フォークの歌姫・天地真理の清廉な世界

フォークの歌姫・天地真理の清廉な世界

馬飼野元宏(音楽ライター)

老若男女誰からも愛された大衆型アイドル

天地真理は、フォーク・タッチの爽やかなナンバー「水色の恋」で、我々の前に姿を現した。

シンガーの側面で語るなら、森山良子〜本田路津子のラインにあり、ベッツィ&クリスやシモンズとも共通する清廉なフォークの歌姫であった。同時にファルセットを駆使するヴォーカル・スタイルは、クラシックの素養も備えた彼女ならではの歌唱法だった。

この後、彼女の人気が急激に上昇し、国民的アイドルに成長していくに従い、歌の世界も変化していく。フォークからポップスへの路線変更である。

絶頂期の天地真理は、1972(昭和47)年5月21日発売の「ひとりじゃないの」に始まり、山上路夫&森田公一をメインライターに「虹をわたって」「ふたりの日曜日」「若葉のささやき」「恋する夏の日」と立て続けに大ヒットを飛ばす。その世界は、ほぼ同時期に登場したアイドル、南沙織や麻丘めぐみの世界とはかなり異なっていた。

1972〜73年にかけてNo.1ヒットを連発。天地真理は大衆型アイドルとして頂点に立った。提供/鈴木啓之(以下すべて)

アイドルポップスとは、ティーンでデビューしたアイドルが年齢を重ねるとともに女性としての成長を見せていくのが王道。だが、天地真理の楽曲にそうしたプロセスはない。

歌の世界でもキスは御法度。手も繋がない男女の関係性が永遠に続き、常に天使のような微笑を湛え、純粋に恋のときめきや愛することの喜びだけが歌われる。

明るい未来を信じ、ピースフルな世界を人々に届けてくれる天地真理は、同世代に発信するティーンズ・アイドルではなく、老若男女誰からも愛される「大衆型アイドル」だったのだ。

この役割を引き受けるのは、同世代に向けて発信するよりも遥かに難しい。これをやってのけた72年〜74年の天地真理は、まるでフェアリー(妖精)として時代に存在していた。

イラスト/いともこ

天地真理のアルバムには常にフォークの香りがあった

シンガー・天地真理の本質は、やはりフォークの世界にあったのではないか。ことにアルバムにはファースト以来、随所にフォークへの愛着を感じさせる楽曲がある。

3枚目の『虹をわたって』で、ビリー・バンバンの「さよならをするために」や森山良子の「美しい星」「この広い野原いっぱい」などをカヴァー。オリジナル曲でも吉田拓郎が作詞・作曲した「さよならだけ残して」や、松山猛&加藤和彦コンビの「風にねがいごと」「幸福な時間」など、随所でフォークの作家陣が天地真理の世界に彩りを与えていた。

そして1974年秋の「想い出のセレナーデ」で、ついに失恋ソングを歌い路線変更を果たす。この時期に発表したライブ・アルバム『天地真理オン・ステージ』では、「水色の恋」をアコースティック・ギター1本のバックで、符割りも変更して歌った。

他にはウディ・ガスリー「わが祖国」や森山良子の「愛する人に歌わせないで」なども歌唱。後半は洋楽ポピュラーのカヴァーとヒットメドレーという構成で、第一部で源流であるフォーク、第二部で現在地であるポップスのナンバーを披露しているのだ。

その後、天地真理の人気は次第に落ち着きを見せていくが、75年4月リリースの山上路夫&森田公一コンビの最終作「愛のアルバム」は、特に総括的な印象が強い。

そして、渡辺プロ、CBSソニーの両社ともスタッフが一新され、渡辺プロ側は原正志、ソニー側は白川隆三と、どちらも太田裕美のディレクターが天地真理を兼任する形となった。ソニーは白川の上司である酒井政利がプロデュースを務め、その第1弾として1975年9月1日にシングル「さよなら こんにちは」が発売される。

酒井や白川にとって必須の作曲家であった筒美京平を初起用。

「さよなら こんにちは」は、酒井や白川にとって必須の作曲家であった筒美京平を初起用。爽やかなカントリー・ポップ風の楽曲で、マイナー調のやや重い曲が続いていた天地真理を初期の軽やかなポップスに戻した。

具体的には「ひとりじゃないの」の頃への回帰である。作詞は山口洋子と安井かずみの共作という異色すぎる組み合わせを酒井が発案したが、筒美を含む三者とも天地真理には好意的で、特に山口は「真理ちゃん、恋をしなきゃダメよ」と彼女を励ましたという。

この時期のアルバム『小さな人生』には、フォークの好きな「隣のマリちゃん」のその後を示すような楽曲が多く収録された。また、松本隆&筒美京平コンビによる「レイン・ステイション」は名曲の誉高い。

続く「夕陽のスケッチ」は、作曲は引き続き筒美が、作詞はサトウハチローの弟子で純粋詩の作家である宮中雲子に依頼された。白川の中では、人気のピークを越した天地真理を、初期の屋根でギターを弾いている「隣のマリちゃん」時代に戻す意図があった。

初期のフォーク路線への原点回帰

第3弾は作詞に岩谷時子を迎え、やはり筒美の作曲による「矢車草」。デビュー曲「水色の恋」を彷彿とさせる、暖かで慈愛に満ちたフォーク調の楽曲が完成した。

「水色の恋」がアマチュアの作った素朴なフォーク・ナンバーであるなら、「矢車草」は岩谷=筒美というプロの作家が敢えてシンプルに書いたフォーク歌謡と呼べるだろう。ここで天地真理の世界は一巡して、デビューの頃へとたどり着いた。

1975〜76年にかけてのシングル。歌い手・天地真理の本質はフォークの世界にあった。

76年6月1日にリリースした2枚目のライヴ・アルバム『私は天地真理』。これは同年4月17日に東京・芝の郵便貯金ホールで開催された公演の収録だが、バンバン「『いちご白書』をもう一度」、吉田拓郎「春の風が吹いていたら」、イルカ「なごり雪」などフォーク作品のカヴァーが圧倒的に多い。

その中で、さだまさしが書いたグレープの曲が3曲も選ばれている。そのうちの1曲「告悔」について、歌う前のMCで「今日、私はこの曲を歌いたかったんです」と語っている。

心のままに生きてきたことで人を傷つけてきたと述懐する主人公が、他人はそれも知らず自分を謗り続ける、心のままに生きていくのはいけないことか?と問う楽曲だ。

当時の天地真理自身を取り巻く状況と、自身の心境をこの曲に投影したことは明らかで、ここに来て彼女はようやく「自分の歌いたい歌」を見つけたのかもしれない。

この後、岩谷時子と弾厚作(加山雄三のペンネーム)コンビによる「愛の渚」をリリースし、同年12月5日にシングル「夢ほのぼの」、12月21日には現在まで最後のオリジナル・アルバムとなる『童話作家』を発表。

タイトル曲はグレープの同名曲のカヴァーで、この曲はグレープのラストコンサートで初披露され、さだまさしのファースト・ソロ・アルバム『帰去来』に収録されたナンバー。そのほかA面は恩師である小谷夏(久世光彦のペンネーム)の作詞による連作が収録され、両面ともフォーク系の作品が耳に残る。

こうして時に時代の波に翻弄されながらも、大衆型アイドルとフォークの狭間で5年間歌い続けた天地真理は、美しくその円環を閉じた。