Part 1
馬飼野元宏 × 佐藤利明
センターがスーちゃんから、
ランちゃんに入れ替わった理由。
佐藤キャンディーズの音楽を語る上で外せないのが、渡辺プロのGS(グループ・サウンズ)人脈です。デビューの予定がなかったキャンディーズに注目し、自ら手を上げて音楽プロデュースを最後まで担当したのが渡辺音楽出版の社員であった松崎澄夫さん。彼はもともとアウト・キャスト~アダムスのボーカリストでした。そのアウト・キャストでキーボードを弾いていたのが穂口雄右さん。彼はスタジオ・ミュージシャンとして活躍していた。穂口さんもデビュー前のキャンディーズに注目していたら、そのプロデューサーが友人の松崎さんだった。そんな繋がりもあり、デビュー当初からキャンディーズの三人のボーカル・レッスンも担当していました。
馬飼野そして、キャンディーズの楽曲の多くにプレイヤーとして関わったのが水谷公生さん。彼もアウト・キャストとアダムスのギタリストでした。水谷さんは、筒美京平さんからファースト・コールがかかるミュージシャン。筒美作品から起用されるということは、洋楽的なビート感覚を持っているミュージシャンということなんです。
佐藤アウト・キャストの元メンバーたちによる自由裁量が認められるようになっていくと、サウンドが進化していき、ファンもそれを受け入れられるようになった。「なみだの季節」までが第1期だとすれば、続く「年下の男の子」が第2期キャンディーズの始まりです。
「なみだの季節」を手がけた作詞・千家和也、作曲・穂口雄右のコンビが続投し作られたのが、初のヒット曲となる「年下の男の子」だった(1975年2月21日発売/最高位9位)。この曲から、センター及びリード・ボーカルがランちゃんこと伊藤蘭に替わった。
佐藤『8時だョ!全員集合』やラジオ番組で、彼女たちのキャラクターが少しずつ見えてくるようになって。隣の女の子というか、クラスの中でも気さくで一緒に遊びに行ける女の子みたいなポジションを、本人たちも意識するようになったんじゃないかな。
馬飼野そんな中でファンレターの多さなどから見ても、一番人気はどうやら伊藤蘭だと。彼女が持つそこはかとない色気も相まって、ファンはお姉さん的な感覚で彼女のことを見ていた。それを意識して「年下の男の子」が生まれて、リード・ボーカルもランちゃんが担当するようになった。
佐藤キャンディーズが自分たちの世界と繋がったんです。「あ、これは俺のことだ!」ってね(笑)。続く「内気なあいつ」もまたいい曲なんですよ。ランちゃんのソロパート、メンバーとのユニゾンで気持ちいいなと思ったところに、間奏でスキャットが入る。三声和音から二声和音への移り変わるところが素晴らしい。キャンディーズってコーラスが弱いと思っている人が多いけど、とんでもない。素晴らしいクオリティですよ。やっぱり3人それぞれの声質とハーモニーを音楽的に意識して作られていたから。
馬飼野穂口さんはレッスンを担当しながら3人の歌い手としての、その時々の歌唱レベルを把握していた。だから「このくらいなら彼女たちは歌えるだろう」と踏んでいたはずだし、その後も難しい曲を次々とぶつけて、彼女たちをステップアップさせていった。
佐藤そこでさらに進化したのが7枚目のシングル「その気にさせないで」(1975年9月1日発売)。ピンク・レディーの登場前に、和製フィリー・ソウルといっていい素晴らしい楽曲が生まれていたという。ただ、この曲も最高位は17位でした。ボーカルやサウンドのクオリティは高まるけど、結果が追いついてこない。そこで作られたのが「ハートのエースが出てこない」(1975年12月5日発売)でした。
「ハートのエースが出てこない」は通算8枚目のシングル。作詞・竜真知子、作曲・森田公一、編曲・竜崎孝路。森田は20ヶ月ぶりの登板。歌い出しでサビから始まる構成がインパクト大な楽曲で、最高位11位を記録した。
