死ぬシーンだけで演技力評価する母
うちの母は映画やテレビなどで人が死ぬシーンになると、じっと見つめ、少しでも動くと「この人は演技がへただ」と言います。逆に身じろぎもしないのを見ると「演技がうまい」とほめ、「苦しいだろうにね」とつけ加えます。たったこれだけで演技力を評価する母は、おかしいと思いませんか。
(石川・死んだふりができない娘・16歳)
ものごとの評価の仕方というのを根本的にわかっていない人というのはよくいます。
たとえば飲み屋で都はるみの歌をじっと聞いていたおじいさんが、店の主人に、
「やっぱり、美空ひばりなき今となっては、日本で一番歌がうまいのは都はるみだな」
「そうなりますかねえ」
「実にいい歌を歌うからな、都はるみは」
このおじいさんの頭の中では、詞は作詞家が書き、メロディーは作曲家がつけて、といった仕組みのことなどにはまったく考えが及んでいないわけです。いい歌を歌うから都はるみは「歌がうまい」となるのでしょう。
僕は以前、印刷屋の営業マンをしていましたが、ある日得意先で何かを説明するのに、絵に描いて説明しました。相手の人はその絵を見て、同じ室内にいた同僚たちに、
「おい、みんな、ちょっときてみろ」
と声をかけ、その絵を見せました。
「やっぱり本職はちがうな。さすが印刷屋さんだけのことはある。絵がうまい」
“あの、そういうことじゃないんですが”と説明しようとしたのですが、他の人たちもしきりにうなずいて、“印刷屋さんは絵がうまい”と言っているので、説得をあきらめました。
このように、評価の仕方を間違っている人というのは、判断基準をあやまっているというよりは、そのジャンルの成り立つ仕組みそのものがわかっていない場合が多いのです。
こういう人にかかると、都はるみは歌を作るのがうまく、建築設計家はセメントをこねるのがうまく、車のセールスマンは故障の修理が達者で当然、ということになってしまいます。
しかしこういう場合は、自分と縁がないから誤解したままでいられるので、本人にもその業界にもたいした事はありません。
問題は、判断基準をわかっていないくせに評論家になった、というような人の存在です。「この小説には嘘があっていけない」と発言するような人が評論家になるのは、はた迷惑です。
中島らも『明るい悩み相談室』シリーズ(朝日文庫)より転載 イラスト/死後くん
美空ひばりは歌がうまいというのは、誰もが認める事実です。都はるみ、ちあきなおみ、岩崎宏美、どなたもみんな素晴らしく上手いです。音楽評論家は、歌唱力がある、音程がしっかりしている、声量が凄い、などなど色々おっしゃいますが、素人の我々にはわかりません。でも、上手いなぁと思い心打たれるのです。これは何故なのかと、らもさんに聞いたことがありました。らもさんは『人間の…膜に響くんですな』と。皆さんわかります?