なんでもかんでも
記録魔の夫
私の夫は記録魔です。晩酌の量を「ビール六三三cc」と欠かさず正確にメモしています。「一生のうちにどれだけ飲むのか、ビール、清酒、ワインと、種類ごとに集計するのだ」そうです。このほか、家庭菜園の収穫量、毎朝のジョギングの距離集計、乗った鉄道距離の延長集計、入った喫茶店のコーヒーの値段と店の評点……などなどで、どれも結婚以来ずっとです。ほっておいていいものでしょうか。
(宮城県・データ不足の主婦・37歳)
人間の性格の差というのは、おそろしいものですね。僕などは「ずぼら」の典型なので、そんな記録をまめにとることなど、ギャラを払うと言われても断りますが。
しかし、たとえば自分が臨終をむかえたときに、この記録があるのとないのとではずいぶんちがうような気もします。もうこの世とおさらばだというときに、「あなたはね、生涯に一〇九五六・三リットルのビール、一九七一リットルの清酒、二六一リットルのワインを飲み、七万六千六百五十八回食事をし、四三八〇〇六キロの空間移動をしたんですよ」と教えてもらいます。何となく壮大で充実した人生だったように思えて、納得して成仏できるのではないでしょうか。さらにこういう記録は、本人にはさして実益がないとしても、後々になって学術的資料として値打ちがでます。
小泉武夫著『酒の話』(講談社現代新書)によるとアメリカで禁酒法が制定されたときに、やはり記録魔でしかもお酒好きの人がいました。彼は禁酒法発布の瞬間も廃止された日時も正確にメモしていました。その人の計算によると、アメリカの禁酒法の実施期間は、十三年十カ月十九日七時間三十二分三十秒間であったそうです。メモが生んだ貴重な記録です。
記録や日記が歴史的資料になるのは
中島らも『明るい悩み相談室』シリーズ(朝日文庫)より転載 イラスト/死後くん
メモする癖がある自分としてはこのお悩み相談はスルーできませんでした。記録があると臨終を迎えたとき納得して成仏できる、という答えにハッとしました。今は、人々はSNSをメモがわりに、食べたものや行った場所など逐一人生を記録しています。人生の素敵な瞬間ばかり集めたインスタの写真は、自分で走馬灯を編集しているかのよう。死ぬ時に見返すと充実感と共に逝けそうです。400年前の大工さんの落書きのように、現代人の記録も後世へのタイムカプセルになるのでしょうか……