八代亜紀と阿久悠〜「舟唄」をめぐる物語

八代亜紀と阿久悠〜「舟唄」をめぐる物語

佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)

至高のシンガー、八代亜紀

イラスト/いともこ

「なみだ恋」「もう一度逢いたい」「雨の慕情」と歌謡曲の時代を切り拓いてきた至高のシンガー・八代亜紀が亡くなった(享年73)。

演歌歌手のイメージにとらわれることなく、ジャズのスタンダードを歌ったり、若いミュージシャンとのコラボレーションにも積極的だった。そのハスキー・ヴォイスで歌うブルースは絶品である。

その八代亜紀が、歌詞の最初の4行を読んだだけで大ヒットを確信した歌がある。それが作詞・阿久悠、作曲・浜圭介による「舟唄」だ。

リリースされたのは1979(昭和54)年5月25日。八代亜紀にとって、これが初めての「男歌」だった。

八代亜紀はよく「演歌の女王」と称されたが、彼女にインタビューした時、そのルーツはジュリー・ロンドンだと聞いて、驚き、納得した。

ジュリー・ロンドンは、アメリカのナイトクラブ・シンガーから、ジャズ・シンガーとなり、1955年にファースト・アルバム『Julie Is Her Name』からのシングル・カット「クライ・ミー・ア・リバー」が大ヒット。ハスキー・ヴォイスで情感たっぷりに歌い上げる。八代亜紀のルーツというのも納得できる。

さて、八代亜紀がデビューした1970年代初頭にはまだ「演歌」というジャンルが明確になかった。美空ひばりもスタンダード・ジャズもブルースも大好きだった彼女は、紛れもない「シンガー」だった。

あの頃、流行歌手が歌う曲はすべて「歌謡曲」と呼ばれていて、1971(昭和46)年にテイチクから「愛は死んでも」でデビューした時は、「歌謡曲」の歌手という認識だった。

「情感や情念を歌い上げる歌」=「演歌」という言葉と概念が定着したのは、1970年代後半になってから。シンガー・ソングライターの時代の到来により「ニューミュージック」という言葉が生まれ、日本の音楽がジャンル化され、ポップス系の歌謡曲との差別化ということもあり、明確に「演歌」というジャンルが定着していく。

インタビューで、彼女はそうした時代の変化、ヒストリーを明快な言葉で説明してくれたことにも驚いた。

1979(昭和54)年5月25日にリリースされた「舟唄」(作詞:阿久悠/作曲:浜圭介)。八代亜紀は歌詞の最初の4行を読んだだけで大ヒットを確信した。提供/鈴木啓之

阿久悠と「舟唄」

デビュー曲こそヒットはしなかったものの、実力派歌手の登竜門だった読売テレビのオーディション番組『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜き、グランドチャンピオンになって、その知名度が高まりレコードが売れ始めた。

1973(昭和48)年、「なみだ恋」(作詞:悠木圭子/作曲:鈴木淳)が120万枚の大ヒットとなり、翌年の「しのび恋」(作詞:悠木圭子/作曲:鈴木淳)など次々とヒット曲を連発してきた。

そうした中、1979年に「舟唄」の譜面が八代亜紀のもとに届く。前述のように歌詞の最初の4行を読んだだけで、彼女はこの歌の大ヒットを確信した。作詞の阿久悠は、八代亜紀の歌声を聴いた時のことをエッセイでこう書いている。

この歌を歌う八代亜紀は絶品である。
当初は男歌でとまどったようだが、今では代表作となっている。
まさに八代亜紀の歌である。
それを承知していながら、ふと美空ひばりが歌ったら
どうなるだろうかと、頭をよぎることがある。

阿久悠 『愛すべき名歌たち -私的歌謡曲史-』
(岩波書店)

この「舟唄」は不思議な経緯で生まれた。1974年から1976年にかけて、阿久悠がスポーツニッポンに「阿久悠の実践的作詞家講座」という連載をしていた。

あらかじめ歌手を想定して、読者から作詞を募集し、阿久悠が批評を加えて、最終週に当選作を発表。それをレコード化するというもの。批評だけではアンフェアなので、阿久悠自身もオリジナルを発表していた。

その講座で阿久悠が思い描いた歌手は、実は八代亜紀ではなかった。戦後ニッポンを代表する歌手、美空ひばり。もしも「美空ひばりが歌う曲を書くとしたら」という企画から生まれた歌詞だったのである。

ところがスポーツ紙の紙面を飾った「舟唄」の原詞は、美空ひばりでレコード化する話にもならず、この連載を企画したスポーツニッポンの小西良太郎の手元にずっと残ったままだった。

阿久悠&浜圭介の3部作「舟唄」「雨の慕情」「港町絶唱」。八代亜紀の歌唱でヒットして日本歌謡のスタンダードになった。提供/鈴木啓之

八代亜紀の「舟唄」へ

しかしある時、かつて阿久悠と堺正章の「街の灯り」でコンビを組んだ作曲家、浜圭介のもとにこの詞が渡ったことがきっかけで、今では誰もが知るあのメロディーが作曲された。

そこでテイチクでヒット曲を次々と歌っていた八代亜紀が歌うことになったのである。レコーディング当時、「八代亜紀はたぶん、もともと美空ひばりをイメージして書いたとは思っていなかったであろう」と阿久悠は前述のエッセイで回想している。

阿久悠が八代亜紀にこの曲の誕生の経緯を明かしたのは、ずっと後のこと。「八代亜紀の舟唄」として確立してからのことである。

この詞がユニークなのは「ないない尽くし」ではなく、お酒は「ぬるめの燗」、肴は「あぶったイカ」、女は「無口なひと」。全て「あるある」であること。

居酒屋のカウンターで独りしみじみ飲んでいる男の心情がヴィジュアルで思い浮かぶのだ。しかも曲の「アンコ」には「ダンチョネ節」が、主人公のノスタルジー・ソングとしてインサートされる。

「舟唄」は1979年の第21回日本レコード大賞と日本歌謡大賞にノミネートされるも大賞は逃してしまうが、八代亜紀は翌年「雨の慕情」でレコード大賞と日本歌謡大賞を受賞することになる。

この年の第30回NHK紅白歌合戦で八代が大トリを務めたことで、年明けから「舟唄」は大ヒット曲となっていく。そのハスキーヴォイスで、聴き手の心を掴み、シンガー・八代亜紀はさらに大きく成長していった。

「舟唄」からイマジネーションを受けた脚本家の倉本聰は、高倉健と倍賞千恵子主演の映画『駅-STATION-』(1981年/東宝)で、「舟唄」をフィーチャーした名場面を生み出した。

北海道の増毛町の居酒屋。女将の倍賞千恵子が情を交わした刑事・高倉健と、テレビに映る「第30回NHK紅白歌合戦」の八代亜紀の歌声を聴きながら、「この歌好きなのよねぇ」としみじみする。

そして倍賞千恵子が一緒に口ずさむのである。歌声が人の心に染み込んでいく、そのプロセスが垣間見える。情感溢れる名場面である。