もくじ

会津の雨 木賊温泉[福島県]

忠治も来た 鳩ノ湯[群馬県]

小さな町 矢野温泉[広島県]

五七調の旅 鹿沢温泉[群馬県]

ふるさと再訪 塩田温泉[兵庫県]

湯の町エレジー 籠坊温泉[兵庫県]

眠る町 春日温泉[長野県]

なおしてくるぞと 寒の地獄[大分県]

片目の魚 温湯温泉[青森県]

夢を売る 湯涌温泉[石川県]

パンツはつけるな 入之波温泉[奈良県]

風呂で選べ 河内温泉[静岡県]

ジッと見ろ 沢渡温泉[群馬県]

月を仰ぎつ 滑川温泉[山形県]

ステッキ突いて 渋温泉[長野県]

化ける 塩原温泉[栃木県]

先人に学べ 栗野岳温泉・新湯温泉[鹿児島県]

即身成仏 岩室温泉[新潟県]

人には愛を 峩々温泉[宮城県]

庭をながめて 熱塩温泉[福島県]

夜明けにひとり 塔之沢温泉[神奈川県]

一本締め 山代温泉[石川県]

ちんちん千鳥 草津温泉[群馬県]

川端さんの宿 湯ヶ島温泉[静岡県]

月見風呂 不老不死温泉[青森県]

仙人杖 日光沢温泉[栃木県]

天国への階段 伊香保温泉[群馬県]

お告げの湯 佐野温泉[福井県]

人魚を食う 河内温泉[福井県]

白と黒 小天温泉[熊本県]

お湯争い 城崎温泉[兵庫県]

風の町、風の里 越中山田温泉[富山県]

放浪記 東京の温泉[東京都]

銭湯巡り 上野・根津・谷中界隈[東京都]

汽笛一声 熱海駅前温泉[静岡県]ほか

おらあ三太だ 道志温泉[山梨県]

才市の里 温泉津温泉[島根県]

正月・二月・三月 伊賀温泉[三重県]

駅ヨリ五里二十丁 嶽温泉[青森県]

龍はいるか? 龍神温泉[和歌山県]

札所巡り 松葉川温泉[高知県]

饅頭こわい 有馬温泉[兵庫県]

木曾きまぐれ気まま旅 桟温泉[長野県]

ほうとう記 下部温泉[山梨県]

温泉手帖 飯坂温泉[福島県]ほか

親子咄 小野川温泉[福島県]

効能一番 湯の網温泉[茨城県]

さらば、鞍馬天狗 黒湯温泉[秋田県]

ガラメキ温泉探険記[群馬県]

終の栖 田沢温泉[長野県]


池内紀(いけうちおさむ)

1940年 兵庫県に生まれる
日本の独文学者、エッセイスト

池内紀(いけうちおさむ)

1940年 兵庫県に生まれる
日本の独文学者、エッセイスト

温泉旅日記

池内紀
会津の雨 木賊とくさ温泉[福島県]


 会津若松から会津線で一時間半ばかりのところに田島という町がある。むかし、会津西街道の宿場町として栄えたそうだ。そういえば古い家並みがよく残っている。旧郡役所の建物だったというシャレた木造の洋館があって、民俗資料館になっている。土地の総領社である田出宇賀神社は、七月にひらかれる祇園ぎおん祭で有名だ。会津の山里に、どうしてみやびやかな京風の祭礼があるのか。たぶん、落人伝説とかかわりがあるのだろう。田島郷のあちこちに平家落人の里といった言い伝えがある。この奥の秘境檜枝岐ひのえまたは、村ことばに独特のなまりがあり、上方風の素人歌舞伎を伝えている。
 もっとも私が行ったのは五月半ばのことだ。参道の奥の白い鳥居がすっきりと美しい。うしろからうっそうとした老木がかぶさっている。雨が降っていた。人っこひとりいない境内に大つぶの雨が音をたてて落ちていた。れそぼったノラ犬がこころぼそげにすりよってきた。
 町にもどってしんごろうもちというのを食べた。竹のくしにさしてあって炭火で焼く。甘みそをつけて食べる。
 それから一日一便のバスに乗った。バスは山裾やますそを縫うようにして走りつづけた。このまま永久に走りつづけているのではあるまいかと思うほど走って、やっと木賊温泉に着いた。正式には福島県南会津郡舘岩たていわ村大字宮里字湯坂。地図帳でみると、ひときわ茶色が濃いところだ。どうしても、はるばる来たぜ――といった感慨がわく。
 川沿いの古い農家のような宿だった。まだそれほどの時刻でもないのに、みるまに暗くなってきた。また雨が強くなったとみえて、しゃあしゃあ音がする。どちらの方角から聞こえてくるというのでもない。川音と雨の音とがまじりあって、辺り一帯が水につつまれている。そのうち車の音がした。お客がついたらしい。玄関あたりがなんとなくざわついて何人もの人の気配がする。
 傘をさして外に出た。
 宿から少し下った川っぺりに粗末な小屋がけの共同風呂があった。コンクリートで固めた上にトタンの屋根がのっている。その屋根ごしに霧のような水滴がちりかかってきた。目の前を濁った水がしわになって流れていく。黒い太い筋になって、うねうねとすべっていく。
 木賊は「とくさ」と読む。温泉の名前に植物名は珍しいのではなかろうか。どことなく抹香くさいのはどうしてだろう。子どものとき、私たちはたしか「やいと草」といった。茎を折って肌に押しつけると、お灸をすえたような跡がついたからだ。
 内田百閒ひゃっけんの随筆に「とくさの草むら」という絶品がある。愛弟子であった大井征の死を悼んだものだ。百閒先生の家の庭に大井からもらった木賊が一ぱいしげっていた。その草むらをぼんやり眺めながら先生はこう思った。「大井は死んだが、死んだと云ふ事はよく解らない」
 つづいてこんな風に書いている。
「木賊は地上の植物の中で最も古いものの一つださうで、生え始めてから七千萬年ぐらゐ経つてゐると云ふ。木賊と大井と比べてみて、どう考へていいのか、わからない」
 少しぬるめの半露天風呂にあごまで沈んで、私はぼんやりと目の前の川をながめていた。気のせいか、だんだん水かさがましてくる。黒い太い筋が厚みをもって、かなりの速さで流れていく。水面にやみが迫っていた。風がさわいで、雨つぶが降りこんできた。岩でもあるのか、下手の一角で音もなく水が盛り上がり、音もなくすべり落ちる。見ていると引きこまれそうで胸苦しさを覚えてきた。水の筋が黒い大きな蛇のようにゆったりともち上がり、すべるようにいよっておどり上がったかとおもうと、なだれるようにかぶさってきた。あわてて目をそらすと、のどかな宿の灯がみえた。黒い蛇はもういなかった。
 その夜、ふとんの中まで川音がひびいた。宿の人の話によると、近くの峠道に古い六地蔵があるのだそうだ。雨でもなんでも朝早く起きてみてこよう――そんなことを思っているうちに寝てしまった。
 あくる日はぬぐったような快晴だった。宿を出て木賊の集落を歩いていった。裏の川が嘘のように縮んでいる。風がひんやりと快い。村外れで振り向いたら、茅ぶきの曲り家の背後に山が迫っている。つげ義春の絵でみたのと同じだと思った。赤ん坊を背負って、でんでん太鼓をもった女の子はいなかった。
 忠治も来た はとノ湯[群馬県]


