特別対談・沢田研二(後編) 佐藤利明×北沢夏音

「ジュリー」と呼ばれるスーパースター・沢田研二は1967年のデビュー以来、常に転がり続け、ノスタルジー列車に決して乗車することなく、75歳を迎えた今も歌い手として“現在進行形”にある。その55年以上に及ぶ長い歴史をほぼリアルタイムで体験した二人の書き手、佐藤利明(1963年生まれ)と北沢夏音(1962年生まれ)が“ジュリー考”を交わす後編。

1970年代半ばから、作詞・阿久悠、作曲・大野克夫という布陣で数々のヒット曲を送り出し、ヒットチャート1位やレコード大賞受賞といった成果と共に、世の中に大きな足跡を残していた沢田研二。そんな黄金期代を築き上げた季節を経て時代は1980年代へと進む。1月1日、シングル「TOKIO」がリリースされた。

TOKIOを歌う沢田研二のイメージイラスト
イラスト/いともこ

ニュー・ウェイヴで幕開けたジュリーの80年代

佐藤「TOKIO」(作詞:糸井重里/作曲:加瀬邦彦)でジュリーの何が変わったかというと、それまで年上の女性との禁断の愛を描いていた世界の主人公が、突如として異世界、別次元のキャラクターに進化したことです。歌詞もサウンドも振付も、カラフルにヴィジュアル化してポップになった。それに加え、80年代を迎えたところで歌謡曲と音楽業界のあり方も変わっていく。レコード会社のプロデューサーやプロダクションの社長の意向で物事が生み出されていたものが一度壊れて、世界観の創造がクリエイターたちの手に委ねられた。その象徴的な試みが「TOKIO」だったんです。

北沢シングルA面の作詞に糸井重里、B面に仲畑貴志、次の時代の寵児となるコピーライターを抜擢した。そんな中、アルバム『TOKIO』のラストに1曲だけ阿久悠&大野克夫コンビの「夢を語れる相手がいれば」っていう曲が入っていました。「夢を語れる相手がいてこそ、その夢が実現する。自己完結していたら夢は膨らまないよ」という阿久さんのメッセージが込められていた気がするんです。つまり、どんなに素晴らしい詞を書いても、その前に曲をつけてくれる作曲家がいなければ、歌ってくれる歌手がいなければ掛け算にならない。70年代の終わりにはシンガーソングライターの台頭が相次いで、職業作家の終焉とまでは言わないけどその気配があって。幕が引かれるのかなっていう予感のもとに書かれたのかもしれない。分からないけどね。だけど結果的にそうなった。

1980年代の始まりは洋楽も華やかだった。ロンドンではニュー・ウェイヴから派生したニューロマンティック・ムーヴメントが起こり、ヴィジュアルも音楽を伝えるうえでの大きな武器となっていく。MTVを通じて第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンがアメリカで大旋風を巻き起こすと、その喧噪は日本にも飛び火。新時代へと軽やかに飛び乗ったのがジュリーだった。

北沢当時の英国にはニュー・ウェイヴの衣を着たオールディーズ・リバイバルっていうのがあって、ストレイ・キャッツやアダム&ジ・アンツが大ブレイクした。で、「日本でもジュリーでやろうよ」って盛り上がって新しい作家をどんどん起用していった。阿久さんの手が離れて以降のジュリーにもたくさん傑作はあるけど、その中でも最高傑作は1981年の「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」(作詞:三浦徳子/作曲:沢田研二)だと思います。

佐藤性関係をテーマにした歌でありながら、「心に着けた鎧を脱いでさらけ出せ」という自己解放を促している。精神としてはラヴ&ピースのベッド・イン(※)なわけです。これは沢田さんのその後の生き方を予見してるし、この詞の精神、自ら築いたイメージを壊して、自己を解放していくことを沢田さんは実践していった。

(※)ジョン・レノンとオノ・ヨーコがラヴ&ピース=平和活動パフォーマンスの一環として、1969年にアムステルダムとモントリオールで行ったイベント。

1981年9月にリリースされた34枚目のシングル「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」。(発売元/ポリドール)。ネオ・ロカビリー調で時代の最先端だった。
1981年9月にリリースされた34枚目のシングル「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」。(発売元/ポリドール)。ネオ・ロカビリー調で時代の最先端だった。

狂乱のバブル経済と音楽ファンの低年齢化の中で

北沢「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」はシングル盤のジャケットにも新バンドの存在を強調して“JULIE & EXOTICS”と表記された。81~83年のシングルはどれも攻めまくっていて素晴らしい。いろんな意味でニュー・ウェイヴ期のピークは、1983年の「晴れのちBLUE BOY」(作詞:銀色夏生/作曲:大沢誉志幸)だと僕は思ってるんです。凄くシュールな詞で、サウンドはジャングルビートで、ファッションもド派手。その年の紅白歌合戦でもこの曲を演奏して、紅白史上最高のパフォーマンスだと語り草になっています。でも、どんどん時代と競争し続けてきた反動なのか、この辺りからガクッと息切れしてきた。翌84年は「どん底」とか「渡り鳥 はぐれ鳥」とか急に自虐的なタイトルのシングルが相次いで、「どうしちゃったの、ジュリー⁉」って戸惑った。

1980年代前半は、ザ・タイガースの再結成(オリジナルメンバー全員が揃ってはいなかったので“同窓会”と称していた)でも話題を集めたジュリーが、1985年5月に渡辺プロダクションから独立して個人事務所「CO-CóLO」を設立。同時にレコード会社もポリドールから東芝EMIに移籍。以降、トップ10入りするシングルも減り、お茶の間でジュリーを見掛けることが徐々に少なくなっていく……。

北沢ジュリーのクリエイティヴを引っ張ってきた加瀬邦彦さんがプロデューサーを降り、ディレクターの木﨑賢治さんも離れて、オペラやバレエなどアートに造詣が深い大輪茂男さんにチェンジした。この時期の曲はヨーロッパ志向が入った大人の曲路線に変わっていく。要するにひと言で言っちゃうとシブい。こういうダンディズムをリスナーが共有できればいいんだけど、悲しいかな80年代の大衆音楽っていうのは子供向けになっていた。カルチャーの受容者がどんどん低年齢化していく流れに逆行してしまった。

佐藤僕ら世代の興味そのものも大きく変わってくる時期でもあった。メインターゲットだった人たちが家庭を持ったり仕事に追われたり、音楽への興味から離れていく中で、新しいファンが獲得しにくくなった。同じ頃のローリング・ストーンズやポール・マッカートニーがそうだったように。80年代がバブル経済の浮かれた空気感の中で消費されていくうちに、日本の芸能界もお客さんもすっかり変わってしまった。