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貧しくても夢があった。私の修行時代のあの部屋。

大部屋俳優が代々住み続けた米屋の2階。俳優 福本清三さん

ふくもと・せいぞう 1943年、兵庫県生まれ。日本一の斬られ役。6月14日公開の初主演映画『太秦ライムライト』がティ・ジョイ京都ほか、全国順次公開。

写真

部屋イラスト(1965年ごろ 京都・花園)

 東映京都撮影所の大部屋俳優として、時代劇で5万回以上斬られたなんて言われていますが、もともとは俳優志望じゃなかったんです。中学卒業後、故郷の兵庫県香住町(現・香美町)を出て、京都で暮していた姉の家に住みながら米屋で働きました。
でも、私も15歳と若くて、作業着で米俵をかつぐ毎日が嫌になってね。都会に出たらパリッとしたスーツを着て働けるかと思っていて。そんな頃、叔父の紹介で大部屋に入ったんです。

 その頃の大部屋には500人ほど役者がいたので、ペーペーの私は時代劇の合戦シーンなどカメラにほとんど映らない雑兵役で1日中ひたすら走っていました。そうして3〜4年ほど経った頃でしょうか、先輩が太秦の撮影所から一駅先の花園の下宿を出ると聞き、拓ボン(故・川谷拓三氏)ともう一人の仲間の3人で入居しました。そこは大家さんが営む米屋兼住居の一軒家で、2階の6畳が私たちの部屋、隣の4畳半が先住の先輩の部屋でした。当時、撮影所近隣の下宿は、稼げるようになった先輩が出た後に、貧乏な若手が入るという流れがありました。

 家賃は給料の半分くらいだったかな。その頃は、週替わりで2本立てが上映されるほどの映画全盛期で、大部屋俳優でも仕事はたくさんあってね。

 ただ、私の日当は250円。一生懸命働いて、多くても月に7000円ほどでした。給料の約半分が家賃に消えるので、片道15円のバスにも乗れず、20分ほど走って撮影所に通うこともありました。でも大通りを走ると、バスに乗っている先輩方に見られて恥ずかしいじゃないですか。そこでバス通りから少し外れた道を走り、撮影所の壁を乗り越えて近道していました。

 お金がないからご飯もろくに食べることができなくてね。当時、撮影所の前に、拓ボンと私が唯一ツケのきくパン屋があったんです。お腹が空くと、そこで一斤の食パンを買ってマヨネーズをかけて食べていました。
撮影所内で仕事がある時は食堂の食券が配られて、所内の風呂にも入れるので助かりました。1日中撮影に出ていたから、下宿には寝るために帰るだけ。そんな生活でしたね。

 下積み時代は貧乏でしたが、仕事は忙しいし、仲間といるのも楽しかった。拓ボンと夜中に布団の上で斬られ方の練習をしたこともありました。60年代に忍者ブームが到来し、大部屋俳優にスタントの仕事が増えはじめました。
66年の『丹下左膳飛燕居合斬り』の頃には、憧れの中村錦之助さんから「死に方が上手い」と褒めていただくなど、嬉しい出来事もありました。

 下宿を出たのは、役者としてやっていけるようになった25歳の頃です。今思えば、家賃もろくに払えない役者の卵をよく次々と受け入れてくれたものです。そんな大家さん夫婦を慕って、若い連中が集まってくる。いやー、すごくありがたい下宿でしたなあ。

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