 傷ついた鳩が舞い下り、ゆあみしているのを見て里人が温泉に気がついた、といった開湯伝説をもつ鳩ノ湯は全国にいくらもある。埼玉県の秩父にもある。福井県大野市にもある。ここにいうのは上州の鳩ノ湯である。群馬県吾妻郡吾妻町本宿、高崎から直通のバスがあって二時間ほどで行けるそうだが、私は吾妻あがつま線で渋川から中之条へ出て、そこから大戸乗り換えのバスに乗った。
 わざわざ廻り道をしたのは大戸の関所跡を見ていきたかったからである。江戸時代に碓氷うすいの関所の裏固めとして設けられていた所だ。(あとで知ったのだけれど、直通バスもちゃんとそこを通る)。この関所を破った罪により国定忠治は処刑された。いま、関所跡の近くに忠治地蔵が立っている。
 大戸をこえると温川沿いに一路ゆるやかな上り道がつづく。この道がかつて江戸と信州とを結ぶ裏街道であったことは、ひんぴんとあらわれる馬頭観音碑や庚申こうしん塚からもわかろうというものだ。ある四つ辻に石が立っていて「ひだりはとのゆ」と刻まれていた。宿の由来記によると寛政年間に温泉坊宥明という行者が湯小屋を建てたのが始まりだそうである。真偽のほどは 保証のかぎりではないが、ここが古い温泉であることはたしかだろう。
 かなりの傾斜をもった渡り廊下を、誰かに背中をおされるようにして下っていくと脱衣場にとびこむ。入口は別々だが中は混浴である。木の浴槽が一つ、ポッカリと口をあけている。すぐ下に道があり、上手の山の斜面には集落がなくもないのにシンとして物音ひとつしない。浴室全体が何かマジックボックスといった感じで、少しぬるめのお湯につかっていると、からだがつま先からフワフワ消えていくような気がするのだった。
「あのとき、国定忠治もここに立ち寄ったかもしれない」
 少なくとも菊池寛の短篇『入れ札』によると、上州岩鼻の代官を斬り殺して赤城山にこもったあと、八州の捕方を避けて信州へ落ちていく際、忠治は十人あまりの子分とともに近くを通り、この附近でひと休みしたはずなのだ。夜中に利根川をわたったという。渋川から伊香保いかほ街道沿いに名もない裏山から榛名はるな山にとりつき、一日一晩でやっとこえた。大戸の関所にかかったのは夜明け前のことだった。五、六人しかいない役人たちは、忠治たちの勢いに怖れをなして、誰ひとりとして通行をとがめなかった。
 そのあと街道は避けつつ、しかし道は見失わない程度のへだたりを保ちながら山から山へとたどり、大戸の関所から二里ばかりの小高い山の中腹で忠治一行は休憩をとった。上州一円にかいこがかえろうとする春の終りの頃だった。その小高い山から見わたすと街道沿いの村々には、朝もやのなかに青い桑畑がどこまでもつづいていた。
 あくる日、朝風呂に入ったあと、宿の裏手の小高い山の中腹まで登っていった。半ばこわれた神社があった。見上げるような庚申塚の横に五輪塔があって、十基ばかり古い墓が並んでいた。あるものは嘉永かえいの年号をもち、別のものはもっと古いらしかった。目の下に永らく打ちすてられたままの桑畑が広がっていた。冷やっこい風にのって温川から立ちのぼる朝もやが流れてきた。
 時間が停止したような眺めだった。わきあがってくる朝もやをついて、関東じまあわせさめざやの長脇差しをさし、脚絆きゃはんわらじで足ごしらえした国定忠治の一行がヌッとあらわれてもおかしくないような気がした。子分たちの中には片そでのちぎれたやつがいる。白っぽい縞の着物に、ところどころ血をにじませた者もいたようだ。先頭に立って威勢よく歩いていた忠治が足をとめ、菅笠すげがさをとった。小びんのところに傷痕のある浅黒い顔がのぞいた――私もまた、ちょうど菊池寛の小説の中の忠治がしたように、足下に大きな切り株を見つけて、そこにドッカと腰を下ろした。
 小さな町 矢野温泉[広島県]


 広島県に三次みよしという町がある。福山で福塩線に乗り換えて約三時間、山陽と山陰のほぼまん中にあり、中国山地のヘソのような所である。ごうノ川と西城川と馬洗ばせん川の三つの川が、いびつな三角形をつくりながら合わさったところ、かつては浅野家の分家が城をかまえて五万石、城跡が公園になり、また川沿いに古い家並みが残っている。
 なぜか旅行となると小さな町へ行きたがる。会津の田島、播州ばんしゅう龍野たつの、信州の高遠、栃木の烏山からすやま、富山の城端じょうはな、伊予の大洲おおず、念のためにガイドブックに当たってみると、誰が決めたのか、かなりの町が「小京都」に相当するらしい。別に由緒ありげな町でなくともいいのである。むしろ、なるたけ取柄のない方がいい。小さな町にふさわしく小さな支店なり、支店のそのまた支店とか、出張所とか、支所とか、分室が、小さな軒を並べている。狭い通りを歩いていると、ちょっとした広場がひらけ、「明治天皇御少憩記念」の碑が立っていたりする。
「小人閑居して――」のたぐいである。人間の器というものに関係しているのかもしれない。たえず小さな町にかれるのは、当方の人間的小ささのせいらしい。
 ひとしきり城跡公園でぼんやりしたあと、橋をわたってふらふらと駅前近くまでもどってくる途中だった。小さな三階建てのビルの前で足をとめた。某保険会社三次支店、向かい合った事務机に五人ばかりのワイシャツ姿が見える。衝立ての前にソファーがあって、いかつい顔の中年男が、初老の男を前に立たせ、指さしながら何やら早口でまくしたてている。初老の男は小さくうなずきながら真剣な顔つきで聞いている。やがてためらいがちに何か言いかけたが言葉に詰まった。同僚たちはそしらぬ振りで事務をとっている。電話をしている。そっぽを向いてタバコを吹かしている。初老の男は深々と頭を下げてから、ぎこちない足どりで机にもどった。ロ辺にとまどったような微笑を浮かべたまま身じろぎせず坐っている。低い鼻の左右に皺が走り、禿げあがった額に汗がにじんでいる。
 私はまたノロノロと歩きだした。フランスの作家シャルル=ルイ・フィリップに『小さな町』という短篇集があったのを思い出した。中身はすっかり忘れたが、さりげない日常の中のささやかな事件が丹念に記されていたはずである。家にもどったら読み返してみよう――たしかそんなことを思ったはずだが、未だに読み返したけはいがない。
 その日は矢野温泉で泊った。福塩線の備後矢野駅から送迎バスが出ている。商店一つない山間の駅に、むやみと大きなバスが待機していた。運転手以外に誰もいない。電車を降りた人々は足早に駐車場の方に歩いていく。やがて一斉にエンジンの音がしてピカピカの自家用車やオートバイが次々に走り去る。あとに乗客一人きりのバスが残った。ゆるゆると走って温泉に着いた。
 変哲のない湯治場である。小さな川沿いの平地に眠ったような集落があり、宿が数軒。歩いて十分ばかりの所に寺がある。当地の名刹めいさつということだが、砂利道はタイヤの跡をとどめたまま荒れていた。山門の両側に小学生の写生画が掲げてある。人っこひとりいない風景のなかに、たよりなげな風が吹いていた。
 季節はずれのこととて宿の客は私ひとりだった。夜中に起き出して渡り廊下をわたり、暗い湯舟につかっていると、天井から冷たいしずくが首すじにポタリと落ちた。小人は首をすくめて、あわてて辺りを見まわした。
 五七調の旅 鹿沢かざわ温泉[群馬県]


