芸術を卑猥な目でしか見られぬ父
うちの父には芸術を鑑賞する目がまったくありません。たとえばバレリーナが足を上げると、「ややっ、大サービス」と言って跳び起き、テレビにくぎ付けになります。また美術館では、絵などにさらさら興味がないのにもかかわらず、裸婦の前ではその絵にくぎ付けになり、「オレはこの絵が好きだ。もう一回見にくっぺ」などと、血走った目をして言うのです。崇高な芸術品をこんな目でしか見られない父の感覚は、普通ではないのでしょうか。
(いわき市・悩める子羊・15歳)
君は、「言わない約束」のことを言ってしまいましたね。僕は前から疑問に思っていたのです。僕は小学生のときに名画集の中の「ビーナスの誕生」を見て、たいへん興奮した覚えがあります。おそらく「血走った目」をしていたにちがいありません。
なのに人はやたらに「芸術」を強調して、これをエッチな目で見るものをバカにします。「幻想的な配置の中に屹立(きつりつ)する肉体の何という存在感。たおやかに官能的な胸から腰へのフォルムと、光と影が自在に浮かび上がらせる質感!」。これは単にボキャブラリーが豊富なだけであって、「ええ女やのう」というのと、言っていることは同じなのではないか。これが小学生の僕の疑問でした。
おととし、上海にいって、長年の疑問が氷解しました。「大世界(ダスカ)」という、レジャーセンターの一画に、男たちの人だかりができているコーナーがありました。のぞいてみると、ヨーロッパの名画(主に裸婦画)を展示しているコーナーでした。中国にはヌード雑誌なんてものはありませんから、名画に群がった男たちは、それこそ「血走った目」で名画を見つめていました。「なんだ。やっぱりこれでいいんだ」と、僕はホッとしました。
裸体芸術については昔から対立意見があります。哲学者サミュエル・アレクサンダーの意見。「その物質的対象に対して観る者が妄想や欲望を抱くようなヌードは芸術とは言えず、誤ったモラルである」。これに対して『ザ・ヌード』の著者ケネス・クラーク卿は反論しています。「抽象的作品を含めて、いかなるヌードであれ、観る者に官能的余韻を残さぬ作品はない。あるとしたらそれはできそこないの芸術であり誤ったモラルである」
とりあえず僕は「血走った目」に賛成です。
中島らも『明るい悩み相談室』シリーズ(朝日文庫)より転載 イラスト/死後くん
ごくフツーな男です。男は死ぬまでヒワイなのです。例外はありません。でも考えようで、父は高齢すぎの仕事を早くもみつけた、と言えます。「官能小説」というのは注文がありますが、「お涙小説」じゃどこも注文してくれません。ですから、老後の“趣味と実益”を早くもみつけたので、いい人生だったとも言えるのです。しかし、「注文が無い」といって文句を言って来てもメイワクです。それはお父さんに文学的才能が無いからで、責任は持てません。それだけのことです。