テレビの黄金時代を駆け抜けた伝説のクレイジーキャッツ

テレビの黄金時代を駆け抜けた伝説のクレイジーキャッツ

佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)

最後のクレイジーキャッツ

ハナ肇とクレイジーキャッツのベーシストで、「ワンちゃん」のニックネームで親しまれた犬塚弘さんが先日亡くなられた。94歳、まさに大往生である。

メンバーの植木等、ハナ肇、谷啓、桜井センリ、石橋エータロー、安田伸の六名はすでに亡くなり、「最後のクレイジー」として犬塚さんは生涯現役を貫いた。晩年はテレビ番組やトークショーで、クレイジーキャッツのエピソードを語り、遅れてきた世代にも、クレイジーキャッツの黄金時代の雰囲気や空気を伝えてくれた。

クレイジーキャッツは昭和30年代から40年代にかけて、『シャボン玉ホリデー』(NTV)でテレビの黄金時代を築き、青島幸男作詞、萩原哲晶作曲による「スーダラ節」「ドント節」「ホンダラ行進曲」「ゴマスリ行進曲」などのノヴェルティ・ソングの数々が爆発的に大ヒット。

映画にも進出して『ニッポン無責任時代』(1962年/東宝)に始まる「東宝クレージー映画」は9年間に30作も公開された。つまり、テレビ、レコード、映画のメディアミックスにより、クレイジーキャッツは「黄金の1960年代」の象徴的なグループとなった。

クレイジーキャッツの笑いの裏側には、本物の音楽スキルとエンターテインメント精神が備わっていた。提供/鈴木啓之

ジャズマンたちの転身

ハナ肇とクレイジーキャッツが結成されたのは、1955(昭和30)年のこと。戦後、昭和20年代の空前のジャズ・ブームの中、ミュージシャンとして米軍キャンプ周り、キャバレーで演奏していた若者たちが30代に差し掛かり、転機を迎えていた頃でもあった。

というのも、1952(昭和27)年、サンフランシスコ講和条約発効により、進駐軍が撤退。それまで米軍キャンプで演奏していたジャズマンたちの仕事の場がなくなっていた。

スイングジャズからビバップ、そしてラテンブームと、若者の音楽の趣向も大きく変わっていた。ビル・ヘイリーと彼のコメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の衝撃が世界を走り、エルヴィス・プレスリーがデビューする。そんな時代である。

他のバンドをクビになったばかりのドラマー・ハナ肇が、萩原哲晶とデュークセプテットのベーシストだった犬塚弘に、「ワンちゃん、コミックバンドやらねえか」と声を掛け、1955(昭和30)年4月1日にハナ肇とキューバンキャッツを結成。

なんと犬塚のバンドのリーダーだったサックス奏者・萩原哲晶も「ならワタシも入ります」と、自分のバンドを解散して参加してしまった。ちなみにデクさんこと萩原はのちに作曲家に転向して、最初に書いた曲が植木等のデビュー曲「スーダラ節」となる。

やがて、冗談音楽で一世を風靡していたビッグバンド、フランキー堺とシティ・スリッカーズに在籍していた、トロンボーンの谷啓、ギタリストの植木等が参加することになり、キューバンキャッツは、いつしかハナ肇とクレイジーキャッツに改名した。

こうして昭和20年代のジャズ・ブームのなか、活躍してきたジャズマンたちがクレイジーでコミカルな演奏をして、やがて人気グループとなっていく。

テレビ時代の到来

クレイジーキャッツは当初、米軍キャンプ、キャバレーでのアトラクション、ジャズ喫茶での演奏で各地を回っていた。すでにギャグをふんだんに入れた演奏で多くのファンを獲得。演奏はロカビリー時代に相応しく、さらにスピーディーでパワフルなものになっていた。

ちょうどその頃、民放テレビ局の開局ラッシュとなり、フジテレビ開局の翌日にスタートした風刺コント番組『おとなの漫画』(1959〜64年)への出演が彼らの運命を大きく変えることとなる。

月曜から土曜、10分間(当初は5分)の生放送で、その日の朝刊から話題のニュースを取り上げてコントにして、クレイジーの面々が演じるというもの。コミックバンドだった彼らだが、放送時間の関係でバンド演奏はなくなり、コメディアンとしての個性がここで爆発する。

その演出をしていたのが、のちにザ・タイガースの楽曲を手がける作曲家・すぎやまこういち。当時はフジテレビのディレクター、プロデューサーだった。そして構成作家には若き日の青島幸男が参加。この出会いがきっかけで青島幸男は、クレイジーの筆頭ブレーン、座付き作者となり、1960年代のクレイジーキャッツとテレビの黄金時代へと発展していく。

イラスト/いともこ

コミックソングと映画への出演

それから2年後。1961(昭和36)年、渡辺プロダクション社長・渡辺晋と、日本テレビのディレクター、プロデューサーの秋元近史が、クレイジーキャッツとザ・ピーナッツのためのバラエティ番組を企画した。それが『シャボン玉ホリデー』(1961〜72年)である。

渡辺プロタレント総出演による歌とコントのバラエティで、この番組から植木等の「お呼びでない」、ハナ肇の「おかゆコント」などの伝説のギャグやコントが生まれていくこととなる。この番組のメインの構成作家はもちろん青島幸男。

番組開始から2ヶ月後、1961年8月20日。ハナ肇とクレイジーキャッツ、植木等にとってはデビュー曲となる「スーダラ節」「こりゃシャクだった」(作詞:青島幸男/作曲:萩原哲晶)がリリースされた。

意外なことに「スーダラ節」はジャズソングでも、彼らのコミック・演奏をフィーチャーしたものではなく、昭和20年代、ディック・ミネに憧れて歌手を目指していた植木等の「歌のうまさ」と、コントでの味わいを活かしたコミックソングだった。

この歌のヒットにより、各映画会社でクレイジーキャッツ出演作が企画されるが、その決定打となったのは、東宝映画『ニッポン無責任時代』(1962年/古澤憲吾監督)である。

青島幸男が「スーダラ節」で描いた「スーダラ男」のイメージに、他人の思惑など関係ない、自分の出世のためなら手段を厭わない「無責任男」のキャラクターが倍加された。

植木等が演じた平均(たいら・ひとし)は、「いいからいいから」「気にしない気にしない」と呵呵大笑して、痛快に映画を駆け抜けていく。それが高度成長時代の気分とマッチして、東宝のドル箱シリーズとなっていく。