 山間やまあいの小さな駅で列車を待っていたときのことだ。

「レヂャーにカメラ
 生活にプロパン」

 一読して何のことかわからなかった。下に「写真部」、「プロパン部」と二分して記されている営業品目によって納得がいった。その写真店はカメラ、8ミリ、出張撮影のかたわら、プロパンの販売・配達もおこなっているのである。少々はげかけた看板にみる苦心のコピーを、私はいそいそと手帖に書きとめた。
 ときおり雑誌のグラビアで「取材旅行中のK氏」といった写真を見かけたりするだろう。ラフないでたちの作家K氏が、古びた建物の前で思案深げにたたずんでいるといった式だが、彼はむろん、意味もなく佇んでいるわけではない。それが証拠に、きまって片手にさりげなく手帖らしきものが握られている。
 かねがね、そんな姿がうらやましくてならなかった。また、気にもなった。いったい作家たちは旅行に際して、どのようなメモをとるのだろう。そこから読者を魅了する傑作が生まれてくるのだ。何の変哲もない一つの町を歩いても、至るところに鋭い目が光り、的確なメモがつづられているにちがいない――。
 羨ましがるだけでなく、おりおりの旅行に私も忘れず手帖を携えていく。そしてせっせとメモをとる。成果の一つが、いま述べた「レヂャーにカメラ・生活にプロパン」である。わざわざ写しとっても生活上なんのたしになるわけではないのに、何か得をしたような気になるから妙な話だ。
 山間のその駅は、たしか吾妻線のことだったと憶えている。渋川で上越線と分れて終点の大前まで五十五・六キロ、途中に伊香保や四万しま、草津などの天下の名湯がある。ほかにも花敷や尻焼、湯のたいら沢渡さわたり、といった個性的な湯治場が散らばっていて、温泉好きには何度通ってもうれしい路線である。ついでに言うと終点の大前は駅舎ひとつないさみしい所だが、駅前に嬬恋つまごい温泉がある。駅のホームと道一つへだてただけ、折り返しの合間にひと風呂あびることもできるのだ。コンクリートの湯舟に少しぬるめのお湯がドボドボと流れこんでいる。すぐ前の吾妻川にかかる橋の上で涼んでいたら、車掌が大声で叫んでいる。私は濡れタオルをなびかせて駆け出した。
 以前は吾妻線とはいわなかった。長野原線であり、川っぺりの長野原が終点。そのため草津まではともかく、上信国境の鹿沢温泉に行くには猛烈に不便だった。大抵は草津経由でバスを使った。あるときは小諸から菱野温泉を経て地蔵峠をこえてたどりついた。私は使ったことはないが、軽井沢から草軽電鉄経由のコースもあったらしい。
 この点、現在はらくなものだ。終点の一つ手前の万座・鹿沢口駅前から直通バスが出ている。バスは吾妻川沿いの国道をはなれたあとは、集落を縫うようにして走っていく。両側の家並みによっても、これが旧道であることがわかる。旧仁礼にれ街道、高崎と善光寺を結ぶ脇道だった。むろん、草津への入湯客が多くここを利用した。大笹の集落に、かつての関所の門扉が復元されている。寛文二年(一六六二)に沼田藩主が設けてより江戸の終りまで厳しく通行人を取り締まった。
 大笹関所あとに近い三叉路さんさろに、誰が立てたものか、シャレた碑がある。一見、変哲のない馬頭観音だが、台座の側面に意味深長な歌が刻まれている。

揚雲雀あげひばり見聞てこゝにやすらふて右を仏の道としるべし」

 郷土史家の本によると、あげひばりに託してそれとなく「仏の道」、つまり通行手形のない旅人用の抜け道を暗示したものだそうだ。
 一応メモはとったが、実をいうと、この種のもっともらしいものには、あまり気持がすすまない。それが証拠に、このときの手帖を取り出してみても、由緒来歴のちゃんとしたのは右の一つだけであって、あとはもう、なぜわざわざ筆記したのか、自分にもとんと合点がいかないものばかりだ。

 「お知らせ!
  専用ゲートボール場完成!
  用具貸出し、練習相手、対戦相手、審判、いつでも相つとめます。
   ゲートボール同好会部長」

 たしか駅前の広報板で見た。つづいてもう一つ、これは土産物屋のガラス戸で見かけた。

 「関西演劇界の花形
   浪花三之介・特別公演
  人情時代劇『流転親恋月』(一幕四場)
  三橋美智也構成・演出『夏姿歌謡絵巻』
   割引チケットあります」

 おつぎのものなど、自分はいったい、どんな必要を思って書きとめたのだろう?

 「挙式から披露宴まで
  ゴージャスでホットな
  サン横山の結婚式
   ご予約受付中」

 「胸なし、ずん胴、タレ尻
   大和撫子なでしこの三大欠点カバー
   水着セレクション
   新着入荷」

 群馬県嬬恋村は高原野菜の栽培で知られている。バスは旧道をはなれて見わたすかぎりのキャベツ畑を突っ切っていくのだが、その間にも片ときもメモの手を休めなかった。というのは村道とまじわる道路ぎわに、五七調の苦心作が次々とあらわれたからである。それは「事故をよぶ酒が疲労がスピードが」といった交通安全スローガンにはじまって、ひろく生活全体の諸事項を網羅していた。
 たとえば朝のひととき、妻が夫に贈ることば。
 「行ってらっしゃい、今日も一日ごくろうさん」
 日常のモラルはどうあるべきか。
 「あいさつは、いつでもどこでも誰とでも」
 「約束を守る家庭に明るい子」
 「思いやり人の心を大切に」
 月々の貯えその他――
 「年金のお受取りは吾信あがしんで」
 火の用心は誰にもできる。
 「防火の大役あなたが主役」
 お腹がすいたときは――
 「暖かい花チャン弁当このさき五分」
 
 鹿沢温泉は湯の丸山の北東にあって、標高一五○○メートル、古風な木造二階建て、気持のいい一軒宿だ。昔は何軒もの宿が並んで湯治場のたたずまいをみせていたらしいのだが、大正七年の大火で全焼、一軒だけが再建されて昔ながらの温泉宿をつづけている。一段下がったところの湯屋は洗い場も湯舟もやわらかい木造り、仕切り壁にレリーフがあって、ほの暗い灯の 下にびた銀色を浮かばせていた。
 まずお風呂、食事はあとのおたのしみ。
 せっせと五七調をメモしてきたせいか、頭がなかなか、五七調から改まらない。
 ひとつかり、すれば心も身もはずむ。
 かくのごとく永年にわたって筆録をつづけてきたのだ。わが手もとには、どっさり手帖がたまっている。もうそろそろ読者を魅了してやまない傑作が生まれてもよい頃ではなかろうか。

 ふるさと再訪 塩田しおた温泉[兵庫県]


