特別対談・沢田研二(後編) 佐藤利明×北沢夏音

“出会い直し”の時代で、
                                ジュリーと再会した。──佐藤利明

3分間の歌キャラから2時間の演技者へ

時代が平成、1990年代へと突入すると、『ザ・ベストテン』『夜のヒットスタジオ』といった歌番組が次々に終了。レコードからCDの時代となり、ヒット曲はテレビドラマから生まれていくなど、ジュリーが黄金期を築いた時代とは明らかに風景は違っていた。そんな中でもジュリーはコンスタントに作品を作り続け、90年代半ばからはセルフ・プロデュースという形で自らを表現していく。

北沢要するに、もう自分のやりたいことだけやる。新奇なコンセプトはもう要らない、っていう風になっていく。自分がしっくりこない歌詞だったり、曲だったりはやらないよって。そうするとね、良くも悪くも“化ける”ことがなくなる。

佐藤この時期、同時に俳優・沢田研二が深化していった。映画には70年代末から出ているけど、その頃は美しいジュリーのヴィジュアル性が求められていた。ところが90年代あたりから「演技者=ジュリー」が顕在化して、本人もどんどん芝居が面白くなっていった。しかもダメな親父、飲んだくれの男みたいな役割を喜んで演じて。表現の場が3分間の歌の世界から2時間の映画に大きくシフトしていった。その一方で音楽的にも様々なトライをして、ヒット曲は出ないけど、存在感はずっとあった。だから誰も忘れてない。大事なのはどんな時も「ジュリーのことを誰も忘れていなかった」っていうこと。

北沢僕はね、忘れてはいなかったし、逆に再発見した。僕自身は『自由に歩いて愛して』っていうライヴ&DJイベントを1993年から始めて、自分の中で邦楽との出会い直しがあったんです。クラブカルチャーを通過した目と耳で、日本の60年代や70年代の音楽を再発見していく時に、その一番最初の入口になったのがジュリーやショーケン(萩原健一)のいたPYGだった。自分が確かに生きてきた時代なのに、気づいていなかった鉱脈を見つけちゃったんですよね。

佐藤僕もその当時は古い日本映画とか歌謡曲とか、特にクレージーキャッツや東宝のコメディ映画とかを、もう一回世の中に知ってもらうために制作や企画の側に回ってたんです。“娯楽映画研究家”と名乗ったのは1994年なんだけど、戦後カルチャーの掘り起こしをやっていくと、同じように60年代後半から出発したタイガースと沢田研二さんの作品に必ず出会う。夏音さんと僕の90年代は“出会い直し”の時期で、その成果を自分たちの仕事につなげながらの今日がある。

ジュリーの歌には、何度も救われた。──北沢夏音

そして、みんながジュリーの旗のもとに集まり始めた。

2000年代に入り、自身が呼吸する場所をヒットチャートとはせず、年1回のアルバムリリースとツアーをコンスタントに続けていったジュリー。2002年には自身のレーベル「JULIE LABEL」を立ち上げ。そんな中でのハイライトが、2008年に京セラドーム大阪と東京ドームで開催された『人間60年・ジュリー祭り』。両日共6時間以上におよぶステージで、何と80曲を歌い上げた。

佐藤2日間で5万4,000人。ここではPYGもタイガースもやって、うまい選曲でしたよね。そのお祭りに先駆けて還暦記念シングル「ROCK'N ROLL MARCH」(作詞:GRACE/作曲:白井良明)を出した。

北沢その中に入ってる「我が窮状」(作詞:沢田研二/作曲:大野克夫)は、セルフプロデュースじゃなきゃ絶対に世に出なかった曲だと思う。窮状は戦争の放棄を謳った(日本国憲法)9条のメタファーなんだけど、ジュリーはやっぱり理不尽なものを感じてたわけで、こんなことになる前にやんなきゃいけないことがあったんじゃないかっていう自省が働いたと思うのね。過去の過ちをなかったことにしちゃいけないっていう。

1981年9月にリリースされた34枚目のシングル「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」。(発売元/ポリドール)。ネオ・ロカビリー調で時代の最先端だった。
「我が窮状」を収録した45作目のオリジナル・アルバム。自主レーベルの「JULIE LABEL」より2008年5月にリリースされた。

佐藤見て見ぬ振りをしてきた自分たちに対する大人の責任を感じたんだと思う。そのコンセプトが2012年3月11日、震災から1年の“祈念”に出したミニ・アルバム『3月8日の雲』で爆発する。この作品以降すべて自身で作詞するようになって、ジュリーはある種の巡礼者になった。3.11だけじゃなくて世界の戦争も含めて、フラワーチルドレンである自分たちの本来の役割を考えて祈りを込めて歌っていく。

北沢だからいわゆる右の人たちに言わせると、「ジュリーは左だ」みたいなことになるけど、本当は右も左もない。だってフラワーチルドレンで、ラヴ・ジェネレーションなんだから。ラヴ&ピースを希求するのは当然なの。声高にMCでお客さんに呼び掛けたりはしないけど、コンサート会場に反原発の署名コーナーはある。そういうことを当たり前のようにやるっていう。不言実行なんだよね。有言実行っていう風にしないのがジュリー。そして権力に忖度しない。

佐藤「自分はこういう戦い方をする」っていうことを実践している。それがカッコイイ。メディアやテレビとか、売れる売れないとか、そういう物差しと一切関係ないところで発揮できる沢田研二という人の求心力。沢田研二自身がメディアだとか何とかを超えちゃった存在になってる。だから何かやったらそこに人が集まるわけで。それが“あの旗”なんですよね、きっと。

北沢今年6月に開催した、さいたまスーパーアリーナでのバースデーライブのステージに掲げた“あの旗”ですね。ジュリー曰く「白旗ではなく情熱の赤い旗」。ラヴ&ピース世代なりの筋の通し方を個人の力でどこまでできるかを、ジュリーはずっと歌を介して挑戦し続けてきた。だから「ジュリーの旗のもとに集まれ」っていうことですよね。

佐藤ジュリーそのものが、ある時代からずっとみんなのフラッグシップそのものだった。そこで時代が生まれ、時が流れていったということ。それを2023年に体感できるってこと自体が素晴らしいことです。あの日は歴史に残る奇跡的なモーメントでした。

北沢こうしていろいろと語ってきましたが、歌ってやっぱり最高の縁(よすが)だと思うんですよ。人は人生で何度も危機に陥る。そこでふと、好きだったあの歌を思い出して、そこで救われることってあると思う。ザ・タイガースでデビューして以来56年もの間、そういう歌を歌い続けてくれた人。それが僕らにとってのジュリーなんです。(終わり)

沢田研二(75歳)のイメージイラスト
イラスト/いともこ

企画・構成/中野充浩(ワイルドフラワーズ)、取材・文/久保田泰平、レコード提供/鈴木啓之、撮影/武政欽哉