特別対談 ピンク・レディー(Part2)

特別対談 ピンク・レディー(Part2)

Part 2

馬飼野元宏 × 佐藤利明

イラスト/いともこ

ピンク・レディーは日本が誇る
ディスコ・クイーンだった。

ピンク・レディーは、1978年12月5日に10枚目のシングル「カメレオン・アーミー」(最高位1位)を、翌1979年3月9日には11枚目のシングル「ジパング」(最高位4位)を発売。「S・O・S」から継続していたチャート1位を獲得できず、デビュー曲以来続いた100万枚突破の記録も途絶えてしまう。しかし、ピンク・レディーの世界進出プランは着々と進んでいた。

馬飼野1979年1月、ピンク・レディーはLAで「Kiss In The Dark」という曲をレコーディングします。これをプロデュースしたのが、レイフ・ギャレットやショーン・キャシディを手掛けたマイケル・ロイド。アメリカのティーン向けの音楽を作ってきた音楽プロデューサーがピンク・レディーを預かった。

佐藤この「Kiss In The Dark」が、1979年5月1日に日本を除く世界40カ国で同時発売されました。6月に全米ビルボードチャートで63位を記録。そして7月下旬には37位まで上昇した。全米TOP40に入ったのは、坂本九さん以来の快挙でした。

馬飼野日本ではその頃「ジパング」、ヴィレッジ・ピープルのカバー「ピンク・タイフーン(In The Navy)」(1979年5月1日発売/最高位6位)、ビーチボーイズのメンバーがコーラスで参加したバージョンも収められた「波乗りパイレーツ」(1979年7月5日発売/最高位4位)がリリースされていました。

佐藤でも、海外でのプロモーションに注力するあまり、日本での活動がほとんどできていなかった。「Kiss In The Dark」がアメリカで売れたのは事実なのに、この曲が日本で発売されたのは9月5日で、リアルタイムで話題に上がらなかった。ただ、この時代はディスコブーム全盛だったから、アメリカの一番新しいサウンドにどんどん接近していく。ちなみに「Kiss In The Dark」の5分21秒のリミックス・バージョンは、めちゃカッコいいです。

馬飼野最初の頃は彼女たちのこうした志向を、ビクターの方も把握できていなかったんでしょうね。ファースト・アルバム『ペッパー警部』のB面はベイシティ・ローラーズなどの洋楽カバーが収録されていましたが、これは当時人気があったからというだけの選曲だったはずで。ファースト・コンサートもロックンロール系のカバーが多かった。だけど彼女たちはスタイルも良いし、モータウンのようなショーアップされたソウル・レビューがとても似合っていた。

佐藤ステージ上でいえば、稲垣次郎とソウル・メディアがバックバンドを務めていました。稲垣さんは西城秀樹のサウンドも手掛けていたサックス奏者。ステージの編曲は稲垣さんと同世代で、ジャズ・ブームの申し子でもあった前田憲男さんだったから、前田さんの持っているゴージャスさやショーアップされた感覚と、稲垣さんのファンクのテイストが合致して、そこに彼女たちの抜群なリズム感がガッツリ噛み合っていく。

馬飼野阿久さんと都倉さんが考えていた「絵空事路線」から、コンテンポラリーな「大人路線」に移っていきましたよね。その大人路線は、当時の日本ではテレビ的ではなかった。

佐藤ピンク・レディーの所属事務所は規模としては小さいので、大手はこのタイミングでマスコミを使って、「ピンク・レディーは下火になった」というようなバッシング的な扱いを始めた。帰国したら逆風が吹いていた。あの時「Kiss In The Dark」の成功をみんなでセレブレーションできていたら、ピンク・レディーの歴史は変わっていたのかもしれない。その思いは今でもあります。

ピンク・レディーのターニング・ポイントとなった「Kiss In The Dark」。全米TOP40入りは、坂本九の「上を向いて歩こう」以来の快挙だった。

馬飼野「Kiss In The Dark」の日本発売のわずか5日後にリリースされたのが、「マンデー・モナリザ・クラブ」(1979年9月9日発売/最高位14位)。阿久さんと都倉さんが「彼女たちが歌いたい曲を作ってあげよう」と提供した楽曲でした。これがいい曲で。

「マンデー・モナリザ・クラブ」は、ミッドナイト・リズムなどを手掛けたロビー・アドコックがプロデュースを担当。ロサンゼルスでレコーディングが敢行され、7分を超える12インチ・バージョンも存在する。

馬飼野1979年は「ジパング」に始まって、シングルを6枚も出した。5月に「ピンク・タイフーン(In The Navy)」を出して、和製ディスコを作ろうという流れもあったと思います。ビクターがディスコやダンス・ミュージックに強いメーカーでもあった。遡れば、ビクターの最初のヒットが「東京音頭」でしたからね(笑)。

佐藤それまでは阿久さんと都倉さんが、コマーシャリズムの中で作ってきましたが、ここで等身大の彼女たちの歌を作った。二人へのプレゼントですよ。1970年代末に日本の歌謡曲が、和製洋楽として本場の洋楽に近づいた。最大瞬間風速にアメリカで37位になったことが重要だった。彼女たち自身がディスコ・クイーンになった。ABBAなんかと双璧なポジションです。

キャンディーズもピンク・レディーも、まだ進化している。

これから先もずっと、
夢を一緒に見続けたい。

1980年に入っても海外活動を続けながら、「愛・GIRI GIRI」(1980年3月5日発売)、「世界英雄史」(1980年5月21日発売) をリリース。しかし、日本でのメディア露出が減少したこともあって、チャートアクションは低迷していく。そして1980年9月1日、ピンク・レディーは解散を宣言。1981年3月31日に後楽園球場で解散コンサートを開いた。

馬飼野ピンク・レディーは解散したけど、“引退”はしなかった。未唯mieさんも増田惠子さんも、ソロ・アーティストとしてしっかり活動していて、それぞれヒット曲も出しています。

佐藤1984年に奇跡の再結成を果たして、アルバムもリリースしました。一夜限りで行った渋谷公会堂のライブが神がかり的に良くて、メドレーの完成度が凄まじかった。そこでピンク・レディーは永遠になったんです。以来、1970年代のいろいろなものを再現して、みんなの記憶のスイッチを入れながら、この対談の最初に語ったように、衰えることなく進化し続けている。

馬飼野80年代、90年代、ゼロ年代と、このディテールをやり続けていることの凄さ。懐かしくならない現在がある。それは伊藤蘭さんによってキャンディーズが持続しているのと同じように、ピンク・レディーも現在進行形です。

佐藤キャンディーズは、僕らファンも一緒になりながら、彼女たちを育てていって、最後を見送るまでのいわゆる「共通体験」でした。一方ピンク・レディーは、バックボーンも何もない小さなプロダクションと、当時は大手ではなかったレコード会社のチーム、そして阿久悠と都倉俊一というクリエイターが、一緒に夢を見ながら作ったアイドルだった。その夢の実現が、歌謡界を大きく変えるモンスター級のスター生み出した。それがピンク・レディーだったのです。

おわり

企画・構成/中野充浩(ワイルドフラワーズ)、取材・文/宮内健、撮影/武政欽哉、レコード提供/鈴木啓之