笠置シヅ子「東京ブギウギ」
〜戦後ニッポンの人々はブギのリズムに酔いしれた
笠置シヅ子「東京ブギウギ」〜戦後ニッポンの人々はブギのリズムに酔いしれた
佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)
悲しみを笑顔に変えたシングルマザー・笠置シヅ子
2023年秋スタートのNHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』は、ブギの女王・笠置シヅ子をモデルにしている。
1948(昭和23)年1月に笠置シヅ子の「東京ブギウギ」(作詞:鈴木勝/作曲:服部良一)がリリースされるまで、日本人にとっての大衆音楽=流行歌は、歌詞とメロディによる情緒的な体験がほとんどだった。しかし「東京ブギウギ」の登場で、誰もがブギのリズムに心をウキウキさせ、リズムに身を委ねる楽しさを知った。
「ブギの女王」の圧倒的な表現力にはそれほどのインパクトがあった。笠置シヅ子のパワフルな歌唱、ステージ狭しと歌い踊るパフォーマンスは、戦後ニッポン復興のエネルギーの象徴でもあった。
1947(昭和22)年。笠置シヅ子の最愛の婚約者が急逝。その悲しみのさなか、長女を出産。結婚を機に引退を決意していたが、それも叶わずに生きていくために再びステージに立つ決意をした。
そこで戦前からの音楽のパートナーであり、彼女の実質的なプロデューサーでもあった服部良一にステージへの復帰の決意を伝え、「先生たのんまっせ」と依頼。服部は笠置シヅ子の再スタートを応援するために、リズミカルなブギウギのスタイルで明るい調子の曲を作曲。それが「東京ブギウギ」だった。
レコード、ステージ、そして映画。一躍時代のスターとなった笠置シヅ子は、この時33歳。生まれたばかりの乳飲児を抱えて懸命に生きるシングルマザーでもあった。
電車の揺れをブキウギに取り入れた服部良一
「ブギウギ」スタイルは服部良一が戦時中からずっと温めていたものだった。太平洋戦争開戦の翌年、1942(昭和17)年。上海にいた服部は、アメリカの女性コーラス・グループであるアンドリュース・シスターズの「ブギウギ・ビューグル・ボーイ」の譜面を入手。戦争が終わったら、このリズムを活かしてブギウギ・ソングを作ろうと考えていた。
こんなエピソードがある。戦後を象徴するスタンダード曲となった、霧島昇の「胸の振子」(作詞:サトウハチロー/作曲:服部良一)のレコーディングを終えた日のこと。終電近くの中央線に乗って吉祥寺の自宅に帰る途中、服部は電車の振動に揺れる吊り革のアフタービート的な揺れに、八拍のリズムを感じて曲想が湧いた。電車の揺れがブギウギのリズムになったのである。
作詞を手掛けたのは、戦前はジャパンタイムズ、戦時中は同盟通信の記者といて上海勤務をしていたジャーナリストの鈴木勝。海外に禅を広めた仏教学者・鈴木大拙の養子で、スコットランド人と日本人のハーフという説もある。戦後は、鈴木アラン勝の通称で進駐軍の将校たちとも交流があった。
「東京ブギウギ」のレコーディングが行われたのが1947年9月10日。場所は内幸町(今の日比谷)にあったコロムビアのスタジオだった。その日、鈴木勝が声をかけて、隣のビルにあった米軍将校クラブから下士官たちがスタジオに押しかけてきた。スタッフが戸惑うなか、服部は「ムードが盛り上がるかも」とレコーディングを始めた。
笠置シヅ子のパンチのある歌声、ビートの効いたコロムビア・オーケストラの演奏。スタジオではGIたちが全身でそのサウンドにスウィングしていた。しかも、レコーディングであることをわきまえて一言も声を発さなかったという。
現在私たちが聴いている「東京ブギウギ」のファースト・レコーディングは、この日のセッションの現場の空気そのものがサウンドに凝縮されている。戦前の「スウィングの女王」はこうして、戦後の「ブギの女王」となったのだ。
「東京ブギウギ」は敗戦から立ち上がるエネルギーの源だった
笠置シヅ子は小学校を卒業した13歳の時に、OSK(日本歌劇団)の前身となる大阪松竹楽劇部に入団。少女歌劇のコーラス・ガールからトップスターとなった。その後、東京に拠点を移し、帝国劇場で松竹が立ち上げた男女混成のミュージカル劇団「松竹楽劇部(SGD)」でスウィンギーなジャズソングを歌い、派手なパフォーマンスで「スウィングの女王」と呼ばれる。
このSGDの音楽を手掛けていた服部良一は、彼女の才能を引き出すべく発声法から指導。1939(昭和14)年には、コロムビアで笠置シヅ子のレコードデビューを仕掛ける。そのデビュー曲「ラッパと娘」(作詞・作曲/服部良一)は、今聴いても強烈なインパクトがある。欧米のジャズシンガーと比べても遜色ない。それどころか、歌声のパワーと躍動感に、笠置シヅ子のシンガーとしての天賦の才を感じることができる。
しかし1941(昭和16)年、日本の真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争が始まり、ジャズは敵性音楽とされて、演奏することも歌うことも禁じられた。戦意昂揚の時局にふさわしくないと、ステージではマイクの前で 「三尺四方はみ出してはならない」と指導を受けた。持ち前のパフォーマンスが封印されてしまったのである。
それから6年。笠置シヅ子は服部良一の作曲した「東京ブギウギ」のリズムを全身で体現することになった。
「東京ブギウギ」は、1947(昭和22)年9月に大阪梅田劇場の舞台で披露され、続いて10月に東京有楽町・日劇で歌って注目を集めた。そしてレコード発売の直前、東宝の正月映画『春の饗宴』(監督・山本嘉次郎)の主題歌としてフィーチャーされ、映画の中で笠置シヅ子が歌い踊った。
長く辛い戦争。幾つもの悲しみに耐えて生き抜いてきた庶民たちが、敗戦後のショックから立ち上がろうとするエネルギーの源が「東京ブギウギ」だった。戦争中の「三尺四方はみ出してはならない」の制約から解放されて、舞台の端から端まで身体を揺らせてジグザグに動きながら、「東京ブギウギ」を満面の笑みで歌う笠置シヅ子に、人々は声援を送った。
こうして昭和20年代、笠置シヅ子は「ブギの女王」としてニッポンのエンタテインメントを牽引していくことになった。