人間の多面性を描き出し、社会性を備えながらもエンターテインメントへと昇華させる映画をつくってきた西川美和監督。最新作『わたしの知らない子どもたち』では、戦争によって生まれた孤児をめぐる物語を描いています。10月の公開に先駆けて、今、戦争を描く思いと表現者としての矜持を伺いました。
聞き手・文/渡邊玲子 撮影/興村憲彦
1974年生まれ、広島県出身。2002年、『蛇イチゴ』で初監督。原案・脚本・監督した長編に『ディア・ドクター』(09年)、『永い言い訳』(15年)など。原案小説『わたしの知らない子どもたち』(palmbooks)が発売中。
悲惨な現実をどうしたら
「観てもらえる作品」にできるのか。
ひたすら考え続ける日々でした。
──新作映画は西川さんのオリジナル脚本ですが、初めて戦中・戦後の時代を描いています。企画の発端は、前作の映画『すばらしき世界』(21年)の原案である佐木隆三さんの小説『身分帳』(講談社文庫)だそうですね。
小説は母に捨てられ、戦後の混乱の中で孤児として街を彷徨い、やがて裏社会に取り込まれていく一人の男性の半生を描いた作品です。『すばらしき世界』では主人公が50代になって刑務所を出所するところから描きましたが、その幼年期を扱うことはできませんでした。戦後の街に、誰にも知られずに生きていた子どもたちがいた。彼らを取り巻いた社会を描いてみたいという思いから、今回の企画は動き出しました。
──準備に着手されたのは、いつごろですか。
2020年のことです。当時はコロナ禍のパニックの只中で、「過去の戦争をふりかえるどころではないのでは?」という空気が社会を覆っていて、自分が取り組もうとしている題材が、現実の脅威になることはないだろうと考えていました。
──主人公を女の子にすることは、最初から決めていたのでしょうか。
かなり早い段階で決めていました。映画『悲しき口笛』(49年/監督・家城巳代治)で、美空ひばりさん演じるミツコも男の子の格好をしていましたね。リサーチの過程で資料を読み、こんな少女が実際にいたんだろうなというところから発想していきました。とはいえ、主人公の琴子は、実在する特定の人物をモデルにしたわけではなく、あくまでもフィクションです。
──リサーチはどのように進められましたか?
戦争孤児に関する書籍は、最近出たものも含めて手に入る資料はかなり読み込みました。路上で生き延びるには、女性であること自体が危険だったので、男の子のふりをして暮していた方もいたようです。孤児施設に連れて行かれて裸にされた時、初めて女の子だとわかったような話も読みました。また、映画に出てくる、東京湾上にいわば“不良化”した孤児たちを隔離した施設があったことも、その過程で知りました。当時そこにいた少年たちが、高齢になってからインタビューを受けた番組もありましたが、ご存命かどうかもわからない状態でした。実際の孤児体験のある方には、女性を中心に3人、じっくりとお話を伺いました。
──当時の子どもたちの言葉は残っていたのですか。
収容された孤児施設で書かされた日記の中に、時折とても生々しい言葉が出てきてドキッとさせられましたが、子ども時代の本音を綴った記録はあまりありません。「語りたくない過去」になっていて、その後、家族にも打ち明けられない人が多かったのではないでしょうか。
わたしの知らない子どもたち
10月16日(金)より全国にて公開
原案・脚本・監督/西川美和
出演/小八重葵美、二階堂ふみ
坂東龍汰、櫻井海音、北村有起哉、吉田羊、竹野内豊
岡田准一 / 田中裕子、役所広司
敗戦後、孤児となった12歳の少女・琴子は、身を守るため少年の姿で暮すことに。一方、琴子の疎開先の教師・曽根は、信じていた軍国主義教育が否定され職も立場も失った。価値観が一変した世界に翻弄されながら、混沌とした戦後の街で生きる術を探していく。
配給/K2 Pictures ©2026 K2 Pictures
──映画化する上でもっとも意識されたことは?
