馬飼野元宏(音楽ライター)
人の心を歌う代弁者としての矜持
「私は、人の心を歌う代弁者なんです」
八代亜紀はインタビューなどで、必ずこのことを語っている。筆者が二度ほどインタビューをした際にも、表現者ではなく代弁者という言葉を使っていた。
人々の感情を代弁する流行歌手。演歌というカテゴリーにとらわれず、ジャズやブルース、果てはポップスからアニソンまで、多彩な音楽ジャンルを横断するかのようにキャリアを重ねてきた歌手人生。
八代亜紀の訃報が届いた際、新聞からWebサイトなどあらゆるメディアで、関係者から一般のリスナーに至るまで世代を超えた多くの人々が、哀悼の意を表明していた。それらはすべて、彼女が思いを「代弁」してきた人々だったのである。
誰もが知る八代亜紀の代表作となると、まず1979年の「舟唄」と、それに続く1980年の「雨の慕情」だろう。
2曲はともに作詞が阿久悠、作曲が浜圭介。前者が寂しさを酒に託し、かつての女を想いながらダンチョネ節を口ずさむ男。後者は自分の元を離れていった男が帰ってこないかと、雨の降る日を待ち焦がれる女。
この2曲は対になっているように思われるが、実はもう1曲、阿久悠と浜圭介による楽曲が1980年9月にリリースされている。「港町絶唱」というその曲を含め、「舟唄」を八代亜紀が歌うことが決まった際、三部作として作られることになった。
阿久悠としては、三部作の最後「港町絶唱」でレコード大賞を狙う意図があったが、2作目「雨の慕情」がロングセラーを記録し、こちらで賞レースに挑むことになる。1980年の日本レコード大賞をこの曲で受賞し、有名な五木ひろしとの「五八戦争」を制した。
「雨の慕情」の小唄や都々逸に通じる“粋さ”
「舟唄」については、同コラムで佐藤利明氏が書かれているので、筆者は「雨の慕情」と、続く「港町絶唱」について記しておきたい。
まず、この三部作に共通するのは、作曲者・浜圭介による16分音符を多用したメロディー構成にある。出世作となった奥村チヨの「終着駅」をはじめ、八代亜紀にも1976年に16分音符を用いたフォーク演歌「花水仙」を提供。抑えめの歌唱法で繊細な女心を歌ったこの曲が、八代と浜の最初の出会いとなった。
演歌や歌謡曲における16分音符のメロディーは、譜割りが細かくなるため、その詞は必然的に語り歌的になり、物語性が高くなる。3作とも八代亜紀の歌唱法は語りかけるように静かに始まり、サビに至る過程で次第に盛り上がり、最後に感情を激発させていくスタイルは共通している。
八代がこの歌唱法を最初に取り入れたのも、前述の「花水仙」だった。「花水仙」は池田充男の作詞だが、鉢植えの水仙に、男との短くも幸福だった暮らしを投影させ、追想する女性の寂しい心情が描かれている。
「雨の慕情」も同様で、去っていった男を想い、手料理で隙間だらけのテーブルを皿で埋める。「女はなぜ雨を乞うのか? 男が雨の日に、雨宿りしに女の家を訪れたところから恋が始まった? それは遣らずの雨?」と聞き手に想像させる。江戸小唄や端唄、都々逸などと共通した、男女の情愛をさらりと歌う粋さがある。
そして「憎い/恋しい」「嫌い/会いたい」と歌われる箇所。相反する思いの相克は、ポップスでは有馬三恵子や松本隆らが書いてきたが、一つの感情を掘り下げていく演歌のスタイルでは珍しい。「雨の慕情」は、意外なほど演歌の定番表現からは遠いところにあるのだ。
この「雨の慕情」は大ヒットとなり、八代亜紀のファン層である成人男女のみならず、当時のティーンエイジャーにも届いた。
