瀧靖之さん
たき・やすゆき●医師・医学博士。東北大学加齢医学研究所教授。脳の発達と加齢に関する脳画像研究の第一人者。主著に『70代でも老けない人がしている脳にいい習慣』(三笠書房)。
中野翠さん
なかの・みどり●コラムニスト。85年より『サンデー毎日』誌上で連載を開始したコラムは、のべ37冊も単行本化されている人気コラム。近著に『いつか見た青空は』(毎日新聞出版)。
近頃よく“キレる老人”のニュースを耳にしませんか?
これまでに16万人の脳MRI画像を解析してきた
脳医学のプロ、瀧靖之先生(東北大学教授)曰く、
「高齢者の“キレる”は脳の萎縮が原因かもしれません」。
ところが、当事者世代の中野翠さんに言わせると、
「キレるのってだいたい男の人でしょ? なんて性別で
決めつけるのは乱暴だけど、私自身、認知機能が落ちた
自覚はあっても、キレるは実感ないなあ…」
対談をはじめる前に、
瀧先生から中野さんへクイズ
Q.どちらが若い人の脳でしょう。
(画像:瀧先生ご提供)
- 中野
- Aさんかな。脳がみちっと端っこまで詰まっていて、若々しい印象があります。Bさんは黒い部分が多くてスカスカな感じ。
- 瀧
- 正解は「どちらも60歳」です。
- 中野
- え! Bさんは90歳くらいかと思った。60歳でこんなにスカスカなの?
- 瀧
- スカスカに見える黒い部分は脳が萎縮してできた隙間です。同い年の人でも生活習慣によってここまで個人差が出るんです。
- 中野
- 生活習慣というとお酒とか煙草とか?
- 瀧
- あとは、運動不足とかストレス過多とか。
- 中野
- ここ数年、大好きだった映画のタイトルや俳優の名前がスッと出てこないことが増えたのですが、私の脳もBさんみたいに萎縮しているということでしょうか。
- 瀧
- 率直に申し上げると、多少萎縮しているかもしれませんが、中野さんだけではありません。平均して脳は30歳頃から萎縮し始めて、75歳だとだいたい30歳より10%ほど軽くなると言われています。もちろん個人差はありますが。
- 中野
- 怖いなあ……スンナリとは受け入れられないけど、脳の萎縮は万人の宿命なんですね。今日のテーマは“キレる老人”ですが、この脳の萎縮によってキレやすくなってしまう?
- 瀧
- そう言えますね。脳の萎縮は脳内の「神経細胞」が減ることによって起こります。神経細胞は脳に1000億個ほど存在していて、神経細胞同士が手をつなぐようにつながり合っている。脳で処理される様々な情報は、このつながりを経由して行き交っているのですが、加齢で神経細胞が減ると、つながりも減って情報が伝わるスピードが遅くなってしまうんです。
- 中野
- いつも使っていた道が封鎖されて、遠回りしなきゃいけないって感じ?
- 瀧
- その通りです。イラッとしても瞬時に「でも、キレちゃだめ」という指令が出て押し留まれていた人が、指令が遅くなるせいで怒鳴ってしまう。これが加齢による“キレる”です。
- 中野
- 子どもの声がうるさいとか、レジの店員さんの態度がわるいとかでトラブルになったニュースを見るたびに、何でそんなことでキレるんだろうって思っていたけど、脳の中で情報の渋滞が起こっていたんですね。情報が伝わるスピード減というと、私が人の名前を思い出しづらくなったのも同じ理屈ですか。
- 瀧
- メカニズムは同じです。ある記憶を思い出そうとしても、神経細胞が少ないと思い出すまでに時間がかかってしまう。
- 中野
- 思い出せないことが重なると、もしかして認知症のはじまりなんじゃないかってヒヤッとしますが……。
- 瀧
- 脳の老化の「もの忘れ」と、認知症の「記憶障害」はまったく別です。例えば、アルツハイマー病の記憶障害は、記憶の貯蔵庫である海馬などの神経細胞が壊されることで起こる「病気」です。ですから、もの忘れが増えたから認知症かも、と思うのは早合点です。
- 中野
- なるほど、ちょっと安心しました。
神経細胞の減少は
情報伝達のスピードを遅らせてしまう。
「イラッ」としたとき「キレちゃだめ」という指令が神経細胞が少ないと遅れてしまい、結果キレてしまう。
神経細胞のつながりは100歳になっても太く、頑丈にできる。
- 中野
- ただの「老化」だとしても、うれしくはないですよね。脳が衰えていくのを指をくわえて待っているしかできないんでしょうか。
- 瀧
- いえ、トレーニング次第で脳の神経細胞は100歳になっても鍛えることはできます。
- 中野
- すごい! 100歳までは生きるつもりはないけど、気になります。鍛えると神経細胞が増えるんですか?