孤児たちの中には、親戚の家に引き取られてひたすら働かされたり、施設に入っても虐待を受けたりした方も多い。調べれば調べるほど悲惨で、現実に打ちのめされそうになりました。そうした体験をそのまま描いても今の人が観たいと思う作品にはなりません。だから今回は、あえて痛ましさを前面に出すアプローチは取りませんでした。「事実を描くことこそ正義」という意識にあまりはまり込まず、「どうすれば観てもらえる作品になるのか」を、ひたすら考え続ける日々でした。
そこはほんとうに難しくて、結果的に脚本の執筆に3年半くらいかかりました。その間何度か、今なら引き返せるんじゃないか。映画の企画自体、なかったことにできるんじゃないかとも考えていました。今と異なる時代を描いているのでセットやVFX(視覚効果)にもお金がかかります。私がこれまでつくってきた中で、予算も人も最も規模が大きな作品になりました。撮影の準備期間も長く、この映画は完成しないんじゃないかと本気で思っていたくらいです。今、ようやく頂上が見えてきて心底ホッとしています。
──錚々たるキャストが出演されていましたが、映画の大部分を担っているのは子どもたちです。どのように演出をされましたか?
現代の子どもたちの日常とはまったく違う世界を演じてもらう必要があったので、まずは自分たちの役がどんな時代を生きていたのかを理解してもらうところから始めました。おじいちゃん、おばあちゃんですら戦争体験がない世代です。東京近郊に住んでいる子も、東京大空襲のことはほとんど知らない様子でした。私の学生時代も、近現代史は歴史の授業の最終盤に駆け足で習うものでしたが、今は戦争にまつわることもさらに見聞きする機会は減っているようです。だからといって「なんでそんなことも知らないんだ」と憤っても仕方ありません。
──具体的にはどのような準備をされましたか?
みんなで「昭和館」(註・国民が経験した戦中・戦後の生活、苦労を後世に伝える国立博物館)に行って、1945年3月10日の東京で何が起きたのかから少しずつ説明していきました。スタジオジブリの『火垂るの墓』(88年/監督:高畑勲)は、「観せても大丈夫ですか?」と親御さんに確認を取った上で、何人かには観てもらいました。みんなで一緒に観たのは、海老名香葉子さんの原作小説をアニメーション化した『うしろの正面だあれ』(91年/監督:有原誠治)です。戦争孤児になった少女の話で、絵柄は柔らかいけれど、疎開前の暮しや当時の生活が丁寧に描かれていました。
子どもたちのキャスト全員がそろったのは2023年の12月頃で、そこから3ヵ月間、毎週末集まってもらいリハーサルを重ねました。セリフも彼らにとってはまったく自然な口調ではないので、「『マジ』は使わない。『ガチ』も『超』もなし」と言いながら、何度も何度も繰り返して。初めの頃は子どもたち同士、遠慮して会話もなく、どうなるか心配でしたが(笑)、毎週顔を合わせるうちに、クランクイン直前くらいから急に打ち解け始めましたね。撮影が始まった頃には逆に、はしゃぎすぎて叱られるくらいになっていました。
単なる弱者にとどまらず、
どんな手段ででも生き延びた子どもたち
の記録は、胸躍るものがありました。
──主演の琴子役の小八重葵美(こやえ・あみ)さんは、新人俳優とは思えないほど圧倒的な存在感を放っていました。
オーディションで選びましたが、すばらしい目の輝きを持った子でした。今回は広島の話ではないのに、小八重さんは自分から「広島平和記念資料館に行きたい」と言ってくれて、女性スタッフと1泊2日で広島へ行き、感想もきちんと書いてくれました。「自分がこの映画を背負うんだ」という覚悟があったのだと思います。
実際に戦争孤児だった方にも会って、話を聞いてもらいました。私たちが説明しても、結局は自分たちも経験していないわけですから、実感を持って伝えられない。その葛藤はずっとありました。実際に孤児だった方の言葉には重みがありましたし、小八重さんはそれをちゃんと受け止めていたと思います。
──もう一人の主演である二階堂ふみさんについては、どのような印象を持ちましたか。
職人気質で、かつ主体性のある俳優さんだと思います。キャリアも長いし、現場の条件を読み取って、求められるものに応じる能力は高いですけど、同時にすごく強い「自己」がある。世界をよりよくしたいという信念も強いし、それに行動も伴う俳優ですよね。映画では、「子どもたちの生きる強さ」と「大人たちの後悔」を中心に描こうと決めていました。二階堂さんに物語を牽引する役割を引き受けてもらえてよかったです。「この映画を必ずたくさんの人に観てもらいましょう」と言ってくれた二階堂さんを含めて、キャストのみなさんには作品に対して意気に感じてくださった方が多く、ありがたかったです。
──撮影中、西川監督が新たに発見したことは?