 昭和十年・鉄道省刊行の『温泉案内』には近畿地方の山陽線沿いの温泉として、鳥ヶ谷、増井、塩田の三つがあがっている。先の二つは泉源がとだえて今はない。塩田温泉については次のように記されている。
「所在地、兵庫県飾磨しかま郡置塩村。交通、山陽本線姫路駅から一四キロメートル、自動車三十分、片道五十銭、貸切三円。泉質効能、食塩アルカリ含有炭酸泉、胃腸病、神経衰弱、婦人病等。特色、療養向。旅館、上山、南部。宿泊料一円以上二円。三方は丘陵性の小山に囲まれた閑静な湯治場で、附近でとれるあゆ松茸まつたけ食膳しょくぜんに上る」
 五万分の一の地図だと「姫路北部」と「前之庄」の二枚にあたる。夢前ゆめさき川沿いの県道を北にたどると横関という地名がみえる。川の西方に六角という集落がある。川にそってどんどん北にすすむと前之庄にいきつく。この三カ所を線でむすぶと、たて長の三角形の図形ができる。私には意味深い三角形である。横関から山をへだてた東側に郷里があった。前之庄には父方の親戚しんせきがいた。六角は母方の里だった。そして三角形ののどくびあたりに塩田温泉がある。
 夏休みになると弟とリュックを背おって家を出た。横関までバスでいって、その先は歩いた。私たちは母がケチんぼうだから歩かされるのだと思っていたが、いま考えると、これから先のバス便が極端に少なかったせいだろう。夢前川をはさんで横関のすぐ前に西国札所二十七番円教寺で知られる書写山がある。バスは大抵ここで折り返した。
 川から音をたてて涼しい風が吹きあげてきた。四つ辻の角に、よしずを立てかけた雑貨屋があって、店先に「花火、水中眼鏡、かき氷有ます」と書いたボール紙がぶらさがっていた。私たちはリュックを背おって歩きだした。歩きながら振り返ると、田舎の白い砂利道にボンネット型のバスがとまっていた。帽子をあみだにかぶった運転手が、のんびりと雑貨屋へ入っていった。そんな風にして、ある夏は川むこうの母方の里ですごした。また別の夏は前之庄で遊びくらした。
 古い案内記のいう置塩村は旧名で、現在は夢前町と名をあらためた。塩田温泉の「塩田」はエンデンではなくシオタである。播州の西のはずれ、「丘陵性の小山に囲まれた」湯治場に、どうして塩の字がついているのか。地図にはほかにも塩地峠とか塩山の地名がみえる。塩分を含んだ鉱泉脈があるからにちがいない。だが、それだけでもなさそうだ。『地名の語源』といった本によると、「塩」はしばしば、楔形くさびがたの谷や、川の曲流部や、たわんだ地形に対して用いられているという。そういえば塩田温泉は川のうねりに沿っており、辺りの地形は大きな楔形の谷というべきものだ。
 ある年の七月、郷里で法事をすませたあと、足をのばして塩田温泉へいった。川と山との間のゆっくりとうねった道を、車はこともなげに走っていく。かつて私たちはその道を、四つ辻の雑貨屋で食べたシロップ入りのかき氷について感想を語りあいながら歩いていった。白い砂ぼこりの巻きあがる田舎道にミミズがひからびていて、無数のありがたかっていた。途中、退屈しのぎに弟と代わるがわる黒いセルロイドの下敷きを顔にあてて辺りをながめたりした。顔にかざすと、とたんに世界が暗くなり、燃えるような太陽が、まっ赤な丸いボール玉に変わった。下敷きを顔からはなすと、もとどおり変哲もない世界に立ちもどった。抜けるような青空に白い雲がゆっくりと流れていた。降るようなせみの声がした。
 その夜、寝入る前にもう一度、赤茶みがかった湯につかったあと、しばらく玄関にたたずんでいた。おりおり黒い闇のなかに車のライトがあらわれて、すべるように消えていった。
 川を見下ろす部屋の窓を細目にあけて寝た。低い口笛のような音をたてて川風が吹きこんできた。カナブンが一匹とびこんできて、電気の笠にぶつかり、ポトリと耳もとに落ちてきた。そのあとしばらく、とびたつたびに壁にぶつかった。やがて物音一つしなくなった。明け方、あごまくらにのせてぼんやりしていると、耳をつんざくような川鳥の鳴き声がした。

 湯の町エレジー 籠坊かごぼう温泉[兵庫県]


 人に会うときまって最近どこかへ行ったかと問われる。なかには意味ありげな微笑を浮かべながら「悪いコトしてんでしょう」などと言う人もいる。残念ながらつやっぽい話は一つもない。たとえあったとしても人に語るべきことではない。
 だいたい、いたっていい加減な温泉好きで、全国をマタにかけ片っぱしから訪ねあるく巡歴型でもなければ、山奥のそのまた奥を踏み分けて秘湯をめざす探険型でもなく、混浴専門に研鑽けんさんにはげむ努力型でもない。要するに湯と安宿とがありさえすればいいのである。何日いても退屈しないだけの修養はつんでいる。
 しいて注文をつけるとすれば、めざす温泉の近くに小さな町があるといい。なろうことなら川の一つも流れていてほしい。では、その町に立ち寄っておまえは何をするのかと問われると少し困る。つまりは何もしないのである。とにかくよく歩く。てくてくと町を歩く。たいていは二、三時間もあれば歩きとおせる。公園なり高台があればそれを登る。おおかた一望の下に町全体が見わたせる。ベンチに腰を下ろしてぼんやりしている。それから立ちあがり、またふらふらと町を歩く。しめくくりに本屋に寄って、地元の人の書いたその土地に関する本を買う。文房具店をかねたたぐいのお粗末な本屋にも、きっとこの手の本があるものだ。帳場の上の手のとどかないあたりに色あせた背表紙をのぞかせている。永年こんな買物をつづけてきたものだから、わが家の書棚の一角は、さながら地方小出版コーナーの観を呈している。
 若葉の頃ともなると毎年のように摂州池田の住人と温泉に出かける。そして旅先で将棋を指す。少なからず仙人めいたわが敬愛する相棒はヘボである。この点、当方も同様でヘボの度合いが伯仲している。だからひとたび指しはじめたら最後、なまなかのことでは詰まらない。形勢によっては、双方が混乱して、いつまでたっても終わらず、玉と王とが角突き合うような異様な形勢に立ちいたったりする。そんな苦難を経たうえの勝利なのだ。念入りにたしかめて王手をかけたとたん、発作のような喜びがこみ上げてくる。押さえても押さえても相好が崩れる。そこで憮然ぶぜんとして黙りこくった相手を尻目に何くわぬ顔で席を立ち、庭先にしゃがみこんで喜びをかみしめることにしている。
 ある年の三月末のことだったが、神戸の若い友人の結婚式に出たあと丹波の籠坊温泉へ行った。一ノ谷の合戦に敗れた平家の落武者が発見して傷をなおしたところなどと言われるが、しごく変哲のない鉱泉である。丹波道から分かれて渓流づたいにさかのぼったどんづまり、狭い谷間に何軒かの宿が思い出したようにあらわれる。温泉はともかく、ここは途中に旧九鬼藩の三田さんだ市があり、また篠山ささやまのお城下にも近いのである。例によってよく歩いた。三田の町では川沿いの古い家並みを抜けると昔の舟着き場兼洗い場に出た。ドンドとよばれるふぞろいな石段の陽だまりに老人が休んでいた。回転焼き屋で本日は休業日とかのその老人から、私は九鬼家離散の顛末てんまつを聞いた。
「なにせボンボン育ちですよってに――」
 老人はそんなことをつぶやきながら、耳にはさんでいた吸いかけのタバコを大事そうに口にくわえた。
 丹波の篠山はデカンショ節でおなじみだろう。もっとも、どなるようにして歌うのが身上のあの唄とはちがって、篠山町はひっそりと落ち着いた町である。「栄賜皇太子殿下献上松茸の丹波屋」の看板の横に大相撲地方巡業のポスターが貼ってあった。私は古い西洋館の前で立ちどまった。「堀江女学院学生募集」とある。「お茶・お花・和裁、初歩より教授資格まで」。私はまた「香月旅館・電話代表三一九番」の軒下で足をとめた。玄関の柱に「靖国やすくに英霊の家」の金文字が光っていた。奥をのぞくと薄暗い土間に古下駄が一足きちんとそろえてあった
 明治中期の木造を移築したという歴史美術館をみたあと、すぐ前の古道具屋に入りこんで店の親父と長ばなしをした。そのとき、棚に並んでいる稚拙な土人形が気になった。隣りの氷上ひがみ郡の稲畑村に代々つたわる風習で、子供が生まれると氏神さまに奉納したものだそうだった。戦後しばらくして人形師が絶え、稲畑人形もすたれたという。
 二十体ばかり並んだなかで、まっ赤な大鯛おおだいを抱いて肩をいからせた武者像の顔がなんともいえずいいのである。ついふらふらと買ってしまった。店の親父は、こわれやすい焼物だからと言いながら何重もの新聞紙でつつみ、持ちいいように十字のたすきをかけてくれた。
 午後おそく、長かった冬の最後の挨拶あいさつのようにミゾレが降りだした。そんな夕方、奇態な荷を背中にしょって温泉についた。まる二日間、何をするでもなくボタンなべで酒を呑んでいる客を、宿の女たちは警戒の目でみつめていた。ことによると、女房に逃げられた中年男がわが子をしめ殺し、死体をかつぎ廻っているとでも思ったのかもしれない。
 眠る町 春日かすが温泉[長野県]