馬飼野楽曲のインパクトもさながら、女性作詞家が書いた女の人の気持ちっていう視点も重要です。例えば千家和也さんの「その気にさせないで」と「ハートのエースが出てこない」を比較してみると面白い。「その気に~」が大人の男に振り回される若い女の子だけれど、「ハートの~」には「あいつ」という言葉が使われているように、同等の立場か年下の男の子の態度にやきもきしている感覚。似たような設定でいて、かなり違うんです。
アイドルソングとは一線を画した、
「春一番」の革新性。
佐藤キャンディーズは歌い手としての実力を高めていき、また番組のアシスタント的な存在から、10代の男の子たちにとっての世代間アイドルとしての人気を確実なものとしてきた。そんな中で彼女たちがもう一つ高いところに向かいながら、天地真理のような、お年寄りや子供も含めた大衆アイドルになったのが、「春一番」(1976年3月1日発売)でした。
9作目のシングル「春一番」。作詞・作曲・編曲は穂口雄右。前年1975年4月に発売されたアルバム『年下の男の子』の収録曲であった。ライブで披露されるごとに人気曲に育っていき、その後シングルカットされるという、当時としては珍しいパターンでのリリースとなった。最高位3位を記録。
馬飼野穂口さんが最初に作曲した時に、メロディーにガイドとして仮の歌詞をつけていたそうなんです。当初作詞を担当するはずだった千家和也さんが「言葉とメロディーが一体化しているし、これは最後まで君が書いたほうがいいよ」と言って、二番の歌詞まで穂口さんが書ききったという。この曲が画期的なのは、一人称の「私」も二人称の「あなた」も出てこない点。だから、いわゆるアイドルのラブソングとは全然違うテイストの歌詞になってます。ところが渡辺晋社長はこの曲をシングルにすることは反対だったみたいなんですね。そこで松崎さんやCBS・ソニーの人たちがファンクラブを動員して、「『春一番』をシングルにしてくれ!」っていうファンレターを事務所にバンバン送らせた。その勢いに負けてついにOKが出た。
佐藤この曲が発売されたのが、ちょうどピンク・レディーが『スター誕生!』の決戦大会に出た翌週あたり。オンエアもほぼ同じ頃。1976年のここからが歌謡史的にはとても重要になってくる。キャンディーズはこの曲で最高位が3位。全17枚のシングルのうちの9枚目。活動歴でいえば半分まで来てやっとヒットするっていうのが面白い。そしてこの頃の活動でもう一つ大事なのが、ライブです。
馬飼野前年の1975年の10月19日には、蔵前国技館にて『10,000人カーニバル』が開催されています(同年12月21日にライブ盤としてリリース)。バックバンドを担当したのは、MMP(ミュージック・メイツ・プレイヤーズ)で、ザ・ワイルドワンズのチャッピーこと渡辺茂樹さんと、新田一郎さんをはじめとする、後にスペクトラムとして活躍するミュージシャンたちによって構成されました。
佐藤ザ・ワイルドワンズは加山雄三さんの流れを汲む、加瀬邦彦さんの薫陶を受けた正統派なGS。一方アウト・キャストは、若い子たちがやりたい放題やったマニアックなバンド。この2つの異なるうねりが融合したのが、キャンディーズという場所だった。GSが生み出した最大のスターがジュリーやショーケンっていうのはあるけれど、もう一つGSが生み出した最大の功績は、キャンディーズのサウンドだったとも言える。
馬飼野このMMPを引っ張ってきたのが、当時キャンディーズのマネージャーで、その後独立してアミューズを立ち上げる大里洋吉さんでした。
佐藤MMPの激しいロック・サウンドに、3人がボーカリストとしてしっかりと立っていて。しかもMCとか各メンバーのソロ・コーナーでは、自分で曲を書いたりもして。さらには洋楽のカバーも歌っていく。そこで若いファンたちはテレビの彼女たちの姿とはまた異なる、自分たちだけのキャンディーズを発見していく。単発ヒットにこだわることなく、ファンとアーティストの垣根を越えた深い関係性が生まれていった。これを僕は“キャンディーズのバンド化”と読んでいます。この「ファンとの絆」こそが、キャンディーズがさらなる高みに昇っていくための大きな力になっていきます。
(Part 2に続く)