相談1

おとぎ話の批評で娘と対立する私

 私は娘と息子によくおとぎ話をきかせます。「きれいなお姫さまを一目で好きになった王子様は結婚を申し込みました」といった描写が出てくると、息子に「女は顔じゃない、心が大事なんだから、こんなはやまったことはしないように」と諭(さと)しています。先日も『ねむりの森のひめ』を読んだ後、「姿は若いままだとしても、目やにやよだれが百年分ついている」と批評し、ロマンチストの娘と対立してしまいました。こんな読み方はいけないですか。

(和歌山・泣けぬ一杯のかけそば・35歳)

らもさんの回答

 お母さんの解釈のしかたに僕は賛成です。よく「子供の夢をこわすような」行いというのが非難されますが、それは子供というものをナメている人の言うことではないかと思うのです。その人たちが漠然と考えている子供の「夢」というのは、言いかえれば「無知」であり「幻想」でもあるわけです。子供の「夢」を守ってやりたいというので、「サンタクロースはほんとうにいる」と親がずっと言い続けた場合、学校で級友から赤っ恥をかかされる子供の立場はどうなるのでしょうか。それは無知の押しつけです。無知であることを大人はえてして「純真だ」とか「可愛い」「子供らしい」という風に錯覚してしまうのです。そんなものを押しつけられる子供にとってはいい迷惑で、ことに性に関する側面では取り返しのつかない弊害さえもたらします。

 子供は一方では「おじいさんが桃を割ったら、中からまっぷたつになった桃太郎が......」というパロディーをやすやすと作ってしまうほど、リアルな感覚を持っています。たとえば僕の世代は力道山のプロレスを見て育ちましたが、力道山というのはいつも放送終了まぎわになると「堪忍袋の緒がきれて」怒りの空手チョップをふるいます。「それならなぜ最初っから怒らないのだろう」という疑問から始まって、やがて子供は事の真相を知るわけです。では力道山は「子供の夢をこわした」ことになるのでしょうか。そうは思いません。彼は僕たちに、フィクショナルなものが世の中にはあることを教えてくれたわけです。幻想=夢をうちこわし終えた後にこそ、我々は本当の夢をみつけることができるのです。さもないと娘さんは大人になっても「白馬に乗った王子さま」を受け身で待ち続けることになります。今の日本で白馬に乗っているのは競馬の騎手だけです。

中島らも『明るい悩み相談室』シリーズ(朝日文庫)より転載 イラスト/死後くん

川上さんより

「明るい悩み相談室」を十数年ぶりに読み返して、感慨を深くしています。わたしは人さまの悩み相談を読むのが大好きなのですが、最初に感じたのは、当時らもさんが答えていた悩みと、今のひとたちの悩みがかなり違うということでした。もちろん、投書の悩みは、らもさんに受けるためのものに特化しているので、普通の相談にくらべて特殊ではあるのですが、それにしても、です。で、わたしの一押しの相談と解答であるこの回は、ものごころついてから一度もサンタを信じたことのない自分にとって、大いなる福音なのでした。