 旧中山道望月の宿。昔、この辺りは馬を産した。その馬を毎年八月十五日(もちの日)に朝廷へ献上したところから望月の名がついたらしい。そういえば隣り村を御牧みまき村という。地図には近くに御馬寄みまよせや牧布施といった地名がみえる。
 櫺子れんじつきの二階屋や出桁でげた造りの町並みがつづいている。古めかしい旅籠はたごがある。看板代わりだろう、軒下に大きな下駄をぶらさげているのは、いわずとしれた下駄屋にちがいない。向かいの家は屋根がおどるように波打っていて壁が崩れかけている。無人の住居らしかった。
「なんてよく寝る人たちだろう」
 ふらふら歩きながら、そう思った。通りにはカッと照りつける夏の陽ざしがあるばかりで、車が走り抜けるとシンとして物音一つしない。
「まだ午前中だというのに、もう寝ている」
 小諸からのバスの終点の待合室には、風呂敷包みをひざにのせたおばあさんが壁によっかかって眠っていた。すぐ前の小さな本屋をのぞくと、首ふり式の扇風機の下で肥ったおばさんが気持よさそうに眠っていた。果物を買いに入ったスーパーでは、前垂れをつけた大男がレジの前で腕組みをしていびきをかいていた。肩をたたくと、やおら目をあけ、おぼつかない手つきでレジを打った。
 薄暗い軒下にまっ赤な標識がみえた。北佐久消防協会発行「火の用心優良の家」。赤十字正会員の名札と「靖国英霊の家」の金文字が並んでいる。ガラス戸ごしに中をうかがうと、白シャツにステテコの老人が、うちわをもった手を胸にのせ、パックリと大口をあけて眠っていた。お隣りの小屋根にブリキの大看板がのっている。「岡山上敷特約・荒物雑貨・地下足袋・ゴム長靴・濱田屋商店」。その文字が消えかけていた。暗い上がりがまちにスリッパがそろえてあって、人のけはいがないのだった。町外れの高台に城光院というお寺があった。石段を上がり山門の下でひと休みしているとセミしぐれが降ってきた。涼しい風がここちよかった。目の下に古い写真をみるような家並みがある。町全体が眠りこけているようだった。
 午後おそく町営バスに乗って春日温泉へ行った。道が少しずつ上りになるにつれて両側の山がゆっくりと迫ってくる。ふと萩原朔太郎はぎわらさくたろうの短篇小説『猫町』を思い出した。その風変わりな作品の主人公も山に囲まれた温泉へ行ったらしい。温泉と少しはなれた田舎町とを乗合馬車が往復していた。軽便鉄道も走っていたそうだ。ある日、主人公は何げなく途中下車して山道を歩いているうちに道に迷ってしまい、何時間かのち、思いがけず美しい町に出た。通りに人がいるのに物音一つせず、ひっそりと静まり返っていて、町全体が深い眠りのような影をいていたという――。
 信州春日温泉、正式には長野県北佐久郡望月町春日字湯沢。蓼科たてしな山の北麓ほくろくにわく鉱泉である。見晴らしのいい山腹に国民宿舎ができた。何面ものテニスコートをそなえた、おそろしく大きな保健衛生協会経営のホテルもできた。どんづまりのところにポツンと一軒、忘れられたようにして古ぼけた湯治宿が残っている。玄関の張り出しに厚い板が掲げてあって、右から左へ「旅舎十二かん」。上に玉葱たまねぎのような白い電灯が浮いている。
 渡り廊下をわたって風呂へいった。すべすべと肌にまつわるいいお湯だった。一方の仕切りに冷水がためてあって、どういう仕かけによるものか、一定の間隔をおいてドッと水が落ちてくる。 湯気出しのついた天井いちめんに不思議の国の地図のようなシミがちらばっていた。
 たしか『猫町』の主人公は不思議な町を歩いていて奇妙な体験をしたはずだ。黒い小さなネズミのような動物が前を走り抜けたとたん、街路をうずめて猫の大群があらわれたというのだ。「猫、猫、猫、猫、猫」と朔太郎は書いていた。どこを見ても猫ばかりで、家々の窓からひげのはえた猫の顔が額縁の中の絵のようにして、ヌッと大きく浮き出したという。
 私はそっと上眼づかいに窓をながめてから、お湯の中で寝返りを打って目をつぶった。深い穴に落ちこむような急激な眠気が襲ってきた。
 なおしてくるぞと かんの地獄[大分県]


