて、人をとりこにしかねないのだ。ある温泉に三年来、居つづけの人がいた。どうしても温泉から離れられない。家に帰っても、すぐまた鳥のように舞いもどる。とうとう夫婦で住みついてしまった。
 温泉はたいてい、その土地のヘソにあたるところにある。地下から湧き出るフシギの水は、ながらくその地の風土や人々と生活をともにしてきた。霊泉をつかさどる神がいて、湯あみの好きなホトケがいる。お湯をたのしんだら、ついでに近くをブラつくのをおすすめしよう。思いがけないところに温泉寺とか温泉神社があったりするものだ。先日、そんなところで古い額を見つけた。
  温泉の湯に入相いりあいの鐘の音
   諸病無病とひびくなりけり

   一九九六年八月

池内紀



 この作品は『温泉旅日記』(1988年10月河出書房新社刊)と『ガラメキ温泉探検記』(1990年10月リクルート出版刊)をもとに再編集しました。

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