特別対談 ピンク・レディー(Part2)

特別対談 ピンク・レディー(Part2)

Part 2

馬飼野元宏 × 佐藤利明

キャンディーズとピンク・レディー。ともに国民的な人気を集めながら、1970年代を瞬く間に疾走していったガールズ・グループである。

両者はしばしばライバルとして比較されることがあったが、キャンディーズは1973年9月から1978年4月まで、ピンク・レディーは1976年8月から1981年3月までと、活動期間が重なりあった時期は意外なほどに短い。

キャンディーズとピンク・レディーを熱く語り合う対談企画。
Part 1 に続く今回のPart 2では、ピンク・レディーが「UFO」など最大級のヒット曲を連発して、日本中を席巻した1978年からスタート。

イラスト/いともこ

土壇場で作り直された
大ヒット曲「サウスポー」。

1977年12月5日にリリースされた6枚目のシングル「UFO」。10週連続1位を記録し、1978年度の年間1位も獲得。195万枚を売り上げ、グループ3度目のミリオンセラーとなった。

馬飼野1977年12月に発売された「UFO」は、年をまたいでもセールスの勢いがまったく止まらなかった。そんな中、1978年1月19日に放送を開始した『ザ・ベストテン』の第1回で1位を獲得します。ちなみに2位はキャンディーズの「わな」でした。さらに「UFO」のシングル発売と同日に、初のベスト・アルバム『ベスト・ヒット・アルバム』も発売されて、これがめちゃくちゃ売れた。

佐藤作詞家・阿久悠、作曲家・都倉俊一のコンビが、圧倒的な快進撃を続けました。歌詞を読めば、明らかにセックスを連想させるものもあったけど、なぜかいやらしくない。だから親も警戒することなく、子供世代も巻き込んだヒットとなりました。

馬飼野阿久悠さんってモラリストですよね。1936(昭和11)年に警察官の息子として生まれて、大学を出てから広告代理店に就職したキャリアがあります。自由人として仕事をしていなくて、クライアントから来た仕事と誠実に向き合って、そこに自分をプラスして広げていくという仕事のスタンス。ちゃんと枠を踏まえながら、新しい試みを展開していく。そこが阿久悠さんの独特な作風に繋がっているのだと思います。

佐藤このピンク・レディーの「絵空事路線」でミリオンセラーを連発して、「次をどうするか」ということのループ。そして1978年3月25日、プロ野球の開幕に合わせて出したのが、7枚目のシングル「サウスポー」でした。人気漫画だった水島新司の『野球狂の詩』の主人公・水原勇気や、集英社文庫から出ていた『赤毛のサウスポー』という小説からインスパイアされたような、女性の野球選手がテーマでした。

スマホもSNSも何もない時代なのに、信じられないスピード感で動いていた。 佐藤利明

馬飼野実は当初、発売された楽曲と歌詞が違って、曲調もテンポも異なるものでした。レコーディングも済ませてプレス作業している最中に、ディレクターの飯田久彦さんが「この曲調ではキャッチーではないし、100万枚を割ってしまうかもしれない」と判断して、工場に連絡してプレスを止めた。そしてすぐに都倉俊一さんに連絡して、リテイクしたいので曲を変えたい。阿久さんに歌詞を変えるよう説得してほしいとまでお願いしています。

佐藤都倉さんはそれを承諾し、次の曲調を考えながら、その日の夜のパーティーで阿久悠さんと話をした。翌日にはレコーディングしないといけないから、阿久さんは真夜中に詞を書き始めた。そこで閃いた設定が、王貞治という現実のヒーローを絵空事の世界に投入すること。世界一の野球選手を敵役にして、決め手に欠けていた女性ピッチャーというキャラクターを強く際立たせることに成功しました。

馬飼野阿久さんは朝4時ぐらいに歌詞を書き上げて、それを飯田さんが都倉さんの事務所のポストに入れて。都倉さんは作曲し直してアレンジも新たに起こして、昼までに譜面を完成させた。そこからオケを録って、夕方にピンク・レディーを呼んで歌入れをして、てっぺん(0時)までにはトラックダウンまで全部仕上がって、最後にプレス工場に持ち込む……という離れ業をやってのけたんですよね。

“お茶の間”にいる僕でさえ、「ピンク・レディーが大賞」だと分かっていた。 馬飼野元宏

大ブレイク中に計画された
ラスベガスのショー。

佐藤一晩でできあがったものだけど、楽曲として完璧なんです。それを彼女たちはテレビ番組の収録やコンサートツアーも行いながら歌いこなして、さらに精度を上げていった。この頃、ピンク・レディーはアメリカに渡っていますが、実はラスベガスのホテルでショーを行なっていた。『スター誕生!』を生んだ日本テレビの名物プロデューサー・井原高忠さんが演出を手掛けました。このラスベガスでの挑戦が、洋楽志向の強かった彼女たちの心に新たな火をつけた。そして翌年のアメリカ進出に繋がっていきます。

馬飼野大ブレイクしている最中に何週間か渡米してショーをやるなんて、普通はなかなかやらないこと。こうして自由な感じでできたのも、T&Cという所属事務所が小規模の会社だったからかもしれない。渡辺プロみたいな大手のフォーマットもないし、先輩・後輩のしがらみもないですし。

佐藤国内では「モンスター」(1978年6月25日発売/最高位1位)「透明人間」(1978年9月9日/最高位1位)が発売。「透明人間」は、阿久さんが子供の頃に観た映画『透明人間現る』(大映)から着想したもので、阿久さんの「怪奇・モンスター路線」とでも言いましょうか。リリース直前にラジオで流れて、その日の夕方までに60万枚の追加注文が入ったという。

馬飼野「新曲のタイトルや歌詞を金庫に入れていた」って話ですよね(笑)。一度「百発百中」という曲の譜面が流出してしまって、その譜面から起こしたカラオケが先に出回ったという事態がありました。いい曲だったけど結局A面にはならなくて、『NTVザ・ヒット! ピンク百発百中』という番組のテーマソングとして使われました。それで「百発百中」がバレたことで作られたのが、実は「透明人間」だった。正直、この曲で頭打ちかなと当時の僕は思いました。それまでの曲に比べると、歌詞が理屈っぽく感じたんです。

佐藤大ヒットしたシリーズ映画と一緒で、展開がマンネリ化してしまう。「UFO」「サウスポー」という爆発的なヒットの後、「モンスター」はうまく引きずったけど、やっぱりその後は少しずつ売り上げが落ちていく。そんな中、1978年の大晦日に「UFO」で第20回日本レコード大賞を受賞します。ちょうどキャンディーズが引退した年の年末の出来事でした。

馬飼野毎年のようにジュリー(沢田研二)と争っていましたが、お茶の間にいる僕でも、「今年は確実にピンク・レディーが大賞を獲るな」と思っていました。

佐藤1978年の夏には後楽園球場でコンサートを開催します。後にアルバム『'78 ジャンピング・サマー・カーニバル』として発売されましたが、A面はまるまる洋楽カバー。B面も半分はビートルズなどの洋楽メドレーで、彼女たちがいかに洋楽志向だったかを物語っています。

馬飼野そのコンサートに、アメリカのワーナー・ブラザーズの子会社であるワーナー・レコードのプロデューサーが観に来ていた。

佐藤その時のステージに興味を持って、ピンク・レディーにアメリカで勝負をしないかと提案します。日本側からアプローチしたのではなく、ラスベガスでのショーに訪れたのでもない。日本国内でのコンサートを観ての評価でした。そこからピンク・レディーチームは、アメリカ進出という方向へと本格的にシフトしていきます。