「大空の弟」と「アイレ可愛や」〜戦時下の笠置シヅ子

「大空の弟」と「アイレ可愛や」〜戦時下の笠置シヅ子

佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)

最愛の弟の死と「大空の弟」

NHK連続テレビ小説『ブギウギ』は、モデルとなった笠置シヅ子の少女歌劇時代〜戦前のスウィングの女王時代〜昭和初期からのエンタテインメントの黎明を描き続けてきた。

華やかなレビュー、ノリノリの観客が一緒にスウィングしたジャズ・ブーム……戦前のショウビジネスがいかにモダンで豊かだったかを、ヒロイン・福来スズ子(趣里)の熱の入ったパフォーマンスで、視聴者に体感させてくれている。

第10週(2023年12月4日〜8日)「大空の弟」では、最愛の弟・六郎(黒崎煌代)の戦死の報せから始まり、1941(昭和16)年12月8日の太平洋戦争開戦が描かれていく。

最愛の弟の戦死のショックで歌が唄えないスズ子に、羽鳥善一(草彅剛)は「六郎くんの歌だ。これなら歌えるんじゃないか」と「大空の弟」(作詞:村雨まさを/作曲:服部良一)の譜面を渡す。

史実では1941年3月、笠置シヅ子は服部良一のアドバイスもあって、自らのバンド「笠置シヅ子とその楽団」を結成。軽音楽コンサートを中心に、各地のステージに立っていた。そして「別れのブルース」を大ヒットさせたブルースの女王・淡谷のり子も「淡谷のり子とその楽団」を率いて歌っていた。

彼女たちが楽団を結成したのは、ポピュラー音楽への風当たりも強くなり、大劇場での興行が難しくなって、公会堂や映画館での小規模なコンサートにシフトしていたからでもある。

イラスト/いともこ

戦時体制下、当局から睨まれていた笠置シヅ子

太平洋戦争開戦の直前。警視庁に呼び出されたシヅ子は、保安課興行係から「あんたの歌う舞台上の雰囲気はいけない」「つけまつ毛が長すぎる」とステージ上の演出、メイクまで指導を受けた。「ジャズは米英の退廃的な音楽、敵性歌手の笠置シヅ子には歌わせまい」という雰囲気があった。

そこにシヅ子の弟・八郎の戦死、太平洋戦争開戦である。笠置シヅ子のジャズも淡谷のり子のブルースも、「米英的」「退廃的」ということで批判の対象となっていた。

「ラッパと娘」や「センチメンタル・ダイナ」などのジャズが歌えなくなったシヅ子のために、服部良一が作曲したのが「大空の弟」だった。時局に迎合する軍事歌謡のスタイルをとりながら、実は最愛の弟への姉の心情を歌い上げた切ない曲である。

戦時中、シヅ子は数少ないオリジナル・レパートリーとして歌い続けた。しかし、レコードに吹き込まれておらず、譜面も残されてなく、長らく「幻の曲」とされていた。

ところが2019年、奇跡的に楽譜が見つかり、笠置シヅ子を題材とした舞台『SIZUKO! QUEEN OF BOOGIE ハイヒールとつけまつげ』で神野美伽が歌って、初めてその歌詞、メロディーに触れることができた。

それまでのジャズ・ソングやリズミカルな楽曲とは違うタイプの曲だが、シヅ子の弟への想い、若くして戦死した幾多の兵士たちの家族の心情に寄り添うような静謐なバラードである。

その「大空の弟」誕生秘話が『ブギウギ』で感動的に描かれ、12月7日(木)のオンエアで福来スズ子がステージで歌った。淡谷のり子がモデルの茨田りつ子(菊地凛子)との合同公演のシーンは、涙を誘う名場面となった。

この曲は、趣里が福来スズ子名義でリリースしたアルバム『福来スズ子傑作集』(2023年12月13日発売)で初音源化された。このアルバムは『ブギウギ』で福来スズ子が歌った「東京ブギウギ」「恋のステップ」「ラッパと娘」「センチメンタル・ダイナ」など、笠置シヅ子のカヴァーが収録されている。

特に「大空の弟」はレコード化されなかった「幻の曲」。それを福来スズ子=趣里の歌で初めて音源化された。ドラマと笠置シヅ子の人生がリンクして、感動的なテイクに仕上がっている。

NHKの連続テレビ小説「ブギウギ」の劇中歌を集めたミニアルバム『福来スズ子 傑作集』COCP-42192 ¥2,750 (税抜価格 ¥2,500)

ワールド・ミュージックの先駆け「アイレ可愛や」

また戦時中、シヅ子のために服部はもう一曲、南方をテーマにした「アイレ可愛や」(作詞:藤浦洸/作曲:服部良一)を提供している。

第二次世界大戦により、英仏勢力がアジアから後退したのを機に、日本の南進政策はより積極化。南方の石油、ゴム、ボーキサイトなどの戦略物資と作戦基地確保の観点から「大東亜共栄圏」構想など南進論がさらに高まり、それが太平洋戦争突入へとつながった。

この南進論ムードを高めるために、古川ロッパの「ロッパ南へ行く」(作詞:サトウハチロー/作曲:服部良一)、高峰三枝子の「南の花嫁さん」(作詞:藤浦洸/作曲:古賀政男)など、プロパガンダとして「南方歌謡」が次々と生み出されていた。

こうした「南方歌謡」のエキゾチックなメロディーは、戦争中にはジャズやポピュラーの代用となった。服部の「アイレ可愛や」はオリエンタル・ダンスのリズム、エキゾチックなメロディーはキューバン・サウンドを思わせる。

ワールド・ミュージックという概念がない頃、服部はシヅ子のために時局迎合の形をとりながら、音楽的な冒険をしていた。服部は、この「アイレ可愛や」「ラササヤ」「影絵芝居」「チンターマニ」などのインドネシア民謡を笠置のためにアレンジ。彼女が唄う南方歌謡、南方民謡が評判となり、銀座全線座では笠置シヅ子が南方歌謡を唄うステージを開催している。

こうして戦時中の笠置シヅ子は、弟への想いを込めた「大空の弟」、エキゾチックな「アイレ可愛や」をレパートリーに、全国のファンのために巡業を続けていた。自由にジャズが歌える日を夢みながら……。

1946年11月、戦後になってリリースされた「アイレ可愛や」。資料協力/保利透