私のやりっぱなしは仏教哲学の実践
新婚一カ月です。主人の言では、私の性格は「だらしない」らしいのです。たしかに私は塩のフタをしないとか、脱げば脱ぎっぱなしという「やりっぱなし」の症状が多々見受けられます。でも、「やりっぱなし」という性格には「あるがままに見つめよ」という、仏教の如実知見(にょじつちけん)の哲学が内在していると思います。私は永久に塩のフタをしめないわけではありません。フタのとれた状態のそれに、数時間の流れを与えているだけなのです。これは屁理屈(へりくつ)でしょうか。
(東京都・新妻・25歳)
屁理屈です。若いころ、得意先に変わったおじさんがいまして、僕が屁理屈を言うと必ずこう言うのです。
「きみ、それは“理屈”や。一理はあっても二里はない。九里四里うまい十三里」
その後、僕の目をじっと見つめ、「な?」。よくわからないのですが、その説得力に若かった僕はついうなずいてしまうのでした。一理はあっても二里はない。九里四里うまい十三里。この深遠な一言を、あなたに進呈したいと思います。
ところで、昨日僕は仕事部屋の近くの喫茶店に行きました。薄汚い店で不吉な予感はしたのですが、コーヒーに砂糖を入れようとしたら、砂糖の中に小さな茶色の物体がいくつもある。僕はぼんやりしていたので、塩の壜(びん)によくはいっている湿気取りの粒だ、と最初思ったのです。しかし、よく考えると砂糖の中にそういうものがはいっているのを見たことがない。よく見ると、それは「コーヒーが付着してダマになってしまった砂糖のかたまり」でした。
怒った僕はその店のおばちゃんに思わず、「これ汚いよ」と文句を言いました。するとおばちゃんがいきなり僕の頬(ほお)をぱしっと殴って、
「いま鳴ったのはあんたの頬か、わての掌(てのひら)か」
こういうときに“そら理屈や”を使うのですね(話後半、作ってしまいましたが)。
塩のフタは、しめんといかんです。湿けてダマになるからです。理屈は塩のダマに勝つことはできません。
中島らも『明るい悩み相談室』シリーズ(朝日文庫)より転載 イラスト/死後くん
『それは、屁理屈や!』と言われたら、大阪人は大概『屁が理屈言うか?』と返します。これがすでに屁理屈です。しかしながら、世の中は屁理屈で成り立ってるのではないでしょうか。自分を正当化する為に、無理は承知で理屈を言う。それを『屁理屈や!』と罵られても、平気で屁理屈を言い続ける。その屁理屈が、何かの拍子に笑いになれば儲けもの。勝ち負けじゃなくて、笑ってもらってナンボやというのが、中島らもさんでした。