佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)
「白い風船」の名でデビュー予定だったピンク・レディー
1970年代、日本中を席巻したピンク・レディー旋風。それまでの女性アイドルのターゲットは10代から20代にかけての男の子だった。ところがピンク・レディーは、幼稚園から小学生の女の子たちから圧倒的な支持を受けた。
子供たちはテレビの前でピンク・レディーの激しい振り付けをマスターし、小学校の校庭や街角では「UFO」(1977年/作詞:阿久悠/作曲:都倉俊一)や「サウスポー」(1978年/同)を歌って踊る子供たちで溢れていた。「女性アイドルは男性ファンのもの」という概念がこの時崩れたのである。
ピンク・レディーが「ペッパー警部」(作詞:阿久悠/作曲:都倉俊一)でデビューをしたのは1976(昭和51)年8月25日。日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』の決戦大会(2月18日)から半年後のスピード・デビューだった。
静岡県出身の根本美鶴代と増田啓子(現・惠子)は、『スター誕生!』でフォーク・デュオのスタイルで、コーラス・グループのピーマンの「部屋を出てください」(1974年/作詞・作曲:上岡健二)を歌って、ビクターとT&Cミュージックにスカウトされた。
トム・ジョーンズやダイアナ・ロスが好きな彼女たちは、ファンキーな洋楽ファンでもあったが、ビクターでは当初「白い風船」という名前で売り出そうとしていた。
それに対し異を唱えたのが、ビクターのディレクター飯田久彦、『スター誕生!』の審査員で作曲家の都倉俊一だった。都倉はホテルのバーで、カクテルの名前から「ピンク・レディー」を思いついて、スタッフ会議で提案した。
阿久悠・都倉俊一・土居甫らのオモチャ箱
彼女たちのデビュー曲を任されたのが、やはり『スター誕生!』審査員だった阿久悠。ピンク・レディーという名前が決まった瞬間、阿久悠は「決して日常的でないもの」「テレビという日常性を最大限に利用して作り出す非日常性」というコンセプトに絞り込んだ。
というのも、阿久悠と都倉俊一のコンビは、山本リンダではセクシーで万華鏡的な「アラビアンナイトの世界」、フィンガー5では子供たちが賑やかに小学生ライフを満喫する「アメリカンコミックの世界」と、非日常のエンターテインメント路線でヒットを連発していた。
そこで阿久悠は、ピンク・レディーにはその「非日常性」をさらに発展させた、アニメ的な「なんでもアリ」の世界を意識したという。
「ペッパー警部」を初めて聞いた時、僕は中学1年生だったが、「なんだ? これは!」と正直戸惑った。それまで恋愛や青春、日常を描いていた歌謡曲の世界に、いきなりリズミカルで、玩具箱をひっくり返したようなサウンドで、ピンク・レディーが登場したのである。
実は「ペッパー警部」は、コメディ映画『ピンク・パンサー』シリーズで、ピーター・セラーズが演じた「クルーゾー警部」をイメージして、阿久悠が作詞した“タイトルありき”だという。
しかも歌詞のシチュエーションが、1956(昭和31)年の曽根史郎のヒット曲「若いお巡りさん」(作詞:井田誠一/作曲:利根一郎)のパロディで、パトロールの巡査に「早く帰りなさい」と諭された若いカップルの女の子が、「私たちこれからいいところ」と反論するおかしさを狙ったのである。
昭和30年代の歌謡曲のパロディという仕掛けは阿久悠の遊びだが、さらには都倉俊一によるブラス・ロックのサウンド、テレビを意識した土居甫の奇想天外ともいうべき振り付けがあった。そこにミイとケイのフレッシュな若さの魅力が加わり、たちまちヒット曲となった。
リリースして3ヶ月後の11月には、日本歌謡大賞・放送音楽新人賞。大晦日には日本レコード大賞・新人賞に輝いた。ピンク・レディー・ブームがこうして始まり、翌1977(昭和52)年には大きな社会現象となっていく。
万国博路線と日本のポップカルチャー
阿久悠と都倉俊一、飯田久彦ディレクターは、ピンク・レディーの「非日常のエンターテインメント路線」をさらに発展させていった。第2弾「S・O・S」(1976年)は初のオリコン1位となり、振付がさらに複雑化した「カルメン’77」(1977年)、初のミリオンセラー「渚のシンドバッド」(1977年)と、ヒット曲が次々と誕生。空前のブームを巻き起こす。
阿久悠はプロジェクトを「万国博路線」と命名して、様々なカルチャーをポップにパロディ化。都倉俊一のアップテンポなソウルフルなナンバー、土居甫のディスコ・ダンスをベースにしたダンサンブルな振り付けで、ピンク・レディーの「万国博路線」はさらに深化していった。
テレビの前の子供たちや少女たちは、激しい振り付けを完全にマスターするだけでなく、アニメのヒロインのようにミイとケイに憧れて、自分たちもピンク・レディーになりきっていた。「ピンク・レディー人形」「ピンク・レディーおしゃれセット」などの女児向けの玩具やグッズが爆発的に売れた。
阿久悠は時代の空気を敏感にキャッチして、それをジャーナリスティックに、いかに面白く、いかに楽しく、ピンク・レディーに演じさせるか?を常に考えていた。ファンの期待を上回るだけでなく、時にはいかにそれをはぐらかして新鮮なものにするか。阿久悠は「ポップな浮世絵」のようなものを常に意識していた。
そうした作り手、プロデュース・サイドの想いを、圧倒的なパフォーマンスで表現したピンク・レディーは、1970年代後半から1981年の解散まで、日本の歌謡界のみならずポップカルチャーの台風の目、ピンク・タイフーンであり続けたのである。