 ある雑誌の温泉特集には「異色の湯」という項目に入っていた。別の案内書は「個性派向き」といってすすめている。『全国の温泉・効能一覧』というリストによると、皮膚病、性病、脳病、特に精神病に卓効があるという。
 久大線豊後中村駅から車で四十分、大分県玖珠くす九重ここのえ町田野、九重くじゅう連山の登山口に近い。やまなみハイウェイからそれてすぐのところ、コの字型をした木造二階建ての奥まった一画に簡素な造りの湯殿がある。
 湯殿とはいえ、お湯は出ない。「寒の地獄」の名前からもわかるように冷泉浴で知られており、冷たい源泉のまっ只中につかる。古い案内記には「まれに見る寒冷泉」とある。その傍に佇むと盛夏でも「たちまち冷気肌に迫るを覚え」というのだから恐ろしい。
 正面に石の薬師様がまつってある。お燈明が燃えている。横手に貼紙、墨痕ぼっこんあざやかに文字が躍っている。
「堪え忍ぶ力を示せこの地獄」
「寒の地獄は夏極楽よ、暑気も病もどこへやら」
 夏はあるいは極楽かもしれない。それでも五分もつかっていると体がしびれてきて、我慢できずにとび出したあと控え室のストーブであったまるのだそうだ。それでやっと息がつける。ところで私が出向いたのは冬のさなかである。十二月十六日、アルバムにはそんな日付が入っている。むろん、寄り道をして見ていくだけ、目的地はすぐ近くの筋湯だった。そんな予定で豊後中村からタクシーを走らせた。
 つまりが宿のおかみさんにそそのかされたのだ。肥ったおばさんはニコニコと酔狂な冬の客を迎えてくれた。問われるままに私は来る途中の話をした。やまなみハイウェイは冬枯れで、白いススキが一面に地上を覆っていた。もう一段寒さが襲ってくると木の枝一面に霧氷ができる。お陽さまに光って、それはそれは美しい。おばさんからはそんな話を聞いた。今はひとけないが、夏になるとドッと人がやってくる。シーズンは六月から九月まで。でも、外が寒い今の季節は――と、おばさんは訛まじりに声をひそめた。かえって水の中はあったかい。
「入ってしまうとホコホコして、とってもいい気持!」
 ふっくらした綿入れのちゃんちゃんこの袖ロに両手を入れたまま、細い目をなおのこと細め、そんなことを言うのだった。そういえば、たった今、湯から上がったようなまっ赤な顔である。
「冬の方があったまるというお客さんもおりますですよ」
 タクシーの運転手が神妙な顔つきでうなずいた。
 四角い小さなコンクリートのプールといったところ、真中が仕切られていて養魚用の水槽を思わせる。湯の花のこびりついた石が白々と底に沈んでいた。冷水は澄みきっていた。燈明が二つ、これだけがあたたかげに映っている。
 おばさんから借りたバスタオルを体に巻きつけて控え室を出た。
「はだをさすこの霊泉が病をなおす」
 別にいま是非ともなおしたい病があるわけではないのだが。ともかくも貼り紙の下にしゃがんで人差し指をつけてみた。
「希望は忍耐を生じ
 忍耐は困難をのりこえる」
 水面が割れて小さな輪がひろがる。おばさんの言ったとおりだ。たいして冷たくない。むしろあたたかいと言っていいほどである。とにかく感覚が指先に集中しすぎたぐあいで、何がどうなのかさっぱりわからない。
「がんばれ、今ひとときがんばれ
 忍耐、頑張れ」
 ソーと片足を水に下ろした。
 仕切りの上に「冷泉行進曲」が掲げてある。

 なおしてくるぞと勇ましく
 誓って家を出たからは
 根治こんちさせずに帰らりょか
 冷い見る度に
 まぶたに浮かぶ母の顔

 両足をそろえて降り立った。下腿かたい程度の深さである。あとはソロリソロリとつかりこむしかない。話し声がする。タクシーの運転手と宿のおかみさんが何やら土地訛で呑気のんきそうに話している。あとの経過は省くとして、かわりに「冷泉行進曲」の二番を書いておこう。

 石も木片こっぱもみな凍る
 果てなき寒さかみこらえ
 進む日の本の子じゃと
 両のかいなをなでながら
 あとのふるえを誰か知る
 片目の魚 温湯ぬるゆ温泉[青森県]


 岩木山は変な山だ。弘南鉄道で弘前から黒石まで行くあいだ、右に見えていたかと思うとやにわに左に移っている。ふと目をはなしたすきにきけすように消えていた。あわてて辺りを見回すと、思いもかけない所に端麗な三角すいを空にえがいて、つつましやかにそびえている。
 津軽の黒石市は人口四万あまりの古い町である。旧黒石藩一万石、津軽藩十万石の分家としてみちのくの奥の間といったところで、ご政道はほどほどにして、もっぱら風流をたのしんできたようだ。おいしい酒を産する。こみせといって昔風のアーケードをもった落ち着いた家並みが残っている。町を流れる浅瀬石川づたいに山間やまあいを上っていくと、温湯、落合、板留、青荷といった温泉がある。
 黒石の町からバスで三十分ほどのところに猿賀神社があるのをごぞんじだろうか。この地方では岩木山神社、小栗山神社と並ぶ三大社として信仰が篤いそうだが、いつ行ってもひと気がなかった。玉じゃりの奥に小振りの神殿がひっそりと控えている。拝殿の左手に石造りの鳥居があるのが奇妙である。裏の池を鏡ガ池といって見事なハスが一面にしげっていた。
 柳田国男の『日本の伝説』には、この池がほんのちょっと、次のくだりに顔を出す。
「青森県では南津軽の猿賀神社のお池などにも、今でも片目の魚がいるということで、〈皆みんなめっこだあ〉という盆踊りの歌さえあるそうです。私の知っているのでは、これが一番日本の北の端でありますが
 目が片方だけの魚といった言い伝えがどうして生まれたのか。柳田国男はいろいろな説をあげている。名僧と関係があって、病人の求めに応じて禁断の魚を食べ、食べ残しを池に放したところ一切れずつが生き返ったが、みな片目だったとか、勇猛な武士が池の水で目の傷を洗ったせいだとか。しかし、どれも魚が片目になった理由にはならず納得がいかない。むしろこうではなかろうか――と、柳田は考察している――昔の神様は、目が一つのものがお好きであったのであって、当たり前に二つ目を持ったものよりも片目の者の方が一段と神に親しく仕えることができたのではあるまいか。目が一つしかないということは不思議なもの、また恐るべきもののしるしであったわけで、だからこそ人は恐れもし、とうとみもしたのではなかろうか。
 そういえば子供のころのマンガに一つ目小僧や提灯ちょうちんのお化けがよく出てきた。唐傘のお化けもあった。みんな一つ目だった。こわがりだった私は夜中に暗い便所へいくたびに、闇夜にカッとひらいた一つの目玉を想像して足がすくんだ。
 温湯温泉は後陽成天皇の御世というから十七世紀初め、慶長年間のころらしいが、大納言花山院忠長が黒石に左遷されたとき、たまたま入浴したところ温気を長く保つので温湯と命名したのだそうだ。広場の中央にかなり大きな共同浴場がある。これを守るようにして四方に古い木造の校舎のような客舎が並んでいる。一、二の旅館を除き、客舎にはどこも内湯がない。湯治客はつれだって共同浴場に入りにくる。なるほど温気のもちのいいお湯であって、からだ中がおどるようにホコホコする。手拭てぬぐいをぶら下げて散歩したくもなろうというものだ。だから温湯にいる間、たえずあちこちから、時ならぬときに下駄の音が聞こえてくるのだった。
 枕の下でカタカタと下駄の音がしたような気がして目が覚めた。ふとんの上で片肘かたひじついたままうたた寝をしていたらしく、頭の下の腕がくびれて、首がつったようで動かない。しかたなしにそのまま、なおのこと片目をあけてじっとしていた。その間、自分が平べたくなますにされた片目の魚のような気がして落ち着かなかった。
 夢を売る 湯涌ゆわく温泉[石川県]


