佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)
喜劇王との共演
敗戦直後の1945(昭和20)年11月。笠置シヅ子は東京・有楽町の日本劇場で『ハイライト』ショウに出演していた。戦前、松竹の専属だった笠置にとって、これが初の日劇出演だった。
戦時中は軍に接収され、風船爆弾の工場となっていた日劇が、ようやく劇場として再開できたのが、この公演だった。12月初め、上海からようやく帰国してきた服部良一が日劇の楽屋を訪ねて、笠置シヅ子と久しぶりの再会を果たした。そこから二人の戦後が始まった。
二人は、戦時中に思うように演奏し歌うことができなかったジャズ・ソングを、再びステージで展開できる喜びを噛み締めていた。服部良一と笠置シヅ子が敗戦後初めて組んだのが、1946(昭和21)年3月20日から4月10日、有楽座で上演された、榎本健一一座の舞台『舞台は廻る』だった。
エノケンこと榎本健一は、戦前、浅草で「エノケン一座」を旗揚げして、その後丸の内の舞台に進出。1934(昭和9)年、東宝の前身であるP.C.L.映画『エノケンの青春酔虎傳』に主演。エノケン映画は全国津々浦々で上映され、その人気は全国区となっていた。
エノケンもやはりジャズが好きで、専属のジャズ・バンドを結成してステージでも「ダイナ」や「月光値千金」などを歌っていた。P.C.Lでのエノケン映画はほとんどが音楽喜劇映画で、最新のジャズ・ソングにコミカルな歌詞をつけて歌ったもの。そのモダンなセンスで一世を風靡したのである。
NHKの連ドラ『ブギウギ』では、生瀬勝久が演じるエノケンをモデルにした昭和の喜劇王・タナケンが登場する。戦後「ブギの女王」となった福来スズ子(趣里)とのエピソードが展開されていく。ちなみに2024年はエノケン生誕120周年、笠置シヅ子生誕110周年のアニバーサリー・イヤーでもある。
不思議なリズム「コペカチータ」
さて、戦前にエノケンが大活躍していた頃、笠置シヅ子は、東京・帝劇でのミュージカル劇団SGD(松竹楽劇団)で、「スウィングの女王」と呼ばれ大人気を博していた。
意外なことに二人は戦前、ステージや映画では一度も共演していない。1940(昭和15)年にラジオ番組『音楽は嬉し』で人気者同士の顔合わせはしていたが、喜劇王・エノケンとスウィングの女王・笠置シヅ子は、この『舞台は廻る』が初共演となった。
稽古場でエノケンが笠置にこうアドバイスした。
「君は歌手だから芝居はよくわからないだろうけども、君の芝居はツボがはずれている。しかしそれがまた面白い効果を出しているので改める必要はない。僕は君がどんなにツボをはずしても、どこからでも受けてやるから、はずしたまま突っ込んで来い」
エノケンはステージでの笠置の芝居の本質、味を見抜いていた。その魅力を最大限に引き出せるのは自分しかいない。長年、喜劇を演じてきたエノケンならではの視点である。
エノケンは、笠置シヅ子は最高のパートナーになると見抜いていたのである。シヅ子は、後年、歌手を引退して女優となってからも、エノケンのその言葉を生涯忘れ得ぬ教訓とした。
さて、一方の服部良一はエノケンと笠置シヅ子のために、「コペカチータ」という不思議なナンバーを作詞・作曲した。「不思議なリズムだ」の歌い出しの通り、リズムもメロディも次々と変転していく。
サウンドはスペイン風で、タンゴのようでもあり、曲の構成がパッションに満ちたオペレッタのようである。しかもジャズのイデオムに則っていて、エキゾチックでアヴァンギャルドな味わいがある。笠置シヅ子の声質を最大限に活かした野心的な実験作である。
始まりはスウィングのリズム。それが次々と変転していく。ルンバになり、戦前流行した「クカラチャ」のフレーズがチラッと出て、南国ムードに溢れていく。
「これは一体何だろう?」と観客が思うタイミングで、「それはコペカチータ」と歌詞が説明する。服部が作詞した歌詞は、常にリズムと連動して、メロディーと繋がっている。この不思議なリズムを、「コペカチータ」というフレーズでまとめ上げている。
エノケン・笠置のブギウギ・コンビ
舞台でこの「コペカチータ」を、笠置シヅ子とエノケンが一緒に唄った。掛け合いのパートで、エノケンが間違えて「一つ余計に」唄ってしまい、それがおかしくて、吹き出したシヅ子はとうとう歌えなくなってしまった。ところがエノケンはにこやかに、シヅ子のパートも最後まで一人で歌ってコミカルなステージとなった。
このステージがきっかけとなり、「エノケン・笠置」のコンビが誕生。舞台では有楽座『一日だけの花形』(1948年)などエノケン劇団の呼び物となる。ステージの好評を受けて、二人の主演映画『エノケンのびっくりしゃっくり時代』(1948年)が作られ、服部良一が音楽を手掛けた。
この映画で笠置は、服部良一作曲「浮かれルンバ」を唄い、エノケンと「びっくりしゃっくりブギ」をデュエットした。残念ながらレコードでの共演はないが、映画にはたくさんの歌唱シーンが記録されている。
歌だけでなく、エノケンとのコミカルな芝居も絶妙のコンビネーションで、コメディエンヌとしての笠置シヅ子は、いつしか「女エノケン」と呼ばれるようになっていた。
ちょうどこの年、エノケンは自らの映画製作プロダクション「エノケンプロ」を設立。笠置シヅ子と服部良一に声を掛けて、1949(昭和24)年の正月映画『歌うエノケン捕物帖』を製作した。
舞台は江戸時代。駕籠かきの江戸っ子・エノケンと女房・笠置シヅ子が長屋で夫婦喧嘩をするのだが、それが服部メロディーによる掛け合いで、二人の丁々発止のやり取りがリズミカルにミュージカルとして展開される。
遅れてきた世代は、舞台を見ることはできないが、映画での二人の掛け合いを観るだけで、圧倒される。特に「東京ブギウギ」の替え歌で、掃除しながら二人が唄う「ホウキブギウギ」は圧巻。
二人のステージの片鱗が窺える。服部良一と笠置シヅ子のコンビに、喜劇王・エノケンが加わることで、戦後の新たなエンターテインメントの扉が開いたのだ。