Part 1
馬飼野元宏 × 佐藤利明
キャンディーズとピンク・レディー。ともに国民的な人気を集めながら、1970年代を瞬く間に疾走していったガールズ・グループである。
両者はしばしばライバルとして比較されることがあったが、キャンディーズは1973年9月から1978年4月まで、ピンク・レディーは1976年8月から1981年3月までと、活動期間が重なりあった時期は意外なほどに短い。
まったく異なる魅力を備えたこの両者が活躍した1970年代。リアルタイムにリスナーとして触れた二人の書き手、佐藤利明(1963年生まれ)と馬飼野元宏(1965年生まれ)が、2組のアイドルの足跡を振り返りながら、未だ輝きが失せることのないその魅力を熱く語り合う。
貴重映像から再発見した
ピンク・レディーの凄さ。
キャンディーズが「春一番」でヒットを飛ばした1976年、ピンク・レディーが衝撃的なデビューを飾ろうとしていた──。国民的アイドルの座を昇り詰めたピンク・レディーは、時代にどんなインパクトを与えたのか。そして現代だからこそ、より深く知ることができるピンク・レディーの本当の魅力とは何か。今年コンパイルされた映像作品をきっかけに紐解いてみよう。
佐藤今年4月に6枚組DVD『Pink Lady Chronicle TBS Special Edition』が発売されました。『8時だョ!全員集合』や『ザ・ベストテン』をはじめとするTBS所蔵のすべての映像からピックアップされた見応えのある内容です。
馬飼野ヒット曲だけでなく、スティーヴィー・ワンダーの「サー・デューク」やダイアナ・ロス(ザ・シュープリームス)の「ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ」のような洋楽カバーを歌う映像も収められています。
佐藤未唯mieさんと増田惠子さんにとても喜んでもらえました。この仕事に携わったことで、僕自身もピンク・レディーの凄さを再発見しました。
佐藤僕は当時キャンディーズのファンだったので、1976年夏にピンク・レディーが「ペッパー警部」でデビューした時、「何だこれは!」という驚きがファースト・インパクト。自分たちのキャパシティを超えた、ある種の飛び道具的な存在に映った。二人は本来は洋楽志向がとても強かった。スタッフもその感覚をしっかり受け止めて、彼女たちのステージで発揮しながら、遂にはアメリカ進出を実現させ、全米ビルボード37位という快挙を果たしました。
馬飼野当時のマスコミの論調としては、ピンク・レディーはアメリカ進出で大した成果を得られなかったという印象が強かったけれど、全米ビルボード37位というのは凄いことですよね。日本人がアメリカのヒットチャートを駆け上がるのは、1963年の坂本九さんの「上を向いて歩こう」以来のことでした。
佐藤そうなんです。実はあの頃、リアルタイムでは日本にその功績がほとんど伝わらなかった。ピンク・レディーがアメリカで挑戦してその成果を得ていたことは、日本の歌謡界を超えた、世界のショービジネスの中での出来事だった。そこに気付けたのは今回の仕事の収穫でした。
馬飼野未唯mieさんも増田惠子さんも、それぞれが今もライブ活動を続けていて、二人ともピンク・レディーのヒット曲を当時の振り付けでちゃんと歌い続けている。60代に入ってもダンスのキレが良くて、ボーカルもさらに進化していて、衰えることなくピンク・レディーであり続けている。
佐藤それは伊藤蘭さんが自身の音楽活動で、今もキャンディーズを持続していることと一緒なんです。この2組が今なお現役であり続ける喜びを噛み締めて、みんなでセレブレーションするというのは、とても大事なことだと思います。
デビューからいきなり巻き起こった
ピンク・レディーのタイフーン。
1976年8月25日、ピンク・レディーのデビュー曲「ペッパー警部」(作詞:阿久悠/作曲:都倉俊一)がリリースされた。奇抜なタイトルと歌詞、超ミニ・スカートの衣裳、土居甫による大胆な振り付けが話題となり、お茶の間に大きな衝撃が走る。デビュー曲にして最高位4位を記録する大ヒットとなった。
馬飼野「ペッパー警部」でピンク・レディーが登場した時は新しさを感じてすぐに好きになりました。ただ、キャンディーズと比べるとかそういうのはなくて、「キャンディーズも凄いし、ピンク・レディーも凄い」という印象。覚えているのは『輝け! 日本レコード大賞』の新人賞を受賞した時。予選に入る前から物凄い勢いで順位を伸ばして確か2位まで上がった。8月にデビューして、その年のレコ大の新人賞に選ばれるってあまりないことなので。
佐藤ピンク・レディーの最大瞬間風速がいかに凄かったかということの証です。デビュー前に遡ると、ミーちゃんとケイちゃんは中学校の同級生。演劇部で一緒になって仲良くなり、同じ高校に進学します。そこで彼女たちはスカウトされるのではなく、自分たちの意思で歌のレッスンを受け、プロになろうと思い立った。最初は組むつもりはなかったけれど、レッスンの先生から「二人でやりなさい」とアドバイスを受けた。
馬飼野それが16歳の頃に組んだ「クッキー」というフォーク系のグループでした。ポプコンの地区大会決勝にも進出して、ヤマハに所属して、セミプロみたいな形で活動していました。
佐藤その後『スター誕生!』に出場して、ビクターの飯田久彦さんと後のT&C(所属事務所)でマネージャーとなる相馬一比古さんからプラカードが上がって合格となった。いわゆる大手じゃないところが、彼女たちの可能性を感じてスカウトした。そこがピンク・レディーの大躍進を生み出す、きっかけの一つであったのかもしれない。
馬飼野フォークっぽいイメージで売り出そうとしたビクターの幹部に対して、飯田さんとスタ誕の審査員でもあった作曲家の都倉俊一さんが異を唱えて、「ピンク・レディー」というグループ名を提案しました。
佐藤その名前からインスパイアを受けて、同じく審査員を務めていた作詞家の阿久悠さんが、「決して日常的でないもの」「テレビという日常性を最大限に利用して作り出す非日常性」というコンセプトを生み出した。
馬飼野1970年代後半。阿久悠さんと都倉俊一さんは、山本リンダの「どうにもとまらない」「狂わせたいの」「狙いうち」などのヒット曲で、ナイトクラブのアトラクションっぽい、虚構のアラビアン・ナイト的な世界を描いた。一方でフィンガー5では、ローラースケートを履いてポップコーンを頬張るような、アメリカの小学生みいな世界を、ジャクソン5系のソウル・ミュージックに投影させて描いた。
佐藤愛だの恋だの、生きるか死ぬかのような、日常と繋がっていないと売れないと思われていた歌謡曲の世界で、2つの成功事例を築いた阿久悠さんと都倉俊一さんは、ピンク・レディーという名前から誰も予想がつかない展開で曲を作っていきます。言うなれば「絵空事路線」です。
次のページへ
日本中が「絵空事路線」に熱狂した。