子どもって撮影中にどんどん成長するんです。大人の俳優が3ヵ月で急激に変わることはあまりないけれど、子どもは違います。途中から声変わりをする子もいて、それを活かすため、音声は声変わりしたあとに録り直した男の子もいました。子どもたちも、そしてそれを支えたスタッフも、みんなほんとうに頑張ってくれました。
──西川監督の作品には一貫して善悪では割り切れない、人間の複雑さが描かれています。今回の映画でも、「戦争孤児たちの面倒を見ていたのが、実はヤクザだった」という描写が衝撃的でした。
誰が路上に放り出された子どもたちのセーフティーネットになったのか。その問いが、まさにこの映画の出発点でした。街ゆく人々も自分の暮しに精一杯で目を逸らし、孤児施設でも虐待や飢餓状態にされていた子もいた中で、ヤクザ社会や街娼の女性らが彼らに居場所や役割を与え、仲間に引き込んだ。それはその後、犯罪を繰り返すことでしか生きられない人たちを生むことにもなりました。おそらく今も近い状況にあって、社会からこぼれ落ちた人に手を差し伸べるのは、彼らの境遇を利用したり、反社会的な存在である場合も多いと思います。
『火垂るの墓』は、庇護してくれる大人とうまくマッチングできず、自活を選び、死んでいく兄妹の話です。一方この映画に出てくる子どもたちは、裏社会とマッチングしてしまった。どちらも悲惨な話ですが、単なる弱者にとどまらず、どんな手段ででも生き延びた子どもたちの記録は胸躍るものがありました。誰もがおとなしく福祉や行政のお世話になって安定するだけを望まないのが、人間の複雑さであり底の知れなさだと思います。日本社会の弱点や、国民性としての薄情さみたいなものは突きつけられつつも、同時に、状況に反発して生きようとする人間のしたたかさや謎も、やっぱり描いていておもしろかったんですよね。
──主人公が孤児になる前の描写も丁寧に描かれています。特に赤い洋服は印象的でした。
戦中・戦後のイメージはモノクロ写真でつくられるので、「色のない世界」を想像しがちです。カラーで復元された写真や資料を見ると、戦前も実は色彩豊かで、人はおしゃれもして、美味しいものを食べていたことがわかります。そんな豊かな日常が、戦争によって無惨にも失われてしまったことの大きさを伝えたかったのです。
クラシック音楽という文化に触れて育った子どもを主人公にした背景には、ピアニストの舘野泉さんが綴られたエッセイの影響もあります。舘野さんは東京・自由が丘で音楽家の両親のもとで育ちました。空襲で家は焼けてしまったのですが、家族は防空壕に避難して無事でした。道を1本隔てただけで、焼けた家とそうでない家がある。親が生きていたかどうかといった状況次第で、その後の人生がまったく違ったものになってしまう可能性があったのだと思います。
戦争が日常と地続きになった現在、
この映画が「戦争は今すぐやめろ」という
メッセージにつながれば。
──映画を企画した2020年といまとでは、この映画を取り巻く状況が大きく変わりました。
ロシア軍によるウクライナ侵攻の現実を見て、「こんなことが許されるのか」と目を疑いました。学校や病院が攻撃され、多くの子どもたちが被害に遭っています。当初は「こんな非人道的なことはすぐ止まるだろう」と思っていましたが、一向に止まりません。その後、ガザ地区での戦闘があり、最近もイスラエルとアメリカによるイランへの攻撃がありました。国際法を無視した一方的なものだと思いますが、政府は明確に批判もしない。こうした状況に、みんな少しずつ麻痺している気がするんです。私自身、何かあっても「またか…」と思ってしまっている部分があります。
