どうにもとまらない
〜阿久悠が切り拓いた歌謡曲の時代②
どうにもとまらない 〜阿久悠が切り拓いた歌謡曲の時代②
馬飼野元宏(まかいの・もとひろ)音楽ライター
日本歌謡史に衝撃を与えた「どうにもとまらない」
阿久悠という作詞家の個性を伝える際、「無骨で男性的なイメージ」と「その世界の本質を捉える的確なワードと世界観の演出」というものがある。
この両輪、あるいは両者の融合によって、70年代の歌謡曲シーンに幾多のセンセーショナルな作品を送り出してきた。その象徴的な1作が、1972年6月5日にリリースされた山本リンダの「どうにもとまらない」(作曲:都倉俊一)だ。
この曲が歌謡史において、いかに画期的であったかは、阿久悠が提示したその女性像にある。主人公はいつでも楽しい夢を見て生きているのが好きな女。カーニバルの夜に恋の気分が高まり、誰と一夜をともにしようか、いわゆる「逆ナン」が始まるのだ。
タイトルの「どうにもとまらない」とは主人公の恋する気分を指している。これは恋愛の局面で女性が主導権を握り、男を選んでいる状況。ここまで女性主導型の歌謡曲はそれまで存在しなかった。その点がまず画期的なのである。
そして、楽しい夢を見ながら生きるのが好きな女とは、自分への自信と自己肯定感がないと得られない感情である。この主人公の自信と自己肯定感を下支えしているのは、圧倒的な美貌に他ならない。山本リンダは誰もがこの設定に納得できるだけの美貌とプロポーションの持ち主であった。
曲のタイトル変更が山本リンダの運命を変えた
山本リンダは雑誌「装苑」のファッションモデルを経て、1966(昭和41)年、15歳の時に「こまっちゃうナ」で歌手デビューを飾った。
作詞・作曲を手がけた遠藤実自身が代表取締役社長を務めるミノルフォンレコードの所属で、舌足らずな歌い方とキュートな美貌を持つ「可愛い子ちゃん歌手」として世に送り出され、デビュー大ヒットを飾る。創業以来ヒット曲のなかったミノルフォンは、この曲の成功で経営が軌道に乗り、リンダは瞬く間に人気スターとなった。
だが、インパクトの強さゆえ、後が続かず次第に人気は低迷。71年に心機一転、キャニオンレコードに移籍。この時期、キャニオンが属するフジサンケイグループでは、グループ各社を股にかけたプロジェクトとして、キャニオン所属歌手のうち1人をプッシュすることが決定、その白羽の矢が山本リンダに立ったのである。
甘ったるい歌い方の可愛い子ちゃん歌手から、彼女をいかに脱却させるか。プロジェクトチームに加わったのが作詞家の阿久悠と作曲家の都倉俊一であった。
キャニオンのディレクター渡辺雄三による「アラビアンナイト」というコンセプトのもと、楽曲は都倉俊一の曲先で作られ、しかもリンダのキーを確認することなしにいきなり曲を書き上げ、イントロからアレンジまで含め一気に完成したのが1972年の4月20日。その日の夜には阿久悠によって「恋のカーニバル」の題名で詞がつけられていたというから、噂通りの阿久悠速筆伝説を裏付けるものとなっている。
リンダの歌唱法もそれまでの舌足らずなカマトト唱法から、口を縦に開ける食い気味の歌い方へと変化したが、これは都倉の指示によるもの。極端なまでにデフォルメされた歌い方も、従来のイメージを払拭する「変身」が一つのキーワードになっていた故のことである。
完成された楽曲を聴いた阿久悠は、曲の面白さや歌唱のユニークさに比べ、「恋のカーニバル」のタイトルがいかにも平凡に思え、詞の締めにあたる1行をそのままタイトルへと変更した。「どうにもとまらない」とは、何を指しているのか曲を聴かなければ分からないが、なんだか面白そうな予感だけはしてくる。このタイトル変更こそが、この曲と山本リンダの運命を決定づけたのだ。
テレビの歌番組では、一の宮はじめによるダイナミックなボディ・アクションと、椎名アニカのデザインによるヘソ出しルックも強烈なインパクトを与えた。レコード産業の初期から存在する「お色気歌謡」は、この時代まで形を変えつつ脈々と続いていたが、ここに来てリンダ・チームの強烈なビジュアル・ショックによって、新たな時代の幕開けとなったのである。
新しい女性像と世界観を手にした作詞家・阿久悠
ポップス系の「お色気歌謡」の歴史において、1969年の奥村チヨ「恋の奴隷」が、あなた好みの女になりたいと、男性従属をベースにしつつも女性の強烈な自己主張で聴き手を圧倒し、1970年の辺見マリ「経験」では愛してないなら口づけするのはやめて!と女性の拒絶による明確な意志の表明があった。
作詞はそれぞれ、なかにし礼と安井かずみ。次第に女性主導へと傾いていく歌謡詞の変化が手に取るように分かる。そして1972年に阿久悠が「どうにもとまらない」で描き出した、女性が恋愛の局面において主導権を握り、快楽に身を任せることの喜びを歌い上げ、自己肯定感を高めていく世界観。まさに時代に対する斬新なアピールであった。
阿久にしてもその2年前、森山加代子のカムバック作として書かれた「白い蝶のサンバ」(作曲:井上かつお)では、まだ従来の男性従属型の女性観で表現されているので、山本リンダとの仕事は、新たな作風を体現できるまたとないプロジェクトであったに違いない。
もう一つ言及するなら、初期の阿久悠作品は北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」(作曲:村井邦彦)や黛ジュンの「とても不幸な朝が来た」(作曲:中村泰士)といったように、70年安保の世相を背景にした、どこか暗くて諦念に満ちた世界観が特徴であった。これが一気にポジティヴで開放的で、アッパーな作品を連打していく契機となったのが、「どうにもとまらない」に始まる山本リンダの一連の路線だったのである。
こうした阿久悠&都倉俊一&山本リンダによる、セクシーなビジュアルを武器にした女性上位歌謡は、「狂わせたいの」「じんじんさせて」と1曲ごとにエスカレートしていき、アラビアンナイト路線4作目に当たる「狙いうち」で、「この世は私のためにある」と女王様宣言に至る。
この華やかさ、自己肯定感、ポジティヴ思考による活力に満ちた歌世界は、その後主題こそ変えつつもフィンガー5やピンク・レディー、あるいは桜田淳子や岩崎宏美らのアイドル・ポップスでも展開されていく。
あらゆる点で歌謡史のターニング・ポイントとなった1曲が、「どうにもとまらない」であったのだ。