佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)
クレイジーキャッツ、伝説のデビュー曲。
1961(昭和36)年8月20日。ハナ肇とクレイジーキャッツが結成してから6年、彼らとしては初の音盤となる「スーダラ節」(作詞:青島幸男/作曲:萩原哲晶)がリリースされた。
クレイジーキャッツとザ・ピーナッツのバラエティ番組『シャボン玉ホリデー』(NTV)がスタートして2ヶ月目のことである。この日、番組でも植木等が「スーダラ節」を歌った。
渡辺プロダクション社長の渡辺晋は、「衆知を集めて、切磋琢磨する」ことがモットーで、常にスタッフやタレントを集めてクリエイティブ会議をしていた。そして「クレイジーのレコードを作ろう」と、メンバーや構成作家・青島幸男たちとのディスカッションが始まった。
渡辺が考えていたのはコミック・ソング。テレビ番組『おとなの漫画』(CX)のエンディングでの植木等のフレーズ「こりゃシャクだった!」が、クレイジー初の流行語となっていて、それを歌にすることになった。
作詞は青島幸男にしよう。では作曲家は? ハナ肇は、少し前に道端でバッタリ再会した、昭和20年代にハナや植木が所属していたバンドのリーダー、萩原哲晶が「流行歌の作曲をしたい」と言っていたことを話した。萩原はクレイジー結成時のメンバーでもあった。
こうして渡辺宅に植木、ハナ、青島、萩原、クレイジーの面々が集まった。A面の「こりゃシャクだった」は、オチに流行語のフレーズを入れながらコント形式のものにすることに決まった。
「B面をどうしましょうか? 植木のソロはどうですか?」
かつてディック・ミネに憧れて、テイチク歌手コンテストに入賞したこともある植木等は、ステージでも甘い歌声で歌っていた。
「植木がゴキゲンの時に鼻歌で歌っている“アレ”を歌にしようじゃないか」
“アレ”とは、植木が例えば新しいネクタイを締めているのに、誰も気づかない。それに気づいて欲しくて、鼻歌交じりに歌うフレーズだった。
早速、萩原は植木の鼻歌「ススラ、スーララッタ、スラスラスーイ、スイ」を、大真面目な顔で採譜した。
作詞家・青島幸男と作曲家・萩原哲晶、二人の天才。
数日後、青島幸男の歌詞があがってきた。「ちょっと一杯のつもりが…しまいにゃホームで寝ていた」という、サラリーマンの悲哀をペーソスたっぷりに描いたものだが、どこか乾いていた。
青島は放送作家になる前、結核療養中の頃、銀座でトリスバーを開いていたことがある。そこに集うサラリーマンをイメージしたのだろう。しかも最後のフレーズ「わかっちゃいるけどやめらない」が効いていた。この言葉で、それまでのコミカルな物語が一気に深くなり、誰しもが共感を覚えるのだ。
この頃、守屋浩の「有難や節」(作曲:不詳/作詞:浜口庫之助)や小林旭の「ダンチョネ節」「ズンドコ節」(作曲:不詳/補作曲:遠藤実/作詞:西沢爽)など、俗謡をラテンのリズムに乗せた「アキラ節」旋風が吹き荒れていた。「ズンドコ」「ダンチョネ」には語源はあったが、若者たちはその語感をサウンドとして楽しんでいた。
ならば植木の「ススラ…」も意味不明ゆえ人を惹きつけるはず。そこで青島は「スーダラ節」と名付けることにした。誰もが「この曲はいける!」と思ったが、植木等はレコーディングの直前、「これは俺じゃなくて、他の人に唄ってもらったらいいのでは?」と歌うことを躊躇した。
植木はそれを僧籍にあった父・植木徹誠に相談した。徹誠は最後の「わかっちゃいるけどやめられない」は、「親鸞の教えに通じる真理がある。素晴らしい!」と称賛した。その言葉に背中を押された植木はレコーディングに臨んだ。
笑いながら歌った、植木等。
東芝レコードのスタジオには、伴奏をつとめる宮間利之とニューハード・オーケストラが揃っていた。
編成はピアノ、ギター、ベース、ドラムス、パーカッションを加えたリズム・セクション。トロンボーン4本、トランペット4本、サックスはアルト2本、テナー2本、バリトン1本のフル編成。しかも弦が8人、ファゴット、ジューイッシュ・ハープなど音大から駆り出されたクラシック奏者も加えると、30名を超えていた。
コミカルなイントロに続いて、植木が歌い出すと、そのおかしさに音大のアルバイトの女の子やバンドマンが次々と吹き出す。誰もが未体験のサウンドだったのである。
しかも笑い上戸の植木は、歌っているうちに吹き出して、なかなかうまくいかない。遂には植木がマイクの前に立っただけでも、音大生が笑い出してしまった。前代未聞の「スーダラ節」のレコーディングはこうして行われた。
歌い出しのメロディは、日本の音頭、どんちゃん騒ぎのリズム。続く「スイスイスーダラッタ」からラテンのリズム「バイヨン」に転調する。そのタイミングで歌いやすくするために、植木がアドリブで「ア・ホレ」を放った。前半の音頭と転調後のバイヨンを「アホレ」で繋いだのである。これが「スーダラ節」のサウンドの魅力である。
終始スタッフもミュージシャンも植木も笑いっぱなしだったという。その雰囲気のなか、植木の声はまるで、笑いながら歌っているようだ。それがかえって不謹慎に聴こえて、「スーダラ節」は世紀の傑作となった。
「こっちをA面にしよう」。その場に居合わせた誰しも異存はなかった。こうして「スーダラ節」が誕生したのだ。