佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)
阿久悠の新人サラリーマン時代
ハナ肇とクレイジーキャッツが、フジテレビ開局番組『おとなの漫画』のレギュラーとなった頃のこと。1959(昭和34)年春、一人の若者が明治大学を卒業して、広告代理店・宣弘社に入社した。
若者の名は深田公之。のちの阿久悠である(以降、阿久悠と記述)。宣弘社を志望したのは、明治大学就職課の就職案内に、「テレビ映画『月光仮面』制作中」と書いてあったからだ。
『月光仮面』(TBS)は武田薬品工業の一社提供で、宣弘社はその番組企画から制作まで全てを取り仕切っていた。当時のテレビ番組は、スポンサーの一社提供で、番組内容に関しては広告代理店とテレビ局が、スポンサーと協議しながら作り上げて行くというものだった。
阿久悠が配属されたのは企画課。上司・井上正喜は、同社制作のヒーローもの『遊星王子』(1958年)で社内脚本家としてデビュー、のちに伊上勝のペンネームで『隠密剣士』(1962年)を執筆。テレビ界で「少年映画」というジャンルを確立した作家でもある。ちなみに伊上勝は『仮面の忍者赤影』(1967年)や『仮面ライダー』(1971年)などのメインライターとして、テレビ特撮の時代を作っていく。
阿久悠もまた、1960年代半ばに宣弘社に在籍しながら、企業内クリエイターから放送作家としてデビューし、作詞家に転じて行くことになる。サラリーマンでありながら脚本家としてクリエイティブを続ける上司・井上正喜に多大な影響を受けてのことである。
幻のバラエティ・ドラマ
2017(平成29)年、僕は雑誌編集者から「宣弘社の製作でクレイジーキャッツが出演した番組をご存知ですか?」との連絡を受け、宣弘社の渡辺邦彦氏に番組を見せていただく機会に恵まれた。
タイトルは『どら猫キャプテン』。分かっているのは1960年頃の作品ということだけ。
番組クレジットによれば、提供は大塚製薬。企画は宣弘社社長の小林利雄。原案は大倉左兎、阿久津洋介。脚色は伊上勝。出演はクレイジーキャッツと脱線トリオ。テレビで人気のコメディ・グループの共演である。
ストーリーはシンプル。海運会社の警備員・ハナ肇が、南極基地に物資(なぜかトイレットペーパー)を届ける貨物船「オロナイン丸」の船長に命ぜられて、クレイジーの面々と一緒に航海に出る。
クレイジーが「聖者の行進」「聖リパブリック讃歌」をディキシー・ジャズ・スタイルで演奏する場面もある。何とテレビでクレイジーが演奏している映像では、これが現存する最古の映像である。
さらに驚いたのは主題歌を、植木等、谷啓、犬塚弘たちメンバー全員で歌っているのだ。この歌が劇中に3回登場する。クレイジーの歌うコミカルな曲としては、おそらくこれも一番古い録音である。
クレイジー初のコミックソング
放送実績もなく、資料が全くなかったため、関係者に取材をしたところ、阿久悠の同期の営業マン・浪久仁氏から製作の経緯を伺うことができた。
当時、阿久はフジテレビ『ザ・ヒットパレード』の生コマーシャル担当で、セミレギュラーだったクレイジーのハナ肇と親しくなっていた。その頃、浪久氏は新規クライアント開拓のために、大塚製薬提供の新番組の企画を同期の阿久に相談していた。
放送枠は、大村崑のコメディ『崑ちゃんのとんま天狗』(NTV)の土曜日夜7時からの30分。それが1960年12月24日に最終回を迎えることになり、その後番組の企画募集だった。
主演はクレイジーキャッツしかないと、阿久は真っ先に『どら猫キャプテン』のタイトルを思いついた。クレイジーがメインならば、彼らの演奏とモダンな笑いを生かしたミュージカル・バラエティしかないとプロットを作成、企画書を書き上げた。
若き企画マンの情熱に宣弘社の小林社長は、プレゼン用のパイロットフィルムの制作を決断した。これは異例のことである。『どら猫キャプテン』はパイロットフィルムとして第1話が制作され、結局オンエアされることがなかった幻の番組だったのである。
クレジットの「原案・阿久津洋介」は、阿久のペンネーム。阿久のご子息・深田太郎氏に番組を観てもらったところ、自伝的小説『無名時代』(集英社)に、この『どら猫キャプテン』の記述があることをご教示いただいた。
ここで主題歌の作詞は阿久だったことが判明。青島幸男作詞の「スーダラ節」は、1961年8月20日のリリースだから、この主題歌はクレイジー初めてのコミックソングということになる。これは大発見だった。
しかし『どら猫キャプテン』は、スポンサーへのプレゼンで「琴姫七変化」(1960〜62年)に負けて、お茶の間に流れることはなかった。
クレイジーが本格的にブレイクするのが、翌年の1961年6月にスタートする『シャボン玉ホリデー』(NTV)であり、デビュー曲「スーダラ節」だった。『どら猫キャプテン』は、その直前、若きクリエイター・阿久悠と、新進脚本家・伊上勝がクレイジーキャッツと組んだ作品だった。
ちなみに「琴姫七変化」のヒロイン・松山容子は、大塚食品「ボンカレー」のパッケージに登場して一世を風靡するが、1971(昭和46)年、その姉妹商品「ボンシチュー」のCMに登場したのが植木等だった。
このCMから流行語「この際、カアちゃんと別れよう」が生まれ、早速クレイジーの新曲としてレコード化されることとなった。そのB面曲「こんな女に俺がした」の作詞を手掛けたのが、なんと阿久悠だった
1966(昭和41)年に宣弘社を辞めて、放送作家や作詞家として活躍してきた阿久悠が、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」(作曲:筒美京平)でブレイクしたのも、1971年のことである。