遠くの国で子どもが殺されたり、親を失い孤児になったりしても、多くの人がまず気になるのは「私たちの生活は維持されるのか」「物価がまた上がってしまうのか」ということだったりします。今、世界で起きていることを、「それはさておき」としてはいけないんじゃないか。
冒頭でお話ししましたが、コロナ禍に映画の準備を始めた頃は、戦争という題材が大国間で現実になることは当面ないと思っていました。それが世界で連鎖的に起きて、私たちの日常と地続きになってきた。でも、2022年の年末にタモリさんが「(来年は)新しい戦前になるんじゃないですかね」と予想したように、戦争の記憶を過去のものにしようとしている社会に危うさを感じていた人も少なくなかったのだと思います。
──そうした現実を前に、映画作家として何ができると感じていますか。
私は幸い、表現を生業にしているので、作品が「戦争は今すぐやめろ」というメッセージにつながればと考えています。ただ、今回の映画にしても、最初からそうした意気込みがあったかは怪しくて。そう考えていたとしても、自分がその担い手になれるかは、今でも躊躇があります。
映画のタイトルそのもので、“わたしの知らない”ことはあまりにも多い。知らない人間が、被害や加害も含めて戦争の実像をどこまで語れるんだろうか。実際に体験された方からすれば、「そんなもんじゃない」というのが本音だと思います。もっと悲惨だった、もっと飢えていた……その通りです。その歴史を、どういった語り口で今、新たに観てもらえる作品にするのか。その難しさに向き合うことが、あの戦争を経験した国にあとから生まれた作り手の役割、仕事なんだろうと思いました。
──監督は広島のご出身ですから、映画で戦争を描くなら、広島を舞台にした物語を期待されてきたのではないでしょうか。
今回、東京の物語にしたのは、広島の人間が広島を語ると、どうしても「被害の地」からの視点になってしまうからです。そうではなく、自分の土地ではない場所に起きた被害を想像することでしか、次の戦争は防げないんじゃないかと思います。
広島のことはもちろん描かれてゆくべきだけれど、もはや別の土地の人が想像力を発揮して描いていく段階の時代ではないかと思います。もし私に、いずれふたたび戦争を描く機会が訪れたとしても、これまで自分の想像が及ばなかった土地の話にするんじゃないかな……と、今は思います。
──今後映画は、戦争の記録としての役割も担うことになっていきますか?
今回もギリギリでしたが、今後は体験者の「生の声」が聞けない時代になっていくからこそ、映画は記録としても大切です。終戦直後の映像は、GHQの検閲の影響もあって、焼け野原を映したもの以外少ないんです。だからこそ、できる限り調べたことを再現して、後の世代の作り手たちの参考になるような作品になればいいなという思いもありました。
──この映画を特に誰に観てほしいと思いますか。
時間がかかってもいいから、若い人が観る機会が先々まで続いてほしいと願っています。そのためにも、まずは親世代の方たちが、「自分の子どもに観せてみようかな」と思ってくれたらうれしいです。今は『火垂るの墓』や『はだしのゲン』も悲惨すぎて子どもに観せられないと思われる時代ですし、そういう意見には私も敏感にならざるを得ません。だからこそ戦争に関心がある方だけでなく、多くの人に観ていただいて、次の世代につなげられるような映画になってくれたら。
私がこの年齢になって戦争という題材に向き合うようになったのも、父から戦争中の話を何度も聞かされ続けた記憶が無意識のうちに結びついているんだろうなって思います。戦争の傷というものは、「停戦が成立した」「終戦になった」からといって、そこで快癒するものではないのでしょうね。