筆者は1980年の日本テレビ音楽祭の本選を、日本武道館に観に行った経験がある。この時の大賞は八代の「雨の慕情」で、アイドルの親衛隊や若い観客が「雨雨降れ降れ」の箇所で、八代とともに手をかざして一斉に振り付けをするシーンを目撃した。
その後の日本歌謡大賞でも同様のシーンがあり、同年の紅白歌合戦では、大トリをこの曲で務めた八代のバックで、出演者全員が手かざしポーズで「雨雨降れ降れ」ポーズの大合唱となった。
演歌というリスナーが限定されがちなカテゴリーを突破して、八代亜紀が大衆に膾炙する「流行歌手」としての矜持を体現した瞬間であった。
八代演歌の集大成的作品「港町絶唱」
一方の「港町絶唱」では、冒頭、主人公の女性が、都会(まち)で明るく暮らし、小鳥を飼って好きな男にもたれる、そんな描写から始まる。だが、主人公は北国行きの列車に乗る。その理由は明確に描かれないが、旅は夏から秋に向かう季節。無口になった女は日がな一日、鴎が舞う海を見ている。そして冬が過ぎ春になる頃、再び恋の炎が燃えあがろうとするところで歌は終わる。
八代亜紀はブレイク作「なみだ恋」以降、初期の作品群で、女の情念を迫力ある歌唱表現で歌ってきた。具体的には1974年5月の「愛ひとすじ」から「愛の執念」「おんなの夢」「ともしび」「貴方につくします」の連続大ヒット期である。
銀座のクラブ歌手時代に、ホステスたちに支持されたという八代亜紀は、まさにその夜職の女たちの心を代弁するかのような作品群を歌い続けていた。ことに1975年の「ともしび」は、余命いくばくもない恋人を見守る女の慟哭を歌う、「絶唱」の呼び名が相応しい名唱である。
1976年の「もう一度逢いたい」と翌年の「おんな港町」では、巻き舌でいなせなリズム演歌をものにし、同年の「愛の終着駅」で北国演歌、78年の「故郷へ…」では望郷演歌に挑み、表現の幅を広げていった。80年の「港町絶唱」は、これまで歌い継いできた女の情念や、北国や港、望郷といった演歌の定番表現を散りばめた、第1期八代亜紀の集大成的な作品なのである。
曲が綺麗にまとまった分だけ、演歌としては破調とも取れる斬新さを持った「舟唄」と「雨の慕情」に比べると、新鮮さでは前者2作に軍配が上がるだろう。だが、「港町絶唱」の寂寥感も捨て難い魅力がある。飛び交う鴎や浮き灯台の揺れに女性の心情を投影させ、情景描写と自己凝視の強い阿久悠の作詞術に対し、1曲の中で客観視点と激情を使い分けながら、最後、寂寥感に落とし込んでいく八代亜紀の歌唱法も圧倒的だ。
この三部作ではすべて喪失の思い、そして性愛の深さが歌われている。「舟唄」ではダンチョネ節のパートで、愛しいあの娘と朝寝すると歌われ、「雨の慕情」では別れた男を心では忘れていても、膝が重さを覚えてると歌われる。
そして「港町絶唱」は季節が移り、冬から春へ向かう頃には、女の胸もとけると歌われるのだ。いずれもさらりとした表現ながら、性愛こそが、異性への恋慕や未練を繋ぎ止めたり、新たな出会いに身悶えする人生の妙薬であることを教えてくれる。
歌の登場人物に乗り移り、「代弁者」として寂しさや諦め、情念や孤独といった様々な感情を届けてくれた稀代の名歌手、それが八代亜紀だった。
演歌に限らず、小西康陽と組んだジャズ・アルバム『夜のアルバム』からアニソンに至るまで、八代亜紀があらゆる世代の代弁者的シンガーとなれたのは、ジャンルレスな「流行歌手」としての魅力、代弁者としての矜持を終生失わなかったことにあるのだろう。