馬飼野元宏(音楽ライター)
デビュー4年目、石川ひとみ起死回生の大ヒット
1981(昭和56)年の歌謡曲シーンには、1つの注目すべき動きがある。それはリバイバル・ヒットだ。
といっても、かつてのヒット曲が再びチャートを賑わしたわけではない。一部のファンのみで語られていた、主に1970年代の知られざる楽曲が、現在活動中のシンガーによってカヴァーされ、ヒットにつながったケースである。
この年に出たリバイバル・ヒットは、岩崎宏美「すみれ色の涙」、柏原よしえ「ハロー・グッバイ」、そして石川ひとみの「まちぶせ」である。
「すみれ色の涙」は、1968年にジャッキー吉川とブルーコメッツが発表した「こころの虹」のB面曲で、これを岩崎宏美が取り上げ、1年半ぶりのベスト10ヒットに繋げた。
「ハロー・グッバイ」は、1975年のアグネス・チャンの「冬の日の帰り道」のB面曲を、讃岐裕子がカヴァーしてシングル化したのが1977年。その後、柏原よしえが再カヴァーしている。柏原にとって初のベスト10ヒットで、ブレイクのきっかけとなった。
そして「まちぶせ」は、渡辺プロの新人・三木聖子の1976年のデビュー曲で、作詞・作曲は荒井由実(後の松任谷由実、以下ユーミン)である。三木聖子の時はTOP 50程度の小ヒットに過ぎなかったが、これを石川ひとみがカヴァーしてチャート4位まで上昇する大ヒットとなった。
石川ひとみは1978年デビューのキャリア4年目。この間にそこそこ売れた曲がデビュー曲の「右向け右」と2曲目の「くるみ割り人形」ぐらいで、それ以降は伸び悩み気味。人形劇『プリンプリン物語』の声優、テレビ番組『レッツゴーヤング』の司会など、NHKを中心にタレント活動は順調だったものの、歌手としてのヒットはなかった。
渡辺プロのシンガーらしく、歌唱力は抜群で、歌手としての基礎もしっかりしているアイドル。だが何でも歌えるが故に、路線も作家も決まらず、1曲ごとに作家を入れ替え続けて、何が彼女の売りになるのか、スタッフも把握できていない状態に見えた。
そこへ来て「まちぶせ」の大ヒットが訪れた。これは明らかに楽曲の持つパワーに依るところが大きい。
もともと石川の担当ディレクターであるキャニオンの長岡和弘が、この曲を見つけ出して石川に歌わせることを提案。石川本人もデビュー前、在籍していた渡辺プロ系列の東京音楽学院名古屋校で、この「まちぶせ」を課題曲にしていたこともあり、本人も乗り気となった。
三木聖子と石川ひとみ、歌唱解釈の違い
「まちぶせ」はもともとユーミンが三木聖子に取材し、彼女の実体験に近いエピソードを歌にしたそうである。
こういう場合、歌い手のキャラクターと楽曲が一体化しているので、他の歌手がカヴァーするのはなかなか難しい。そこを可能にしたのは、石川ひとみの「何でも歌える」歌唱表現力の高さによる。そのキャラクターになって歌うことが可能なので、説得力が出るのだ。
1976年という時代にしては、積極的な女の子として表現した三木聖子版に比べ、石川ひとみ版の歌い方は、少女のいじらしさや誠実さを思わせる。三木版でのポイントは歌い終わりの「あなたを振り向かせる」にあり、逆に石川版はサビ冒頭の「好きだったのよあなた」に重心が置かれている。表現法の違い1つで、歌の印象は大きく変わる。
というのも、1997年には作者のユーミン自身がセルフ・カヴァーしたが、本人は「ストーカーの歌みたい」と冗談めかして語っていた。当時40代の大人の女性であるユーミンが歌うとそうなるのだ。
いや、年齢というよりも、歌手のキャラクターや解釈によって意味が変化する。「まちぶせ」にはそんな力があるように思える。
ユーミンが描いたリアルな少女像
では、1976年の三木聖子版が小ヒットに終わり、1981年の石川ひとみ版がベスト10入りすることになったのは、どこに理由があるのだろう。
結論を先に言ってしまうなら、1976年段階では「恋に積極的な少女像は時代的に早すぎた」のだ。現実の女子高生たちにはそういう感覚が既にあったかもしれないが、歌謡曲の中で表現される少女像は「もっと純情で、オクテで、受け身の女の子」が主流だった。これは主に、大人の男性作詞家が少女アイドルの曲を書いていたこととも関係があるだろう。
女性作詞家も70年代には数多くいたが、等身大の少女の心情をリアルに歌謡詞に落とし込めた最初の作詞家がユーミンだったのだ。その理由は、「まちぶせ」作詞の時点でユーミンは22歳。少女アイドルたちの実年齢とそう違わないことによる。
ユーミンはキャリアの初期である荒井由実の時代から、その後のアイドル・ポップスに通じるような楽曲をいくつか書いている。典型的な作品として、1974年のアルバム『ミスリム』に収録された「魔法の鏡」がある。
乙女チックな少女の片想いを描いたこの曲は、同じアルファ・ミュージック所属だった長谷直美のデビュー曲として世に出る予定だったという話があるが、その後、1976年にアイドル女優・早乙女愛がカヴァーしている。
他にも、1975年にはアグネス・チャンに「白いくつ下は似合わない」を提供しているが、ハイソックスがトレードマークだったアグネスが、大人に成長したことをイメージさせる曲。アグネスにとって初の失恋ソングとなった。
この曲で渡辺プロダクションと接点を持ったユーミンが、同プロの新人だった三木聖子に書き下ろしたのが「まちぶせ」である。そして同曲のB面にはユーミン自身が1975年に発表した「少しだけ片想い」がカヴァーされている。
5年後に評価されるのが本当のポップス
ユーミンは、リアルな少女の心象を描くことに長けたソングライターでもあった。だが、それはアイドル歌謡として世に出た際には、時代的に早く、オマセな女の子として受け止められた。
ところが1981年の石川ひとみカヴァーの段階では、こういった女の子像は普通のものとなっていた。松田聖子の初期作品は、特に1982年の「赤いスイートピー」以降は、積極的に行けない男子を見守り、自分から積極的にアプローチしていく女の子像が、同性の支持を得た。1982年の中森明菜「少女A」も同様である。
要はユーミンの描く少女のリアルに、聞き手の側が5年の時を経て、ようやく追いついたとも言えるのだ。単に昔のいい曲をカヴァーしただけではない。
2019年にユーミンは、サカナクションの山口一郎と対談した際、「5年後に評価されるのが本当のポップス」と発言している。これは至言だが、ユーミンの念頭には「まちぶせ」のことが脳裏にあったに違いない。
三木聖子版から5年の歳月を経て、石川ひとみの歌唱によって大衆的なヒット曲になったことは、ポップスの魔法として今も燦然と輝いている。