- 瀧
- 残念ながら増えることはないと考えられています。でも神経細胞同士の「つながり」は太くしたり強化したりできるんです。先ほどのように脳のつながりを「道」に例えると、加齢で細い道が消えても、高速道路のように太い道が残っていればその道を経由して情報を伝えらえる。「キレちゃだめ」の指令もキレる前に届く。
- 中野
- 私、脳トレと思って某雑誌のクロスワードを毎回、一生懸命解いているのですが、神経細胞をつなげるトレーニングになりますか?
- 瀧
- ある側面では効果があります。問題が解けた! という喜びは、脳の「報酬系」を活性化させてドーパミンという神経伝達物質を分泌します。このドーパミンが、神経細胞同士のつながりを強めてくれます。ただしドーパミンは、与えられた課題を解くような受け身のトレーニングより、自分から動く主体的なトレーニングの方が多く分泌されると考えられています。
- 中野
- 主体的ねぇ。私、俳句が好きで、オランダに住んでいる高校時代の友人と毎週末メールで7句送りあって、選評し合ったりしているんだけど、これはどうでしょう?
- 瀧
- 俳句、いいですね! 季語を意識して、情景を思い描いて、17文字に落とし込んで、推敲して……最高の脳トレと言えます。0から1をつくるクリエイティブな作業はドーパミンの大好物。音楽が好きなら、ただ聴くより自分で歌ったり演奏したりした方がいいですし、絵も観るだけより自分で描いた方がいい。
- 中野
- 私、テレビで気になる顔つきの人を観ると描かずにいられないんですよね。こんな走り書きみたいな絵ですけど(と手帳を見せる)。
- 瀧
- プーチンさんですね。似てる(笑)。すごくいいと思います。ドーパミンを増やすのに僕のもう一つのおすすめは「回想法」です。
- 中野
- 過去を思い出すってこと? 昔読んだ本とか映画とかを観たりするのも効果的ですか?
- 瀧
- はい。昔の歌を歌ったり、かつて住んでいた街を訪れてみたりするのもいい。脳はノスタルジー、つまり「懐かしさ」を感じると、これもまたドーパミンを放出するんです。
- 中野
- 脳のためには人と会って話した方がいいと聞きますけど、それはどうなんですか?
- 瀧
- 大事です。実際に会って会話することは相手の表情をくみ取ったり、自分の意見をまとめてふさわしい言葉を返したり、主体的でクリエイティブな要素が詰まっていますから。
- 中野
- 私は職業柄もあってそういう「生のつきあい」をあまりやってこなかったんですけど、コロナ禍の影響でこの3年間、映画の試写会が激減したんですね。代わりにDVDが送られてきて、一人で部屋で観るわけだけど、味気なくて。試写会後に顔見知りの同業者と、あーでもない、こーでもないって話し合うことが楽しかったんだなって。いまさらですけど。
- 瀧
- そのとき中野さんの脳では、ドーパミンがすごく分泌されていたんだと思いますよ。
アルツハイマー型認知症を抑える鍵は、「海馬」の新たな神経細胞。
- 中野
- 老化の「物忘れ」はトレーニングで鍛えられるとすると、残る不安は認知症か。こればかりはどうにもならないってことですね。
- 瀧
- いえ、希望の兆しもあるんです。先ほど認知症は「海馬の神経細胞が壊される」と言いましたが、脳の神経細胞の中で、海馬の神経細胞に限っては齢を重ねても新たにつくり出されるという説が20年ほど前に発表されて、多くの実験や論文で裏づけされています。つまり、新しい神経細胞が増えれば、認知症を予防できるかもしれない。どうすれば新たな神経細胞が多くつくり出されるのかは、まだ研究段階ですが。
- 中野
- 衰えるだけじゃない、という話だけでも朗報です。
- 瀧
- もう一つ希望が持てるのが「アルツハイマー型の認知症に罹患しても、神経細胞が元気だと症状が現われない」という研究報告です。アメリカの修道女678人を対象にした長期調査で、死後に献脳された脳を解剖すると約3分の1は海馬にアルツハイマー病に見られるシミができていたのに、生前の認知力のテスト結果では脳の衰えは見られなかったというのです。
- 中野
- 何かがアルツハイマーの発症を抑えていたということですか?
- 瀧
- というより、損傷した海馬の働きを、脳の別の部位のネットワークが代行していた、と考えた方が近いかもしれません。彼女たちの脳MRI画像を見ると、「灰白質」の体積が大きかった。灰白質は神経細胞が密集した部分、つまり神経細胞同士のつながりが強固な部分です。
- 中野
- つながり! 話が脳トレに戻りましたね。
- 瀧
- シスターたちは修道院で規則正しい生活を送り、生涯を通して自らの意志で聖書の研究をして脳を刺激し続けますから。
- 中野
- 脳は死ぬまで使い続けろ、ということか。身につまされますね。修道女とは真逆の生活をしてるけど、見習ってみようかな。