 湯涌温泉に行く前に、さきにちょっと金沢の町をぶらついておきたい。といっても若い女性に人気のある「北陸の古都」の名店や名の知れた界隈かいわいではない。中年向きのしけたところである。
 古都金沢の武蔵が辻から橋場町にいく途中に、ひと昔ならぬ、ふた昔も前の目抜き通りの雰囲気をもった古い家並み。そこに風変わりな古本屋があるのだ。念のために住所を記しておく。
 金沢市尾張町一丁目八番地。
 種村季弘すえひろ著『書国探険記』には「シークレット・ラビリンス」と題して古本と古本屋をめぐる、とっておきの話が披露されているが、その中のあるくだり、金沢でのこと――鏡花の生家を探して崩れかけた土塀のつづく小路をうろついていたところ、突然大通りに出たという。みれば世に聞こえた菓匠森八もりはちの店のかたわらである。お土産は森八ときめていたのでいそいそと入りかけたとき、真向かいに一軒の古本屋があるのに気がついた。先にちょっとのぞいておくつもりで足を運んだのが運のつき、これが「秘密の迷宮」の一つというわけで、結局、やっとこさ外にこぼれ出たとき日はとっぷりと暮れて、森八の店には鎧扉が下りていた。その後も金沢にいくたびに森八をめざしてすすむのだが、そのつどこの古本屋に足をとられて種村家の人々には森八の名菓が口に入らない。種村さんは次のようにしめくくっている。
「あの古本屋はいまでもあるだろうか。古本屋さえ消滅していれば、今度こそ私は晴れて森八に辿たどりつける」
 たぶん、この次も種村さんは森八に辿りつけないだろう。金沢のあの古本屋はいまもある。消滅していないのである。和漢洋古書「南陽堂書店」といって、永らく私はこの店をよく知っている。同じ尾張町の崩れかけた土塀のつづく小路の奥に老人夫婦が住んでいて、因縁あって、毎年夏になると一週間ばかり、そこに寝とまりするからだ。
 もとより何一つすることがない。降るような蟬の声を聞きながらたっぷりと昼寝をしたあと、ふらふらと起き上がって散歩にいく。いまにも三味の音が聞こえそうな旧廓街くるわまち主計町の細い通路を抜けて浅野川の川っぺりを歩いてから、もどりぎわに南陽堂に立ちよる。古風な笠つきの電球がぶら下った薄暗い店の奥に「五十がらみの髪のうすい店主がステテコ姿で」坐っている。ここまではごくおなじみの古本屋のたたずまいである。いや、数歩すすんだ先が、すでにもうおなじみではなさそうだ。
 とにかくむやみやたらの物量と混雑である。よほどの物好きでもなければ手を出しそうもない古本がうずたかく積み上げられて、どの棚も右に左に前に後にかしいでいる。本の山にじりじりと押し上げられて、店の親父が天井高くに坐っていた時期があった。うかつに本を抜きとると一山全部がドッと崩れかねないのだ。私は一度、頭上に気をとられたあまり足元の本につまずいてつんのめり、頭から本棚の中に倒れこんだことがある。
 壁ぞいの裏手がまたものすごい。黒々と口をあけた落盤の前に立ちつくしたぐあいであって、ここはひとつ、種村さんの筆でみておこう。
「戦前の映画雑誌や婦人雑誌が積み上げられ、その山がいつかあるとき崩れたのだが、崩れたときのままの角度でほこりをかぶっている。二十年か三十年来、整理の手をつけていないらしい。いや、本そのものが一冊も動いた形跡がない」
 南陽堂の親父は数年前に死んだ。連れ合いの老女と息子とがおよそ客のきそうにない店に何故か二人して店番をしている。ある年の八月、私は吹き出す汗をこらえながら例によってこの古本屋の狭い通路にたたずんでいた。ステテコ姿の親父がいなくなってこのかた、迷宮の鬼気がうすれたようだ。お義理に二冊ばかり埃をはらって差し出すと、白髪の老女が両手で押しいただくようにして受けとった。丁寧に包装紙にくるみつつ細い声でひとしきり礼を述べた。外に出るとれがけの街に森八の鎧扉が黒々とそびえていた。
 金沢の郊外、南東約十四キロのところの湯涌温泉は、ひと昔前は石川県石川郡湯涌村といった。市中からバスで四十分ばかり、今日このごろは町並みが切れたとおもうと、すぐに新興住宅地や大学があらわれて、一向に温泉気分がわいてこない。ところが終点でバスを降りると、小さな湯治町のまっ只中にいる気持がするのだから不思議である。三方から山がせまった狭い地形に、十軒あまりの旅館が押し合うようにして並んでいる。西の高台には一泊ウン万円で知られるヨーロッパ・スタイルのホテルがあるが、さしあたって私には用がない。
 旅館街の真中に共同湯がある。古ぼけたコンクリートの箱にアルミサッシの戸口を突き出した格好で、中央に入浴券の自動販売機。料金表に「元湯持出」とあるところをみると、リットル単位で買っていく人がいるらしい。たしかにいいお湯である。塩類泉で四十度、胃腸、腎臓、脚気、リューマチに効能があるという。建物は味気ないが、何度通っても飽きがこない。
 共同湯の横手に赤い鳥居が立っていて、石段を上っていくと小さな温泉神社の境内に入る。砂利を敷いた台座の上に、底の平べったいお銚子ちょうし注連縄しめなわをつけたような、ひとかかえほどの石臼いしうすが見える。細まった首から下が青苔あおごけをおびていて、みるからに古そうだ。由来記によると、養老年間というから八世紀の初め、この山里に一羽のさぎが舞い下りて、とび立つ気配がない。里人が不審に思って近よると湯けむりが立ちのぼっている。ためしに掘ったところ、「高温多量の薬湯、枠となしたる石臼をあふれたり」。人々驚喜して里の名を「湯涌」と名づけたという。そのときのゆかりの石臼を当薬師寺に安置したとか。
 由来自体は全国の温泉によくある一つで、さほど珍しくはないが、音に聞く石臼なるものが実在するのは珍しい。湯涌温泉は一時、源泉が枯れたというから、はたして実物かどうか怪しいが、源泉のとばぐちとでもする以外にまるで用途のなさそうな石臼を、わざわざ造る人もいないだろう。たぶん、加賀の人はモノ持ちがいいのである。
 由来記の立札のかたわらに、白っぽい自然石が立っている。品のいい字体で歌が一つきざまれている。上の句は忘れたが、たしか、湯涌なる山ふところの温泉場に来て、この小春日和のある日、といった意味のものだったと思う。下の句はよく憶えている。
「――眼閉じ死なむときみのいふなり」
 上に「夢二」と刻まれていなければ、そしてそれが竹久夢二であることを知らなければ、少々歯の浮くような言い廻しであるにせよ、宣伝用としてずいぶん上手につくられた客引きの歌と思うところだ。
「竹久夢二年譜」によると、夢二は大正六年(一九一七)八月、北陸に来た。まずは粟津あわず温泉に泊った。
「此頃、彦乃と共に石川県粟津温泉法師旅館に在り。母衣ほろ町登喜和にて、竹久夢二山路しの歓迎会あり」
 山路しのとは画学生笠井彦乃に夢二がつけた愛称である。日本橋の紙屋の娘は二十五歳で世を去るまで五年あまり、夢二と生活を共にした。
 翌月、金沢に来た。
「九月、金沢市西町金谷館にて夢二抒情じょじょう小品展覧会を開く」
 湯涌には二週間あまりもいたらしい。歌にいう小春日和のころではないが、「眼閉じ死なむ」と言う女性と一緒なのだもの、さぞかしたのしかったことだろう。
「九月二十五日〜十月十三日 石川県湯涌温泉山下旅館にあり。夢二と彦乃の生涯の思い出の旅なり」
 夢二は旅が好きだった。同じ大正六年前後をみても、前年には信州に出かけた。翌年には神戸から船で九州へ行った。東北の酒田や会津、長崎と、席のあたたまるひまのないほど旅行をした。そのつど行った先で、巧みに土地を詠みこんだ、ほどのいい歌を作った。竹久夢二は若山牧水とならんで、今日のコピーライターのお手本となるような、後世の観光業者がこおどりしてよろこぶような見事な歌詞の作り手だった。
 放浪癖のせいばかりではないだろう。「金沢市西町金谷館にて夢二抒情小品展覧会を開く」が一例であって、作品を陳列して〈商談〉をまとめるための旅でもあった。当時の地元紙によると、「出陳点数、絹本、半切、色紙八十余点」であったというが、それは展覧会というよりもむしろ、現品限りの即売会といったおもむきのものだったのではあるまいか。地方の素封家がつぎつぎと人力車でやってきて、あるいは絹本を、あるいは色紙を何点かずつ買っていった。なかには手付けをうって二曲一双屏風びょうぶといった大物を注文する者もいる。夢二の生涯に数多い「思い出の旅」は、即売兼注文取りの商用もかねていた。
 岡山の片田舎に生まれた酒屋の息子竹久茂次郎は家の都合で、せっかく入った中学を中退しなくてはならなかった。十代の末に上京して、苦労して実業学校を出た。絵は小さいときから好きだったが、どこの誰について学んだというのでもない。見よう見まね、自己流に絵筆をとって、まずはコマ絵で出発した。新聞のさし絵である。絵だけではなく文もつけられる器用な挿絵家――さしあたりはそれだけだった。二十代の半ばまで、その程度の画家だった。金沢で抒情小品展をひらいたのは夢二、三十四歳のときである。たかだか十年ほどの間に、この画家は全国のいたるところにファンのいる、ひっぱりだこの人物になっていた。
 夢二が生み出した美人画が人々の好みに合ったことだろう。なで肩で目の大きな女が日傘をさして立っている。伏し目がちに文を読んでいる。ぼんやりと猫を抱いて坐っている。あるいは白い肩をのぞかせて、横ずわりになってうなだれている。
 その目はどこを見るでもない。あわい愁いとあこがれをもって、どこか遠くを見やっている。花のつぼみもように赤い唇。崩れる寸前のような肢体のかぼそさ。一つの時代が生み出した夢のブロマイドというものだ。第一次大戦中の軍需景気と、大震災後の復興景気のなかで成金が輩出する一方、貧富のひらきがますます拡大していった時代である。土地投機ブームにつづいて恐慌がみまい、米騒動が全国に波及した。不況が深刻化していった。演歌師が街角で、むせび泣くようなヴァイオリンの音色にあわせて「おれは河原の枯れすすき」を歌っていた。その前をアイシャドーやオールバックや断髪のモボ、モガたちが歩いていた。やるせない時代のあだ花のように社交ダンスが大流行した。上野駅と東京駅に切符の自動販売機がお目みえして、ちょっとした話題になった。
 そのような時代のなかで、竹久夢二はまさしく「夢を売る男」だった。愁い顔の美人や、ハイカラな異国趣味。そんな夢の風物がさまざまな回路を通って地方へと流れていることをよく知っていた。都会にたむろしていた学生たちはどうだろう。地方から上ってきて貪欲どんよくに見聞につとめる一方、刻々と最新情報を郷里へと伝えてはいないだろうか。絵ハガキや袋入りの「夢二名作アルバム」がおあつらえの作品だった。大した費用なしに夢の女神たちを、故里の人々に誇示することができるのである。
 今や到来した大量生産時代のアイドルというものだった。小銭で手に入る夢の女神は、好きなときに話しかけ、ロづけして、抱きしめることができる。そういえば、たえず憧れを秘めた夢二におなじみの切ない雰囲気は、地方より上京して下宿生活中の若者の心情と、ぴったり通じあうものがあったにちがいない。そして竹久夢二はみずから名前に標示したとおり「夢を売る」役まわりだったかもしれないが、夢二自身はべつだん夢を見ていたわけではない。むしろ人一倍にめていたといえるのである――。
 ある日、ひとしきり温泉街をぶらついたあと、私は桜並木の急坂を上って高台にそびえるホテルに入り、ロビー奥の喫茶店で珈琲コーヒーを飲んだ。床には豪華な絨毯じゅうたんが敷きつめてある。温泉で磨きあげた素足に沈みこむような絨毯の肌ざわりが心地よい。しばらくして表に出てくると、広大な玄関のたたきの真中に、わが愛用のうす汚れた雪駄が丁寧にそろえてあった。



