佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)
笠置シヅ子の音楽史
NHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』のモデルとなった笠置シヅ子は、1927(昭和2)年に13歳で、松竹楽劇部(現在のOSK・日本歌劇団)に入団してレビューの世界で10年ステージに立った。
そして1938(昭和13)年には東京へ進出して、日比谷・帝劇で旗揚げされたミュージカル劇団・松竹楽劇団で服部良一と出会い、次々とジャズ・ソングを歌って「スウィングの女王」となった。
そのパワフルな歌唱力、表現力は「ラッパと娘」(1939年/作詞作曲:服部良一)や「センチメンタル・ダイナ」(1940年/作詞:野川香文/作曲:服部良一)のレコード音源を聴けば明らか。
長く辛い戦争を経て、戦後の1947(昭和22)年、「東京ブギウギ」(作詞:鈴木勝/作曲:服部良一)をレコーディングした時には、ステージデビューをしてちょうど20年、33歳のシングルマザーだった。
そこから「ブギの女王」として、戦争で疲弊していた焼け跡の庶民たちに圧倒的な支持を受けて、昭和20年代はまさに笠置シヅ子のブギウギ旋風が吹き荒れることになる。
連ドラ『ブギウギ』では、そうした笠置シヅ子の波乱万丈の人生を、昭和のエンタテインメント史のなかで描いている。ヒロインの福来スズ子を演じている趣里は、ちょうど笠置が「東京ブギウギ」を歌った歳と同じ33歳。幼い頃から鍛えたバレエのダンスと、母・伊藤蘭譲りの歌声、そして父・水谷豊の血を引く演技力で、多くのファンを魅了している。
「ブギの女王」の時代
「東京ブギウギ」の大ヒットで、笠置シヅ子は約25本の映画に出演。どの作品でも服部良一によるレコード曲や映画のための書き下ろしの新曲をパワフルに歌っている。
少女歌劇で鍛えたダンスも、スウィングの女王時代に歌った「ラッパと娘」「センチメンタル・ダイナ」などのジャズ・ソングも、フィルムに記録されている。そのナンバーの数々は、笠置シヅ子の音楽センスや表現力の豊かさを、遅れてきた世代にも体感させてくれる。
服部&笠置のブギウギ・ソングとしては第3作となる「ヘイヘイブギー」(作詞:藤浦洸/作曲:服部良一)は、1948(昭和23)年4月にリリースされた。
大映映画『舞台は廻る』のクライマックスで、東京日比谷・有楽座という設定のステージで笠置シヅ子が新曲として歌うのだが、何とこのシーンは7分20秒もあるのだ。それほど「ブギの女王」の新曲は、鳴物入りで発表されていたことがわかる。
「ヘイヘイブギー」は、「笑う門には福来る」「笑って暮らそう」というポジティブなテーマのノヴェルティ・ソング。雑誌の口絵や表紙を飾っていた笠置シヅ子のイメージである「満面の笑み」を最大に活かしていた楽しい曲。
服部のブギウギ・アレンジもスピーディで、ピアノが奏でるブギのリズムに、笠置の「ヘイヘイー」のコールに、コーラスがレスポンス。続くスキャットも明るくて楽しく、客席も一緒にレスポンスして盛り上がる様子が、映画の場面から見てとれる。
映画ヴァージョンでは、間奏のアレンジもレコードよりゴージャスで、大きな口を開いたシヅ子が満面の笑みを浮かべてステージ狭しと踊りまくる。まさにライブの楽しさ、迫力に満ちている。
歌手引退の決意と最後の紅白歌合戦
それから8年。笠置シヅ子は「ブギの女王」として舞台、レコード、映画に文字通り大活躍をしていた。シングルマザーとして乳飲み子を抱えていたシヅ子のために、服部は「東京ブギウギ」を作り、彼女は文字通りトップスターとなった。
その一人娘・ヱイ子も10歳を迎えていた。ステージデビューをして30年、42歳となった笠置シヅ子は、歌手引退をゆるやかに決意したのである。
1956(昭和31)年12月31日『第7回紅白歌合戦』で紅組のトリを務めた笠置シヅ子にとって、この年が最後の紅白歌合戦出場となった。笠置が初めて紅白歌合戦に出場したのは、1952(昭和27)年の第2回「買物ブギー」(1950年/作詞:村雨まさを/作曲:服部良一)だった。
続く第3回では「ホームラン・ブギ」(1949年/作詞:サトウハチロー/作曲:服部良一)を歌うが、しばらくは出場していなかった。明確な引退表明をしていたわけではないが、すでに女優業に専念することを決意していた。
さて、『第7回紅白歌合戦』には出場歌手が前回の32組から50組となり、放送時間も40分延長され、放送時間は9時5分から11時30分、現在のような年末の大型番組となったのがこの年だった。
そこで笠置シヅ子が選んだのは「ヘイヘイブギー」だった。東京宝塚劇場のステージを所狭しと踊りながら歌う、ブギの女王のフィナーレに相応しいステージ路となり、笠置の「ヘイヘイー」のコールに盟友・淡谷のり子、若手の江利チエミ、越路吹雪たち出場者たちが「ヘイヘイー」とレスポンスした。
これが最後の紅白となったが、翌年1957(昭和32)年5月には新宿コマ劇場で『クルクル・パレード』に主演。クライマックスにはロックンロールを歌っている。これが最後の歌って踊るステージとなった。
少女歌劇からジャズ、そしてブギウギ、ロックンロールまで。笠置シヅ子の音楽人生は和製洋楽の歴史でもあったのだ。