「荒城の月ブギ」と「夜来香幻想曲」〜服部良一とブギウギの出会い

「荒城の月ブギ」と「夜来香幻想曲」〜服部良一とブギウギの出会い

佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)

戦時下、服部良一とブギウギとの出会い

NHK連続テレビ小説『ブギウギ』では、太平洋戦争の開戦、戦時下におけるミュージシャン、歌手たちパフォーマーが、いかに苦労したかを描いている。

ヒロイン、福来スズ子(趣里)がモデルにしている笠置シヅ子は、自らのバンド「笠置シヅ子とその楽団」を率いて、各地を巡業していた。敵性音楽であるジャズ・ソングを歌うことはできないシヅ子のために、服部良一は南方歌謡「アイレ可愛や」、戦死した弟を歌った「大空の弟」などをレパートリーにしていた。

戦時中、そんな服部良一もまた敵性音楽のジャズ系作曲家として当局にマークされていた。とはいえNHKラジオ『軽音楽の時間』で密かにジャズ・アレンジによる演奏をしてストレスを発散させていた。また、当時NHKでは対米謀略のためのジャズを放送していて、実力派ジャズメンたちが参加。服部も編曲者として協力していた。

1942(昭和17)年頃。軍の仕事で上海に赴いていた服部は、アメリカのコーラス・グループ、アンドリュース・シスターズの「ブギウギ・ビューグル・ボーイ」(1941年)の譜面を入手。

ジャズ・ブルースのテンポをさらにスピーディにしたブギウギは、ピアノの左手で1小節に8つのビートを刻む。黒人の速弾きがそのルーツでもあるが、1938年のトミー・ドーシー楽団「ブギウギ」あたりからジャズの新しいスタイルになっていた。

ブギウギのスピーディなリズムに好奇心を掻き立てられた服部は、すぐにその実践を試みる。国策オールスター音楽映画『音楽大進軍』(1943年/東宝)の中で、ビクターの人気歌手・大谷冽子のために、滝廉太郎の「荒城の月」をブギウギ・アレンジして歌わせた。

しかし完成作品では、人気のタンゴ・バイオリニストである櫻井潔とその楽団による正調「荒城の月」の演奏シーンしか残されていない。このシークエンスで、大谷冽子が「荒城の月ブギ」とタンゴ「碧空」を唄うシーンが撮影されたが、後者は内務省の検閲でカット、前者はその前に東宝で自主的にオミットされたようだ。

服部は「荒城の月ブギ」に手応えを感じて、NHKの対米謀略放送でも演奏したという。誰もが当局の検閲を恐れ、顔色を窺って時局に迎合していた。しかし音楽家・服部良一は自身の音楽的な好奇心を満たすために、大胆な行動をとっていた。

さらに、敗戦間際の1945(昭和20)年8月、報道班員として上海陸軍報道部に配属された服部は、音楽を通じて上海地区の文化工作を行なっていた。そこで服部は、日本と中国大陸の親善の象徴的存在だった李香蘭と、上海交響楽団によるコンサートを企画した。

イラスト/いともこ

実は日本人だった“中国人スター”の李香蘭

李香蘭は、1938(昭和13)年、満州国の国策映画会社・満州映画協会、通称「満映」からデビュー。女優・歌手として絶大な人気を得た。当時は中国人スターとされていたが、実は日本人の山口淑子だった。

『伝説の歌姫 李香蘭の世界』(コロムビア)。李香蘭(山口淑子) 神話を伝える名唱の集大成!「蘇州夜曲」「夜霧の馬車」「紅い睡蓮」「夜来香」「何日君再来」「サヨンの歌」「迎春花」など、新発見作品、貴重曲を含む永遠の47曲。

服部良一は、映画『支那の夜』(1940年/東宝=中華電影)の音楽を担当して、主題歌「蘇州夜曲」「支那の夜」を手掛け、劇中で李香蘭が歌って大ヒットしていた。服部がジャズ系の音楽家でありながら軍部の憶えが良かったのは、こうしたプロパガンダ映画の音楽や主題歌を手掛けていたことも大きい。

さて、上海交響楽団によるコンサートである。文化工作とはいえ、服部にとって、戦前より宿願だったジョージ・ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」のようなシンフォニック・ジャズを、イタリア人やドイツ人を含む外国人オーケストラで挑戦するという夢の具現化でもあった。

モチーフとなる曲は、前年に李香蘭が歌って大ヒットしていた「夜来香」(作詞作曲:黎錦光)。甘い香りを持つキョウチクトウ科の花・夜来香のイメージは、李香蘭の美しさとシンクロして、彼女の代表曲となっていた。

山口淑子「夜来香」(訳詞:佐伯孝夫/作曲:黎錦光)。戦後の1950年にリリースされたレコード。資料協力/保利透

1945年6月、李香蘭は上海グランドシアター(大光明大戯院)で3日間6ステージの演唱会を開き、「夜来香の香りもやがて消える。今の内にその香りを楽しみましょう」と語って「夜来香」を歌ったという。

その歌をモチーフに、服部は60人編成のフルオーケストラによる李香蘭の「夜来香幻想曲(ラプソディー)」を編曲した。そのラストで、なんと服部はブギウギのリズムを使ったのである。

譜面を見た李香蘭は服部に、思わず「先生、このリズム、なんだか歌いにくいわ。お尻がむずむずしてきて、じっと立ったままでは歌えません」と言ったという。そして李香蘭はブギの躍動するリズムを、敗戦間際の上海で大観衆の前で歌った。これが2年後、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」へと発展していく。

その頃、笠置シヅ子は「笠置シヅ子とその楽団」を不本意な形で解散させ、単独歌手として日本全国を巡業していた。やがて敗戦。それから3ヶ月後の1945年11月、東京・有楽町の日本劇場が1年半ぶりに再開場。

笠置シヅ子はステージ「ハイライト」に、灰田勝彦、岸井明、轟夕起子たちと競演。12月初旬になって、上海から苦労の末引き揚げてきた服部良一が楽屋を訪ねて、久々の再会を果たした。

ここから笠置シヅ子と服部良一の戦後が始まった。やがて日本中の人々は、服部と笠置の「東京ブギウギ」のリズムに出会うこととなる。