 パンツはつけるな 入之波しおのは温泉[奈良県]


 花の吉野に着いたのがお昼すぎ。下千本の桜は七ブ咲き。まずは山麓の隠し湯吉野温泉元湯で赤茶けたお湯にはいった。古めかしい「霊泉」の額をくぐって、地下に下りるような階段をくだる。新旧二つの湯舟を平等に往復したあげく、鴨鍋かもなべでビールをのんだら、とたんに眠くなった。そのまま元湯に泊ろうかと思いかけたが、いや、まてまて。しらしら明けの東京を発って、はるばるとやってきたのは何のためだ。吉野川のどんづまりの秘湯をたずねるためではなかったか。そう簡単にくじけてはいけない。
 上市かみいちに出てバスに乗った。たえず吉野川を横目でにらみながらさかのぼる。途中一度乗りかえて終点の柏木に降りたったのは夕方にちかい。バス停前のタバコ屋に貼り紙がみえた。
「天の魚 秘宝煮アリマス」
 いかにも桃源郷への入口といったおもむきがあるではないか。貼り紙の前に一日二便きりの小型バスが待っていた。
 入之波と書いて「シオノハ」と読む。地名辞典によると、「シオ(塩)」はしばしば、くさび形の谷や川のうねった所につけられた。そういえば、いまはダムにせきとめられて水中に消えたが、もともと入之波の集落は大きなくさび形の谷にあった。背後は近畿の屋根とよばれる大台ケ原。人造湖のほとりの急な斜面に、しがみつくようにして一軒宿がたっている。
 石段を下りきったさきに湯殿があった。吉野杉ならお手のもの、今風にいえばログハウスで、湯小屋も湯舟も丸太づくり。よほど成分が濃いのだろう、湯のあたるところは一面に褐色の文様をえがいてコンクリート状に固まっている。いかにもキキ目がありそうだ。
 ソロリとはいる。昼間に吉野の元湯で洗ってきたので、なんにもすることがない。湖水からひやっこい風が吹きあげてくる。対岸で工事でもしているのか、赤い灯が点滅している。あたたかい湯につつまれていると、からだ全体が宙に浮いた感じだ。安らかなような、不安なような、こそばゆいような、待ち遠しいような――これらを全部あわせたような変てこな感覚がこみあげてくる。温泉好きにとって、こよなき至福の時である。
 湯あがりは、むろん浴衣だが、その際、下着は全部とりさる。それがいかに爽快であるか。ためしにやってみた友人が、以来二度と例のものをつける気にならなくなったと述懐していることからもおわかりだろう。とにかく便利である。これからもさらに食前、食後、寝る前、朝の起きがけと、お風呂につかるわけだ。ハラリと浴衣をぬぎすてて、そのままトットと湯に向かう、あのテンポがよろしい。女性づれのときは何かとさしさわりがありげだが、たいていは案じるほどの事態には至らない。
 食事はイロリばた。アマゴがうまい。西のアマゴが東にいくとヤマメとかわる。西の魚は腹に一本、うす紅色の帯のようなつやっぽいすじがある。
 入之波には谷崎潤一郎が、『吉野葛よしのくず』の取材にきて湯につかった。歌の一つも残してあるかと大広間を見てまわったら、紙がピンでとめてあった。
「焼き鳥の 串に上司を刺して飲み」
 誰がつけたのか二の句にいわく、
「一度でも 言ってみたいな めてやる!!
 その昔、南朝の宮びとが隠れ住んだ吉野の奥も、なかなか桃源郷とばかりはいかないようである。

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